使徒たちは聖書をどう読んだか(12)

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前回述べたソフト・ポストモダニズムのアプローチでは、聖書の解釈にはどうしてもある程度の幅が原理的に生じてきます。これに対して、第10回で提案した救済史的な視点を導入することによって、解釈の主観的暴走を防ぐことができると考えられます。

今回はそれに加えて、もう一つの重要な枠組みについて考えてみたいと思います。それは教会共同体として聖書を読むという視点です。

前にも書きましたように、歴史的・文法的方法によると、少なくとも理論的には、適切な方法を用いて聖書を解釈すれば、誰が読んでも同じ結論に達することになります。モダニズムの立場では、普遍的人間理性に従っていく限り、誰でも唯一の真理に到達することができるはずだからです。聖書も同じように、基本的には誰が読んでも(信仰者であるなしにかかわらず)、同じ「意味」を見いだすことができるはずだ、ということになります。

このような聖書の読み方は本質的に個人主義的なものです。そこでは共同体における議論や対話は絶対的に必要なものではありません。理想的状況においては、個人が書斎に籠もって歴史的・文法的方法を駆使し、理性の光に導かれて聖書を読めば、誰でも同じ釈義的結論に達するはずだからです。もちろん、実際には歴史的・文法的方法を用いる場合でも、共同体や対話の有効性が語られていますが、それは原理的な要請ではないのです。

これに対して、ポストモダン的状況においては、個人の解釈は必然的に限界を持っているので、その精度を高めていくためには、他の人々との対話が必須条件になってきます。したがって、真に有効な聖書解釈は共同体というコンテクストにおいてのみ可能になると言えます。

この場合、共同体なら何でも良いというわけではありません。個人の視点が特定の歴史的状況によって制約されているのと同様に、共同体も具体的な歴史的・文化的状況と離れては存在しえないからです。ナザレのイエスをメシア(キリスト)と信じていた初代教会の旧約聖書解釈と、そのような神学的前提を共有していなかった同時代のユダヤ教のそれとが異なっていたことを思い起こしましょう(シリーズ第5回参照)。聖書を正しく読むためにはイエス・キリストというレンズを通して読むことが必要だったように、聖書解釈はイエスをキリストと告白する共同体、すなわち教会という共同体のコンテクストでのみ、適切に行っていくことができるのです。

このことは言い換えれば、「聖書は誰が読んでも同じ結論に達する」「聖書は他の書物と同じように解釈することができる」というモダニズム的解釈の前提が成り立たないことを意味します。つまり、聖書は教会(神の民)に対して啓示された神のことばとして読まなくてはならない、ということです。

話は少し逸れますが、このような考えに基づいて、近年アカデミックな聖書学でも、「神学的聖書解釈Theological Interpretation of Scripture」という潮流が脚光を浴びてきています。その代表的な論客の一人に、米国トリニティ神学校のケヴィン・ヴァンフーザーKevin J. Vanhoozerがいます。神学的聖書解釈は解釈者の持つ神学的前提を前面に押し出したものですが、このような流れが米国聖書学会Society of Biblical Literature のようなアカデミックな団体においても認知されてきている状況は、ポストモダン的な時代背景を非常に良く反映しています。また、神学的聖書解釈の立場に基づいた聖書注解のシリーズや学術雑誌なども出版されるようになってきています。

さて、共同体に話を戻しますと、私たちが「教会共同体のコンテクストで聖書を読む」と言う時、その「教会共同体」はいろいろなレベルで考えることができます。「教会」というと、個別の地域教会を思い浮かべることが多いかもしれませんが、唯一のキリストのからだとしての普遍的教会(使徒信条で言うところの「聖なる公同の教会」)に属する意識を持って聖書を読むことも非常に大切なことです。そのためには自分の属する教派や伝統以外の人々の聖書解釈に耳を傾け、対話をしていくことが必要です。同時に、キリストのからだは空間的にだけでなく時間的にも広がっていますので、過去の信仰者たちの聖書解釈から学ぶことも有益です。上で述べた神学的聖書解釈においては、過去(特に近代以前)の聖書解釈も新たに注目を集めています。

同時に、実際の聖書解釈は個別の地域教会という場においてなされていくことを忘れてはなりません。具体的な歴史的状況から遊離した純粋に普遍的な教会というものはこの地上に実在しません。私たちの属する教会は必ず特定の時代と場所に存在し、特定の教会的伝統にルーツを持ち、特定の人々から構成されるユニークな存在です。個々の教会が置かれている具体的な状況によって、同じ聖書テキストの解釈であっても、微妙な幅が出てくるかもしれません。

要するに、教会共同体として聖書を読む時には、ローカルとグローバルの両方の視点を持って読んでいく必要があります。一方では、普遍的な教会における多様な聖書解釈から学ぶことによって無制約な解釈の暴走をとどめ、他方では現実の具体的な状況の中で聖書が語りかける声の微妙なニュアンスに耳を傾けていくことにより、聖書のことばがより活き活きと私たちの生活の中で働き始めると思われます。そして私たちは自分の解釈は誤りうるという可能性を常に心に留め、所属する教会の内(ローカル)と外(グローバル)にいる人々と絶えず対話を行うことにより、より良い聖書解釈を追求していく必要があります。

現代の私たちは特定の信仰共同体に属さなくても、個人で簡単に聖書を所有して読み、また解釈することができます。それは良い面もあると同時に、非常に個人主義的な狭い聖書解釈に陥っていく危険性があります。しかし新約時代のクリスチャンたちは現代の私たちよりもはるかに共同体的な意識を持って聖書を読んでいたと考えられます。使徒たちが一見かなり自由奔放な釈義を行いつつ、非常にバランスの取れた聖書理解を持っていた理由には、救済史的な視点を持っていたことと同時に、イエス・キリストを主と告白する信仰共同体として聖書を読んでいたことがあると思います。

(続く)