使徒たちは聖書をどう読んだか(10)

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前回は、聖書の学問的な読み方とディヴォーション的な読み方を統合していく読み方を模索すべきではないか、というところまでお話ししました。新約時代の使徒たちは、現代の福音派のように釈義(聖書が意味したこと)と適用(聖書が意味すること)を必ずしも明確に区別してはおらず、もっと直接的に自分たちに語られる神のことばとして読んでいました。そして、現代の私たちもそのような読み方に倣うことができるのではないか(あるいはすでにそうしている人々が多い)、ということでした。

この主張に対して、そのような聖書の読み方は、ありとあらゆる主観的で恣意的な解釈を許容し、解釈学的無政府状態をもたらすのではないか、と危惧する声が聞こえてきそうです。

しかし、必ずしもそうではありません。使徒たちの聖書解釈も決してランダムな主観的解釈ではありませんでした。彼らの聖書解釈は、ある共通した神学的理解の枠がはめられていたと考えることができます。その枠組みには、次のような一群の確信が含まれています:

  • 聖書の全体は神による人類救済を描いた首尾一貫した物語(ナラティヴ)であるという救済史的確信
  • 旧約聖書のナラティヴの全体は来るべきキリストを指し示しているというキリスト論的(キリスト目的的)確信
  • その旧約聖書の約束が、ナザレのイエスを通してすでに成就し、神の救済のドラマは最終的な神の国の完成に向かって最終段階に入ったという終末論的確信
  • このキリストを信じる者たちは終末を生きる神の民としての教会共同体に属し、聖霊の力を受け、教会を通して神と人とに仕える存在となったという教会論的・聖霊論的確信

このような全体的な枠組みを通して、聖霊に導かれ、教会という共同体の中で、使徒たちは旧約聖書を読んでいったのです。現代の教会もこれに倣うべきであると私は考えます。もちろん、現代の私たちの解釈は使徒たちのそれと同等の権威を持っているわけではなく、誤ることもありえます。しかし、上記のような枠組みを意識することで、解釈の暴走をかなりの程度防ぐことができると思われるのです。実際、健全な福音的教会形成のためには、人々に上記のような神学的枠組みを教え、教会の共同体的コンテクストの中で聖書を読む習慣を身につけさせることの方が、歴史的・文法的釈義の訓練(これも有益ですが)を行うよりもはるかに重要だと私は考えています。

上の神学的枠組みのうち、キリスト論的な枠組みについては既に述べましたが、ここではもうひとつの重要なポイントである救済史的枠組みについて述べていきます。実際、上のリストのうち、最初の救済史的確信は、その他の要素をすべて貫く縦糸のような最重要の要素とも言えるかもしれません。使徒たちは唯一の神による万物の創造、人類の堕落、イスラエル、イエス・キリスト、教会、そして終末における万物の再創造(更新)といった、歴史に対して神が持っておられるご計画の全体像と、今自分たちがその中でどのような時代に生き、どのような結末に向かって進んでいるのかということをしっかりと把握した上で、彼らは聖書を読んでいたと思われます。これはまさに現代の私たちも取るべき解釈学的態度にほかなりません。

このような救済史的な聖書解釈のアプローチは多くの人々によって採用されていますが、おそらく最も有名なのは近年日本でも名を知られるようになってきたN・T・ライトのものではないかと思います。彼は聖書全体のナラティヴ(物語)を五幕ものの未完の劇にたとえています。最初の四幕は1. 創造、2. 堕落、3. イスラエル、4. イエス・キリストであり、劇の脚本(聖書)は、ここまでの部分と、最終幕の最初の部分(初代教会)だけが完成しており、あとは結末(終末)のラフスケッチのみが残されている、と考えます。

さて、ライトによると現代の私たちはこの初代教会と終末の間の部分を演じる役者として舞台に立っています。ところが私たちの演じるべき部分の脚本は未完であるため、私たちはこれまでの劇のストーリー展開とその終わり方を熟知した上で、今の場面にふさわしい演技を即興improvisationで演じていかなければならない、と言います。従って、即興とは(ジャズの即興演奏がそうであるように)あらかじめどのように行うかは一通りに決められているわけではありませんが、だからといって単なるでたらめではありません。ライトは、現代の私たちはこのようにして聖書を読み適用すべきだ、というのです。

これまでこのシリーズで論じてきた内容に即して言うと、私たちが新約聖書における使徒たちの聖書解釈に倣うということは、最終幕の第一場(初代教会)を演じた先輩役者たちがどのように最初の四幕の内容に基いて即興演技を行ったかを学ぶということにほかなりません。しかし、ここでもまた、私たちは使徒たちの台詞や小道具(たとえばユダヤ的解釈法など)をそのままコピーするのではなく、現代にふさわしいやり方で、この劇を進行させていく必要があるのです。

使徒行伝20章で、エルサレムに向かおうとするパウロは、途中のミレトにおいてエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、彼らに最後のメッセージを伝えますが、その中で彼は、エペソで行った3年間の奉仕を通して、彼は人々に「神のご計画の全体」をあますところなく伝えたと言いました(25節、新改訳)。「神のご計画の全体」とは何でしょうか?前後の文脈からすると、その内容は福音(24節)と同義であり、罪の悔い改めとイエスに対する信仰(21節)を含んでいますが、それにとどまらず、より広い神の国のメッセージ(25節)を意味していると思われます。

パウロが神のご計画の全体を伝えたという時、3年もの間来る日も来る日も「主イエスを信ずれば罪が赦されて永遠のいのちが与えられる」というメッセージを繰り返していたわけではないと思います。そうではなく、彼は聖書の全体から、人類の歴史における神のご計画の展開について教え、エペソのクリスチャンたちがその中で今どのような段階に生きており、やがて来る終末への希望を持ちつつどのように生きていくべきかを詳しく語り聞かせていたに違いないのです。パウロの手紙における旧約聖書の重要性からして、彼が創設した諸教会では、異邦人出身のクリスチャンであっても、旧約聖書の内容をしっかりと身につけるように指導がなされていたはずです。そして、そのような神の物語をエペソ人たちが自分たちの物語として血肉化するまでには、3年の年月が必要だったのかもしれません。

現代の私たちも、時間をかけて「神のご計画の全体」と、その中での自分たちの立ち位置を体得することによってのみ、聖書は正しく読むことができるようになるのだと思います。

(続く)