男と女―相互に向き合うパートナー(藤本満師ゲスト投稿4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト連載、その4回目をお届けします。

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女のかしらは男?

前回の投稿を読んでくださった方は、私が神学的な男女平等論に立っていることをご理解されたことでしょう。男女が等しく神のかたちに創造されているばかりか、社会や家庭における役割においても平等、さらに聖職的な立場においても等しく奉仕ができるという立場です。今回、そのような立場の背景にある聖書理解を記してみます。

  • 神は人を男と女に創造された

創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に創造された」。すぐそのあとの28節に「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と、神は人を男と女に創造することによって、人に新しい生命の誕生の恵みを授けられました。

こうして誕生した男女には、生物学的、身体的、心理的な差異があることは事実です(一様ではないにしても)。しかし、神が人を男と女に造られた意図は、他の動物が雌と雄に区別され、生命の増殖がなされるのとは同じではありません。

その点を明らかにしているのが、創世記2章の創造の物語です。7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」。創造したアダムに神は言われました。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」(18節)。こうして神は人(アダム)を眠らせ、あばら骨の一つを取り、それをもって一人の女を造られます。つまり男と同質・同類の人として創造されています。

しかし、ここで女が男の「ふさわしい助け手」(口語訳・新改訳)として造られた、とあります。ともすると、「ふさわしい」となると、男にとってふさわしいと勝手に考えてしまいます。男が社会に出て働き、女は子どもを産み、主婦として家事をし、夫の主導に聞き従う、と。しかし、この言葉はそういう意味ではありません。聖書の訳では、そこを苦心しているのが新共同訳聖書で、「彼に合う助ける者」と訳されています。「ふさわしい」を「合う」に変えたのです。 続きを読む

創造の神――ジョン・ウォルトン博士来日講演を受けて

前回の更新から間が空いてしまいましたが、ようやく少し時間ができたので、今回のジョン・ウォルトン師の一連の講演その1 その2 その3)を拝聴して考えたことを簡単に書き記しておきたいと思います。

ウォルトン師の講演ではいろいろと興味深い主題が取り上げられていましたが、その中には自分の中でまだ十分に整理し切れていないものや、納得しきれない主張もありました。けれども、少なくとも次の3つの点については、全面的に同意できると思いました。

1.旧約聖書はそれが書かれた古代近東の文化に照らして理解すべきであり、聖書の「字義的」な解釈とは、その文化の中で聖書記者の意図したメッセージを読み取ることである。

2.聖書の記述は科学的知識を教えることを目的としているのではない。したがって現代の科学的知識を聖書テクストに読み込もうとする調和主義(concordism)は避けなければならない。

3.創世記1章の天地創造の記事は物質的な宇宙の起源を説明しているのではなく、すでに存在していた混沌状態に神が秩序と機能を付与し、ご自身が住まわれる聖なる空間とされたこと(宇宙神殿の落成式)について述べている。

この記事では特に最後の点について、さらに考察したいと思います。 続きを読む

ジョン・ウォルトン博士来日講演(1)

ホィートン大学の旧約学教授であるジョン・ウォルトン師が来日し、東京を中心として各地で講演会が行われています。そのうちのいくつかについて、概要を紹介していきます。

まず5月12日(土)に、来日に合わせて発売されたウォルトン師の著書『創世記1章の再発見』(いのちのことば社発売)の出版記念講演会が御茶の水で行われました。この講演会では、同書の基本的内容を分かりやすく一般向けに説明されました。 続きを読む

オープン神論とは何か(2)

その1

前回の記事で、オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれるということ、そして未来は部分的に開かれているということだと述べました。今回は、このような主張が聖書の記述によってどのように裏付けられるのかを概観したいと思います。 続きを読む

確かさという名の偶像(11)

(シリーズ過去記事          10

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第2部「真の信仰」を概観します。前回までの記事では、第1部「偽りの信仰」の内容をかなり細かく紹介してきました。これからは少しスピードアップして、基本的に1回で1章の内容をカバーするようにしたいと思います。

前回までの記事では、今日のキリスト教会で広く見られる「確実性追求型の信仰」について、その問題点を考察してきました。第2部でボイドは、確実性を追求し、疑いを排除しようとする信仰のあり方は聖書的なものではないことを論じ、聖書的な信仰のあり方はどのようなものかを探っていきます。今回は第4章「神との格闘」です。

ボイドによると、聖書的な信仰とは真正さauthenticityに基づくものです。「確実性追求型信仰」は疑いを持つことを禁じ、疑いを抑圧しようとします。けれども、聖書的な信仰は、疑いや不平不満も含めて、自らと神に対して正直になろうとする態度に土台を置くものなのです。

ボイドはこのような信仰のあらわれを、創世記32章22-32節に記されているヤコブの物語に見いだします。彼はある人物(物語の中でそれは神ご自身であることが明らかにされます)と夜通し格闘し、その結果その名をヤコブからイスラエルに変えるように命じられます。

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天使と格闘するヤコブ(ギュスターヴ・ドレ)

この奇妙なナラティヴでヤコブは神との格闘の後、「イスラエル」という名前を授かります。「イスラエル」の語源については諸説ありますが、少なくとも創世記の文脈では、彼がこの名前を与えられたのは「神と人とに、力を争って勝ったから」だと説明されます(28節)。そしてヤコブはこの出来事の後、彼は「顔と顔を合わせて神を見た」と言います(30節)。

ボイドはこの記事について、ヤコブが神とこのような親密な関係を持つことができたのは、彼が祝福を受けるために神と格闘することも厭わなかった大胆さのゆえであったと言います。それだけではありません。この「イスラエル的な信仰」の姿勢は、彼の子孫である神の民「イスラエル人」の信仰に受け継がれていく聖書的な信仰であると言うのです。つまり、聖書に見られる「イスラエル的信仰」とは、神と格闘する用意のある信仰なのです。

ボイドはこのような「イスラエル的信仰」はたとえばヨブの信仰に見出すことができると言います。ヨブはヤコブの子孫ですらありませんが、「イスラエル的信仰」のモデルを提供していると言えます。神の許しの中でサタンによってもたらされた苦難に対し、ヨブは初めのうちは模範的な敬虔を持って耐えていますが、苦難がいや増すにつれて、自分がいわれのない苦しみを受けていると主張し、神に対して論争を挑むようになります:

あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む
(ヨブ13章2-3節)

ヨブ記の結論部分では主なる神ご自身が登場し、ヨブやその友人たち(彼らは因果応報的神学によってヨブの苦しみを説明しようとします)を沈黙させます。しかし、興味深いのはその結末です。神はヨブの信仰を賞賛されたのです!

主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」(ヨブ42章7節)

あれほど神に対して激しい言葉を投げかけたヨブがなぜ「正しい」とされたのでしょうか?これはヨブの「神学」が正しかったからではありません。彼自身、自分の無知を認め、悔い改めているのです(42章1-6節)。

ボイドは、神がヨブを賞賛されたのはその率直さのゆえであると言います。つまり、ヨブの「正しさ」とはその「率直さ」だったのです。ヨブの友人たちは自分たちの神学(「悪は罪の結果である」)にヨブの状況をあてはめようと躍起になっていました(「ヨブが苦しんでいるのは、彼が罪を犯したからだ」)。彼らは自分たちの神学が正しいことを証明することに、自分の安心を見出そうとしていました。これは「確実性追求型の信仰」であるとボイドは言います。これに対してヨブは正しい神学を持つことによってでもなく、敬虔な言葉を語ることによってでもなく、疑いを排除することによってでもなく、ただ神に対して率直に語ることによって、結果的に神に喜ばれる信仰を示したのです。

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旧約聖書のイスラエルに見られた模範的信仰は、このような神に対する正直な態度、時には神に正面から怒りや不満をぶつけるほどの率直な態度によって特徴づけられています。実はこのような「イスラエル的信仰」は聖書時代よりもはるか後の時代までも受け継がれていきました。

ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の体験にもとづいて『夜』等の書物をあらわし、ノーベル平和賞を受賞したユダヤ人作家エリ・ウィーゼルは、あるインタビューで自分の信仰について次のように語っています。

私の信仰は傷ついた信仰です。けれども信仰がないわけではありません。私の人生は信仰なしの人生ではありません。私は神から離れたわけではありませんが、神と言い争い、議論し、問いかけ続けています。それは傷ついた信仰なのです。

ElieWiesel

エリ・ウィーゼル

ホロコーストを歌ったウィーゼルの詩「アニ・マアミン(われ信ず)」の中には次のような一節があります。

沈黙の神よ、語りたまえ。
残酷の神よ、微笑みたまえ。
ことばの神よ、答えたまえ。
義なる神よ、不義なる神よ、
ことばを裁き、行いを裁きたまえ。
犯罪を裁き、その手先を裁きたまえ。
臨在の神よ、不在の神よ、
あなたは万物のうちにおられる、
悪の中にさえも。
あなたは万物のうちにおられる、
何よりも、人の中に。
臨在の神よ、不在の神よ。
あなたはどこにおられるのか
この夜に?

ある意味ショッキングな内容ですが、これは想像を絶する悪を体験した信仰者のことばであることを理解する必要があります。何百万人ものユダヤ人たちが殺されていく現実の中で、沈黙を守られる神に対し、ウィーゼルは懇願し、問いかけ、また怒りや疑いをぶつけ、糾弾します。けれどもその表現がどれほど激烈なものであろうと、彼が神に向かって叫び続けるそのこと自体は、彼がまだ神を信じていることを示しているのです。この詩は最後はメシアを待ち望む祈りでしめくくられます。これはいわゆる「敬虔な信仰」ではないかもしれませんが、すくなくとも「真実な信仰」ということができるかもしれません。

神の喜ばれる聖書的信仰、「イスラエル的信仰」は、自らの疑いや問いかけ、神に対する不平などを「神学」や「敬虔」によって説明し去ったり覆い隠そうとするものではなく、それらすべてをそのまま神の前に注ぎ出し、ありのままの姿で神の前に出て行く信仰です。その時に初めて私たちは、「顔と顔を合わせて神を見る」ことができるのだと思います。

(続く)

「主の祈り」を祈る(4)

(シリーズ過去記事   

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「・・・我らの父よ。」

前回は主の祈りの冒頭の神への呼びかけの部分について、私たちが祈るべき神は「天」におられる神であることについて書きました。この神に対して「父」と呼びかけるように、イエスは弟子たちに命じられました。神が私たちの「父」であるというのは、大きく二つの意味があります。

まず第一に、神は私たちの創造者という意味で「父」なる方です。

はじめに神は天と地とを創造された。 (創世記1章1節)

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1章27節)

神は人間を含めて天地万物を創造されました。私たちは神によって造られ、生かされている存在であるという意味で、「父」なる神の子どもであると言えます。

すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(エペソ4章6節)

第二に、神は私たちをキリストにあって贖ってくださり、ご自分の子としてくださったという意味で、「父」なる方です。上述の創造者という意味では、神はクリスチャンであるとないとを問わず全ての人間の「父」ですが、この救済者としての意味では、神はクリスチャンにとって特別な意味で「父」である、ということができます。

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。(ローマ8章15節)

「アバ」は当時のパレスチナに住むユダヤ人の日常言語であったアラム語で、親しみを込めた父への呼びかけの表現です。天地の主であり、王である神を父と親しく呼ぶことができるのは、おどろくばかりの恵みです。このように神を「父」と呼ぶことができるのは、イエス・キリストが私たちを贖うために十字架にかかってくださり、私たちに聖霊を与えてくださったからにほかなりません。

ところで、パウロが上のローマ書の箇所で語っている、「子たる身分を授け」られるというのは、神の「養子になる」ということですが、このことについては過去記事で取り上げたことがありますので、そちらを参照してください。いずれにしても、天の父は私たちを愛し、養い、導いてくださる方であり、私たちはそのようなお方として神に対して祈るべきです。その祈りを導くのは「恐れ」ではなくて「愛」です。

もう一つ、ここで注意しなければならないのは、「我らの父」という表現です。「私の父」ではありません。私たちは祈りというと、往々にして「この私と神様との個人的な関係」という、個人主義的な理解を持ちがちです。もちろん、祈りには神と一対一で向き合う側面もありますが、主の祈りではそれとともに共同体的な視点を持って祈ることが必要であると思います。

神は教会の父でもあるお方です。私たちが神に対して「我らの父よ」と呼びかけるとき、私たちは世界中に広がる公同の教会の一員として祈っているのです。クリスチャンは教団教派に関係なく、兄弟姉妹であり、神の家族であることを忘れてはなりません。クリスチャンは「異父兄弟・異父姉妹」ではありません。同じ神を「父」と呼ぶ存在なのです。

からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 (エペソ4章4-6節)

第2回の記事で、主の祈りをキリスト論的視点から祈ることの重要性について書きました。今回取り上げた、神による創造と救済の両方について、キリストは重要な役割を果たしておられます。キリストは神の創造の担い手でした(ヨハネ1章3節、コロサイ1章16節)。そしてもちろん、私たちが救われ神の子とされる特権が与えられたのは、このキリストを通してでした(ヨハネ1章12節)。そして教会はキリストのからだです(1コリント12章27節)。私たちが主の祈りを祈る時、私たちはキリストを通して造られ、キリストによって贖われ、キリストを頭として一つにされている存在として、父なる神に祈るのです。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

関野祐二先生によるゲスト連載の第3回です。お忙しい中寄稿してくださる先生に心から感謝します。それでは、お楽しみください。

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「『福音』とは何か」の三回目、だいぶ間が空いてしまいましたが、「福音と被造物統治/管理」の続きです。

2011年3月11日に発生した東日本大震災、関連する福島第一原発の事故は、キリスト教界にも多くの課題を突きつけました。折しもそれは、2010年10月、第3回ローザンヌ世界宣教会議が南アフリカのケープタウンで開催され、その成果である「ケープタウン決意表明(コミットメント)」が宣言されて五ヵ月後のこと。本コミットメントでは、包括的(ホリスティックな)宣教、包括的福音理解が提示され、天地創造から新天新地に至る、全被造物を対象とした神の贖い(和解と回復と再統合)計画を「神の宣教」と位置づけて、キリストを王なる主権者としたキリスト者がその統合的宣教に参与する見取り図を得たのでした。ならば福音主義に立つ者たちは当然のことながら、震災と原発事故による諸課題のキリスト教的理解も、このコミットメントの文脈に即して考えるべきものと言えましょう。投げかけられた具体的諸課題を思いつくまま並べるなら、自然災害は神のさばきなのか、いわゆる神義論の問題、福音的聖書的自然理解と環境問題、被造物を支配せよとの文化命令の意味、被災者救援と伝道の関係性と優先順位、包括的宣教と包括的福音の中身、聖書から見た核技術と原発の是非などなど。本来ならこうした課題は福音派キリスト教界がとっくに取り組んでおくべきものだったはずですが、どちらかというと後回しにしてきた苦手な分野だったようで、震災と原発事故を契機に、自戒を込めて遅ればせながら正面から取り扱うことになった経緯があります。

さて、包括的福音理解に基づく包括的宣教を深める上で鍵となる出発点は、我々福音に生きる者が文化命令(創世記1:28)に基づき統治/管理を命じられている「自然」(Nature)です。よって最初になすべきは、「キリスト教的自然理解」、すなわち我々が生き、そこに置かれている宇宙をも含めた自然界を神がどのようなものとして創造し治めているのか、その自然を支配するよう委託された「神のかたち」としての人間のあり方、そして贖いの対象でもある自然を、同じく贖いの対象である我々人間がどのように理解し、管理したらいいのかという問いかけに帰結します(人間が宇宙を統治/管理するとはいかなる意味合いを持つのかは、天文がライフワークの筆者にとっても興味深いテーマです)。主なる神は、被造物全体が贖われる新天新地への回復のプロセスにおいて、我々人間を「贖われた統治者」と位置づけ、ご摂理の内に用いておられます。換言するならこれは、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた、人類における被造物統治/管理権の回復であり、この地上におけるキリスト者の使命に直結するものです。被造物を治めるためにはそれらを理解し、各分野における最新の学問的成果と歴史的文化的価値を評価する必要がありますから、聖書以外のあらゆる領域にも関心を持ち、各分野の専門家たちの意見も取り入れ、協力していかなければなりません。

あらためて、創世記1:28を引用しましょう。「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」。この「地を従えよ」「支配せよ」というみことばをめぐっては、これこそが今日の環境破壊を引き起こした元凶であり、キリスト教は自然界に対し罪の責任を負っているとの、リン・ホワイトによる有名な指摘があります。しかしこのみことばには確かに神から委託された統治・支配の意味があるものの、決してそれは上からの横暴なわざでなく、神との共同(協働)統治であり、統治支配のニュアンスを含んだ管理という意味で、統治/管理との複合的表現がふさわしく、リン・ホワイトの理解は一面的と思われます。

エデンの園におけるアダムとエバの堕落の結果、人間と自然との関係性に起きた問題点とは、ひとつには人間が原初において完全であった「神のかたち」ではなくなり、本来的に統治支配権を行使した被造物支配の責任が与えられてはいても、今や正しく支配することが出来なくなってしまったこと、もうひとつは、「非常に良かった」(創世記1:31)はずの被造物世界全体に「ある変化」が生じ、土地はのろわれ(3:18)、いばらとあざみが生え、被造物は虚無に服した(ローマ8:20)ことでした。人間の堕落ゆえ虚無に服した被造物は、我々自身の身体も含め、うめきつつ贖われる日を待ち望んでいます(ローマ8:19-23)。贖われるとは、今の不完全な状態が人間の罪による滅びの束縛から解放され、元の完全な姿へと買い戻され回復させられるということでしょう。それは、先の後藤敏夫先生による解説の通り、詳細は不明ですが、新天新地の完成が今の被造世界となんらかの連続性や関連性を持っていることを暗示します。つまり、今の被造世界がすべて失われ滅びた後に、今とは断絶した形で全く新しい新天新地が現れるとの従来型理解は、聖書本来のメッセージとはいいがたいのです。

ということは、現在の地上におけるあらゆる営みが永遠の御国と連続性を持ち、地上での忠実な働きがなんらかの意味で完成された未来の御国へと持ち込まれることを意味し、今のこの地上における社会的活動すべては、神の目に意義あるものと認められており、委ねられた働きへの忠実さ誠実さが問われているということになります。そうでなければ、この世の生活はキリスト者にとってかりそめの意味しか持たなくなり、悪い意味で御国の待合室と化してしまうでしょう。

したがって私たちはここに、「身体の贖い(復活)を待ち望みつつ、神のかたちとして被造世界を統治/管理しながら、被造世界の贖いをも待ち望む」という、地上における生の枠組みと意義付けを確認できることになります。しかしその一方で、(1)アダムの罪により堕落して、正しい意味での統治/管理者としての資格や能力を失った我々に、堕落前(創世記1:28)定められたこの世を治める委託業務行使の資格や力はあるのか。(2)創造の当初、我々人間に委ねられていた被造物世界の統治/管理のわざは、神への反逆と堕落とともに我らの手から取り上げられ、主ご自身の直接統治へと戻されたのではないのか。(3)そこにあえて文化を築き、バベルの塔を建設した人類に、主にある健全な地の管理や文化形成は不可能なのではないか。(4)主イエスの十字架と復活による贖いのわざは、我々のこの世に対する統治/管理能力や権限をも回復したのだろうか。 こうした疑問が次々と沸き起こってきます。これはアウグスティヌスとペラギウスの論争以来常に議論されてきた、原罪による神のかたちの破壊や歪みの問題、自由意志能力の有効性、および神の主権と人間の自由意志の関係性も含めた、根本的問いかけと言えましょう。

筆者は、主イエスの十字架と復活による贖いのみわざが、人間の被造物統治/管理能力をも回復させ、神は再度そのわざを人類に委託して、贖いの歴史進展の中で人間との共同(協働)統治を進めていると理解しています。この結論については今後も幅広い継続的議論が必要ですが、福音を「個人的霊的救い」から解き放ち、自然科学を含むこの世一般の学問や文化活動の価値を認めた上で理解を深め、主イエスの十字架と復活によって神の国の統治者/管理者に召し出されたキリスト者こそが、地の贖いの完成を目指してこの地上の統治/管理を神との協働によって推し進めて行く、という基本的道筋は妥当な見解と思われます。であれば、「福音」とは、「十字架による罪からの救いと天国行きの保証」という単純化された表現では収まりきれない、キリスト教的自然観と世界観、贖い理解に基づくきわめて広い包括概念となるでしょう。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その2)

関野祐二先生による、「『福音』とは何か」ゲスト投稿、第2回をお送りします。(その1はこちら

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 「『福音』とは何か」というテーマ、次は「福音と被造物統治/管理」のお話をしましょう。ここには、終末論、職業観、罪の影響、文化命令、自然観、救済論と贖罪の意味合いなど、多くの要素が複雑に絡み合っています。

筆者が新生した大学生の頃、あちこち参加したバイブルキャンプの分科会三大テーマはご他聞にもれず、働く意味と職業選択、人生の意味と目的、そして恋愛と結婚でした。最初に挙げた職業観ですが、多少の誇張と単純化を許していただくなら、「会社には伝道に行くのだ」という考え方が主流だったと記憶しています。この世の仕事には「神の栄光を現す」という意義はあってもそれ以上の聖書的意味付けをせず、むしろ職場という、教職者では入りにくい社会の現場に遣わされ、滅び行くこの世から一人でも多くの人を福音伝道によって救い出し、天国行きの切符を手渡すことが職業人の至上命令であると叩き込まれたのです。それ自体決してすべて間違いとは言えないのですが、与えられた仕事を忠実に果たす動機付けとしてはいかにも弱く、どこかこの世と正面から向き合っていない、それゆえ仕事にも身が入りにくい、かりそめの職業観と思えるものでした。ベースには、人生の軸足を滅び行く今のこの世ではなく未来の完成された輝かしい御国に置く、「悲観的終末論」(今のこの世はどんどん悪くなって、ついに終末と再臨に至り、千年王国が訪れるという考え方)があると後で知った次第です。どうせ滅びてしまうこの世の事象に全力を投入するよりも、永遠のいのちを与える伝道にこそ価値がある...勤務した会社の製品開発実験室で、証しと個人伝道にいそしんだのは懐かしい思い出ですが、どこか「これでいいのかな」との迷いがあったのも事実。全力で仕事に取り組む一方、「どうせこの世は...」と上から目線でさばくような自己矛盾の姿勢がそこにはあったからです。

こうした疑問や出来事に向かい合う、いくつかの機会が与えられてきました。ざっと挙げれば、ライフワークとしての天文学の継続、後藤敏夫師の著書との出会い、東日本大震災と原発事故、中澤啓介師の被造物管理の神学などです。

実は昨晩も、神学校の屋上で神学生たちに望遠鏡で土星を見せたのですが、輪を持った土星の堂々たる姿を自分の目で直接見てもらうのは嬉しいことでした。同席したP教師は、「土星を観るより、望遠鏡を覗いている人の反応を見ているほうがおもしろい」とも。もし、何のために土星を観るのですか、と問われたら、「そこに土星があるから」「観ておもしろいから」と答えましょうか。誤解を恐れずに言うなら、少なくとも「聖書に土星のことが書いてあるから」(直接は書いてありません)でも、「天地創造のみわざを称えるため」などという高邁な動機があってでもありません。ましてや「土星を見せることで伝道や証しのきっかけをつかむため」でもないのです。それでいいと思っています。まずは自分が今そこに生きている自然や宇宙を知ること、興味を持つこと、直接それを見て美しさに感動し、宇宙の中に置かれている自分を意識することがたいせつだからです。結果としてそれが、神を知ること、自然界と宇宙を治める神を称えること、共に創造主を喜ぶこと、詩篇の作者のように「人とは何者なのでしょう」(詩篇8:4)という神学的問いへと進むことになるのでしょう。

この順序をたいせつにしたいと思っています。なぜならそれが、この地上における人の営みを肯定し、地に足をつけた生き方の出発点となるからです。先ほど述べた、「ひとりでも多くの人を救いに導く」ことを主眼とした生き方は、それ自体はすばらしいわざであっても、気をつけないと浮き足立った前のめりの歩みとなり、地上のわざを軽視する結果をもたらしかねません。自然科学のみならず、文化や芸術、先端技術、哲学や文学など、人のさまざまな営みに肯定的な意味づけを与える道があるはずですし、多くの人に主イエスを紹介しつつ、人生そのものを喜び楽しむことをも主は願っていると思うのです。福音を知り、福音に生かされ、福音を伝えるという生き方がこのように統合されるならば、どんなにすばらしいことでしょう。『ケープタウン決意表明』(いのちのことば社、2012年)45-51頁に、従来型の聖俗分離的考えを改めて人間のわざの価値を認め、真理と職場、真理とグローバルメディア、真理と宣教におけるメディア、真理と先端技術、真理と公の場という項目で、文化と専門分野の意義を提案した箇所がありますので、ご参照ください。

土星観望から少し飛躍し過ぎました。結局たいせつなのは、終末や再臨を見通した上での、この地上における営みの肯定的位置づけです。それを筆者に教えてくれたのは、後藤敏夫先生の著書「終末を生きる神の民 ――聖書の歴史観とキリスト者の社会的行動――」(いのちのことば社、初版1990年、改訂新版2007年)でした。詳しくは本を読んでいただくとして、筆者がここから一番教えられたのは、「地上における営みが新天新地へと連続している」ということ。現在の先取りされた神の国経験は決してかりそめのものではなく、それが不完全であってもやがて完成する神の国の実体の一部を構成しており、地は滅びるのではなく贖われるのだ、私たちは御国へと携挙するのではなく御国がこの地上にもたらされ、主イエスはこの地上へと再臨されるのだ、だから今の地上における営みは何らかの意味で完成された御国へと持ち込まれ、そこには連続性があるのだ、というのです。これこそが聖書的な統合された人生観につながる神学だと直感しました。ここにはもはや、神の国とこの世的なものを分ける聖俗二元論は存在しませんし、どうせこの世はという否定的な対立構造もありません。文化命令(創世記1:28)に従って地を管理するため、この世界をよく知り、かかわっていく道筋が与えられたのです。こうした枠組みを考えながら、後藤敏夫先生にも神学校で講演していただいたり、前述の書を2007年に改訂新版として再版いただいたりという歩みを続ける中、2011年の東日本大震災と原発事故を迎えることになるのです。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その1)

前回の投稿で、次回の投稿では「本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。」と書きましたが、今回はこのブログで初めてゲストブロガーをお迎えしたいと思います。先日の公開講演会で講師を務めてくださった関野祐二先生ご本人が寄稿してくださることになりました。お忙しい中、寄稿依頼に快く応じてくださった先生に心から感謝いたします。

この投稿は、基本的に講演会で先生がお話しくださった内容に基いて書いていただきましたが、この中で取り上げられている主題は、海外の福音派キリスト者の間で近年盛んに議論されていながら、日本の福音主義キリスト教会ではまだ紹介され始めたばかりのものもあります。したがって、福音主義のフォーマットの中でこのような話題を取り上げること自体に違和感や拒否反応を覚える方々もおられるかもしれません。しかし、個々の結論に同意するしないは別として、自分と異なる意見に謙虚に耳を傾け、建設的な開かれた議論を展開できる「違いの違いが分かるキリスト者として、寛容に受け止めていただけることを願っています。

それでは、お楽しみください。

関野祐二2013年4月

お邪魔します。人気コンサートの舞台に友情出演で引っ張り出されたような不思議な感覚です。下手なパフォーマンスでブログの品位を落とさぬよう気をつけますから、どうぞおつきあいください。

今回講師を務めた5月11日の中部春期公開講演会「『福音』とは何か」は、昨年11月に行われた全国神学研究会議「福音主義神学、その行くべき方向 ――聖書信仰と福音主義神学の未来――」の延長線上にあります。私たち福音派の依って立つ福音主義神学とは何か、そのアイデンティティと方向性を探る作業をしていけば、必然的に「福音」の中身をも問われることになるからです。福音主義は「福音への献身、コミットメント」が身上。では何をもって福音(よい知らせ)と考えるのかですが、「主イエスの十字架による救い」と答えるのは正解ですし、聖書メッセージの要約かつ結論としての模範解答でもあります。ただ、あの東日本大震災を契機に、十字架のメッセージを含めた、より包括的(ホリスティックな)福音が問われるようになり、もっと全人格的、全生活的な「よい知らせ」を旧新約聖書全体から受け止めたいという機運が高まりました。逆に言えば、今までの福音理解がどちらかというと個人的、霊的、未来的な意味に偏り、この世の具体的状況における生き方の問題(たとえばキリスト者として被災地に駆けつけ何をすべきなのか)から乖離した内容に傾きがちだったとも言えましょう。

その一方で、欧米を中心に福音理解とそれに関連するホットイシューがさまざま研究され、議論されるようになってきました。福音派にとってふさわしい(安全な?)テーマかどうか、どんな内容なのかはひとまず脇において項目だけ並べれば、物語神学、開かれた神論、パウロ研究の新たな視点(NPP)、聖書の無誤性理解、創世記1~3章の解釈、関連するアダムの歴史性と原罪、被造物統治/管理などなど。残念ながら、日本の福音派ではどれもまだ議論が始まったばかりの状況で、だからこそ昨年11月の全国神学研究会議がこうした事がらを取り上げ、正面から福音主義アイデンティティを探求する場となったわけです。

実は「『福音』とは何か」という問いかけは自分自身にとっても古くて新しいテーマ。2010年3月15日の『リバイバルジャパン』に、同じタイトルで寄稿しているからです。長くなるのでその内容をここで詳しくはお伝えしませんが―――いや、せっかくですから少しだけ。Ⅰコリント15:1でパウロがコリント教会員に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」と改まった口調で語るその福音とは、「キリスト復活、私も復活」がポイントでした。神の贖い物語の結論として主イエスが死からよみがえり、それを信じる私たちも復活した人生をこの地上に先取りされた神の国で生き、神の物語の一端を担いつつ、新しい価値観を生きて神と人に仕え、からだの復活と救いの完成を待ち望む―――

あれから約5年が経ち、その間に社会では震災や原発事故、急速な右傾化をはじめ多くの出来事が発生、個人的にも先に挙げたような神学テーマとの格闘を経験して、「福音」理解がより包括的に(ある意味で振れ幅大きく)なってきたような気がします。以下、その一端を紹介しましょう。

まず「福音とアダムの史実性」ですが、このタイトルだけでびっくりし、つまずいてしまわぬよう願います。なぜ今「アダム」なのか、それは、「福音とは何か」を探求する上で、創世記1章~3章の解釈がとても重要であり、とどのつまり創世記1~3章をどう読むかは「アダム」という存在をどう考えるかに集約され得るからです。創世記1~3章は、神が「自然」を創造した目的と、神のかたちとして創造した人が「自然」すなわち「地」を管理する使命を与えられたことが記され、福音によって本来の姿に回復させられた人間が、神との協働により本来の意味で地を統治/管理すべきことを教えます。また創世記1~3章は、人間が罪を犯し、この世界が当初の状態からどう変わってしまったのか、最初の罪はどのように後世へと伝達されたのか、壊れてしまった「地」と堕落した人間は福音によってどう「贖われ」、新天新地へとつながるのか、その原点を示します。そして創世記1~3章は、聖書と科学の関係性や聖書の無誤性を考える際、その記述を字義通り読むべきか否か、一般の自然科学分野で今や常識とされる進化論(進化生物学)や人類の起源との関係性や整合性をどう判断するか、重要な箇所。以上三つの意味で、創世記1~3章における「アダム」の存在理解は鍵となるのです。

「福音」とは、天国行きの希望を与える意味でもたいせつですが、今この地上で生かされている私たちの生き方を決定づける「よい知らせ」でもあるはず。ならば、この世の学問的常識とも真摯に向き合わなければなりません。これまで福音派の私たちは、どちらかというと自然科学を無神論的営みとして信仰の対立軸と捉え、創世記冒頭の記事を単純に字義的解釈し、24時間×6日間で宇宙は無から創造され、特別創造された完成体としてのアダムとエバからすべての人類が発祥し、罪も遺伝的に後の全人類へと伝達されたと解釈するのが一般的でした。聖書記述をそのまま字義通り読むことが霊的であるとされ、疑問を差し挟む者には、無誤性を否定しているとか、福音的でないとの批判が浴びせられる傾向があったのです。近年、古生物学における化石記録の研究成果に加え、分子生物学によるヒトゲノム(人間のDNA)研究の急速な進歩によって、現世人類(ホモ・サピエンス)が約15万年前のアフリカ起源であると推定され、キリスト教界でも一般の自然科学に価値を見いだすグループにおいては、創世記1章~3章に記録された創造と堕落記事の意図や解釈、文学的性質、古代近東の文化的背景理解とともに、最初の人アダムの史実性問題が浮上してきました。これは、アダムとエバが歴史的にも最初の人類で後のすべての人類はアダムとエバという一組の夫婦から始まったのか、人が「神のかたち」として他の生き物と区別されたのは、いつどのようにしてなのか、原罪はどのように始まり次世代へ伝達されたのかなど、福音理解と根本教理に直接かかわる、きわめて重要なテーマなのです。鍵はやはり「アダム」の存在とその意味合いです。

ホイートン大学の旧約学教授ジョン・ウォルトンは、著書『創世記1章の失われた世界 ――古代宇宙論と起源に関する議論――』(邦訳未刊、2009年)、続編の『アダムとエバの失われた世界 ――創世記2章3章と人間の起源に関する議論――』(邦訳未刊、2015年3月)において、次のように述べています。創世記は古代文献であって、現代科学の書物ではない。古代世界の文脈に沿ってテキストを読み、著者が真に伝えたかったこと、当時の聴衆が明瞭に理解したことを知るのが真の字義的解釈であり、それは我々現代人の伝統的に理解してきたこととかけ離れている。創世記1章は古代近東の文脈から考えて宇宙的神殿落成の観点から読むのが妥当であり、物質の起源よりも機能的起源(特に人間の機能、function)の叙述として読むべきである。宇宙的神殿は人間の益のために諸機能がセットアップされ、神が被造物との関係性の中で住まわれるのだ。創世記1章から5章において、「アダム」という用語は多様な方法で使われ、人類全体を指す場合、原型的な(archetypal)人を指す場合、人類の代表者を指す場合、固有名詞の場合、特異的に用いられる場合とがある。「土地のちりで人を形造り」「あばら骨をひとりの女に造り上げ」は原型的な表現であり、物質的起源の主張ではない。新約聖書は、アダムとエバに関し、生物学的な先祖としてよりも、我々全員に当てはまる原型的な存在として関心を持っている。にもかかわらず彼らは過去現実に存在していた実在の人物であった。

不十分な紹介で恐縮ですが、ウォルトンの主張は米国の福音主義神学会でも注目を集めており、日本において「福音とは何か」を創世記のアダム理解から探求するに際し、賛成や反対いずれの立場であっても、彼の問題提起を真摯に検討する必要があると思われます。スコット・マクナイトやN.T.ライトなど、日本でも評価の高まりつつある聖書学者たちがウォルトンの研究を評価していることも付記しておきましょう。

(続く)