男と女―相互に向き合うパートナー(藤本満師ゲスト投稿4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト連載、その4回目をお届けします。

*     *     *

女のかしらは男?

前回の投稿を読んでくださった方は、私が神学的な男女平等論に立っていることをご理解されたことでしょう。男女が等しく神のかたちに創造されているばかりか、社会や家庭における役割においても平等、さらに聖職的な立場においても等しく奉仕ができるという立場です。今回、そのような立場の背景にある聖書理解を記してみます。

  • 神は人を男と女に創造された

創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に創造された」。すぐそのあとの28節に「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と、神は人を男と女に創造することによって、人に新しい生命の誕生の恵みを授けられました。

こうして誕生した男女には、生物学的、身体的、心理的な差異があることは事実です(一様ではないにしても)。しかし、神が人を男と女に造られた意図は、他の動物が雌と雄に区別され、生命の増殖がなされるのとは同じではありません。

その点を明らかにしているのが、創世記2章の創造の物語です。7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」。創造したアダムに神は言われました。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」(18節)。こうして神は人(アダム)を眠らせ、あばら骨の一つを取り、それをもって一人の女を造られます。つまり男と同質・同類の人として創造されています。

しかし、ここで女が男の「ふさわしい助け手」(口語訳・新改訳)として造られた、とあります。ともすると、「ふさわしい」となると、男にとってふさわしいと勝手に考えてしまいます。男が社会に出て働き、女は子どもを産み、主婦として家事をし、夫の主導に聞き従う、と。しかし、この言葉はそういう意味ではありません。聖書の訳では、そこを苦心しているのが新共同訳聖書で、「彼に合う助ける者」と訳されています。「ふさわしい」を「合う」に変えたのです。 続きを読む

Racismの意味

少し前に投稿した、「ラルフ・ハモンド師の想い出―人種問題に寄せて」は、最近の記事の中では飛び抜けて高い関心を集めました。その中で私は、人種差別(racism)とは単なる人種的偏見ではなく、偏見に基づいて制度的に特定のグループの人々を抑圧することだ、と述べました。これに関して、今日インターネットで興味深い記事を見つけましたので、紹介します。 続きを読む

この世でよそ者として生きる(リチャード・ヘイズ教授講演より)

5月5日(金)に開かれた北東アジアキリスト者和解フォーラムに参加しました。このフォーラムは米国デューク大学の神学部と和解センターのイニシアティヴで始まったもので、今回が7回目になります。私自身は、韓国済州島で開催された昨年のフォーラムに続いて2回目の参加となります。今回は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、半日のみのオンラインでの開催になりましたが、多くの発見や励ましを受けました。

フォーラムには、日中韓米から招待された約150名以上のキリスト者が集いました(オンラインだからこそ参加できた人々も多く、参加者は例年より大幅に増えました)。参加者はカトリックやプロテスタントの聖職者や学者、パラチャーチ活動家、学生などさまざまで、非常に多様な顔ぶれであるのが特徴です。

今回のフォーラムでは、世界的に著名な新約学者である、デューク大学のリチャード・ヘイズ名誉教授が講演をしてくださいました。私はこれまでヘイズ博士の学問的業績に大いに啓発されてきただけでなく、何年か前に来日された際には、立ち話程度でしたが個人的にお話しする機会も与えられたこともあり、今回の講演を楽しみにしていました。この何年か膵臓がんと闘病されてこられましたが、今回Zoomの画面を通してお元気そうな姿を見ることができて感謝でした。 続きを読む

人種差別と女性差別(藤本満師ゲスト投稿3)

その1 その2

藤本満先生のゲスト投稿、3回目をお送りします。今回は先日私が投稿した記事とも重なる、差別の問題を取り上げてくださいました。時期的にもとてもタイムリーな寄稿をいただき、心から感謝しています。

*     *     *

「神の像」をゆがめて用いるとき――人種差別と女性差別

 「キリスト者の生」「キリスト者の成熟」を念頭に置きながら、その根底にある「神学的人間論」を論じること、所詮、それは筆者にとっては手の届かぬ試みです。H. W. ヴォルフによる『旧約聖書の人間論』(1983年に邦訳)辺りから聖書の人間論に関心が持たれるようになりました。W. パネンベルク人間学――神学的考察』(2008年に邦訳)はおそらく最も包括的な論でしょう。福音派では、河野勇一わかるとかわる!《神のかたち》の福音』(2017年)も優れた書物として挙げるべきであると考えています。

それらの書を前に筆者の切り込む余地はないと判断し、記すことにしたのは、今日、神学的人間論において話題となっているトピック、(1)物語神学とキリスト者の生、(2)ピストゥス・クリストゥス論争とキリストの像。そして今回3回目は、「神の像」をゆがめて用いながら「差別を正当化してきた歴史」についてです。 続きを読む

『いのちのことば』誌特集「50人が選ぶこの一冊」

本であれ音楽アルバムであれ、自分の好きなもの、思い入れのあるものを人に紹介するのは楽しいものです。他の人たちからおすすめを聞くのも同様です。それは単なる情報共有ではなく、その人のおすすめを通して当人の趣味や考え方、人となりを垣間見ることができるからです。その意味では、人に何かを推薦するのは緊張する体験でもあります。自分のおすすめを通して、自分自身の教養や人間性が見透かされてしまうような気になるからです。それでも、自分が大きな恵みを受けたものを他者と共有する楽しみは、他に代えがたいものがあります。ビブリオバトルが流行しているのも、そんな理由からかもしれません。

さて、月刊『いのちのことば』誌が今年の7月号で500号目を迎えます(創刊は1979年1月だそうです)。その節目を記念する特集として、(福音派?)キリスト教界の50人が推薦書を紹介する「50人が選ぶこの一冊」という企画がなされました。私も依頼を受けておすすめの本を挙げさせていただきました。

50books [2]

 

続きを読む

ラルフ・ハモンド師の想い出―人種問題に寄せて

今、米国で人種間の対立が再び表面化してきています。ミネソタ州ミネアポリスで白人警官に拘束された黒人男性が死亡した事件をめぐって抗議デモが全米各地に広がっていることは、各種報道で広く知られているので、それについて詳述することはしません。ただ、今回の事件が起こったミネアポリスは私の妻の出身地であり、今でも家族がその地域に住んでいます。また私がアメリカで最初に学んだベテル神学校も、隣町のセントポールにありました(この2つの町は合わせて「双子都市Twin Cities」と呼ばれています)。したがって、個人的にもつながりのある地で起こった悲惨な事件に深い悲しみを覚えています。

今回の事件についていろいろと思い巡らしていたとき、一人の人物の顔が思い浮かんできました。それはベテル神学校時代の恩師の一人、ラルフ・ハモンド師(Dr. Ralph E. Hammond)でした。 続きを読む

聖霊降臨と新時代の幕開け(『舟の右側』ペンテコステメッセージ)

今週の日曜日(5月31日)はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。それに先立ち、『舟の右側』誌に依頼されて、6月号にペンテコステのメッセージを書かせていただきましたので、同誌の許可を得てこちらにも掲載させていただきます(ただし聖書の訳をはじめ、いくつか変更を加えてあります)。内容的には過去記事「王なるイエスの元年」と重なる部分もありますが、そこで書いた内容を、もう少し広い聖書の文脈の中で捉え直したものです。

 

聖霊降臨と新時代の幕開け 

それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (使徒2・ 33)

ペンテコステおめでとうございます。教会暦では、復活祭から50日目にあたる日曜日を聖霊降臨の日として祝います。これは、イエス・キリストの昇天後、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれたできごとを記念するもので、キリスト教会にとってはクリスマスや復活祭と並んで重要な祝日です。

十字架につけられた後、3日目に復活したイエスは40日間にわたって弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。主はその際、エルサレムを離れないで、聖霊の訪れを待つようにと彼らに命じられました(ルカ24・49、使徒1・4-5)。その約束通り、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれたのです。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒2・1-4)

この有名な「聖霊降臨」のできごとは、教会誕生の瞬間として有名ですが、そこで起こったことは、実際には何を意味しているのでしょうか? ある人々は弟子たちが「異言」を語ったことを強調します。けれども、この時弟子たちが語った言葉がパウロが手紙で語っている異言(1コリント14章を参照)と同じものであるかは定かではありません。宣教への力が与えられたできごと(使徒1・8参照)として理解する人々もいます。しかし、聖霊降臨を孤立した特異なできごととして捉えるのではなく、より大きな聖書的文脈の中に位置づけていく時に、さらに深い意味が見えてきます。 続きを読む

ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像(藤本満師ゲスト投稿2)

その1

藤本満先生による、ゲスト投稿シリーズ、第2回をお送りします。

*     *     *

ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争とキリストの像

  • ピスティス・クリストゥ論争とは?

ピスティス・クリストゥ論争については、多くが語られてきました。簡易に整理いたします。ローマ人への手紙3:21に「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました」、そして続く22節に「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」(新改訳2017)とあります。

イエス・キリスト「を」信じるとは、原語では「イエス・キリスト『の』ピスティス」となっているだけです。新改訳2017の注には「イエス・キリストの真実」と原語そのままの別訳が掲載されています。「ピスティス」は、新約聖書では「信仰」の意で用いられていますが、本来は、真実・信実・誠実を意味する言葉です。イエス・キリスト「の」という属格は、対格的(目的格)用法で訳されるのが一般的と言えるでしょう。つまり、「イエス・キリストを信じる信仰」(新改訳)、「イエス・キリストを信じること」(新共同訳)、「イエス・キリストへの信仰」(岩波訳)と。

この対格用法に異論を詳しく唱えたのが、カール・バルトでした(『ローマ書』第二版)。バルトは「の」を、対格ではなく主格的用法で訳しました。「神の義は、イエス・キリストにおける『神の』信実によって啓示される」と(『カール・バルト著作集14 ローマ書』、新教出版1967年、114頁)。「の」は対格ではなく、つまり人間がキリストを信じる信仰ではなく、キリストを主格とした「の」、つまりキリストの真実、あるいは神がキリストにおいて現された真実(信実)と考えたわけです。ですから、聖書協会訳共同訳では
「イエス・キリストの真実」と訳されています。 続きを読む

遠隔授業事始

新型コロナウイルスは、神学教育にも甚大な影響を及ぼしています。感染拡大防止のため、はじめに首都圏で、さらに全国で緊急事態宣言が出され、私たちの神学校も事実上の閉鎖状態になりました。通常は教室で教師と学生が顔を合わせながら行う授業ができなくなり、すべてをインターネットを通して行う必要が出てきました。

私が教えている神学校でも、前年度末から休校になり、新年度の開始も4月末に遅らせた上で、すべての授業をオンラインで開講することになりました。とは言え、私たちの神学校にとっては初めてのことであり、何をどうしたらいいのか皆目検討もつかないまま、手探りで準備が始まりました。

これはおそらくITネイティヴの若い世代の学生より、教師の側に大きなストレスをもたらしたのではないかと思います。私も含め多くの教師は伝統的な対面型の授業に強いこだわりを持っており、異なる方法を導入することに抵抗を感じています。今回のような危機的状況によって背中を押されない限り、なかなか変わることはなかったでしょう。けれども、もはやそのようなことを言っている余裕もなくなりました。いわば新型コロナ危機という「黒船」の到来によって、私たちは遠隔授業への「開国」を余儀なくされたのです。

Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も寝られず」

予算も限られており、専任の技術スタッフもいない小さな神学校では、とにかく今いるスタッフで知恵を絞って対応していかなければなりません。そんな中で、専門知識もない私が「IT担当スタッフ」をおおせつかり、リサーチして資料を作り、教師や学生のサポートにあたることになりました。同時に、自分が担当するクラスのオンライン化も考えていくことになりました。以下に記すのは、その導入プロセスを忘備録的に綴った「遠隔授業事始」です。 続きを読む

物語神学とキリスト者の生(藤本満師ゲスト投稿1)

当ブログではもうおなじみの藤本満先生ですが(過去記事はこちらこちらを参照)、このたび神学的人間論というテーマで、シリーズで投稿していただけることになりました。今回はその第1回をお送りします。

*     *     *

神の像に創造され、キリストの像に贖われる
――キリスト者の「生」と人間論」の今日的諸課題――

2020年5月に福音主義神学会〔東部)で、このテーマで講演をさせていただく予定でした。それは11月に開催予定の学会全国研究会議が「キリスト者の成熟」であるからです。とりあえず、私の講演は来年に21年に延期となりましたが、今回用意したものを東部の許可を得て、山﨑ランサム和彦先生のブログに掲載させていただくことにしました。

まだ全部まとめていません。書きやすいところから書き始めました。4つ論考を掲載の予定ですが、

① 物語神学とキリスト者の生
② ピスティス・クリストゥ論争とキリストの像
③ 「神の像をゆがめて用いるとき」
④ 土の器と神の像

です。4つの関連性は必ずしも一貫していません。そこで「諸課題」としました。 続きを読む