Not Found―コロナ禍の中で聴いた音楽

新型コロナウイルスの感染拡大にともない、私が奉仕している神学校も教会も全面的にオンラインでの活動になりました。その他に外出する必要がある場合も、車を使うことがほとんどなので、公共交通機関を利用する機会はめっきり減りました。けれども8月29日(土)の午後は、久しぶりに電車に乗って妻と外出しました。サントリーホールで行われるコンサートに出席するためです。

そのコンサートとは、芥川也寸志サントリー作曲賞の選考演奏会でした。この賞は戦後日本を代表する作曲家の一人、芥川也寸志氏(1925-89)の功績を記念して創設されたもので、若手日本人作曲家の登竜門として知られており、今年で第30回になります。(余談ですが、芥川也寸志氏といえば私の世代にとっては「N響アワー」の司会者としても記憶に残っています。)

今年の選考演奏会は、昨年国内外で初演された、日本人作曲家による管弦楽作品53の中から、第一次選考を通過して候補に選ばれた3作品を演奏し、受賞作を決めるというものでした。

私たちがこのコンサートに出かけたのは、今年の候補作の一つを作曲したのが、友人である冷水乃栄流(ひやみず・のえる)さんだったからです。彼は東京藝術大学修士課程作曲専攻に在学中ですが、その作品はいろいろなところで演奏されている、新進気鋭の作曲家です。今回ご本人からコンサートのご案内をいただき、とても楽しみにしていました。

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物語としての福音書【書籍紹介】

聖書の物語的分析は、近年の聖書学の中でも重要な位置を占めるようになってきました。私の博士論文も、ルカ文書の物語的分析の手法を取り入れたものでした。

ところで、四福音書の物語分析に関して、新しい本が出ましたので紹介したいと思います。

これは Jeannine K. Brown, The Gospels as Stories: A Narrative Approach to Matthew, Mark, Luke, and John (Baker Academic, 2020) です。著者のジェニン・ブラウン博士はベテル神学校サンディエゴ校の新約学教授であり、広く使われている英訳聖書 New International Version (NIV) の翻訳者の一人でもあります。同時に、ブラウン先生は私がベテル神学校に留学した時に聖書学を教わった恩師でもあります。当時先生はミネソタ州のセント・ポール校で教えておられましたが、私はこの先生の聖書解釈学の授業で大きな感銘を受けたことがきっかけで、聖書学の道に進むことを決意しました。

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南野浩則師『聖書を解釈するということ』書評

今年の6月に南野浩則先生の聖書を解釈するということ―神のことばを人の言語で読む(いのちのことば社)が出版され、早速読んでとても感銘を受けました。

南野先生は福音聖書神学校で教鞭を執っておられ、私も福音主義神学会などでお世話になっている先生です。このたびクリスチャン新聞に私が書いた書評が掲載されましたので、同紙の許可を得てその全文を掲載させていただきます(クリスチャン新聞のリンクはこちら)。

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パンデミックを考える(4)

その1 その2 その3

前回は、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルスの内容を紹介しました。今回はそれに対する私なりの応答を記したいと思います。

ブルッゲマンの主張は、これまで取り上げてきたパイパーやライトの主張と重なる部分もたくさんありますが、そのどちらとも異なるユニークな側面も持っています。

彼はライトと同じように、信仰者がパンデミックの危機の中にあって嘆くことの重要性を強調します。けれども、ライトがコロナウイルスの「意味」を問うことをほぼ全面的に拒否しているのに対し、ブルッゲマンはあえてその領域にも足を踏み入れようとしています。

他方で、ブルッゲマンはパイパーのように単純明快な「解答」を提示することはしません。彼の主張はもっとニュアンスに富んだものであり、そのため分かりにくいものであるとも言えます。この点についてもう少し考えてみましょう。

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パンデミックを考える(3)

その1 その2

このシリーズの第1回目はジョン・パイパー、第2回目はN・T・ライトによる、今回のパンデミックの考察を紹介してきました。今回取り上げるのは、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルス:喪失・悲しみ・不確実の時代における聖書的省察 Virus as a Summons to Faith: Biblical Reflections in a Time of Loss, Grief, and Uncertaintyです。

ブルッゲマンはアメリカの旧約聖書学者であり、このブログでも取り上げたこともあります(たとえばこの記事)。彼の膨大な著書の何冊かは日本語にも訳されています。ブルッゲマンの前書きの日付は今年の棕櫚の主日(4月5日)ですが、Nahum Ward-Levによる序文の日付は4月24日になっていますので、パイパーやライトの本よりわずかに遅く出版されたということかもしれません。

ブルッゲマンが前書きで述べているように、本書のすべてはコロナ禍を受けて書き下ろされたものではなく、過去に書かれた二つのエッセイも収められています(5章と7章)。本書の大部分は旧約聖書のテクストに対する省察で占められています。

旧約聖書における「災い」

1章でブルッゲマンはレビ記、出エジプト記、ヨブ記等を取り上げ、旧約聖書における「災い」の解釈について考えます(英語のplagueにはコロナウイルスのような「疫病」という意味もありますが、ブルッゲマンはより広いニュアンスでも用いているようです)。著者は旧約聖書の中に、少なくとも3つの可能性を見出しています。 続きを読む

パンデミックを考える(2)

その1

パンデミックについての神学的考察、第1回目はジョン・パイパー著『コロナウイルスとキリスト』を取り上げました。

今回取り上げるのは、N・T・ライト著『神とパンデミック:コロナウイルスとその余波についてのキリスト教的省察 God and the Pandemic: A Christian Reflection on the Coronavirus and Its Aftermathです。

N・T・ライトについては、もはや紹介する必要もないでしょう。現在世界で最も影響力のある神学者・聖書学者の一人であり、このブログでもおなじみです。彼は今回のコロナ禍について何を語るのでしょうか? 続きを読む

パンデミックを考える(1)

ここ数ヶ月というもの、「コロナ」という言葉を見聞きしない日はありません。新型コロナウイルスの感染は世界中で爆発的に拡大を続け、今もその勢いは衰えを見せていません。この原稿を書いている時点で、世界の感染者が2千万人を突破しました。感染症がもたらす健康被害はもちろんのこと、それに伴う社会的、政治的、経済的影響は甚大で、世界の国々を大きく揺るがし続けています。

私たちの「日常」は一変してしまいました。そして、コロナ以前の「日常」に戻ることは、もうないのかもしれません。

キリスト教会ももちろん、この変化と無縁ではありません。多くの教会堂は閉鎖され、礼拝はオンラインやその他の手段で行われるようになっています。私が教えている神学校でも、これまでの授業はすべてオンラインで行われるようになりました。

しかし、私たちにとって本当に重要なことは、これまでの「活動」や「ミニストリー」をいかに継続していくか、ということではありません。より重要な問題は、信仰者としてこの「非常事態」にどのように向き合い、このパンデミックの世界にあってどのように神の召しに従って歩んでいくか、ということだと思います。

今回のコロナ禍はまさに世界規模のできごとですので、これまでに世界中のキリスト者が様々な考察を発表してきています。日本国内でも、各キリスト教雑誌ではコロナ禍特集を組み、何冊かの書籍が出版されています。その内容も、神学的考察から実践的アドバイスまで多岐にわたります。

そんな中にあって、私も自分なりにいろいろと思うことはありましたが、それをなかなかこのブログ上で公表することができませんでした。

一つには、教会と神学校におけるコロナ禍への実際的な対応に追われて十分に考えを深める時間が取れなかったことがありますが(こちらを参照)、より大きな理由は、この問題があまりにも大きすぎたからです。

私たちにとって今回のパンデミックは現在進行中のできごとであり、まだその渦中にある状況です。現在も感染は拡大中ですし、今後第二波、第三波が続く可能性は大いにあります。感染の終息がいつ訪れるのか、さらにその傷跡から世界が完全に回復するまでどのくらい時間がかかるのか、誰にも予測できません。

日々めまぐるしく移り変わる状況の中で、一個人が何か確定的なことを主張できるとは思いません。そのような状況においては「語らない」「沈黙する」ことが賢明な選択肢である場面もあります。しかし、たとえ不完全なものであったとしても、それを言葉にしていくことによって、自らの考えを深め、他の人々との対話のきっかけになればと思います。それに結局のところ、私たちの思想と実践は切り離すことはできません。たとえ未完成のものであっても、私たちは現時点でできる限り考えを深めたら、そこから一歩を踏み出すしかないのです。

そういうわけで、これから綴っていくのは、パンデミックのただ中で生まれた暫定的な考察に過ぎません。何年か後にすべてが落ち着いた時に振り返ったら、また別の考えが生まれるかもしれません。できれば、ゆるい連載の形で何回か続けていくことができたらと思います。 続きを読む

祈りII(詩)

祈りII―詩的変奏―

黒く乾いた炭の上に
一片の香を そっと載せ
静かに 火を待ち望む

やがて火がともると
一すじの祈りが生まれ
炉の中でくゆり立つ











細く
細く
天に
向かって
のぼり
たゆたい
ひろがり
やがて 虚 空 に 消 え る

祈りが終わったとき
世界はいつものように回り続け
天は黙って見下ろしている

あとに残るのは
堂に満ちる芳香 静寂 そして
雪白の灰

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神学的人間論と同性愛・同性婚(藤本満師ゲスト投稿5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生のゲスト連載、その5回目をお送りします。今回の連載はこれで最終回になりますが、貴重な問題提起を行ってくださった藤本先生に心から感謝します。

*     *     *

5.神学的人間論と同性愛・同性婚

かつて「聖書信仰」の問題を取り上げたとき、私は福音派の聖書理解が停滞し、神学的にも膠着状態にあることを意識していました。批評学だけでなく、言語学や解釈学に応える「聖書信仰」とはどのようなものなのか? 理性の絶対性への疑いが明らかになった時代にあって、福音派の聖書理解は新しい可能性がどのように展開しているのか、目を上げて見渡してみよう、と。探っていくうちに、私自身、神学的に、信仰的に整理が与えられ、また前進する挑戦をいただきました。しかし、ある方々には、そのような理解の前進は「逸脱」と映ったようでした。

今回の論考は短いものですが、「聖書信仰」という特殊な課題とは違って、日本のキリスト教会の伝統的な考え方全体に一石を投じるくらいのおののき、また覚悟を意識しています。神学的人間論の今日的諸問題の一つとして、同性愛・同性婚の問題は避けることができないでしょう。社会の理解はわずかながら進んでも、日本の教会はこの課題を神学に論議するには至っていません。アメリカでは、すべての州が同性婚を法律的に認めています。また神学的・倫理的・聖書的議論は、ここ20年、福音派の中でも活発になされてきました。活発すぎて、時に教会を分断するような結果を生み出しました。

今回の論考では、同性愛を「擁護する神学的な考え方」を紹介し、神学的なことにとどめます。運動的な、あるいは文化的な風潮には触れません。紹介するのは、戦後ドイツの偉大な神学者のひとりヘルムート・ティーリケと、最近の英国教会(聖公会)で絶大な影響力を持っている神学者ローワン・ウィリアムズです。

今回は、同性愛を禁じている6つの聖書箇所の解釈には触れません。6つの聖書箇所とは、創世記19章のソドム、レビ記18:22、同20:13、Ⅰコリント6:9-10、Ⅰテモテ1:10、ロマ1:26-27です。これらの聖句の歴史的背景、解釈の仕方については多くの議論が積み重ねられてきました。それらについても学ぶ機会を得て、あらためて紹介したいと思っています。ちょうど今年、いのちのことば社からLGBTと聖書の福音(アンドリュー・マーリン著、岡谷和作訳)が出版されました。支持する人も反対する人も、妙なレッテルをはって片付けてしまうのではなく、「神学的な視点」からこの問題を見てみましょう。ブログ記事としては長いのですが、最後まで読んでくださると感謝です。 続きを読む

キリスト教と愛国心

知人のアメリカ人牧師から、今年の7月4日のアメリカ合衆国独立記念日に向けてリリースされたという歌の動画リンクが送られてきました。

このGod Bless the U.S.A.という歌はアメリカのカントリー歌手リー・グリーンウッドが 1984年にリリースしてヒットした愛国歌で、当時のレーガン大統領が共和党の全国大会で使用して話題になりました。その後も湾岸戦争や9・11同時多発テロ事件などの時代にたびたびリバイバルヒットしてアメリカの国威発揚に貢献してきた曲です。そして、コロナ禍やBlack Lives Matter運動で揺れる今年の独立記念日に向けて、作曲者のグリーンウッドが米空軍軍楽隊の歌手たちと共同で新バージョンを録音したというのです。

その内容は、アメリカに生まれたことの幸せを喜び、その自由を守るために死んだ人々(軍人)への感謝を表明し、「アメリカ合衆国に神の祝福あれ」と歌うものです。

さて、この動画を送ってくれたアメリカ人牧師は、この歌に感動してシェアしてくれたわけではありません。その反対で、彼はこの歌でアメリカの愛国心が宗教的な熱意をもって讃えられていることに戦慄したと言います。そして、私に動画の感想を求めてこられました。それに対して返信した内容に、多少手を加えてこちらにも転載します: 続きを読む