『聖書信仰とその諸問題』への応答4(藤本満師)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第4回目です。

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4.「原典において無誤」――無誤に執着?

今回は、『諸問題』への直接の応答ではなく、逐語霊感説やシカゴ声明の「無誤論」への違和感として、一つの問題を提起してみます。

2014年、日本の福音主義神学会で聖書信仰が論じられた同じ年に、米国福音主義神学会でも聖書の「無誤論」をどのように理解すべきか論じられました。主題講演を担った一人、ベン・ウィザリントン(Ben Witherington Ⅲ)はメソジストで、ケンタッキーの福音的なアズベリー神学校で新約学を専門に教鞭を執っています。

彼は講演の中で、福音派で定着した「原典において無誤である」という表現に違和感を覚えると述べています。もともとこの表現は、20世紀の初頭、リベラリズムからの脅威に対抗するために、プリンストンのA. A. ホッジが作り出した表現です。それが、あたかも福音派聖書論の砦であるかのように用いられてきました。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答3(藤本満師)

その1 その2

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第3回目をお送りします。

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3 シカゴ声明のローカルでヒストリカルな限定性

『聖書信仰とその諸問題』(聖書神学舎教師会編)にその要約版が所収されている『聖書の無誤性を巡る五つの見解』については投稿1ですでに触れました。5つの見解の3番目に登場するのが、オーストラリアの気鋭な福音主義神学者マイケル・バードです。彼は自分の見解に「国際的な観点から見た無誤性」とタイトルをつけ、「無誤性」は米国の外にある福音主義にとっては必要ではない、とまとめています。無誤に代わる用語として、シカゴ声明の第9項で用いられている「真の、信頼できる」(true and trustworthy)啓示の書とするので良いのではないか、と。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師)

その1

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回目です。第1回目の記事には多くのアクセスをいただき、投稿当日の当ブログアクセス数はこれまでの最高記録を更新しました。この主題についてどのような立場を取るにせよ、関心の高さを感じています。寄稿くださっている藤本先生には心から感謝しています。

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2 1970~80年代日本の福音派における論争

『聖書信仰とその諸問題』(以下、『諸問題』)では、1970~80年代における福音派内の論争を拙著よりも詳しく取り扱っています(27~32頁)。その中で、JPC(日本プロテスタント聖書信仰同盟)の機関誌であった『聖書信仰』編集の責任をもちながら、その「ゆらぎ」の故に1983年のJPCの総会において、村瀬俊夫氏とともに引責辞任をした中澤啓介氏のことも取り上げてくださいました。感謝なことに、中澤氏の言葉が引用されています。

「その総会後、本論文を執筆した筆者(中澤氏)と機関誌の編集長だった村瀬俊夫氏は、引責辞任することになった。筆者は、本論文の中身はあまりに常識的なものであり、なぜこの程度のことが問題視されるのかがわからなかった。ただ、日本の福音派の神学的状況は、欧米に比べてかなり遅れていることだけは明らかになった。日本の福音派が、自らの聖書学と神学方法論は近代の認識論哲学以前のスコットランド常識哲学に基づいていることに気づき、その狭い神学的ゲットーから脱却しない限り、未来の展望は開かれていかない。筆者自身は、そのように確信した。そこで、しばらくの間福音派の中では冬眠することを決め込んだ」(『諸問題』、29~30頁)。

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新しい世界のはじまり

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5:17)

2019年が始まりました。ところで、1年の始まりはなぜ1月1日なのか、考えたことはおありでしょうか。日本の暦では月の名称に数字が使われているので、1月が1番目の月というのは当たり前に思うかも知れません。しかし、たとえば英語のJanuaryはローマ神話のヤーヌス神から来ているもので、必ずしも最初の月である必然性はありません。実際、古代ローマでは一年の始まりは今で言う3月でしたが、ユリウス・カエサルがユリウス暦を導入したとき、1年の始まりをIanuarius(January)にし、それが現行のグレゴリオ暦にも受け継がれたと言います。

実際、世界では私たちと異なる暦のサイクルにしたがって生活している、あるいは複数のカレンダーを同時に生きている人々がたくさんいます。たとえば、中国を中心にアジアで広く祝われている旧正月は1-2月頃、今年2019年の旧正月は2月5日になります。一方キリスト教会には「教会暦」というものがありますが、教会暦の1年はアドベント(待降節)と呼ばれる期間から始まります。これはクリスマスの約4週間前の日曜日から始まりますので、クリスチャンにとっては今年は2018年12月2日に始まっていることになります(教会暦がキリスト教信仰についてもっている意味については、過去記事を参照)。したがって、アジアに住むクリスチャンの中には「新年」を3回迎える人もいることになります。

要するに、新年の区切りは恣意的なものであると言えます。12月31日と1月1日は客観的にそれほど違うわけではありません。太陽の周りを回っている地球の位置がほんの少しずれただけにすぎないのです。国立天文台のサイトでは、「天文学上の理由があって『1月1日をこの日とする』と決めたものではない」とはっきりと書かれています。

しかし不思議なもので、ひとたびこの日を1年の始まりと決めると、こんどはそれによって私たちの意識や生き方が変わってくるのです。毎年多くの人々が家をきよめて新年を迎え、初詣や教会の新年礼拝などの行事を通して、新しい気持ちで一年を始めようとします。私たちの世界観は私たちの行動に大きな影響を与えているのです。 続きを読む

さいごに残るもの

2018年も終わりに近づきました。この一年は私と家族にとって大きな変化の年になりました。

別れがあり、出遭いがありました。
失ったものがあり、得たものがありました。
引き抜かれ、植えられる体験をしました。
苦しみがあり、喜びがありました。

これまでの歩みを振り返るとき、気づかされることがあります。それは、私たちの目によいと思えることも、悪と思えることも、すべては過ぎ去っていくことです。すべてが私たちの前を幻影のように通り過ぎていったとき、いったい何が残るだろうかと考えさせられます。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師)

以前当ブログで藤本満先生の著書『聖書信仰 その歴史と可能性』(いのちのことば社)の紹介をさせていただき、それに関連して先生にゲスト投稿をいただいたこともありました。

『聖書信仰』は現代日本の福音派プロテスタント教会の聖書観のルーツを歴史的に検証し、その意義を問い直す意欲作でしたが、福音派内で活発な論議を呼び起こしました。そんな中、同じいのちのことば社から『聖書信仰とその諸問題』が出版されました。同書は藤本先生の『聖書信仰』だけをとりあげて論じた本ではありませんが、藤本先生の名前は随所に登場してその主張にたいする反論がなされています。表題からしても『聖書信仰』が中心的な批判対象であることはほぼ間違いないと言ってよいでしょう。

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私はこのような問題に関してオープンな議論ができる雰囲気を作ることこそが、キリスト教会の健全化につながると考えていますので、こうした動きは歓迎したいと思いますし、異なる立場の方々の間でさらなる対話が進んでいくことを願っていました。

そんな中、嬉しいニュースが飛び込んできました。藤本先生ご本人より、この本に対して応答を計画しておられるので、それを当ブログ上で寄稿できないかというお問い合わせをいただいたのです。願ってもないお申し出に、二つ返事でお引き受けさせていただきました。これを機に聖書信仰に関する議論がさらに深まっていくことを願っています。貴重な投稿をいただいた藤本先生には心から感謝いたします。 続きを読む

きよしこの夜

するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章13-14節)

snowy-night

クリスマスに関連して、何年か前に偶然耳にして衝撃を受けた曲があります。それは旧ソ連の作曲家アリフレート・シュニトケによる「きよしこの夜 Stille Nacht」です。同名の有名なクリスマス・キャロルに基づいて作られた曲なのですが・・・まずはお聴きください。 続きを読む