黙示録における「暴力」

5月29日の福音主義神学会東部部会での研究会は100名を超える方々が参加してくださり、とても有意義な時を持つことができました。

会では南野浩則先生「旧約聖書の平和論」と題してたいへん有意義な講演を行ってくださいました。個人的に強く共感を覚えたのは、旧約聖書には平和に関して多様な声があり、それに対して現代に生きる私たちがどのような解釈を行うかの責任を与えられている、ということでした。聖書解釈における読者の重要性は先生のご著書『聖書を解釈するということ』においても論じられていますが、これまで福音派の聖書解釈ではあまり強調されてこなかった重要な論点であると思います。

私は「新約聖書の平和論―黙示録を中心に」と題して、特に黙示録における暴力表現をどう解釈するか、という主題でお話させていただきました。以下に脚注等を除き聖書引用等多少手を加えたダイジェスト版を掲載します。

アルブレヒト・デューラー「黙示録の四騎士」

新約聖書の平和論―黙示録を中心に

I.はじめに

今回の発表に関して、福音主義神学会東部部会より「新約聖書の平和論」というテーマを頂いた。これは広範囲にわたる主題であり、発表者の能力的にも時間的制約から言っても新約聖書全体を取り上げることは難しい。そこで今回は、ヨハネの黙示録に絞って平和の問題を考えてみたい。黙示録を取り上げたのは、新約聖書全巻の中で、この書がもっとも平和から遠い、「暴力的な書」というイメージを持たれているからでもある。たとえば英国の作家D・H・ロレンスは、黙示録が体現しているのはイエスやパウロらの宗教とは異なる別種のキリスト教であり、この書は敵を憎悪し世界の破滅を欲する「聖書全篇のうち最もいまわしい一篇」である、と断罪する(『黙示録論』)。米国の聖書学者アデラ・ヤーブロ・コリンズは、黙示録がローマに対する暴力的抵抗を促すものではないと認めつつも、それは他者に対する激しい攻撃的感情をかき立てるものであって、愛に欠けるものであると批判する(Crisis and Catharsis, 156-61, 170-75)。

福音主義的キリスト者の中でさえ、黙示録における暴力を肯定する見解があり、しかもそれは大衆文化にも大きな影響を及ぼしている。たとえば米国を中心として世界的なベストセラーとなった『レフトビハインド』シリーズの最終巻において、再臨のキリストが神に敵対する人々を文字通り虐殺する様子が描かれている:

レイフォードがのぞいている双眼鏡の先では、男女の兵士や馬が立っているその場で爆発しているようだった。主のことばそのものが彼らの血を過熱させ,それが血管と皮膚を突き破っているかのようだった。「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」何万という歩兵が持っていた武器を落とし、自分の頭か胸をつかみ、膝をつき、身をよじりながら、目に見えない何かでばらばらに切り裂かれていった。はらわたが砂漠の床に流れ出し、そのまわりで逃げまどう者たちも殺され、血があふれ、キリストの栄光の容赦ない輝きのなかでその嵩を増していった。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える」反キリストの軍隊が主の虐殺のいけにえの動物になったかのようだった。

ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズ『グロリアス・アピアリング』258-59頁

この箇所は黙示録19:11–21、特に15節(「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。」)に基づいているようである。再臨のキリストの口から出る「剣」、すなわちキリストのことばが文字通り敵を虐殺するという解釈である。さらにこのシリーズでは神が暴力的に描かれているというだけではない。神の民であるキリスト者もまた、神の暴力に参加するという名目で暴力を振るうことが正当化されるのである。

このような現状から、2つの問題提起を行いたい。①黙示録はキリスト者に対して悪に対して暴力を用いて戦う/抵抗することを求めているのか、そして②黙示録の神/キリストは終末のさばきにおいて文字通りの暴力を用いるのか、である。キリスト教倫理としての平和論を考える際には①が中心となるだろうが、①と②は切り離すことができない。キリスト者の行動にはその神観が多かれ少なかれ影響を及ぼすはずだからである。同時にこの2つは同じものではない。クリスチャンは非暴力的に悪に抵抗しつつ、終末における神の暴力的なさばきを待ち望む/祈り求めるということもありうるからである。したがって本発表では、キリスト者の勝利と、神/キリストの勝利という2つの主題において、暴力がどのように関係してくるかについて、黙示録の関連箇所の分析を含めつつ考えたい。

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キリスト教と愛国心

知人のアメリカ人牧師から、今年の7月4日のアメリカ合衆国独立記念日に向けてリリースされたという歌の動画リンクが送られてきました。

このGod Bless the U.S.A.という歌はアメリカのカントリー歌手リー・グリーンウッドが 1984年にリリースしてヒットした愛国歌で、当時のレーガン大統領が共和党の全国大会で使用して話題になりました。その後も湾岸戦争や9・11同時多発テロ事件などの時代にたびたびリバイバルヒットしてアメリカの国威発揚に貢献してきた曲です。そして、コロナ禍やBlack Lives Matter運動で揺れる今年の独立記念日に向けて、作曲者のグリーンウッドが米空軍軍楽隊の歌手たちと共同で新バージョンを録音したというのです。

その内容は、アメリカに生まれたことの幸せを喜び、その自由を守るために死んだ人々(軍人)への感謝を表明し、「アメリカ合衆国に神の祝福あれ」と歌うものです。

さて、この動画を送ってくれたアメリカ人牧師は、この歌に感動してシェアしてくれたわけではありません。その反対で、彼はこの歌でアメリカの愛国心が宗教的な熱意をもって讃えられていることに戦慄したと言います。そして、私に動画の感想を求めてこられました。それに対して返信した内容に、多少手を加えてこちらにも転載します: 続きを読む

力の支配に抗して(2)

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)

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前回は、シモーヌ・ヴェイユのエッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」に基づいて、万人を奴隷にする力の支配について考えました。

誤解のないように書いておきますと、このエッセイが好きだからと言って、私はヴェイユがそこに書いている内容のすべてを肯定しているわけではありません。それどころか、プラトン的な二元論、またキリスト教のヘブライ的ルーツに対する不当に低い評価といった、個人的にまったく同意しかねる部分もあります。けれども、そのためにこのエッセイ全体を否定するのは、まさに産湯とともに赤子を捨ててしまうような愚であると思います。私にとってヴェイユが典型ですが、ひとりの人の思想の中に、まったく同意できない部分と、おおいに共感できる部分が同居していることがあります。そこがヴェイユの不思議な魅力になっているとも言えます(過去記事「クリスマスの星」も参照)。

ともあれ、前回紹介した彼女の「力」の概念は非常にすぐれた洞察であり、今日もその輝きを失ってはいません。むしろその意義はますます大きくなっていると言えます。今回はこれを足がかりに、新約聖書に目を向けてみたいと思います。 続きを読む

映画「パウロ~愛と赦しの物語」

私はふだんあまり映画を観る方ではありませんが、先週の金曜日に、11月に日本公開される映画「パウロ~愛と赦しの物語」公式サイト)の試写会に行ってきました(ご招待くださったいのちのことば社様に感謝します)。日本公開前の映画ですので、その内容を細かく紹介することは控えたいと思いますが、試写を観た感想を簡単に記したいと思います。

この映画は使徒パウロの最後の日々を描いたものです。皇帝ネロによって帝都ローマのクリスチャンたちは壮絶な迫害を体験していましたが、その中で捕らえられたパウロは死刑を宣告され、牢獄で死を待つ身となっていました。そんなパウロを福音書記者ルカが訪れるところから話は始まります。ストーリーはこの二人と、ローマのクリスチャンたち、そしてパウロを収監するローマ人の看守長を中心に展開していきます。 続きを読む

神がデスヴォイスで歌うとき(5)

するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。
イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。
(ルカの福音書9章49-50節)

(過去記事 1 2 3 4

まずは次の歌の歌詞をお読みください(英語からの私訳です):

自分の魂の救いについて、考えたことがあるのか
それとも、死んだら墓場で終わりと思っているのか
神はおまえの一部なのか、それとも頭の中の観念に過ぎないのか
キリストは学校の教科書に載っていた名前に過ぎないのか

死について考えるとき、息苦しくなるか、それとも冷静でいられるのか
教皇が苦境に立つのを見たいのか、彼は馬鹿だと思っているのか
でも俺は真理を見いだした。そうさ俺は光を見て、変えられたんだ
人生の終わりに、おまえが独りぼっちでおののくとき、俺は準備ができているのさ

それともおまえは仲間に何と言われるか恐れているのか
おまえが天の神を信じていると知った時に
奴らは批判する前に気づくべきなんだ
神が愛への唯一の道だってことを

群れがどこに向かって暴走しようとも従うしかない
おまえの心はそんなにちっぽけなのか
死を前にしたとき、それでもおまえはあざけって言うのか
太陽を拝んだほうがまだましだと

キリストを十字架につけたのは、おまえのような奴らだったのだ
おまえが持っていた意見が唯一の選択肢だったとは悲しむべきことだ
最期が迫ったとき、神など信じないと言えるほど、確信があるのか
チャンスがあったのに、おまえは拒絶した。もう後戻りはできない

神は死んでいなくなったという前に、もう一度考えてみるがいい
目を開けて分かってくれ、神しかいないってことを
神だけがおまえをすべての罪と憎しみから救える方なんだ
それともまだ、すべてをあざ笑うつもりか? そうか!それなら、もう手遅れだ

さて、これはいったい誰の歌か、ご存知でしょうか? 続きを読む

グレッグ・ボイド・インタビュー(7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

7回にわたって連載してきたグレッグ・ボイド博士のインタビューも今回が最終回です。今回も前回に引き続き、先生の最新刊、The Crucifixion of the Warrior God (十字架につけられた戦いの神)についてお聞きします。

*     *     *

――旧約聖書において神を暴力的な存在として描いているように見えるテクストは、どういう意味で霊感された権威ある神のことばだと言えるのでしょうか? 続きを読む

グレッグ・ボイド・インタビュー(6)

その1 その2 その3 その4 その5

今回からはボイド博士の最新刊についてお話を伺います。十字架の上で人類のためにいのちを捨てた愛の神イエス・キリストを礼拝するクリスチャンにとって、旧約聖書における、一見暴力に満ちた神の描写は大きな問題を引き起こします。このことについて、どう考えたらよいのでしょうか?

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*     *     *

――今度出版される先生の著書、The Crucifixion of the Warrior God (十字架につけられた戦いの神)について教えてください。

GB:現在(注:2016年12月19日)、ゲラ刷りの校正に追われているところです。今度の本は2巻本で合計およそ1,500ページになります。当初はこれほどの長さにする計画ではなかったのですが、だんだんと内容が発展してこうなってしまいました。私が言おうとしていることは――すくなくとも現代の聞き手にとっては――目新しいことなので、細かい部分まで気を配って準備をする必要がありました。ですから私はとにかく徹底的に調べ尽くしたのです。けれどもそれは楽しい体験でした。

最初に私が論じたのは、私たちが神について考えることがらすべての中心に、イエスを位置づけなければならないということです。このことを2章にわたって論じています。さらに2章を費やして、イエスのアイデンティティ、生涯、働きのすべての中心にあるのは十字架だということを論じました。十字架はイエスに関するあらゆるものの中心的主題なのです。そして十字架が啓示する神は、自己犠牲的で、非暴力的で、敵をも受け入れるような神だということです。神は敵を殺そうとされるお方ではなく、むしろ敵のためにいのちを捨てられるお方です。 続きを読む

確かさという名の偶像(24)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20 21 22 23

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に続いて第12章「十字架の約束」を見ていきます。

私たちのアイデンティティ

ボイドによると、十字架において神が与えてくださる第二の約束は、私たちについてのことばです。これは前回紹介した、神ご自身についてのことばにすでに暗示されているものです。それは、私たちの存在そのものが、神によって愛されているということです。

ボイドによると、アダムとエバの堕落以来、人間は神と親密な関係をもって、そこからいのちを得ていくためには、あるがままの存在でいるだけでは不十分であり、何か特定の行為を行ったり、特定のものを獲得しなければならないと思い込むようになりました。私たちのアイデンティティ・価値・存在意義・安心は私たちが何を持っているか、何を達成できるか等々によって定義されるようになってしまったのです。ボイドの表現を借りれば、人間はhuman beingからhuman doingになってしまったのです。これは前回見た、誤った神観に基づいて起こる神からの疎外の主要な現れです。

ボイドは、十字架上のイエスの姿は神がどのようなお方であるかを示しているだけでなく、私たち自身がどのような存在であるかを表していると言います。なぜなら、贖われるものの価値は、そのために支払われる代価によって計られるからです。それでは、神が私たちをキリストの花嫁とするために支払ってくださった代価とは何でしょうか?キリストが十字架にかかられたとき、彼は私たちの罪そのものとなり(2コリント5章21節)、のろいとなってくださいました(ガラテヤ3章13節)。罪やのろいは聖なる神のご性質とまったく相反するものです。つまり、神は私たちへの無限の愛のゆえに、ご自分とは正反対の存在になることさえ辞さなかったのです。ボイドは、これは神が払うことのできる最高の犠牲であると言います。そしてそのことは、私たちが神の目から見て最高に価値のある存在であることを示しているのです。つまり、神はいま実際に私たちをこれ以上ないほどの偉大な愛を持って愛してくださっているということになります。私たちは今すでに、神の目にはこの上なく価値ある存在なのです。神からさらに愛されるために、何かをしたり何かを獲得したりする必要はまったくありません。

そして、この最高の愛は、三位一体の神が永遠に持っておられる愛と同じであるとボイドは言います。十字架で表現されているのは、私たちにそのような愛の交わりに加わるようにとの招きなのです(ヨハネ17章26節、エペソ1章4-6節、2ペテロ1章4節、1ヨハネ3章16節、4章8節参照)。

そして、このような揺るぐことのない完全な神の愛は、まったく無条件の愛であることをボイドは強調します。そしてこのことは、私たちのアイデンティティ形成にとって大変重要です。このような無条件の愛で愛されているということをアイデンティティの中核に持っている人は、人生の道中で何が起ころうとも、いのちにあふれた揺るがされない歩みをすることができるとボイドは言います。なぜならその人は、自分が何を持っているかいないか、あるいは何をするかしないかによって、自分に注がれている神の愛が減じることはけっしてないということを知っているからです。

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私たちの将来

十字架で与えられる三番目の約束は、私たちの将来に関することばです。これは第一(神についてのことば)と第二(私たちについてのことば)の約束の中に暗示されているものです。

ボイドによると、ここで決定的に重要なのは、十字架を復活と密接に結びついたものとしてとらえることです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあるのです。少し長いですが、彼自身のことばを引用します。

私たちが十字架を復活と切り離して考えるなら、十字架につけられたキリストは1世紀のローマ人によって苦しめられ処刑された何千人もの犯罪者の一人に過ぎないことになる。そして、もし復活を十字架と密接に結びついたものとして考えることをやめてしまうなら、それはいともたやすく勝利主義的な超自然的力の爆発となってしまう。それは敵を愛する自己犠牲的な十字架の性質を欠いているだけでなく、それを覆してしまうのである。

実際、西洋の神学の中には、十字架に至るイエスの生涯に反映されているような、へりくだった自己犠牲的なアプローチを神が取られたのは、人間の罪のあがないをするためにはイエスが十字架にかかる必要があったからだ、という思想の系譜がある。このまちがった考え方によると、ひとたびこのことがなしとげられるなら、神は再びその圧倒的な力を容赦なくふるってその意志を地上で達成し、悪に勝利することができる。これが復活の意味するところだ、というのである。このような考え方に基づいて、神学者たちはクリスチャンの支配者や兵士やその他の人々に、神はすべてのクリスチャンが敵を愛する非暴力的なイエスの模範と教えに従うことを意図してはおられない、と請け合うことができたのである。不幸なことに、クリスチャンがイエスの教えと模範を脇に置いて、異端者を拷問し、敵を虐殺し、国々を征服する必要を感じる時はいつも、この考え方はたいへん好都合であった。

誰も口に出して認めようとはしてこなかったものの、このようなものの見方が示唆していることは、イエスの謙遜なしもべとしての生き方や、敵を愛し祝福せよという教え、そして何よりもその自己犠牲的な死は、神の真のご性質をすのではなく、おおい隠すものだということなのである!もし私たちが正直に認めるなら、それが暗示しているのは、神がキリストにおいてへりくだった姿勢を取られたのは、ただそのようなふりをしていただけだと言うことになる。神の真のご性質は、彼が十字架につけられたキリストではなく宇宙の皇帝のように振る舞うとき、すなわちご自分の計画を完遂し、その目的を達成するために十字架を担うのではなく、その全能の力を働かせる時に表される、ということになってしまうのである。(p. 242-243)

しかし、このような考え方は、すでに見たような、神の究極の自己啓示は十字架につけられたイエス・キリストであるということと真っ向から矛盾します。そこでボイドは十字架と復活をひとつながりのできごとの両側面ととらえることを提案し、このひとまとまりのできごとを「十字架=復活のできごとcross-resurrection event」と呼びます。それは次のことを意味しています。

復活は神の子が罪と死と地獄の力に勝利したということだけでなく、御子が悪に打ち勝った方法が、神ご自身が悪に打ち勝つ方法でもあることを裏づける。したがってこのことは、謙遜なしもべとしてのイエスの生き方と、敵を愛し祝福せよというその教え、そして特に彼の自己犠牲的な死が、神の真のまた永遠のご性質をおおい隠すのではなく明らかにするということを裏づけるのである。(p.244)

このことはさらに、新約聖書ではイエスを信じてその復活のいのちに与った者たちも、イエスがなさったのと同じ方法で悪に応答するように命じられていることからも裏づけられます(ローマ12章17-21節など)。パウロはまたキリストとその福音のために苦しむ生き方を教えていますが(2コリント1章5節、4章10節、2テモテ1章8節など)、それはまさに復活の力によって生きる生き方にほかならないとボイドは論じます。

ただし、私たちがキリストとともに耐え忍ばなければならない「苦しみ」とは、愛する者を失ったり、不治の病にかかったりというような、この世における「通常の苦しみ」のことではないとボイドは言います。もちろんそのような種類の苦しみも神の御手に委ねて行く必要があり、神は私たちとともに働いて苦しみから善を生み出すことがおできになります。その意味でそういった種類の苦しみが私たちを成長させることも確かにあります。けれども、私たちがキリストの似姿に変えられていく過程でどうしても通らなければならない苦しみ、新約聖書が語っているような「キリストとともに苦しむ」種類の苦しみとは、キリスト者に特有の苦しみ、キリストに従うがゆえに起こってくる種類の苦しみだとボイドは言います。そこには日々古い自我を十字架につける苦しみから始まり、クリスチャンであるがゆえに周囲の人々から拒絶されたり疎外されたりする苦しみを含み、人によっては明確な迫害、拷問、死などに直面することもあります。これらはみな「キリストとともに受ける苦しみ」なのです。キリストの十字架と復活が私たちに約束しているのは、このようにキリストと苦しみをともにしていくなら、私たちは最終的には彼とともに勝利し、統べ治めるようになるということです。それと同時に、十字架と復活は、イエスのやり方で悪に立ち向かうことこそが最終的には勝利するということを示しているのです。

そして、十字架において与えられた将来の約束は、花婿であるキリストが必ず帰ってくるということも意味しています。その時私たちの婚約期間は終わり、私たちは花婿イエスと婚宴の宴に連なることができます(黙示録19章9節)。そして同様に、私たちは神が最後にはかならず私たち一人ひとりをキリストのご性質を反映する存在に作りかえてくださることを確信することができます。十字架において表された神の真実と愛に基づいて、私たちは神が必ずこのフィナーレまで導いてくださることを確信することができるとボイドは言います。その時、まことのいのちに対する私たちの飢え渇きは完全にいやされるのです。

(続く)

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。