今年の6月に南野浩則先生の『聖書を解釈するということ―神のことばを人の言語で読む』(いのちのことば社)が出版され、早速読んでとても感銘を受けました。

南野先生は福音聖書神学校で教鞭を執っておられ、私も福音主義神学会などでお世話になっている先生です。このたびクリスチャン新聞に私が書いた書評が掲載されましたので、同紙の許可を得てその全文を掲載させていただきます(クリスチャン新聞のリンクはこちら)。
多様性と幅を許容する聖書解釈―新たな議論の糸口に
「聖書のみ」を掲げるプロテスタント教会において、聖書解釈は極めて重要な位置を占めている。本書は聖書解釈の理論的側面について、日本語で福音派の立場から書かれた良書である。著者は聖書を、神のことばであると同時に人間の言語を用いて生み出されたテクストとして捉える。それは具体的な歴史的文書として成立し、信仰共同体の正典として受け継がれ、具体的な歴史の中に生きる読者によって読まれるものである。このような聖書の性質に基づいて、著者は聖書を解釈するとはどういうことかを考察していく。
従来の福音派の聖書解釈においては、聖書テクストには著者(究極的には神)が意図した唯一の「意味」があり、それは適切な解釈作業によって取り出すことが可能であると考えられてきた。それは理想的には誰が解釈しても同じ結論に達するべきものであり、その意味では具体的な読者の存在は解釈の枠組みから除外されてきた(もちろん、福音派においても「現代への適用」は重視されてきたが、それはテクストの「オリジナルの意味」を取り扱う釈義とは厳密に区別されている)。
しかし著者は、聖書解釈の作業は単純な一方向の営みではなく、テクストの統一性と多様性、また現在と過去の綱引きの中で生じるダイナミックで複雑なプロセスであり、その解釈には一定の幅が生じるという。このような幅や多様性を許容しようという立場は「ポスト・モダン的」などと呼ばれて、従来の福音派では否定的に受け取られがちであった(もっとも著者自身は、本書のアプローチはポスト・モダンではなく、モダニズムの一形態であると述べているが)。しかし、このような柔軟で幅のあるアプローチを通してこそ、歴史的文書である聖書が神のことばとしてあらゆる時代の人々に語りかけるという、聖書の生き生きとしたダイナミズムをよりよく理解できるのではないだろうか。
本書が日本の福音派諸教会における活発な議論の糸口となることを願ってやまない。
(以上書評)
この書評では字数の関係で詳しく紹介することはできませんでしたが、記号論なども援用しつつ、言語や意味といったレベルから説き起こして、聖書を解釈するとはどういうことなのかが丁寧に論じられています。そして、聖書解釈において読者が持つ役割に対して、非常に積極的な意義を見出しているのも好感が持てました。
福音派の立場で書かれた日本語で読める聖書解釈のテキストとしては、ゴードン・フィーとダグラス・スチュワート共著『聖書を正しく読むために』が同じいのちのことば社から出ており、国内外の福音派の神学校で用いられていますが、南野先生の本は実際の釈義の方法論と言うよりは、より理論的な領域に踏み込んで書いておられるので、非常に読み応えがあると思います。おすすめです。