「イスラエル」とは何か(『舟の右側』掲載記事)

本日発売された『舟の右側』2023年12月号「『イスラエル』とは何か? 聖書のグランド・ナラティヴからの考察」と題した記事を書きました。

この記事はイスラエルとハマスの軍事衝突を受けて書かれたものではありますが、直接的に現在のイスラエル/中東問題を論じたものではありません。むしろ、聖書のグランドナラティヴの中で「イスラエル」という存在がどのような役割を果たしてきたのか、という点に絞って書かれています。しかし、結論部分で私はこう書きました。

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パレスチナ人クリスチャンの声(1)

7日早朝に始まった、パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスによるイスラエルへの大規模攻撃と、イスラエルによる報復は双方に甚大な被害を出し、近年なかったほどに緊張が高まっています。

キリスト教会の一部には、イスラエル国を無条件で支持する人々がいます。それはある種の聖書解釈に基づいて、1948年のイスラエル建国を聖書預言の成就と考えるところから来ていると思われます。今回のできごとに関しても、「イスラエルのために祈ろう」という声をネット上で何度も耳にしました。もちろん、悲惨な状況の中にあるイスラエルの人々のために祈ることはぜひとも必要なことですが、イスラエルだけのために祈るのではなく、イスラエル/パレスチナ問題の複雑な状況を見据えて、当該地域に根本的な平和が訪れるように祈っていく必要があります。また、教会がイスラエルだけ無条件に支持する(つまり神はつねにイスラエル国の側に立つと考える)ことがあるとするならば、その神学的根拠を問い直していくことは必要でしょう。

そのような複雑な状況の一側面として、パレスチナ人の中にもキリスト教徒がいるという事実に目を留めることも、こうした時には有益だと思います。彼らはその民族的・宗教的アイデンティティのゆえに様々な意味でマイノリティとして抑圧されています。

私はこれまでの人生の中で、そのようなパレスチナ人クリスチャンの方々と知り合う機会を与えられてきました。今回はその一人、ヨハンナ・カタナチョー師が7日に書いた記事を紹介します。(本人の許可を得て翻訳・転載します。元記事はこちら)。カタナチョー博士はナザレ福音主義大学の教務主任であり、私とトリニティー神学校の博士課程で共に学んだ友人でもあります。

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教会史上最初のメッセージ

今週の日曜日(2023年7月30日)は畏友・山口希生先生の牧会されている中原キリスト教会(日本同盟基督教団)で礼拝説教のご奉仕に伺い、使徒行伝2章36節から「教会の最初のメッセージ」と題してお話をさせていただきました。

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(新改訳第3版)

使徒行伝2章に収められているペテロの説教は、ペンテコステの日に聖霊が注がれ、教会が誕生したその日に語られたものですので、教会史上最初の説教であると言えます。そこで語られているメッセージは、すべてのキリスト教会の説教の基礎となるような重要なものと言えます。それでは、そこで語られたメッセージの要点とは何だったのでしょうか?

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イスラエルの王イエス(2)

前回の記事では、マタイとルカの福音書における降誕物語において、イエスがイスラエルの王(メシア)として描かれていることを見ました。それでは、このことは現代の(大部分異邦人である)クリスチャンに対して、どのような意味があるのでしょうか?

私たちは二千年前に人として来られたイエス・キリストをイスラエルの王として理解する時、その到来と救いのわざを、歴史の中で何の背景もなく単発で起こったものではなく、神がなさっておられる大きな救いのご計画の中にあるものとして捉えることができるようになります。

ある意味では、たしかにイエスは全人類を罪から救うために来られたと言えるでしょう。けれどももし私たちが、イエスがイスラエルのメシアとして、神の民を回復するために来られた、という事実をバイパスして「全人類の救い主」という結論に飛びついてしまうならば、イエスの救いのわざはイスラエルの歴史とは切り離されてしまいます。もしそうなら、イエスはユダヤ人として生まれなくても良かったですし、そもそも「キリスト(イスラエルの王)」という称号そのものが無意味なものになってしまいます。

けれども、イエスはイスラエルを回復し解放する王として来られました。それは、旧約聖書のイスラエルの希望を成就するためだったのです。そしてイスラエルの希望は、ただたんに全人類が救われるということではなく、もっと具体的に、イスラエルが慰められることであり(ルカ2:25)、エルサレムが救われることでした(2:38)。

それでは、イスラエルの回復(解放・救いと言ってもいいですが)は、なぜそれほど大切なのでしょうか? それは単なる自民族中心的な願望だったのでしょうか? そうではありません。それは、聖書全体を貫く神の救いの計画と関わっているのです。

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イスラエルの王イエス(1)

今年もアドベント(待降節)に入りました。イエス・キリストの最初の到来(クリスマス)を覚え、次なる到来(再臨)を待ち望む期間です。そこでこの機会に、イエスの到来の意味について考えてみたいと思います。

マタイ福音書から、イエスの誕生告知の箇所を取り上げます。

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。
(マタイ1:18-25)

ルカ福音書の降誕物語もそうですが、マタイによる降誕物語もユダヤ的な色彩が濃厚です。そのことは、冒頭の「イエス・キリスト」という言葉からも明らかです。

今日では「イエス・キリスト」という表現は固有名詞のように扱われていますが、もともと「キリスト」という表現は固有名ではなく「油注がれた者(メシア)」を意味する称号です。イエスが生まれた当時、これはイスラエルを解放する王として理解されていました。したがって、マタイがこの書き出しで言おうとしていることは、「イスラエルの王であるイエスの誕生の次第はこうであった」ということなのです。

イエスがイスラエルの王として到来した、ということは、マタイ福音書の冒頭部分の系図でも明らかです。

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。(1:1)

ここでも、マタイは「イスラエルのメシア(王)であるイエス」の系図について、アブラハムからダビデ王を通ってイエスに至るまでの系図を示しています。

2章ではイエスが誕生した後のエピソードが語られますが、東方から来た博士たちがエルサレムのヘロデ王を訪れて、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と尋ねます(2:2)。

実際、福音書は一貫してイエスを「ユダヤ人の王」として描いており、その物語のクライマックスである受難記事においても、イエスはユダヤ人の王として描かれています。

さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。(マタイ27:11)

それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。(27:27-29)

そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。(27:37)

このように、イエスが福音書全体を通して「イスラエルのメシア(王)」として描かれているとするなら、クリスマスとは、イスラエルの王であるイエスが来られたできごとと言うことができます。このことは、私たちのクリスマス理解にどのように関わってくるのでしょうか?

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墓がひらくとき

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。
(マルコ16章1-4節)

昨日はイエス・キリストの復活を記念するイースター(復活祭)でした。イエスが十字架に架けられて殺されたとき、その遺体は岩を掘ってつくった墓に収められ、大きな石を転がして入口がふさがれました。そして四福音書はどれも、イエスが復活した日にその石が墓の入口から取り除かれたことを記しています。イエスの復活は、墓が開いたときであったのです。

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ジョン・ウォルトン博士来日講演(2)

昨日の投稿に続き、ホィートン大学の旧約学教授であるジョン・ウォルトン博士の来日講演会の内容を紹介します。5月14日(月)は福音主義神学会東部部会の主催で行われた、春期公開研究会での講演「創世記1章は何を語っているのか?~機能的コスモロジーの再発見~」に出席しました。

タイトルを見て分かるように、この講演は12日(土)に行われた講演会と同じ主題について行われました。しかし、神学会での講演ですので、前回よりも専門的な内容に踏み込んで話がなされました。そこで、この記事では、前回と重なる内容は割愛して、前の記事で詳しく触れなかった内容について、ポイントごとに紹介したいと思います。 続きを読む

世代から世代へ:現代イスラエルのメシアニック賛美

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。(黙示録7章9-10節)

私は、さまざまな言語、スタイルで神を賛美する音楽を聴くのが好きです。世界には実にさまざまな言語、種類の音楽があり、それは神が造られた世界の多様性、神の美の多様性とともに、上の黙示録の箇所にあるような、神が贖われた民の多様性を実感させてくれます。

今回は現代イスラエルのメシアニック・ジュー(ナザレのイエスをメシアと信じるユダヤ人)によるヘブライ語の賛美を紹介します。 続きを読む

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)

その1

山口希生さんによるゲスト投稿の2回目をお送りします。お忙しい中、寄稿してくださった山口さんに心より感謝します。

4月には山口さんを講師として『新約聖書と神の民』出版記念講演会も行われるとのことです(詳細はこちらこちらをご覧ください)。日本でのライトをめぐる議論がさらに活性化する、素晴らしい機会になると思います。

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『新約聖書と神の民』原書
The New Testament and the People of God

第二回

ユダヤ・キリスト教の創造主信仰

ユダヤ教とキリスト教が共有する根源的な信仰とは、この物質世界は善なる神の創られた世界であり、元来は非常に「良い」世界だったという信仰です。創造主である神への信仰ということです。この創造主信仰と対立するのは、物質的世界を劣ったもの、一時的なものと見なすプラトン主義、この世界が劣った神によって創造されたという「グノーシス主義」、さらにはサタンによって創造されたという「カタリ派」などの一群の宗教的思想です。これらの宗教思想は現世を悪い世として悲観的に見て、この世の人生の喜びを否定し、極端な禁欲主義を推奨します。キリスト教においても「この世との分離」が強調される面がありますので、一見するとグノーシス的禁欲主義もキリスト教的だと理解される場合があります。しかし、その根底にある世界観は全く正反対であると言えます。キリスト教が掲げるビジョンとは、この世の消滅ではなく刷新だからです。 続きを読む

確かさという名の偶像(11)

(シリーズ過去記事          10

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第2部「真の信仰」を概観します。前回までの記事では、第1部「偽りの信仰」の内容をかなり細かく紹介してきました。これからは少しスピードアップして、基本的に1回で1章の内容をカバーするようにしたいと思います。

前回までの記事では、今日のキリスト教会で広く見られる「確実性追求型の信仰」について、その問題点を考察してきました。第2部でボイドは、確実性を追求し、疑いを排除しようとする信仰のあり方は聖書的なものではないことを論じ、聖書的な信仰のあり方はどのようなものかを探っていきます。今回は第4章「神との格闘」です。

ボイドによると、聖書的な信仰とは真正さauthenticityに基づくものです。「確実性追求型信仰」は疑いを持つことを禁じ、疑いを抑圧しようとします。けれども、聖書的な信仰は、疑いや不平不満も含めて、自らと神に対して正直になろうとする態度に土台を置くものなのです。

ボイドはこのような信仰のあらわれを、創世記32章22-32節に記されているヤコブの物語に見いだします。彼はある人物(物語の中でそれは神ご自身であることが明らかにされます)と夜通し格闘し、その結果その名をヤコブからイスラエルに変えるように命じられます。

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天使と格闘するヤコブ(ギュスターヴ・ドレ)

この奇妙なナラティヴでヤコブは神との格闘の後、「イスラエル」という名前を授かります。「イスラエル」の語源については諸説ありますが、少なくとも創世記の文脈では、彼がこの名前を与えられたのは「神と人とに、力を争って勝ったから」だと説明されます(28節)。そしてヤコブはこの出来事の後、彼は「顔と顔を合わせて神を見た」と言います(30節)。

ボイドはこの記事について、ヤコブが神とこのような親密な関係を持つことができたのは、彼が祝福を受けるために神と格闘することも厭わなかった大胆さのゆえであったと言います。それだけではありません。この「イスラエル的な信仰」の姿勢は、彼の子孫である神の民「イスラエル人」の信仰に受け継がれていく聖書的な信仰であると言うのです。つまり、聖書に見られる「イスラエル的信仰」とは、神と格闘する用意のある信仰なのです。

ボイドはこのような「イスラエル的信仰」はたとえばヨブの信仰に見出すことができると言います。ヨブはヤコブの子孫ですらありませんが、「イスラエル的信仰」のモデルを提供していると言えます。神の許しの中でサタンによってもたらされた苦難に対し、ヨブは初めのうちは模範的な敬虔を持って耐えていますが、苦難がいや増すにつれて、自分がいわれのない苦しみを受けていると主張し、神に対して論争を挑むようになります:

あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む
(ヨブ13章2-3節)

ヨブ記の結論部分では主なる神ご自身が登場し、ヨブやその友人たち(彼らは因果応報的神学によってヨブの苦しみを説明しようとします)を沈黙させます。しかし、興味深いのはその結末です。神はヨブの信仰を賞賛されたのです!

主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」(ヨブ42章7節)

あれほど神に対して激しい言葉を投げかけたヨブがなぜ「正しい」とされたのでしょうか?これはヨブの「神学」が正しかったからではありません。彼自身、自分の無知を認め、悔い改めているのです(42章1-6節)。

ボイドは、神がヨブを賞賛されたのはその率直さのゆえであると言います。つまり、ヨブの「正しさ」とはその「率直さ」だったのです。ヨブの友人たちは自分たちの神学(「悪は罪の結果である」)にヨブの状況をあてはめようと躍起になっていました(「ヨブが苦しんでいるのは、彼が罪を犯したからだ」)。彼らは自分たちの神学が正しいことを証明することに、自分の安心を見出そうとしていました。これは「確実性追求型の信仰」であるとボイドは言います。これに対してヨブは正しい神学を持つことによってでもなく、敬虔な言葉を語ることによってでもなく、疑いを排除することによってでもなく、ただ神に対して率直に語ることによって、結果的に神に喜ばれる信仰を示したのです。

*     *     *

旧約聖書のイスラエルに見られた模範的信仰は、このような神に対する正直な態度、時には神に正面から怒りや不満をぶつけるほどの率直な態度によって特徴づけられています。実はこのような「イスラエル的信仰」は聖書時代よりもはるか後の時代までも受け継がれていきました。

ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の体験にもとづいて『夜』等の書物をあらわし、ノーベル平和賞を受賞したユダヤ人作家エリ・ウィーゼルは、あるインタビューで自分の信仰について次のように語っています。

私の信仰は傷ついた信仰です。けれども信仰がないわけではありません。私の人生は信仰なしの人生ではありません。私は神から離れたわけではありませんが、神と言い争い、議論し、問いかけ続けています。それは傷ついた信仰なのです。

ElieWiesel

エリ・ウィーゼル

ホロコーストを歌ったウィーゼルの詩「アニ・マアミン(われ信ず)」の中には次のような一節があります。

沈黙の神よ、語りたまえ。
残酷の神よ、微笑みたまえ。
ことばの神よ、答えたまえ。
義なる神よ、不義なる神よ、
ことばを裁き、行いを裁きたまえ。
犯罪を裁き、その手先を裁きたまえ。
臨在の神よ、不在の神よ、
あなたは万物のうちにおられる、
悪の中にさえも。
あなたは万物のうちにおられる、
何よりも、人の中に。
臨在の神よ、不在の神よ。
あなたはどこにおられるのか
この夜に?

ある意味ショッキングな内容ですが、これは想像を絶する悪を体験した信仰者のことばであることを理解する必要があります。何百万人ものユダヤ人たちが殺されていく現実の中で、沈黙を守られる神に対し、ウィーゼルは懇願し、問いかけ、また怒りや疑いをぶつけ、糾弾します。けれどもその表現がどれほど激烈なものであろうと、彼が神に向かって叫び続けるそのこと自体は、彼がまだ神を信じていることを示しているのです。この詩は最後はメシアを待ち望む祈りでしめくくられます。これはいわゆる「敬虔な信仰」ではないかもしれませんが、すくなくとも「真実な信仰」ということができるかもしれません。

神の喜ばれる聖書的信仰、「イスラエル的信仰」は、自らの疑いや問いかけ、神に対する不平などを「神学」や「敬虔」によって説明し去ったり覆い隠そうとするものではなく、それらすべてをそのまま神の前に注ぎ出し、ありのままの姿で神の前に出て行く信仰です。その時に初めて私たちは、「顔と顔を合わせて神を見る」ことができるのだと思います。

(続く)