聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿6)

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⑥痛みからいのちへ

前回の記事ではヨハネの福音書4章に出てくるサマリアの女性を取り上げました。

イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(ヨハネの福音書4章16-18節)

「夫がいない」というのは、彼女にとって大きな痛みでした。その痛みの事実を打ち明けたときのイエス・キリストの言葉は、なんて温かいんだろうと思います。「あなたにとって、その悩みを打ち明けるのは、勇気のいることだっただろう。痛みを伴うことだっただろう。でも、よく打ち明けてくれたね。ありがとう」私にはそんな風に聞こえるのです。

行為の是非を問うのではなく、誰かの痛みの声を聴くこと、そしてその痛みをともに痛んでいくことが、キリスト教倫理の出発点である。この連載ではそういうことを語ってきました。けれども、痛みを打ち明けるというのは大変なことです。自分の中にある傷と向き合い、ひとつひとう言語化していかなければできません。そして、それを開示するというのは、本当に信頼できる相手にしかできないこと、あるいは、本当に信頼できる相手にすらできないようなことです。だから、私たちは軽々しく相手に自己開示を求めてはいけないのです。そしてもしも誰かが痛みの声を打ち明けてくれたなら、その勇気をきちんと受け止めなければならないと思うのです。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿5)

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⑤イエス・キリストの真剣さ

(注:今回の記事には性についての様々な専門用語が出てきます。この記事の最後に用語の解説を載せますので、性についての専門用語になじみのない方は記事の最後から読んでいただければと思います)

前回までの内容をまとめてみましょう。前回まではキリスト教倫理の枠組みとも言える内容を扱っていました。キリスト教倫理とは単に〇×を判定するものではなく、神さまの目指すいのちの回復に向かっていくものです。そして、いのちの回復の手がかりとなるキーワードは痛みです。今回の記事では、こういった倫理を現代の問題に適用していきたいと思います。前回の最後に予告した通り、扱うのはセクシュアリティのゆえに疎外されている人たちの痛みです。

2017年に刊行された『聖書信仰の成熟を目指して』の中で多様な性のあり方についての言及があります。

LGBTを受け入れるのは、よりリベラルなキリスト教であって保守的なキリスト教ではないと思われています。(斉藤善樹「聖書は多様な性のあり方にどのように向き合うべきか」『聖書信仰の成熟を目指して』96頁)

この一文から二つのことがわかります。一つは、「保守的なキリスト教」は「LGBT」と呼ばれる人々を受け入れることができない現実があるということ。そして、「保守的なキリスト教」の人々が「LGBT」を拒否するという選択をしない人々に「リベラル」というレッテルを張っているということです。セクシュアリティのゆえに人を排斥すること、自分と立場の違う人にレッテルを張って拒絶すること、それは前回見たような「一つ」になるといういのちの回復とは真逆です。ちなみに、私は福音派教会の中で使われる「リベラル」という言葉が好きではありません。ご自身で誇りをもって「リベラル」を名乗る友人はいますが、残念ながら福音派の中では、自分と異なる立場の人を侮蔑するために「リベラル」という言葉が使われることが多いように思います。

この本が刊行されてから6年。現在はどうでしょうか。残念ながらあまり状況は変わっていないように思います。それに加えて、「教会を分裂させる」という理由でセクシュアリティについて語ることが忌避されているようにも思いますし、このことについて発言する人が「攻撃的」「戦闘的」に見られてしまう様子も見受けられます。

ですが、忘れてはいけないのは、「LGBT」は今はやりの論争テーマなどではなく、すでに傷つき、痛み、そしてそれでも生きている生身の人々のことなのだということです。「LGBT」が教会を分裂させるのではありません。すでにこの人々は、話題に上がろうと上がるまいと関係なく引き裂かれるような痛みを覚え、実際にいのちの交わりから引き裂かれているのです。

すでにそこにある痛みに対して、私たちはどのような倫理的態度をとっていくべきでしょうか。

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この世でよそ者として生きる(リチャード・ヘイズ教授講演より)

5月5日(金)に開かれた北東アジアキリスト者和解フォーラムに参加しました。このフォーラムは米国デューク大学の神学部と和解センターのイニシアティヴで始まったもので、今回が7回目になります。私自身は、韓国済州島で開催された昨年のフォーラムに続いて2回目の参加となります。今回は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、半日のみのオンラインでの開催になりましたが、多くの発見や励ましを受けました。

フォーラムには、日中韓米から招待された約150名以上のキリスト者が集いました(オンラインだからこそ参加できた人々も多く、参加者は例年より大幅に増えました)。参加者はカトリックやプロテスタントの聖職者や学者、パラチャーチ活動家、学生などさまざまで、非常に多様な顔ぶれであるのが特徴です。

今回のフォーラムでは、世界的に著名な新約学者である、デューク大学のリチャード・ヘイズ名誉教授が講演をしてくださいました。私はこれまでヘイズ博士の学問的業績に大いに啓発されてきただけでなく、何年か前に来日された際には、立ち話程度でしたが個人的にお話しする機会も与えられたこともあり、今回の講演を楽しみにしていました。この何年か膵臓がんと闘病されてこられましたが、今回Zoomの画面を通してお元気そうな姿を見ることができて感謝でした。 続きを読む

人種差別と女性差別(藤本満師ゲスト投稿3)

その1 その2

藤本満先生のゲスト投稿、3回目をお送りします。今回は先日私が投稿した記事とも重なる、差別の問題を取り上げてくださいました。時期的にもとてもタイムリーな寄稿をいただき、心から感謝しています。

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「神の像」をゆがめて用いるとき――人種差別と女性差別

 「キリスト者の生」「キリスト者の成熟」を念頭に置きながら、その根底にある「神学的人間論」を論じること、所詮、それは筆者にとっては手の届かぬ試みです。H. W. ヴォルフによる『旧約聖書の人間論』(1983年に邦訳)辺りから聖書の人間論に関心が持たれるようになりました。W. パネンベルク人間学――神学的考察』(2008年に邦訳)はおそらく最も包括的な論でしょう。福音派では、河野勇一わかるとかわる!《神のかたち》の福音』(2017年)も優れた書物として挙げるべきであると考えています。

それらの書を前に筆者の切り込む余地はないと判断し、記すことにしたのは、今日、神学的人間論において話題となっているトピック、(1)物語神学とキリスト者の生、(2)ピストゥス・クリストゥス論争とキリストの像。そして今回3回目は、「神の像」をゆがめて用いながら「差別を正当化してきた歴史」についてです。 続きを読む

悪魔の解釈学(2)

ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
(1コリント1章22-24節)

その1

前回は1980年代アメリカにおける反ロック/メタル運動において、しばしば作品の内容が大きく歪曲して解釈されたことを見ました。けれどもその一方で、ヘヴィーメタルの歌詞やアートの中に悪魔のイメージが頻繁に登場するのは確かです。「神がデスヴォイスで歌うとき」第5回では、多くの場合それは商業的理由によるものだったということを書きました。悪魔的イメージを売り物にしているメタルミュージシャンがかならずしも本物の悪魔主義者であるわけではありません。じっさい、無神論者のミュージシャンが北欧神話を題材にした歌詞を書いたりすることもあります。ですから、歌の歌詞とミュージシャンの個人的信条はかならずしも一致しないのです。

さらに、ポピュラー音楽のリスナーも、一般に歌詞の内容をそれほど気にかけているわけではありません。Weinstein によると、流行に乗って消費されるポップスとは異なり、よりシリアスなファンの多いヘヴィーメタルのリスナーは歌詞の内容により注意を向ける傾向があるそうですが、それでも、歌詞を知っている(暗唱できる)ことと、その内容を深く理解しているかどうかは別の問題です。いずれにしても、音楽であれ小説であれ映画であれ、人が見聞きした作品の世界観をそのまま信じ込むというのは、あまりにもナイーヴな考えです。

けれども、そもそもなぜメタルでは悪魔のイメージが好んで用いられるのでしょうか? このことを考えるためには、メタルというサブカルチャーの社会における位置づけを考える必要があります。 続きを読む