聖霊降臨と新時代の幕開け(『舟の右側』ペンテコステメッセージ)

今週の日曜日(5月31日)はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。それに先立ち、『舟の右側』誌に依頼されて、6月号にペンテコステのメッセージを書かせていただきましたので、同誌の許可を得てこちらにも掲載させていただきます(ただし聖書の訳をはじめ、いくつか変更を加えてあります)。内容的には過去記事「王なるイエスの元年」と重なる部分もありますが、そこで書いた内容を、もう少し広い聖書の文脈の中で捉え直したものです。

 

聖霊降臨と新時代の幕開け 

それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (使徒2・ 33)

ペンテコステおめでとうございます。教会暦では、復活祭から50日目にあたる日曜日を聖霊降臨の日として祝います。これは、イエス・キリストの昇天後、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれたできごとを記念するもので、キリスト教会にとってはクリスマスや復活祭と並んで重要な祝日です。

十字架につけられた後、3日目に復活したイエスは40日間にわたって弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。主はその際、エルサレムを離れないで、聖霊の訪れを待つようにと彼らに命じられました(ルカ24・49、使徒1・4-5)。その約束通り、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれたのです。

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。(使徒2・1-4)

この有名な「聖霊降臨」のできごとは、教会誕生の瞬間として有名ですが、そこで起こったことは、実際には何を意味しているのでしょうか? ある人々は弟子たちが「異言」を語ったことを強調します。けれども、この時弟子たちが語った言葉がパウロが手紙で語っている異言(1コリント14章を参照)と同じものであるかは定かではありません。宣教への力が与えられたできごと(使徒1・8参照)として理解する人々もいます。しかし、聖霊降臨を孤立した特異なできごととして捉えるのではなく、より大きな聖書的文脈の中に位置づけていく時に、さらに深い意味が見えてきます。 続きを読む

『聖書信仰とその諸問題』への応答8(藤本満師)

(過去記事       

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズの8回目をお送りします。

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8 聖書(新約)が聖書(旧約)を解釈するとき

筆者はジェームズ・ダンに倣って(前掲論文、113)、「釈義」(エクセジーセス)と「解釈」(インタープリテーション)とを分けておきます。

釈義とは、私は聖書の文書をそのオリジナルな意味において、オリジナルな表現、オリジナルの文脈において意味を理解する試みであると考えています。それに対して、解釈とは、便宜的に言えば、そのオリジナルな意味にできるだけ付け加えることも削除することもせずに、解釈者の生きている時代の言葉、考え方、表現の仕方に言い替える試みです。

いわば、「釈義」とは近代聖書学が始まって以来考えられてきた歴史的・文法的手法をもってオリジナルな意味を探し求める努力です。そして「解釈」とは、読者がその時代に理解できる枠組み・表現・考え方を用いてテクストの意味を理解できるように、その意味を引き出し表現することです。釈義の方が技術的で精密な研究の積み重ねで、解釈は時代性・アーティスティックな要素が求められます。

まず初めに、この二つを分けて考えることは、キリスト者が旧約聖書を読むときに特に大切でしょう。私たちが旧約聖書を旧約聖書としてオリジナルな文脈とセッティングで釈義したとしても、キリスト者である限り、その解釈においては、福音というフィルターでもう一度その意味を篩わなければなりません。そうして現れるのがキリスト者としての解釈です。 続きを読む

神とともに創造する

前回の記事からずいぶん間が空いてしまいましたが、聖書における創造概念についてもう少し考察を進めてみたいと思います。

ジョン・ウォルトン師の中心的主張は、聖書が語る創造の概念は物質的なものというよりは、機能に中心的な重点が置かれていると言うことです。そのような機能的創造概念が旧新約聖書全体に渡って見られることは、前回も述べたとおりです。

今回考えてみたいのは、そのような創造の主体は誰か?ということです。もちろん、第一義的にはそれは唯一の神であることは言うまでもありません。しかし、同時に、神はその創造のわざ――つまり、世界に機能と秩序をもたらすこと――に参加するように被造物(特に人間)を招いておられるのではないかと思うのです。

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キリストの昇天

今年は5月10日(木)がイエス・キリストの昇天を記念する昇天日(Ascension Day)にあたります。イエスが復活後に天に挙げられたできごとは、新約聖書のメッセージの中で重要な位置を占めています。にもかかわらず、昇天について語られることは意外と少ないように思います。 続きを読む

Global Returnees Conference 2018(その2)

昨日の記事に引き続き、GRC18での聖書講解メッセージを掲載します。

集会3日目のテーマは「神の民=家族」でした。前日に行われた1回目の聖書講解は、「福音」とは何か、ということについてのメッセージでした。これは分科会でも取り上げさせていただいたのですが、新約聖書の伝えている「福音」(良い知らせ)とは、「十字架につけられたイエスがよみがえって、全世界を治める王となられたことに関するニュース」です。2回目の聖書講解では、この内容を受けて、それではその「福音」が具体的にどのようにこの世界にインパクトを与えていくのか、ということについてお話しさせていただきました。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2)

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回です。第1回目の投稿はこちらです。

聖書信仰

聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)

聖書信仰(2)
ギャップに架けられた橋2――聖霊

前回、聖書信仰が向き合うべき二つの命題(①聖書が永遠なる神の普遍的言葉である、②それが特定の古代の言語によって記され、歴史的文化的に規定されている)の緊張関係について記しました。二つの現実の緊張関係・ギャップに架ける一つの橋は批評学です。

そして、もう一つの橋があります。福音主義は本来こちらの橋を頻繁に用いてきました。しかし、この橋の使用にたけてはいるはずが、いわゆる聖書の「無誤性」を強く主張する保守的な福音主義においては、第二の橋は、かなり制限されてきました。その第二の架け橋とは、聖霊です。

17世紀のプロテスタント正統主義、それを引き継いだ米国のプリンストン神学(ホッジやウォーフィールド)、さらにそれを継承した米国の保守的な福音主義にあっては、聖霊の働きは聖書が記されるときに記者に働いた「霊感」に集中します。聖霊は記者に書くべき事項を示し、聖霊はそれらの事項を表現する言葉の選択を促し、それらの言葉を書き記させ、聖霊は本文と正典の保護保全に働いた、と。

聖霊の霊感は聖書が記された時点に限定され、後に、聖書を読むときに働く聖霊の力は、「照明」と呼ばれて区別されます。もちろん、「霊感」と「照明」の区別は妥当だと思います。しかし実際には、プリンストン神学が霊感されて神の息吹によって吹き出された聖書の完全性を確立すると、その完全な聖書を実証し、解釈するために登場したのは、聖霊の照明ではなく、理性でした(拙著5章「理性の時代の聖書信仰」)。

「霊感された聖書」は、古代の文化脈を超えた普遍的な真理そのものとなり、そのように信じる者は、現代のいっさいのことを客観的な真理の書物によって判断すべきだと考えます。そこで大切なのは、客観的な真理命題を体系づける神学、言葉を釈義する理性です。その意味で、保守的な福音派は、とても理性的・客観的です。

しかしそのとき、福音主義が最も大切にしてきた、神の言葉によっていまも新らたに生起する神の語りかけ、神と人との交わり(コミュニケーション)という側面は後退します。「霊感された書物」の客観性・普遍性・絶対性を確立すると同時に、聖書の完璧な無誤性に聖書信仰の核を据えているうちに、いつのまにか、「神は御言葉を通して私に語りかける、聖霊は御言葉を通して私を救い、変貌させる」という福音主義の体験的・救済論的真髄は、犠牲になったのではないでしょうか。いや「犠牲」とまでは言わなくても、神との交わりとしての聖書信仰は、たましいの救い、あるいはデボーションの世界のことに限定されてしまったように思います。つまり、昔も今も変わらずに人に語りかけ、人の生を変貌させていく聖霊の働きは、絶対的・客観的真理を確信する「聖書信仰」の陰に隠れてしまった時期があったように思います。

そもそも、聖書はそのような絶対的客観的真理という枠組みで記されていたのでしょうか。英国福音主義の聖書学の確立に尽力したF・F・ブルースは、聖書は単純に客観的に一方的に神の側から伝えられた御旨という啓示理解ではカバーしきれないと言います(拙著、201-203頁)。聖書の歴史的記述の中には民の反応(信仰か不信仰か、服従か不服従か)も記されています。人間側の応答の典型は詩篇です。聖書は必ずしも神が人に語りかけるのではなく、人が神に、あるいは人が人に語りかけている既述もあります。そして、それらがすべて後の読者にも意味があるように記されています。

 

さて、聖霊の働きを、記者の側から読者の側へ、記された過去から読まれる現代へと、圧倒的なシフトをはかったのがカール・バルトです。単純すぎる表現ですが、バルトは、人間的な要素をたくさん含んだ聖書の言葉は、読者が聖霊の感動を受ける今、「神の言葉になる」と説明しました。それは「今」働く聖霊の感動です。

この考え方に保守的な福音主義は反発します。なぜなら、聖霊の働きを「今」にシフトすることによって、過去において霊感された啓示としての言葉の完成度が低められると考えたからです。

しかし、聖霊の働きの「今」へのシフトは、最初に挙げた二つの命題をどちらか一方に解消せず、二者の緊張関係を保ったままで、二者のギャップを埋めるために、強調されるべき架け橋だったに違いありません。米国改革派の福音主義的神学者であるドナルド・ブローシュは、聖書の言葉が「今」聖霊によって用いられるというダイナミックな「言葉と霊」(Word and Spirit)の関係を次のように説明しています。聖書はそれ自体、その本質において啓示であると考えるべきではない。「なぜなら聖書の啓示的本質は、その文字列に内在しているのではなく、聖霊が啓示としての意味と力を言葉に満たすから」である。同様に、聖書の真理性は聖書言語の属性ではなく、それを通して語る聖霊の属性である。聖書の言葉を真理の言説に減じてはならず、御言葉は聖霊によって「生きていて」、御言葉を通して人は神と出会う。聖霊によって、聖書の言葉という器が用いられ、その中身であるキリストに仕えさせるのである(拙著、377-378頁)。

別にバルト神学を持ってこなくても、「聖霊(神)は聖書の言葉を用いて直接に語りかけ、働きかけてくる」とは、聖書信仰がしっかりと握ってきた考え方です。これこそが啓示の書である聖書の「神秘」であると、聖書信仰が考えてきました。たとえば、戦後、関西聖書神学校を設立し、きよめ派の指導者的存在の一人となった澤村五郎は、次のように述べています。御言葉を聞くとき、まず「聖霊の光によって心の真相を照らし出される」、「そうすれば心は全く砕かれて、信じやすい柔らかな心となるので、神のことばは、なるほどそうだと一つ一つ心の底から納得の行くように悟らせられる」。キリストの受肉、降誕、十字架の救い、復活、昇天、永遠の審判と永遠の栄光、これらすべて、「聖霊の啓示によらなければ、人の知恵や悟りでは絶対にわからないことである」。「真理のことばである聖書は、真理の霊である聖霊によってのみ、生ける神のことばとしてわれわれの心に働くのである。」(拙著、115-117頁)

澤村五郎は、バルト神学とは無関係です。しかし同時に、プリンストン神学とも関わりがありません。敬虔な福音主義の聖書信仰にあっては、このように「今」に働く聖霊の感動を抜きに、聖書の「神の言葉」性を語ることはありませんでした。かつて、霊感によって完成された啓示の書物であっても、その言葉を神の言葉として私たちに響かせるのは、同じ聖霊です。数千年も昔に、その時代の歴史的出来事・文化の中で聖書の記者を感動させた聖霊が、同じように今日の歴史的出来事・文化の中で神の声を聞こうとする私たちを感動させてくだる――これもまた、聖書信仰の主要な柱の一つだったのではないでしょうか。

先に触れた英国の聖書学者F・F・ブルースも、聖霊の働きを強調します。とても強い聖霊の今日的干渉がなければ、ユダヤ的背景にあった福音が、見事にその殻を破って異邦的土壌に根づくとはなかったであろう、と。二千年前と同様、福音が現代の世界中の異文化に根づくことを期待するなら、聖霊が全く異なる文化・時代に記された聖書の言葉を通して、今日のあらゆる境遇にある読者に神の声を響かせることを信じるべきだと言います。

聖霊こそが、①聖書の神の言葉としての永遠性・普遍性と、②その言葉が歴史性・文化性を帯びて記され、同じ限界を持つ私たちに今も語りかけることを保証してくれる、架け橋です。本論の最初に挙げた二つの命題の「ギャップ」を意識すればするほど、聖霊の働きの尊さがわかるように思います。

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(5)

(本シリーズの過去記事    

今回は『クリスチャンであるとは』第2部の6-10章に基いて、ライトが再構成する聖書ナラティヴのストーリーラインについて概観します。聖書の物語の「主人公」は言うまでもなく神ご自身ですが、実際の事件はほとんどが地上で起こります。先に見たように、神は天におられ、その天は地と部分的に重なり、かみ合っています。天の神は地に住む人々の歴史に介入され、人々との間にやりとりがなされます。つまり、聖書の物語は神と人が織りなす物語と言えます。

ライトは本書では人類の創造と堕落については軽くしか触れていません。彼の物語る聖書のナラティヴ(少なくともその本編)はイスラエルから始まります(6章)。現代のクリスチャンの多くは、あたかもイエス・キリストが歴史の真空からある日突然現われて人類の救いをなしとげたかのように、自分たちの信仰にとってイスラエルが持っている重要性について、ほとんど意識していません。しかしライトは、イスラエルの物語を理解することなしにイエスの物語を理解することはできないと言います。

イスラエルの長い物語(ストーリー)において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。(102ページ)

イエスの物語がイスラエルの物語のクライマックスである、というライトの視点は大変重要です。けれどもそれはどういう意味なのでしょうか?

ライトによると、旧約聖書におけるイスラエルの物語には繰り返し登場するあるパターンがあります。それは、「捕囚と帰還」のパターンです。エジプトでの奴隷生活とそこからの解放(出エジプト)、バビロン捕囚とそこからの帰還など、イスラエルの歴史は大小様々な隷属と解放、捕囚と帰還の物語で満ちています。それは究極的には、堕落によってエデンの園から追放され、神から離反してしまった人類を神が最終的に回復されるという、聖書全体を貫く大きな物語の反映であるのです。

ライトによると、イエスと同時代のユダヤ人たちは、バビロン捕囚からの帰還は完全には実現していないと感じており、神による最終的な解放を待ち望んでいました。それは神が王となる時であり、世界に義がゆきわたる時であり、天と地が一つとなる時であり、新しい創造がなされる時でした。そのような希望は、捕囚と回復の物語を集約するある人物、すなわち「メシア(油注がれた者)」に向けられていきます。

ユダヤ人たちが待ち望んでいた神による救いを体現したのが、ナザレのイエスでした(7-8章)。イエスは、イスラエルの神のみが為されるとされていた救いのわざを自らの使命として受け入れ、行動しました(ライトによると、イエスは自分が神であることをこのような意味で「知って」いました)。そして、イスラエルの物語で繰り返されてきた捕囚と帰還のパターンが究極的に凝縮された形で現れたのが、イエスの死と復活の物語だったのです。イエスは十字架上でこの世の悪の力のすべてをその身に引受けて死ぬことにより、悪に勝利しました。そしてイエスの復活を通して、天と地が最終的に結びつきました。ライトによると、イエスにおいて神が成し遂げたことこそが、キリスト教のエッセンスなのです:

キリスト教は、今も生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして―─見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える―─というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。神がそれをなされた。イエスと共に、救出のわざをただ一度で完全に実現された。この宇宙において、決して二度と閉じられることのない素晴らしいドアがサッと開かれた。それは、私たちが鎖につながれ、閉じ込められている牢獄から出るために開かれたドアである。(133ページ)

イエスが復活され、天に帰られて後も、聖書の物語は続いていきます。この章における主要な登場人物は教会ですが、ライトは教会の務めは聖霊の助けなしにはありえないと語ります(9-10章)。聖霊は、すでに天に昇られたイエスのいのちを、教会が地上において分かち合い、イエスの働きを進めていくために与えられています。聖霊に導かれて生きるとは、「天と地が重なり合う場で生き、そのあり方に沿って生きること」なのです(192ページ)。

*   *   *

救済史の展開という視点から聖書のナラティヴを見ていくライトの視点において、もっとも議論を呼ぶのは、「1世紀のユダヤ人は捕囚はまだ終わっていないと考えていた」という主張であると思います。この考えは、ライトの主著であるChristian Origins and the Question of Godシリーズの第1巻The New Testament and the People of Godをはじめとして、彼が繰り返し主張してきたものです。もちろん、1世紀のユダヤ教の多様性については広く知られており、すべてのユダヤ人が同じように考えていたわけではありませんが、ライトはイエスと同時代のユダヤ人の多くがそのように考えていたと主張しています。

これはもちろん「捕囚の終わり」をどう理解するかによって変わってきます。バビロンに捕囚にされたユダの人々がカナンの地に物理的に帰還し、エルサレムに神殿を再建したことをもって「捕囚の終わり」とするなら、確かにバビロン捕囚は終わったと言えますが、もちろんライトはそのような意味で言っているのではありません。

捕囚後のユダヤ人たちが待ち望んでいたのは、異邦人による支配からの完全な解放、神の臨在と栄光あふれる完全な神殿の再建、イスラエルの罪の赦し、そして諸国民によるヤハウェ礼拝などといった、旧約預言書に記されている約束が完全に実現する状態としての「捕囚の終わり」であったとライトは言います。そして捕囚後のユダヤ人の多くが、これらの約束は何一つとしてまだ実現していないと感じていたということを、ライトは様々な旧約聖書や中間時代のユダヤ教文書を元に論じています。本書では一例として、捕囚の期間としてダニエル書に記されている「七十週」(=490年と解釈されます)という数字が、中間時代のユダヤ人たちによって、「捕囚のほんとうの終わり」の時期を計算するために用いられていたと述べています(114ページ)。

「1世紀のユダヤ人たちは、自分たちはまだ捕囚状態にあると思っていた」というライトの表現は、人によってはセンセーショナルに感じるかもしれませんが、彼が言っている内容そのものはそれほど過激なものではないと個人的には感じています。要するに、終末における完全な解放という預言的ビジョンに対して、ユダヤ人の歴史的現実(第二神殿の建設やハスモン王朝の成立などを含め)はつねに部分的で不完全な満足しか与えてくれないものであり、どの時代にも「より完全な解放」を待ち望む人々が存在したと言うことではないかと思います。(このあたりは、第1部でライトが論じていた、「声の響き」の議論に通じるものがあると思います。)

1世紀のユダヤ人たちが感じていたこのような問題に対して、新約聖書が与えている解答は、「捕囚からの完全な解放への道は、十字架につけられ、死んでよみがえったナザレのイエスによって開かれた」というものでした。例えばイザヤ書はバビロンからの解放を「新しい出エジプト」として描いていますが、新約聖書においてはイエスはしばしば新しいモーセとして描かれています。イエスから始まった運動は、まさに新しい出エジプトとしての、捕囚からの最終的解放の始まりだったのです。

もちろん、イエスの死と復活が、当時のユダヤ人たちの終末的希望を即座に完全に実現したわけではありません。神の国の完全な到来はいまだに将来の希望にとどまっていました。したがって、懐疑的な眼差しを向けるユダヤ人も当然多かったことでしょう。しかしイエスの弟子たちはイエスと彼に従う者たちの共同体(教会)のうちに、「捕囚の終わり」として約束されていたものが、世界の主としてのイエス、罪の赦し、神の臨在あふれる神殿としての教会共同体、異邦人の神の民への参加、等々という形ですでに実現し始めているのを見たのです。

(続く)

御国を来たらせたまえ(3)

(シリーズ その1 その2

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ17章20-21節)

「その2」から間が空いてしまいましたが、神の国についてのシリーズを続けて行きたいと思います。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」という祈りが重要であることについてはすでに見てきましたが、今回は神の国(神の支配)が地上に到来するとはどういう意味なのかを考えてみたいと思います。

冒頭に引用したルカ福音書のエピソードでは、パリサイ人がイエスに対して「神の国はいつ来るのか」と訊ねています。つまり、彼らの質問の主眼は、神の国の到来のタイミングに関するものでした。

ユダヤ教の終末論においては、「神の国」つまり神の支配する新しい時代は、「主の日」と呼ばれる歴史の一時点において神が劇的に地上の歴史に介入され、すべての悪を一掃して神による新秩序を打ち立てる時に訪れると考えられていました。パリサイ人たちがイエスに訊ねたのは、そのような神の歴史への介入はいつ起こるのか、ということでした。ここで彼らは、神によるそのような歴史への介入はまだ起こっていないということを暗黙の前提にしています。これはある意味当然のことでした。当時のユダヤ人にとって、悪の力(その一つの表れはローマ帝国における支配と考えられていました)はいまだに地上で猛威をふるっていたからです。同時にここでは、「神の国は一度にはっきりと目に見える形で訪れる」という考えも前提になっています。

これに対してイエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。」と答えます。ここでイエスは、神の国到来のタイミングではなく、その訪れ方に主眼を置いて答えておられます。イエスは、神の国は当時のユダヤ人たちが信じていたように誰の目にも明らかな仕方で訪れるのではなく、ひそやかに訪れると語られたのです。当時の多くの人々は気づいていませんでしたが、神の国はすでに訪れ、成長を始めていました。神の国は、将来イエスが再臨して神の国が完全に現れる時まで、そのようにしてこの世の現実の中に存在しつつ、拡大していくのです。

続いてイエスは、神の国がどのような形で現在地上に存在しているのかということについて語られました。「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。

神の国はあなたがたのただ中にある」これは有名な表現であり、そのような歌詞を持つ賛美歌もありますが、このイエスのことばは「神の国は信じる者(クリスチャン)の心の中にある」という意味ではありません。新約聖書の中で神の国が心の中の霊的現実として描かれている箇所はありません。人が「神の国に入る」と言われることはあっても(たとえばルカ18章24-25節)、神の国が人に入ると言われることはないのです。そもそもここでいう「あなたがた」は、イエスを信じないで試そうとしたパリサイ人を指していますので、「信じる者(クリスチャン)」を意味することはありえません。それどころか、彼らは悔い改めなければ、神の国から除外される危険にさらされていたのです(ルカ13章28節参照)。「神の国」つまり神の王としての支配は、単なる個人の心の中の霊的現実ではないのです。

それでは、「神の国はあなたがたのただ中にある」とはどういう意味なのでしょうか?この部分は新共同訳聖書では「あなた方の間にある」と訳されています。つまり、神の国は人々の間に既に存在し、拡大しているというのです。ここで言われているのは、イエスご自身の存在とわざにおいて、神の王なる支配が地上に現されているということです。パリサイ人たちはイエスの教えやわざを目にしていながら、その中に神の国が現れていることを悟ることができませんでした。「神の国はいつ来るのか」とイエスに質問すること自体が、彼らの霊的盲目を暴露しているのです。

そして、イエスが天に帰られてから後は、神の国の臨在を地上に現す務めは、イエスの霊を受けた弟子たち、すなわち教会に委ねられました黙示録1章6節では教会が神の王国とされたということが書かれています。神の国は個々のクリスチャンの心の中にある霊的現実ではなく、クリスチャン(とその共同体である教会)を通してこの地上に、地に住む人々の間に、社会の中に現されていく神の支配のことです。「御国を来たらせたまえ」と祈ることは、この地上の人々の間に(教会を通して)神のみこころが実現し、それによって世界が造りかえられることを求めることなのです。

ちなみに「イエス様が心の中におられる」「イエス様を心の中にお迎えする」という、クリスチャンがよく使う表現も、注意しないと誤解を招く表現です。

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イエスは肉体をもって復活した後、その肉体のまま天に昇って行かれました(ルカ24章50-53節、使徒1章9-11節)。そして現在も復活の肉体を備えたままで、父なる神の右の座に着座しておられます(使徒2章33節ほか)。そして、イエスは天に昇られたのと同じ有様で(つまり肉体をもって)やがて地上に帰ってこられます(使徒1章11節)。ですから、復活の肉体を持ったキリストがそのままでクリスチャンの心の中に住むということはありえないのです。一度復活の肉体を与えられたイエスが昇天後にその肉体を何らかの形で放棄したことを示唆する箇所は、新約聖書のどこにもありません

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フリッツ・フォン・ウーデ「キリストの昇天」

確かに、エペソ3章17節では「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、・・・」と書かれています(実際、キリストが心に住むという表現が使われているのは新約聖書の中でここだけです)。しかし直前の節でパウロは「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」と語っており、これはイエスの霊である聖霊が信仰者の心に住まわれることを語っていることが分かります。「キリストが心に住む」とは、クリスチャンの生き方のパターンがキリストの性質や生き方によって定義され方向づけられていくことを表しているのです。ガラテヤ2章20節「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」も同様に理解することができるでしょう。キリストは確かに聖霊という形で信仰者の内に住まわれます。けれども、キリストご自身は復活の肉体を持ったまま、天の父なる神の右に座しておられるのです。

現代のクリスチャンにとって、キリストが肉体を備えたまま天におられる姿をイメージすることがもし難しいとすれば、それは「霊的楽園」としての天国観が影響しているのかもしれません。

これらの通俗的理解(神の国やイエス・キリストがクリスチャン個人の心の中に存在する)には、現代のキリスト教が個人主義的と霊肉二元主義(後者についてはシリーズ第2回を参照)の影響をいかに強く受けているかをよく表していると思います。

子としてくださる御霊

所属教会で説教奉仕をさせていただきましたので、いくつか修正を施したテキストをアップします。このメッセージは、継続中のシリーズ「御国を来たらせたまえ」の補論としても読んでいただくことができると思います。

 

子としてくださる御霊(ローマ人への手紙8章14-17節)

14  すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。  15  あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。  16  御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。  17  もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

神の家族

どんな分野にも「業界用語」のような、独特の用語や言葉遣いがあります。キリスト教会を初めて訪れた人々は、そのようなキリスト教用語に戸惑うこともあるかも知れません。けれども、その意味を知っていく時に、はじめは耳慣れない表現も実は深い意味があることに気づくことと思います。そのようなクリスチャン独特の表現に、「兄弟姉妹」という表現があります。これは文字通りの血のつながったきょうだいのことを指しているのではなく、クリスチャンがお互いを呼び合う表現です。また、クリスチャンは神様のことを「天のお父様」と呼びます。このような表現の背後には、クリスチャンはみな、唯一の神様の子どもであり、従ってみなきょうだいである、という考え方があります。教会とは、神の家族なのです。

聖書は、すべての人間は神様によって造られたと教えていますので、ある意味で全人類は神様の子どもと言えます。けれども、イエス・キリストを信じてクリスチャンになると言うことは、特別な意味で「神の子どもになる」ということなのです。

私たち家族がアメリカに住んでいた時に通っていた教会で、牧師の息子が洗礼を受けたことがありました。牧師自ら息子に洗礼を施したのですが、式の後、その先生がこう言われたのを良く覚えています。「彼は私の息子ですが、今日から私の兄弟になりました。

では、私たちクリスチャンが「神の子ども」であるとはどういう意味なのでしょうか?今日は使徒パウロが書いたローマ人への手紙から、ご一緒に学んでいきたいと思います。

神の子どもたち

ローマ人への手紙の8章でパウロは、クリスチャンとして生きる人生と、ノンクリスチャンとして生きる人生を対比しています。13節で彼は、キリストを信じないで生きる人生を「肉に従って生きる」人生と呼んでいます。ここに出てくる「肉」という言葉もクリスチャンの「業界用語」で、肉体や肉欲を意味しているのではなく、神から離れた人間の自己中心的な性質、罪深い性質を表しています。私たちが肉に従って生きるなら、その行き着く先は罪と死です。これに対して、パウロは「神の御霊に導かれ」る(14節)生き方について語ります。それは、キリストとの深い結びつきを通して注がれる、神の霊すなわち聖霊によって導かれる生き方であり、そのような人生は「いのち」に導かれると言います。13節で彼は「あなたがたは生きるであろう」と簡潔に言っています。このことは、死んだ後に永遠の命を受けるということだけを意味しているのではなく、今この地上での人生において、神様から与えられたいのちを最高に充実した形で生きる、ということを意味しています。それは別の言い方で表現すれば、「神の子どもとして生きる」ということです。

神との親密な関係

私たちが神の子どもである、ということは何を意味しているのでしょうか?まずは、神様と親しい愛の関係を持つことが許されている、ということを意味しています。パウロは15節で「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と言います。「アバ」というのは、新約聖書の時代にユダヤ人が話していたアラム語で「父」を表す言葉ですが、家庭で小さい子どもが父親に呼びかける「お父さん」「パパ」といった、親近感を込めた表現でもありました。福音書には、イエス様が天の神様に対して「アバ」と呼びかけていたことが記されています(マルコ14章36節)。イエス様はご自分で神様を親しく父と呼ばれただけでなく、弟子たちにも同じように神様を父と呼ぶようにと教えられました。主の祈りが「天にまします我らの父よ」で始まるのはとても重要なことなのです。

私たちはかつては罪によって神様から離れ、神様に敵対して生きる存在でした。けれども神様は愛によって私たちをご自分のもとに招き入れてくださり、愛する息子、娘として受け入れてくださったのです。このことが最もドラマティックに描かれているのは、ルカ福音書15章に記されている「放蕩息子のたとえ」でしょう。時間の関係で詳しくお話しはできませんが、父の財産を持ち出して放蕩に身を持ち崩した息子がとうとう父の元に帰ってきた時、彼は「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と言おうとしましたが、父は最後まで言わせずに、彼を受け入れ、息子の帰還を盛大に祝ったということが記されています。私たちも、イエス・キリストを信じ従う時に、神様との間の親しい親子関係に入れられるのです。

神の子としてのイスラエル

しかし、クリスチャンが神の子どもであるとは、それだけを意味するのではありません。ローマ書8章におけるパウロの議論は、旧約聖書の時代から続く、神様のご計画と深い繋がりがあるのです。

8章15節では、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と書かれています。パウロはここで、私たちがクリスチャンになるプロセスを奴隷の身分であった者が自由にされて、子としての身分が与えられることにたとえています。ここでパウロは、イスラエルが経験した出エジプトのできごとを念頭に置いて書いているのです。

神様の祝福を全世界に取り次ぐ器として選ばれたイスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活を強いられていました。彼らを解放するために、主はモーセを遣わすのですが、彼がエジプトの王パロに伝えるように命じられたメッセージが、出エジプト記4章に書かれています。

あなたはパロに言いなさい、「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」(出エジプト4章22b-23a節)

つまり、神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放された目的は、イスラエルをご自分の子どもとして、愛の関係を築き上げるためだったのです。ホセア書11章1節でも、出エジプトの出来事について、「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。」と書かれています。けれども、ホセア書11章を続けて読んでいくと分かるように、イスラエルは神の子らとして、父なる神様に忠実に歩むことができず、繰り返し主に逆らい続けることになってしまいます。

神様と人間との関係を親子にたとえるのは、主がダビデに与えられた約束においても見ることができます。

あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。(2サムエル7章12-14a節)

ここでは、ダビデの子孫から興されるひとりの王、すなわちメシヤが永遠の王国を確立するということが約束されているのですが、ここでも「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。」と言う表現で、いわば神様がメシヤを養子にするということが言われています。後のユダヤ教では、神の養子となるというアイデアは、個人としてのメシヤだけでなく、民族としてのイスラエル全体に当てはめられて考えられるようになりました(ヨベル書1章24-25節、ユダの遺訓24章3節)。つまり、ダビデの子孫であるメシヤがイスラエルを導いて、そもそもの出エジプトの目的であった、イスラエルを神の子とするという神様のご計画を成就してくださる、これが、新約聖書時代のユダヤ人たちの希望であったのです。

では、今日の私たちクリスチャンが「神の子としていただく」ことは、聖書のイスラエルとどのような関係があるのでしょうか?それは、旧約聖書の昔から一貫して続いている、神様の救いのご計画に私たちも参加させていただく、ということです。先ほど出エジプト記で見たように、神様がご自分の子どもとして召されたのは、あくまでもご自分の選びの民であるイスラエルでした。イスラエル以外の異邦人は、そのご計画から除外されているかに見えたのです。ローマ書の9章4節でも、「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの」とあるように、神の子と呼ばれるのは、イスラエルの特権だったのです。

けれども、8章でパウロは驚くべきことを言います。ローマ人への手紙の読者の大多数は異邦人クリスチャンでしたが、彼らに対してパウロは「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」(15節)と言っているのです。ここで「子たる身分を授ける霊」と訳されているギリシア語は、直訳すると「養子の霊」という意味です。パウロがここで使っている「養子にすることhuiothesia」という言葉は、新約聖書の中でパウロの手紙にしか出てこない言葉です。この節でパウロが言おうとしているのは、「あなたがた異邦人はかつては神の子であるイスラエルから除外されていた人々であったけれども、今は神様の養子とされて、イスラエルと同じように神の子どもになることができたのです。」ということです。パウロは9章で次のように言っています。

神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」。
(9章24-26節)

さて、この場にいる私たちのおそらく全員はユダヤ人ではなく、異邦人クリスチャンです。私たちが神の子どもと呼ばれること、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に対して「アバ、父よ」と呼びかけることができること、それは決して当たり前のことではありません。私たちは神様の養子にしていただいて、神の民であるイスラエルに加わることを許された存在です

では、どのようにして、異邦人である私たちが神様の養子になることができたのでしょうか?8章15節でパウロは「子たる身分を授ける霊」と言っています。私たちが神様の子どもとされるのは、聖霊の働きによるのです。私たちがイエス・キリストを主と信じてバプテスマを受け、教会に加えられる時、賜物として聖霊が与えられます(使徒2章38節)。この聖霊がユダヤ人だけでなく、あらゆる種類の人々を神の子として、神の家族に加えてくださるのです。8章16節でパウロは、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」と言います。私たちが神の子であることは、私たちの思い込みや勝手に主張していることではなく、私たちのうちにおられる聖霊ご自身が証言してくださっていることです。しかもユダヤ人も異邦人も同じ御霊によって、神の子であると証言されるのです。

この聖霊はまず、イエス様が地上で宣教された時に、主の上に注がれました(ルカ3章21-22節)。そして、主が復活して昇天された後、使徒たちをはじめ、信じるユダヤ人たちに注がれました(使徒2章1-4節、38節)。それだけでなく、同じ聖霊が主を信じる異邦人にも注がれたことが、使徒行伝に書かれています(使徒11章15-17節)。つまり、この多種多様な人々がみな等しく「神の子ども」と呼ばれるのは、同じ聖霊が働いておられるからなのです。実に聖霊は神の子どもたちに共通して流れている「血」であり、彼らの細胞の一つ一つに含まれる「DNA」と言っていいでしょう。だからパウロは、神の子であるとは、御霊によって「生きる」(13節)ことだと語っているのです。

神の子どもたちの使命

さて、私たち異邦人がユダヤ人とともに一つの神の民イスラエルとなり、神の子どもとされたことには、どのような意味を持っているのでしょうか?もちろん、私たちは神様を父として日々親しい交わりをことができます。それは確かにすばらしい祝福ですが、それだけではありません。多くのクリスチャンはここで止まってしまい、神の子どもであることにどのような大きな祝福と使命が伴うのかを知りません。

8章17節でパウロは、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 」と言っています。私たちが神の子どもであることは、神様からいただける素晴らしい相続財産が約束されているということなのです。それは何でしょうか?その答えはさらに先を読むとわかります。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章18-22節)

18節から22節まで、パウロは突然「被造物」について語り始めます。被造物つまり神様が造られた宇宙の全体が現在は虚無に服してうめいているけれども、世の終わりに「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」(21節)と言うのです。

ローマ書8章のこの部分は、一見するとあまり意味のない余談のように思えるかもしれません。私たち人間がイエス・キリストを信じることによって義と認められ、罪が赦されて、天国に行くことができる・・・そのような救いの理解をもってローマ書を読むと、たしかにこの部分はあまりパウロの議論の本筋と関係のない補足のように見えます。しかし、実はこの部分はローマ書におけるパウロの議論の中で大変重要な意味を持っているのです。

私たちの罪が赦されて、魂が救われること、確かにそれは聖書が教える大切な救いですが、パウロが救いということで考えていたのは、人間の魂の救いだけにとどまらないのです。創世記によると、神様はこの宇宙をすばらしく良いものとして創造されました。そして、この素晴らしい被造物世界を管理し支配する存在として、人間をお造りになったのです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1章27-28節)

神様はこのように人間を被造物世界の管理者として造り任命されました。その後でこう書かれています。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(31a節)。つまり、神様が造られた世界は、人間がそれを愛と知恵を持って適切に管理していく時に、「非常に良い」世界となったのです。

ところが、ご存知のように、最初の人間アダムとエバは罪を犯して神様に反逆し、堕落してしまいました。その結果として、非常に良いものとして造られたこの世界ものろわれた存在となってしまったのです(創世記3章17-18節)。これがパウロがローマ書で「被造物が虚無に服した」と言っていることの意味です。聖書全体で語られている神様の救いのご計画とは、この虚無に服した被造物世界を元通りの「非常に良い」世界に回復することにほかなりません。もちろんその中には、世界の管理者である人間の回復すなわち救いが含まれています。けれども、神様の救いは人類の救いだけにとどまるものではなく、この被造物世界全体の回復にまで及んでいくのです。

しかも、人間の回復も、単なる魂の救いにとどまるものではありません。パウロはローマ8章23節で次のように述べています。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 」

多くのクリスチャンは「救い」という言葉を聞くと、死んだ後霊魂が肉体を離れて天国に行き、そこで神様とともに永遠に過ごす、ということを考えますが、聖書がはっきり述べている、クリスチャンの究極の望みは、私たちの肉体が復活するということです。聖書は、物質を霊より劣ったものとか邪悪なものとは言っていません。この物質世界は神様が造られた良いものだという理解があります。神様の救いの完成とは、この被造物世界が回復し、栄光の身体に復活した神の子たちによって素晴らしく管理され、神様の栄光を表していくということなのです。これがパウロが21節で「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」と言っていることの意味なのです。

ここで23節にもう一度注目してみましょう。パウロはここで世の終わりに起こる肉体の復活について語っているのですが、それは同時に「子たる身分を授けられること」であると言っています。ここで疑問に思う人がいるかもしれません。私たちは14-15節で、キリストを信じる私たちは、現在既に神の子どもとされていることを学んだばかりです。それなのに、どうしてパウロは世の終わりに私たちが神の子にしていただくと言っているのでしょうか?

この疑問に答えるためには、パウロが「世の終わり」というものをどのように理解していたかを知る必要があります。パウロは、イエス・キリストが来られて、十字架にかかられ、復活された時にすでに世の終わりは始まっていると考えていました。けれども、最終的な終わりはまだ来ていません。それは、将来キリストが再臨され、すべての死者が復活する時に起こるというのです。新約聖書によると、世の終わりは二段階で来ます。回りくどい言い方をすると、「終わりの始まり」はイエス・キリストが最初に来られた時で、「終わりの終わり」はキリストが再臨される時なのです。

私たちが神の子とされるということも、このような枠組みの中で考えることができます。私たちは今現在キリストを信じ、聖霊を受けた時に既にある意味で神の子とされました。けれども私たちは「神の子ども」としての人生をフルに生きているわけではありません。私たちが完全な意味で「神の子ども」になるのは、世の終わりに、栄光のからだに復活する時なのです。私たちはこのことをどのようにして信じることができるのでしょうか?それは、私たちに聖霊が与えられているという事実によってです。パウロはこのことを「御霊の最初の実を持っている」(23節)と表現しています。「最初の実」は新改訳聖書では「初穂」と訳されていますが、「初穂」とは、畑の穀物の収穫の最初の部分のことです。昔のイスラエル人は、この初穂を神様に捧げました。初穂が捧げられたということは、やがてまもなく本格的な収穫が始まることを保証しています。今現在私たちに聖霊が与えられている事実は、やがて世の終わりに私たちの身体が贖われることの保証なのです。

もう一つ、私たちの復活を保証している事実があります。それは、イエス・キリストがすでに私たちに先んじて復活してくださったことです。パウロは1コリント15章でイエス・キリストの復活のことも「初穂」と呼んでいます(1コリント15章20、23節)。イエス様は完全な神の子としてまずよみがえってくださいました。私たちも世の終わりにはこのキリストと似た者に復活する希望が与えられているのです。その時私たちは本当の意味で「神の子ども」となることができます。パウロはこのことをローマ8章29b節で、「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」と表現しています。イエス様が、贖われた神の子どもたちの長子となってくださり、贖われた被造物世界の管理を導いてくださいます。これが神の子どもとしての教会の最終的な務めなのです。

子としてくださる愛

ここまで、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた私たちは神の子どもとされたこと、それは神の民イスラエルに組み入れられることであり、最終的にはキリストを長子として被造物世界を治める神様の働きに参加させていただく希望があることについてお話してきました。最後に、これらすべてを貫く一つの大切なテーマについて触れたいと思います。それはということです。

これまで見てきたことから、神様がこの地上における救いのご計画を進めていくのは、この地上においてご自分の子どもたちの輪を拡げていくことによってである、ということが分かります。神様はまずイスラエルを選び、ご自分の子とされました。その後、イエス・キリストが来られてから、「神の子ども」となる特権は、異邦人も含めて、信じるすべての人に拡大されました。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1章12節)とある通りです。

パウロが言うように、異邦人は神様の養子となって、神の家族であるイスラエルに迎え入れられた存在です。ここで問題となるのは、神様は元から神の子らであったユダヤ人と同じように、異邦人も愛してくださるのだろうか、ということです。養子になった子どもが一番気にするのは、自分が家族の一員として本当に受け入れてもらえているか、特に、養父母に実の子がいる場合には、その子たちと差別されることがないか、ということです。養子になったある子どもが、養母にこう尋ねたそうです。「ママのお腹に新しく赤ちゃんができたら、私は元の所に送り返されるの?」パウロの答えはどうでしょうか?

パウロが生きたローマ時代には、養子縁組の制度は社会的にとても重要な役割を持っていました。ある学者は次のように説明しています。

「養子にされた人物はそれ以前の環境から引き出され、すべての負債は帳消しにされ、新しい家長の息子として新しい人生を歩み始め、家長の名字を名乗り、相続権を持つようになる。新しく父となった者は今や養子の財産を所有し、彼の人間関係を統制し、しつけを行う権利を持つと同時に、彼を養う責任を持ち、その行動に関しても法的責任を負う。これらすべてにおいて、養子はその家で自然に生まれた子どもたちとまったく同じ扱いを受ける。養子縁組は法的な行為であって、証人によってあかしされる。」(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed, pp. 65-66)。

神様が私たちを養子にしてくださったとパウロが言う時、彼が念頭に置いていたのはこのような社会的関係でした。神様は私たちを罪と死の奴隷状態から解放してくださり、ご自身との新しい親子関係の中に入れてくださいました。私たちは神の子どもとしてのあらゆる法律的な権利を与えられた存在であり、そのことは私たちに与えられている聖霊が証ししてくださるのです。

ローマ書8章15節でパウロは、異邦人の読者に対して二人称で「あなたがたは・・・子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と語った後、一人称複数形を使って(つまり、パウロたちユダヤ人クリスチャンも含めて)「その霊によって、わたしたちは、『アバ、父よ』と呼ぶのである。」と語っています。御霊によって神様を「アバ、父」と呼ぶ者は、ユダヤ人でも異邦人でも同じ神の子どもなのです。

ローマ書2章11節には、ユダヤ人と異邦人の関係についてこう書かれています。「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。えこひいきのない神様。公平な神様。異邦人の使徒と呼ばれたパウロの宣教活動を支えていたのは、この確信だったのかもしれません。神様はユダヤ人も異邦人も関係なく、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださいます。子としてくださる御霊は、愛の御霊でもあるのです。

そればかりではありません。先ほど、8章29節で世の終わりには御子キリストが復活した神の子たちの長子となられるということを見ました。ユダヤ人と異邦人が分け隔てなく神の子どもとされることもすごいことでしたが、ここでパウロはさらに驚くべきことを述べています。つまり彼は、父なる神様は、御子イエス様が神の子であるのと同様に、私たち人間をもご自分の子どもとしてくださるというのです。

パウロは、私たちクリスチャンの信仰の歩みはキリストに似た存在につくり変えられていくプロセスであるということを述べています。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (2コリント3章18節)

しかもこれは、単に私たちの内面がきよめられて、キリストに似た人格になっていくということだけでなく、最終的には私たちの肉体も、復活のキリストと似た栄光の身体に変えられるというのです。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(ピリピ3章21節)

このことはもちろん、イエス様が神であるのと同じように私たちも神になるということではありません。けれども、私たちは神であるイエス様が持っておられる様々な良い性質に与るものとなる(2ペテロ1章4節)ということです。

ここに神様の偉大な愛が表されています。父なる神様は、御子イエス様を愛されたのとちょうど同じように、分け隔てなく私たち信じる者を愛してくださるのです。イエス様が十字架にかかられる前にこう祈られました。

わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネ17章23節)

私たちが神様の愛の中で一つになること、父・子・聖霊なる三位一体の神様が永遠の昔から持っておられた全き愛の関係の中に私たちも参加させていただくこと、それが神様の救いの究極的な目的です。

このような愛は世の中の価値観とは対立するものです。だから今の世でそのような愛に従って生きようとするなら、そこには苦しみが伴います。パウロはローマ書8章17節で、「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」と言っていますが、彼はクリスチャンとして神の子とされた者には苦しみが必然的に伴うと言っています。けれども彼は続けて、「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(18節)とも言っているのです。もし今苦しみの中にある人がおられるなら、その方は復活のイエス様を思ってください。私たちもその主と同じ姿に変えられていく希望があるのです。

けれども、そのような栄光に満ちた祝福の希望は、世の終わりになってはじめて実現することではなく、今ここですでに始まっているのです。私たちクリスチャンが神の家族として互いに愛し合う時に、神の国が地上に現れ、世の終わりが現在に訪れます。そして、ヨハネが言うように、そのことを「世が知る」ようになっていきます。教会が本当の意味で神の家族になっていくことは、もっとも強力な宣教の働きであるのです。

私たちクリスチャンが互いを「兄弟姉妹」と呼び合うこと、神様を「天のお父様」と呼ぶこと、それは単なるキリスト教の「業界用語」ではありません。もし私たちがその本当の意味を知るだけでなく、その真理に従って生きていくなら、私たちを通して神の国が表されていくのです。