「あなたの信仰があなたを救った」(1)

もう一ヶ月以上前のことになってしまいましたが、6月13日(月)に福音主義神学会東部部会の春期研究会で発表をさせていただきました。研究会の全体テーマは「聖書が教える『信仰』(I)」で、その中で私と東部部会理事長の大坂太郎先生(ベテルキリスト教会牧師)の二人が講演をしました。大坂先生は「なぜ『彼』は引き合いに出されたのか?―パウロによる『アブラハムの信仰』再考―」と題して興味深い発題をしてくださいました。当日の二つの講演の要旨はクリスチャン新聞2016年7月3日号に掲載されましたが、このブログではその内容を一般向けに書き直して掲載したいと思います。

私の講演のタイトルは「救いを与える『信仰』~ルカ福音書における『信仰』についての一考察~」で、ルカの福音書、特にその中に特徴的に現れる、「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ7章50節ほか)という表現について考察したものです。ですから、これはルカ文書における「信仰」の包括的な研究ではありませんし、ましてや新約聖書全体をカバーしたものではありません。しかし、この特徴的な表現から、ルカが「信仰」ということばで理解していた内容の一端を明らかにすることを願っています。 続きを読む

オープン神論とは何か(2)

その1

前回の記事で、オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれるということ、そして未来は部分的に開かれているということだと述べました。今回は、このような主張が聖書の記述によってどのように裏付けられるのかを概観したいと思います。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

『聖書信仰』書評

藤本満先生によるゲスト投稿ですが、最終回の今回はフェミニズム神学について語ってくださいます。

私は男性がフェミニズム神学を論じることも、白人やアジア人が黒人神学を論じることも、重要であると考えています。「フェミニズム神学は女性がする神学」というステレオタイプが固定してしまうと、そもそも男女間の間にある隔ての壁を突き崩す可能性を持った神学が、より一層両者の溝を深めるセクト的神学にとどまってしまうのではないかと思います。ですので、今回藤本先生がフェミニズム神学を取り上げてくださったことを感謝しています。

藤本

しばらく間が空いてしまいました。先生のブログ読者の方々にも申し訳ないと思います。ところで、このブログの主催者のaboutのところをご覧になるとわかるのですが、山﨑ーランサムが御名字です。ご結婚されるとき、奥様の名字と合体させたとうかがいました。神さまが与えてくださった知恵です。

さて、寄稿は今回で最後なのですが、山﨑ランサム先生が投げてくださいました質問の中から、以下のものを取り上げさせてください。あくまで問題意識程度ですが、少し書かせてください。

Q.「結びにかえて」ではフェミニズム神学とフェミニズムの聖書解釈を本書で論じなかった点について触れられ、福音主義の立場からいずれ論じてみたいと書いておられます(398頁)。この点について、概略だけでもお聞かせ願えますか?

「フェミニズム神学」、またそれ以前に影響を与えた「解放の神学」が1970-80年代の遺物で、一世を風靡して消えていったと理解すべきではないと思います。解放の神学を考えてみます。解放の神学は、南米のキリスト教(特にその貧富の格差)が、ヨーロッパ植民地支配を依然として引きずっていて、その格差構造を教会が支えているという批判でした。社会経済構造の批判など、この神学はマルキシズムを援用したものであると批判されてきました。キリスト教的な解放運動がいつの間にか反政府勢力のイデオロギーと合体したなど、この神学が生み出した問題も多々ありました。

しかし、その神学的展開は出エジプトに始まる聖書の「解放」の神学的な本質を鋭く描き出しました。神学的運動としての「解放の神学」は今は活発ではありません。しかし、ここで指摘された、依然として世界を支配している「植民地支配の構造とキリスト教」というやっかいな問題は、しっかりとキリスト教神学の中心的課題と見なされるようになりました。現在、日本の教会で最も用いられている教会史の書物は、フスト・ゴンサレス『キリスト教史』上・下だろうと思いますが、この本が面白いのは、ゴンサレスがキューバ出身の教会史家だからでしょう。

格差構造を抱えた社会は、神学的には「聖書信仰」が厳しく批判の対象とすべき問題です。それは旧約聖書が厳しく批判するエジプト、アッシリヤ、バビロン、いやそればかりかイスラエル王国そのものの支配を見ればわかります。ブルッゲマン(『預言者の想像力』鎌野直人訳)は、同じ批判を見事に現代アメリカに適用します。私たちは聖書信仰のスタンスから、ヒットラーの第三帝国を、大日本帝国を、常に世界の覇者であろうとするアメリカを批判できます。支配する側ではなく、苦しむ人びとの側に十字架の主と共に立ち、悪(人)の支配から解放してくださる神に希望をもって行動することができます。確かに解放の神学は、「聖書」全体ではなく、「解放」のモチーフに振り回された感はありました。それでも、この問題にスポットを当てたという意味での貢献は、否定できないでしょう。

フェミニズム神学(最近は黒人女性の解放を目指すウーマニズムの立場からの神学も含みます)は、解放の神学から派生し、特に女性の視点からキリスト教神学を見直すというものでした。女性の視点、女性の経験から聖書を解釈し直すとは、未だかつてない大きな影響をキリスト教会に与えてしかるべきものです。なぜなら、古代から現代に至るまで、社会とキリスト教には父権的構造・考え方が染みついているからです。ハーバード大学の神学部に女性の入学が許されたのは1955年、つい60年前の出来事だったとは、いかにキリスト教が父権的であるかの象徴かもしれません。

さて、フェミニズム神学の幕が開けたときには、かなりショッキングな発言が出てきました。たとえば、この神学の礎を据えた一人であるローズマリー・リューサー(Rosemary Ruether)はこんな過激なことを言います。十字架を前に弟子たち(男性)はイエスを見捨てて逃げてしまいます。しかし、ゴルゴダの丘で主の十字架を見届けたのは数名の女性の弟子たちでした。さらに復活された主は、マグダラのマリアら女性の弟子たちに現れます。そのことを告げられたペテロは疑います。復活の主がご自身の存在をつぶさにお示しになったのはマグダラのマリアに対してでした(ヨハネ20:11-18)。主の復活を弟子たちに教えているのは彼女です(18)。リューサーは、もしマリアが復活の証人の第一人者と認められていたら、もし彼女が当時の社会で使徒となることを許されていたのなら……と想像を膨らませます(Ruether, Sexism and God-Talk)。

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復活のイエスに出会うマリア(フラ・アンジェリコ)

グノーシス文書で『マグダラのマリアによる福音書』がありますが、そんなことをリューサーは論じているのではありません。もし当時のイエスの共同体における女性の地位が男性と平等であったら、福音書の中身はどうなっていたのだろうか、と。もちろん、私たちは主が使徒として男性を立てられたという現実、また彼らが中心となって初代教会が構成され、教会権威が立ち上がり、やがて正典聖書ができあがっていったということに啓示の摂理があることにうなずいています。つまり、神の啓示はこの世に示され、それが父権的社会であるなら、その現実は神の啓示の摂理の中にあることを。

しかし、だからと言って、記されていないことを単なる想像として葬り去ることにも納得がいきません。たとえば、こういうことです。創世記16章にアブラハムの妻サラの奴隷ハガルのことが記されています。ハガルはエジプト人の女性であり、奴隷です。しかし、神はハガルを祝福されます。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる」(16:10)。これは、アブラハムが受けたのと同じ祝福です。それを女性であり奴隷であるハガルは、直接神から受けています。さて、聖書はハガルの子孫ことをその後記していません。それどころか、ユダヤ人やイスラームの人びとは、ハガルから生まれたイシュマエルをアラブ人の祖先と見ています。では、16:10で約束された祝福は、その後、どのように果たされたのでしょうか。少なくとも、その祝福は「絶えてはいない」と言うべきなのではないでしょうか。私は、イシュマエル民族に流れる神の祝福を描き出せるなどと考えているのではありません。しかし、少なくとも「記されていないから途絶えてしまった」と考えるべきではないと思っています。

記されていないところから、様々なことを知ることはできません。マグダラのマリアがどのように福音を体験し、どのような影響を初代教会の共同体に与えたのかを掘り下げて考えるには限りがあります。

ここで「記されていないこと」をたぐり、あるいは記されていても「社会的な背景が強い箇所」に注目しますと、聖書信仰の論理の道筋は、やがて以下に述べる問題に直面します。それを私は卑怯にも、論じることを避けます。しかし、こういう問題は考えなければならない、とだけ提示させてください。

まず、フェミニズム神学が提示してくる課題は、聖書信仰の基本中の基本である命題に関わります。「聖書は救いと信仰の実践において誤りなき」神の言葉であり、その側面において十全であると信じます。ところが、仮にそれが父権社会に傾いていたら、「いや」傾いていたとは言いたくありません。女性の経験・視点を覆い隠すように神の言葉を解釈していたら、神の言葉は、十全たり得ないでしょう。あるいは現代の複雑多岐の実践課題に対する結論を誤りなき神の言葉からどのように導き出すかに至っては、私たちの考えていること行っていることは、おおよそ無誤無謬からはほど遠いと考えるべきでしょう。

私たちは、「主張だけは」男女平等の世界に生きていると思います。しかし、この主張は比較的新しいもので、それが叶わなかった一つの妨げにキリスト教の男性優位主義が存在していたことを認めることも大切であろうと思います。

さらに、父権的な枠組みを、神の言葉の本質と考えるのか、それともそれを一つの社会背景として考えるのか。神は人を男と女とに造られ、男性主導、女性従属的な役割を授けられたのか。それとも男性も女性も神の像にあって等しく創造され、等しくあがなわれ、新に造られているのか。

個別の事象で言えば、コリントの教会に向けてパウロが記した、教会における女性の役割が取り上げられます(1コリント11:3-16、14:34-35)。これをそのまま受け取ることだけが聖書信仰とは言えないでしょう。これを父権的な枠組みの中、歴史的な制限の下にある教えと見なす(相対化する)ことも、聖書信仰に抵触するとは思えません。寄稿(1)で述べたように、神の啓示は旧約聖書であれ新約聖書であれ、歴史的現実の中に現されるからです。

絹川久子氏による『沈黙の声を聴く――マルコ福音書から』(日本キリスト教団出版局、2014年)などは、かなり詳しく当時の社会的背景に照らして、福音書に描かれる女性や弱者の叫び、またそれに応えるイエスを描いています。同時に、荒井献氏の『新約聖書の女性観』(岩波書店、1988年)などを読むと、初代のキリスト教共同体が、父権制の強いユダヤ・ギリシャ・ローマの世界にあって、独特な女性解放的要素に富んでいたことを説いています。あるいは、こんなことも考えます。日本は、女子ミッションの高等教育がとても盛んな国です。にもかかわらず、女性の社会進出が非常に遅れた国でもあります。女子ミッション教育は、父権制の強い日本社会を破ることができなかったのだろうか? それはなぜなのか? 東京基督教大学で教え、また東京女子大学の学長もなさった湊晶子氏は、福音派におけるフェミニズム神学(健全な意味で)の論客です。そのあたりをお聞きしてみたいとも思います(参考、湊晶子『女性のほんとうのひとり立ち』、いのちのことば社)。

福音主義神学会の学会誌32号(2001年)には、「女性教職論」との特集テーマのもと、湊晶子「女性教職の歴史神学的考察」、國重潔志「米国福音派における女性教職論」、稲垣緋紗子「賜物に性による差はあるのかとの問いをめぐって」が所収されています。

最後に一言。昨年、私は徳島にある大塚美術館を訪れる機会を得ました。その時、聖書をテーマとした絵画に造詣の深い町田俊之先生をお迎えして、様々な絵画についてご説明をいただきました。有名な17世紀オランダのレンブラントによる「放蕩息子」を前にして、先生がレンブラントの栄枯盛衰的な人生の最後にこの作品が描かれたことを教えてくださいました。そして、息子を迎える父の手が、右と左が明らかに違うことを。片方は父親の節くれ立った手。もう片方が、やさしい母親の手。まさに、そうだなぁ、と味わい深く絵画に見入ってしまいました。

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レンブラント「放蕩息子の帰還」

実は、山﨑ランサム先生からは、他にもご質問をいただきました。これ以上、私の寄稿で先生のブログスペースを乱すことはやめておきます。せめて先生からのご質問だけは記させてください。私たちの今後の課題となると確信しています。

先生、本当にありがとうございました。

Q.本書でもカール・バルトについてかなり積極的な評価がなされているように、福音主義の聖書信仰も、いわゆる福音派教会の内部だけで議論されてきたのではなく、福音派外のさまざまな立場との積極的対話から実り多いものが生まれてくるように思います。この点について、先生のお考えをお聞かせください。

Q.本書の貴重な貢献の一つに、欧米の福音主義だけでなく、日本における福音主義の歴史についても紹介しておられる 点が挙げられると思います。12章「戦後日本の聖書信仰」では、1980年代の聖書信仰論争までが描かれています。他の章ではより最 近の日本の神学者についても個別に触れておられますが、先生の目からご覧になって、ここ30年の日本の福音派における「聖書信仰」の 理解は、どのように変わってきたとお考えでしょうか?

Q.本書で先生が提唱しておられるような幅のある豊かな「聖書信仰」を、ポストモダンの社会に生きる日本のキリスト 教会が体現していくためには、具体的にどのようなことに留意していくべきと思われますか?教職者として、信徒として有益と思われるアドバイスをいただけると感謝です。

――(藤本ですが、この質問に対する答えは、すでにこのブログに豊かに記されています)

*     *     *

(以下、山崎ランサムです)

藤本先生が今回取り上げてくださったフェミニズム神学、あるいはラテンアメリカの解放の神学、アメリカ合衆国の黒人神学、韓国の民衆神学等、何らかの形での社会正義の実現がキリスト教の福音の重要な部分を占めるとする一連の神学的運動について、福音的「聖書信仰」の立場からどう考えるかというのは、たいへん重要な問題だと思います。

先生が『聖書信仰』の中で論じておられるように、聖書信仰が真理の啓示としての聖書の側面だけでなく、救いを与える力を持つものとしての「救済論的聖書観」を含むものだとすれば、その「救い」は個人の魂の救済のみならず、社会や究極的には被造物世界全体の回復を射程に入れているものでなければならないと思います。そのような意味で、フェミニズム神学や解放の神学等の主張に全面的に同意することがなかったとしても、それらが提起している社会的正義の問題は、福音主義の聖書信仰にとっても決して無視することのできないものであると思います。

キリスト者といえども自らが生きる文化や社会の制約から完全に自由な「純粋な聖書信仰」を持つことは不可能です。そのような文化的社会的バイアスは、私たちの聖書理解にも必ず影響してきます。たとえばローマ16:7を考えて見ましょう。

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。(新改訳第3版)

ここで新改訳聖書(新共同訳、口語訳も同様)が「ユニアス」と男性名で訳している人物は女性名の「ユニア」であると、最近の学者の多くは考えています。また、この箇所は彼女とアンドロニコ(おそらく彼女の夫)が(十二弟子ではなく広い意味での)使徒であった可能性を示唆しています。つまり、彼らは「使徒たちによく知られた人々」ということではなく、「使徒たちの中でもぬきんでた人々」ということです。

男性名「ユニアス」の記録はこの箇所以外の古代文献には存在せず、教父時代から中世にかけて、この箇所の人物は女性の「ユニア」であると考えられてきましたが、近代になってこれを「ユニアス」と取る解釈が一般化しました。ジェームズ・ダンはそのローマ書注解の中で、「この人物が男性であるに違いないという思い込みがあるということは、最初期キリスト教の性格と構造についての男性の厚顔さに対する顕著な批判となっている」と述べています。つまり、この人物は「ユニアス」という男性だとしてきた解釈史には、「使徒は女性であるはずがない」という男性優位主義的な偏見が多分に影響していると考えられるのです。

しかし、近年になってこのようなバイアスは多少是正されてきており、それが聖書翻訳にも反映されてきています(もちろんそれだけが翻訳の決め手ではありませんが)。英語圏で広く読まれているNew International Versionの1984年版と2011年版でローマ16:7を比較してみるとそのことがよく分かります。

Greet Andronicus and Junias, my relatives who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(1984年版

Greet Andronicus and Junia, my fellow Jews who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(2011年版

同時に、藤本先生も おっしゃるように、新約聖書が当時の父権社会に生きる人々に向けて語られた神の言葉であるということも忘れてはならないと思います。これは奴隷制についても同様です。福音派は聖書の神的側面を強調しすぎるあまり、当時の人々の世界観や文化的バイアスのレベルにまで神が降りてきてくださっ て語りかけられた、という事実を軽視してしまい、聖書の中にある、本来は福音の価値観にそぐわない文化的要素を「神のことば」の名の下に絶対視してしまう危険性があると思います。

藤本先生、7回にわたって当ブログに貴重な文章をお寄せくださり、心から感謝いたします。ありがとうございました。

(おわり)

確かさという名の偶像(20)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第10章「実体的な希望」を取り上げます。

本書でボイドは確実性を追求し、疑いを排除するような信仰のあり方を批判してきました。しかし、多くのクリスチャンは、このような「確実性追求型」信仰のモデルには強固な聖書的根拠があると考えています。本章でボイドは、代表的な聖書箇所を二つ取り上げ、はたしてこれらの箇所が「確実性追求型信仰」を支持しているのか、吟味します。

ヤコブ1章6-8節

6  ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 7  そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 8  そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

一見この箇所はこれ以上ないほどストレートに「確実性追求型」信仰を支持しているように見えます。しかし、この箇所は、他のすべての聖書箇所と同じように、前後の文脈の中で理解していかなければなりません。この箇所の直前の5節はこうなっています。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」つまり、この箇所は何でも自分の欲しいものを求めるということではなく、神から知恵を願い求める際に必要な態度を表していることがわかります。

次に、ここで「疑う」と訳されているギリシア語はdiakrinōですが、この言葉は「揺れる」とか「ためらう」とも訳せる言葉です。そしてボイドは、ここでヤコブが語っているのは、神が知恵を与えてくださるかどうかを疑う、ということではなく、神に信頼してこの方に知恵を求めていくか、それとも知恵をこの世に求めていくかという、二つの選択肢の間で揺れ動いている状態をさすのだと言います。つまり、ここでヤコブが問題にしているのは、信仰者が心のなかでどれだけ強い確信を持つことができるかという心理的な問題ではなく、神との関係においていかにこの方に忠実に生きていくかという関係性の問題なのです。つまり、ここでヤコブは、ボイドがこれまで主張してきた人格的契約covenantに基づく信仰について語っているのです。

マルコ11章24節ほか

もう一つの、この主題に関してよく引用される聖書箇所は、マルコ11章24節です。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

ボイドは、この箇所やこれに類する箇所(マタイ18章19節、21章21節、マルコ11章23節、ヨハネ14章13-14節、15章7節、16節、16章23節など)が文字通りに受け取られる時、それらは「偶像礼拝的で、不健康で、奇怪で、時として破滅的な結果をもたらしてきた」と言います(p. 200)。

ボイドはこれらの箇所を文字通りに取るべきではない理由をいくつか挙げますが、その中で興味深いのは、祈りの効果に関する議論です。なぜある祈りは応えられ、別の祈りは応えられないのでしょうか?クリスチャンなら誰でも抱いたことのあるこの疑問について、ボイドはそれに答えるには、いくつもの要因を考慮しなければならないと言います。祈りを受ける人の信仰、祈りの粘り強さや熱心さ、祈りを助けあるいは妨げる霊的勢力の存在、罪の存在・・・。ボイドは、なぜある祈りが応えられるか(あるいは応えられないのか)、さらに言えば、どんなできごとでも、なぜそれがある特定の仕方で起こるのかを知るためには、時のはじめにまで遡って、歴史の方向性に影響を与えたすべてのできごとについての網羅的な知識が必要になると言いますが、もちろんそのようなことは不可能です。それゆえボイドは、祈りがその願っている効果をあらわすかどうかを前もって確実に知ることは不可能であり、心理的な操作によってそうでないかのように振る舞うことは愚かである、と言います。

ボイドは、イエスはこれらの言葉を語られた時、当時のユダヤ人がしばしばしたように誇張表現を用いていたのだと言います。リチャード・ボウカムもイエスが婉曲表現をこのみ、「一見明快な言葉でさえ実は誇張や皮肉だということもある。」と述べています(『イエス入門』98頁)。イエスが誇張表現を好んで用いられたことは、たとえば信仰があれば山をも動かすことができるという教え(マタイ17章20節)や、1万タラント(当時としては天文学的金額)の借金をした人物が出てくるたとえ話(マタイ18章24節)などに見ることができます。したがって、これらの箇所を読むときには、それらが誇張であることを意識して読まなければなりません。

誇張表現は、ある真理の重要性を強調するために、実際にそれが現実世界で持っている細かいニュアンスや原則に対する例外などをそぎ落として、そのエッセンスだけを増幅して語ります。したがって、私たちがそのような聖書箇所を読む時には、そこで語られている原則の重要性を認識する必要がありますが、だからといってそこに書かれている表現のすべてを文字通りに受け取る必要はありません。ですから、たとえば上で引用したマルコ11章24節について、

この聖句では祈り求めるものは「なんでも」与えられると書いてあります。「なんでも」とは、文字通りすべてのことを意味しています。だから、信仰を持ってなんでも祈り求めるなら、それはかならず与えられます!

という人があったとすると、それはイエスが用いられた誇張表現の性質を無視した解釈と言うことができます。確かに私たちは神に信頼して何でも祈り求めていくことが大切ですし、実際神はそれに応えてくださることも多いでしょう。しかし同時にこれは、このように祈れば必ず定められた結果が得られるという「祈りのマニュアル」ではありません。信じて祈っても応えられないことがあるということは、多くの人の体験からも(たとえば、病のいやしのために真摯に祈ってもいやされない場合など)、また聖書的にも(たとえば2コリント12章8-9節のパウロの祈りなど)裏付けられるからです。自動販売機に硬貨を投入してボタンを押せば、必ず飲み物が出てくるようなものではないのです。

ボイドはクリスチャンが聖書の誇張表現を文字通りに受け取ってしまうために起こってくる問題を指摘します:

人々が誇張表現を文字通りに解釈する時、彼らはいつも世界の巨大な複雑さを無視し、誇張的言語において表現されている諸原則を魔法の定式に変えてしまう。彼らはもしあれやこれやのことを行いさえすれば、その魔法の定式が約束していると彼らが信じるものは何でも、それこそ魔法のように入手できることが保証されていると考えることに安心感を覚えるのだ。しかし、ヨブの友人たちがそうであったように、彼らはその魔法の安心感を手に入れる代償として、これらの「約束」が果たされなかったすべての人を犠牲にする。そして同時に、もし彼ら自身あるいは彼らの愛する者がこれらの「果たされなかった」約束の犠牲者になるようなことが起こると、この偽りの安心感によってひどいしっぺ返しを食うことになるのである。(p. 204)

クリスチャンが聖書の誇張表現を文字通り受け取って、それを真摯に追求した結果、それらの箇所にある「約束」と相反する現実に直面した時、彼らの信仰は重大な危機に陥ります。ある人は神に裏切られたと思い、ある人は聖書の真実性を疑い、ある人は信仰がなかったからだと自分を責めます。けれどもそれらは、聖書が最初から意図しているわけではない「約束」にしがみつく見当違いな態度から来ていることが多いのだと思います。

聖書を神のことばとして真剣にとらえ、それを正しく解釈するということは、テキストにある表現を何もかも額面通りに受け取るということとは違います。比喩は比喩として、誇張は誇張として、著者(話者)の意図した読み方で読むことが大切です。実際多くのクリスチャンはこのような読み方を日常的に行っています。たとえば、ダビデが「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」(詩篇6篇6節)と書いているのを読んで、彼が文字通り涙で自分のベッドを漂わせたと考える人はいないでしょう。

しかし、今回見たような信仰に関する箇所は、その文字通りの解釈がさまざまな問題を含んでいるにもかかわらず、なぜか誇張表現であることが忘れられてしまうことが多いようです。このことは、確実性追求型の信仰理解(信仰の強さは心理的確信の強さに比例するという考え)がいかに根強いものであるかを表しています。同時に、ここにはボイドが批判してきた法律的契約contract概念にもとづく信仰理解も見られます。多くの人は、祈りを神との人格的関係にもとづいてとらえるのではなく、法律的取引(「私が神と交わした契約書によると、このように確信を持って祈るなら、神は必ずそれに応えなければならないはずだ」)としてとらえているのではないでしょうか。

つまり、マルコ11章24節のような箇所は、自分の祈りが応えられるという心理的確信を持ちさえすれば、かならずそのとおりになると言っているのではありません。では、この箇所が意味しているのは何なのでしょうか?次回は、聖書的に信仰を行使するとはどういうことなのか、ボイドの見解を紹介していきます。

(続く)

 

エペソ書とキリストの戦い(4)

その1 その2 その3

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回は、6章の「神の武具」の箇所についてさらに見ていきます。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

パウロは10節で「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 」と言います。ここの表現はギリシア語の動詞の受動態(「強められなさい」)が使われており、動作主が神ご自身であることを暗示しています。キリスト者は自分の力で強くなるのではなく、神によって強めていただく必要があります。ここで彼はゼカリヤ書10章12節を念頭に置いているのかもしれません。

わたしは主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると主は言われる。(新共同訳)

ゼカリヤ書のこの章は捕囚からの民の帰還を描いたものであり、パウロは世の終わりに主が集められた神の民として教会が強められる様子をイメージしていたのかもしれません。エペソ書では「主」はキリストを指しますが、「主にあって」という表現はパウロの手紙の重要な鍵概念である「キリストにあるin Christ」とのつながりも無視できません。つまり、クリスチャンは「キリストにある」という教会の枠組みの中でなければ、強められることはないのです。言い換えれば、教会につながらないで一匹狼で霊的戦いをすることはできないということです。

10節で「その偉大な力」と訳されているギリシア語の表現は1章19節でも出てきます。つまりこれはキリストにあって教会の内に働く神の力のことを言っているのです。さらに、12節に出てくる「支配(アルケー)」や「権威(エクスーシア)」は1章21節に出てきたものと同じ存在です。これらのことから、パウロが6章で論じている教会の戦いと、1章で語っていたキリストの戦いが非常に密接なつながりを持っていることが分かります。パウロは1章で、神の右の座に挙げられたキリストが天における霊的敵対勢力に対して優位に立たれたことを述べています。霊的戦いにおけるキリスト者の力は、主であるキリストがすべての霊的敵対勢力に対して持っておられる権威なのです。

1章でキリストが天において勝利しておられる相手と、6章で教会が戦うべき相手が同じであることはたいへん重要です。私たちは地上において、キリストの戦いを継続しているのです。それは、教会がキリストをかしらとする(1章22節)、キリストのからだであることから当然導かれることです。天における戦いと地における戦いは別々のものではないのです。

12節に出てくる様々な霊的敵対勢力の名前について詳しく述べることはしません。ここではパウロがあらゆる種類の悪しき霊的存在について包括的に語っていることが理解できれば十分です。これらの敵はノンクリスチャンを支配している(2章2節参照)だけでなく、クリスチャンに対しても攻撃を仕掛けてきます。それをパウロは「策略」(11節)といいます。敵の攻撃はすぐにそれと分かるものではなく、策略として巧妙に仕掛けられてくるものであることが分かります。クリスチャンがそれに惑わされていくと、教会が召しにしたがって歩むことが妨げられてしまいます。エペソ書の内容から考えると、「悪魔の策略」とは、知らず知らずのうちに教会に入り込んで堕落させ、その本来の召しから外れた歩みをさせようとするような、この世の価値観や文化、罪の誘惑といったものであると考えられます。「主権」や「力」はそのような策略を持ってこの世を支配しているだけでなく、教会をもその流れに巻き込もうとしているのです。教会はこのような策略を見抜き、それに立ち向かわなければなりません。

クリスチャンはこれらの敵の策略に対してどう戦うべきでしょうか?それは、4章1節にあるように、教会の召しにふさわしく歩むことであり、神の国の価値観(その究極の表現は十字架で表された自己犠牲的な愛です)に従って生きることです。それは具体的にはパウロが4章後半から述べてきたことですが、彼は終わりにあたってそのようなクリスチャンの戦いを、「武具」の比喩を用いて要約しているのです。

(続く)

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(7)

(シリーズ過去記事      

ライトは第3部の13章「神の霊感による書」と14章「物語と務め」で、聖書が語り、私たちが生きている神の物語において、聖書自体がどのような役割を果たしているのかを論じています。

ライトによると、聖書もまた、天と地が重なり、かみ合う接点の一つであり、聖書の「霊感」もこのような視点で捉えられると言います。聖書は神の啓示そのものですが、それは単なる「真なる情報の伝達」ではありません。ライトは、聖書が与えられた中心的な目的は、正しい教理を教えることではなく(それも大切ですが)、神の民がこの地においてその務めを果たすエネルギーを提供することだと言います。その意味でライトは、「無謬性」や「無誤性」に関わる議論はそれほど重視しません(259ページ)。ライトによると、聖書の権威とは、まさにこのような、神がご自分の民を用いてこの世で為そうとされている働きという観点から考えなければならないのであって、「『聖書の権威に生きる』とは、その物語の語っている世界に生きることを意味する」(264ページ)のです。

従来の福音派プロテスタントの理解では、「聖書の権威に従って生きる」とは、「聖書に含まれる真なる命題を信じ、それに従って生きる」というかたちで理解されることが多かったように思います。そこでは、聖書の解釈と適用は通常次のような手順で行われます:

1.聖書テキストがオリジナルの歴史的文脈で伝えようとしたメッセージを復元する(釈義)
2.釈義の結果から、オリジナルの歴史的・文化的要素を取り除き、時代や文化を超えて通用する普遍的な原則を抽出する
3.2.で取り出した原則を、現代のコンテクストにあてはめる(適用)

このようなアプローチの有効性を否定するつもりはありませんし、私自身神学校でも教えています。けれども、このようなアプローチには一つの大きな限界があると思います。それは、聖書のメッセージを、時代や文化によって変わることのない永遠の真理(timeless truth)を表す命題に還元してしまおうとする態度です。たしかにこのアプローチは、聖書の教えをさまざまな時代や文化に生きる人々に幅広く適用することができるという利点がありますが、逆に、救済史の中の特定の時点に生きている私たちがどう歩むべきかということについて、非常に一般化された指針しか与えられないという欠点があると思います。

聖書をナラティヴとして読み、適用するという立場では、上で述べたような命題的アプローチの有効性を否定することなく、それにとらわれない柔軟なアプローチをすることができると思います。こちらの過去記事にも書きましたが、ライトは聖書を五幕からなる未完の劇の脚本にたとえています。その記事から関連する部分を引用します:

このような救済史的な聖書解釈のアプローチは多くの人々によって採用されていますが、おそらく最も有名なのは近年日本でも名を知られるようになってきたN・T・ライトのものではないかと思います。彼は聖書全体のナラティヴ(物語)を五幕ものの未完の劇にたとえています。最初の四幕は1. 創造、2. 堕落、3. イスラエル、4. イエス・キリストであり、劇の脚本(聖書)は、ここまでの部分と、最終幕の最初の部分(初代教会)だけが完成しており、あとは結末(終末)のラフスケッチのみが残されている、と考えます。

さて、ライトによると現代の私たちはこの初代教会と終末の間の部分を演じる役者として舞台に立っています。ところが私たちの演じるべき部分の脚本は未完であるため、私たちはこれまでの劇のストーリー展開とその終わり方を熟知した上で、今の場面にふさわしい演技を即興improvisationで演じていかなければならない、と言います。従って、即興とは(ジャズの即興演奏がそうであるように)あらかじめどのように行うかは一通りに決められているわけではありませんが、だからといって単なるでたらめではありません。ライトは、現代の私たちはこのようにして聖書を読み適用すべきだ、というのです。

クリスチャンであるとは、聖書の教えに従って生きることですが、「聖書の教えに従って生きる」とは、単に普遍的な宗教的・道徳的原則を信じ適用するということではなく、「現在進行中の聖書の物語を神に導かれて生きる」ことだといえます。

*   *   *

『クリスチャンであるとは』について何回かにわたって書いてきましたが、今回で最終回にしたいと思います。最初に書きましたように、本書で取り扱われているすべての重要な主題を網羅したわけではありませんが、ごくおおまかな内容は紹介することができたのではないかと思います。ライトの主張に同意するか否かにかかわらず、本書を読まれた方が、新たな興味と関心をもって聖書を紐解かれるだけでなく、聖書にある壮大な神のドラマに身を投じて生きるようになることを願っていますが、それはまた著者ライトの願いでもあると信じます。

(終わり)

御国を来たらせたまえ(4)

(シリーズ過去記事   

このシリーズでは、「神の国の到来」をテーマに考えてきました。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」と祈るようにとイエスが弟子たちに教えられたように、キリスト者の祈りは、そして聖書が教える終末の希望は、神の国が地上に訪れることであって、私たちが「天国に行く」ということではありません。つまり、基本的に聖書が示している方向性は「天から地へ」であって、「地から天へ」ではないのです。

これに関連して、今回は多くのクリスチャンが終末に起こると考えている一つのできごとについて取り上げたいと思います。それは「携挙」と呼ばれるものです。

「携挙」と言う言葉自体は聖書には出てきません。英語のraptureという表現は、1テサロニケ4章17節のラテン語訳に出てくるrapiemur(「私たちは取り去られるであろう」)という語に由来します。「携挙」は特にキリスト教の終末論において、終末に起こるとされる患難期の始まる前にキリストが再臨して教会を天に引きあげるという立場(これを「患難期前再臨説」と言います)を取る人々が、その時に起こる出来事を指す表現として用いられます。つまり「携挙」とは、世の終わりにキリストが再臨するとき、地上に生きているクリスチャンが文字通り空中に引き上げられてキリストに出会い、そのまま天に引きあげられるできごとをさす用語です。アメリカを中心に大ヒットし、邦訳も出版された『レフトビハインド』のシリーズもこの理解に基づいており、携挙の概念は日本のキリスト教会でも多くの支持者を持っています。この記事では、携挙のタイミング(患難期との前後関係など)についての細かい議論には触れず、携挙の概念そのものについて、その聖書的根拠を探っていきたいと思います。特に問題となるのは、空中で再臨のキリストに出会った聖徒たちが、そのまま天に引きあげられるのかどうか、と言う点です。

先に進む前にあらかじめお断りしておきますが、携挙に関しては保守的なキリスト者の間でも様々な見解があり、以下に記すのはあくまでも筆者個人の理解です。「携挙」の解釈は福音理解の根幹に関わるものではなく、それに関して意見の相違があったとしても、福音主義的キリスト者としての交わりがさまたげられる必然性は何もありません

さて、「携挙」の聖書的根拠として参照されるもっとも重要な箇所は、冒頭にも挙げたパウロによるテサロニケ人への手紙の次の一節です:

17 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。  16  すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、  17  それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(1テサロニケ4章15-17節)

特に17節の「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」では、キリストの再臨時に、地上で生きているクリスチャンが(それ以前に死んでいたけれども今や復活したクリスチャンたちと共に)空中に引きあげられて、そこでキリストと出会うことが記されています。携挙を信じる立場ではこの後クリスチャンはキリストと共に天に引きあげられるとされます。つまりこの時キリストが降りてこられるのは空中までであり、完全に地上にまで降臨するわけではありませんので、「空中再臨」と呼ばれます。

さて、このような再臨の理解ははたしてパウロが意図したものだったのでしょうか?ここで鍵となるのが17節で「会う」と訳されているギリシア語の名詞apantēsisです。古代世界では、王や皇帝のような高貴な人物がある町を訪れた時に、町の住民が城門の外まで迎えに出て、その王を町へとエスコートすることが行われました。その時に使われたことばがこのapantēsisです。たとえば2サムエル記19章25節(ギリシア語の七十人訳聖書では26節)では、エルサレムに帰還したダビデ王をメフィボシェテが迎えに出たことが書かれていますが、そこでもapantēsisが使われています。使徒28章15節でも、パウロがローマの近くまで来たとき、ローマのクリスチャンたちがパウロを出迎えた(apantēsis)ことが書かれていますが、文脈からして当然彼らはパウロを伴ってローマに帰ったことと思われます。もしかしたらここには、世界の、したがってローマ帝国の真の王なるイエスの使節として、パウロを首都に迎え入れるというイメージがあるのかもしれません。使徒行伝のナラティヴは、パウロが帝都ローマにおいて「はばからず、また妨げられることもなく、神の国(=王としての支配)を宣べ伝え、イエス・キリストのことを教えつづけた。」(28章31節)という記述で終わっています。

さて、1テサロニケ4章でパウロが再臨のキリストを地上を訪れる天の王として描いていることは、ダニエル7章13-14節を思わせる雲のイメージを使用していることや、ローマ皇帝にも使われた「主kyrios」という称号を使用していることなどからも明らかです。そうであるならば、パウロがここで示唆していることは、王であるキリストが天から地上に降りてこられる時に、その「臣下」であるキリスト者が空中まで迎えに出て、その後主とともに地上に降りてくることであると考えられます。黙示録21章にも書かれているように、私たちの最終的な状態は地上で父なる神およびキリストとともに住むことですが、上のように考えると、17節の「こうして、いつも主と共にいるであろう。」も理解しやすくなります。

ここでパウロが使っている表現は黙示的言語を使った象徴表現であって、文字通り起こるできごとではないと考える立場もあります。たとえば、米国福音派の新約聖書学者George Eldon Laddは次のように言います:

生きている信者が復活の直後に空中で主と出会うために「携え挙げられる」というのは、生きている者がこの世の物理的な秩序に属する弱く朽ちるべき肉体から、来るべき世の新しい秩序に属する力強い朽ちない肉体へと突然変えられることを生き生きと描く、パウロの表現法である。 (A Theology of the New Testament, rev. ed., pp. 610-611)

しかし、象徴的であれ字義通りであれ、キリストの再臨時に起こることは、キリスト者が天国に移住することではなく、世界の主として天から降ってこられる王なるキリストを地上に迎えることなのです

携挙についてはさらに次回も考えてみたいと思います。

(続く)

聖書の歴史的コンテクスト

私は神学校で聖書解釈学を教えていますが、学生たちに口を酸っぱくして教えていることは、「聖書解釈はコンテクストがいのちである」ということです。

「コンテクスト」という言葉は「文脈」「前後関係」などと訳されますが、聖書のテクストはその置かれている具体的な文脈の中で解釈してはじめてその意味を正確に理解できるということです。聖書解釈におけるコンテクストには大きく分けて二種類あります。

一つは「文学的コンテクスト」と呼ばれるもので、これは聖書のテクストそれ自体の文脈、すなわち、当該箇所の前後に何が書いてあるか、ということです。(この場合の「文学的」という表現には「フィクション」というニュアンスは含まれません。)たとえば聖書の中には、「神はない」という言葉が出てきますが、だからといって聖書が神の存在を否定しているわけではありません。この言葉はその前後関係、

愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。(詩篇14篇1節)

という文学的コンテクストに照らして、初めてその意図を十分に受け止めることができるのです。

さて、聖書のコンテクストにはもう一つ、「歴史的コンテクスト」と呼ばれるものがあります。これは「歴史的背景」と言ってもよいですが、特定の聖書のテキストが書かれた歴史的な状況を指します。 聖書は歴史的真空状態の中で書かれたものではありません。聖書記者は聖書を書く時に、読者が当時の歴史的・文化的状況をある程度知っていることを前提として書いていることが多いのです。したがって、現代の読者がその箇所を読んでも、歴史的背景を知らないとそのメッセージをとらえ損なうことがあります。逆に、その書かれた当時の歴史的・文化的状況を知ることは当該箇所の正確な理解を助けることになります。このように、解釈しようとする箇所の歴史的コンテクストを調べることは、聖書解釈の基本的なステップの一つです。

ある時私は聖書解釈学の授業で、いつものように歴史的コンテクストの重要性を教えていました。すると一人の神学生が手を挙げて、次のような質問をしたのです。

「聖書の歴史的コンテクストを調べなければならないということは、聖書のどこに書かれているのですか?」

この質問を受けて私は一瞬答に詰まってしまいました。ある聖書テクストの歴史的コンテキストは、普通は当然ながらそのテクスト自体には含まれません。また、聖書の著者とその最初の読者とは、同じ時代と文化の中に生きていることが多いので、そのような歴史的コンテクストは両者の間ですで共有されており、わざわざ言及する必要はなかったと思われます。つまり、聖書のオリジナルの読者は、聖書を正しく理解するために、今日の聖書学者のようにその歴史的コンテクストを意識的に調査する必要はあまりなかったのです。

一方で、このような質問がなされた意図も分からないことはありませんでした。聖書を信仰と実践の最終的権威と告白する福音主義的キリスト教の立場からすれば、聖書解釈という営みの具体的な方法論(この場合は歴史的コンテクストの再構成)の有効性もまた、聖書に基いて吟味されるべきだ、という考えがあったとしても理解できます。つまりこの学生には、聖書の歴史的コンテクストを調べるという作業は、聖書の外から持ち込まれた異質なものであると感じられたのかもしれません。

非常に興味深い質問だと思いましたので、この問題についてじっくりと考えてみることにしました。その中で見つけたのが次の箇所です。

1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。 2  そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。 3  もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 4  また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 5  そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。(マルコ7章1-5節)

このエピソードでは、イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているのをパリサイ人が批判しています。ここで注意したいのは、太字で示した3節と4節の部分は、福音書の著者であるマルコ自身が挿入した説明文だということです。話の筋自体はこの部分がなくても、2節から5節にスムーズにつながります。おそらくマルコが福音書を書く際に利用した資料では、そのようになっていたのでしょう。しかし、この説明部分があることによって、読者にはイエスとパリサイ人との論争が単なる衛生上の問題についてのものではなく、当時のユダヤで食前に行われていた儀式的な浄めの洗いの妥当性について行われた宗教的な性格のものだということが明らかになるのです。

もちろん、そのような説明は、当時のユダヤ社会の宗教的慣習をよく知る者には不要だったかもしれません。しかし、ユダヤの宗教文化に不案内な読者は、なぜ食前に手を洗わないことをパリサイ人が問題にしたのか、またそれに対してなぜイエスが「人間の言伝え」を守っているとパリサイ人を批判したのか(8節)理解しにくかったと思われます。そして、マルコはまさにそのような、パレスチナのユダヤ教文化をよく知らない異邦人読者を主な対象として福音書を書いていたからこそ、このような説明文を挿入したのだと思われます。

このことは、新約時代に既に、キリスト教のメッセージを異文化の人々に正確に伝えるためには、その歴史的コンテクストを説明しなければならないと初代教会の人々が意識していたことを意味しています。このような例はこの箇所だけでなく他にも見出すことができます(たとえばヨハネ4章9節など)。

しかし、聖書の歴史的背景は、このように聖書テクスト自体の中でわざわざ説明されることはむしろ稀です。上述したように、聖書はもともと書かれた当時の人々が読むことを想定して書かれていますので、当時の人々が常識的に知っている内容は書く必要がなかったからです。けれども現代の私たちが聖書を読む時には、そのような知識を共有していないため、意識的に当時の背景を調べていく必要があります。その際には、聖書以外の資料(注解書等)を活用する必要も出てきます。

保守的なクリスチャンの中には、聖書を読む時に聖書以外の参考資料を用いたり、歴史的背景を調べたりする作業を否定する人々も存在します。「聖書だけを開いて素直に読めば、その意味は自ずと明らかになる」というわけです。しかし、聖書のメッセージを正しく理解するために、必要に応じてテクスト自体に含まれない背景情報も活用するべきであるということは、聖書自体が示唆しているのです。

黙示録における「福音」(5)

(このシリーズの先頭はこちら

前回の記事では、黙示録において「ほふられた小羊」としてのキリストのイメージが頻出することから、十字架の贖罪に見られる自己犠牲的な愛が黙示録のメッセージの中心にある、と述べました。そのような愛の神としてのキリストのイメージは、新約聖書の他の文書におけるそれとつながっていくものです。

しかしその一方で、黙示録は終末における神の怒り、力による裁きの描写で満ち溢れているのも事実です。それは6章以降で展開する世の終わりのさばきの描写や、19-20章に描かれる再臨のキリストと悪の勢力との戦いなどに明らかです。黙示録に見られる、この二つの一見相反するような特徴は互いにどのような関係にあると考えたら良いのでしょうか?

この問題を考えるためには、黙示録の言語がどのように機能するのかを考えなければなりません。

聖書を解釈する時の基本的なアプローチは、各書巻がどのような文学類型(ジャンル)に属するかを見極めて、それぞれのジャンルに適した解釈を行っていくことです。(このことについて詳しく学びたい方は、最近邦訳の出た、フィーとスチュワートによる教科書を参照してください。)

ヨハネの黙示録は基本的に黙示文学というジャンルに属しています(この他に預言や手紙としても読むことができますが、煩雑になるのでここでは触れません)。黙示文学の特徴は象徴的な言語を多用することです。つまり、本書に含まれる幻の描写を文字通りに受け取るのではなく、一つ一つのイメージが何を指し示しているのかを解釈することが必要です。

たとえば、黙示録に登場するキリストは口から剣が出た姿で描かれることがあります(1章16節、19章15節)が、ここで、私たちは復活と再臨のキリストの口からは文字通りの剣が出ている、と受け取るべきではありません。これはキリストが神の裁きのことばを宣言することを表す象徴表現です。また、前回とりあげた「小羊」としてのキリストの描写も、文字通りキリストが動物の羊であると言っているわけではありません。つまり、黙示録を読む時には、ヨハネが見る幻の中に登場するイメージをすべて文字通りに受け取るべきではないのです。

それでは、黙示録に登場する様々な暴力的イメージはどのように解釈したらよいのでしょうか?それらは世の終わりに起こる出来事、また神の裁きのありさまをドキュメンタリー映画のように描写したものでしょうか?それとも何か別のものを指し示す象徴なのでしょうか?

(アルブレヒト・デューラー「黙示録の四騎士」)

話は変わりますが、キリスト教においては、神やイエス・キリストをたたえ、信仰を表現するために音楽が重要な役割を果たしています。そして、世界には実に多種多様なスタイルによるキリスト教音楽が存在します。その中でも非常にユニークで興味深いジャンルとして、「クリスチャン・ヘビーメタル」があります。

大音量で歪んだギターサウンド、激しいドラムビート、絶叫するボーカル・・・多くのクリスチャンは、ヘビーメタルという音楽ジャンルそのものがキリスト教信仰とは相容れない、反キリスト的、悪魔的なものと考えているかもしれません(実際、ヘビーメタルのバンドの中には、死や罪や悪魔を礼賛するようなものも数多くあります)。そのような人々にとっては、「クリスチャンのヘビーメタル」というのは矛盾した表現に聞こえるでしょう。

ところが実際には、欧米ではクリスチャン・メタル(「ホワイト・メタル」と呼ばれることもあるそうです)はれっきとした一つのジャンルとして確立しており、数多くのクリスチャン・メタルバンドが存在しています。そのようなバンドはヘビーメタルのアグレッシヴなスタイルを利用して、自らの信仰を表現しているのです。

Pääkallonpaikka

上の画像はフィンランドのクリスチャン・メタルバンド、HBのアルバムジャケットです。骸骨をあしらったアートワークは、一見すると「いかにも」ヘビーメタルといったデザインで、一般のCDショップに置かれていたら、世俗的な悪魔崇拝バンドのCDとまったく見分けがつかないかも知れません。しかし、このアルバムタイトル「Pääkallonpaikka」というのは、フィンランド語で「どくろの場所」という意味です。つまり、このアルバムはイエス・キリストが十字架につけられたカルバリの丘を表現しているのです。そう思ってあらためてこのジャケットを見ると、骸骨に突き刺さっている3本の釘はカルバリの丘の3本の十字架を表し、中央の血塗られた釘はイエスの十字架を表しているのだろうと推測できます。さらに言えば、左側の釘にバンドのロゴが鎖でつながっているのは、イエスと共に十字架につけられた罪人に自分たちをなぞらえているのかもしれません。このHBによるアルバムジャケットは、一般的なヘビーメタルの慣用的イメージを逆用して、福音のメッセージを伝えることに見事に成功していると言えます。

聖書と音楽のアナロジーを考えることが許されるなら、ヨハネの黙示録は新約聖書のヘビーメタルと考えることができます。その音楽スタイルのゆえにクリスチャン・メタルを敬遠するクリスチャンがいるように、黙示録を正典と認めつつも、その暴力的イメージゆえに違和感を覚えるクリスチャンもいると思います。けれども、ヨハネが黙示文学的なスタイルを何の目的でどのように使用しているかを認識することが重要です。メタルミュージックのアグレッシヴなスタイルがそうであるように、黙示文学のグロテスクで暴力的・奇怪なイメージは読み手にショックを与えることによってその意識を覚醒させ、目に見える世界の背後にある超自然的な現実に目を向けさせる効果があります。黙示録においても確かに暴力的な裁きや戦いのイメージが多用されています。しかし、それらのイメージのすべてを文字通りに受け取るべきではありません。むしろ、ちょうどクリスチャンのメタルバンドがヘビーメタルのスタイルを逆用して福音のメッセージを伝えているように、ヨハネは同時代のユダヤの黙示文学に見られた、終末における神の裁きに関する標準的なイメージ表現の手法を逆用していると考えることができます。つまり、この点でヨハネの黙示録のメッセージは一般的なユダヤ教黙示文学のそれとはまったく異なっているのです。

黙示録に込められたヨハネの真にオリジナルなメッセージは、世の終わりや神と悪との戦いという普遍的な問題に対して、「ほふられた小羊」つまりイエス・キリストのレンズを通して見るように、読者に呼びかけているところにあるのです。

(続く)

 

黙示録における「福音」(4)

(このシリーズの先頭はこちら

前回は、「黙示録における十字架」について考察しました。そこでも見たように、「十字架」ということばは黙示録にはほとんど出てきません。しかし、十字架を表す別の重要なイメージが繰り返し登場するのです。それは「小羊」のイメージです。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)

(ヤン・ファン・エイク 「神秘の小羊」)

「小羊」としてのキリスト

黙示録において、「小羊arnion」ということばはキリストについて28回使われています。黙示録研究の世界的な権威であるリチャード・ボウカムRichard Bauckhamの解釈によると、28 = 4 x 7であり、4は世界を象徴し、7は完全数であることから、キリストの使命は全世界の国々を贖うことであると考えられます。この「小羊」は5章で初めて登場し、22章の冒頭、ヨハネが見た幻の最後の部分まで繰り返し登場します。

まず5章で、小羊は天の御座に座る神の右手にある巻物を開くことのできる唯一の存在として登場します。この巻物には、神の歴史に対するご計画、つまり神がどのようにして地上の悪に勝利され、永遠の支配を確立されるのか、と言うことに関する奥義が記されています。それを開くということは、神から権威を受けてそのご計画を遂行するということです。

そのようなことのできる存在は、天地のどこにも見いだせなかったため、ヨハネは激しく泣いていました。しかし、彼は「ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」と聞きました(5節)。彼は「獅子」と聞いたのですが、実際に彼が「見る」と、そこにいたのは「ほふられたとみえる小羊」でした(6節)。ここには驚くべき比喩の逆転が見られます。「ほふられたとみえる」という表現は、ほふられて一度死んだけれども、よみがえったという、イエスの死と復活の両方を表しているのです。

黙示録がイエスの復活だけを強調しているわけではないことに注意しなければなりません。もし復活だけが重要であるならば、終末の幻においてイエスを小羊として描く必要は何もありません。獅子や力強い戦士などのイメージだけを用いれば良いのです。しかし、ヨハネが最後までこの小羊のイメージにこだわるのには、イエスによる十字架の贖罪に焦点を当て続けるという、神学的な理由があるのです。

さて、5章では小羊は天の御座にあって、天使たちの礼拝を受けますが、そこでは十字架上の死による贖いのわざが賛美されます(9-10節)。つまり、ここではイエスが初臨の時になしとげられた過去の救いのわざについて語られているのです。

しかし、黙示録において小羊のイメージは過去の贖罪のできごとのみに関わっている訳ではありません。6章以降では小羊は巻物の7つの封印を解いていきます。つまり、終末に向けての歴史の展開を導いているのは小羊なのです。

 14章でヨハネはシオンの山に立つ小羊を見ます。これは終末における悪の勢力(13章に描かれている竜、獣、偽預言者)と戦うキリストの姿です。小羊に従う14万4千人は小羊の軍隊としての教会を表しています。小羊と悪の勢力との戦いは17章でも語られます。

彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。(17章14節)

さらに、小羊は終末のビジョンのクライマックス、新天新地と新しいエルサレムの場面でも登場します。終末における神の民の救いの完成は「小羊の婚宴」(19章9節)として描かれます。そしてヨハネの見た幻の最後の部分でも、こう書かれています。

のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。(22章3-4節)

つまり、黙示録においてはキリストは十字架の死をもって人々を贖っただけではなく、世の終わりに至る歴史の展開を導かれ、最後の悪との戦いにおいても中心的役割を果たされ、永遠に神と共に統べ治められます。そしてこのすべてのキリストのみわざについて、ヨハネは「ほふられた小羊」というイメージを用いているのです。

このことは、キリストが「どのようにして」天の御座から統べ治め、「どのようにして」悪に勝利されるのか、ということについて重要な洞察を与えてくれます。つまり、キリストが世界を支配し、悪を裁き滅ぼされるのは、ローマやバビロンのような軍事力・物理的暴力によってではなく、カルバリの丘で表されたような自己犠牲的な愛によってなされる、ということです。

 黙示録における暴力的な裁きの描写を象徴としてではなく字義通りに解釈することは、他の新約文書(特に福音書)の神観・イエス像と矛盾するばかりでなく、黙示録の中心的ビジョンである4-5章における神とキリストの描写とも矛盾します。そこではほふられた小羊であるキリストが天の王座にあって統べ治め、また礼拝を受けています。つまり、キリストは「ほふられた小羊として」世界を治め、裁かれるのですし、「ほふられた小羊として」あがめられるのです。「ほふられた小羊」つまり自己犠牲的な愛の姿はキリスト、そして神の本質的なアイデンティティであり、黙示録のすべてのイメージはそのレンズを通して解釈されなければならないのです。

(続く)