力の支配に抗して(1)

当ブログではこれまでもシモーヌ・ヴェイユについて何度か取り上げてきました(たとえばこの記事)。

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シモーヌ・ヴェイユ(1921年)

私はヴェイユの専門家ではなく、彼女が書いたものをすべて読んでいるわけでもありませんが、暇を見ては少しずつ読んできました。その中で最も好きな作品はと問われれば、躊躇することなく挙げたいのが、「『イリアス』あるいは力の詩篇」です。これまで、冨原眞弓訳(みすず書房『ギリシアの泉』所収)、Mary McCarthyによる英訳(こちらで読むことができます)、そして最近出た今村純子訳(河出文庫『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』所収)といろいろな訳で読んできましたが、読むたびに感動を新たにする珠玉の小品です。

このエッセイは、タイトルからして素晴らしいです。このような、直截的かつ詩的な表題を自分もいつか書いてみたいと思います。そして開口一番、単刀直入に主題が述べられます。

『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、力である。

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神とともに創造する

前回の記事からずいぶん間が空いてしまいましたが、聖書における創造概念についてもう少し考察を進めてみたいと思います。

ジョン・ウォルトン師の中心的主張は、聖書が語る創造の概念は物質的なものというよりは、機能に中心的な重点が置かれていると言うことです。そのような機能的創造概念が旧新約聖書全体に渡って見られることは、前回も述べたとおりです。

今回考えてみたいのは、そのような創造の主体は誰か?ということです。もちろん、第一義的にはそれは唯一の神であることは言うまでもありません。しかし、同時に、神はその創造のわざ――つまり、世界に機能と秩序をもたらすこと――に参加するように被造物(特に人間)を招いておられるのではないかと思うのです。

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クリスマスの星

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ・・・彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイの福音書2章1-2、9-10節)

東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを拝みに訪れた話は、聖書にあるクリスマスの物語の中でも、ひときわ印象的なエピソードです。

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教会の降誕劇などでも馴染み深いこの話ですが、一般に知られているストーリーには、聖書に書かれていない要素もあります。 続きを読む

C・S・ルイスの「七つの大罪」?

C・S・ルイスは20世紀の最も影響力のあったクリスチャン著述家の一人と言えるでしょう。映画にもなった児童文学の傑作「ナルニア国ものがたり」シリーズをはじめ、『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』、『悪魔の手紙(The Screwtape Letters)』などを読まれたことのある方も多いと思います。

ルイスは英国国教会に属していましたが、教派を超えて、特に英米の福音主義キリスト教界に今日に至るまで強い影響力を持ち続けています。彼の死後40年以上も経った2005年にルイスはアメリカ福音派の雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』の表紙を飾りました。その号の「C. S. Lewis Superstar」と題されたカバーストーリーでは、ルイスを「福音派のロックスター的存在」と形容しています。

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ところが、福音派におけるルイスの絶大な人気とは裏腹に、彼のキリスト教信仰は標準的な福音主義プロテスタントのそれとは必ずしも一致しません。それどころか、保守的な福音派のクリスチャンなら戸惑いを隠せないような側面が彼の信仰にはあったのです。

フランク・ヴィオラは「C・S・ルイスのショッキングな見解」と題するブログ記事を書いています。その中で彼はルイスが信じていた6つの「ショッキングな」ことがらを列挙しています。

1.ルイスは煉獄の存在を信じていた。

2.ルイスは死者への祈りの有効性を信じていた。

3.ルイスは地獄に堕ちた者が死後に恵みへと移行することは可能であると信じていた。

4.ルイスは全てのクリスチャンが禁酒すべきだという考えは間違っていると信じていた。

5.ルイスはカトリックのミサは聖餐の妥当な理解であると信じていた。

6.ルイスはヨブ記は史実ではなく、聖書は誤りを含むと信じていた。

ヴィオラ自身が述べているように、これらのルイスの見解がすべてのクリスチャンにとって「ショッキング」というわけではありません。しかし、これらの項目は、多くの保守的な福音派クリスチャンにとってはかなり受け入れがたいものではないかと思います。

ヴィオラが挙げているのは以上の6項目ですが、私はこれに7番目を付け加えたいと思います。

7.ルイスは生物の進化を信じていた。

神学的には乱暴な表現であることを承知であえて言うなら、これらの7ポイントは福音派にとってのルイスの「七つの大罪Seven Deadly Sins」と言ってもよいかもしれません

ちなみに「七つの大罪」とは、カトリック教会において、悔い改めなければ永遠の死に至るとされる七つの罪のことで、伝統的に「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」がこれに当たります。ただし、ここで述べているルイスの「七つの大罪」はあくまでもアナロジーですので、これらのカトリックの概念に対応しているわけではありません。「福音派のクリスチャンにとって、ルイスのキリスト教信仰の正統性を疑問視させる根拠となりうるような7つの信仰内容」程度に受け止めていただければ幸いです。

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さて、このようなルイスの「ショッキングな見解」について、どう考えるべきでしょうか?この記事の趣旨は上に列挙したルイスの考えが教理的に正しい「聖書的な」ものかを吟味することではありません。むしろここで提起したいのは、上で述べたような神学的見解を持っているからといって、福音派のクリスチャンはルイスのキリスト教信仰の正統性を否定すべきなのか?(通俗的な表現を使えば、ルイスは天国に行けたのか?)という問題です。言い換えれば、これら(福音派にとって)非正統的な信仰内容は、ルイスのいわば「死に至る罪」なのでしょうか?

ここで、ヴィオラのコメントに耳を傾けてみましょう。

(このような「ショッキングな見解」について記事にする理由は)これらの人々が今日の福音派の大多数が眉をひそめるような意見を持っていたからといって、キリストのからだに対して彼らの貴重な思想がおこなった貢献が覆されたり否定されたりすることはない、ということを示すことにある。

不幸なことに、多くの福音主義者は、いわゆる教理的誤りについて、キリストにある兄弟姉妹をすぐに軽視したり、罵倒さえしたりする。それらの兄弟姉妹たちが歴史的正統信条(使徒信条、ニカイア信条など)を堅持していたとしても、である。そのような軽視や罵倒は神の国に属する者たちの誰にも益することがなく、いつでも避けることができるものである。

ここでヴィオラは「歴史的正統信条」について触れていますが、これを堅持しているということは、キリストと使徒たちに起源を持ち、二千年にわたって受け継がれてきた正統的信仰の中核的部分を共有しているということです。これらの信条は、教派を問わず世界中のすべての正統的キリスト教の最大公約数的な信仰内容を要約したものであると言えます。ここでは、その一つとして「使徒信条」を取り上げたいと思います。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。

さて、この信条の内容と上で述べたルイスの「七つの大罪」とを比較してみると、ルイスの「ショッキングな見解」のどれ一つとして、使徒信条の内容と矛盾するものはないと言えます。おそらくルイスは、何の留保もなく使徒信条を告白していたことでしょう。

このことは、ルイスの信じていたことがすべて正しいということではありません。ルイスと他のクリスチャンとの間には多くの解消しがたい意見の相違があり、ルイスの信じていたことの少なくともいくつかは間違っている可能性もあります。しかし、あらゆる点で完全無欠な教理の体系を持つことは誰にもできません。大切なことは、ルイスの信仰は歴史的正統キリスト教の中核的信仰告白とは何ら矛盾しないのであり、その意味で「正統的信仰」であったということです。つまり、ルイスが「教理」や「意見」のレベルでは多くの福音派クリスチャンと異なる部分を持っていたとしても、「教義」のレベルでは両者は同意することができるのです。(「教義」「教理」「意見」についてはこちらの過去記事をご覧ください。)

福音派のクリスチャンがルイスの神学的見解のすべてを受け入れる必要はありません。しかし、彼の「ショッキング」な見解を知って彼を異端視したり、彼の豊かな信仰的遺産から学ぼうとすることをやめてしまうのはたいへん不幸なことであると思います。むしろ、彼の一見違和感を覚えるような見解と向き合い、じっくりと吟味していくことによって、福音派自身の信仰を見つめなおしていく機会も与えられてくるのではないかと思います。

C・S・ルイスは「福音派」ではありません。しかし、彼はこれからも多くの福音派プロテスタントにとって「スーパースター」であり続けるでしょうし(偶像視するという意味ではなく、大きな影響を受けるという意味で)、それは福音派にとっても良いことであると思います。

終わりと始まり

ここ数ヶ月、神学校で黙示録の講義をさせていただきましたが、昨日の最終講義の終わりにC・S・ルイスの「ナルニア国物語」の最終巻の結びの部分を朗読しました。

こう、その方が話すにつれて、その方は、もうライオンのようには見えなくなりました。しかし、これからはじまることになるいろいろな出来事は、とうていわたしの筆で書けないほど、偉大で美しいものでした。そこで、わたしたちは、ここでこの物語を結ぶことにいたしましょう。けれどもわたしたちは、あの人たちがみな、永久にしあわせにくらしたと、心からいえるのです。とはいえ、あの人たちにとって、ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。この世にすごした一生も、ナルニアでむかえた冒険のいっさいも、本の表紙と扉にあたるにすぎませんでした。これからさき、あの人たちは、地上の何人も読んだことのない本の、偉大な物語の第一章をはじめるところでした。その物語は、永久につづき、その各章はいずれも、前の章よりはるかにみのり多い、りっぱなものになるのです。(『さいごの戦い』瀬田貞二訳)

よく知られているように、「ナルニア国物語」は子ども向けのファンタジー小説の体裁を取りながら、ルイスのキリスト教信仰と世界観を色濃く反映した内容になっています。私は信仰を持つ何年も前の少年時代にこのシリーズに出会い、そのキリスト教的シンボリズムにはまったく気づかないまま、熱中して何度も読みふけった記憶があります。けれども、成人して信仰を持ち、聖書を深く学ぶようになってから改めて読み返してみると、シリーズ全体を貫く神学的テーマや随所に散りばめられた聖書的シンボリズムに心を躍らされ、少年時代とはまた違った感動を持ってこの傑作を味わうことができました。子どもたちが幼いころは寝る前に英語で全巻を読み聞かせしたこともありますが、時に物語の背後に隠された聖書的メッセージに対する感動で声が詰まって読み続けるのに困難を覚えることもありました。

このシリーズは、架空の世界(パラレルワールド)であるナルニアを舞台に、主人公の子どもたちの冒険と、イエス・キリストを象徴するライオンのアスランとの交流を描いたものです。アスランによって創造されたナルニアは、最後には滅びてしまいます。子どもたちはそのナルニアを後にしてアスランの世界にやってきますが、そこは新約聖書で言う「新しい天と新しい地」(黙示録21章1節)にあたります。物語の中では、子どもたちは「現実の」イギリスにおいては鉄道事故で死んでしまうという設定になっていますが、「現実の」世界よりもさらにリアルなアスランの国で永遠に生き続ける、という結末になっています。

ここで興味深いのは、ルイスが「ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。」と書いていることです。彼が7巻にわたって書き綴ってきた血沸き肉踊る冒険物語は、これから始まる本当の物語の素晴らしさに比べれば、本の表紙と扉にすぎないというのです。ルイスはこれから子どもたちが住むことになる永遠の世界を、いきいきとした躍動感に満ちた世界として描いているのです。

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時としてキリスト者は「天国」(この概念の曖昧さについてはN・T・ライトらによって近年しばしば指摘されていますが)や「永遠のいのち」ということを、雲の上で日がな一日ハープを弾いて過ごすような、安楽だけれどもどこかアンニュイなイメージでとらえてしまうことがあります。しかし、聖書の示す終末のビジョンはそのような不活発なものではありません。

のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙示録22章3-5節)

ヨハネが黙示録において目にした終末のビジョンが「彼らは世々限りなく支配する」というダイナミックな表現で締めくくられているのは重要です。聖書が語る永遠の新天新地は、この世界以上に活動的でエキサイティングな冒険に満ちた世界なのです。黙示録は「世の終わり」という否定的でおどろおどろしいイメージで受け取られることが多いですが、実はそれはキリストの再臨によって始まる素晴らしい物語のプレビューでもあります。実際、ヨハネが証しするように命じられた内容は、「世界の終わり」ではなく、「すぐにも起るべきこと」(1章1節、22章6節)、また「これから後に起るべきこと」(4章1節)、すなわち神が支配する新しい世界の始まりだったのです。今ある世界の終わりはその準備段階に過ぎません。創世記から黙示録に至る壮大な聖書のナラティヴは、その後に始まる永遠の物語に比べれば、ほんの表紙と扉にすぎないのです。

私たちにとって終わりと見えるものは、さらに素晴らしいものの始まりにすぎません。

In my end is my beginning.
(T.S. Eliot, Four Quartets)

 

 

聖書(ジョージ・ハーバート)

長いシリーズが続いたので、軽めの短い記事もアップしていきたいと思います。

ジョージ・ハーバート(George Herbert, 1593年4月3日 – 1633年3月1日)はイングランドの詩人で、信仰にあふれた詩を多数残しています。今日はその中でも特に私の好きな詩を紹介します。

The Holy Scriptures II.

O that I knew how all thy lights combine,
  And the configurations of their glory!
  Seeing not only how each verse doth shine,
But all the constellations of the story.
This verse marks that, and both do make a motion
  Unto a third, that ten leaves off doth lie:
  Then as dispersed herbs do watch a potion,
These three make up some Christian’s destiny:
Such are thy secrets, which my life makes good,
  And comments on thee: for in ev’rything
  Thy words do find me out, and parallels bring,
And in another make me understood.
  Stars are poor books, and oftentimes do miss:
  This book of stars lights to eternal bliss.

 

聖書 II

おお、そなたのすべての光がどのように結び合っているのか、
  また、それらの栄光の配列が、私に判ればよいのだが!
  そなたの各節がいかに輝いているのかをのみでなく、
物語(はなし)が織りなす星座をも みな見究めながら。
この一節があの一節に目を留める、次にこれら二節が 十頁も離れた
  もう一節に 合図を送る。
  それから、ばらばらの薬草が互いに結び合って一服の良薬を目指すごとく、
これら三節は あるキリスト者の運命(すくい)を つくり上げる。
まさにこの通りだ そなたの不思議は。その真実を 私の生が立証し、
  そなたに註解をほどこすわけだ。そなたの言葉は
  万事(すべて)のうちに私を見つけ、対比を持ち出し、
他のものにより 私が理解されるようにもしてくれるのだから。
  星辰は哀れな書、しばしば誤つ。ところが
  きら星のこの書は 永劫の至福への道を 過たず照らし出す。

            (鬼塚敬一訳『ジョージ・ハーバート詩集』より)

 
私が特に好きなのは、「そなたの各節がいかに輝いているのかをのみでなく、/物語(はなし)が織りなす星座をも みな見究めながら。」の部分です。ハーバートが個別の聖句の内容だけでなく、全体的な物語(ナラティヴ)のうちに聖書の素晴らしさを見出していたことが分かります。

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