先日ご紹介したシモーヌ・ヴェイユが愛唱していた「愛(Love)」という詩があります。これは、以前「聖書」という詩をご紹介したことがある、イギリスの形而上派詩人ジョージ・ハーバート(George Herbert. 1593–1632)によるものです。
ヴェイユは1938年の春に、グレゴリオ聖歌で有名な、フランスのソレムにあるベネディクト派の修道院に10日間滞在していたときに、そこで出会ったイギリス人からこの詩を教えられ、「世界で最も美しい詩」として愛唱するようになりました。
Love (III)
Love bade me welcome: yet my soul drew back,
Guilty of dust and sin.
But quick-ey’d Love, observing me grow slack
From my first entrance in,
Drew nearer to me, sweetly questioning
If I lack’d anything.A guest, I answer’d, worthy to be here:
Love said, You shall be he.
I the unkind, ungrateful? Ah, my dear,
I cannot look on thee.
Love took my hand, and smiling did reply,
Who made the eyes but I?Truth, Lord, but I have marr’d them: let my shame
Go where it doth deserve.
And know you not, says Love, who bore the blame?
My dear, then I will serve.
You must sit down, says Love, and taste my meat:
So I did sit and eat.
この有名な詩には何種類もの日本語訳がありますが、ちょうど中村佐知さんがブログで訳詩を掲載しておられるのを見つけましたので、ご本人の許可を得て転載します(元記事はこちら):
「愛」
“愛”が私をあたたかく招き入れてくださったのに、私の魂はしりぞいた。
ちりと罪にまみれていたから。
しかし敏い目をお持ちの”愛”は、私のためらいに気づかれた。
私が戸口に入ったそのときから。
私に近づき、優しくたずねてくださった。
何か足りないものがあるのか、と。ここにふさわしい客人がいないのです、私は答えた。
“愛”は言われた。おまえがその客なのだよ。
薄情で恩知らずな私がですか? ああ、愛しい方よ。
私にはあなたに目を向けることもできません。
“愛”は私の手を取り、微笑みながらお答えになった。
誰がその目を造ったのか、わたしではないか?そのとおりです、主よ。しかし私はそれを汚してしまいました。私は恥を
受けるにふさわしい者です。
おまえは知らないのか、”愛”は言われた。だれがその咎を負ったのかを。
愛しい方よ、では私があなたにお仕えいたします。
“愛”は言われた。おすわりなさい、そして私の食事を味わいなさい。
そこで私はすわり、それをいただいた。
この詩で「愛」はイエス・キリストを指しています。そのことは、最終連の後半で聖餐のイメージが登場することからも明らかです。ここでの「meat」という言葉は、「愛」が詩人にすすめる食事の肉料理であると同時に、十字架の死を通して人間のために提供されるキリスト自身のからだをも表しているのでしょう。実際、ヨハネ6章55節「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。」の箇所は、欽定訳聖書では”For my flesh is meat indeed, and my blood is drink indeed.”となっています。
また、「serve(仕える/給仕する)」という言葉も二重の意味で使われているように思います。詩人は罪深い自分を受け入れてくれた「愛」(キリスト)に対し、しもべとなって食事の給仕をすることを申し出ているのですが、逆にキリストは詩人に座って食事をするようにすすめます。ここは最後の晩餐における次のイエスの言葉を思い起こさせるものです。
食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。(ルカ22章7節)
さらに言えば、この部分は父親の雇人になろうとして帰ってきた放蕩息子が、盛大な祝宴を持って迎え入れられるという、イエスのたとえ話とも響き合うものがあります(ルカ15章17-24節)。しかし、上で述べたような聖餐のイメージは、キリストの犠牲的な死という、より厳粛な雰囲気をこの詩に与えていると思います。詩人に食事をすすめる「愛」の手には、十字架の釘痕が生々しく残っているのかもしれません。
* * *
ソレム滞在中にヴェイユは、持病の偏頭痛に苦しんでいましたが、その苦しみを通してキリストの受難という概念が決定的なやり方で心の中に入り込んでくる体験をしたといいます。彼女の言葉によると、「不幸を通して神の愛を愛することが可能であるということが、一層よく理解でき」たというのです。そんな中で彼女はハーバートの詩に出会ったのでした。
私はこの詩をそらんじて記憶いたしました。しばしば、頭痛のはげしい発作の絶頂で、私は全注意力を集中して、その詩が持つやさしさに私のすべてのたましいをゆだねつつ吟唱することを努めてみました。私はこの詩を一篇の美しい詩としてのみ吟唱しているのだと思っていましたが、私の知らない間に、この吟唱は祈りの効能を持つようになっておりました。すでにあなたさまに書きましたように、キリスト自身が下ってきて、私をとらえたもうたのは、このような吟唱をしていたときのことでありました。(中略)私に対するキリストの突然の支配には、感覚も想像もなんらの関係を持ちませんでした。ただ私は、愛されている者の微笑の中によみとれる愛とよく似た愛の存在を、苦しみを通して感じ取っただけでございました。(「精神的自叙伝」)
「不幸」や「苦しみ」はヴェイユの思想における重要な鍵概念ですが、彼女のキリスト体験が激しい肉体的苦痛の中で起ったことは注目すべきことに思われます。彼女がキリストの愛の食卓に招かれている自分を見出したのは、苦しみのただ中においてだったと言えるかも知れません。彼女はこうも述べています。
神のご慈愛は不幸の中にもよろこびの中におけると同様に、多分不幸という形式のもとでは、神のご慈愛がいかなる人間的類似物も持たないがゆえにより多く明白に表れています。人間の愛はよろこびという賜物とか、あるいは外的結果、すなわち肉体の回復、あるいは教育のために苦しみを課すことのなかにしか現われません。しかし神のご慈愛のあかしをたてるものは不幸の、外にあらわれた形ではありません。真の不幸の外的な形はほとんどつねに悪いものなのです。それを隠そうとすると嘘をつくことになります。神のご慈愛が輝いているのは不幸そのものの中です。その奥底、なぐさめることのできない苦しみの中心なのです。たましいが「神よ、あなたはなぜ私を捨てられたのですか。」という叫びを、もはや押さえきれなくなる状態まであくまで愛を貫き通して倒れるならば、あるいは、そのような状態でも愛することを止めないならば、もはや不幸でもなくよろこびでもない、中心的な、本質的な、純粋な、目には見えない、よろこびにも苦しみにも共通の本質、神の愛ですらある何ものかについに触れるのです。(「最後の思想」)
苦しみや不幸に関するこのような思想がハーバートが「愛」の詩において意図したものであったかどうかは分かりません。しかし、この美しい詩がヴェイユの人生に与えた衝撃を知る者は、そのテクストを今まで気づかなかった深みを持つものとして読むことがゆるされるようにも思います。キリストの愛という主題を持つ一遍の詩を通して、17世紀と20世紀に生きた二つの魂が三百年の時を越えて響き合い、そこで生まれた新たなこだまが21世紀に生きる私たちの元にも届けられていると思うと、不思議な感動を覚えつつ、改めてこの詩を味わっています。