聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿7)

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⑦いのちに向かう教会

今回の記事がこのシリーズの最終回になります。少し内容を振り返ってみます。「⓪はじめに」では「聖なるものの受肉」誕生までの物語をお分かちしました。キリスト教倫理は単に良い悪いを判別するためだけのものではなく、もっと豊かなものではないか、そんな格闘が私の出発点でした。「①キリスト教倫理と自己物語」では、従来のキリスト教倫理のイメージを自己物語論の考え方を使って書き換えることを提案しました。イエス・キリストの「聖なるものの受肉」の歩みを手がかりにすることで、私たちはより豊かな神さまの冒険を味わっていくことができるはずです。「②『肉』と『聖』といのち」では、物語の書き換えのカギとなる「肉」「聖」「いのち」というキーワードを見ていきました。限界を持つ私たちの肉に神さまの聖なる力が現れるとき、弱さと限界と可死性を持つ肉は、神さまのいのちに満ちあふれるものとなります。③ヨハネの物語~聖なるものの受肉」では、②で見た三つのキーワードに焦点を当ててヨハネ福音書の物語を読んでいきました。ヨハネの福音書からは、私たちの物語を方向付ける「聖なるものの受肉」の物語を見ることができます。「④いのちの矢印」では、これまで見たことからキリスト教倫理のあるべき姿についてまとめました。キリスト教倫理は神さまの大きないのちの矢印に、私たちの人生という小さな矢印を重ねていくものであり、私たちの共同体はいのちを目指していくべきだと述べました。その後の二つの記事は、ケーススタディーとしてセクシュアリティのゆえに排除されている人たちと教会がどう向き合っていくかについて取り上げました。「⑤イエス・キリストの真剣さ」ではイエス・キリストが私たちと向き合われたような真剣さで人々と向き合わなければならないこと、「⑥痛みからいのちへ」では、セクシュアリティのゆえに人が排除されているという現実が、どのようにこの人々を、また社会や共同体を傷つけるかについて見てきました。

それでは、教会はどうしたら良いのでしょうか。人々が傷つき、社会が傷つき、共同体が傷ついているという現実を前に、私たちは何をすべきなのでしょう。何をすることが神さまの大きな矢印に自らを重ねていくことになるのでしょう。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿6)

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⑥痛みからいのちへ

前回の記事ではヨハネの福音書4章に出てくるサマリアの女性を取り上げました。

イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(ヨハネの福音書4章16-18節)

「夫がいない」というのは、彼女にとって大きな痛みでした。その痛みの事実を打ち明けたときのイエス・キリストの言葉は、なんて温かいんだろうと思います。「あなたにとって、その悩みを打ち明けるのは、勇気のいることだっただろう。痛みを伴うことだっただろう。でも、よく打ち明けてくれたね。ありがとう」私にはそんな風に聞こえるのです。

行為の是非を問うのではなく、誰かの痛みの声を聴くこと、そしてその痛みをともに痛んでいくことが、キリスト教倫理の出発点である。この連載ではそういうことを語ってきました。けれども、痛みを打ち明けるというのは大変なことです。自分の中にある傷と向き合い、ひとつひとう言語化していかなければできません。そして、それを開示するというのは、本当に信頼できる相手にしかできないこと、あるいは、本当に信頼できる相手にすらできないようなことです。だから、私たちは軽々しく相手に自己開示を求めてはいけないのです。そしてもしも誰かが痛みの声を打ち明けてくれたなら、その勇気をきちんと受け止めなければならないと思うのです。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿5)

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⑤イエス・キリストの真剣さ

(注:今回の記事には性についての様々な専門用語が出てきます。この記事の最後に用語の解説を載せますので、性についての専門用語になじみのない方は記事の最後から読んでいただければと思います)

前回までの内容をまとめてみましょう。前回まではキリスト教倫理の枠組みとも言える内容を扱っていました。キリスト教倫理とは単に〇×を判定するものではなく、神さまの目指すいのちの回復に向かっていくものです。そして、いのちの回復の手がかりとなるキーワードは痛みです。今回の記事では、こういった倫理を現代の問題に適用していきたいと思います。前回の最後に予告した通り、扱うのはセクシュアリティのゆえに疎外されている人たちの痛みです。

2017年に刊行された『聖書信仰の成熟を目指して』の中で多様な性のあり方についての言及があります。

LGBTを受け入れるのは、よりリベラルなキリスト教であって保守的なキリスト教ではないと思われています。(斉藤善樹「聖書は多様な性のあり方にどのように向き合うべきか」『聖書信仰の成熟を目指して』96頁)

この一文から二つのことがわかります。一つは、「保守的なキリスト教」は「LGBT」と呼ばれる人々を受け入れることができない現実があるということ。そして、「保守的なキリスト教」の人々が「LGBT」を拒否するという選択をしない人々に「リベラル」というレッテルを張っているということです。セクシュアリティのゆえに人を排斥すること、自分と立場の違う人にレッテルを張って拒絶すること、それは前回見たような「一つ」になるといういのちの回復とは真逆です。ちなみに、私は福音派教会の中で使われる「リベラル」という言葉が好きではありません。ご自身で誇りをもって「リベラル」を名乗る友人はいますが、残念ながら福音派の中では、自分と異なる立場の人を侮蔑するために「リベラル」という言葉が使われることが多いように思います。

この本が刊行されてから6年。現在はどうでしょうか。残念ながらあまり状況は変わっていないように思います。それに加えて、「教会を分裂させる」という理由でセクシュアリティについて語ることが忌避されているようにも思いますし、このことについて発言する人が「攻撃的」「戦闘的」に見られてしまう様子も見受けられます。

ですが、忘れてはいけないのは、「LGBT」は今はやりの論争テーマなどではなく、すでに傷つき、痛み、そしてそれでも生きている生身の人々のことなのだということです。「LGBT」が教会を分裂させるのではありません。すでにこの人々は、話題に上がろうと上がるまいと関係なく引き裂かれるような痛みを覚え、実際にいのちの交わりから引き裂かれているのです。

すでにそこにある痛みに対して、私たちはどのような倫理的態度をとっていくべきでしょうか。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿4)

シリーズ過去記事    

④いのちの矢印

このシリーズの最終回が見えてきました。今回は「いのちの矢印」というタイトルで、キリスト教倫理がどうあるべきかについてまとめていきたいと思います。

以前の記事「①キリスト教倫理と自己物語」の中で、聖書は矢印だと書きました。聖書は、神さまが世界をどのように導こうとしておられるかの大きな矢印です。そして、私たちはその大きな矢印に自分の人生という矢印を重ねていくのです。

 

前回の記事で見たヨハネの福音書の物語は、私たちにどのような矢印を見せてくれるのでしょうか。「神さまの物語」という大きな矢印と「私たちの人生」という小さな矢印を、「聖なるものの受肉」の物語から見ていきましょう。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿3)

シリーズ過去記事   2

③ヨハネの物語~聖なるものの受肉~

前回見たように「聖」とは「いのちを与えるもの」であり、「肉」は「生身のいのち」であるということですが、両者は「いのち」というキーワードにおいて重なりを持つものです。

イエス・キリストの受肉は、この「聖」と「肉」というふたつの概念が重なるものであると言えるでしょう。ヨハネは手紙の中でイエス・キリストの受肉を強調します。

神からの霊は、このようにして分かります。肉(新改訳2017では「人」)となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。(ヨハネの手紙第一4章2節)

こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが肉(新改訳2017では「人」)となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わすものであり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二7節)

ヨハネは福音書を「信じるため」「いのちを得るため」(ヨハネの福音書20章31節)に書きました。信じるとは、イエス・キリストに繋がり、神との関係を回復すること。ヨハネは救いを「永遠のいのち」という言葉で表します。イエス・キリストと繋がり、神からいのちをいただくこと、それがヨハネにとっての本当の「いのち」なのです。

ヨハネの福音書を「聖」「肉」「いのち」という三つのキーワードに焦点を当てて読んでいきましょう。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿2)

シリーズ過去記事  

②「肉」と「聖」といのち

 前回「キリスト教倫理というものが、生身の人間の現実を無視して〇×を判定するだけのものになってしまっているとしたら、なんと悲しいことでしょうか」と書きました。私は、このような悲しい現場に立ち会ったことが何度かあります。それどころか、自分自身がそのような視点でしかこの世界にある痛みと向き合えなかったことがあります。たとえば社会問題を考えるとき、誰かが伝統的に「罪」とされる行為に関わったとき、そして、自分自身が苦しんだり悲しんだり葛藤したりしたとき、私は聖書から〇×を判定しようとしました。そして、私情を挟まず「冷静」に、「客観的」に判断することが信仰者として正しい態度だと思っていました。

 振り返ってみると、ある種の物語が私をそのような態度に向かわせていたように思います。私は「地」とか「この世」とか「肉」とかいったものを劣ったものと捉えていました。そして、救われたからには、そのような低俗なものに心動かされるのではなく、霊的なことにのみ心を向けなければならないと考えていたように思います。私たちが生身の人間であるという事実を否定的なものとしてとらえるとき、「聖なる存在は肉なる世界から分離し、世界で起こることに囚われない聖なる生き方をしていく」という物語が出来上がります。

 けれども、私たちは救われてもなお生身の人間であり、生々しい現実の中で生きています。その現実を否定すべきものとしか見られないならば、この世で生きていくことは困難です。聖書は私たちに生々しさを克服するように言っているのでしょうか。

文語訳聖書のエレミヤ書31章20節には「我(わが)膓(はらわた)かれの爲(ため)に痛む」という言葉ができます。神さまは霊なる方であって肉体を持ちません。けれども、神さまの愛は「我腸かれの為に痛む」という生々しい表現で語られるのです。神さまの愛をこのように生々しく語る聖書は、私たちが生きるということの生々しさを、どのようにとらえているのでしょうか。

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新刊紹介『ユダヤ人も異邦人もなく』(山口希生師ゲスト投稿)

パウロ研究、特にいわゆる「ニュー・パースペクティブ」に関心のある方々にとって注目すべき新著が刊行されます。このブログでも何度か寄稿してくださった山口希生先生による、『ユダヤ人も異邦人もなく』(新教出版社)です。今回はこの本の刊行に際して、山口先生ご自身がその内容を紹介してくださいます。ぜひお読みください。

(山口先生の過去のゲスト投稿記事  

『ユダヤ人も異邦人もなく―パウロ研究の新潮流』の公刊に寄せて

山口 希生

今年の4月に公刊される拙著『ユダヤ人も異邦人もなく-パウロ研究の新潮流』(新教出版社)について、山崎ランサム和彦先生のご厚意で、先生のブログに紹介文を掲載させていただくことに心から感謝します。

本書は、日本でも長らく注目を集めてきた「ニュー・パースペクティブ」と呼ばれるパウロ研究の新潮流の歴史について、包括的に記述することを目的としています。この神学的潮流がどのような背景から生まれ、発展してきたのかを、19世紀の古典的学術書から21世紀の直近の研究まで、10名の学者の業績を紹介しながらたどっていこうというものです。内容は学術書でありながら、一般の信徒の方にも分かりやすいようにと頑張って工夫して書きました。聖書に親しんでおられる方ならば、特別な知識がなくても読める本になっていると思います。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿1)

前回の記事

キリスト教倫理と自己物語

(1)人生という遠足

前回の記事では、私たちが倫理的課題と向き合おうとするときに生じるジレンマについて書きました。今回は、そもそもキリスト教倫理とは何なのかを考えていきたいと思います。

「キリスト教倫理」とか「倫理」と聞くと皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。あるところでそう質問したところ、「風紀委員」という答えが返ってきたことがありました。規律に従って物事を判断するようなイメージでしょうか。なんだか窮屈で面倒くさそうな、そんなイメージをお持ちの方もいるのかもしれません。

「倫理」は「倫(仲間、社会)」という字と「理(すじみち、ことわり)」という字から成ります。「この社会で人としていかに生きていくべきか」を問う学問です。私は高校でもキリスト教倫理を教えていますが、最初の授業で「この社会で生きる」とは、一人旅よりも遠足に近いのだとお話しします。一人で生きるのでも気の合う仲間とだけ生きるのでもない。いろいろな人がいて、中には自分とはまったく違う環境で生きてきた人、違う価値観を持っている人もいる。歩きやすい道ばかりではなく、その時々でトラブルが起きることもある。歩きにくい道を行けば疲れることもあるし、つまずいて自分が傷つくことも、まわりの人を巻き込むことも、怪我をさせることだってあり得る。それが生きるということです。いろいろな人がいて、いろいろなことが起こる、そんな人生をいかに歩いていくかを考えるのが倫理です。そして、“キリスト教”倫理の場合は、キリスト教信仰から、この人生の歩き方を考えていくことになります。

倫理的課題とは、いわば遠足の道中で起こるトラブルです。どう対処したら良いかわからなければ、それ以降の遠足を歩いていくことは困難です。だから私たちはトラブルに直面した時に聖書に聞こうとするのです。そして多くの人が気になるのが「罪ではない」というお墨付きがもらえるかどうかということではないでしょうか。

けれどもこれはかなり難しいことでもあります。聖書には現代の医療技術についても社会問題や環境問題についても書いていません。また、聖書には奴隷制や家父長制、聖戦といった現代の私たちからすると非倫理的に思えることも書いてあります。

それでも必死で聖書と向き合います。そうしていると、いつの間にか、私たちの目が行為の是非にだけ向かっていってしまうことがあります。そして傷つき痛み苦しんでいる隣人がいるという現実から関心が逸れていってしまいます。キリスト教倫理というものが、生身の人間の現実を無視して〇×を判定するだけのものになってしまっているとしたら、なんと悲しいことでしょうか。キリスト教倫理とは、本当にそういうものなのでしょうか。

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聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿0)

今回から何回かにわたって広瀬由佳先生(聖契神学校専門科卒業、立教大学大学院キリスト教学研究科前期課程修了、町田中央教会協力伝道師)に「聖なるものの受肉」というテーマでゲスト投稿を頂きます。

広瀬先生はキリスト教倫理のご専門で、『福音主義神学』52号で同名の論文を発表されたほか、ドリームパーティでも2回にわたってこの主題で講演されました(1回目 2回目)。先生の個人ブログはこちらです。

⓪はじめに

はじめまして。広瀬由佳です。聖契神学校で学び、いまは「あり得ないほどのスケールで祝福を広げる」ために働いています。今日から恩師である山﨑ランサム和彦先生のブログでゲスト投稿をさせていただけること、とても楽しみにしています。そして、これを読んでくださる方の中に、いろいろな思いが起こされていくことを期待しています。起こされた思いを、いつかどこかで分かち合っていただけたら嬉しいです。

学会誌『福音主義神学』に「聖なるもの受肉―交わりの回復を目指すキリスト教倫理へ―」を発表し、沢山の方からレスポンスをいただきました。ある方からは「私は読んでいて、不思議なことにあなたの人生の中における涙が伝わってくるように感じました。」と言っていただきました。その方がどこでそう感じられたかまでは聞きませんでしたが、思い返せば、「聖なるものの受肉」は葛藤の中で生まれたものでした。

初回の今日は自己紹介を兼ねた「聖なるものの受肉」誕生までの物語と、「聖なるものの受肉」の問題意識についてお話ししたいと思います。

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神学的人間論と同性愛・同性婚(藤本満師ゲスト投稿5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生のゲスト連載、その5回目をお送りします。今回の連載はこれで最終回になりますが、貴重な問題提起を行ってくださった藤本先生に心から感謝します。

*     *     *

5.神学的人間論と同性愛・同性婚

かつて「聖書信仰」の問題を取り上げたとき、私は福音派の聖書理解が停滞し、神学的にも膠着状態にあることを意識していました。批評学だけでなく、言語学や解釈学に応える「聖書信仰」とはどのようなものなのか? 理性の絶対性への疑いが明らかになった時代にあって、福音派の聖書理解は新しい可能性がどのように展開しているのか、目を上げて見渡してみよう、と。探っていくうちに、私自身、神学的に、信仰的に整理が与えられ、また前進する挑戦をいただきました。しかし、ある方々には、そのような理解の前進は「逸脱」と映ったようでした。

今回の論考は短いものですが、「聖書信仰」という特殊な課題とは違って、日本のキリスト教会の伝統的な考え方全体に一石を投じるくらいのおののき、また覚悟を意識しています。神学的人間論の今日的諸問題の一つとして、同性愛・同性婚の問題は避けることができないでしょう。社会の理解はわずかながら進んでも、日本の教会はこの課題を神学に論議するには至っていません。アメリカでは、すべての州が同性婚を法律的に認めています。また神学的・倫理的・聖書的議論は、ここ20年、福音派の中でも活発になされてきました。活発すぎて、時に教会を分断するような結果を生み出しました。

今回の論考では、同性愛を「擁護する神学的な考え方」を紹介し、神学的なことにとどめます。運動的な、あるいは文化的な風潮には触れません。紹介するのは、戦後ドイツの偉大な神学者のひとりヘルムート・ティーリケと、最近の英国教会(聖公会)で絶大な影響力を持っている神学者ローワン・ウィリアムズです。

今回は、同性愛を禁じている6つの聖書箇所の解釈には触れません。6つの聖書箇所とは、創世記19章のソドム、レビ記18:22、同20:13、Ⅰコリント6:9-10、Ⅰテモテ1:10、ロマ1:26-27です。これらの聖句の歴史的背景、解釈の仕方については多くの議論が積み重ねられてきました。それらについても学ぶ機会を得て、あらためて紹介したいと思っています。ちょうど今年、いのちのことば社からLGBTと聖書の福音(アンドリュー・マーリン著、岡谷和作訳)が出版されました。支持する人も反対する人も、妙なレッテルをはって片付けてしまうのではなく、「神学的な視点」からこの問題を見てみましょう。ブログ記事としては長いのですが、最後まで読んでくださると感謝です。 続きを読む