神学的人間論と同性愛・同性婚(藤本満師ゲスト投稿5)

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藤本満先生のゲスト連載、その5回目をお送りします。今回の連載はこれで最終回になりますが、貴重な問題提起を行ってくださった藤本先生に心から感謝します。

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5.神学的人間論と同性愛・同性婚

かつて「聖書信仰」の問題を取り上げたとき、私は福音派の聖書理解が停滞し、神学的にも膠着状態にあることを意識していました。批評学だけでなく、言語学や解釈学に応える「聖書信仰」とはどのようなものなのか? 理性の絶対性への疑いが明らかになった時代にあって、福音派の聖書理解は新しい可能性がどのように展開しているのか、目を上げて見渡してみよう、と。探っていくうちに、私自身、神学的に、信仰的に整理が与えられ、また前進する挑戦をいただきました。しかし、ある方々には、そのような理解の前進は「逸脱」と映ったようでした。

今回の論考は短いものですが、「聖書信仰」という特殊な課題とは違って、日本のキリスト教会の伝統的な考え方全体に一石を投じるくらいのおののき、また覚悟を意識しています。神学的人間論の今日的諸問題の一つとして、同性愛・同性婚の問題は避けることができないでしょう。社会の理解はわずかながら進んでも、日本の教会はこの課題を神学に論議するには至っていません。アメリカでは、すべての州が同性婚を法律的に認めています。また神学的・倫理的・聖書的議論は、ここ20年、福音派の中でも活発になされてきました。活発すぎて、時に教会を分断するような結果を生み出しました。

今回の論考では、同性愛を「擁護する神学的な考え方」を紹介し、神学的なことにとどめます。運動的な、あるいは文化的な風潮には触れません。紹介するのは、戦後ドイツの偉大な神学者のひとりヘルムート・ティーリケと、最近の英国教会(聖公会)で絶大な影響力を持っている神学者ローワン・ウィリアムズです。

今回は、同性愛を禁じている6つの聖書箇所の解釈には触れません。6つの聖書箇所とは、創世記19章のソドム、レビ記18:22、同20:13、Ⅰコリント6:9-10、Ⅰテモテ1:10、ロマ1:26-27です。これらの聖句の歴史的背景、解釈の仕方については多くの議論が積み重ねられてきました。それらについても学ぶ機会を得て、あらためて紹介したいと思っています。ちょうど今年、いのちのことば社からLGBTと聖書の福音(アンドリュー・マーリン著、岡谷和作訳)が出版されました。支持する人も反対する人も、妙なレッテルをはって片付けてしまうのではなく、「神学的な視点」からこの問題を見てみましょう。ブログ記事としては長いのですが、最後まで読んでくださると感謝です。

  • きっかけ

私がこの問題を考えるきっかけとなった出来事は、米国の神学校に入学した22歳の頃に遡ります。英語もよくわからない私を助けてくれた温厚な友人がいました。その彼がある日、自分がゲイであることを打ち明けてくれました。はじめて聞いた私は、「へー、そうなんだぁ」程度の受け止め方でした。しかし、そこで彼が告白したことは、彼自身の人生に展開されてきた内なる葛藤の歴史でした。周囲の悩みではなく、自分の存在的な悩みです――身体が男であるのに、心が女性であると。悩みの実例を挙げますと、寮生活の中で最大の苦痛は男子寮でシャワーを浴びるときだというのです。まるで男風呂の中にひとり女性が放り込まれているようだ。それほど恥ずかしいことはないと。彼は遅い時間にこっそりと一人でシャワーを浴びていました。

7年後、久しぶりに帰国したとき、高校の友人と食事をしました。彼は医学部を卒業した後、フランスのパスツール研究所で学び、京大の准教授となり、小児科、しかも遺伝子疾患を専門としていました。特に、染色体異常による性決定の問題を研究していました。ヒトは「XX」で女性、「XY」で男性となります。しかし、XX男性が存在します。あるいは「XXY」男性、あるいは「Y」の染色体のない「X」男性(つまり女性)、と普通ではない染色体構造を持って生まれた人物がいるわけです。「はじめて聞いた」という私に、「おまえ、そんな常識も知らないのか!」と彼はあきれていました。

日本で広く知られるようなったのは1996年、埼玉医科大倫理委員会が条件付きで性別適合手術を認める答申をしたのがきっかけでした。2003年には、当事者が声を上げ、戸籍における性別変更を認める特例法が成立しています。2015年には渋谷区がパートナーシップ証明書を発行するようになります。戸籍上の性別が同じである二人の関係を社会における「パートナーシップ」と呼び、夫婦同様の法的保障を認めるというものです。

最近になって、文科省が高校生の性意識の調査に乗り出しました。初めは13人に一人、今では10人に一人が自分の性別意識に不安を持っているという回答を出しています。私はミッション系大学で20年以上キリスト教を教えていますが、これまでも心の性意識と身体の性の成り立ちが一致しない学生の相談はいくつかありました。最近では、キリスト教科目を教える教師の間でも、この現実と大学はどう向き合うべきか、緊急性のある課題であると言われつつも、話は発展しません。2019年、お茶の水女子大学がトランスジェンダー学生(戸籍上は男性であっても、性自認が女性である人)の受け入れを発表しました。

さて、本来偏見にさらされる者、少数者の側に立つのが教会ですが、この問題と教会が取り組むには相当なエネルギーが必要です。それは議論がなかなか公にできないこと、わけても同性愛を禁じる聖句をそのまま捉えて断罪し、神は人を「男と女に造られ、男女を結び合わされた」のであるから、その範疇に属さない者をキリスト者としては認めない、とする傾向があるからです。

以下に、私がこれまで刺激を受けた神学的な「視点」を紹介します。それらが必ずしも何かの結論を導き出すとは思いません。視点は視点にすぎないでしょう。しかし、私には少なからず、思考のきっかけを与えてくれました。

  • 土の器としての人間――身体的ハンディ、精神的弱さ、知的能力

「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(詩篇8:4)と特別な被造物でありながら、人は大地のちりで形造られた者です(創世記2:7)。神のかたちに創造され、神の栄光を反映することができる人間ですが、私たちは土の器に過ぎないことを片時も忘れてはいけないと思うのです。

あなたは……ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。(創世記3:19)

主は わたしたちの成り立ちを知り
私たちが土のちりにすぎないことを
心に留めてくださる。
(詩篇103:14)

私たちは、この宝を土の器に入れています。(Ⅱコリント4:7)

先に、キリスト教における一般的な理解に触れておきます。「神のかたちに創造された」という人間の独特な尊厳は、弱く、もろい土の器に宿っています。そして時にこの二面性は、希望となります。「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)。また御子キリストはもろい土の器に受肉されました。しかし時に土の器は、挫折ともなります。

人 その一生は草のよう。
人は咲く。野の花のように。
風がそこを過ぎると それはもはやない。
その場所さえも それを知らない。(詩篇103:15-16)

人は土のちりから造られた弱い、もろい存在で、不完全に造られることも途中で壊れてしまうこともあります。そういう人間が不完全な世界に生かされているのだとしたら、「神のかたちに創造された」という輝かしい栄光を語れば語るほど、苦悩に満ちた現実の人間と乖離していくように思います。単に人が罪を犯し、人は理想から離れてしまったというだけでなく、そもそも人は地のちりから造られた「被造物」です。神の息によって光栄をいただいたとしても、身体も魂も心も傷つき、疲れ、病み、衰えるものです。そうした弱さともろさのゆえに、私たちはますます自分たちの被造物性を自覚し、神に信頼することを学んでいくのではないでしょうか。

時にその信仰さえも打ちのめされるほど、土の器は徹底してダメージを受けます。イギリスに聖書の個人訳で有名なJ.B.フィリップスがいます。翻訳した聖書「フィリップス訳」、そして書籍『あなたの神は小さすぎる』(小峯書店、1971年)が有名です。彼は自伝を著しています(『聖書翻訳者の成功と挫折―J.B.フィリップス自伝』、教文館、1989年)。その中で、土の器としての正直な告白が記されています。彼は新約聖書、旧約聖書と翻訳した後、ひどいうつ病に見舞われました。振り返って述懐します。人生には多くの試練があって、それらが人を成長させ、神が一つ一つに意義を与えてくださる。しかし、自分が体験した「うつ病だけ」は、完全に無意味であった、と。私はこの言葉に、彼の信仰の弱さや精神のもろさを感じることはありません。人は、強がる必要はない。むしろ、どこかで自分は土の器、野の草にすぎないことを体験し、外なる人と共に、内なる人もまた滅びそうになることもあるのではないか。

地のちりから造られた私たちは、時に身体的な不自由を、時に、精神的なアンバランス、知的な弱さをもって生まれます。つまり、後天的なものではなく、生まれる前から、私たちはハンディを背負っている場合があります。そのようなときに、私たちは愚かにも、「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」(ヨハネ9:2)と、人間側の責任を問うようなこと、あるいは神の責任を問うようなことを考えたり、口にします。完全なる愛なる神が、どうしてこのようなハンディを私たちに負わされるのだろうか、と。

しかし、地のちりから造られる私たちは、心・魂・身体・精神、どれをとっても整然としているものはありません。土の器である私たちは、たとえば色で言うならば白でも黒でもなく、「グラデーション的な存在」ではないでしょうか。人のいのちの起源を受精卵に求め、母の胎で神が人を形作ってくださると言いながらも、流産することもあります。身体性も知能も傾向性も、ひとりひとり差があり、かつアンバランスです。しかし、キリスト教は、この世界に生まれ出るすべてのいのちに「等しく尊厳」を認めます。それは「ひとりひとりが神のかたちによって創造されている」と信じているからです。

私はこの土の器としての「グラデーション」のなかに、性の問題も含まれているのではないかと思います。グラデーションという表現は、曖昧にお感じになるかもしれませんが、次のようなことを私は考えるのです。精神科医として死生学を考えてきたE・マンセル・ペイッティソンは、性の同一性を作り上げている複数の因子をあげています。染色体上の性、性腺(卵巣/精巣)、それによって作り出されるホルモン、体内の生殖器官、体外の性器、人から判断された性別、それに従って生育されてきた自分、社会的に認知される性別――つまり、単純に性器をもって男か女か、とは言えないというのです(Ray S. Anderson, On Being Human: Essays in Theological Anthropology, p.110参照)。現にホルモンの増減は身体を変えてしまいますし、生殖器官の発育が阻害される場合もあり、さらには性的な興味や関心をほとんど示さない人もいます。つまり戸籍上は「男か女か」という区別ができても、実生活ではそのようなジェンダーの「型」に従って個人を考えるわけにはいかないことを私たちは知っています。

  • キリストから考える――ティーリケ

私は、そもそも人は地のちりから造られたので不完全なものであると先に記しました。もっとも不完全さは、アダムとエバが罪を犯す前の、罪を知らない「身体」と、罪を犯した後の「身体」とでは質が違っていたと考えるべきです。つまり、身体に染まっている「不完全さ、もろさ、弱さ、罪深さ」は、そもそも神が意図された「創造の秩序(order of creation)」には属していないと考えるのが神学です。確かに精神不安定、病気、苦しみ、また同性愛も「創造の秩序」に見いだすことはできないでしょう。神は人を男と女として健康に創造され、二人を結び合わせました。その二人の可能性は計り知れない賜物に満ちていたと思います。

しかし、ここでそれほど短絡的に男女論を導き出さなかったのが、第二次大戦中ナチス抵抗運動で殉教したドイツの神学者ボンヘッファーでした。ここから話をはじめます。

彼は『創造と堕落――創世記1ー3章の神学的解釈』の中で、人間の本来的なあり方、また神が創造において意図された理想像の実態を求めて、私たちがいきなり大きなジャンプをして堕罪以前の人間物語(創世記1ー2章)を読むことの愚かさを指摘しています。もし私たちが本来あるべき人間の姿を見いだそうとするなら、堕罪の以前のアダムとエバの少々の記述からではなく、イエス・キリストにのみ理想像・完成像は与えられるところから考えてみるべきだと。創造と終末の間を生きる私たちは、キリストを出発点として、本来神が意図された人間性を取り戻していく。それ以上のことを創世記のわずかな記述から説明することには無理がある(英訳はDietrich Bonhoeffer, Creation and Fall, 1997, Fortress Press, p.62;邦訳もある)。

大戦を生き抜き、ドイツの教会復興に大きな貢献を果たした神学者ヘルムート・ティーリケの倫理も、ボンヘッファーの終末論の流れの中にあります。ティーリケは多くの著作を残し、邦訳もされていますが、邦訳のない『性の倫理学』(1964)で、彼は当時にあって珍しく同性愛の問題を扱っています。まだ同性愛が社会的に表に出てきていない時代でした。しかし彼は同性愛で悩む男性に牧会的に寄り添っていました。そこから目が開かれ、キリスト教倫理学にあって同性愛の結婚を擁護する立場を導き出しました。それは、貴重な神学的記述です。

ティーリケは以下のように論じています。彼は当時にあって、すでに同性愛者(特に男・男)の「乱れた性の実態」を知っていたようです(私も大学生からの相談ではじめてそうした日本の実態を知るようになりました)。その上で、ティーリケは、同性愛者は、自らの選択でそうなったのではないことを確認します。また、それを修正(治療)しようとする様々な試みは、ほとんど効果がない。むしろ、それはエデンの園における罪深く、また土の器である人間性の一部であると。

同性愛が生来の性質であり、またそれを改善することの可能性が乏しいことを考えると、私たち「皆」が堕罪後の存在として、乱れた秩序の中にあるのであるから、彼らの存在のあり方を強く否定する立場にはない。(Ethics of Sex, p.283)

となると、私たちは、生まれながら同性愛の傾向を持っている人物の存在を「受け入れなければならない」。

ここで受け入れるとは、どのような意味なのであろうか。それは同性愛という性質的な重荷を神が与えられたものとして――矛盾に聞こえるだろうが、福音書でタラント【原文ママ】が神より託されたものであるように(ルカ19:13~)――その重荷と格闘しながら引き受けることである。(同、p.284)

その上でティーリケは、同性愛者のカップルも、異性愛者のカップルと同じように、互いが愛によって結ばれ、「倫理的に責任ある関係」(同、p.287)を築くことを願います。独身でいることは特殊な賜物が求められ、その賜物を受けていない同性愛者に独身を強いることは酷であり、かえって混乱の原因となる。そこで彼は、同性愛者のカップルにも、〈異性愛者のカップルと「同じ基準」で〉、相互を愛することが認められ、互いに倫理的な責任を全うすべきと考えました。神学的に言えば、同性愛者が結ばれることは、男女の結婚という「創造の秩序」には反している。だが、同性愛カップルに異性愛者と同じような愛の欲求・幸せを認めることは、堕罪後の世界における「倫理的な秩序」の中にあると。

ティーリケは、同性愛を創造論の視点からではなく、堕罪後の被造物である人間の、倫理的に白黒を決することのできない「境界領域 borderline situation」に位置づけました(Theological Ethics vol.1, 1966, pp. 283-88, 176も参照)。その意味で、「アブノーマル」な状態にあると。そして、この世において境界領域における様々な出来事・決断は、神の赦しを必要としている。同性愛はそういう問題ではないだろうか、とティーリケは考えます。しかし、そのように捉えた同性愛は、決して消極的な人間の姿ではない。この世で未だ(not yet)実現していないキリストの終末が「すでに介入している」という視点から、すなわち「わたしはすぐに来る」(黙示22:20)という視点から、許され、認められ、評価されるべきであると。

私は本稿のはじめで、「土の器」性のなかで、ジェンダーの問題はグラデーションの中にあり、同性愛(同性婚)をそのグラデーションの延長の中で認められるべきことと記しました。ティーリケは、それを終末に向かって生きるキリスト者にとって倫理的に「よし」としました。この世の境界領域的な課題の善悪を論じるとき、創造の秩序をもってYes/Noと断じることはできません。キリスト教倫理学は「神学的確実性」に依拠しているだけではなく、私たちの「倫理的葛藤のただ中に臨在している恵み深い御霊」を確信することの中にある、と。

こういう考え方は、精神疾患や現代の生命倫理学の諸問題にも適用することができるでしょう。「聖書にこう書いてある」「人はこのような意図をもって男と女に造られている」と宣言することは、神学の上では確実性を帯びて響きますが、実生活において、それが力にも平安にもつながらないケースが多々あります。倫理的相対性を受け入れ、私たちキリスト者は十字架の赦しの中に生かされること、なおかつ「わたしはすぐに来る」とおっしゃった終末において「是」とされる諸課題はいくつもあるというのです。

  • 愛するという「性」――ローワン・ウィリアムズ

男と女、そして結婚には、子孫を産みだして、家族を形成するという目的があります。そのような婚姻制度は、社会的、法的に確立されています。しかし、結婚にはもう一つの要素が吹き込まれています。それが「恋愛」と性です。先の論考で、男女は相互に助け合うパートナーであると説明しました。男女の結びつきには、互いを見つめ合い、恋い焦がれ、愛し、互いが互いの生きがいとなるような恋愛が込められています。ちなみに先のティーリケの『性の倫理』もこの視点から記されています。

ここで、英国教会(聖公会)のローワン・ウィリアムズを紹介します。彼は21世紀の英国教会を大きな変革へと導いた、司祭・神学者・詩人です。1970年代にはケンブリッジ、80~90年代にはオックスフォード大学で初代教父と霊性神学を講じ、その後、世界の英国教会のトップとなるカンタベリーの大主教を2002~2012年まで務めました。その間、女性司祭が按手され、女性主教が誕生しました。彼は、多くの書物を著していますが、その中にオックスフォード大学のクライストチャーチ・カレッジの主任神学教授に就任した年の講演The Body’s Graceがあります。

この講演で彼は主に、異性間の恋・愛・性を語っています。全体の論理は、次のようになります。旧約聖書において男女が語られるときに、単に子孫を残す、家族を形成するという男女ではなく、二者の愛が重要視されている。例えば、子どもができないハンナに対して、夫エルカナが「どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか」(Ⅰサムエル1:8)と語ったように。さらにこの恋愛の情は、旧約聖書の雅歌書に見られるような性的なもの・身体的な性の営みを含むこととして描かれている。つまり性的要素・身体的な情愛は、男女を語る上で、子孫を残すという生殖的な行為ではなく、恋愛だけの問題でもなく、身体的にふたりが結びつくことに「深い人格的な意義」があることを説いています。

私は、先の論考で男女のパートナー性(人格は別人格との交流の中に自分を見いだし、自分の輝きを見いだす)は、20世紀になって、父・子・聖霊なる神との間の交わりのなかに根拠を見いだしてきたと書きました。ボンヘッファーの名前を挙げましたが、それ以上に大きな影響を与えたのはユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーでした。彼の思想は対話の哲学と呼ばれ、その中心的著作は我と汝です。ブーバーの時代は、大戦前・大戦中の亡命・大戦後と、バルトと重なります。人の自己認識は、対話の中で形作られていく。その対話の相手として、決定的に存在しているのが神である、と。つまり、人は対「自分」、対「他者」、そして対「絶対他者(神)」との対話の中で存在し、かつ存在意義を見いだすように造られていると。バルトも含めて、神学的人間論は、ブーバーの思想に押し出されてきたといっても過言ではないでしょう。

ローワン・ウィリアムズはこの講演の中で、人が対「他者」として自分を自覚していくときに、愛をもって相対する男女・身体的関係・性的関係はとても重要なものであると説いています。ですから、先に挙げた講演タイトルは「The Body’s Grace」(身体の恵み)です。私は先の論考で、男は自らの存在意義を女に見いだし、女は同じように男に見いだすと記しました。それは、単に存在意義や生きがいだけのことではなく、「恋愛・性」も含みます。人間存在にとっても最も大切な感情・喜び・幸福は、性的に表現されるものだというのです(これは、独身の賜物を否定するものではありません)。

この講演の中で、ウィリアムズは米国の哲学者トーマス・ネーゲルをそこかしこに引用します。ネーゲルの両親はユダヤ系ドイツ人としてアメリカに亡命し、彼はカリフォルニア大学バークレー校、プリンストン大学、ニューヨーク大学で講じ、著作の多くは日本語にも訳されています。

ウィリアムズは、ネーゲルの以下の言葉を引用します。

性的願望は単にその対象を認識する程度のものではない。性的な願望が二人の間に相互に生じるとき、相互を認識するという複雑なシステムを作り上げる。つまり、自分が性的に望んでいる相手を認識するだけでなく、同時に自分を認識することになる。さらに、相手を性的に意識するとき、これまでなかったほどに人は自己を意識する。この意識は日常生活の通常の感覚的な意識をはるかに超えている。(ネット掲載原稿の3/14頁)

自分が相手に対して性的に惹かれているなら、相手も自分に対して性的に惹かれていてほしいと願うものだというのです。ウィリアムズは、詩人ウィリアム・ブレイクの言葉も引用しています。性的パートナーは、自分の願望を満たしてくれる容貌を互いの中に見いだして喜ぶ。私たちは互いを喜ばせることによって、喜んでいるという、身体的な結びつきが自己の存在の喜びの認識となるというのです。その意味で、こうした性的な交わりの歪みや欠けがあるとき、人は性的な失敗を体験し、性的に未熟な者となり、時に性的に不健全な方向に流れていくと(4/14)。

さて、ウィリアムズの講演は、その冒頭にあって、小説家ポール・スコットによるRaj Quartet(1942年からインドで始まる独立運動を背景に描かれた4つの短編物語)を題材に展開されていきます。最初の短編に出てくる主人公は、ロナルド・メリックという男性です。物語は彼自身の人間性が極端に歪んでいく様子、また彼の手に落ちてゆくすべての人びとが破壊され、堕落していく様子を描いています。そのような顛末を下ることになった発端は、彼が同性の凜々しい身体に性的興奮を覚えたことにあります。男性の身体に興奮したという事実が、彼の人格のプライベートな空間に突入してきます。彼は大変な恐怖を体験しました。はじめ、彼はその現実を否定し、またそのように興奮した自分を罰します。同時に、周囲の者の必要や欲求に耳を傾けることを拒否し、むしろ見知らぬ人にしか自分の心も欲求も明らかにできないという、歪んだ人生を生きていきます。

この講演は、ローワン・ウィリアムズがオックスフォード大学の神学主任教授に就任した1989年に、レズビアン・ゲイ運動の記念イベントで語ったものです。同性愛者が自分で自分の性向を受け止めることができないということが、どれほどの人格的歪みを作り出し、人生を破滅に招くのかを彼は最初に語っているわけです。その上で、彼は性的関係を「身体の恵み」と呼ぶことで、異性関係であれ同性関係であれ、性における身体の関わりは、深く相手の人格とのやりとりとなると語ります。

そこには時間と忍耐が必要であることを強調しています(行きずりの関係ではなく)。ウィリアムズは次のように述べています。

ここで明確なことは、喜びの発見は性的親密さ以上のものだということである。もし『身体の恵み』を十分に見いだそうとするなら、自分と性的パートナーとは、相手の満足に対する受け身的な道具ではないことを、時間をかけて互いに認識する必要がある。……相手に対して自分はもっとあらわになり、相手が自分を知覚する様々なことによって、恐れを超えて、自分自身を新たに形成していくことをよしとする決意が必要である。性的誠実は、二者の愛という枠組みを壊す危険を回避するためにあるのではなく、性的誠実こそが、神の恵みがあふれることができる創造的な枠組みであると考えるべきである。神の恵みは、相手に知られることを避けて生きるのではなく、相手と誠実に関わり、相手に自分の心も体も人生も開いていくときに、豊かになっていく。(7/14頁)

言うまでもなく、この講演は異性愛者の性的関係にもなんの違和感もなく当てはまる内容です。つまり、性的関係の複雑さ、豊かさ、深さは、男女の夫婦にあっても大きな課題であることがわかります。

  • 終わりに

さて、1970年代の後半、私がアメリカの福音派の神学校にいましたころ、進歩的な人びとは、同性愛者をキリストの愛のゆえに受け入れる寛容を示していました。それでも、性的な関係は罪であると否定していました。ですから、キリスト者の同性愛を容認するものであっても、同性婚はあり得ないと考えられていました。おそらく、多くのキリスト者は今日であってもそのような流れの中にあるでしょう。

しかし、少なくとも上記のティーリケとウィリアムズは、異なる考え方に立ちました。異性でも同性でも、恋愛的に愛することを「よし」としながら、身体的な愛の関係を禁じることは、「残酷な」裁定となるというのです。異性婚と同じような性的関係の誠実さに立って、同性愛者は自らのあり方を受け入れ、二人は相互の誠実な交わりを尊ぶべきであると。そのようにするとき、同性愛者もまた「神の像に創造された」人間としての健全に成長していく道が開かれていく、と。

神学的人間論の今日的課題の一部を5回にわけて考えてみました。しばらく時を置いて、あらためて同性愛を断罪すると考えられてきた聖書箇所の解釈を複数紹介したいと思います。