要約すると

1962年のこと、カール・バルトはシカゴ大学のロックフェラー・チャペルで講演をしていました。講演後の質疑応答の時間に、一人の学生が、「先生のこれまでの神学的業績のすべてを一文に要約すると、どのようになりますか?」と訊ねました。

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カール・バルト

この質問に対して、この20世紀最大の神学者は、次の有名な子どもの讃美歌の一節をもって答えたと言われています。

Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so.
(私は知っている。イエス様に愛されていることを。なぜって、聖書にそう書いてあるから。)

簡潔にしてポイントをおさえた、実に素晴らしい要約だと思います。バルトが本当にそのようなことを言ったのかどうか、定かではありませんが、神学者ロジャー・オルソンによると、かなり信憑性は高いようです。彼のブログ(こちらこちら)によると、バルトは1962年のアメリカ講演旅行の中で複数回、このような発言をしたとされています。たとえこれが一種の都市伝説であり、バルト本人の言葉ではなかったとしても、たいへん含蓄のある、味わい深い内容であることに変わりはありません。

聖書が私たちに語りかけているメッセージの中心は、すべての人に注がれるイエス・キリストの愛である――これはバルト一人の神学のみならず、すべての正統的キリスト教神学のエッセンスを凝縮したものといえるでしょう。

この讃美歌の上に引用した一節が神学の要約なら、それに続く次の部分は、クリスチャンの信仰の歩みを要約していると言えるかもしれません。

Little ones to Him belong; they are weak but He is strong.
(小さき者らは主のもの。彼らは弱くても、主は強いお方。)

ここでいうlittle onesとは、単に子どもを指しているのではないと思います。私たちはいくつになっても神の前には小さき者であり、足りない者、弱い者です。けれどもそのような私たちが唯一誇ることができるのは、自分がイエス・キリストに属する存在だということです。このことを自分のアイデンティティとして持つことができるならば、恐れることがありません。なぜなら、たとえ私たちが弱くても(事実その通りですが)、私たちとともにおられる主は強いお方だからです。

聖書の中心はイエス・キリストであり、全聖書はキリストを通して表された神の愛を指し示し、それを証しするものです。その愛はすべての人にわけ隔てなく注がれています。私たちは恵みによって救われ、恵みによって日々導かれている存在です。どれほど神学の研鑽を積み、どれほど信仰の深みを体験したとしても、この中心点から目をそらすことのないように、心していきたいと思わされています。

Yes, Jesus loves me. Yes, Jesus loves me.
Yes, Jesus loves me. The Bible tells me so.

 

 

確かさという名の偶像(25)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は「結びのことば:信仰をどう生きるか」を取り上げます。

この最後の章でボイドは、彼自身が信仰と疑いをどのように生きているかについて語ります。たしかに、私たちは信仰の歩みの中で自分が信じていることがらについて深い確信を抱くようなときがあります。それについてボイドは言います。

私はそのような時を大切にはする。しかし、それらを追求することはしない。時として確信を持つことができるなら、それは賜物である。けれども心理的な操作によって確信を持とうと努めることは、決して適切なことでも健全なことでもないと思う。(p. 251)

それでは、確信ではなく疑いを抱いてしまうときにはどうすればよいのでしょうか?

疑いが長引くときには、私はただ一歩下がって、すでに何度も探求した、「なぜ私は自分が信じていることを信じているのか?」という問題をもう一度検討してみるだけである。疑いとは、乗り越えなければならない問題ではない。それはさらなる探求への招きなのである。それは信仰の敵ではなく、友なのだ。(p. 251)

ボイドは、イエスが神の究極の自己啓示であるということについて、それが真理であるかのように生きる人生にコミットするために必要なだけの確信さえあれば、疑いや確実性の感覚は、彼自身の信仰の歩みとはまったく無関係であると言います。このコミットメントによって、ボイドはイエス・キリストに対する信仰を持って毎日を情熱的に生きることができる一方で、信仰に対するさまざまな反論を探求し、それを自らの信仰の再検討のために役立てると同時に、同じような問題で葛藤している人々を助けることができるようになると言います。このような柔軟な信仰の姿勢は、疑いを恐れて極力それを排除しようとする信仰のモデルとは大きく異なっていることが分かります。

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本書においてボイドが展開してきたような、確実性を追求せず、疑いを排除しない信仰のあり方は、今日大きな意義を持っていると思われます。「十字架につけられたイエス・キリスト」を信仰と神学の中心に据え、このキリストにおいてご自身を完全に啓示された愛なる神との人格的な契約関係から与えられるいのちをよりどころにして生きていくとき、たとい疑いや苦しみや知的チャレンジに直面しても、それらを信仰に対する脅威としてではなく、むしろ信仰を深め成長させる契機として受けとめることができるのだと思います。

ますます多様化し、情報化する現代社会において、キリスト教信仰は教会外からのさまざまなチャレンジ(たとえば宗教多元主義や科学と信仰の問題など)に直面しているだけでなく、教会内に存在する教理的・実践的多様性も無視できなくなってきています。福音派と呼ばれる保守的プロテスタント教会も例外でないことは、先日紹介した藤本満先生の『聖書信仰』を読めば明らかです。以前なら日曜日に所属教会で聴く礼拝説教が主な情報源であった信徒の人々も、今ではインターネットで簡単に様々な情報にアクセスすることができ、自分が育ってきた教会的伝統以外のあり方に触れることができるようになりました。私は個人的にはこれは健全で好ましいことだと思っていますが、同時にそれは自分の信仰のあり方をたえず吟味することを迫られる時代ということでもあります。絶対的な真理を確実性を持って信じることに信仰の本質を見いだすという、今日広く見られる確実性追求型信仰のモデルは、このようなチャレンジに対して硬直した融通のきかない対応しか見せることができず、一方では世に対して効果的な証しをすることができず、他方では知的に誠実であろうとする真摯な信仰者をつまずかせる危険性があると思います。

ボイドが本書で展開しているような確実性追求型信仰への批判は、モダニズム的な信仰のあり方に対するポストモダニズムの立場からの批判ということができます。確実性追求型の信仰は、客観的な真理が存在し、適切な方法(それは知的な神学的探求であるかもしれませんし、霊的な宗教体験かもしれません)を用いさえすれば、その真理を正確に把握することができると考える点で、モダニズムの考え方に基づいています。ポストモダニズムの立場では、そのような、絶対に確実な知識を持つことは不可能であると考えます。なぜなら、すべての知識は認識する主体が置かれている特定の文化的・歴史的なコンテクストによって影響を受けると考えるからです。

このことから、保守的なクリスチャンの中にはポストモダニズムを敵視する人々もいます。けれどもそれは一面的な見方です。ポストモダニズムも一様ではなく、いろいろな立場がありますが、大きくハードなポストモダニズムとソフトなポストモダニズムの二つに分けて考えることができます。ハードなポストモダニズムは客観的な真理の存在そのものを否定するラディカルな相対主義で、このような立場は当然神の存在を前提とするキリスト教信仰とは相容れません。しかし、ソフトなポストモダニズムでは客観的な真理の存在を否定するわけではありません。この立場がモダニズムと違うところは、客観的な真理は実在するが、それを絶対的な確実性を持って認識することはできないとするところです。

私はこのようなソフトなポストモダニズムの認識論はじつは非常に聖書的な立場ではないかと考えています。それはパウロの次の言葉に通じるものです。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(1コリント13章12節)

ここでパウロが言うように、たしかに客観的な真理としての神は存在しますが、限界のある被造物である人間には神のすべてを絶対的な確実性を持って知ることは(すくなくとも今の世では)不可能です。それでは、神を知ろうとする試みには何の意味もないのでしょうか?そうではありません。確かに絶対確実な知識を持つことは不可能だとしても、たえず自己の認識を批判的に吟味していくことによって、ちょうど数学における漸近線のように、真理に到達することはできなくても、それに近づいていくことはできるのです。私たちはそのことを謙虚に認め、他者から学びつつ、成長していく必要があります(このことについては以前書いたこの記事をご覧ください)。

確実性追求型信仰の落とし穴は、このように真理に向かって成長していくプロセスを無視して一足飛びに真理を手にしようとするために、自分が現在手にしている知識の体系(それは往々にして、最初に信仰を持った教会で教えこまれた教理であることが多いのですが)を絶対視してしまい、それを死守することが信仰であると思ってしまうところにあります。ボイドの提唱する信仰モデルでは、信仰者はより柔軟で謙遜な歩みをすることが可能になります。そしてそのような信仰の歩みにあっては、疑いや迷い、考えを改めることは決して避けるべきことではなく、むしろ成長のために必要なものであることが分かります。

しかし、確実性追求型信仰の問題は、それがポストモダンの現代社会では「うまく機能しない」ということだけではありません。ボイドが指摘する最大の問題は、本シリーズのタイトルにもあるように、確実性追求型信仰では「確かさ」ということが偶像、すなわち信仰者にとってのいのちの源泉となってしまうということだと思います。十字架のイエス・キリストを通してご自身を啓示された愛なる神との人格的関係からではなく、自分の信条に対する心理的な確実性の感覚(それが知的な神学的体系によるものであれ、何らかの宗教的体験によるものであれ)からいのちを得ようとする試みは失敗に終わります。なぜなら、そのような信仰者にとっては、自分のアイデンティティや存在価値や安心感は、いかに確実な真理の体系を把握・所有しているかどうかにかかっているからです。したがって、自分の信じているシステムが何らかの知的議論や人生の体験によって脅かされるなら、たちまちそのようなアイデンティティや存在価値や安心感は失われてしまいます(だからこそ、そのようなタイプの信仰者は自分の持っている確実性の感覚が脅かされないようにあらゆる手を尽くします)。言い換えれば、確実性という偶像はいのちを与えることができないのです。

ブログではあまり紹介できませんでしたが、本書ではボイドの個人的な信仰の歩みについてもかなりの紙数が費やされています。彼の祈りの生活など、興味深い内容が多いですが、中には普通なら他人に明かしたくないような失敗や罪についても赤裸々に綴られています。それは本書の神学的な内容を身近なものにするだけでなく、彼が自分の信仰を生きている証しとして貴重なものであると思います。ボイドは自分の弱さをさらけ出し、信仰の歩みの紆余曲折について語り、もっとも驚くべきことには、自分が本書で主張していることがらですら、絶対的な確信があるわけではないことを認めるのです(そしてそれは、確かに本書の中心的主張と首尾一貫した態度です)。彼がそのようにできるのは、いのちの源を自らの「信仰の強固さ」や「神学の正しさ」にではなく、イエス・キリストにおいてご自身を啓示した神との人格的関係に置いているからこそと思えるのです。

*     *     *

長きにわたって連載してきたこのシリーズも、今回が最終回です。このシリーズを通して、これまで日本でほとんど知られていなかったボイド神学の一端を紹介することができたと思います。連載中から、何人もの方々からフィードバックをいただき、彼の神学に対する関心が広まりつつあることを実感しています。重要なことはボイド師の主張すべてを無批判に受け入れることではなく(それはまさに、彼が本書を通じて主張してきた信仰のあり方に反することです)、彼の問題意識を受けとめ、私たちの信仰や生活のあり方に関わってくる部分があれば、それを批判的かつ創造的に取り入れていくことだと思います。グレッグ・ボイドの神学については、今後も折に触れて紹介していきたいと思います。

(完)

確かさという名の偶像(24)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に続いて第12章「十字架の約束」を見ていきます。

私たちのアイデンティティ

ボイドによると、十字架において神が与えてくださる第二の約束は、私たちについてのことばです。これは前回紹介した、神ご自身についてのことばにすでに暗示されているものです。それは、私たちの存在そのものが、神によって愛されているということです。

ボイドによると、アダムとエバの堕落以来、人間は神と親密な関係をもって、そこからいのちを得ていくためには、あるがままの存在でいるだけでは不十分であり、何か特定の行為を行ったり、特定のものを獲得しなければならないと思い込むようになりました。私たちのアイデンティティ・価値・存在意義・安心は私たちが何を持っているか、何を達成できるか等々によって定義されるようになってしまったのです。ボイドの表現を借りれば、人間はhuman beingからhuman doingになってしまったのです。これは前回見た、誤った神観に基づいて起こる神からの疎外の主要な現れです。

ボイドは、十字架上のイエスの姿は神がどのようなお方であるかを示しているだけでなく、私たち自身がどのような存在であるかを表していると言います。なぜなら、贖われるものの価値は、そのために支払われる代価によって計られるからです。それでは、神が私たちをキリストの花嫁とするために支払ってくださった代価とは何でしょうか?キリストが十字架にかかられたとき、彼は私たちの罪そのものとなり(2コリント5章21節)、のろいとなってくださいました(ガラテヤ3章13節)。罪やのろいは聖なる神のご性質とまったく相反するものです。つまり、神は私たちへの無限の愛のゆえに、ご自分とは正反対の存在になることさえ辞さなかったのです。ボイドは、これは神が払うことのできる最高の犠牲であると言います。そしてそのことは、私たちが神の目から見て最高に価値のある存在であることを示しているのです。つまり、神はいま実際に私たちをこれ以上ないほどの偉大な愛を持って愛してくださっているということになります。私たちは今すでに、神の目にはこの上なく価値ある存在なのです。神からさらに愛されるために、何かをしたり何かを獲得したりする必要はまったくありません。

そして、この最高の愛は、三位一体の神が永遠に持っておられる愛と同じであるとボイドは言います。十字架で表現されているのは、私たちにそのような愛の交わりに加わるようにとの招きなのです(ヨハネ17章26節、エペソ1章4-6節、2ペテロ1章4節、1ヨハネ3章16節、4章8節参照)。

そして、このような揺るぐことのない完全な神の愛は、まったく無条件の愛であることをボイドは強調します。そしてこのことは、私たちのアイデンティティ形成にとって大変重要です。このような無条件の愛で愛されているということをアイデンティティの中核に持っている人は、人生の道中で何が起ころうとも、いのちにあふれた揺るがされない歩みをすることができるとボイドは言います。なぜならその人は、自分が何を持っているかいないか、あるいは何をするかしないかによって、自分に注がれている神の愛が減じることはけっしてないということを知っているからです。

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私たちの将来

十字架で与えられる三番目の約束は、私たちの将来に関することばです。これは第一(神についてのことば)と第二(私たちについてのことば)の約束の中に暗示されているものです。

ボイドによると、ここで決定的に重要なのは、十字架を復活と密接に結びついたものとしてとらえることです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあるのです。少し長いですが、彼自身のことばを引用します。

私たちが十字架を復活と切り離して考えるなら、十字架につけられたキリストは1世紀のローマ人によって苦しめられ処刑された何千人もの犯罪者の一人に過ぎないことになる。そして、もし復活を十字架と密接に結びついたものとして考えることをやめてしまうなら、それはいともたやすく勝利主義的な超自然的力の爆発となってしまう。それは敵を愛する自己犠牲的な十字架の性質を欠いているだけでなく、それを覆してしまうのである。

実際、西洋の神学の中には、十字架に至るイエスの生涯に反映されているような、へりくだった自己犠牲的なアプローチを神が取られたのは、人間の罪のあがないをするためにはイエスが十字架にかかる必要があったからだ、という思想の系譜がある。このまちがった考え方によると、ひとたびこのことがなしとげられるなら、神は再びその圧倒的な力を容赦なくふるってその意志を地上で達成し、悪に勝利することができる。これが復活の意味するところだ、というのである。このような考え方に基づいて、神学者たちはクリスチャンの支配者や兵士やその他の人々に、神はすべてのクリスチャンが敵を愛する非暴力的なイエスの模範と教えに従うことを意図してはおられない、と請け合うことができたのである。不幸なことに、クリスチャンがイエスの教えと模範を脇に置いて、異端者を拷問し、敵を虐殺し、国々を征服する必要を感じる時はいつも、この考え方はたいへん好都合であった。

誰も口に出して認めようとはしてこなかったものの、このようなものの見方が示唆していることは、イエスの謙遜なしもべとしての生き方や、敵を愛し祝福せよという教え、そして何よりもその自己犠牲的な死は、神の真のご性質をすのではなく、おおい隠すものだということなのである!もし私たちが正直に認めるなら、それが暗示しているのは、神がキリストにおいてへりくだった姿勢を取られたのは、ただそのようなふりをしていただけだと言うことになる。神の真のご性質は、彼が十字架につけられたキリストではなく宇宙の皇帝のように振る舞うとき、すなわちご自分の計画を完遂し、その目的を達成するために十字架を担うのではなく、その全能の力を働かせる時に表される、ということになってしまうのである。(p. 242-243)

しかし、このような考え方は、すでに見たような、神の究極の自己啓示は十字架につけられたイエス・キリストであるということと真っ向から矛盾します。そこでボイドは十字架と復活をひとつながりのできごとの両側面ととらえることを提案し、このひとまとまりのできごとを「十字架=復活のできごとcross-resurrection event」と呼びます。それは次のことを意味しています。

復活は神の子が罪と死と地獄の力に勝利したということだけでなく、御子が悪に打ち勝った方法が、神ご自身が悪に打ち勝つ方法でもあることを裏づける。したがってこのことは、謙遜なしもべとしてのイエスの生き方と、敵を愛し祝福せよというその教え、そして特に彼の自己犠牲的な死が、神の真のまた永遠のご性質をおおい隠すのではなく明らかにするということを裏づけるのである。(p.244)

このことはさらに、新約聖書ではイエスを信じてその復活のいのちに与った者たちも、イエスがなさったのと同じ方法で悪に応答するように命じられていることからも裏づけられます(ローマ12章17-21節など)。パウロはまたキリストとその福音のために苦しむ生き方を教えていますが(2コリント1章5節、4章10節、2テモテ1章8節など)、それはまさに復活の力によって生きる生き方にほかならないとボイドは論じます。

ただし、私たちがキリストとともに耐え忍ばなければならない「苦しみ」とは、愛する者を失ったり、不治の病にかかったりというような、この世における「通常の苦しみ」のことではないとボイドは言います。もちろんそのような種類の苦しみも神の御手に委ねて行く必要があり、神は私たちとともに働いて苦しみから善を生み出すことがおできになります。その意味でそういった種類の苦しみが私たちを成長させることも確かにあります。けれども、私たちがキリストの似姿に変えられていく過程でどうしても通らなければならない苦しみ、新約聖書が語っているような「キリストとともに苦しむ」種類の苦しみとは、キリスト者に特有の苦しみ、キリストに従うがゆえに起こってくる種類の苦しみだとボイドは言います。そこには日々古い自我を十字架につける苦しみから始まり、クリスチャンであるがゆえに周囲の人々から拒絶されたり疎外されたりする苦しみを含み、人によっては明確な迫害、拷問、死などに直面することもあります。これらはみな「キリストとともに受ける苦しみ」なのです。キリストの十字架と復活が私たちに約束しているのは、このようにキリストと苦しみをともにしていくなら、私たちは最終的には彼とともに勝利し、統べ治めるようになるということです。それと同時に、十字架と復活は、イエスのやり方で悪に立ち向かうことこそが最終的には勝利するということを示しているのです。

そして、十字架において与えられた将来の約束は、花婿であるキリストが必ず帰ってくるということも意味しています。その時私たちの婚約期間は終わり、私たちは花婿イエスと婚宴の宴に連なることができます(黙示録19章9節)。そして同様に、私たちは神が最後にはかならず私たち一人ひとりをキリストのご性質を反映する存在に作りかえてくださることを確信することができます。十字架において表された神の真実と愛に基づいて、私たちは神が必ずこのフィナーレまで導いてくださることを確信することができるとボイドは言います。その時、まことのいのちに対する私たちの飢え渇きは完全にいやされるのです。

(続く)

確かさという名の偶像(21)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第10章「実体的な希望」を取り上げます。

前回取り上げた部分でボイドはマルコ11章24節(「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」)などの箇所に見られるイエスの教えは、祈る時に心理的な確信を持ちさえすれば、その祈りがかなえられるという意味ではない、と論じました。確かにこれらの箇所でイエスは信仰の重要性を語っていますが、それは人格的契約covenant関係に基づく信仰なのです。

それでは、具体的に信仰を持って祈るということは、どういうことを意味しているのでしょうか?ボイドはそれは、想像力(イマジネーション)を使って、祈り求めていることがらがすでに与えられているさまを思い描くことだといいます。

信仰と想像力

まずボイドは、私たちが思考するということはどういうことか、について論じます。多くの人はほとんど意識することはありませんが、実際に私たちがものを考えたり、過去のできごとを思い起こしたり、未来のことを予想したりする時には、私たちは単なる文字情報を繰り返しているのではなく、現実世界での体験を想像力によって再現しているのだ、と言います。

たとえば「今日朝食に何を食べたか思い出してください」と言われてそのようにするとき、私たちは「トースト、卵、コーヒー」といった文字情報を頭に思い浮かべているのではなく、実際に私たちが食べた朝食の様子をビデオをリプレイするように、頭の中で想像しているのです。そこには視覚的イメージだけでなく、音や匂いや味、口の中での感触なども含まれているかもしれません。

ボイドはそのようにして想像力の中で私たちが体験を繰り返す働きのことを「再現するre-present」と言います。(英語でrepresentという言葉は「示す」「思い描く」と言った意味がありますが、ボイドは「再び思い描く」というニュアンスを強調するためにre-presentと綴ります。日本語の「現」という言葉はこのニュアンスをよくとらえていると思います。)私たちが過去や現在や未来のものごとを考える時、私たちは常に想像力を使ってさまざまな体験を脳の中で再現しているのです。これらの「再現」は多くの場合無意識の内に、自動的に行われます。

そしてボイドによると、この想像力によって再現されたイメージが具体的で鮮明なものであればあるほど、それは私たちに強い感情的インパクトを与え、したがって私たちの行動やそのための動機づけに影響を及ぼします。そして、このことは私たちが信仰をどのように行使するかに関わってくるのだとボイドは言います。

ボイドは新約聖書でしばしば、私たちの思いをコントロールすることについて書かれていることにふれ(ローマ12章2節、2コリント10章3-5節、ピリピ4章8節など)、これらの箇所で命じられているのは、真なる情報を記憶して唱えること(それも大切ですが)だけでなく、私たちの脳内でほとんど無意識の内に再現される具体的なイメージをコントロールすることだといいます。なぜなら、私たちの実際の行動、したがって生き方に最も強い影響力を及ぼしているのは、頭で覚えた知的情報ではなく、そのようなイメージだからです。私たちが信仰者としてキリストの似姿につくり変えられていくためには、私たちはしばしば外界からの刺激に対して反射的に脳の中に起こってくるイメージをコントロールすることを覚える必要があるのです。

マルコ11章24節に戻りますと、ボイドはここでイエスが言われているのは、私たちが祈り求めているものごとを、あたかもそれがすでに手元に与えられているかのように頭の中で思い描くことだと言います。

これは前回ボイドが批判していた、確実性追求型信仰モデルによる解釈とどう違うのでしょうか?確実性追求型の信仰では、祈り求めたことが必ず応えられるという確信を持つことが重視されますが、ボイドの信仰理解ではそのような確信を持つことが目的ではありません。そうではなく、そのポイントは想像力を働かせて具体的なイメージを再現することにより、祈り求めていることがらを実現しようと忍耐強く努力していくために必要な動機づけを得るということにあります。確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるという心理的確信を持つことによってそのことが(魔術的に)実現すると考えますので、確信さえあればそのために努力する必要はありません。

また、確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるかどうかは、祈り手がどれだけ心の中で強い確信を持つかによってきまります。これは基本的に神との人格的関係を軽視した、法律的契約contract概念に基づく理解といえます。それに対して、想像力を用いて祈り求めているものを再現すること自体は、祈りが応えられることを保証するものではありません。そうではなく、それは神との人格的契約covenant関係の中で、不確実性の中でも、神に対して忠実に歩んでいくための動機付けに過ぎないのです。しかし、私たちが想像力を働かせて自分の思いをコントロールするようになれば、それは私たちの行動パターンを大きく変える力となっていきます。

ボイドはこれに関してヘブル11章1節を取り上げます:

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

ここで口語訳聖書や新共同訳聖書が「確信」、新改訳聖書が「保証」と訳しているギリシア語はhypostasisですが、ボイドはこれは「実体substance」あるいは「実体化substantiating」と訳すべきだと主張します。つまり、信仰とは強い心理的確信を持つことではなく、望んでいることがらを心の中で「実体化」することに他ならないといいます。(他の学者はhypostasisを”reality,” “actuality,” “actualization”などと訳すこともあります。)またボイドは口語訳で「確認」と訳されているelegchosを証拠に基づいた「信念conviction」と訳します。このように考えると、これは前回見たヤコブ書のことばと同じことを言っていることが分かります。

本書で繰り返し述べてきたように、信仰とは確実性を追い求めることではない。それは不確実性のただ中で忠実であり続けようとすることである。・・・私たちが信仰を働かせるというのは、神の約束を実体的なリアリティ(hypostasis)として想像力を持って受け止めることによるのであり、その実体が今度はそれがそのようになるという信念(elegchos)を生み出す。それによって動機づけられることにより、私たちは想像力で思い描いたものが現実化するだろうと思われるような形で行動できるようになっていくのである。(p. 213)

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ある人は、ボイドの主張は欲しいものをありありと思い描くことによってそれを手に入れることができるというニューエイジ的な教えに近いと感じるかもしれません。ボイドはその懸念をよく承知していて、本章でもそのことについて触れています。確かに、ニューエイジャーや一部のクリスチャンが行っているように、想像力を神との人格的関係から切り離して用いていくと、それは魔術的なものになっていく危険があるとボイドも認めていますが、だからといって信仰における想像力の重要性を否定することは、産湯と一緒に赤子を捨ててしまうようなものだと言います。想像力を活用した祈りは肯定的なcataphatic祈りと呼ばれ、キリスト教の霊性神学の中では長い伝統を持っています。ボイドはまた、想像力が私たちの思考や感情において持っている重要な役割について、Escaping the Matrixという著作では神経科学の視点からも論証を試みています。

想像力についてのボイドの見解には必ずしもすべての人が賛同しないかもしれませんが、ボイドの提案するモデルは、確実性追求型信仰に対する一つの有力なオルタナティブを提供していると思われます。

(続く)

 

 

神の愛を呼吸する祈り

グレッグ・ボイドの著書をシリーズで紹介中ですが、彼のReKnewというミニストリーのサイトで、「不安になった時のための祈り」が紹介されています(元記事はこちら)。これは彼の著書Present Perfectから取られたものです(pp. 69-71)。ボイドはこれを「祈りの訓練prayer exercise」と呼んでいます。これは特に不安を抱えているときだけでなく、日常的に祈るにも良い祈りだと思いますので、要約して紹介します。

*     *     *

あなたにとって究極的に大切なのは、今この瞬間に神の愛に浸りきることだけであることを覚える。神が人となり、十字架の上でいのちを捨ててくださった完全な愛が今、あなたを包み込んでいることに意識を集中する。

このことは、あなたが過去に達成したことにも、将来達成することにもよらないことを覚える。それは、神がどのようなお方であるか、そしてカルバリーによって定義されたあなたがどういう存在であるかによるのである。この完全な愛には始まりも終わりもなく、脅かされることも、揺るがされることもない。息を吸うとき、神の愛なる臨在とそれに伴うすべての真理を吸い込むことをイメージする。

神の愛を吸い込むとともに、それ以外のすべてのものを吐き出す。神が私のすべての必要を満たしてくださることに信頼する。自分の財産、業績、名声、人間関係等、自分を価値ある存在とするために神以外に頼ろうとする、すべてのものを手放す。

神の臨在の中に憩いながら、今自分が吐き出したものが、昇る太陽の光の中で朝靄が消えていくように、神の変わることのない愛の中で消え去るのを見る

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この祈りを実践すると、不安が軽減されたり、なくなっていることに気づくかもしれません。私も実際に何回か祈ってみましたが、この祈りのポイントは「今この瞬間」ということだと思いました。大多数のクリスチャンは、自分は神に愛されている存在だということは、少なくとも理論上は受け入れています。ただ、そのような神の愛は過去(それは二千年前にイエスが十字架にかかられた時かも知れませんし、自分がキリストを受け入れた「新生体験」の時かもしれません)か未来(新天新地における復活のいのち、あるいは死後の「天国」)の体験に留まり、今現在、ここにいる自分が、そのままで神に愛され、受け入れられ、喜ばれていることは、意外と意識することが少ないのではないかと思います。けれどもボイドは、神の愛が私たちの人生の各瞬間におけるいのちの唯一の源泉となるなら、私たちは過去を悔いることも、将来に対して不安になることもないと言います。いま現在において私たちは満たされ、神に信頼を置いているからです。

これは、単なる自己暗示や心理的トリックではないと思います。私たちはこの世の価値観や思考パターンから解放され、心の一新によって変えられる必要がある、とパウロも教えています(ローマ12章2節)。十字架上のイエス・キリストにおいて啓示された神の愛、そしてそれによって定義される自分の真のアイデンティティを、単なる知的な神学知識ではなく、自分のものとして一瞬一瞬意識しながら生きていくことは、キリストの似姿に変えられていく霊的形成の重要なステップであり、不安から解放されるのはその結果に過ぎないのだと思います。ですから、不安を取りのぞくための単なる霊的「テクニック」としてではなく、このような祈りを日常的に行っていくことは、私たちの霊的成長のためにとても有益なことであると思います。

連載中の「確かさという名の偶像」シリーズでも書いているように(たとえば 14 15)、クリスチャン信仰のポイントは、過去にキリストを信じ受け入れた経験よりも、むしろキリストとの人格的契約関係にあって、今現在どのようにキリストに献身して生きていくか、ということにあります。クリスチャン(教会)は、終末におけるキリストとの婚姻を待ち望む「婚約者」です。キリストの再臨までの「婚約期間」、フィアンセであるキリストの愛を日々実感しながら歩むことができるかどうかは、信仰生活のクオリティを大きく左右する問題だと思います。その意味で、このような祈りの訓練は重要な「花嫁修業」と言うことができるかもしれません。

確かさという名の偶像(14)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き第6章「法的取引から愛の結びつきへ」を取り上げます。

前回は「法律的契約contract」と「人格的契約covenant」の違いについて考察しました。ボイドによると、聖書における神と人間との関係は基本的に後者にもとづく関係です。この人格的契約関係を理解するために最も適切なアナロジーは、結婚のアナロジーであるとボイドは言います。今回はこのことについて見ていきましょう。

信仰の本質とは、私たちの天の花婿としてのキリストのうるわしい人格を信頼することであり、その尽きることのない愛によって内側から造りかえられることであり、その誠実な配偶者として、その愛と意思とが「天に行われるとおり、地にも行われ」るように、御霊の力によってますますそれらを反映して生きていくことがどのようにできるかを学ぶことである。(p. 120)

神と人との間に結ばれた最後の契約は、イエス・キリストを通して結ばれた「新しい契約」(ルカ22章20節、ヘブル9章15節)です。ボイドは、新約聖書がたびたびこの契約について結婚のアナロジーを用いて語っていることに注意を向けます。旧約聖書においても神はイスラエルの夫として描かれていましたが(エレミヤ31章32節、ホセア2章16節など)、新約聖書ではキリストが教会の花婿として描かれています(マタイ25章1-13節、ヨハネ3章29節など)。パウロは教会をキリストの婚約者として描いています(エペソ5章25-33節、2コリント11章2節ほか)。そして黙示録では、終末における神の民の救いの完成が「小羊の婚姻」として描かれています(19章7、9節、21章2、9節、22章17節)。キリストを通して結ばれた新しい契約の関係は、花婿であるキリストと、花嫁である神の民(教会)との間に結ばれる人格的契約covenant関係なのです。

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しかし、ここで注意しなければならないのは、新約聖書によると、キリストと教会との結婚はまだ完結していないということです。古代ユダヤの結婚は二段階に分かれていました。男女の結婚が決まると、実際に一緒に住み始めるまでに一定の婚約期間を過ごしたのです。ユダヤの「婚約」は単なる約束ではなく、法的には二人は夫婦であり、この関係は死別か離婚によってのみ解消されるものでした。この婚約期間が終わると婚宴が行われ、二人は肉体的にも一つになり、共同生活を始めるようになります。

さて、キリストと教会との「結婚関係」を考える時、キリストの再臨までの期間はまさにこの「婚約期間」ということができます。例えばパウロはコリントのクリスチャンたちに対して次のように言っています。

わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。(2コリント11章2節)

ここには新約聖書の終末論に特徴的な「すでに」と「いまだ」の両側面が表れています。契約から言えばキリストと教会は「すでに」夫婦であるといえますが、両者の最終的な合一は「いまだ」実現していません。それは花婿であるキリストが花嫁である教会を迎えに天から来られる時に実現するのです(黙示録19章6-8節)。ですから、教会は「キリストの花嫁」であるとよく言われますが、より正確に言えば、教会は「キリストの許嫁」なのです。私たちは婚約者が結婚式を待ち焦がれるように、キリストと最終的に一つになる終末の時を待ち望みつつ、今を生きているのです。

さて、この結婚と婚約の概念は、新約聖書の教える「救い」を理解するためにたいへん重要です。ボイドは次のように言います:

キリストを信頼して人生を彼に捧げることを誓うとき、私たちはキリストが十字架の上で提供してくださった結婚の申し出に対して「誓います!」と言っているのである。私たちは、三位一体の神の愛を永遠に共有し、来るべき世で花婿キリストと共同統治するように定められた、彼の花嫁としての共同体の一員となるのだ。イエスが帰って来られて、地上に神の国を完全な形でうち立てられるまでは、私たちはこの結婚を完結させることはないが、私たちはその時が来るまでただことが起こるのを待っているわけではない。そうではなく、この婚約期間中に私たちは、イエスが贖いに来られる忠実で光り輝く花嫁にどのようになっていくのかを学ぶのである。(p. 125)

このように、クリスチャンがキリストの婚約者として忠実に生きるとは、将来の再臨に備えて生きることです。このような再臨に先立つ準備には、御霊の力によってキリストの似姿に変えられていくことや、からしだねのような神の国を地上で拡大していくために、神から与えられた権威を行使すること、愛の実践によって悪の力に打ち勝つこと、思考パターンや行動をキリストの愛なる支配に従わせていくことなどが含まれます。そしてボイドによると、これらすべては「救い」に含まれると言うのです。つまり、新約聖書が教える「救い」とは「無罪判決を受け、天国行きの切符を手にした」という過去のできごとだけに関わるものではありません。新約聖書は救いについてすべての時制で語っています:私たちはすでに救いを得ましたが(ローマ8章24節、エペソ2章5節など)、現在も救いを達成しつつあり(1コリント1章18節、2コリント2章15節)、将来救いが完成する(ローマ5章10節、1コリント3章15節)のです。

このような救いの概念は人格的契約covenantの枠組みの中ではじめて本当の意味で理解することができます。なぜなら、そこで重要なのは特定の信条、たとえば過去になされた救いのできごとについて確信を持つことよりも、キリストに対する人格的信頼関係に基づいて今を忠実に生きることだからです。ボイドはこのことを次のようにまとめています:

私たちの天の花婿は、十字架の上でいのちを捨てることによって、私たちに結婚の申込をしてくださった。私たちは彼に対して信仰を持つことによって、このプロポーズに対して「誓います」と言い、救いに入る。この信仰は、約二千年前に十字架にかかったお方が神の御子であるということを信じることが前提となってはいるが、この確信それ自体は信仰ではない。私たちは、彼を信頼し彼から信頼されるような花嫁として生きる人生に献身することによって、この確信に基づいて行動するとき、救いをもたらす信仰を働かせていることになる。そして私たちが最初にこの誓いを行った瞬間(私たちが救われたとき)はたしかにあったが、私たちがその誓いに基づいて忠実に現在を生きる(私たちは救われつつある)限りにおいてのみ、この過去の誓いは重要性を持つのである。したがって、重要な問題は「あなたはかつてキリストに人生を捧げたか?」ということではない。大切なのはむしろ、「あなたは現在において信頼できる配偶者として生きることによって、かつてキリストに捧げた誓いを尊んでいるか?」という問題なのである。(p. 127)

*     *     *

新約聖書における信仰(ギリシア語はピスティス)は単なる心理学的・知的理解(正しい教理を確信を持って信じる)ということだけでなく、神に信頼して生きる全人的態度を言います。ですからこの「ピスティス」は「誠実・忠実」と訳されることもあります。これは昔の侍が主君に対して持っていた「忠義」に近い概念とも言えます。あるいはボイドがここで論じている結婚のアナロジーで言うと、婚約者に対する誠実な態度に比べることができるものです。それは単なる知的理解を超えて、実際の行動やライフスタイルに現れてくるものでなければなりません。

神の知的認識という意味の信仰なら悪魔も持っています(ヤコブ2章19節)が、それが信仰者にいのちをもたらすわけではありません。福音派プロテスタント教会はしばしば「神(キリスト)との個人的な関係」を強調しますが、その実際の信仰理解がボイドが批判しているような心理学的・知的理解にとどまっていることが多いのは皮肉なことであり、残念なことと言わざるを得ません。キリストの花嫁(許嫁)としての信仰者(教会)の使命は、正しい教理を信じ(それは重要ですが)、疑いを排除してその確信をいかに保ち続けるかに腐心することよりむしろ、キリストとの人格的信頼関係の中で、時に疑いや葛藤を抱えながらも、その契約covenantにコミットしつづけ、キリストの婚約者にふさわしく語り・行動し、そのような存在に作りかえられていくことなのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(9)

(シリーズ過去記事        

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。」

「こころみ」と訳されているギリシア語peirasmosは「試練」とも「誘惑」ともとることができることばです。いずれにしても、私たちの内と外から働きかけて、神から引き離し、罪を犯させ、御心にかなった歩みをさせなくするような力のことを言います。「悪」と訳されているギリシア語も「悪しき者」すなわち悪魔ととることも可能です。それぞれの言葉についてどちらの訳語を採用するにしても、以下に論じる内容にはあまり影響はありません。

このシリーズで何度も述べてきたように、主の祈りは「神の国の地上への到来」という文脈の中で祈る必要があります。そして、神の国はサタンの国に侵攻してくるものであり(過去記事を参照)、そこには必ず衝突があります。ですから、試練や誘惑のないクリスチャン生活はありえないのです。

私たちが日々体験する信仰の戦いはリアルなものです。そうでなければ、「悪(い者)から救ってください」という祈りは意味をなしません。この地上ではまだ悪の力が猛威を振るっており、クリスチャンであっても罪と死と苦しみの現実から完全に隔離されて生きることはできません。だからこそ私たちは、日々「我らを悪より救いだしたまえ」と祈るのです。ある人々にとっては、それは祈りというより叫びであるかもしれません。私たちが生きている世界はそういう世界です。しかし、イエスは十字架と復活を通してサタンに対して決定的な勝利をおさめてくださっており、世の終わりにはその勝利を完全に表してくださいます。究極的な勝利はすでに保証されているのです。この祈りは、そのような終末的勝利が現在においても現されることを求める祈りであると言えます。

私たちは自分からこれらの試練を求める必要はありませんし、そこから救い出していただくように神に求めるべきです。イエスご自身も、ゲッセマネの園で十字架という試練から救い出されるように祈られました。

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。(マタイ26章39節)

El_Greco_019エル・グレコ「園における苦悩」

しかし、この祈りは、先に祈った「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りの文脈で考えなければなりません。試練や悪から逃れることを求めることは決して間違ってはいませんが、それがクリスチャン生活の最優先事項ではないのです。それらすべてに対して、神の御心が優先します。イエスがゲッセマネで祈られたように、私たちは避けられない試練があるならばそれを信仰を持って受けとめなければなりませんし、実際に誘惑が来たらそれに対して抵抗しなければならないのです。

ですから、この祈りを祈ったから誘惑や試練が来なくなるというわけではありません。けれども、少なくとも私たちは、試練の中にも主の御心があることを信頼していくことができます。そして、神は耐えられない試練は与えられないお方です(1コリント10章13節)。

以前にも述べたように、イエスご自身、この部分を含め主の祈りを日々祈っておられたと考えられます。にもかかわらず、イエスは地上の生涯で多くの試みと誘惑を受けられました(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。けれどもイエスは、それらすべてに打ち勝たれ、罪を犯されませんでした。これは私たちの従うべきモデルです(ヘブル12章1-3節)。同時に、イエスは私たちの弱さに同情できないお方ではない(ヘブル4章15節)ということも、この祈りを祈る時に大きな励ましになります。

「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

この頌栄の部分はマタイ福音書の古い重要な写本には含まれておらず、ルカ福音書の並行箇所にもありません。内容的には1歴代誌29章11-13節との類似が見られます。この部分は初期のキリスト教会の礼拝において主の祈りに続いて唱えられていたものが定着したものと考えられています。したがって、この頌栄はイエスが弟子たちに教えられたオリジナルの主の祈りには含まれていなかったと思われますが、主の祈りを締めくくるにふさわしい内容になっています。

私たちがここまでの祈りを祈ることができた理由は、神がすべての栄光と権威をもっておられるからです。神は宇宙の王であって、その支配を天だけでなく地にも拡大してくださり、永遠に支配されるお方です。たとえ現在地上には神の支配が完全には実現していなくても、私たちは今この瞬間にも天においてはその現実があることを信じ(黙示録4-5章)、やがて時が来るとそのことが地上でも実現することを信じています(黙示録11章15節)。だからクリスチャンは、悪の嵐が吹き荒れる世界においても、神の栄光をほめたたえるのです。 「アーメン」とは「その通り」「真実である」という意味です。神の国(支配)がこの地上に訪れる―その確信がなければ、私たちは主の祈りを真実に祈ることはできないのです。

そして、神の国の中心におられるのがイエス・キリストです。キリストが約二千年前に来られたことによって、神の国はある意味でこの地上に訪れ、拡大を始めました。そしてキリストが再び地上に来られる時に、神の支配は地上においても完成します。キリストこそ、永遠の御国を治める方なのです(2サムエル7章12-16節、ダニエル7章13-14節、2ペテロ1章11節、黙示録11章15節)。主の祈りが神の国の到来を求める祈りであるなら、それはまた王なるキリストの主権を認め、その再臨を待ち望む祈りでもあると言えます。

*   *   *

N・T・ライトは『クリスチャンであるとは』の中で、主の祈りについてこう言っています。

この祈りを私たちが唱えることは、天の父に向かって「イエスは私を、良い知らせの網(イエス自身が用いたイメージであるが)で捕らえました」と言うのに等しい。この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる。(227ページ)

主の祈りは、単なる信心深さの表明ではありませんし、私たちの個人的な必要が満たされ、霊性が高められるための祈りでもありません。主の祈りを祈ることは、歴史において神が人類と世界の救済計画を遂行されつつあること(これが「福音」です)を認め、それに応答してその働きへの参加表明をすることなのです。そしてそれは、そのような生き方のモデルを示してくださったイエスの足あとに従って生きることでもあります。

主の祈りを含む山上の説教はおもに弟子たちに向けて語られていますが、マタイ福音書の結末部分では、復活のイエスは弟子たちに対して「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(28章20節)と命じておられます。この「いっさいのこと」には当然主の祈りを祈ることも含まれるはずです。つまり、すべてのクリスチャンは主の祈りを祈るようにと命じられているのです。これは素晴らしい恵みです。どんなに信仰歴が浅くても、知識や能力がなくても、あるいは自分の罪と弱さに葛藤していても、主の祈りを心から祈るクリスチャンは神の国の運動に参加しているのです。

主の祈りは全てのキリスト教の教派で受け入れられている基本の祈りです。教理や聖書解釈において様々な違いがあったとしても、どんなクリスチャンとでも、この祈りなら共に祈ることができる―これもまた、素晴らしいことであると思います。ある意味で、主の祈りを祈ることは、聖なる公同の教会、唯一のキリストのからだなる神の民に属しているしるしであると言っても良いかもしれません。クリスチャンとして生きるとは、主の祈りを生きることなのです

(終わり)

「主の祈り」を祈る(8)

(シリーズ過去記事       

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」

私たちが祈る時には、物質的な必要だけでなく、関係における必要についても祈るべきです。それには神との関係人との関係の二つの側面が含まれます。私たちが健全な信仰生活を歩んでいくためには、この二つの側面がどちらも正されていく必要があります。すべての人は罪人であり(ローマ3章23節)、神と人に対して罪を犯しながら生きている存在です。したがって、すべての人の人間関係また神との関係の回復は罪のゆるしによってなされていく必要があります。

「罪」と訳されていることばはマタイ6章12節では「負債ofeilēma」、並行箇所のルカ11章4節では「罪hamartia」となっています。当時のパレスチナの日常語であったアラム語においては、「負債」は罪を表す慣用的な表現でした。罪というのは神に対する負債と考えられていたのです(コロサイ2章14節参照)。したがって、これらの表現は基本的に同じ内容を指していると考えられます。

私たちが日々神にゆるしを求めて行くというのは、救いを得るためではありません。私たちのすべての罪の代価はイエス・キリストの十字架によってすでに支払われ、イエスを信じる私たちは救いをいただいているのです。私たちはまずそのことを感謝する必要があります。同時に、クリスチャンであっても日々罪をまったく犯さないで完璧な歩みをすることは現実的に不可能です。よく言われるように、聖書でいう「罪」とは「的外れ」という意味であり、「悔い改め」とはただ悪事を後悔するということではなく、神の御心に沿った生き方へと方向転換することです。ここで言われているのも、信仰の歩みの中で道から外れたらすぐに方向転換をして神に向きを変え、正しい方向に歩き始めることです。

すでにこのシリーズで何度も強調してきましたように、この祈りも神の国の到来を求めるという主の祈りの文脈の中で考える必要があります。神の国が来るとは、神の支配が行われることであり、神の支配とは、恵み深い父の愛によってすべての関係が規定されることです。私たちが罪のゆるしを祈るのは、私たちと他者との関係、神との関係に愛と平和が満ち溢れ、それによって神の国が地上に現されていくためなのです。

さて、この祈りは主の祈りの中で唯一私たちの行いが条件になっている祈りです。イエスは、私たちが人の罪を赦すことなしに、天の父にゆるしを求めることはできないと言われます。しかも、マタイ福音書では主の祈りの後に念押しするかのように、イエスはゆるしの必要性を説いています(6章14-15節)。さらに、18章21-35節でもイエスはたとえも交えながら他者の罪をゆるす必要性について弟子たちに教えていますが、その結論部分でこう言われています:

「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。(マタイ18章35節)

ちなみに、マタイ18章では教会内におけるクリスチャン同士の関係が主題になっていますが、山上の説教における罪のゆるしも、同様に教会内の人間関係について語られているように思えます(5章23-24節を参照)。もちろん、クリスチャンがノンクリスチャンの罪をゆるすことを妨げるものは何もありませんが、主の祈りが神の国が地上に到来することを願う祈りであり、教会が地上における神の国のもっとも顕著な現れであるならば、クリスチャン同士がゆるしあうことの重要性は強調してもしすぎることはないでしょう。

このように、マタイ福音書では互いの罪をゆるしあうことが繰り返し強調され、しかもそれが神からのゆるしをいただくために必要不可欠であることが強調されています。これは行いによらない、恵みによる救いと矛盾するのでしょうか?必ずしもそうではありません。スコット・マクナイトは、山上の説教の注解書の中で、このことを次のように説明しています。

1.神は私たち(のはるかに重い罪)をゆるしてくださった。
2.それゆえ、私たちは神の恵みを拡大するために、他者をゆるすべきである。
3.もし私たちが他者をゆるさなければ、私たちは自分たちがゆるされていないことを示している。
4.ゆるされた人々は他者をゆるす。
5.しかし私たちが人をゆるすことによって、神のゆるしを得ることはできない。

これはヤコブ書における、信仰と行いの関係に似ていると言えるかも知れません。私たちは良い行いをするから救われるのではありませんが、信仰によって獲得される救いのリアリティは、必然的に良い行いを通して表されてくるはずです。まったく良い行いの伴わないクリスチャンは、その信仰と、したがって救いのリアリティを疑われてもしかたがありません。同様に、神の恵みによってゆるしを得ているクリスチャンは、その恵みを体現して生きる者とならなければなりませんし、そうであるなら、当然他者の罪もゆるすことができなければならないはずなのです。

ここにも、神の国の到来に関する「すでに」と「いまだ」の両側面があるように思います。キリストを信じたからといってすぐに聖人君子のような生き方ができるわけではないのと同様、クリスチャンであるからといって他者をいつも完全にゆるすことができるとは限りません。しかし、天の父が無限のあわれみによって私たちをゆるしてくださったのと同様、すべての人が互いにゆるしあって生きるというのが、世の終わりにおける神の国の完成の一つの表れであり、クリスチャンはそのような終末的リアリティを先取りして生きるようにと招かれているのだと思います。

このようなゆるしのリアリティはイエス・キリストにおいてすでに起こりました。十字架につけられたイエスは、自分を殺そうとする者たちについてこう祈られました。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ23章34節)

この箇所から、クリスチャンが他者をゆるすとは、父なる神から与えられるゆるしの恵みを他者へと取り次ぐ行為であると言えるかもしれません。クリスチャンはこのキリストにあって罪のゆるしを体験した存在であると同時に、敵をゆるしたキリストの足あとに従う者として生きるように召された存在です。キリストの十字架によって罪がゆるされたからこそ、私たちは他者の罪をゆるすことができます。と同時に、私たちが他者をゆるす時、私たちはまさに、その人々に対して、キリストにおいて示された神の恵みとゆるしを体現する存在となるのです。これはまさに、主の祈りの中心テーマである、「神の国(支配)が地上に現されていくこと」であると言えます。

このように考えるなら、主の祈りにおいて神に罪をゆるしていただくことを求める祈りに、他者の罪をゆるすという「条件」がつけられているのは、決していたずらに罪のゆるしを難しくするものでも、クリスチャンを束縛するものでもなく、ましてや行いによる救いを教えるものでもなく、神による罪のゆるしを本当の意味で体験するとはどういうことかを明確化させるものであると言えます。私たちが神に罪をゆるしていただくことと、他者の罪をゆるすこととは、車の両輪のように働いて、地上に神の国を拡大していくのだと思います。

(続く)

「主の祈り」を祈る(7)

(シリーズ過去記事      

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」

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 「」は直訳すると「パン」です。「日用の」と訳されているギリシア語epiousiosは、古代文献の中でマタイ6章11節とルカ11章3節、さらに使徒教父文書の『十二使徒の遺訓(ディダケー)』8章2節にしか登場しません。これらはすべて主の祈りを記した箇所ですので、この言葉の正確な意味を知ることは大変困難です。聖書学者たちは「日ごとの」「生存に必要な」「明日の」「未来の」「超自然的な」等々、さまざまな訳語を提案してきましたが、意見の一致を見るには至っていません。

ここで専門的な議論に立ち入ることはしませんが、前回見たように、主の祈り全体においては、神の支配がこの地上に訪れるという地上的な視点が重要ですので、epiousiosという言葉について極端に霊的な理解に傾いた訳語はふさわしくないと考えられます。結論だけ言いますと、伝統的な「日用の」という訳語を用いることは問題無いと思います。そうすると、ここでの「日用のパン」は食物一般、もっと拡げて、私たちが生きていくための物質的な必要全般(衣食住)を指すと考えて良いと思います。さらに拡げて、この世で生きるための地上的必要全般ととることもできるでしょう。

聖書は私たちの存在の物質的な側面を軽視しません。霊を重視し、肉体や物質を軽視するのはギリシア思想のあやまった霊肉二元論の影響です。私たちが生きていくためには様々な物質的必要があることを神はご存じであり、そのために祈ることを禁じられないばかりか、むしろ命じておられることが分かります。私たちは人生の物質的必要を神に祈り求めるべきであるし、与えられたら神に感謝すべきなのです。

今日も与えたまえ」という言葉から、イエスが主の祈りを弟子たちに教えた時に、彼らがこの祈りを毎日祈ることを前提としていたことがうかがえます。現代文明のただ中に生きている私たちは、毎日食べるパンがあるのは当たり前のように思っていますが、イエスの時代の人々は決してそうではありませんでした。明日食べるためのパンが与えられるように、切に祈らなければならない人々が圧倒的に多かったのです。

それと同時に、私たちは人生の終わりまで何十年もの必要を一度に与えられることはありません。たとえ莫大な財産を持っていても、明日何が起こるかは誰にも分かりません。だからいつでも父なる神に信頼し、その時その時の必要を満たしてくださることを求めて行かなければならないのです。

以前の記事で、主の祈りはイエスが教えられた順番に祈らなければならないということを述べました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りは、その前にある「御国を来たらせたまえ。みこころをなさせたまえ」の文脈の中で祈ることが大切です。そのように考えると、この祈りは単なる個人的な快楽や安楽な生活のための祈りではないことが分かります。イエスご自身が、山上の説教の中で次のように教えています。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6章31-34節)

私たちの物質的な必要が満たされることは、神の国の到来と無関係ではありません。人間の生存には衣食住といった必要があることは天の父はご存知であるとイエスは言います。つまり、神のみこころはすべての人が物質的に乏しいことのない生活をおくることであると言えますが、その神意は地上においてはいまだに実現していません。聖書では社会における経済的不正は厳しく断罪されています(たとえばアモス4章1-3節)。このような文脈で考えるならば、貧しい人々の日々の糧が与えられるということは、神の義なる支配が地の上に実現することの一つのしるしであると考えることができます。

そして、ここで祈るように教えられているのが「私の」糧ではなく「我らの」糧であることは大変重要です。私たちは自分の、あるいは自分の家族や身近な人々の必要だけを求めていくのではなく、他の人々の必要も満たされるように祈っていく必要があります。現在世界の多くの国々で多くの人々が飢えと貧困に苦しんでおり、経済的な搾取がいたるところで行われています。私たちは飢えと貧困に苦しむ人々のために祈らなければならないと思いますが、これは社会における不正がただされるようにという祈りでもあるのです。

イエス・キリストは私たちと同様の肉体を持たれ、その物質的必要を身を持って体験されました。と同時に、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4章4節、申命記8章3節参照)と語られ、天の父の養いに信頼する生き方を貫かれました。しかしそれだけでなく、再臨のキリストは、義をもって世界を裁く方であり、その際に特に貧しい人々に対する愛の行いを重視されることも記されています(マタイ25章31-46節。ここでは祈るだけでなく実際に行動することが求められています。)私たちは、人々の日用の糧が今日も与えられることがキリストのみこころであることを認め、そのみこころが今日地上で実現していくことを祈り求めるように召されているのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(6)

(シリーズ過去記事     

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

この部分は主の祈りの鍵となる部分です。この後に続く部分はみな、この祈りのヴァリエーションであると言って良いでしょう。主の祈りのこの部分については、過去記事で取り上げましたので、詳しくはそちらを参照してください。

シリーズ「御国を来たらせたまえ」          

御国」ということばはbasileiaというギリシア語の訳語ですが、英語ではKingdomと訳されるように、「王国」という意味です。これは新約聖書で「神の国」または「天の国」(新共同訳)「天の御国」(新改訳)と言われるものと同じです。後者はマタイ福音書にのみ現れる表現ですが、口語訳の「天国」は誤解を招きやすい表現だと思います。これは死者の魂が行く霊的な楽園のことではなく、今現在神が王として統べ治めておられる領域、あるいはその支配を意味することばです。

さて、主の祈りではこの神の国が来るようにと祈ります。神の国はどこに来るのでしょうか?その答えは「地に来る」です。聖書のナラティヴの一貫した方向性は、天において完全に実現している神の王としての支配が、(人間の住む領域としての)地にも及ぶようになる、というものです。この意味で、「御国を来たらせたまえ」という祈りと、その次の「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、同じ内容を別の表現で言い換えたものと言ってもよいでしょう。実際、ルカ福音書における並行箇所(ルカ11章2節)では、後者の祈りは含まれていません。後者の内容は、神の国が来るということの意味をさらに明確にするために付け加えられた可能性もあります。

つまり、この祈りは、善にして愛なる神の支配は天においては完全に実現しているけれども、地においてはまだ完全に実現していないという理解を前提としています。私たちは慈愛に満ちた父なる神の存在を信じていますが、同時に地上では罪や悪や苦しみや死が未だに猛威をふるっていることも知っています。クリスチャンの取るべき態度は、そのような冷厳な現実から目を背けて霊的な楽園への逃避を夢見ることではありません。そうではなく、神の民は、この地上に神の国が訪れ、神の聖なるみこころが100%行われるような世界になるようにと祈るべく召されているのです。

今現在、天において実現している神の支配は、黙示録4-5章においてはっきりと見ることができますが、黙示録には、このような天の現実が地上でも実現するときが来るという終末的希望もまた記されています。

第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。 」(黙示録11章15-17節)

この祈りもまた、キリスト論的な視点から祈ることができます。キリストは十字架にかかられた後、復活して天に昇り、父なる神の右の座に着いておられます。このお方は「すべての者の主」(使徒10章36節)であり、「王の王、主の主」なる方です(黙示録19章16節)。キリストは天において神に敵対するすべての勢力を支配されました(エペソ1章20-21節)。クリスチャンは主の祈りを祈る時、キリストの支配が地上に完全に現される時、つまり再臨を待ち望んで祈っているのです。

ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。(1コリント15章23-26節)

けれども、私たちが祈る時、将来のある時点で神の国が地上に完全に到来することを求めるだけでなく、そこに至る過程の中にあって、私たちの人生を通し、生活を通して、神のみこころがなるようにと祈ることが大切であると思います。そのように祈る時、確かに神の国はこの地上に訪れ、拡大していくことになるのです。

(続く)