Context Is King

聖書解釈における大原則の一つに、「文脈(コンテクスト)に即した解釈をする」というものがあります。英語では“Context is King” (文脈は王)などと言われます。聖書テキストの意味は、その前後の文脈の中ではじめて正確に捉えることができる、というもので、神学校で学ぶと、このような聖書の読み方を徹底的にたたき込まれます。

前後の文脈に即して聖書を解釈することが身についてくると、こんどは文脈を無視した解釈に生理的な違和感を覚えるようになってきます。牧師の説教やキリスト教関係の書籍、メディア、クリスチャンの友人との会話などで前後の文脈を無視した聖書の解釈や引用が行われると、条件反射的に頭の中に黄色信号や赤信号が点灯し、「この箇所はそんな意味じゃないよ」と頭の中でつぶやいてしまいます(口に出して言うことは滅多にありませんが)。

文脈を無視した解釈の代表的なものは「アレゴリー的解釈」です。「アレゴリー」は寓喩とも言われますが、ある言葉によって、その語が通常指示する事物とは別の事物を意味する表現技法です。これは著者が意図して行うこともありますが、「アレゴリー的解釈」とは普通は読者がテキストにある言葉の背後に、著者が意図したものとは異なる意味を読み取ろうとする解釈法を指します。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7)

その1 その2 その3 その4 その5 その6

『聖書信仰』書評

藤本満先生によるゲスト投稿ですが、最終回の今回はフェミニズム神学について語ってくださいます。

私は男性がフェミニズム神学を論じることも、白人やアジア人が黒人神学を論じることも、重要であると考えています。「フェミニズム神学は女性がする神学」というステレオタイプが固定してしまうと、そもそも男女間の間にある隔ての壁を突き崩す可能性を持った神学が、より一層両者の溝を深めるセクト的神学にとどまってしまうのではないかと思います。ですので、今回藤本先生がフェミニズム神学を取り上げてくださったことを感謝しています。

藤本

しばらく間が空いてしまいました。先生のブログ読者の方々にも申し訳ないと思います。ところで、このブログの主催者のaboutのところをご覧になるとわかるのですが、山﨑ーランサムが御名字です。ご結婚されるとき、奥様の名字と合体させたとうかがいました。神さまが与えてくださった知恵です。

さて、寄稿は今回で最後なのですが、山﨑ランサム先生が投げてくださいました質問の中から、以下のものを取り上げさせてください。あくまで問題意識程度ですが、少し書かせてください。

Q.「結びにかえて」ではフェミニズム神学とフェミニズムの聖書解釈を本書で論じなかった点について触れられ、福音主義の立場からいずれ論じてみたいと書いておられます(398頁)。この点について、概略だけでもお聞かせ願えますか?

「フェミニズム神学」、またそれ以前に影響を与えた「解放の神学」が1970-80年代の遺物で、一世を風靡して消えていったと理解すべきではないと思います。解放の神学を考えてみます。解放の神学は、南米のキリスト教(特にその貧富の格差)が、ヨーロッパ植民地支配を依然として引きずっていて、その格差構造を教会が支えているという批判でした。社会経済構造の批判など、この神学はマルキシズムを援用したものであると批判されてきました。キリスト教的な解放運動がいつの間にか反政府勢力のイデオロギーと合体したなど、この神学が生み出した問題も多々ありました。

しかし、その神学的展開は出エジプトに始まる聖書の「解放」の神学的な本質を鋭く描き出しました。神学的運動としての「解放の神学」は今は活発ではありません。しかし、ここで指摘された、依然として世界を支配している「植民地支配の構造とキリスト教」というやっかいな問題は、しっかりとキリスト教神学の中心的課題と見なされるようになりました。現在、日本の教会で最も用いられている教会史の書物は、フスト・ゴンサレス『キリスト教史』上・下だろうと思いますが、この本が面白いのは、ゴンサレスがキューバ出身の教会史家だからでしょう。

格差構造を抱えた社会は、神学的には「聖書信仰」が厳しく批判の対象とすべき問題です。それは旧約聖書が厳しく批判するエジプト、アッシリヤ、バビロン、いやそればかりかイスラエル王国そのものの支配を見ればわかります。ブルッゲマン(『預言者の想像力』鎌野直人訳)は、同じ批判を見事に現代アメリカに適用します。私たちは聖書信仰のスタンスから、ヒットラーの第三帝国を、大日本帝国を、常に世界の覇者であろうとするアメリカを批判できます。支配する側ではなく、苦しむ人びとの側に十字架の主と共に立ち、悪(人)の支配から解放してくださる神に希望をもって行動することができます。確かに解放の神学は、「聖書」全体ではなく、「解放」のモチーフに振り回された感はありました。それでも、この問題にスポットを当てたという意味での貢献は、否定できないでしょう。

フェミニズム神学(最近は黒人女性の解放を目指すウーマニズムの立場からの神学も含みます)は、解放の神学から派生し、特に女性の視点からキリスト教神学を見直すというものでした。女性の視点、女性の経験から聖書を解釈し直すとは、未だかつてない大きな影響をキリスト教会に与えてしかるべきものです。なぜなら、古代から現代に至るまで、社会とキリスト教には父権的構造・考え方が染みついているからです。ハーバード大学の神学部に女性の入学が許されたのは1955年、つい60年前の出来事だったとは、いかにキリスト教が父権的であるかの象徴かもしれません。

さて、フェミニズム神学の幕が開けたときには、かなりショッキングな発言が出てきました。たとえば、この神学の礎を据えた一人であるローズマリー・リューサー(Rosemary Ruether)はこんな過激なことを言います。十字架を前に弟子たち(男性)はイエスを見捨てて逃げてしまいます。しかし、ゴルゴダの丘で主の十字架を見届けたのは数名の女性の弟子たちでした。さらに復活された主は、マグダラのマリアら女性の弟子たちに現れます。そのことを告げられたペテロは疑います。復活の主がご自身の存在をつぶさにお示しになったのはマグダラのマリアに対してでした(ヨハネ20:11-18)。主の復活を弟子たちに教えているのは彼女です(18)。リューサーは、もしマリアが復活の証人の第一人者と認められていたら、もし彼女が当時の社会で使徒となることを許されていたのなら……と想像を膨らませます(Ruether, Sexism and God-Talk)。

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復活のイエスに出会うマリア(フラ・アンジェリコ)

グノーシス文書で『マグダラのマリアによる福音書』がありますが、そんなことをリューサーは論じているのではありません。もし当時のイエスの共同体における女性の地位が男性と平等であったら、福音書の中身はどうなっていたのだろうか、と。もちろん、私たちは主が使徒として男性を立てられたという現実、また彼らが中心となって初代教会が構成され、教会権威が立ち上がり、やがて正典聖書ができあがっていったということに啓示の摂理があることにうなずいています。つまり、神の啓示はこの世に示され、それが父権的社会であるなら、その現実は神の啓示の摂理の中にあることを。

しかし、だからと言って、記されていないことを単なる想像として葬り去ることにも納得がいきません。たとえば、こういうことです。創世記16章にアブラハムの妻サラの奴隷ハガルのことが記されています。ハガルはエジプト人の女性であり、奴隷です。しかし、神はハガルを祝福されます。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる」(16:10)。これは、アブラハムが受けたのと同じ祝福です。それを女性であり奴隷であるハガルは、直接神から受けています。さて、聖書はハガルの子孫ことをその後記していません。それどころか、ユダヤ人やイスラームの人びとは、ハガルから生まれたイシュマエルをアラブ人の祖先と見ています。では、16:10で約束された祝福は、その後、どのように果たされたのでしょうか。少なくとも、その祝福は「絶えてはいない」と言うべきなのではないでしょうか。私は、イシュマエル民族に流れる神の祝福を描き出せるなどと考えているのではありません。しかし、少なくとも「記されていないから途絶えてしまった」と考えるべきではないと思っています。

記されていないところから、様々なことを知ることはできません。マグダラのマリアがどのように福音を体験し、どのような影響を初代教会の共同体に与えたのかを掘り下げて考えるには限りがあります。

ここで「記されていないこと」をたぐり、あるいは記されていても「社会的な背景が強い箇所」に注目しますと、聖書信仰の論理の道筋は、やがて以下に述べる問題に直面します。それを私は卑怯にも、論じることを避けます。しかし、こういう問題は考えなければならない、とだけ提示させてください。

まず、フェミニズム神学が提示してくる課題は、聖書信仰の基本中の基本である命題に関わります。「聖書は救いと信仰の実践において誤りなき」神の言葉であり、その側面において十全であると信じます。ところが、仮にそれが父権社会に傾いていたら、「いや」傾いていたとは言いたくありません。女性の経験・視点を覆い隠すように神の言葉を解釈していたら、神の言葉は、十全たり得ないでしょう。あるいは現代の複雑多岐の実践課題に対する結論を誤りなき神の言葉からどのように導き出すかに至っては、私たちの考えていること行っていることは、おおよそ無誤無謬からはほど遠いと考えるべきでしょう。

私たちは、「主張だけは」男女平等の世界に生きていると思います。しかし、この主張は比較的新しいもので、それが叶わなかった一つの妨げにキリスト教の男性優位主義が存在していたことを認めることも大切であろうと思います。

さらに、父権的な枠組みを、神の言葉の本質と考えるのか、それともそれを一つの社会背景として考えるのか。神は人を男と女とに造られ、男性主導、女性従属的な役割を授けられたのか。それとも男性も女性も神の像にあって等しく創造され、等しくあがなわれ、新に造られているのか。

個別の事象で言えば、コリントの教会に向けてパウロが記した、教会における女性の役割が取り上げられます(1コリント11:3-16、14:34-35)。これをそのまま受け取ることだけが聖書信仰とは言えないでしょう。これを父権的な枠組みの中、歴史的な制限の下にある教えと見なす(相対化する)ことも、聖書信仰に抵触するとは思えません。寄稿(1)で述べたように、神の啓示は旧約聖書であれ新約聖書であれ、歴史的現実の中に現されるからです。

絹川久子氏による『沈黙の声を聴く――マルコ福音書から』(日本キリスト教団出版局、2014年)などは、かなり詳しく当時の社会的背景に照らして、福音書に描かれる女性や弱者の叫び、またそれに応えるイエスを描いています。同時に、荒井献氏の『新約聖書の女性観』(岩波書店、1988年)などを読むと、初代のキリスト教共同体が、父権制の強いユダヤ・ギリシャ・ローマの世界にあって、独特な女性解放的要素に富んでいたことを説いています。あるいは、こんなことも考えます。日本は、女子ミッションの高等教育がとても盛んな国です。にもかかわらず、女性の社会進出が非常に遅れた国でもあります。女子ミッション教育は、父権制の強い日本社会を破ることができなかったのだろうか? それはなぜなのか? 東京基督教大学で教え、また東京女子大学の学長もなさった湊晶子氏は、福音派におけるフェミニズム神学(健全な意味で)の論客です。そのあたりをお聞きしてみたいとも思います(参考、湊晶子『女性のほんとうのひとり立ち』、いのちのことば社)。

福音主義神学会の学会誌32号(2001年)には、「女性教職論」との特集テーマのもと、湊晶子「女性教職の歴史神学的考察」、國重潔志「米国福音派における女性教職論」、稲垣緋紗子「賜物に性による差はあるのかとの問いをめぐって」が所収されています。

最後に一言。昨年、私は徳島にある大塚美術館を訪れる機会を得ました。その時、聖書をテーマとした絵画に造詣の深い町田俊之先生をお迎えして、様々な絵画についてご説明をいただきました。有名な17世紀オランダのレンブラントによる「放蕩息子」を前にして、先生がレンブラントの栄枯盛衰的な人生の最後にこの作品が描かれたことを教えてくださいました。そして、息子を迎える父の手が、右と左が明らかに違うことを。片方は父親の節くれ立った手。もう片方が、やさしい母親の手。まさに、そうだなぁ、と味わい深く絵画に見入ってしまいました。

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レンブラント「放蕩息子の帰還」

実は、山﨑ランサム先生からは、他にもご質問をいただきました。これ以上、私の寄稿で先生のブログスペースを乱すことはやめておきます。せめて先生からのご質問だけは記させてください。私たちの今後の課題となると確信しています。

先生、本当にありがとうございました。

Q.本書でもカール・バルトについてかなり積極的な評価がなされているように、福音主義の聖書信仰も、いわゆる福音派教会の内部だけで議論されてきたのではなく、福音派外のさまざまな立場との積極的対話から実り多いものが生まれてくるように思います。この点について、先生のお考えをお聞かせください。

Q.本書の貴重な貢献の一つに、欧米の福音主義だけでなく、日本における福音主義の歴史についても紹介しておられる 点が挙げられると思います。12章「戦後日本の聖書信仰」では、1980年代の聖書信仰論争までが描かれています。他の章ではより最 近の日本の神学者についても個別に触れておられますが、先生の目からご覧になって、ここ30年の日本の福音派における「聖書信仰」の 理解は、どのように変わってきたとお考えでしょうか?

Q.本書で先生が提唱しておられるような幅のある豊かな「聖書信仰」を、ポストモダンの社会に生きる日本のキリスト 教会が体現していくためには、具体的にどのようなことに留意していくべきと思われますか?教職者として、信徒として有益と思われるアドバイスをいただけると感謝です。

――(藤本ですが、この質問に対する答えは、すでにこのブログに豊かに記されています)

*     *     *

(以下、山崎ランサムです)

藤本先生が今回取り上げてくださったフェミニズム神学、あるいはラテンアメリカの解放の神学、アメリカ合衆国の黒人神学、韓国の民衆神学等、何らかの形での社会正義の実現がキリスト教の福音の重要な部分を占めるとする一連の神学的運動について、福音的「聖書信仰」の立場からどう考えるかというのは、たいへん重要な問題だと思います。

先生が『聖書信仰』の中で論じておられるように、聖書信仰が真理の啓示としての聖書の側面だけでなく、救いを与える力を持つものとしての「救済論的聖書観」を含むものだとすれば、その「救い」は個人の魂の救済のみならず、社会や究極的には被造物世界全体の回復を射程に入れているものでなければならないと思います。そのような意味で、フェミニズム神学や解放の神学等の主張に全面的に同意することがなかったとしても、それらが提起している社会的正義の問題は、福音主義の聖書信仰にとっても決して無視することのできないものであると思います。

キリスト者といえども自らが生きる文化や社会の制約から完全に自由な「純粋な聖書信仰」を持つことは不可能です。そのような文化的社会的バイアスは、私たちの聖書理解にも必ず影響してきます。たとえばローマ16:7を考えて見ましょう。

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。(新改訳第3版)

ここで新改訳聖書(新共同訳、口語訳も同様)が「ユニアス」と男性名で訳している人物は女性名の「ユニア」であると、最近の学者の多くは考えています。また、この箇所は彼女とアンドロニコ(おそらく彼女の夫)が(十二弟子ではなく広い意味での)使徒であった可能性を示唆しています。つまり、彼らは「使徒たちによく知られた人々」ということではなく、「使徒たちの中でもぬきんでた人々」ということです。

男性名「ユニアス」の記録はこの箇所以外の古代文献には存在せず、教父時代から中世にかけて、この箇所の人物は女性の「ユニア」であると考えられてきましたが、近代になってこれを「ユニアス」と取る解釈が一般化しました。ジェームズ・ダンはそのローマ書注解の中で、「この人物が男性であるに違いないという思い込みがあるということは、最初期キリスト教の性格と構造についての男性の厚顔さに対する顕著な批判となっている」と述べています。つまり、この人物は「ユニアス」という男性だとしてきた解釈史には、「使徒は女性であるはずがない」という男性優位主義的な偏見が多分に影響していると考えられるのです。

しかし、近年になってこのようなバイアスは多少是正されてきており、それが聖書翻訳にも反映されてきています(もちろんそれだけが翻訳の決め手ではありませんが)。英語圏で広く読まれているNew International Versionの1984年版と2011年版でローマ16:7を比較してみるとそのことがよく分かります。

Greet Andronicus and Junias, my relatives who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(1984年版

Greet Andronicus and Junia, my fellow Jews who have been in prison with me. They are outstanding among the apostles, and they were in Christ before I was.(2011年版

同時に、藤本先生も おっしゃるように、新約聖書が当時の父権社会に生きる人々に向けて語られた神の言葉であるということも忘れてはならないと思います。これは奴隷制についても同様です。福音派は聖書の神的側面を強調しすぎるあまり、当時の人々の世界観や文化的バイアスのレベルにまで神が降りてきてくださっ て語りかけられた、という事実を軽視してしまい、聖書の中にある、本来は福音の価値観にそぐわない文化的要素を「神のことば」の名の下に絶対視してしまう危険性があると思います。

藤本先生、7回にわたって当ブログに貴重な文章をお寄せくださり、心から感謝いたします。ありがとうございました。

(おわり)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6)

その1 その2 その3 その4 その5

藤本満先生によるゲスト投稿、6回目は、私(山崎ランサム)とのインタビュー形式でお送りいたします。

聖書信仰

聖書信仰』(再刷おめでとうございます!)

このたび、寄稿の最後に山﨑ランサム和彦先生が質問され、小生が少し応答し、必要があれば、山﨑ランサム先生がさらに応答する、という形式を取っています。読者のみなさまも、先生の質問に対して、様々なお答えがありますでしょう。私の拙い返答にご辛抱ください。

 *     *     *

Q1.どのような神学も歴史の真空状態の中で生み出されてくるものではなく、神学者が生きている具体的な歴史的状況に 必然的に影響を受けるものだと思います。本書における先生の主張をよりよく理解するために、先生ご自身の神学的背景について、簡単に お教えください。

私はインマヌエルという群の中で、牧師の家庭に育ちました。きよめ派の教団で、1945年に群を創設された蔦田二雄先生は、戦後、長老派の常葉隆興先生らと、JPCの旗揚げに貢献された人物です。ですから、私の育った教団は、聖書信仰のど真ん中を歩んできました。しかし、私の周囲でウォーフィールドを読んでいる人・プリンストン神学の聖書観がどのようなものかを論じる人を見たこともありませんでした。しかし、とても伝道的で霊的に真実な群で、純粋に「聖書は神の言葉」であり、滅びる者には愚かであっても、救われる私たちには神の力であると真実に信じてきました。つまり、聖書論の神学的な掘り下げには弱くても、聖書の救済論的な役割はしかと捉えていました。――そういう私に芽生えたのが、聖書信仰はウォーフィールド型だけではないのではないか?という疑問です。

また、あるとき、ふと気がつきました。それなりの理由はあるのでしょうが、日本福音同盟(福音派の集まり)に、本来その中心にいるべき、日本改革派教会が入っていません。また長老教会も、必ずしもその中に入っていません(語弊があったらお許しください)。以前中心におられた村瀬俊夫先生は1980年代の論争で離れていかれました(現在は、福音同盟の社会委員会の委員を務めておられます)。――ここから生まれたのは、日本の福音派を考慮した、聖書信仰の歴史的な変遷を解明してみたいという願いでした。どのようにしてこうなってしまったのだろう?

日本の福音派においては、聖書信仰は、型にはめられたようで、議論にもならないのが現状ではないかと思いました。それは、「信仰」であって「神学」ではないのだから、論じるべきことではない、かのように。一度、バケツをひっくり返してみよう、などと思ったのではありません。少し足跡を検証してみようと思ったまでです。

 

Q2.本書にも登場する神学者トーマス・オーデンは、「復古正統主義(Paleo-Orthodoxy)」を提唱し、 古代の教父や公会議に代表される「古典的キリスト教」の重要性を強調してきました。本書は福音主義の聖書信仰を宗教改革まで遡って描き出していますが、宗教改革以前の「聖書信仰」を今日の福音的キリスト者はどのように評価すべきとお考えでしょうか?

少し字数をいただいて、あらためて宗教改革の聖書主義(聖書信仰)を説明させてください。1517年の10月の終わり、ルターは贖宥状(免罪符)を売り歩いて、大金を稼いでいる教皇サイドに抗議文を出します(ヴィッテンベルクから印刷を通してあっという間に広がります)。教皇サイドとルターは、最終的に1521年のヴォルムスで開催された神聖ローマ帝国の会議にルターが呼び出され、撤回を求められ、それを拒否したことで、決裂します。

「皇帝閣下と諸侯殿が単純な答えを要求されるのですから、歯に衣着せずにお答えします。聖書の証言か明白な根拠をもって納得させられない限り、私は私が挙げた聖句に従います。私の良心は神の言葉にとらえられています。私は教皇も公会議も信用していません。なぜなら、それらがしばしば誤り、互いに矛盾していることは明白だからです。私は何一つ撤回できませんし、そのつもりもありません。良心に反したことをするのは、正しいことではなく、また危険なことだからです。神よ。私を助けたまえ。アーメン。」

ルターの答弁をもってプロテスタント教会が誕生しました。神の言葉、すなわち聖書の生きて働く神の声こそがルターをとらえました。さらに、これまでのカトリック教会は、人間の性質、救いの方法、キリスト者の歩み、等々についての聖書の教えを曖昧にし、時にそれを否定してきたというのが、彼の理解です。今こそ教会は聖書を通して神の真の声を聞かなければなりません。明らかに、プロテスタントの聖書主義の原則は、聖書を教会の上に置きました。

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ヴォルムス帝国議会におけるルター

さて、ヴォルムスの帝国会議は、ルターの答弁で終わったわけではありません。ルターの答弁に応答した審問官の言葉もまた、注目に値します。

「あなたは気が狂っている。どんな目的をもってして、これまで多くの世紀にわたって教会と公会議が討議してきた諸課題に新たに言いかがりをつけるのか。……だれでも公会議と教会の共通理解を聖句によってひっくり返えすような事態を認めたら、もはやキリスト教にはなんら確かな、決定的なことは残らないではないか。」

もし誰もが聖書を味方につけて自分の良心に従うだけでは、その道は、良心の数だけ存在することになります。帝国会議におけるこの言葉もまた、これから先、分裂を繰り返して、諸教派を生み出すプロテスタント教会の将来を予見していたことになります。

そのように考えると、山﨑ランサム先生が挙げてくださったトーマス・オーデンの狙い所が少し見えてきます。彼は、「復古的正統主義」、つまり古代信条を作り上げてきた時代の教会のあり方にならって、聖書主義によって様々に分裂し、多くの教派・神学を生み出してきたプロテスタントを超え、さらに教皇制度と伝統を軸にキリスト教を考える西方カトリック教会を超え、東方教会とも連携を取りながら、それらの分裂が未だなかった時代に目を向けようとしています。

そこでは、教理と霊性の垣根はありません。神学は神学だけをしているのではなく、牧会・伝道・帝国主義との戦い、あらゆることに関わっていました。そこでは聖書が先か教会が先か、というような鶏と卵の論争もありません。鶏も卵も一つのことでした。

オーデンは、そのような古代正統主義のルネサンスは不可能だろうとあきらめていました。ところが、拙著でも紹介しました、初代教父による聖書注解、『古代キリスト教聖書注解』(Ancient Christian Commentary on Scripture)の総編集の働きを進めるにつれ、以前とは異なった感触を得るようになります。この注解書は、初代教父による、存在するすべての聖書注解をデータベース化し、それをもとに聖書の各書各節が、どのように教父たちによって注解されてきたかを解説しています。2001年から刊行が始まり、全29巻が発行されました(InterVarsity)。またこの注解書は、世界で七か国語で同時刊行されてきました。

各巻の編集者は、プロテスタントやカトリックの聖書学者だけではありません。ユダヤ教の聖書学者、東方教会の聖書学者も含まれています。そして、各巻の編集者に共通して見られる、古代の正統主義への憧憬、そこに立ち返る姿勢をオーデンは見て取りました。拙著は「聖書のひとり歩き?」という章をもうけましたが、プロテスタントの流れの底流に、ともすると聖書とその解釈が、教会・伝統を離れて一人歩きする傾向があり、それを反省して、どのような動きがあるのかの一端を紹介しました。

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Q3.本書では欧米と日本の聖書信仰について主に書かれていますが、日本以外のアジア諸国、アフリカ、中南米の教会の中で、聖書信仰というテーマについて注目すべき動きをご存じでしたら、お教えください。

回答は持っていないのですが、この質問の重要性を強調させてください。1910年の統計では、プロテスタント教徒の58%が欧州、31%が米国、11%がその他の国でした。ところが、2010年の統計ですと、欧州はわずか12%、米国は15%、そしてアフリカ・南米・アジアに73%、となっています。さらに、73%のうち、かなりの割合が聖霊派・ペンテコステ派です。福音派の分布が、欧米以外に、しかもそのかなりの%が聖霊派である、というのが現実です。

山﨑ランサム先生が挙げてくださった地域で「聖書信仰」がどのように論じられているのか、私にはまったくわかりません。しかし、これは十分に考察に値するテーマです。これを神学的に論じる研究者がだれかというよりも、この課題がそれらの地域でどのように扱われているのか、論争はあったのか、米国的な理解がどのように浸透しているのかに、私も興味があります。山﨑ランサム先生は、動向をご存じでしょうか?

聖書信仰の実践・適用という見地からですと、拙著でも取り上げました、デヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』は、南アフリカのオランダ改革派です。彼のメッセージは、未だに植民地的社会構造に縛られている世界からの叫びでした。ローザンヌ会議に出席したペルーのサムエル・エスコバール(Samuel Escobar)は、福音派における解放の神学と社会構造の変革を訴えた人物でした。

*     *     *

藤本先生、お忙しい中、私からのとらえどころのない質問に一つ一つ丁寧にお答え下さり、心から感謝いたします。Q3でご質問した、(日本以外の)アジア・中南米・アフリカ諸国における「聖書信仰」については、私も正直なところほとんど知らないのが現状ですが、ごく限られた範囲で知っていることをお分かちしたいと思います。

アジア神学協議会(Asia Theological Association: ATA)は福音主義に立つアジアの神学教育機関の集まりですが、そこが出版しているアジア聖書注解Asia Bible Commentary)というシリーズがあります。これはATAがジョン・ストットによって創始された Langham Partnershipとの提携のもとに刊行中のプロジェクトですが、その目的はアジアの聖書学者による、アジアの牧師や教会指導者、神学生等のための聖書注解を生み出すことにあります。

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アジア聖書注解シリーズ

アジア聖書注解シリーズのユニークな特徴は、「アジアに文脈化された聖書講解」という点にあります。その編集方針では、注解本文において釈義 exegesis と適用 application をはっきりと分離することはせず、聖書講解の中にアジアというコンテクストにおける適用と、アジアにおける聖書解釈の歴史を織り込んでいくことが明確にうたわれています。つまり、歴史的・文法的解釈のスタンダードな手法である、まずオリジナルの歴史的文脈において聖書が「意味したこと」を釈義し、しかるのちに現代の教会の置かれている文脈に適用する、という二段構えの構造を意図的にくずし(あるいはゆるめ)、現代のアジアにある教会に語りかける神のみことばとしての聖書のインパクトに重点を置いて聖書を読んでいこうという試みであると言えます。これは、藤本先生がおっしゃってこられた、「救済論的な聖書観」に基づくアプローチの一例といえるでしょう。

もちろん、注解書は実際に聖書を解き明かしてなんぼの世界ですので、実際に生み出されてくる注解の善し悪しは個別に判断されなければなりません。また、メインラインの聖書解釈では、アジア人の視点から聖書を解き明かそうという試みは、これまでにもありました。しかし、従来はそのようなアプローチに対しては、福音派からは「ポストモダン的な読み手応答批評」「主観的な読み込み eisegesis」として否定的にしか評価されてこなかった気がします。けれども、近年になってこのような聖書解釈の方法論がアジアの福音派の聖書注解の方針としてはっきりうち出されていること自体、注目すべき動きであると思います。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4)

その1 その2 その3

藤本満先生によるゲスト投稿の第4回を掲載します。今回は物語論についてです。

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聖書信仰(4) 物語

物語の復権

昨今、聖書の物語性、あるいはナラティブとしての聖書という表現をよく耳にするようになりました。アブラハム、士師、ダビデ、福音書、使徒の働きなど、聖書を切れば必ずと言って良いほど物語が出てきます。1974年にイエール大学のハンス・フライが著した『一九世紀における聖書の物語の陰り』という書物がきっかけとなって、急にナラティブとしての聖書が注目されるようになりました。

なぜそれまで、聖書の物語性が無視されてきたのでしょう。19世紀、リベラルなドイツの学者たちは、歴史の中に全能の力をもって介入してくる神を前提とせずに、聖書を文献として研究します。彼らの多くは、紅海が二つに分かれる物語からイエスの奇蹟や復活の物語に至るまで、神の力にあふれる物語をフィクション(神話)として読み流し、その中から宗教的な真理命題だけを抽出すればよいと考えていました。物語が記述する出来事の詳細は乏しくても、そこから宗教的なメッセージは抽出でき、理性的に解釈し直せる、と。これならば、物語を構成する「史的イエス」(歴史上の人物としてのイエス)と、そこから抽出された初代教会の「使信としてのキリスト」は別物であっても、かまわないことになります。

ここでは詳しく説明しませんが、先のフライの書物以来、聖書の出来事性、そしてそれを描く物語を「軽く見る」ような考え方は、ひっくり返されてきました。物語の復権です。(拙著16 章)

物語(ナラティブ)理解は危険か?

しかし保守的な福音主義は、依然として聖書の物語性を掘り下げることを敬遠します。それは「物語=神話」というような、上述のリベラリズムに対するトラウマが原因しているだけではありません。そもそも物語のもつ「意味の相対性・多様性」に危惧を覚えているのです。物語という文学類型を当てはめて聖書を読むと、読み手の印象によって御言葉の意味と理解は相対的になります。最終的には「託宣」としての権威を傷つけると警戒しているわけです。

もっとも物語の復権を待つまでもなく、言語学は長年、言葉の多様性・多義性(相対性)を指摘してきました。

・言葉の機能は、話し手の考えを一方的に相手に伝えるためだけではない。同じ言葉をもって、人は願い、感謝し、呪い、挨拶をし、祈り、命令し、問いかける。
・言葉は幅広く機能し、その意味も状況に応じて多様である。
・詩的な言葉だけでなく、日常の記述も、時に正確性よりも象徴性を重んじることがある。

この言葉の機能の多様性、意味の豊かさは、近代主義や科学が支配する文化においては「曖昧性」とみなされ、それが欠点であるかのように退けられてきました。この欠点を克服するために依然として、聖書のテキストは「原著者の意図にのみ限定された単一の意味しかもたない」と命題的に定義することを志してきました。

確かに、聖書の言葉を象徴的に理解しすぎ、主観的な体験で解釈していけば、限りなく相対的なものとなり、神の啓示は、星の数ほどの理解で解釈されるでしょう。これが物語論の危険性であることは認めるべきでしょう。しかし、危険性と共に可能性は莫大です。現時点で聖書の物語性を主張する人びとは、そのような相対主義を考えているわけではありません。ですから、彼らが提示している可能性に耳を傾けるべきであろうと私は思います。

物語論は、近代主義が言葉の中に、一つの意味、しかも普遍的に通用する客観的な意味を見いだそうとしたことによって、かえって、本来聖書が有している物語のダイナミズムを減じてきた現実を指摘します。マクグラスは次のように述べています。

「聖書の物語性を認めることは、聖書の啓示の豊かさを回復させることになる。この方法論は、福音主義の啓示の客観的知的真理へのこだわりをあきらめることでも弱めることでもない。それは単に、啓示は、客観的真理よりはるかに多くのことを含むことを認めること、またその豊かな啓示を教理へと還元してしまうことを防ぐ知恵を与えることにほかならない。」(拙著315 頁、参照357-360 頁)

では、物語のダイナミズムとは、どのようなものでしょうか。

物語のダイナミズム

プリンストン神学校のウィリアム・ジョンソンは次のように述べています。「物語は固定化されたものではなく、ダイナミックなものであり、それゆえ、新しい場面で新しい事柄が追行されている。換言すれば、聖書的物語は、単に私たちに神の本性について語るだけではない。現在、神がどのようなお方であるのか(神のアイデンティティ)をたえず、新しい仕方で私たちに明らかにし続ける。」(拙著314 頁)。追行されるとは、聖書の物語と私たちの物語が重なり合うことです。この考え方にそって、聖書の物語性を強調する何人かの聖書学者を紹介してみましょう。

石田学は、聖書の物語が語られるとき、「聖書の出来事や民の体験がきわめてドラマ的な仕方で、教会の会衆の想像力の中で再構築され、追体験される」と言う。「現代に生きて聖書を読む読者は、彼ら自身の生活が現代に生きる神の民としての生き方を変容され、形成されるような仕方で、聖書のドラマと自分たちのドラマを相関させるように導かれるべきである」(拙著314 頁)。そうなると、聖書の物語理解は、聖書は神の言葉であって、それを解釈して今日に適用するという、以前の聖書信仰の「上から下へ」の理解だけでは不十分です。物語は、託宣的理解を超えた聖書の言葉の「力」と「機能」を提示していることになります。

ブルッゲマンは、支配者の側に立つ者と抑圧される民の物語(ファラオとイスラエルの民、列王記のソロモンをはじめとする王族と貧しい民)を、現代アメリカ社会の物語と重ねます。彼は、神の正義と平安を歌っている御言葉が、実は利権者の方便にすぎないことを見抜いて、支配者・利権者と対峙する預言者の姿を浮き彫りにします。そのとき彼は、聖書のテキストがどのような「意味を持っていたのか?」ではなく、どのような「意味を持っているのか?」こそが、私たちが取り組むべき課題だと言います(拙著327 頁)。

その意味でブルッゲマンは、物語である聖書が、出来事や教えの「記録」ではなく、「記憶」であると言います。神の言葉は過去に固着しているのではなく、現在と未来のエネルギーにあふれている、と。古代の特定の文化と密接に結びついた物語は、過去の記録ではなく、信仰共同体の記憶として繰り返し体験され、受け継がれ、神が語られるものだと言うのです。

英国のR・ボウカムは、聖書全体を物語として見ることを主張します。聖書は不変の教理や道徳の教典ではなく、第一義的に物語(多様であっても統一性がある)である。物語は、読者をその物語の中へと引き込む力を持っています。私たちが聖書に描かれる大きな物語に登場する人物や出来事に自分自身を重ねるとき、聖書は私たちの人生、また世界の諸問題への取り扱いについて示唆を与え、その最終的な解決を教えてくれます。私たちは大きな物語の中に取り込まれて、変貌していきます(拙著332頁)。

山﨑ランサム先生もレビューしておられるN. T. ライトはさらにこんなことを主張します。彼は聖書の物語を大きく五つの舞台に区切って、次のように神学的な流れで解釈します。

「私たちは創世記一章と二章(創造の物語)を、あたかもこの世界が当時のままであるかのように読むことはしない。また、創世記三章(堕落の物語)を、創世記一二章(信仰の民)を知らされていないかのように、さらに出エジプト(旧約の解放と契約)を、さらに福音書(キリストにある契約)を知らされていないかのように読むことはない。また私たちは福音書を、それがまさに第四の舞台から第五の舞台へと移行するために記されているという事実を知らないかのように読むことはない。」

この第五の舞台を演じているのは教会です。現在の私たちは、第五の舞台に立っていて、キリストの十字架と復活礼拝の中で再現し、その恵みを担いながら、和解の福音の使者として世界に出て行きます。

ライトと共に米国のヴァンフーザーも、第五の舞台を生きる私たちと聖書の関係をダイナミックに定義します。第五の舞台に生きる私たちは、単に正典が基準となってそれに従って生きているだけではありません。正典ドラマは、物語を解釈する者をドラマの役者としても取り込んでいきます。聖書の理解は知の問題である以上に、行動の問題となります。どの時代にあっても信仰者は皆、神の国の物語の中でそれぞれの役割を演じます。そこで私たちは、この物語の中へと取り込まれているのか、自分はどの場面でだれを演じているのか、自分の人生は聖書のどの場面といま関わりをもっているのか、神はいま何をしようとしておられるのか、自分はどう応答するのかが問われているというのです。ヴァンフーザーによれば、聖書は私たちに、舞台で言う台詞を提供しているのではなく、「聖書のテキストが示唆し、意味している」ことを理解し、そこで「演じる」、すなわち神の物語の中で生きることを求めている、と。聖書の解釈は「私たちの見方、考え方、行動の仕方を刷新し変貌させる。……聖書は神のコミュニケーション行為の媒体であって、それによって真理が伝えられるだけでなく、読む者が変貌されていく」。(拙著258-260 頁)

――これくらいにしておきます。

物語のダイナミズムが注目するとき、私たちの「聖書信仰」理解も新しくされるはずです。アイルランド・メソジストのウィリアム・エイブラハムは、ボウカムやライトを引用しながら、次のように言います。「私たちは基準、正典的標準、正統主義、知識という表現から、神の国、救い、解放、備え、変貌といった表現にシフトした。私たちは認識論から救済論へとシフトした」(拙著334 頁)前者の表現の鍵を握っていたのは「命題」です。そして、後者の鍵を握っているのは「物語」です。

聖書の物語理解が聖書信仰の中に入り込み、従来の近代主義的真理と託宣にそった聖書信仰を超えて、さらに豊かな可能性が探り、「聖書こそ神の言葉である」との信仰理解がさらに深まっていくことを期待します。

(続く)

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その1)

先日の記事で藤本満先生の近著『聖書信仰』をご紹介させていただきましたが、このたびご本人にお願いして、数回にわたってゲスト投稿をいただけることになりました。お忙しい中、快く引き受けてくださった先生に心より感謝いたします。

藤本

このブログに寄稿する機会を与えてくださいました、山﨑ランサム和彦先生に心から感謝申し上げます。先生は拙著『聖書信仰――その歴史と可能性』を読んでくださいました。そして、拙著の学術的な色彩をもう少し平易に乗り越えるために、短い文章を書く機会をここで与えてくださいました。ところが、書いてみたのを自分で読んでみると、さらに難しくなったのかと、自分の表現力のなさに落胆します。読んでくださる方々に、神の助けがありますように。(藤本満)

聖書信仰(1)
ギャップに架けられた橋1――批評学

聖書信仰は、二つの対極的命題と向き合います。両者の緊張関係を解消せずに、どのように二つの間のギャップを埋めるか、という課題に必ず直面します。

A)聖書は神の言葉、神の啓示である。(神学・霊的現実)
B)聖書は人間の言語によって記されている。(歴史的現実)

神は時空を超えた世界で抽象的な命題の中にご自身を啓示されたのではなく、具体的な歴史・文化脈の中で、実在した人々と出来事を通して啓示されました。人類に対する神の啓示である以上、聖書は普遍的な真理であると私たちは信じます。ところが、その普遍的な真理が、2千年、3千年以上も前の、しかもおおよそ日本語世界に生きる私たちとはかけ離れた言語で記され、聖書の世界の生活感覚も世界観も、私たちのそれとはかけ離れています。

このギャップを見て見ぬふりをするような聖書信仰だとしたら、「信仰」と呼べるのかもしれませんが、聖書の本質・啓示の本質を無視することになります。旧約聖書は古代オリエントの言語によって記され、その文化や歴史的出来事と切り離すことはできません。新約聖書は、旧約聖書だけでなく古代ギリシャ・ローマの世界を背景にしています。

もし私たちが、「聖書は神の言葉である」という神の言葉の永遠性・普遍性を尊ぶあまりに、その歴史性・文化性を無視したとしたら、果たして神の言葉を真実に受け取っていることになるのでしょうか? 聖書六十六巻の各書にあろう歴史的成立過程を気にもとめず、著者が生きた時代背景や宗教的影響と独自性に目をつぶり、あたかもすべてが一気呵成に永遠なる神という一人の著者によって書き上げられたように主張したとしたら、それは敬虔な努力であっても、本来聖書がもっている緊張関係を解体してしまうことになるでしょう。

では、上述の二つの現実の間にあるギャップに目をつぶることなく、聖書を真実に理解しようとした人々は、どのような方法で二つの緊張関係・ギャップに橋をかけようとしたのでしょう?

●第一は、言うまでもなく批評学です。つまり聖書が記された歴史や背景、また言語や文書構造を学ぶ文献研究です。これは18世紀後半のドイツに始まりました。ところが残念なことに、当時の聖書学は歴史学や哲学に吸い込まれてしまいました。聖書は単純に古代オリエント・古代ギリシャ文書の一つとして研究されるようになります。聖書の持つ正典性・一貫性は解体され、古代の歴史文書と比較検証され、宗教学の貴重な一文献として、大学で研究されるようになります。聖書は教会の手から離れてしまいました。大学、あるいは大学の神学部での聖書学は、教会の神学を嫌い、信仰から切り離して聖書を研究する風潮が浸透していきました。

ようやく1970~80年代頃から、聖書の正典性を強調するアプローチが戻ってきます。ドイツの自由主義神学が、教会の信仰から独立して自立した研究を進めていたつもりが、いつの間にかヘーゲルに代表される当時のドイツの哲学に魂を奪われていたことなども明らかにさます。『聖書を取り戻す――教会における聖書の権威と解釈の危機』C・E・ブラーテン/R・W・ジェンソン編(芳賀力訳、教文館)などは、リベラル系聖書学がリベラル神学と決別して、聖書を、それが本来属している教会へと取り戻そうという、福音主義的な論考です。

かつて聖書信仰は、自由主義神学による聖書の取り扱い方から身を守るために、「批評学には手を染めない」という態度を採ってきました。しかし、近年、そのようなことはありません。批評学の成果を全面的に受け入れないにしても、その作業に一切手をつけず、どこまでも守りの姿勢を貫く、という福音主義の聖書学者は存在しないといっても過言ではないでしょう。

なぜでしょうか? それはまぎれもなく、聖書学者であるならば、いっそう鮮明に聖書が古代の言語によって、そして古代の歴史的出来事や文化の中で記されたことを意識しているからです。つまり、古代と現代とのギャップを意識せざるを得ないからです。聖書信仰に立つ私たちが、批評学の成果をどのように理解し、またどの程度用いるかは別として、英国福音主義が20世紀初頭から主張してきた「信仰的批評学」という考え方(拙著89-94、232-245頁)を聖書信仰の「内側」に取り入れなければならないでしょう。

藤本満著『聖書信仰』を読む

たいへん素晴らしい本が出版されました。藤本満先生(イムマヌエル綜合伝道団高津キリスト教会牧師・イムマヌエル聖宣神学院教師)による、『聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)です。

聖書信仰

本書は昨年11月に行われた日本福音主義神学会全国研究会議における、藤本先生の発表を元にしています。私もその場にいて先生の発表を拝聴し、深い感銘を受けた者の一人でしたので、本書の出版を心待ちにしていました。出版後早速入手して、研究会議の感動を新たにしつつ読了しました。

本書の主題は、タイトルにもあるように「聖書信仰」です。この言葉は、福音主義キリスト教の核心をなすものとしてしばしば語られますが、それはそもそもどのようなものなのでしょうか?藤本先生は本書の冒頭で次のように述べておられます。

「聖書信仰」という表現には、あたかも聖書を神やキリストと同じく信仰の対象であるかのような印象を与えるので、違和感を覚えるかも知れない。ただ、この日本語の表現は、戦前から岡田稔等が、いわゆる聖書の逐語霊感説・十全霊感説に立つという聖書理解を、当時一世を風靡した高倉徳太郎の『福音主義キリスト教』と区別するために用いてきたことに端を発している。私はこのような「聖書信仰」の定義づけを固守するために本書を記しているのではない。むしろ、「聖書を誤りなき神の言葉」とするという福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証することで、この言葉に含まれる真意を明らかにし、さらに今後の可能性を論じてみようと思っている。(16頁、強調は引用者)

今日の福音主義では、「聖書信仰」は逐語霊感(神の霊感は聖書記者の言葉の選択のレベルにまで及んでいる)、十全霊感(聖書はその全体が霊感されている)、そして無誤性(聖書は科学や歴史に関することがらを含め、すべての内容に関して誤りがない)といった諸概念と関連づけて語られることが多いですが、藤本先生はそのような福音主義の聖書観が形成されてきた歴史的過程を宗教改革にまで遡って丁寧にあとづけ、さらにポストモダニズムなどの現代的課題にも触れながら、将来の可能性を探っておられます。

特に、聖書信仰の歴史をたどることによって、福音主義における聖書理解には歴史的に豊かな多様性があったことを説得力を持って描き出している前半部分の議論はたいへん貴重です。先生ご自身の表現によりますと、福音主義の「聖書信仰」という「水槽の中には複数の流れがあり、その中を泳ぐ魚の種類が多」かった(392頁)ということです。

宗教改革に端を発するプロテスタントの聖書観の歴史は決して単一のラインで発展してきたわけではありません。本書ではそれが大きく二つの流れでとらえられています。一方は17世紀プロテスタント正統主義につながる主知主義的に真理を追求する流れで、これはプリンストン神学からファンダメンタリズムを経て、主にアメリカの保守的な新福音主義に受け継がれ、さらに日本の福音主義にも大きな影響を与えてきました。この流れでは、客観的な真理の啓示としての聖書の側面が強調され、「誤りのない聖書」というア・プリオリな前提から出発して神学の体系を構築していこうとしました。上で述べたような、逐語霊感・十全霊感・無誤性といった今日の福音派に馴染み深い概念はここから生じ、無誤性は自由主義と聖書批評学に対する防波堤の役割を果たすようになっていきます。

もう一つの流れは18世紀の敬虔主義と信仰復興運動につながるもので、神が今日聖書を通して人間に語りかけ救いに導く力という、聖書の機能的・救済論的な側面を強調します。藤本先生は「信仰的な批評学believing criticism」を掲げて、聖書批評学に対してより開かれた態度を見せるイギリス福音主義もこの流れの中に位置づけています。

本書によると、今日のアメリカや日本の福音主義「聖書信仰」に直結する重要な歴史的転回点となったのは、1970年代にアメリカにおいて福音派の保守勢力が、その聖書観を一気に硬化させたことです。1976年にハロルド・リンゼル著『聖書のための戦い』(「 これほどまでに時代を後退させ、過去に論争を蒸し返した本はなかったであろう。 」152頁)が出版され、その2年後には「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」が出されました。この声明は聖書の無誤性を強力に打ちだし、「これまで存在してきた福音主義の聖書理解の『幅』を否定した」ものであったとされています(213頁)。このような限定された形での「聖書信仰」は日本の福音派にも影響を与え、日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が1987年に発表した「聖書の権威に関する宣言」においても、基本的にシカゴ声明の路線が踏襲されています。日本では1980年代に聖書論に関する論争が行われましたが、議論の深まりが見られないまま簡単な幕引きがなされてしまったため、「日本においては、シカゴ宣言によって、福音派の聖書信仰は身動きが取れない定式にはめ込まれることになったのである。」というのが藤本先生の評価です(215頁)。

本書の後半では、近年における聖書論の展開を概観しつつ、福音主義「聖書信仰」の可能性を探るという内容になっています。ここで取り上げられているのは主にシカゴ声明に典型的に見られるようなモダニズム的聖書観にポストモダンの立場から加えられている批判(命題中心主義や基礎付け主義への批判、物語や共同体の強調など)に対して、より柔軟に対話をしていこうとする態度です。

いまやポスト近代による近代の批判は定着しているのではないだろうか。近代主義が批判されれば、近代の思想的背景をもって形づくられた聖書観も批判を受けて当然である。そのような批判がなされるときに、過剰な拒否反応は不要ではないだろうか。(18頁)

このような藤本先生の主張は、前半の歴史的分析で明らかにされた福音主義聖書観の多様性というコンテクストに照らして考える時、決して単なる時流への迎合ではなく、むしろかつての福音主義が持っていた豊かな聖書観を取り戻していこうという呼びかけであることが分かります。ハンス・フライの「寛容な正統主義generous orthodoxy」という表現を引きながら、「福音主義にはそもそも、そのような『寛容さ』が歴史的に備わっていた。」と先生は言われます(393頁)。そして、福音派の教会がそのような素晴らしい歴史的遺産を継承しつつ、新しい考えにもオープンな姿勢で対話を深めていくことが、これからの福音主義の発展のために必要であるというのです。

聖書を誤りなき神の言葉として信じている純粋な信仰に水を差すつもりはない。ただ、信仰者が聖書を読んで様々な疑問を持つとき、それらの疑問を一辺倒に「聖書信仰」という看板で抑えつけ、批評学を批判し、聖書とは本質的にどのような書物であるのか、聖書をめぐる様々な考え方を無視するようであれば、それは先に紹介したマーク・ノルの言う「福音主義のスキャンダル」である。(394頁)

上で見た福音主義聖書論の二つの大きな潮流、すなわちプロテスタント正統主義の流れと敬虔主義の流れからいうと、本書のシンパシーは明らかに後者にあります。しかし、藤本先生は決して前者を敵に回すことは意図していないと明言されます。そこには「あれかこれか」の二者択一ではなく、その多様性をむしろ福音主義の豊かさとして積極的に評価していこうと言う姿勢を見ることができます。

聖書信仰は新たな多くの可能性を取り込んでモザイク的で良いと筆者は思っている。なぜなら、福音主義の聖書信仰は歴史的にそのようなものであったからである。(398頁)

本書は福音派の中ではかなりセンシティブな問題に正面から取り組んだ意欲作といえます。藤本先生の「聖書信仰」理解や個別の論点について同意しない方もおられるかもしれません。しかし、「霊感」や「無誤性」に関する議論がともすると感情的な水掛け論やレッテル貼りに終始してしまう危険性をはらんでいることを考えると、本書のように歴史的なコンテクストの中に議論を位置づけることによって、より冷静で有意義な対話が生まれてくるのではないかと思います。そして、論争を引き起こす可能性のある本書をあえて世に問うた出版社の英断にも拍手を送りたいと思います。教職者・神学生はもちろん、広く福音派のクリスチャンに読んでいただきたい、おすすめの一冊です。

 

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。

確かさという名の偶像(19)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第9章「聖書の中心」を取り上げます。

暴力的な神の描写

前回見たように、ボイドは聖書の中心はイエス・キリストであり、十字架上のイエスを通して啓示された神観は、それに先行するすべての啓示に優先し、それらは十字架のイエスというレンズを通して解釈されるべきだ、と主張します。このことが具体的に問題となるのは、旧約聖書に描かれている暴力的な神の姿をどのように解釈したらよいのか、という難問を考える時です。たとえば神がモーセを通してイスラエルに、カナンの先住民の「聖絶」を命じているような箇所です(申命記7章1-2節)。これらの描写は、イエスにおいて啓示された愛の神とは矛盾するように思えます。

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ボイドは旧約聖書も霊感された神のことばであると信じていますので、これらの箇所をただ排除することはしません。また、しばしば弁証論的な文脈で論じられるように、これらの箇所で描写されているできごとは本当はそれほどひどいものではなかったという解釈も取りません。また、巧妙な釈義によって「旧約記者たちが意図したのはそのような暴力的な意味ではなかったのだ」と論じることもしません。そうではなく、ボイドはこれらの暴力的な記述を十字架のレンズを通して解釈する時に、旧約記者たちが意図したオリジナルの意味を超えて、さらに深い意味を読み取っていかなければならないと主張します。そしてボイドは、これらの暴力的な記述が十字架のキリストとただ両立可能だということを示すだけでは不十分だといいます。旧約聖書が霊感された神のことばであり、(前回見たように)聖書霊感の目的がキリストを指し示すことにあるとすれば、これらの暴力的な神の描写がどのようにしてキリストを指し示すことができるのか、を考えなければならないというのです。

ボイドのアプローチは基本的に次のようなものです。彼はこの問題は、キリストが私たちのために罪となり(2コリント5章21節)、のろいとなられた(ガラテヤ3章13節)ことによって、実際には罪のないお方であったにもかかわらず、罪人の姿を取られたことと同様であるといいます:

十字架によって神が本当はどのようなお方であるかが示されたという意識をもって聖書の暴力的描写を読むとき、私たちは神が暴力的に描かれている際その舞台裏で何が起こっているかを認識し始める、と私は主張する。要するに、神は身をかがめて、ある意味で、ご自身が働きかけておられる心のかたくなな民の罪とのろいになられたということだ。それによって神は、実際にはそのようなお方ではないにもかかわらず、暴力を行い、命じる者の姿を取られたのである。(p. 190)

つまり、神が旧約聖書に暴力的に描かれているのは、神の本質が暴力的であることを示しているのではなく、あえて身を低くして民の暴力的な罪深い性質を反映するような(神ご自身の本質とは相容れない)姿で彼らに現れたのだ、というのです。そしてこのようなイスラエルの神の姿は、やがてカルバリーの丘で罪人として処刑されるイエスの姿をはるかに指し示しているのです。

ボイドは、旧約聖書における暴力的な神の描写を私たちがどのように解釈するにせよ、最も大切なことは、十字架上のキリストに表されている、非暴力的な愛の神の姿が神の本当の姿であることに信頼を置くことだ、といいます。さもないと、イエスが表しているのは本当の神の一部に過ぎず、十字架の背後には無慈悲で暴力的な神のもう一つの顔が隠されているということになってしまうからです。

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旧約聖書における暴力的な神の描写を、十字架でいのちを捨てた愛の神イエスを信じる者としてどのように扱ったらよいのか?というのは古来クリスチャンを悩ませてきた問題です。そしてこれはリチャード・ドーキンスなどの無神論者がキリスト教を批判する際にとりあげる定番の主題でもあります。この問題については、大きく分けて二つの対応があるように思います。

一つは、旧約聖書に描かれている神はキリスト教の神とは相容れないものだとして排除する立場です。これは2世紀のマルキオン以来現代にいたるまで根強くある考え方で、この立場の人々は旧約聖書自体をキリスト教には不要なものとして排除することもあります。「旧約聖書の神は怒りと裁きの神であるが、新約聖書の神は愛とゆるしの神である」などと言われることもあります。けれども、このような立場は、新約聖書が旧約聖書との連続性をはっきりと強調している点、イエスや使徒たちが旧約聖書に啓示されているイスラエルの神を唯一のまことの神としていたという点からして説得力を持ちません。

おそらく今日のキリスト教会で広く受け入れられているのは、「神は確かに愛の神であるけれども、同時に聖い神、義なる神、罪を裁かれる神でもある。そしてそのような神の姿は旧約聖書の一見暴力的な描写に表されている。聖書にはどちらの側面も書かれているので、私たちはこの両面を受け入れなければならない。」という立場です。これは確かに、聖書に含まれているさまざまな神の描写をすべて同じ重要性を持つものとして受け入れるなら、必然的に導かれる結論です。しかし、このような立場は前回見たような問題を含んでいます。それは聖書のすべての部分が同じ重要性を持つという、平板で機械的な聖書観に基づいているだけでなく、このような立場から導かれる神観は互いに対立するイメージの混合体となり、実際に人がこの神といのちにあふれる人格的関係を持つことを困難にします。

さらにこの立場にはもう一つの大きな難点があります。もし聖書に描かれた神の本質が愛の神であると同時に暴力的な裁きの神でもあるなら、現在でも神はその両面を持っているはずです。だとすると、今日でも神は「聖絶」を命じられる可能性はあるのでしょうか?これは世界各地で宗教テロが多発する今日、非常に切実な問題であると思います。どのような宗教であれ、その聖典に記された神の描写が暴力的なものであるなら、それが神の本質にかかわるものかどうかによって、その神を信じる者の生き方は大きく左右されてくるはずだからです。

今回ご紹介したボイドのアプローチにすべての人が同意するわけではないと思いますが、上で述べた二つの立場の中間を行く「第三の道」の一つとして興味深い提案ではないかと思います。この問題は非常に難しく、私も個人的に結論が出ているわけではありませんが、ボイドの議論からはいろいろなことを学び、考えさせられています。ちなみに、今回取り上げた問題について、ボイドは近く刊行予定の大著The Crucifixion of the Warrior God(『十字架につけられた闘いの神』)でさらに詳しく論じているとのことです。

ところで、聖書における暴力的な神描写は旧約聖書だけの問題ではありません。新約聖書でも、ヨハネの黙示録などでは、再臨のイエスが一見非常に暴力的な裁きの神として描かれています。このことは、これまで見てきたボイドの議論を無にしてしまうのでしょうか?そうではありません。この点については稿を改めて論じたいと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(18)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第9章「聖書の中心」を取り上げます。

前の章でボイドは、キリスト教信仰の中心はイエス・キリストであることを論じました。しかし彼は、十字架上のイエス・キリストに表されているような自己犠牲的な愛の神と、聖書の他の部分に描かれている暴力的な神のイメージとの間に否定しがたい緊張関係があることを意識するようになりました。たとえば、旧約聖書にはイスラエルが入っていこうとする地に住むカナン人たちを滅ぼしつくすようにと神が命じておられる箇所もあります。申命記7章2節では「彼らに何のあわれみをも示してはならない」とさえ書かれています。このような箇所をどう考えたら良いのでしょうか?

同時にボイドは、自分が持っていた神のイメージは部分的にしかキリストに似ていないことに気づきました。その理由は、彼は聖書に描かれているさまざまな神のイメージがすべて同程度に権威あるものだと考えていたところにありました。その結果、彼の持つ神観は、多くのしばしば互いに矛盾するように見える神のイメージの混合体になっていったのです。それによって、彼はこの「神」から豊かないのちをいただいていくことに困難を覚えるようになっていったのです。

このような葛藤を経てボイドがたどり着いた結論は次のようなものでした:

聖書が完全に「神の息が吹き込まれた」ものであると告白することは、聖書に含まれるすべての内容が同程度に権威があるということでも、すべての神の描写が同じ重みを持っているということでもない。実際、後で示すように、聖書自身がこのような考えを否定している。私は聖書には中心があると理解するようになったが、その中心とは、私が神学において見いだした中心と同じであり、私の信仰の知的土台を構成する中心と同じであり、私のいのちの源である中心と同じものだったのだ。一言で言えば、すべてはイエス・キリスト、そしてイエス・キリストのみを中心にして回っているということを見いだしたのである。(p. 251)

聖書の記述のすべてが同程度の権威を持っているわけではないというボイドの主張は、聖書がそもそもどのような種類の本であるか、という理解に基づいています。ボイドは聖書は料理本のように、すべての要素が同じような重要性を持っている本ではなく、小説のようなストーリーである、と言います。しかも、それは驚くような筋の展開を持っているストーリーなのです。

時々、小説や映画で、最後に驚くようなどんでん返しが起こり、その結末部分がそれまでの話のすべてをまったく新しい光の下で照らし出してみせるようなものがあります。ボイドは聖書とはまさにそのような本であると言います。聖書においては、そのどんでん返しはイエス・キリストにおいて起こったのです。ボイドは言います:

全旧約聖書はメシアであるイエスに導き、彼において成就される。しかし、イエスがそれを成就する独特なやりかたは、すべてを新しい枠組みの中でとらえ直すのである。ほとんど誰もそのようなことが起こるとは予測していなかった。実際、イスラエルを取り扱う神の物語を完成するイエスのやりかたはあまりにも意外なものだったので、メシアを探し求めていた人々のほとんどは、彼がいざ到来すると彼を受け入れることができなかったのである。(p. 251)

たとえば、紀元1世紀のユダヤ人の多くが待ち望んでいたメシアは、ローマ人のような異邦人の支配を打ち破って、地上的な王国を樹立する軍事的指導者であると考えていました。これはたとえばヨシュアやダビデといった旧約聖書の指導者のイメージからすれば、決して理解できないことではありません。けれどもイエスは、そのような「旧約的期待」を裏切るかのように敵を愛することを教え、自らそれを実践して十字架にかかられました。

ボイドによると、このような「どんでん返し」が意味しているのは、私たちはイエスにおいて啓示された神の姿を、旧約聖書において描写されている神の描写と同列においてはならないということです。イエスにおける神の自己啓示は、それに先立つすべての啓示に優先するものであり、それを通して先行するすべての啓示を解釈すべきレンズなのです。

そしてボイドは特に、イエスの存在のすべてが集約された十字架というレンズを通して旧約聖書を読むべきことを主張します。イエスご自身、旧約聖書のすべてはご自分について書かれていると教えておられます(ルカ24章25-27節、ヨハネ5章39-47節)。

このような旧約聖書の解釈法は、現代の福音派の標準的聖書解釈法である歴史的・文法的アプローチからすると問題を含んでいます。なぜならこの解釈法では、正しい釈義とは「聖書記者が意図したオリジナルの意味」を抽出することにあるからです。しかし、ボイドは、新約聖書記者たちの関心事は、旧約記者の意図した意味よりもむしろ、それらのテキストがどのようにキリストを指し示すかにあったと言います。

それでは、「聖書が霊感された神のことばである」とはどういう意味なのでしょうか?ボイドは、聖書が「神の霊感を受けて書かれた」(2テモテ3章16節)目的はキリストを指し示すことにあるのであり、この目的を達成することに関して聖書はあやまることがない(無謬infallible)と主張します。つまりボイドによると、聖書は神が意図されたその目的に関して霊感を受けた完全な書物なのです。聖書がこの目的を達成している限り、個別のテキストにいかなる人間的な限界や不完全さや誤りが含まれていたとしても、それは聖書の霊感された神のことばとしての地位を揺るがすものではない、とボイドは考えています。聖書霊感に関するボイドの確信はイエスが神の御子であるという確信に根ざしており、後者は(第16回で見たように)聖書の無誤性にではなく史的イエスについての彼の確信に基いています。このような聖書理解に立つクリスチャンは、聖書に関するさまざまな「難問」によってキリストに対する信仰が揺るがされることはなくなるとボイドは言います。

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ここに紹介したボイドの聖書理解は現代の保守的プロテスタント教会で広く受け入れられている聖書観に対して、非常に重要な問題提起をしています。歴史的・文法的聖書解釈法の限界については、このブログでも「使徒たちは聖書をどう読んだか」のシリーズで論じましたが、旧約聖書をイエス・キリストのレンズを通して読むという解釈法は、新約聖書の記者たちも行っている聖書的なアプローチです。

聖書の全体を一つの大きなストーリー(ナラティヴ)として読むアプローチは、近年日本の福音派の教会にも浸透してきていますが、その本当に意味するところはあまり理解されていないように思います。聖書をナラティヴとして読むということは、プロットが時間軸にそって進行していくにつれ、新たな発見や思わぬ展開が待ち受けていることを意味しています。そして、ナラティヴ全体の「意味」は、最終章にたどり着いて全体を振り返った時に初めて本当の意味で理解できるのです。なぜなら、各部分の意味はナラティヴ全体の文脈の中ではじめて正確に読み取ることができるからです。聖書の各部分がすべて同じ比重で重要性を持っているという、平板で機械的な霊感理解は、聖書を組織神学の素材として百科事典のように読むアプローチには有効ですが、このようなナラティヴとしての聖書理解にはなじまないと思います。つまり、私たちの聖書理解(霊感理解)は、私たちの聖書解釈のアプローチと切り離すことができないのです。

(続く)