聖書解釈における大原則の一つに、「文脈(コンテクスト)に即した解釈をする」というものがあります。英語では“Context is King” (文脈は王)などと言われます。聖書テキストの意味は、その前後の文脈の中ではじめて正確に捉えることができる、というもので、神学校で学ぶと、このような聖書の読み方を徹底的にたたき込まれます。
前後の文脈に即して聖書を解釈することが身についてくると、こんどは文脈を無視した解釈に生理的な違和感を覚えるようになってきます。牧師の説教やキリスト教関係の書籍、メディア、クリスチャンの友人との会話などで前後の文脈を無視した聖書の解釈や引用が行われると、条件反射的に頭の中に黄色信号や赤信号が点灯し、「この箇所はそんな意味じゃないよ」と頭の中でつぶやいてしまいます(口に出して言うことは滅多にありませんが)。
文脈を無視した解釈の代表的なものは「アレゴリー的解釈」です。「アレゴリー」は寓喩とも言われますが、ある言葉によって、その語が通常指示する事物とは別の事物を意味する表現技法です。これは著者が意図して行うこともありますが、「アレゴリー的解釈」とは普通は読者がテキストにある言葉の背後に、著者が意図したものとは異なる意味を読み取ろうとする解釈法を指します。
福音派の聖書解釈学の標準的教科書と言える、ゴードン・フィーとダグラス・スチュワートによる『聖書を正しく読むために』では、アレゴリー的解釈の例として、「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10章30-35節)にアウグスティヌスが施した解釈を紹介しています。その部分を引用します:
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で」=アダム
「エルサレム」=天にある平和の町で、そこからアダムは堕落した
「エリコ」=月であり、したがってアダムの死すべき運命を意味する
「強盗」=悪魔とその使い
「その人の着物をはぎ取り」=彼の不死性をはぎ取り
「なぐりつけ」=彼を説き伏せて罪を犯させることによって
「半殺しにして逃げて行った」=生きてはいるが霊的には死んだ、それゆえ半分死んでいる
「祭司」と「レビ人」=旧約聖書の祭司制と務め
「サマリヤ人」=守護者を意味すると言われており、それゆえキリストご自身を意味する
「傷に・・・ほうたいをし」=罪の抑制を縛りつけることを意味する
「オリーブ油」=善き希望の慰め
「ぶどう酒」=熱き霊をもって働けという励まし
「家畜」(「ろば」)=キリストの受肉の肉体
「宿屋」=教会
「次の日」=復活の後
「デナリ二つ」=このいのちと来るべきいのちとの約束
「宿屋の主人」=パウロ
(238-239頁)
フィーとスチュワートは、「アウグスティヌスのような偉大で聡明な学者が」このような「誤解」をしたことに戸惑いを隠しません。私もこの例はとても分かりやすいと思い、神学校で解釈学を教える際、アレゴリー的解釈を戒める目的で何度も取り上げていました。
アウグスティヌス
ところがある時、米国聖書学会(SBL)に出席して、デューク大学のリチャード・ヘイズ教授の発表を聴く機会が与えられました。その中でヘイズはアウグスティヌスのまさにこの解釈について語り、「私も以前は授業でこの例を取り上げて、学生と一緒に馬鹿にしていたものだが、最近はそうでもないような気がしてきた」と言うのを聞いて、驚きました。アウグスティヌスのような「文脈を無視した」解釈が聖書の「正しい」読みであるかもしれないというのは、いったいどのような解釈学的枠組みから出てくる発想なのか、不思議に思ったのです。
その後、福音主義神学会での発表のために、新約聖書記者による旧約聖書の解釈について調べていくうちに、使徒たちは時として、旧約聖書のオリジナルの文脈を超えると思えるような解釈を行っていることに気づきました。彼らは十字架上で死んでよみがえったナザレのイエスという人物がイスラエルのメシアである、という認識を出発点に、キリストというレンズを通して旧約聖書を読んでいきました。その際、彼らは時には旧約記者の意図した意味(これを再現することが歴史的・文法的釈義の目標とされます)を超える意味を旧約テキストに読み取っていったのです。(このことについては、過去記事の「使徒たちは聖書をどう読んだか」のシリーズをお読みください。また、ヘイズの近著Reading Backwardsは福音書における旧約聖書の解釈を扱った、非常に有益な本です。)
さて、このことは、現代の私たちが聖書を読むときに、どのような意味を持っているのでしょうか?しばしばオリジナルの文脈にとらわれないアレゴリカルな解釈が批判されます。たとえば聖書の中で「油」とか「火」が出てくると、すぐにそれを聖霊と結びつけるような解釈のことです。私も福音派の神学校で歴史的・文法的解釈を学んでからというもの、この種の解釈にはかなり批判的な思いを 持っていました。今もこのような解釈は受け入れられないと感じることは多いですが、以前のようなアレルギー的な反応は少なくなってきました。このような現代のアレゴリー的解釈には、新約記者たちの旧約聖書解釈と似たような方法論を見いだすことができます。どちらも聖書がオリジナルの歴史的文脈において「意味したこと」と現在「意味すること」を厳密に区別してはいません。いま現在みことばを聴く自分たち に直接語りかける神の言葉として聖書を読んでいます。これは藤本満先生が『聖書信仰』の中で強調しておられる、救済論的な聖書の読み方に通じるものがあるかもしれません。(これについては同書のレビューおよび藤本先生のゲスト寄稿をお読みください。)
では、今日のアレゴリー的聖書解釈と使徒たちの聖書解釈はまったく同じものなのでしょうか?話はそう単純ではありません。この問題は、単に形式的な聖書解釈の方法論だけに注目していたのでは解決することはできないと思います。ピーター・エンズは「使徒的解釈学と福音主義的聖書論」というきわめて興味深い論文の中で、新約記者たちの聖書解釈を考える時に、解釈学的目的(hermeneutical goal)と釈義的方法(exegetical method)を区別すべきだと主張していますが、これはとても重要な指摘だと思います。私たちは使徒たちの釈義の方法論(たとえばユダヤ的なアレゴリー的解釈法) を必ずしも模倣する必要はありませんが、彼らの解釈の目的(キリストの十字架と復活を指し示すように聖書を読む)は現代の私たちにとっても見習うべき規範的なものであると言うことができます。
この区別を意識することによって、私たちは現代のアレゴリー的解釈を認めるか認めないか、という二者択一の問題設定から自由になることができると思います。今日、たとえば繁栄の神学の主唱者によってなされるアレゴリー的解釈には、聖書の救済史的ナラティヴとは無関係に、個人的な祝福を求める目的でなされるものがあります。そのような聖書解釈は使徒たちの読み方とは異なるものであり、受け入れられないでしょう。
もちろん、ある特定の解釈がどこまで救済史的な枠組みに忠実な解釈なのか、容易に判別しがたい場合もあります。霊感を受けた聖書記者とは異なり、私たちの解釈はつねに不正確であり、誤っている可能性があります。またそのような解釈に対する「許容度」にも個人差があるかもしれません。けれども、使徒たちの解釈学的目的を理解して、聖書を救済史的・キリスト中心的(エンズの表現を使えば「キリスト目的的」)に読んでいくならば、すべてのアレゴリー的解釈を拒絶する必要はないのではないか、というのが、現在のところの私の考えです。つまり、具体的な釈義方法にこだわるよりも、解釈全体の枠組み、目的をしっかり設定する方が重要であると思っています。
このことを、最初に述べた「文脈」という観点から考えてみましょう。聖書のアレゴリー的解釈をどう評価するかという問題は、「文脈」をどこまで広く設定するかという問題とつながっています。使徒たちによる、個別の聖書箇所の直接的文脈的にそぐわない解釈、たとえば旧約テキストのキリスト論的解釈などは、旧新約聖書全体を含めたより大きな「正典的文脈」に照らして考えるなら、やはり文脈を踏まえていると言うこともできるでしょう。しかし、上に述べたような個人主義的で利己的な動機で聖書を読むような読み方は、そのような正典的文脈さえ無視しているがゆえに誤りだとも言えるかも知れません。使徒たちのように聖書を読むということは、単なる恣意的な読み込みとは違うのです。
つまり、ある聖書テキストの「文脈」には大きく分けて二つあるということです。一つは、そのテキスト自体の直接的文脈、もう一つは聖書全体をカバーする正典的文脈です。前者には聖書記者の意図が反映され、後者には聖書の究極的著者である神の意図が反映されていると言っても良いでしょう。もちろん聖書記者の意図と神の意図は重なっていますが、後者には前者を超える部分があるのです。
聖書を読むときには、このどちらの文脈も無視することはできません。エンズはこのことを、小説を二度読む行為にたとえています。初めてある小説を読むときには、私たちはその物語がどういう結末に至るかは知らずに、読んでいます。そうして、最後まで読み通して結末が分かった上で、改めて最初からその物語を読みなおすと、いろいろな細部が最初に読んだときには思いも寄らなかった深い意味や伏線を宿しており、最終的なクライマックスを指し示していることに気づきます。
同様に私たちが聖書を読むときに、その直接的な文脈に即して著者の意図した意味を確定することは重要ですが、それは出発点に過ぎません。私たちはさらに同じ箇所を正典的文脈に照らして読み、それがキリストというクライマックスをどのように指し示しているかを読み取っていかなければ、聖書を正しく読んだことにならないのです。このように、私たちは木と森を同時に見据える複眼的な視野を持って聖書を読んでいく必要があるのだと思います。
このように拡張された文脈の概念を導入するならば、やはり聖書解釈において「文脈は王」と言えるのだと思います。