主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)

すでに周囲の方々にはお知らせしてきましたが、本年3月におけるリバイバル聖書神学校閉校にともない、4月から関東に移って、聖契神学校で奉仕することになりました。以下に掲載するのは、新城教会で行なった最後の礼拝説教原稿に少し手を加えたものです。

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主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」

この箇所はコリント人への第一の手紙の15章の最後の節ですが、15章は復活について教えている部分です。私たちクリスチャンの希望は、この肉体の死が終わりではないということです。いつの日か神さまが定められた時にイエス・キリストが再びこの地上に来られて、私たち一人ひとりの肉体をよみがえらせてくださり、私たちは主が創造される新しい天地において、新しい復活の肉体をいただいて永遠に主と共に生きることができるというのです。その内容を受けて、パウロは「だから、あなた方の労苦は無駄ではない」と語っています。私たちの働きが無駄にならないのは、復活の希望があるからなのです。

私たちの地上のいのちは、いつか終わるときが来ます。どんなに苦労していろいろな働きを行っていっても、死んでしまえばその成果を味わうことはもうできません。それだけでなく、志半ばでいのちを終えなければならないことも多くあります。長年にわたってこつこつと地道に築き上げてきた働きが、突然の災害で一瞬のうちに失われてしまうことも、実際に起こります。そして、もし私たちがこの地上からいなくなったら、私たちがなした働きの大部分は、世の人から忘れ去られていくことでしょう。

このことを、旧約聖書の伝道者の書は実に鋭く表現しています:

18  わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。 19  そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。 20  それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。 21  今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。 22  そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。 」(伝道者2:18-22)

このように、人生の労苦のすべては空しい、と伝道者は言います。言い換えれば、「あなたがたの労苦はむだである」と言っているのです。けれども、新約時代になってパウロが言うことばは違っています――「あなたがたの労苦がむだになることはない」。なぜでしょうか? それは復活の希望があるからです。その希望を与えてくださったのが、イエス・キリストです。

私たちのいのちは現在のこの肉体のいのちがすべてではありません。やがて神さまから新しい肉体をいただいてよみがえる日が来ます。それだけではありません。その日は、イエスさまご自身が私たちの働きに、それぞれ報いてくださる時でもあるのです。

私たちがまだ生きている間にも、私たちが主のためになした労苦のすべては、人に知られているわけではありません。どんなに苦労して主のために働いても、まったくこの地上で報われないように見えることもあります。けれども、私たちの働きは主の御前には隠されていません。主は世界のどんな片隅にいる、どんなに無名な人の小さな働きも、すべてご覧になり、覚えておられるのです。

2月21日に世界的に著名な伝道者ビリー・グラハム師が99歳で天に召されました。彼は生涯を通じて2億1千500万人の人に福音を伝えたと言われているように、その働きは世界中の人に知られています。けれども、もしかしたら世界には、世には全く知られていないけれども、ビリー・グラハムに負けず劣らず重要な働きをしている神の民がいるかもしれません。神さまはそのすべてをご存じであり、一人ひとりの働きに報いてくださるお方です。みなさんにも報いてくださるのです。

しかし、ここで注意しなければならないことがあります。パウロがあなたがたの労苦は無駄ではないと言ったとき、彼はそこに重大な条件をつけています。私たちの労苦は「主にあっては」無駄ではないと言うのです。「主にあっては」とはどういう意味でしょうか。この箇所は新共同訳聖書では、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と訳されています。私たちのすべての労苦が報われるわけではありません。私たちの労苦が無駄にならないのは、私たちが主イエス・キリストとしっかり結ばれている時にのみ、そうなのです。ですから、私たちの人生で何をするにしても、それが人からどう評価されるか、目に見える成果を生むかどうかと言うことよりも、自分は「主にあって」そのことをなしているだろうか、主に結ばれて歩んでいるだろうか、ということの方が大切です。そして、主のみこころであると確信を得たならば、人からどう思われようと、この地上でどんなに報いが少なかろうと、その道を大胆に進んで行くことが必要だと思います。

自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知った私たちは、どう生きるべきでしょうか? パウロは、「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」と語っています。

ここで「全力を注いで主のわざに励みなさい」と訳されている部分は、「主のわざに満ちあふれなさい」とも訳せる表現です。パウロは同じ手紙の中で「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(1コリント10:31)と語っています。私たちのすることなすことすべてが神さまの栄光のためになされること、生活のすべてにおいて、主のわざが満ちあふれること、これがクリスチャンの人生の目標なのです。

さらに、ここで言う「主のわざ」とは、私たちが主のためになすわざ、ともとれますが、「主ご自身がなされるわざ」と解釈することもできます。そのように考えると、私たちが主に仕えていく人生というのは、主イエスご自身が私たちを通してこの地上でなしてくださる素晴らしいみわざが満ちあふれていくことだ、と考えることができます。パウロはこの「満ちあふれる」という同じ動詞を14章12節でも使っていますが、そこでは教会に聖霊の賜物が豊かに与えられる、ということについて語られています。私たちは自分の力で主に仕えていくわけではありません。全世界の王であるイエスさまご自身が、私たちのうちにおられる聖霊を通して、ご自身のわざを現してくださるのです。

そのために必要なことは、私たちが主にあること、主につながっていることです。主イエスは弟子たちにこう言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)

私たちがしっかりと主につながっているなら、ちょうどぶどうの木がそれにつながっている枝を通して実をならせていくように、主ご自身のみわざが私たちを通して結実していくのです。私たちの力によるのではありません。すべては主の恵みです。

ここで、私たちが主のために行う、あるいは主が私たちを通して行ってくださる「主のわざ」とは何か、さらに具体的に見ていきましょう。パウロは、私たちが主に結ばれて主のわざに励んでいくとき、その労苦はむだにはならない、と言います。それは、私たちの労苦の実がいつまでも残る、という意味です。その少し前の箇所でパウロは、「朽ちるもの」と「朽ちないもの」を対比しています。

兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」(1コリント15:50)

私たちの今の肉体は年が経てば弱り、やがては朽ち果てていきます。パウロは、やがて来たるべき神の国に入るためには、そのような肉体は役に立たないというのです。なぜなら、世の終わりに神さまはこの世界全体を新しくされるからです。

聖書が教える永遠のいのちとは、肉体のない霊魂だけの存在で永遠に生きるということではありません。聖書は世の終わりに神さまが新しい天と地を創造されると語ります。聖書は決して物質を悪いものとか低級なものとは見なしていません。なぜなら、この物質的世界は、神さまによって創造されたよいものだからです。やがて到来する新しい世界も、純粋な霊的世界ではなく、物質の世界なのです。けれども、それは今私たちが知っているような物質と同じではありません。今の世界の物質は時が来ると古びて朽ち果てていきますが、新しい世界の物質は決して朽ちて滅びることはない、というのです。ですからそのような世界に入るためには、私たちは朽ちていく現在の肉体ではなく、朽ちない性質をもった復活の肉体が必要なのです。

けれども、パウロが「朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」というとき、それは単に個人の肉体だけを言っているのではないと思われます。この世にあって本当にむだにならないもの、私たちがそのために労苦する価値のあるもの、それは「朽ちないもの」、つまり、この世界が過ぎ去って新しい天地になっても、いつまでも残るようなものなのです。それでは、天地が新しく入れ替わっても残る、いつまでも朽ちないものとは何でしょうか?

これまでお話ししてきたような、私たち主を信じる者のいのちはその一つですが、それだけではありません。もし個人の救いだけが大切なのだとしたら、私たちがイエス・キリストを信じて永遠のいのちをいただき、将来の復活の約束を手にしたら、後の人生は何も労苦する必要は無くなってしまいます。けれども、パウロは明らかにすでに救われたクリスチャンの読者に対して、「いつも主のわざに励みなさい」と命じているのです。それは何のためでしょうか?

ここで、今日取り上げたパウロの言葉が、いったいどのような文脈の中で語られたのか、考える必要があります。そのためにコリント人への第一の手紙の内容を概観してみたいと思います。この手紙はパウロの手紙の中でもかなり長めで、しかも一貫したテーマを見いだすのがたいへん難しい手紙です。ただ、この手紙を一読してすぐ分かるのは、当時コリントの教会ではありとあらゆる問題が噴出していたということです。教会には分派が起こり、道徳的な堕落や裁判沙汰、神学的な論争や礼拝における混乱などがありました。手紙では、それらの具体的な問題の一つ一つに対してパウロが順次アドバイスを与えていく形で、議論が進んでいきます。そして終わり近くの15章になって、パウロは復活について語り始めるのです。一見すると、パウロは互いにつながりのない雑多な牧会上のアドバイスを与えた後、最後におまけのようにして教理的な内容を付け足したかのようにも見えます。けれども、実はそうではありません。

時間の関係で、今日この場で第一コリントの内容すべてを詳しく説明することはできませんが、一見互いに無関係に並んでいるように見える種々の議論の背後には、一つの根源的な問題が潜んでいるのです。それは教会の分裂という問題でした。クリスチャンの間に愛が失われ、教会員が互いに分裂して争っていたこと、これがコリント教会の最大の問題だったのです。他のすべての問題は、究極的にはこの根源的な問題の異なる現れに過ぎないとさえ言うことができます。

教会分裂という問題に対してパウロは、「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。」(1コリント1:10)と語っています。教会の一致ということこそ、パウロがこの手紙で読者に伝えたい中心的なメッセージなのです。

教会が一致するために必要なのは、愛です。パウロはこのことについて、有名な「愛の賛歌」と呼ばれる13章で語っています。愛がなければすべてが空しい、と教えるこの章は結婚式でよく引用される箇所ですが、元々の手紙の文脈で言われている「愛」とは夫婦の愛のことではなく、教会が一致するために必要なクリスチャン同士の愛です。そして、クリスチャンが互いに愛を持って教会を建て上げていくことこそが、パウロが15章になって語っている、「主のわざ」にほかならないのです。

パウロは3章でこう語っています:

10  神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。 11  なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。 12  この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、 13  それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。 14  もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、 15  その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。 16  あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 」(1コリント3:10-16)

ここでパウロは教会という共同体を建物にたとえています。その土台はイエス・キリストです。キリスト以外の土台の上に教会を建てることはできません。そして、各人が主にあってする働きとは、キリストという土台の上に建物を築き上げていくことだ、とパウロは言います(14-15節で「仕事」と訳されていることばは、15章58章で「わざ」と訳されているのと同じエルゴンというギリシア語です)。けれども、その働きはみなが同じ価値を持っているわけではありません。パウロは、各人の働きは世の終わりに明らかになると言います。彼はそのことを火の中を通る、というイメージで語っています。今の天地が過ぎ去り、新しい天地が出現する時にも残る働きというのは、火の中をくぐっても燃えずに残る金や銀のような働きだ、というのです。つまり、パウロはここで、私たちが愛によって結びあわされるキリストの教会を建て上げるなら、それはいつまでも、永遠に残るものだ、というのです。

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これでもうお分かりになったと思いますが、15章でパウロの言う「朽ちない」働き、むだにならない労苦というのは、愛と一致をもって教会を建て上げていく働きなのです。実際、先ほど引用した箇所の少し前、3章8節(「植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。」)でもパウロは、教会を建て上げる「働き」について、15章58節で「労苦」と訳されているのと同じコポスというギリシア語を使っています。(新改訳2017ではどちらの箇所も「労苦」と統一して訳されています)。

今の天地が過ぎ去って、新しい天地が現れても変わらないもの、それは神の民である教会です。黙示録の中でヨハネは来たるべき永遠の世界についてこう語っています:

3  のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 4  御顔を仰ぎ見るのである。」(黙示録22:3-4a)

新天新地にあって永遠に神さまに仕えているのは、神の僕たち、つまり教会です。もし復活も新天新地もなければ、私たちがこの世でどんなに努力して教会を建て上げようとしても、それは波打ち際で砂のお城を作るような、空しい働きです。しかし復活の希望があるがゆえに、私たちが今の世においてしっかりとした教会を建て上げるなら、それは永遠に残るのです。これはある意味で驚くべきことです。歴史上、いくつもの文明や大帝国やさまざまな宗教的・政治的ムーブメントが興っては消えていきました。それらはやがて朽ちていくものであり、永遠に残るものは何一つありません。けれども聖書は、キリストのからだなる教会は、この天地が滅びても決して滅びることはない、と教えているのです。

したがって、復活の約束と希望を抱いて私たちが励むべき主のわざ、私たちを通して主ご自身が現してくださるみわざとは、キリストのからだが愛によって結び合わされ、建て上げられていくことだと言えます。

もっと具体的に言うならば、クリスチャンたちが互いに愛によって仕えあっていく時、私たちが兄弟姉妹に愛を行うとき、それは永遠に実が残る「主のわざ」だ、ということです。このことはマタイ福音書に出てくる、イエスさまが弟子たちに語られた「羊と山羊のたとえ」からも分かります。

31  人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 32  そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 33  羊を右に、やぎを左におくであろう。 34  そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 35  あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 36  裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 37  そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 38  いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 39  また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 40  すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」(マタイ25:31-40)

この後、これとは逆に愛を行わなかった人々のさばきについて語られていきます。世の終わりの最後の審判において、さばき主なるキリストが人々を裁かれる基準は、キリストの「兄弟であるこれらの最も小さい者」たちに愛を行ったかどうか、ということだと言われます。彼らに愛を行った人々は永遠のいのちを、行わなかった人々は永遠の刑罰を受ける、というのです(46節)。

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この「キリストの最も小さい兄弟たち」とは誰のことか、解釈の難しい箇所ですが、クリスチャンを指しているという説が有力です。また、ここでさばきを受ける「すべての国々の民」は、全人類ともすべてのクリスチャンともとれます。マタイ福音書の文脈からして、個人的にはクリスチャンを指しているのではないかと考えていますが、たとえ全人類と解釈したとしても、その中にクリスチャンも含まれることに変わりはありません。したがって、ここでもクリスチャンが互いに愛を示すことの重要性が教えられていることになります。これはもちろん、クリスチャンがノンクリスチャンに愛を示す必要がないということではありません。しかしこのたとえのポイントは、私たちが教会の兄弟姉妹たちに愛を行うかどうかと言うことは、永遠に残る結果をもたらすということです。ここでキリストはその愛のわざについて、空腹であるときに食べ物を与えるとか、病気をしたときにお見舞いをするなど、非常に具体的に語っておられることが分かります。私たちがふだんの生活の中で、困っている人を助けるとか、悲しんでいる人をなぐさめる、悩みを聞いてあげるなど、小さなことであっても互いに愛を示していくとき、それは霊的に言えば永遠の教会を形づくる石を一つ一つ積み上げていることになるのです。

このように、私たちが教会を建て上げる働きは、この世で行われる、具体的な愛のわざです。けれども、その結果建て上がるのは、この世が滅びても朽ちることのない、永遠のキリストのからだなのです。パウロが次のように語っている通りです。

 54  この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 55  『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。  」(1コリント15:54-55)

この言葉は、個人の復活だけでなく、教会についてもあてはまるものだと思います。愛によって建て上げられた教会は、新天新地でも滅びることなく永遠に存在します。言い換えれば、教会は愛によって死に勝利するのです。

これまでお話ししてきた解釈、1コリント15章58節で教えられている、むだになることのない「主のわざ」が教会を建て上げることだ、と言う解釈が単なる主観的読み込みでない、文脈上の根拠があります。この箇所は15章の最後の節ですが、すぐ次に書かれた16章の冒頭でパウロは、エルサレム教会のための献金について語っています。これは、当時貧しい中で苦闘していたエルサレムのユダヤ人教会を支援するために、異邦人教会から献金を募って届けるという、パウロがたいへん力を入れていたプロジェクトでした。「教会の建てあげ」というのは単なる一教会の形成だけを言っているのではなく、教会間の一致ということを含んでいます。異邦人クリスチャンが人種の壁を越えてユダヤ人クリスチャンに具体的に愛を示すこの働きは、まさに教会の一致を生み出す「主のわざ」であり、むだになることのない労苦だったと言うことができます。

このように、私たちが教会を建て上げるために労苦していくなら、その働きは決してむだにはならず、その実は永遠に残るのです。これほどやりがいのある、重要な働きに私たち一人ひとりが召されているということは、素晴らしいことではないでしょうか。

15章の58節に戻りますと、パウロは主のわざに励むために必要なこととして、「堅く立って、動かされない」ことを命じています。これはイエス・キリストという土台、福音の土台の上にしっかりと立つ、ということです。3章でキリストの土台について語られていましたが、15章の冒頭では、パウロは「福音」とは何かを説明しています。それは、キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことです。そしてそれは、世の終わりに私たちもよみがえるということの保証なのです。これが福音の内容であり、私たちがその上に教会を築き上げるべき、ゆるぐことのない土台なのです。パウロは宣べ伝えられた福音のことばを「固く守っておれば、この福音によって救われる」と言います(2節)。

私たちの信仰の土台は、私たちの主観的な知識や感情や意志ではありません。それはイエス・キリストが復活した、という客観的な事実です。「福音(良い知らせ)」とは、その事実についての告知、ニュースにほかなりません。その事実は私たちが信じようと信じまいと、確信があろうとなかろうと、変わることはありません。私たちの働きはいつも順調で平坦なものではないかも知れません。時には教会を建て上げるのに疲れ果て、落ち込んだり投げ出したりしたくなることもあるかもしれません。けれども、イエス・キリストはいつまでも変わることがありません。死からよみがえって今も生きておられる主に信頼して歩み続けていくならば、私たちの人生に主ご自身が働いて、そのみわざを満ちあふれさせてくださることでしょう。

そして、パウロが読者に対して「愛する兄弟たちよ。」と呼びかけていることも忘れてはなりません。パウロは読者のクリスチャンが一人で労苦していくように命じているわけではありません。そもそも、教会を建て上げる働きは、一匹狼のクリスチャンには決してできない働きです。あなたは一人ではありません。主にあって愛し合う兄弟姉妹として、神の家族として、ともに主のわざに励んでいきましょう。そのようにしていくとき、私たちの労苦は決してむだにはならないと、聖書は約束しているのです。