神と立方体についての断想

このブログでは時々シモーヌ・ヴェイユを取り上げていますが、最近読んで特に印象に残った箇所を紹介します。

ある物体の周りを巡るとき、わたしたちはその物体が実在していると確信する。それは、間断なく変化するあらわれをつくり出すが、それを決定するのは、あらわれとは別な、あらわれの外にある、あらわれから超越した固定化された形式である。この働きによって、対象が幻ではなくひとつのモノであり、身体を有していることを認識する。(中略)立方体の箱はどこから見ても、立方体の形をしていない。だが、立方体の周りを巡る人にとって、立方体の形式こそが目に見える形の変化を決定する。その決定が客体の身体をわたしたちに授けてくれる。それゆえ箱をじっと見つめていると、それが立方体ではないにもかかわらず、ほかならぬ立方体であると確信する。
(『前キリスト教的直観』)

ここでヴェイユは19世紀フランスの哲学者ジュール・ラニョーの立方体に関する考察について述べています。ラニョーはヴェイユの哲学の師であったアランのそのまた師にあたる人でした。

この投稿の目的はヴェイユのこの記述を哲学的に議論することではなく(私にはそのような能力はありません)、それが私たちの神観について与える示唆について考えて見ることです。もちろん、神は立方体のような、この世界に存在するさまざまなモノ(対象)の一つではありませんが、一つのアナロジーとして、神を立方体にたとえてみると、どういうことが考えられるでしょうか。 続きを読む