使徒たちは聖書をどう読んだか(9)

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前回の結論は、歴史的・文法的方法に必ずしもとらわれない使徒たちの聖書解釈法に、現代の私たちも倣うことができるはずだ、ということでした。

このように釈義の概念を拡張することによって得られる一つの利点として、学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈の間の乖離が解消(あるいは緩和)される可能性があります。

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2000年の夏、念願の米国留学が実現し、期待と不安に胸を膨らませながら、私は神学校の最初のチャペルに出席しました。そのチャペルで説教壇に立った教授が、大体次のような内容のことを私たち学生に話されました。

聖書には二種類の読み方がある。一つはディヴォーション的読み方で、もう一つは学問的読み方である。皆さんはこれから神学校で聖書を学問的に、体系的に学んでいくことになる。それはとても大切な学びだが、その一方で皆さんはデヴォーション的に聖書を読んでいくことも決して忘れてはならない。

学問的な聖書の読み方とディヴォーション的な読み方の両方を大切にしなければならない。このメッセージは、神学を学び始めたばかりの私の胸に深く刻み込まれ、その後学びを続けていく中でも私の霊性を養うのに大きな支えとなりました。しかし、二校目の神学校に進むことが許され、学問的にいよいよ精緻な聖書解釈の学びを続けていくうちに、自分の中でこの二種類の聖書の読み方をどのように統合して行ったらよいのか、という疑問が頭をもたげてきたのです。

福音主義に立つ多くの教会や神学校では、聖書を学問的に釈義だけでなく、ディヴォーション的にも読む(「神が聖書を通して今日私に何を語られているのか」を求めて読む)ことが推奨されています。しかし、この二つの読み方には通常明確な区別が付けられており、しかも各クリスチャンの信仰生活において学問的な解釈とディヴォーション的な解釈とをどのように橋渡ししていったらよいのかが明らかに語られることは少ないように思います。

ここで、「ディヴォーション的な読み方」というのは、福音派の解釈学のクラスで教えられる「適用」とは異なることに注意しなければなりません。解釈学のクラスでは、まずオリジナルの歴史的・文化的コンテクストにおいて聖書が「意味したこと」を「釈義」し、それに基づいて、同じテキストが現代の私たちに対して何を「意味している」かを明らかにします。これが解釈学における「適用」です。

しかし、大多数のクリスチャンが日々のディヴォーションで聖書を読む時には、該当箇所の歴史的・文法的釈義に基づいて聖書記者の意図した意味を確定し、それを現代の歴史的・文化的コンテクストに適用するといった手続きを踏んだ上で、自分に対する個人的な神の語りかけを受け取っているわけではありません。人々はもっと直接的に聖書のテキストを今の自分に対する「神のことば」として読んでいるのです。福音派の一部の教会で語られる、救いや召命の「みことばが与えられる(示される)」という概念もこれに近いと言えるでしょう。

そのようにして受け取られる聖書の「意味」は、歴史的・文法的釈義によって明らかにされる「オリジナルの意味」とは必ずしも一致しません。では、そのような読みは主観的な読み込み(eisegesis)として排除されるべきなのでしょうか?ところが、多くの場合、新約記者たちの聖書の読み方は、神学者による歴史的・文法的釈義よりも、大多数のクリスチャンが日常的に行っているディヴォーション的な読み方に近いように思えるのです。

1939年6月26日、当時ユニオン神学校の招きでアメリカに来ていたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが聖書を読んでいた時、彼は2テモテ4章21節に目をとめました。彼はそこに記されていた、「冬になる前に、急いできてほしい。」という言葉を自分に直接適用して、危機的状況にある祖国ドイツに帰る最終的決断を下したのでした。彼は日記にこう書いています。

『冬になる前に、急いできてほしい』―これをもし僕が自分に言われたことだとしても、それは聖書の誤用ではない。神がそのために恵みを賜わりさえすれば。

ボンヘッファーの聖書解釈は、今日の福音主義の釈義家からすれば、まったく主観的な読み込みにすぎません。彼は学問的な聖書釈義の訓練を受けた第一級の神学者でした。しかし、彼は祖国と自分の命運を左右する危機的な状況にあって、この聖句が自分に直接語りかけてくるのを聞いたのです。米国の新約聖書学者リチャード・ヘイズRichard Haysはこの時のボンヘッファーについて、このような個人的・直接的な聖書の適用は、パウロによる聖書の扱いに似ていると述べています(Echoes of Scripture in the Letters of Paul)。

新約時代の使徒たちは、現代の福音主義教会のように、学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈を区別することをしていません。今日の福音主義教会もまた、このような釈義の分裂状態を解消する方法を模索していく必要があると思われるのです。では、具体的に私たちはどのように聖書を読んでいくべきなのでしょうか?

(続く)