黙示録における「福音」(6)

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前回は、黙示録に登場する様々な暴力的なイメージ表現を文字通りに受け取るべきではなく、イエス・キリストの十字架というレンズを通して解釈しなければならいということを述べました。ヨハネはユダヤ教の黙示文学の標準的なイメージ表現を踏襲しながら、それを「小羊」キリストの中心イメージを通して逆転させているのです。

ここまで述べてきたことは、重大な適用上の意義を持っています。すなわち、私たちが黙示録の暴力的なイメージを字義通りに受け取るか、象徴として、十字架のレンズを通して解釈し直すかどうかによって、私たちの神観、キリスト観、また倫理観すら大きく変わってくるのです。

もし世の終わりに神/キリストが文字通り暴力的に世界を裁かれるのであるなら、福音書に描かれている愛のイエスの姿は神の本質を表していないことになります。そればかりでなく、神の民である教会もまた、この世的な力の論理によって歩んでいくべきだということになるでしょう。実際にそのような意見を堂々と公にしている牧師も存在するのです。

たとえば、最近まで米国ワシントン州シアトルにあるMars Hill Churchの牧師であったマーク・ドリスコルMark Driscollは次のように述べたことがあります:

黙示録に出てくるイエスは、脚に刺青を入れ、剣を握りしめ、血に飢えた闘士なんだ。こういうお方こそ、俺が礼拝するにふさわしいお方さ。ヒッピー風の、オムツをした、後光の差したキリスト様なんて礼拝できないね。なぜって、俺がぶちのめせるような奴を礼拝するなんてできっこないじゃないか。

このような思想の背後には、「神は究極的に力をもって悪を滅ぼされる、そしてそれは正しいことである」という前提があります。混沌から秩序をもたらし、悪を滅ぼして正義を実現するためには、暴力に訴えることは善であるという考え、一言で言えば「暴力は<救い>をもたらす」という考えをウォルター・ウィンクWalter Winkは「贖いの暴力の神話Myth of Redemptive Violence」と呼んでいますが、これは古くからあり非常に広範囲な影響力を持つ考え方で、バビロニアの創造神話からハリウッド映画に至るまで、世界の数多くの文化に見出すことができるものです。このような考え方は現代文明においてあまりにも広く深く浸透しているため、最終的に暴力以外の方法で悪に勝利することができるなどということは、ほとんど考えることもできなくなっています。

ドリスコル牧師のように、黙示録の暴力的イメージを文字通り受け取るということは、このような「贖いの暴力の神話」の線に沿った解釈ということになります。現代世界における「贖いの暴力の神話」の圧倒的影響力を考えれば、このような黙示録の読み方が人気があるのはむしろ当然と言えるでしょう。

しかし、黙示録の様々なイメージを象徴として、十字架のレンズを通して解釈することによって、全く違う神観、キリスト観、終末観、倫理観が生まれてくるのです。その根底にあるのは、神が最終的に悪の力に勝利される方法は、「贖いの暴力」ではなく、キリストの十字架に示されている犠牲的な愛である、という考え方です。それは黙示録自体の解釈として妥当なものであるばかりでなく、新約正典全体の神学的枠組みに最も相応しく当てはまる解釈でもあると思います。

このような「十字架による勝利」というパターンは、小羊キリストだけでなく、小羊に従うクリスチャンたちについても当てはまります。黙示録14章1節でヨハネは明らかに軍事的なイメージを用いて、小羊キリストと彼に付き従う教会を描いています。さらに17章では、「獣」やその十本の角に象徴される悪の勢力に対する、キリストと教会の戦いについて書かれています。

彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。(17章14節)

教会はキリストに従い、この世の悪と戦わなければなりません。けれども、教会はどのように戦うべきなのでしょうか?その答えは12章に見出すことができます。

兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(12章11節)

つまり、教会が悪に勝利するのは、イエス・キリストの十字架の贖いと、いのちをかけた忠実な証詞によるのです。2-3章でも復活のキリストはアジヤの七つの教会に対して繰り返し「勝利を得る者は~」と語りかけています。これは戦いのイメージです。しかし、これらのメッセージのどこにも、悪に対して力をもって報いよと述べているところはありません。教会の戦いは徹頭徹尾、十字架でいのちを捨てたイエスの模範に倣うという方法でなされなければならないのです。

それでは、黙示録に出てくる血なまぐさい暴力のイメージはどのように解釈すべきでしょうか? マイケル・ゴーマンMichael J. Gormanによると、黙示録における死と破壊のイメージは、神が実際に裁きをなされる手段を表しているのではなく、神が悪を一掃されるその普遍性と最終性を表しています。ことばによって全宇宙を創造された神は、この世の悪を一掃するのに文字通りの暴力に頼る必要はありません。それはむしろ、新たな創造のことばによってなされます。黙示録における裁きの表現を象徴的に解釈することは、神の力や権威を貶めるのではなく、むしろ字義的解釈よりもそれらをはるかに高めることになるのです。ゴーマンはこのことを「十字架型のcruciform神の力の理解」と呼んでいます。

神が究極的に悪に勝利されることは、黙示録が明確に述べているメッセージであり、そのことに疑問の余地はありません。しかし、神はその目的を「獣」的な「贖いの暴力」によって達成されるのではなく、「小羊」キリストの「十字架型の力」によって成し遂げられます。そして、小羊の軍隊である教会もまた、同じ方法で悪と戦うように召されているのです。

(続く)

黙示録における「福音」(5)

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前回の記事では、黙示録において「ほふられた小羊」としてのキリストのイメージが頻出することから、十字架の贖罪に見られる自己犠牲的な愛が黙示録のメッセージの中心にある、と述べました。そのような愛の神としてのキリストのイメージは、新約聖書の他の文書におけるそれとつながっていくものです。

しかしその一方で、黙示録は終末における神の怒り、力による裁きの描写で満ち溢れているのも事実です。それは6章以降で展開する世の終わりのさばきの描写や、19-20章に描かれる再臨のキリストと悪の勢力との戦いなどに明らかです。黙示録に見られる、この二つの一見相反するような特徴は互いにどのような関係にあると考えたら良いのでしょうか?

この問題を考えるためには、黙示録の言語がどのように機能するのかを考えなければなりません。

聖書を解釈する時の基本的なアプローチは、各書巻がどのような文学類型(ジャンル)に属するかを見極めて、それぞれのジャンルに適した解釈を行っていくことです。(このことについて詳しく学びたい方は、最近邦訳の出た、フィーとスチュワートによる教科書を参照してください。)

ヨハネの黙示録は基本的に黙示文学というジャンルに属しています(この他に預言や手紙としても読むことができますが、煩雑になるのでここでは触れません)。黙示文学の特徴は象徴的な言語を多用することです。つまり、本書に含まれる幻の描写を文字通りに受け取るのではなく、一つ一つのイメージが何を指し示しているのかを解釈することが必要です。

たとえば、黙示録に登場するキリストは口から剣が出た姿で描かれることがあります(1章16節、19章15節)が、ここで、私たちは復活と再臨のキリストの口からは文字通りの剣が出ている、と受け取るべきではありません。これはキリストが神の裁きのことばを宣言することを表す象徴表現です。また、前回とりあげた「小羊」としてのキリストの描写も、文字通りキリストが動物の羊であると言っているわけではありません。つまり、黙示録を読む時には、ヨハネが見る幻の中に登場するイメージをすべて文字通りに受け取るべきではないのです。

それでは、黙示録に登場する様々な暴力的イメージはどのように解釈したらよいのでしょうか?それらは世の終わりに起こる出来事、また神の裁きのありさまをドキュメンタリー映画のように描写したものでしょうか?それとも何か別のものを指し示す象徴なのでしょうか?

(アルブレヒト・デューラー「黙示録の四騎士」)

話は変わりますが、キリスト教においては、神やイエス・キリストをたたえ、信仰を表現するために音楽が重要な役割を果たしています。そして、世界には実に多種多様なスタイルによるキリスト教音楽が存在します。その中でも非常にユニークで興味深いジャンルとして、「クリスチャン・ヘビーメタル」があります。

大音量で歪んだギターサウンド、激しいドラムビート、絶叫するボーカル・・・多くのクリスチャンは、ヘビーメタルという音楽ジャンルそのものがキリスト教信仰とは相容れない、反キリスト的、悪魔的なものと考えているかもしれません(実際、ヘビーメタルのバンドの中には、死や罪や悪魔を礼賛するようなものも数多くあります)。そのような人々にとっては、「クリスチャンのヘビーメタル」というのは矛盾した表現に聞こえるでしょう。

ところが実際には、欧米ではクリスチャン・メタル(「ホワイト・メタル」と呼ばれることもあるそうです)はれっきとした一つのジャンルとして確立しており、数多くのクリスチャン・メタルバンドが存在しています。そのようなバンドはヘビーメタルのアグレッシヴなスタイルを利用して、自らの信仰を表現しているのです。

Pääkallonpaikka

上の画像はフィンランドのクリスチャン・メタルバンド、HBのアルバムジャケットです。骸骨をあしらったアートワークは、一見すると「いかにも」ヘビーメタルといったデザインで、一般のCDショップに置かれていたら、世俗的な悪魔崇拝バンドのCDとまったく見分けがつかないかも知れません。しかし、このアルバムタイトル「Pääkallonpaikka」というのは、フィンランド語で「どくろの場所」という意味です。つまり、このアルバムはイエス・キリストが十字架につけられたカルバリの丘を表現しているのです。そう思ってあらためてこのジャケットを見ると、骸骨に突き刺さっている3本の釘はカルバリの丘の3本の十字架を表し、中央の血塗られた釘はイエスの十字架を表しているのだろうと推測できます。さらに言えば、左側の釘にバンドのロゴが鎖でつながっているのは、イエスと共に十字架につけられた罪人に自分たちをなぞらえているのかもしれません。このHBによるアルバムジャケットは、一般的なヘビーメタルの慣用的イメージを逆用して、福音のメッセージを伝えることに見事に成功していると言えます。

聖書と音楽のアナロジーを考えることが許されるなら、ヨハネの黙示録は新約聖書のヘビーメタルと考えることができます。その音楽スタイルのゆえにクリスチャン・メタルを敬遠するクリスチャンがいるように、黙示録を正典と認めつつも、その暴力的イメージゆえに違和感を覚えるクリスチャンもいると思います。けれども、ヨハネが黙示文学的なスタイルを何の目的でどのように使用しているかを認識することが重要です。メタルミュージックのアグレッシヴなスタイルがそうであるように、黙示文学のグロテスクで暴力的・奇怪なイメージは読み手にショックを与えることによってその意識を覚醒させ、目に見える世界の背後にある超自然的な現実に目を向けさせる効果があります。黙示録においても確かに暴力的な裁きや戦いのイメージが多用されています。しかし、それらのイメージのすべてを文字通りに受け取るべきではありません。むしろ、ちょうどクリスチャンのメタルバンドがヘビーメタルのスタイルを逆用して福音のメッセージを伝えているように、ヨハネは同時代のユダヤの黙示文学に見られた、終末における神の裁きに関する標準的なイメージ表現の手法を逆用していると考えることができます。つまり、この点でヨハネの黙示録のメッセージは一般的なユダヤ教黙示文学のそれとはまったく異なっているのです。

黙示録に込められたヨハネの真にオリジナルなメッセージは、世の終わりや神と悪との戦いという普遍的な問題に対して、「ほふられた小羊」つまりイエス・キリストのレンズを通して見るように、読者に呼びかけているところにあるのです。

(続く)

 

クリスマスと御父の愛

クリスマスおめでとうございます。黙示録についてのシリーズの途中ですが、今日は少しお休みして、クリスマスの意味について考えてみたいと思います。

キリスト教においてクリスマスとは、三位一体の神(父・子・聖霊)のペルソナの一人である御子キリストが、人類を救うために人間となってこの世に来てくださった(受肉といいます)できごとを祝うものです。神である御子がどのようにへりくだって私たちのために人間となってくださったか、その謙遜と愛について語られることが多いです。

もちろん、そのようにクリスマスを御子キリストの視点から見ることは間違ってはいません。しかし、クリスマスのできごとを別の視点すなわち父なる神の視点から見ることもできます。つまり、クリスマスとは父なる神が愛する御子をこの世に送ってくださったできごとでもあるのです。

しかも、キリストはただ人々に神の存在を知らせるためではなく、人間の罪の身代わりとして十字架にかかって死なれるために来られたのです。ということは、父なる神は私たちの罪の身代わりとして犠牲にするために、愛するひとり子をこの世に送ってくださったということになります。ここに父なる神の愛が表れています。

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(1ヨハネ4章9-10節)

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3章16節)

けれども、父なる神の愛という側面は、クリスマスという文脈で語られることは比較的少ないのではないかと思います。

The Nativity with God the Father and the Holy Ghost

(Giovanni Battista Pittoni, “The Nativity with God the Father and the Holy Ghost”)

以前、私は教会でよく使われる祝祷「主イエス・キリストの恵みと、(父なる)神の愛と、聖霊の交わり」(2コリント13:13)の意味がよく分かりませんでした。なぜ「主イエス・キリストの」愛ではなく「父なる神の」愛なのでしょうか?私が神の愛と聞くとすぐ思い浮かべたのは十字架にかかって死なれたイエス・キリストの愛でした。それならよく分かります。それに対して「父なる神の愛」というのはあまりぴんとこなかったのです。

その意味が分かるようになったのは自分が父親になってからでした。私には3人の娘がいます。いろいろやんちゃで世話の焼ける子どもたちですが、やはり親にとって子どもはかわいいものです。でも時々子どもの将来について心配になることもあります。ちゃんと信仰を持って生きていくだろうか、心身共に健康に育ってくれるだろうか、いじめや犯罪に遭わないだろうか・・・。もし家に強盗が入ってきて娘たちを殺そうとしたら、きっと「殺すならこの私を殺せ!子どもたちだけは助けてくれ!」と叫ぶと思います。

あるいはこんなことを考えてみましょう。原子力発電所のある町で地震が起こり、原発が暴走し始めました。誰かがコントロールルームまで行ってスイッチを切らなければ大惨事になり、その町に住む何十万という人々の命を奪うことになってしまいます。ところが建物が地震で崩れ、入り口が狭まっているため、身体の小さな子どもでなければ入っていくことができないことが分かりました。入っていけば放射能を浴びて、長い間苦しみながら死ぬことが分かっています。(そういう状況が現実に起こりうるのかどうか分かりませんが、あくまでたとえとしてお考えください)。私と子どもがその場に居合わせたら、たとえ本人が行きたいと言っても、町を救うために自分の子どもを行かせることができるでしょうか?

他人のために自分の生命を捨てることが易しいとは言いませんが、他人のために自分の最愛の存在を犠牲にすることは、自分が犠牲になることよりももっと辛く難しいことかもしれません。神のために最愛のイサクを捧げようとしたアブラハム(創世記22章)のようなことは、正直とても自分にはできそうにないと思ってしまいます。ところがこれこそ、まさに父なる神がなされたことなのです。御子イエスは人間を愛し、御父を愛するがゆえにご自分の生命を犠牲にされました。そして父なる神は人間を愛するがゆえにその愛するひとり子を犠牲にしてくださったのです。クリスマスの物語の背後には、父なる神と子なる神の愛と大きな犠牲があるのです。クリスチャンはしばしば神の愛について語ります。しかし、私たちは神が「どれほど」私たちを愛しておられるか、本当に知っているのでしょうか?

イエスが実際にお生まれになったとき、そのようなことに思いをはせる人間はほとんどいませんでした。ヨセフに現れた天使ガブリエルも、生まれてくる子が民をその罪から救う方である(マタイ福音書1章21節)ことは告げますが、どのようにしてそれを成し遂げるかは語っていません。ただ一人、父なる神だけが、その誕生の本当の意味、つまりイエスが人々の罪をあがなうためにやがて十字架にかけられるということを知っていました。そして、聖霊に導かれて預言したシメオンの言葉にわずかにそのことが暗示されています。

するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。―それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。(ルカ福音書2章34-35節)

イエスの降誕物語はしばしばほのぼのとしたメルヘンチックな雰囲気の中で語られますが、父なる神はその様子をどのような思いで見ておられたのでしょうか。私には、クリスマスの喜びの中には、父なる神の涙のひとしずくが混じっていたという気がしてならないのです。

バッハのクリスマス・オラトリオはクリスマスの喜びにあふれた明るい音楽です。しかし、注意して聴いていくと、その中でさりげなくマタイ受難曲にも使われる受難のコラール「血潮したたる主の御頭」のメロディが何度か入ってくるのに気づきます。クリスマスは喜びの季節と考えられていますが、明るいクリスマス音楽の中には受難曲の調べがかすかに響いているのです。そのかすかな調べを聴き取る耳を持つ者は、キリストが来られたことと、父なる神が御子を送られたことの意味を深く考えずにはいられないのです。

(バッハのクリスマス・オラトリオ。「血潮したたる」のメロディは、この動画だと、たとえば14:40付近から聴くことができます。ところが同じメロディがキリストの勝利を歌う最終合唱[2:18:11付近から]でも盛大に歌われ、バッハがクリスマスの延長線上にカルバリの十字架、さらに復活までもはっきりと意識していたことを思わせます。)

黙示録における「福音」(4)

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前回は、「黙示録における十字架」について考察しました。そこでも見たように、「十字架」ということばは黙示録にはほとんど出てきません。しかし、十字架を表す別の重要なイメージが繰り返し登場するのです。それは「小羊」のイメージです。

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(ヤン・ファン・エイク 「神秘の小羊」)

「小羊」としてのキリスト

黙示録において、「小羊arnion」ということばはキリストについて28回使われています。黙示録研究の世界的な権威であるリチャード・ボウカムRichard Bauckhamの解釈によると、28 = 4 x 7であり、4は世界を象徴し、7は完全数であることから、キリストの使命は全世界の国々を贖うことであると考えられます。この「小羊」は5章で初めて登場し、22章の冒頭、ヨハネが見た幻の最後の部分まで繰り返し登場します。

まず5章で、小羊は天の御座に座る神の右手にある巻物を開くことのできる唯一の存在として登場します。この巻物には、神の歴史に対するご計画、つまり神がどのようにして地上の悪に勝利され、永遠の支配を確立されるのか、と言うことに関する奥義が記されています。それを開くということは、神から権威を受けてそのご計画を遂行するということです。

そのようなことのできる存在は、天地のどこにも見いだせなかったため、ヨハネは激しく泣いていました。しかし、彼は「ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」と聞きました(5節)。彼は「獅子」と聞いたのですが、実際に彼が「見る」と、そこにいたのは「ほふられたとみえる小羊」でした(6節)。ここには驚くべき比喩の逆転が見られます。「ほふられたとみえる」という表現は、ほふられて一度死んだけれども、よみがえったという、イエスの死と復活の両方を表しているのです。

黙示録がイエスの復活だけを強調しているわけではないことに注意しなければなりません。もし復活だけが重要であるならば、終末の幻においてイエスを小羊として描く必要は何もありません。獅子や力強い戦士などのイメージだけを用いれば良いのです。しかし、ヨハネが最後までこの小羊のイメージにこだわるのには、イエスによる十字架の贖罪に焦点を当て続けるという、神学的な理由があるのです。

さて、5章では小羊は天の御座にあって、天使たちの礼拝を受けますが、そこでは十字架上の死による贖いのわざが賛美されます(9-10節)。つまり、ここではイエスが初臨の時になしとげられた過去の救いのわざについて語られているのです。

しかし、黙示録において小羊のイメージは過去の贖罪のできごとのみに関わっている訳ではありません。6章以降では小羊は巻物の7つの封印を解いていきます。つまり、終末に向けての歴史の展開を導いているのは小羊なのです。

 14章でヨハネはシオンの山に立つ小羊を見ます。これは終末における悪の勢力(13章に描かれている竜、獣、偽預言者)と戦うキリストの姿です。小羊に従う14万4千人は小羊の軍隊としての教会を表しています。小羊と悪の勢力との戦いは17章でも語られます。

彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。(17章14節)

さらに、小羊は終末のビジョンのクライマックス、新天新地と新しいエルサレムの場面でも登場します。終末における神の民の救いの完成は「小羊の婚宴」(19章9節)として描かれます。そしてヨハネの見た幻の最後の部分でも、こう書かれています。

のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。(22章3-4節)

つまり、黙示録においてはキリストは十字架の死をもって人々を贖っただけではなく、世の終わりに至る歴史の展開を導かれ、最後の悪との戦いにおいても中心的役割を果たされ、永遠に神と共に統べ治められます。そしてこのすべてのキリストのみわざについて、ヨハネは「ほふられた小羊」というイメージを用いているのです。

このことは、キリストが「どのようにして」天の御座から統べ治め、「どのようにして」悪に勝利されるのか、ということについて重要な洞察を与えてくれます。つまり、キリストが世界を支配し、悪を裁き滅ぼされるのは、ローマやバビロンのような軍事力・物理的暴力によってではなく、カルバリの丘で表されたような自己犠牲的な愛によってなされる、ということです。

 黙示録における暴力的な裁きの描写を象徴としてではなく字義通りに解釈することは、他の新約文書(特に福音書)の神観・イエス像と矛盾するばかりでなく、黙示録の中心的ビジョンである4-5章における神とキリストの描写とも矛盾します。そこではほふられた小羊であるキリストが天の王座にあって統べ治め、また礼拝を受けています。つまり、キリストは「ほふられた小羊として」世界を治め、裁かれるのですし、「ほふられた小羊として」あがめられるのです。「ほふられた小羊」つまり自己犠牲的な愛の姿はキリスト、そして神の本質的なアイデンティティであり、黙示録のすべてのイメージはそのレンズを通して解釈されなければならないのです。

(続く)

黙示録における「福音」(3)

黙示録における十字架

前回は、黙示録におけるイエス像と、他の新約文書、とりわけ福音書に描かれているイエス像との間に連続性はあるのか、という問題を提起しました。一般的に、黙示録に登場するキリスト(あるいは神)のイメージは暴力的な裁きによって特徴付けられることが多く、それは福音書に登場する愛に満ちたイエスの姿と一見相容れないように思われます。しかし、神の本質は愛であり、受肉したイエスは神の愛を体現した存在であり、さらに「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13章8節)のであるなら、そのような特徴は終末に再臨するイエスにも何らかの形で当てはまるはずです。

もし福音書のイエス像と黙示録のイエス像に本質的な連続性があるとすれば、私たちが黙示録を読む時、福音書のイエス、神の愛と恵みを語られたイエス、十字架にかけられたイエスというレンズを通して読んでいかなければならないことになります。ところがここで問題が生じます。黙示録では十字架について直接語られることはほとんどないのです。

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(ベラスケス 「キリストの磔刑」)

黙示録において「十字架stauros」という名詞は一度も登場しません。「十字架につけるstauroō」という動詞が現れるのも、11章8節「彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。」の一回のみです。ではやはり黙示録はイエスの十字架を重要視していないのでしょうか?

そうではありません。ヨハネは黙示録の冒頭でイエスについて次のように述べています。

また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。(1章5-6節)

ここでは、イエスが人類への愛のゆえに(十字架で)血を流してくださり、それによって私たちを罪から解放してくださったことが述べられています。黙示録は「イエス・キリストの黙示」(1章1節)と題されているように、復活のキリストが教会に対して与えられた啓示の書です。(「黙示apokalypsis」ということばは、「覆いを取ること、啓示」という意味があります)。そして、ヨハネが本書の冒頭でキリストによる贖罪に言及しているのはとても重要です。黙示録の残りを読み進めていく時に、この基本的なキリスト理解を忘れてはならないのです。

ヨハネが黙示録において十字架について直接言及することがほとんどないのは、それが彼の読者には周知の事実だったからです。彼はまだイエスについて知らないノンクリスチャンに対して本書を書いているのではなく、すでにイエス・キリストを主として信じているクリスチャンに対して書いていることを忘れてはなりません。彼らはクリスチャンになる際に、当然のようにイエスがどのように十字架につけられたか、そのことがどういう意味を持っているかを学んでいたことでしょう。ヨハネは本書冒頭部分でそのような基本的知識を簡単に確認した後、本題に移っていくのです。その本題とは、既に十字架で贖われたクリスチャンたちが、どのようにしてキリストに忠実に従い、この世の悪と戦っていくのか、ということです。

では、黙示録においてキリストの十字架は、クリスチャンになるための単なる前提条件、信仰の歩みの単なる通過点なのでしょうか?十字架の教理はクリスチャンになるためには必要だけれども、一度信者になればもう十字架のことは忘れて、他のいろいろな奉仕に邁進していけば良いということでしょうか?もしそうだとすれば、十字架は初臨のイエスとは深く結びついているが、再臨のイエスにはもはや関係ない、ということになるかもしれません。(そしてそのような考え方は、前回考察した、福音書と黙示録の間に不連続性を見る考え方にも通じていくと思います)。

しかし決してそうではありません。黙示録の終末のビジョンにおいて、キリストの十字架は中心的な役割を果たし続けているのです。確かに「十字架」ということばは黙示録にはほとんど出てきません。しかし、十字架を表す別の重要なイメージが繰り返し登場するのです。次回はそれについて見て行きたいと思います。

(続く)

黙示録における「福音」(2)

今回は、黙示録では神またはキリストがどのように描かれているか、と言う点について考えてみます。

多くの人は、黙示録に描かれている神は新約的な愛と赦しと恵みの神ではなく、旧約的な怒りと裁きの神、というイメージを抱いています。(このような旧新約聖書の性格付けは正確なものではないと思いますが、あくまで一般にもたれているイメージとして、ということです)。

 福音書では、イエス・キリストは神の愛を体現する存在として描かれています。イエスは敵を愛せよと教え(マタイ5章44節)、右の頬を打たれたら左の頬を向けよと言われ(マタイ5:39)、剣を取る者は剣で滅びると言われました(マタイ26章52節)。弟子たちにそう教えただけでなく、自らそれを実行して十字架にかかられ、「父よ、彼らをおゆるしください。」と祈られました(ルカ23章34節)。

ところが黙示録のキリストは世の終わりに現れて不信者を容赦なく滅ぼす戦士としてイメージされます。これは福音書に描かれている愛のメシヤとしてのイエスのイメージとどのように結びつけたら良いのでしょうか?「結局黙示録に描かれている神やキリストの暴力的な裁きは、ヨハネが批判している当のバビロン/ローマがしていることと変わらないのではないか?」という批判がなされることもあります。そのような理由で、黙示録を非キリスト教的文書として拒絶する人も存在します。これはどのように考えたら良いのでしょうか?

RavArchBpChapelXt(戦士としてのキリスト;6世紀)

伝統的に本書はヨハネの福音書や手紙を書いたのと同じ、使徒ヨハネによって書かれたと考えられてきました(この他に、使徒とは別人の「長老ヨハネ」と呼ばれる人物によって書かれたという説もあります)が、この説を受け入れると、上で述べたような、神とキリストの「暴力的イメージ」をめぐる困惑はさらに深まります。なぜならヨハネは福音書でも手紙でも神の愛を強調しているからです。

愛さない者は、神を知らない。神は愛である。(1ヨハネ4章8節)

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)

これほどまでに神の愛を強調したヨハネが、なぜ黙示録ではあのような厳しい裁きのメッセージを語れるのでしょうか?

多くの人々は、福音書の愛のイエスと、黙示録の暴力的なイエスのイメージを両方受け入れています。しかしそうだとすると、イエスは初臨の時には愛と赦しを語り、人々に悔い改める機会を与えたが、最後まで悔い改めない者には、世の終わりに容赦なく裁きを下す怒りの神として再臨するということになります。しかし、これはよく考えてみると首尾一貫しないキリスト観ではないかと思われるのです。

昨年米国のテレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」で福音書のパロディ・ビデオが放映されました。“DJesus Uncrossed”と題されたタランティーノ監督風のビデオでは、墓からよみがえったイエスが自分を殺した人々に次々と復讐するという血なまぐさいストーリーが描かれていきます。そこに「彼は死人のうちからよみがえった・・・そして彼は決して赦しを説くことはない( “He’s risen from the dead. . . And he’s preaching anything but forgiveness.”)」 というナレーションが入ります。つまり、復活のキリストは十字架にかかる前の愛と赦しを説いたイエスとは似ても似つかぬ存在として描かれているのです。

(警告:暴力的描写が含まれています!)

当然のことながら、これは同番組史上最も冒涜的なビデオとして、多くのクリスチャンの憤激を買いました。しかしここで考えてみたいことがあります。多くのクリスチャンはこのような暴力的復讐のイメージは初臨のイエスには似つかわしくないと考えますが、再臨のイエスにはふさわしいと考えているのです。

「目には目を、歯には歯を」の原則に従い、この世の悪を力でねじ伏せる初臨のイエスのイメージが冒涜的であるなら、再臨のイエスについて同じような理解を持つのも冒涜的ではないでしょうか?「サタデー・ナイト・ライブ」のビデオは(それが制作者の意図であったかは別として)そのようなクリスチャンの持つアンビヴァレントなイエス像を浮き彫りにしていると言えるかも知れません。

一方、米国を中心に大ヒットしたレフト・ビハインド・シリーズ『グロリアス・アピアリング』という巻では、再臨のキリストが地上の敵を文字通り虐殺する様子が非常にリアルに描かれています。少し長いですが一部を引用します。

レイフォードがのぞいている双眼鏡の先では、男女の兵士や馬が立っているその場で爆発しているようだった。主のことばそのものが彼らの血を過熱させ,それが血管と皮膚を突き破っているかのようだった。「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」何万という歩兵が持っていた武器を落とし、自分の頭か胸をつかみ、膝をつき、身をよじりながら、目に見えない何かでばらばらに切り裂かれていった。はらわたが砂漠の床に流れ出し、そのまわりで逃げまどう者たちも殺され、血があふれ、キリストの栄光の容赦ない輝きのなかでその嵩を増していった。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える」反キリストの軍隊が主の虐殺のいけにえの動物になったかのようだった。(邦訳258-59ページ)

しかし、個人的にはこのようなイエス像には何か根本的に受け入れがたいものがあります。正典の最後を飾る、世の終わりについて語る黙示録に現れるイエスが暴力的な裁きの神であるとすると、結局神とイエスの本質は愛ではなく裁きということになるのでしょうか?初臨の時の愛の教えや実践は、人々を信じさせるための一時的なテクニックだったのでしょうか?決してそうではないはずです。 「神は愛である」と語ったヨハネは初臨のイエスについて次のように書いています。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(ヨハネ1章18節)

わたし(イエス)を見た者は、父を見たのである。(ヨハネ14章9節)

ヨハネだけではありません。ヘブル書の著者も次のように語っています。

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。(ヘブル1章3節)

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル13章8節)

まとめると、神の本質は愛であり、人となられたイエスはご自身の存在、教え、みわざを通して愛なる神の本質を表されたと言えます。そしてそのイエスの本質はこれから後も永遠に変わることはないのです。

もしここまでの考察が正しいとすれば、次のことを自問せざるを得ません:私たちの黙示録の読み方は、果たして正しいものだったのでしょうか?はたして、福音書のイエス像と黙示録のイエス像には連続性があるのでしょうか?

(続く)

黙示録における「福音」(1)

今回からは、ヨハネの黙示録について何回かにわたって書いていきたいと思います。

今年の1月から5月にかけて、名古屋西地区牧師会にお招きをいただいて、「現代に語りかける黙示録」と題して、3回にわたって黙示録についての講演をさせていただいたことがあります。そのうちの最初の2回の内容をまとめたものを、福音主義神学会中部部会の会報第14号に掲載していただくことができました(こちらから閲覧することができます)。そこでは、黙示録の現代的意義、また黙示録における教会という主題について書かせていただきました。

このブログでは、中部部会会報に掲載できなかった、第3回目の講義の内容を紹介していきたいと思います。中心的な主題は、「黙示録における『福音』」です。

ところで、「黙示録における『福音』」というタイトルを見て、どのような印象を持たれるでしょうか。黙示録はいうまでもなく新約正典の一部であり、そうであるからにはイエス・キリストの福音のメッセージを語っているはずです。にもかかわらず、多くの人にとって、黙示録と福音というものは意外な取り合わせ、という印象があるのではないでしょうか。

私自身、黙示録を神学校で教えて何年にもなりますが、「黙示録における福音」というテーマについて深く考えるようになったのはごく最近のことです。つまり、建前はともかく、多くのクリスチャンは心の中では黙示録は、他の新約文書で語られているような福音のメッセージとなじまない本であると感じているのかもしれません。

実際、他の正典文書(特に新約文書)に比べて、多くの教会では黙示録が教会の説教の主題聖句になることは少ないのではないかと思います。上述の牧師会でも、集まってくださった教職者の方々に、教会で黙示録から説教をする機会がどのくらいあるか伺ってみたところ、例外はあるものの、やはり講壇から黙示録について語られる機会が少ない現状を確認することができました。

(もちろん、一方では、黙示録に多大な関心を寄せて説教する教会もありますが、一般的に言ってそのような教会は、黙示録を終末の青写真として、特に現代の世界情勢を読み解く「暗号の書」として読む解釈学的傾向を持っていることが多いように思われます。このような黙示録の解釈的アプローチが持つ問題点については、上で紹介した中部部会会報でも簡単に触れていますが、この場合でも黙示録においてどのような「福音」が語られているかという問題は残ります。)

黙示録から説教されることが少ないという状況は海外でも同様です。プロテスタント主流派の諸教会で広く用いられている『改訂共通聖書日課Revised Common Lectionary』を見ると、そこで取り上げられる黙示録からの聖句はきわめて少ないことが分かります。つまり、3年サイクルで編集された、礼拝で朗読されるべき聖書箇所のリストの中に、黙示録からはたった6箇所、しかも奇妙で暴力的な要素を極力含まない箇所しか記載されていないのです。

たとえば『改訂共通聖書日課』には黙示録22章12節から21節までの部分が取り上げられていますが、興味深いことにこの箇所を全部読むのではなく、裁きと警告が記されている15節と18-19節が注意深く除外されています。(次の引用では除外されている部分を太字で示しています)。

12  「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。13  わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。14  いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。15  犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。16  わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。17  御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。18  この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。19  また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。20  これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。21  主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。

特に19節が取り除かれているのは、大きな皮肉と言わなければなりません。いずれにしても、このような聖書日課の編集方針に、教会の黙示録に対するアンビヴァレントな態度を見て取ることができます。(このような態度は今日始まったものではありません。黙示録の正典的地位が確立するのは他の新約文書に比べて遅れましたし、宗教改革者ルターも黙示録に対してかなり否定的な評価を持っていたことが知られています。)

さて、黙示録から説教されることが少ない理由の一つは、本書から「福音」を語ることが難しい(と思える)からではないか、と私は感じています。 そして、このような状況は、黙示録に対して人々が持っている一般的イメージと無関係ではないと思います。黙示録を表面的に読んでいくと、そこには神の怒り、裁き、災害、といった血なまぐさい暴力的なイメージに満ち溢れています。これらは一般的な「福音(良い知らせ)」のイメージとは対極にあるように思えるからです。

たしかに、その中でも耐え忍んで信仰を保ち続ける者たちには永遠の御国を受け継ぐ希望が与えられています。しかし、その他大多数の人類にとっては世の終わりは恐ろしい破滅の時、裁きの時であると一般に考えられています。そういう意味では、黙示録はすくなくとも部分的には「裁きの書」というイメージがあると言えるでしょう。そして、このような黙示録の「メッセージ」が、「愛」や「赦し」といった新約聖書の福音のイメージとは相容れないように思われるのも無理はありません。

では、黙示録に「福音」はあるのでしょうか?あるとしたら、それはどのようなものでしょうか?そしてそれは、他の新約文書で語られている「福音」と同じものでしょうか?これらの問題について、次回から考えていきたいと思います。

(続く)

 

「福音」とは何か?(2)

前回の投稿では、イエスが宣べ伝えられた「福音」は「神の国の福音」であった、というところまで述べました。今回は福音の内容である「神の国」の三つの側面について考えてみたいと思います。

神の国は救済史的である

神の国は歴史から切り離された単なる神学的概念や理念ではありません。それは旧約時代の聖徒たちによって待ち望まれ、イエス・キリストの受肉によって到来し、今も教会を通して拡大し、やがて世の終わりに完成する、ダイナミックな歴史的現実なのです。

「福音」とは単なる普遍的・抽象的な「罪の赦し」のメッセージではありません。聖書の教える罪の赦しも、二千年前に地上を歩まれ、十字架にかかって死なれ、復活されたナザレのイエスという歴史上の人物、さらにその背景にあるイスラエルの歴史を離れては本当の意味で理解することはできません。しかも聖書はキリスト復活以降の教会の歴史、さらには世の終わりについても語っています。現代の私たちも、このような現在進行中の救いの歴史(救済史)のただ中に生かされているのです。神の国とは、このような神の歴史的みわざの中で現されてきた神の支配のことです。

このような救済史的な神の国の理解は、私たちの信仰生活を大局的な視野から見る必要を教えてくれます。私たちはとかく、自分の信仰生活を個人主義的な視点でのみ捉えがちです。「私の救い」「私の祝福」「私の問題解決」が私たちの主な関心事となってしまうのです。しかし、そこからさらに視野を広げて、天地創造から始まる壮大な神の民の物語(ドラマ)に私たちも参加しているという意識を持っていくなら、私たちは自分の祝福を願うばかりでなく、神が歴史の中で教会を通して成し遂げようとされるご計画の中で、この私がどのように用いていただけるかを考えるようになるのではないでしょうか。

神の国は共同体的である

一人しか臣下のいない王などありえないように、神の王としての支配も、ご自身に仕える神の民の存在を前提としています。神の国はそれ自体共同体的な概念です。神の国の福音の共同体的な側面は、旧約聖書ではイスラエルの救いと密接に結びついています(イザヤ書52章7節など)が、新約聖書においては、この概念は教会に受け継がれています。神の国を教会と直接同一視することはできませんが、教会という共同体は神の国が地上で拡大していくための必要不可欠なコンテキストと考えることができます。たしかに、神の国に入ることができるかどうかは個人の信仰にかかっています(ヨハネ福音書3章3―5節など)。しかし、神の民は単に救われたばらばらの個人として存在しているのではなく、互いに有機的なつながりを持った共同体を形成しているのです。パウロはこのことを、有名な「キリストのからだ」の比喩を用いて説明しています。

なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。(1コリント12章13節)

イエス・キリストを信じてバプテスマを受けることは、個人の救いのための必要不可欠な条件ではありますが、それは同時に、聖霊によってキリストのからだなる共同体に組み入れられるプロセスであるということを理解しないと、私たちの信仰は個人主義的な偏ったものになってしまいます。聖書の教える福音とは、単なる「この私が死後天国へ行くための保証」ではありません。それは、今まで神から離れてそれぞれ自分勝手に生きていた人々が、神の民(教会)を通して一つになり、この地上に拡大していく神の支配に参加することができるようになる、という意味での「良い知らせ」なのです。

神の国は終末論的である

新約聖書によると、神の国は異なる形で二回訪れます。イエス・キリストの受肉と公生涯、受難と復活を通して、神の国は「既に」到来し、今も教会を通して拡大し続けています。しかし、最終的な神の国の完成、神の支配の完全な現れを見るには、将来の再臨を待たなければなりません。その意味では、神の国は「未だ」到来していないのです。この、「既に」と「未だ」の間の緊張関係が、新約聖書の終末論を特徴づけています。回りくどい言い方で恐縮ですが、終わりの時代は既に始まっていますが、「終わりの終わり」はまだ未来のできごとなのです。このような終末論の視点から神の国の福音を考えると、そこには、神の支配がキリストの初臨を通してこの地上に始まり、今日も教会を通して拡大しているという、「現在の祝福」と、その支配はまだ地上のすべてに及んではおらず、神の国とサタンの国との間の激しい戦いが進行中であるが、やがて神の完全な支配が訪れるという「将来の希望」の二つの側面があることが分かります。

このような、「既に」と「未だ」の間の緊張感は、私たちの信仰をダイナミックで現実的なものにしてくれます。一方では、神の国が既に到来していることによって、その祝福を日々の信仰生活の中で体験することができます。しかし同時に、神の国が未だ完成してはいない現在、悩み苦しみや問題、罪との戦いから完全に自由になることはできないという現実も私たちは直視しなければなりません。しかし、そのような中でも、私たちは神の国が完成する日、神が「すべてとなられる」(Iコリント15章28節)時が来ることをみことばと聖霊とによって確信し、パウロの言う「祝福に満ちた望み」(テトス2章13節)を抱いて歩み続けていくことができるのです。

このように、「神の国」の視点からの福音理解は、私たちの信仰を救済史的、共同体的、終末論的な枠組みの中に位置づけることを可能にしてくれます。それはまた、「十字架の福音」を正しい聖書神学的文脈の中でさらに深く理解していくためにも有益と思われるのです。

 

「福音」とは何か?(1)

前回の投稿では、新約聖書のクリスマス物語が持つ政治的なメッセージについて述べました。ルカの福音書2章に描かれている降誕物語は、「王の誕生」を描いたものであると言って良いと思います。そして、羊飼いたちに現れた天使はそれが素晴らしい喜びの知らせであると告げたのです。新改訳、口語訳、新共同訳といった日本語訳聖書では訳出されていませんが、ルカ福音書2章10節ではエウアンゲリゾマイ(福音を伝える)というギリシア語の動詞が使われています。王なるイエスの誕生は「福音」だったのです。

「キリスト教の中心的メッセージは福音である」と言われます。しかしこれは分かるようでよく分からない表現です。「福音(エウアンゲリオン)」は「良い知らせ」という意味で、キリスト教以外でも使われる言葉です。たとえばこれまで治療困難だった難病に対する特効薬が開発されると、それはその病気で苦しむ人々に対して「福音」であると言われたりします。つまり、「福音」という言葉そのものはキリスト教のメッセージの容れ物を表しているだけで、その中身は特定されていないのです。

ですから、同じクリスチャン同士が「福音」という言葉を用いて会話をしていても、双方の「福音」理解が同じであるとは限りません。もし同じでないなら、意味のあるコミュニケーションはなされていないということになります。また、教会が世に対して「福音」を証ししようとする場合も、肝心の福音理解が曖昧であったり、不正確であるなら、その証しは力のないものになってしまいます。

つまり、キリスト者が自らの福音理解に対して無反省であり、「分かったつもり」になっていることは、大きな問題であると言えます。私たちは自らの福音理解を聖書から常に問いなおしていく必要があります。それでは、キリスト教のメッセージの何が「福音(良い知らせ)」なのでしょうか?

最近日本の福音主義的キリスト教会内でも、「福音とは何か?」という根本的な問題が正面から取り上げられるようになりました。その象徴的とも言える事件が、スコット・マクナイト著『福音の再発見』が昨年翻訳出版されたできごとです。この本が日本語で出版された意義は非常に大きいと思い、自分が教えている神学校でも学生たちに大いに推薦させていただきました。

マクナイトの本(原題は『王なるイエスの福音The King Jesus Gospel』)の福音理解については、同書を読んでいただければ良いと思いますので、この投稿では、『リバイバルジャパン(現・舟の右側)』2009年12月15日号に掲載させていただいた「福音とは何か?」という文章に基づいて、私なりの福音理解について述べさせていただきます。(ちなみに、「福音とは何か?」というのはシリーズ名で、様々な人々にその福音理解について聞く、という企画でした。ブログへの転載を快諾してくださった地引網出版の谷口和一郎氏に、この場を借りて御礼申し上げます)。

なお、これから掲載する内容は、「福音」のすべてについて網羅したものではなく、従来の福音主義的キリスト教において軽視されてきた(と思われる)福音の側面に特に光を当てようとするものであることを最初にお断りしておきます。

神の国の福音

上で述べたように、「福音」とは「良い知らせ」という意味です。それではその「良い知らせ」の内容とは何でしょうか。多くのクリスチャンがそう訊ねられて答えるのは、「イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださった。そのことを信じるだけであなたは罪が赦され、永遠のいのちをいただくことができる」というものではないかと思います。これは確かに、罪に苦しむすべての人間にとって、この上ない良い知らせです。この「十字架の福音」が新約聖書において中心的なメッセージであることには、異論はありません。しかし、それがすべてなのでしょうか?

実は新約聖書には、上で述べた「十字架の福音」とは少し違った福音の表現も見られます。それは、イエスご自身が宣べ伝えられた福音でした。

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マルコ福音書1章14-15節)

つまり、イエスによると、時が満ちて、神の国が近づいたことが「良い知らせ」なのです。このような「神の国の福音」は「十字架の福音」とは異なる別のメッセージではなく、同じ一つの福音の両側面と言ってよいものです。しかし、「神の国の福音」について語られることは比較的少ないと思われるので、この投稿ではこちらを中心に見ていきたいと思います。

さて、ここでイエスが語られている「神の国」とは何でしょうか。新約聖書が「神の国」というときの「国(バシレイア)」は「王国」あるいは「王としての支配」を意味する言葉です。つまり、「神の国」とは「神の王としての支配」を意味する言葉です。神が宇宙の王であるという概念は聖書全体を通して見られるものです。この王は絶対的主権者であると同時に、慈愛に満ちた父でもあります。またこの王は聖なるお方であり、その裁きはつねに正しいのです。「神の国が近づいた」というのは、この素晴らしい王の支配がこの地上に訪れようとしている、いやある意味ではすでに訪れつつあるということです。これが「神の国の福音」の内容です。

さて、聖書を見ていくと、神の国はいくつかの重要な特徴を持っていることが分かります。それについて次回は考えようと思います。

(続く)

本当は政治的なクリスマス物語

アドベント(待降節)の二週目に入りました。毎年クリスマスの時期になると、 教会ではイエス・キリストの降誕物語が再現されます。クリスチャンでなくても、子どもの頃キリスト教系の学校で降誕劇に出演したという思い出を持っておられる方々も多いと思います。そのような劇ではたいてい、牧歌的で暖かい雰囲気の中でイエス・キリストの誕生が描かれていきます。馬小屋で生まれた幼子イエスと両親を動物たちが取り囲み、天使が羊飼いたちに救い主の誕生を告げ知らせ、東方から三人の博士たちが星に導かれて登場します。最後にはオールスターキャストで神を賛美して終わる、というパターンが多いようです。現代のクリスチャンたちには、このような「クリスマス物語」が一般的なイメージとして定着しているように思います。

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このような「クリスマス物語」のストーリーは、主にマタイとルカの福音書に収められている降誕物語を組み合わせて構成されていますが、私たちが親しんでいる物語の細部には、聖書の中には書かれていない、後代の人々の想像力の産物と言える要素がいろいろあります。(たとえば聖書には東方から来た博士たちの人数が三人であったとは書かれていません。)

けれども、この投稿ではそういったことではなく、特にルカ福音書2章の降誕物語に注目し、イエスがお生まれになったことの政治的な意味について考えてみたいと思います。

そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。(ルカ福音書2章1-2節)

ルカ福音書におけるイエスの誕生ナラティヴはローマ帝国への直接的言及から始まります。ルカは自分が物語るイエスのできごとは、ローマ帝国による地中海世界の支配という歴史的・政治的なコンテキストの中でなされたということを明らかにしています。その中で、ローマ皇帝アウグストゥス(アウグスト)は世界を支配する存在として登場します。「全世界」というルカの表現はもちろん誇張ですが、ローマ人支配者たちの驕りをも表していると考えられます。

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(ローマ皇帝アウグストゥス)

初代ローマ皇帝アウグストゥス(在位前27-後14年)はユリウス・カエサルの養子で、元はオクタウィアヌスと称していました。彼は前27年、元老院より「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を受けますが、この称号には宗教的な意味合い(「神聖な」)も含まれています。養父のカエサルが死後神格化されたため、アウグストゥスは「神の子」と呼ばれました。彼はローマの内戦を終わらせ、「ローマの平和(Pax Romana)」をもたらした「救い主」として称賛されていました。アウグストゥスは自ら神と称することはしませんでしたが、一般民衆の間ではアウグストゥス礼拝は非常に盛んに行われていました。

ローマによる世界支配のイデオロギーは、皇帝が絶対的主権者であるというものでした。このような皇帝の絶対的主権を賛美する風潮は帝国内の至る所で見られました。一例として、小アジア(現在のトルコ)西岸にあるプリエネで見つかった碑文を取り上げます。この碑文は前9年に作られたもので、一年のはじまりをアウグストゥスの誕生日に移そうというアジア州の決義を記したものですが、その中に次のようなくだりがあります:

我らの生を神的な仕方で統治する摂理は、熱意と大いなる御心をもって、アウグストゥスをもたらすことで、我らの生に最も美しい飾りを与えた。摂理はアウグストゥスを、人々の幸福のために徳で満たした。彼は、我らと我らの子孫にとっての救い主として、戦争に終わりをもたらし、平和を作り出した。皇帝はその現われを通して、彼以前にすでに福音を先取りした者たちのあらゆる希望を超越したので、すなわち彼以前に生きていた善行者を凌駕したのみならず、未来の善行者から、彼に先んじて何かをなすという希望をすべて取り去ったので、そして最後に、世界にとって神〔である皇帝〕の誕生日が、彼に由来する福音の始まりであったので・・・。」(『東方ギリシア語碑文選集』より)。

この碑文には、クリスチャンにとってなじみ深い用語や概念がいくつも見いだせます。「神の誕生日」「福音」「希望」「平和」「救い主」などです。これをルカによるイエスの誕生記事と比べて見ましょう。

さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える(原語のeuangelizomaiは福音を伝える、の意)。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主お生れになった。このかたこそなるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ福音書2章8-14節)

「救い主」「福音」「平和」「誕生」などの共通点は明らかです。さらに言うと、ここに出てくる「主」という称号もローマ皇帝に対して使われていたものでした。これは偶然の一致でしょうか?この章はアウグストゥスへの直接的言及で始まっていることから、ルカは意識的にイエスとアウグストゥスを対比していると言えます。(ルカがプリエネ碑文を知っていたと考える必要はありません。むしろ、プリエネ碑文は当時の一般的なアウグストゥス賛美の表現を反映していると考えられます。)その意味するところは、真の救い主、世界に平和をもたらす存在はローマ皇帝ではなくイエス・キリストだ、ということです。

このことは、この降誕物語(2章1-20節)の中で、「ダビデ」の名が3回も繰り返されていることからも分かります。ルカはイエスがダビデの家系に属する存在であり(4節)、しかも「ダビデの町」であるベツレヘムで生まれた(4、11節)ことを強調しています。これは何を意味しているのでしょうか?それは生まれてくるイエスが王として永遠に支配することを表しているのです(1章32-33節を参照)。これは明らかにローマ皇帝の世界支配に対する挑戦と考えることができるでしょう。

ローマ人には、アウグストゥスの誕生は人類史における黄金時代の幕開けと見なされていました。しかし、ルカにとってはイエスの誕生こそ、人類史の新しい段階の幕開けとなったのです。それは、やがてこの世のすべての支配や権力がキリストに従属させられることを暗示しています(1コリント15章24節参照)。牧歌的な雰囲気の中で語られることの多いクリスマス物語には、実は非常に政治的なメッセージが込められているのです。