黙示録における「福音」(5)

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前回の記事では、黙示録において「ほふられた小羊」としてのキリストのイメージが頻出することから、十字架の贖罪に見られる自己犠牲的な愛が黙示録のメッセージの中心にある、と述べました。そのような愛の神としてのキリストのイメージは、新約聖書の他の文書におけるそれとつながっていくものです。

しかしその一方で、黙示録は終末における神の怒り、力による裁きの描写で満ち溢れているのも事実です。それは6章以降で展開する世の終わりのさばきの描写や、19-20章に描かれる再臨のキリストと悪の勢力との戦いなどに明らかです。黙示録に見られる、この二つの一見相反するような特徴は互いにどのような関係にあると考えたら良いのでしょうか?

この問題を考えるためには、黙示録の言語がどのように機能するのかを考えなければなりません。

聖書を解釈する時の基本的なアプローチは、各書巻がどのような文学類型(ジャンル)に属するかを見極めて、それぞれのジャンルに適した解釈を行っていくことです。(このことについて詳しく学びたい方は、最近邦訳の出た、フィーとスチュワートによる教科書を参照してください。)

ヨハネの黙示録は基本的に黙示文学というジャンルに属しています(この他に預言や手紙としても読むことができますが、煩雑になるのでここでは触れません)。黙示文学の特徴は象徴的な言語を多用することです。つまり、本書に含まれる幻の描写を文字通りに受け取るのではなく、一つ一つのイメージが何を指し示しているのかを解釈することが必要です。

たとえば、黙示録に登場するキリストは口から剣が出た姿で描かれることがあります(1章16節、19章15節)が、ここで、私たちは復活と再臨のキリストの口からは文字通りの剣が出ている、と受け取るべきではありません。これはキリストが神の裁きのことばを宣言することを表す象徴表現です。また、前回とりあげた「小羊」としてのキリストの描写も、文字通りキリストが動物の羊であると言っているわけではありません。つまり、黙示録を読む時には、ヨハネが見る幻の中に登場するイメージをすべて文字通りに受け取るべきではないのです。

それでは、黙示録に登場する様々な暴力的イメージはどのように解釈したらよいのでしょうか?それらは世の終わりに起こる出来事、また神の裁きのありさまをドキュメンタリー映画のように描写したものでしょうか?それとも何か別のものを指し示す象徴なのでしょうか?

(アルブレヒト・デューラー「黙示録の四騎士」)

話は変わりますが、キリスト教においては、神やイエス・キリストをたたえ、信仰を表現するために音楽が重要な役割を果たしています。そして、世界には実に多種多様なスタイルによるキリスト教音楽が存在します。その中でも非常にユニークで興味深いジャンルとして、「クリスチャン・ヘビーメタル」があります。

大音量で歪んだギターサウンド、激しいドラムビート、絶叫するボーカル・・・多くのクリスチャンは、ヘビーメタルという音楽ジャンルそのものがキリスト教信仰とは相容れない、反キリスト的、悪魔的なものと考えているかもしれません(実際、ヘビーメタルのバンドの中には、死や罪や悪魔を礼賛するようなものも数多くあります)。そのような人々にとっては、「クリスチャンのヘビーメタル」というのは矛盾した表現に聞こえるでしょう。

ところが実際には、欧米ではクリスチャン・メタル(「ホワイト・メタル」と呼ばれることもあるそうです)はれっきとした一つのジャンルとして確立しており、数多くのクリスチャン・メタルバンドが存在しています。そのようなバンドはヘビーメタルのアグレッシヴなスタイルを利用して、自らの信仰を表現しているのです。

Pääkallonpaikka

上の画像はフィンランドのクリスチャン・メタルバンド、HBのアルバムジャケットです。骸骨をあしらったアートワークは、一見すると「いかにも」ヘビーメタルといったデザインで、一般のCDショップに置かれていたら、世俗的な悪魔崇拝バンドのCDとまったく見分けがつかないかも知れません。しかし、このアルバムタイトル「Pääkallonpaikka」というのは、フィンランド語で「どくろの場所」という意味です。つまり、このアルバムはイエス・キリストが十字架につけられたカルバリの丘を表現しているのです。そう思ってあらためてこのジャケットを見ると、骸骨に突き刺さっている3本の釘はカルバリの丘の3本の十字架を表し、中央の血塗られた釘はイエスの十字架を表しているのだろうと推測できます。さらに言えば、左側の釘にバンドのロゴが鎖でつながっているのは、イエスと共に十字架につけられた罪人に自分たちをなぞらえているのかもしれません。このHBによるアルバムジャケットは、一般的なヘビーメタルの慣用的イメージを逆用して、福音のメッセージを伝えることに見事に成功していると言えます。

聖書と音楽のアナロジーを考えることが許されるなら、ヨハネの黙示録は新約聖書のヘビーメタルと考えることができます。その音楽スタイルのゆえにクリスチャン・メタルを敬遠するクリスチャンがいるように、黙示録を正典と認めつつも、その暴力的イメージゆえに違和感を覚えるクリスチャンもいると思います。けれども、ヨハネが黙示文学的なスタイルを何の目的でどのように使用しているかを認識することが重要です。メタルミュージックのアグレッシヴなスタイルがそうであるように、黙示文学のグロテスクで暴力的・奇怪なイメージは読み手にショックを与えることによってその意識を覚醒させ、目に見える世界の背後にある超自然的な現実に目を向けさせる効果があります。黙示録においても確かに暴力的な裁きや戦いのイメージが多用されています。しかし、それらのイメージのすべてを文字通りに受け取るべきではありません。むしろ、ちょうどクリスチャンのメタルバンドがヘビーメタルのスタイルを逆用して福音のメッセージを伝えているように、ヨハネは同時代のユダヤの黙示文学に見られた、終末における神の裁きに関する標準的なイメージ表現の手法を逆用していると考えることができます。つまり、この点でヨハネの黙示録のメッセージは一般的なユダヤ教黙示文学のそれとはまったく異なっているのです。

黙示録に込められたヨハネの真にオリジナルなメッセージは、世の終わりや神と悪との戦いという普遍的な問題に対して、「ほふられた小羊」つまりイエス・キリストのレンズを通して見るように、読者に呼びかけているところにあるのです。

(続く)