黙示録における「福音」(1)

今回からは、ヨハネの黙示録について何回かにわたって書いていきたいと思います。

今年の1月から5月にかけて、名古屋西地区牧師会にお招きをいただいて、「現代に語りかける黙示録」と題して、3回にわたって黙示録についての講演をさせていただいたことがあります。そのうちの最初の2回の内容をまとめたものを、福音主義神学会中部部会の会報第14号に掲載していただくことができました(こちらから閲覧することができます)。そこでは、黙示録の現代的意義、また黙示録における教会という主題について書かせていただきました。

このブログでは、中部部会会報に掲載できなかった、第3回目の講義の内容を紹介していきたいと思います。中心的な主題は、「黙示録における『福音』」です。

ところで、「黙示録における『福音』」というタイトルを見て、どのような印象を持たれるでしょうか。黙示録はいうまでもなく新約正典の一部であり、そうであるからにはイエス・キリストの福音のメッセージを語っているはずです。にもかかわらず、多くの人にとって、黙示録と福音というものは意外な取り合わせ、という印象があるのではないでしょうか。

私自身、黙示録を神学校で教えて何年にもなりますが、「黙示録における福音」というテーマについて深く考えるようになったのはごく最近のことです。つまり、建前はともかく、多くのクリスチャンは心の中では黙示録は、他の新約文書で語られているような福音のメッセージとなじまない本であると感じているのかもしれません。

実際、他の正典文書(特に新約文書)に比べて、多くの教会では黙示録が教会の説教の主題聖句になることは少ないのではないかと思います。上述の牧師会でも、集まってくださった教職者の方々に、教会で黙示録から説教をする機会がどのくらいあるか伺ってみたところ、例外はあるものの、やはり講壇から黙示録について語られる機会が少ない現状を確認することができました。

(もちろん、一方では、黙示録に多大な関心を寄せて説教する教会もありますが、一般的に言ってそのような教会は、黙示録を終末の青写真として、特に現代の世界情勢を読み解く「暗号の書」として読む解釈学的傾向を持っていることが多いように思われます。このような黙示録の解釈的アプローチが持つ問題点については、上で紹介した中部部会会報でも簡単に触れていますが、この場合でも黙示録においてどのような「福音」が語られているかという問題は残ります。)

黙示録から説教されることが少ないという状況は海外でも同様です。プロテスタント主流派の諸教会で広く用いられている『改訂共通聖書日課Revised Common Lectionary』を見ると、そこで取り上げられる黙示録からの聖句はきわめて少ないことが分かります。つまり、3年サイクルで編集された、礼拝で朗読されるべき聖書箇所のリストの中に、黙示録からはたった6箇所、しかも奇妙で暴力的な要素を極力含まない箇所しか記載されていないのです。

たとえば『改訂共通聖書日課』には黙示録22章12節から21節までの部分が取り上げられていますが、興味深いことにこの箇所を全部読むのではなく、裁きと警告が記されている15節と18-19節が注意深く除外されています。(次の引用では除外されている部分を太字で示しています)。

12  「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。13  わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。14  いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。15  犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。16  わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。17  御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。18  この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。19  また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。20  これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。21  主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。

特に19節が取り除かれているのは、大きな皮肉と言わなければなりません。いずれにしても、このような聖書日課の編集方針に、教会の黙示録に対するアンビヴァレントな態度を見て取ることができます。(このような態度は今日始まったものではありません。黙示録の正典的地位が確立するのは他の新約文書に比べて遅れましたし、宗教改革者ルターも黙示録に対してかなり否定的な評価を持っていたことが知られています。)

さて、黙示録から説教されることが少ない理由の一つは、本書から「福音」を語ることが難しい(と思える)からではないか、と私は感じています。 そして、このような状況は、黙示録に対して人々が持っている一般的イメージと無関係ではないと思います。黙示録を表面的に読んでいくと、そこには神の怒り、裁き、災害、といった血なまぐさい暴力的なイメージに満ち溢れています。これらは一般的な「福音(良い知らせ)」のイメージとは対極にあるように思えるからです。

たしかに、その中でも耐え忍んで信仰を保ち続ける者たちには永遠の御国を受け継ぐ希望が与えられています。しかし、その他大多数の人類にとっては世の終わりは恐ろしい破滅の時、裁きの時であると一般に考えられています。そういう意味では、黙示録はすくなくとも部分的には「裁きの書」というイメージがあると言えるでしょう。そして、このような黙示録の「メッセージ」が、「愛」や「赦し」といった新約聖書の福音のイメージとは相容れないように思われるのも無理はありません。

では、黙示録に「福音」はあるのでしょうか?あるとしたら、それはどのようなものでしょうか?そしてそれは、他の新約文書で語られている「福音」と同じものでしょうか?これらの問題について、次回から考えていきたいと思います。

(続く)