「福音」とは何か?(2)

前回の投稿では、イエスが宣べ伝えられた「福音」は「神の国の福音」であった、というところまで述べました。今回は福音の内容である「神の国」の三つの側面について考えてみたいと思います。

神の国は救済史的である

神の国は歴史から切り離された単なる神学的概念や理念ではありません。それは旧約時代の聖徒たちによって待ち望まれ、イエス・キリストの受肉によって到来し、今も教会を通して拡大し、やがて世の終わりに完成する、ダイナミックな歴史的現実なのです。

「福音」とは単なる普遍的・抽象的な「罪の赦し」のメッセージではありません。聖書の教える罪の赦しも、二千年前に地上を歩まれ、十字架にかかって死なれ、復活されたナザレのイエスという歴史上の人物、さらにその背景にあるイスラエルの歴史を離れては本当の意味で理解することはできません。しかも聖書はキリスト復活以降の教会の歴史、さらには世の終わりについても語っています。現代の私たちも、このような現在進行中の救いの歴史(救済史)のただ中に生かされているのです。神の国とは、このような神の歴史的みわざの中で現されてきた神の支配のことです。

このような救済史的な神の国の理解は、私たちの信仰生活を大局的な視野から見る必要を教えてくれます。私たちはとかく、自分の信仰生活を個人主義的な視点でのみ捉えがちです。「私の救い」「私の祝福」「私の問題解決」が私たちの主な関心事となってしまうのです。しかし、そこからさらに視野を広げて、天地創造から始まる壮大な神の民の物語(ドラマ)に私たちも参加しているという意識を持っていくなら、私たちは自分の祝福を願うばかりでなく、神が歴史の中で教会を通して成し遂げようとされるご計画の中で、この私がどのように用いていただけるかを考えるようになるのではないでしょうか。

神の国は共同体的である

一人しか臣下のいない王などありえないように、神の王としての支配も、ご自身に仕える神の民の存在を前提としています。神の国はそれ自体共同体的な概念です。神の国の福音の共同体的な側面は、旧約聖書ではイスラエルの救いと密接に結びついています(イザヤ書52章7節など)が、新約聖書においては、この概念は教会に受け継がれています。神の国を教会と直接同一視することはできませんが、教会という共同体は神の国が地上で拡大していくための必要不可欠なコンテキストと考えることができます。たしかに、神の国に入ることができるかどうかは個人の信仰にかかっています(ヨハネ福音書3章3―5節など)。しかし、神の民は単に救われたばらばらの個人として存在しているのではなく、互いに有機的なつながりを持った共同体を形成しているのです。パウロはこのことを、有名な「キリストのからだ」の比喩を用いて説明しています。

なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。(1コリント12章13節)

イエス・キリストを信じてバプテスマを受けることは、個人の救いのための必要不可欠な条件ではありますが、それは同時に、聖霊によってキリストのからだなる共同体に組み入れられるプロセスであるということを理解しないと、私たちの信仰は個人主義的な偏ったものになってしまいます。聖書の教える福音とは、単なる「この私が死後天国へ行くための保証」ではありません。それは、今まで神から離れてそれぞれ自分勝手に生きていた人々が、神の民(教会)を通して一つになり、この地上に拡大していく神の支配に参加することができるようになる、という意味での「良い知らせ」なのです。

神の国は終末論的である

新約聖書によると、神の国は異なる形で二回訪れます。イエス・キリストの受肉と公生涯、受難と復活を通して、神の国は「既に」到来し、今も教会を通して拡大し続けています。しかし、最終的な神の国の完成、神の支配の完全な現れを見るには、将来の再臨を待たなければなりません。その意味では、神の国は「未だ」到来していないのです。この、「既に」と「未だ」の間の緊張関係が、新約聖書の終末論を特徴づけています。回りくどい言い方で恐縮ですが、終わりの時代は既に始まっていますが、「終わりの終わり」はまだ未来のできごとなのです。このような終末論の視点から神の国の福音を考えると、そこには、神の支配がキリストの初臨を通してこの地上に始まり、今日も教会を通して拡大しているという、「現在の祝福」と、その支配はまだ地上のすべてに及んではおらず、神の国とサタンの国との間の激しい戦いが進行中であるが、やがて神の完全な支配が訪れるという「将来の希望」の二つの側面があることが分かります。

このような、「既に」と「未だ」の間の緊張感は、私たちの信仰をダイナミックで現実的なものにしてくれます。一方では、神の国が既に到来していることによって、その祝福を日々の信仰生活の中で体験することができます。しかし同時に、神の国が未だ完成してはいない現在、悩み苦しみや問題、罪との戦いから完全に自由になることはできないという現実も私たちは直視しなければなりません。しかし、そのような中でも、私たちは神の国が完成する日、神が「すべてとなられる」(Iコリント15章28節)時が来ることをみことばと聖霊とによって確信し、パウロの言う「祝福に満ちた望み」(テトス2章13節)を抱いて歩み続けていくことができるのです。

このように、「神の国」の視点からの福音理解は、私たちの信仰を救済史的、共同体的、終末論的な枠組みの中に位置づけることを可能にしてくれます。それはまた、「十字架の福音」を正しい聖書神学的文脈の中でさらに深く理解していくためにも有益と思われるのです。