使徒たちは聖書をどう読んだか(10)

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前回は、聖書の学問的な読み方とディヴォーション的な読み方を統合していく読み方を模索すべきではないか、というところまでお話ししました。新約時代の使徒たちは、現代の福音派のように釈義(聖書が意味したこと)と適用(聖書が意味すること)を必ずしも明確に区別してはおらず、もっと直接的に自分たちに語られる神のことばとして読んでいました。そして、現代の私たちもそのような読み方に倣うことができるのではないか(あるいはすでにそうしている人々が多い)、ということでした。

この主張に対して、そのような聖書の読み方は、ありとあらゆる主観的で恣意的な解釈を許容し、解釈学的無政府状態をもたらすのではないか、と危惧する声が聞こえてきそうです。

しかし、必ずしもそうではありません。使徒たちの聖書解釈も決してランダムな主観的解釈ではありませんでした。彼らの聖書解釈は、ある共通した神学的理解の枠がはめられていたと考えることができます。その枠組みには、次のような一群の確信が含まれています:

  • 聖書の全体は神による人類救済を描いた首尾一貫した物語(ナラティヴ)であるという救済史的確信
  • 旧約聖書のナラティヴの全体は来るべきキリストを指し示しているというキリスト論的(キリスト目的的)確信
  • その旧約聖書の約束が、ナザレのイエスを通してすでに成就し、神の救済のドラマは最終的な神の国の完成に向かって最終段階に入ったという終末論的確信
  • このキリストを信じる者たちは終末を生きる神の民としての教会共同体に属し、聖霊の力を受け、教会を通して神と人とに仕える存在となったという教会論的・聖霊論的確信

このような全体的な枠組みを通して、聖霊に導かれ、教会という共同体の中で、使徒たちは旧約聖書を読んでいったのです。現代の教会もこれに倣うべきであると私は考えます。もちろん、現代の私たちの解釈は使徒たちのそれと同等の権威を持っているわけではなく、誤ることもありえます。しかし、上記のような枠組みを意識することで、解釈の暴走をかなりの程度防ぐことができると思われるのです。実際、健全な福音的教会形成のためには、人々に上記のような神学的枠組みを教え、教会の共同体的コンテクストの中で聖書を読む習慣を身につけさせることの方が、歴史的・文法的釈義の訓練(これも有益ですが)を行うよりもはるかに重要だと私は考えています。

上の神学的枠組みのうち、キリスト論的な枠組みについては既に述べましたが、ここではもうひとつの重要なポイントである救済史的枠組みについて述べていきます。実際、上のリストのうち、最初の救済史的確信は、その他の要素をすべて貫く縦糸のような最重要の要素とも言えるかもしれません。使徒たちは唯一の神による万物の創造、人類の堕落、イスラエル、イエス・キリスト、教会、そして終末における万物の再創造(更新)といった、歴史に対して神が持っておられるご計画の全体像と、今自分たちがその中でどのような時代に生き、どのような結末に向かって進んでいるのかということをしっかりと把握した上で、彼らは聖書を読んでいたと思われます。これはまさに現代の私たちも取るべき解釈学的態度にほかなりません。

このような救済史的な聖書解釈のアプローチは多くの人々によって採用されていますが、おそらく最も有名なのは近年日本でも名を知られるようになってきたN・T・ライトのものではないかと思います。彼は聖書全体のナラティヴ(物語)を五幕ものの未完の劇にたとえています。最初の四幕は1. 創造、2. 堕落、3. イスラエル、4. イエス・キリストであり、劇の脚本(聖書)は、ここまでの部分と、最終幕の最初の部分(初代教会)だけが完成しており、あとは結末(終末)のラフスケッチのみが残されている、と考えます。

さて、ライトによると現代の私たちはこの初代教会と終末の間の部分を演じる役者として舞台に立っています。ところが私たちの演じるべき部分の脚本は未完であるため、私たちはこれまでの劇のストーリー展開とその終わり方を熟知した上で、今の場面にふさわしい演技を即興improvisationで演じていかなければならない、と言います。従って、即興とは(ジャズの即興演奏がそうであるように)あらかじめどのように行うかは一通りに決められているわけではありませんが、だからといって単なるでたらめではありません。ライトは、現代の私たちはこのようにして聖書を読み適用すべきだ、というのです。

これまでこのシリーズで論じてきた内容に即して言うと、私たちが新約聖書における使徒たちの聖書解釈に倣うということは、最終幕の第一場(初代教会)を演じた先輩役者たちがどのように最初の四幕の内容に基いて即興演技を行ったかを学ぶということにほかなりません。しかし、ここでもまた、私たちは使徒たちの台詞や小道具(たとえばユダヤ的解釈法など)をそのままコピーするのではなく、現代にふさわしいやり方で、この劇を進行させていく必要があるのです。

使徒行伝20章で、エルサレムに向かおうとするパウロは、途中のミレトにおいてエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、彼らに最後のメッセージを伝えますが、その中で彼は、エペソで行った3年間の奉仕を通して、彼は人々に「神のご計画の全体」をあますところなく伝えたと言いました(25節、新改訳)。「神のご計画の全体」とは何でしょうか?前後の文脈からすると、その内容は福音(24節)と同義であり、罪の悔い改めとイエスに対する信仰(21節)を含んでいますが、それにとどまらず、より広い神の国のメッセージ(25節)を意味していると思われます。

パウロが神のご計画の全体を伝えたという時、3年もの間来る日も来る日も「主イエスを信ずれば罪が赦されて永遠のいのちが与えられる」というメッセージを繰り返していたわけではないと思います。そうではなく、彼は聖書の全体から、人類の歴史における神のご計画の展開について教え、エペソのクリスチャンたちがその中で今どのような段階に生きており、やがて来る終末への希望を持ちつつどのように生きていくべきかを詳しく語り聞かせていたに違いないのです。パウロの手紙における旧約聖書の重要性からして、彼が創設した諸教会では、異邦人出身のクリスチャンであっても、旧約聖書の内容をしっかりと身につけるように指導がなされていたはずです。そして、そのような神の物語をエペソ人たちが自分たちの物語として血肉化するまでには、3年の年月が必要だったのかもしれません。

現代の私たちも、時間をかけて「神のご計画の全体」と、その中での自分たちの立ち位置を体得することによってのみ、聖書は正しく読むことができるようになるのだと思います。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(9)

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前回の結論は、歴史的・文法的方法に必ずしもとらわれない使徒たちの聖書解釈法に、現代の私たちも倣うことができるはずだ、ということでした。

このように釈義の概念を拡張することによって得られる一つの利点として、学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈の間の乖離が解消(あるいは緩和)される可能性があります。

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2000年の夏、念願の米国留学が実現し、期待と不安に胸を膨らませながら、私は神学校の最初のチャペルに出席しました。そのチャペルで説教壇に立った教授が、大体次のような内容のことを私たち学生に話されました。

聖書には二種類の読み方がある。一つはディヴォーション的読み方で、もう一つは学問的読み方である。皆さんはこれから神学校で聖書を学問的に、体系的に学んでいくことになる。それはとても大切な学びだが、その一方で皆さんはデヴォーション的に聖書を読んでいくことも決して忘れてはならない。

学問的な聖書の読み方とディヴォーション的な読み方の両方を大切にしなければならない。このメッセージは、神学を学び始めたばかりの私の胸に深く刻み込まれ、その後学びを続けていく中でも私の霊性を養うのに大きな支えとなりました。しかし、二校目の神学校に進むことが許され、学問的にいよいよ精緻な聖書解釈の学びを続けていくうちに、自分の中でこの二種類の聖書の読み方をどのように統合して行ったらよいのか、という疑問が頭をもたげてきたのです。

福音主義に立つ多くの教会や神学校では、聖書を学問的に釈義だけでなく、ディヴォーション的にも読む(「神が聖書を通して今日私に何を語られているのか」を求めて読む)ことが推奨されています。しかし、この二つの読み方には通常明確な区別が付けられており、しかも各クリスチャンの信仰生活において学問的な解釈とディヴォーション的な解釈とをどのように橋渡ししていったらよいのかが明らかに語られることは少ないように思います。

ここで、「ディヴォーション的な読み方」というのは、福音派の解釈学のクラスで教えられる「適用」とは異なることに注意しなければなりません。解釈学のクラスでは、まずオリジナルの歴史的・文化的コンテクストにおいて聖書が「意味したこと」を「釈義」し、それに基づいて、同じテキストが現代の私たちに対して何を「意味している」かを明らかにします。これが解釈学における「適用」です。

しかし、大多数のクリスチャンが日々のディヴォーションで聖書を読む時には、該当箇所の歴史的・文法的釈義に基づいて聖書記者の意図した意味を確定し、それを現代の歴史的・文化的コンテクストに適用するといった手続きを踏んだ上で、自分に対する個人的な神の語りかけを受け取っているわけではありません。人々はもっと直接的に聖書のテキストを今の自分に対する「神のことば」として読んでいるのです。福音派の一部の教会で語られる、救いや召命の「みことばが与えられる(示される)」という概念もこれに近いと言えるでしょう。

そのようにして受け取られる聖書の「意味」は、歴史的・文法的釈義によって明らかにされる「オリジナルの意味」とは必ずしも一致しません。では、そのような読みは主観的な読み込み(eisegesis)として排除されるべきなのでしょうか?ところが、多くの場合、新約記者たちの聖書の読み方は、神学者による歴史的・文法的釈義よりも、大多数のクリスチャンが日常的に行っているディヴォーション的な読み方に近いように思えるのです。

1939年6月26日、当時ユニオン神学校の招きでアメリカに来ていたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが聖書を読んでいた時、彼は2テモテ4章21節に目をとめました。彼はそこに記されていた、「冬になる前に、急いできてほしい。」という言葉を自分に直接適用して、危機的状況にある祖国ドイツに帰る最終的決断を下したのでした。彼は日記にこう書いています。

『冬になる前に、急いできてほしい』―これをもし僕が自分に言われたことだとしても、それは聖書の誤用ではない。神がそのために恵みを賜わりさえすれば。

ボンヘッファーの聖書解釈は、今日の福音主義の釈義家からすれば、まったく主観的な読み込みにすぎません。彼は学問的な聖書釈義の訓練を受けた第一級の神学者でした。しかし、彼は祖国と自分の命運を左右する危機的な状況にあって、この聖句が自分に直接語りかけてくるのを聞いたのです。米国の新約聖書学者リチャード・ヘイズRichard Haysはこの時のボンヘッファーについて、このような個人的・直接的な聖書の適用は、パウロによる聖書の扱いに似ていると述べています(Echoes of Scripture in the Letters of Paul)。

新約時代の使徒たちは、現代の福音主義教会のように、学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈を区別することをしていません。今日の福音主義教会もまた、このような釈義の分裂状態を解消する方法を模索していく必要があると思われるのです。では、具体的に私たちはどのように聖書を読んでいくべきなのでしょうか?

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(8)

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前回の結論は、新約記者たちの聖書解釈法には、旧約記者の意図した意味を超える「より完全な意味」を読み取る側面があった、というものでした。

先に進む前に、二つほど確認しておきたいことがあります。

まず、私は歴史的・文法的方法の有効性を否定しているのではありません。私自身今でもそれを用いて釈義していますし、自分の学生にも教えています。ただ、このシリーズで訴えたいのは、歴史的・文法的釈義は聖書釈義の唯一の妥当な方法ではない、ということです。

また、私は新約聖書における旧約引用のすべてが引用元の意図された意味を超えてなされていると言っているわけではありません。むしろ新約聖書における旧約引用は、引用元の文脈における意図された意味を充分にくみ取ってなされている場合が多いです。にもかかわらず、歴史的・文法的方法ではとらえきれない事例もあり、そのような「逸脱」的な事例を歴史的・文法的方法であくまでも説明しようとするアプローチに無理があるのではないか、と主張しているのです。

つまり、私がこのシリーズで目指しているのは、歴史的・文法的方法そのものの否定ではなく、それへの過度の依存を戒め、歴史的・文法的方法を包含しつつも、より自由で豊かな聖書の読み方の可能性を探ることであり、新約聖書はまさにそのような聖書解釈のモデルを提供しているのではないかと考えています。

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さて、以上見てきたように、新約記者たちの聖書解釈法は、現代福音主義の標準的釈義方法である、歴史的・文法的方法の枠に収まるものではないとすると、現代の私たちはどのように聖書を読むべきでしょうか?基本的には3つのアプローチが考えられます:

  1. 一見どのように奇妙に見えようと、使徒たちはやはり現代の歴史的・文法的方法に相当する解釈法を用いていたことを示そうとするもの。
  2. 使徒たちの聖書解釈は歴史的・文法的方法に縛られていなかったことを認めるが、そのような解釈は霊感を受けた聖書記者にのみ許された特権であって、現代の私たちは彼らの方法に倣うことは許されないとするもの。
  3. 使徒たちの聖書解釈は歴史的・文法的方法に縛られていなかったことを認め、なおかつ現代の私たちも彼らの解釈学的態度に倣うことができる、つまり新約聖書は解釈学的方法論においても規範的である、とするもの。

従来の福音派の聖書学では、1.および2.のアプローチが多かったように思います。どちらの場合も、福音主義釈義の規範的方法論としての歴史的・文法的方法の地位は保証されることになります。しかし、これまで見てきたように、1.のアプローチには無理があります。

2.のアプローチはどうでしょうか。福音派の聖書学者の中には、使徒たちが歴史的・文法的釈義を超えた解釈法を用いていることを認めながらも、そのような方法は霊感を受けた聖書記者たちにのみ許された特権であって、今日の私たちがそのような方法を模倣することは許されないと論じる人々がいます。 しかし、このような議論は「使徒たちの解釈法が本来は正しい釈義でないにもかかわらず、霊感を受けた使徒であるが故に許された」という含みがあるため、受け入れられません。使徒たちが霊感を受けていたのなら、なおさら正しい釈義方法を用いていたと考えるべきではないでしょうか。この問題に霊感が関わってくるのは、旧約テキストの「より完全な意味」を使徒たちは霊感によって正確に把握したという点においてであって、使徒たちの「誤った」解釈法が聖霊によってお墨付きを得たということではないのです。

私は現代福音主義の釈義は3.の可能性も真剣に考察すべきではないかと思います。つまり、新約聖書に記録されている使徒たちの解釈法は、その釈義の結果のみならず、方法論としても私たちの規範となり得るのではないでしょうか。

もちろん、これは現代の私たちの解釈が使徒たちと同レベルの正確さを持っているということではありません。霊感を受けていない私たちの解釈は使徒たちのそれとは違い、誤りを犯す可能性は常にあります。しかし、一般的原則としては使徒たちの解釈法に倣うことができるし、またそうすべきではないかと思うのです。聖書自体に見られる釈義の方法が現代福音主義の標準的な釈義の方法と異なるとしたら、私たちが自らの方法論の有効性を(少なくとも部分的には)疑い、使徒たちの釈義方法から学ぶことによって、自らの解釈学を修正していくことこそ、本来の福音主義(聖書信仰)の精神に沿ったものではないでしょうか。

ここで誤解を避けるために付け加えますと、私は使徒たちの具体的釈義方法(ユダヤ的解釈法など)を杓子定規に模倣すべきだと言っているのではありません。使徒たちが採用したユダヤ的解釈法は彼らが生きた歴史的文化的コンテクストに特有の要素を多く含んでおり、彼らと異なる歴史的文化的コンテクストに生きる私たちが、彼らの解釈法を形式だけ真似たとしても、あまり意味はないと思います。むしろ私たちが学ぶべきなのは、時には聖書記者の意図した意味を超えて語りかける神のことばに耳を傾けようとする使徒たちの解釈学的態度なのです。

次回は、このように釈義の方法論を拡張することから得られる利点について考えたいと思います。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(7)

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前回までの記事では、新約聖書における旧約聖書の解釈は、現代福音主義の標準的釈義方法である歴史的・文法的方法の枠に収まりきらないものである(あるいは少なくともそう見える)ということを見てきました。私たちはこのような「現象」をどう考えたら良いのでしょうか?

多くの福音派の聖書学者は、たとえ一見奇異に見えても、新約記者たちの聖書解釈法が歴史的・文化的方法と適合する(つまり彼らは旧約聖句の元来意図された意味に忠実な引用を行っている)と言うことを示そうと努力して来ました。これからもそのような試みはなされていくでしょう。私はそれらの真摯な努力を否定するものではありませんが、二つのことを指摘しておきたいと思います。

一つは、聖書自体が行っている解釈の方法が現代の私たちのそれと異なるように見える時、聖書の解釈法を私たちの解釈法に合わせることを考えるよりも、私たちの解釈法を聖書の解釈法に合わせるべきである、あるいは少なくともその可能性を検討することを怠ってはならないのではないか、ということです。この点については、このシリーズの第3回で書きましたので、ここでは繰り返しません。

もう一つは、上記のような釈義上の難題に対して提出される福音派の釈義家からの解決案は、高度に複雑で繊細な議論が多く、一般的な聖書の読者が自然に気づくものとは思えないことです。

例えば、第4回で取り上げたマタイ福音書2章15節におけるホセア書11章1節の引用の問題について、著名な福音派の旧約学者ウォルター・カイザーWalter C. Kaiser, Jr. は、霊感を受けたホセアは意図的に「わが子」という単数名詞を用いて、イスラエルの民を集合的に表すと同時に、やがて来るべきメシアも表した。なぜなら、イスラエルの民がエジプトから脱出した時、その中にはやがて来るべきメシアの先祖も含まれていたからである、と説明します。つまりホセアが11章1節を書いた時に、彼は来るべきメシアについて意図して書いており、マタイはその意図された意味を正しく読み取ったというのです。(カイザーの解釈についてさらに知りたい方は、Three Views on the New Testament’s Use of the Old Testamentを参照ください。)

カイザーの解釈にどのくらい説得力があると感じるかは人それぞれだと思いますが、既に述べたように、マタイ以前のユダヤ教でホセア書11章1節がメシア的に解釈されたことがなかった事実からすると、このような解釈が「誰でも思いつく自然な解釈」でないことは確かだと思います。むしろ、あまりに人工的で複雑な解釈は、かえって解釈者が(使徒たちは現代の福音主義者と同じ解釈学的方法論を持っていたはずだという)自分の先入観を聖書テキストに読み込んでいる結果ではないかという疑念を生じさせるように思います。

この問題を議論する際には、「この箇所はこのように解釈すれば説明できる」というだけでは不十分です。同じ聖書の箇所をありとあらゆる違った方法で解釈することが可能だからです。むしろそこで考えなければならないのは、「どのような解釈の枠組み(パラダイム)からアプローチしたほうが、この箇所だけでなく他の箇所も含めて多くの現象を無理なく理解できるか?」ということです。

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天文学の例を挙げて説明します。天動説が主流であった時代には、地球は宇宙の中心に固定されていて、その周りを天球が回転していると考えられていました。これは確かに、人々が日頃目にしている現象(大地は動かず、星々が動いているように見える)をうまく説明していましたが、いくつかの問題も含んでいました。その一つは、惑星の動きです。惑星は他の星々と同じようには動かないばかりか、時として逆戻り(逆行)するように見えることさえあったのです。この現象を説明するために、学者たちは周転円のような補助的な理論を考えだして、天動説というパラダイムを修正していきました。このように、現行のパラダイムに問題が生じた時には、いろいろな補助理論を使ってそこに「パッチを当てる」ことで、パラダイムを保持することができます。

しかし、このような問題が数多く生じてくると、その都度パッチを当てているだけでは間に合わなくなります。そもそもパラダイム自体が間違っているのではないかと考えられるようになり、すべての現象をすっきりと説明できる新しいパラダイムが模索されていきます。天文学の場合では、それは地動説でした。ここで重要なのは、天動説でも地動説でも惑星の逆行という同じ現象を説明できたということです。ではなぜ地動説の方が優れていると考えられたかというと、地球や他の惑星が太陽の周りを回っていると考えると、天動説の周転円のような余計な補助理論を用いなくても、惑星の逆行現象を無理なく説明できたからなのです。

新約聖書における旧約聖書解釈という問題でも同じように考えることができます。そこには、新約聖書の中で引用された旧約の聖句が、引用元の文脈における、旧約記者の意図したものとは異なる意味で用いられているように見えるという「現象」があります。これを説明するのにいろいろな方法が取られていますが、難解な箇所を説明するのに、あまりにも巧妙で複雑な解釈がたびたび考案されなければならないような解釈のパラダイムは見直しが必要になってくるのではないかと思います。

私は地動説が天動説を葬り去ったように、歴史的・文法的方法をまったく放棄すべきだと言っているのではありません。しかし、それだけですべてを説明しようとするのは賢明でないと考えています。新約記者たちの聖書解釈法には、旧約記者の意図した意味を超える「より完全な意味」を読み取る側面があった、というのが私の理解です。

さて、もし使徒たちの聖書解釈法に、歴史的・文法的方法には収まりきらない部分があるとしたら、それは現代の私たちの聖書解釈にどのような影響を与えるのでしょうか?私たちは使徒たちの解釈方法に倣って、彼らと同じように聖書を読むべきでしょうか?次回はこの問題について考えたいと思います。

(続く)

 

使徒たちは聖書をどう読んだか(6)

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それでは、初代教会のクリスチャンたちの聖書解釈法はどのようなものだったのでしょうか?

使徒たちがユダヤ人たちに対してイエスがキリストであることを旧約聖書から論証し、彼らの議論は少なくともある程度の説得力を持っていたことから、彼らの解釈は当時のユダヤ人たちの旧約聖書理解と何らかの連続性を有していたということは確かです。

ただし、当時のユダヤ的釈義法は今日の歴史的・文法的釈義とはかなり異なるものでした。当時ももちろん旧約聖書の字義的な解釈法(今日で言う歴史的・文法的方法に近いもの)は存在しましたが、それに加えてミドラシュ、ペシェル、アレゴリー的解釈といった方法で、字義的な意味を超えた意味を旧約テキストに読み取る試みがなされていました。

ミドラシュとはラビによる聖書解釈(注釈)で、聖書の字義通りの意味よりさらに深い意味を探っていく解釈法です。ミドラシュにはいろいろな解釈法があります。たとえばヒレルという高名なラビ(パウロの師であったガマリエルは彼の学派に属していました)は7つの解釈原則を唱えました。その一つにカル・ヴァホメル(「小から大」。原義は「軽いものと重いもの」)という原則があります。これはより重要でないことがらに当てはまる原則は、より重要なことがらにはさらによく当てはまる、という解釈原則です。ローマ書5章15-21節でパウロはこのカル・ヴァホメルを用いています:ひとりの人アダムの違反によって罪と死が人類に入ってきたとすれば、ひとりのイエス・キリストによる義といのちはそれにもましてすべての人に満ち溢れる、ということです。

ペシェルは死海文書で有名なクムラン教団で多用された解釈法で、旧約聖書のテキストが、世の終わりに生きる自分たちの共同体に直接向けて書かれたものとして解釈する方法です。新約聖書の中では、このシリーズの第4回でとりあげた、マタイ2章14-15節におけるホセア書の引用はペシェル的解釈と考えられます。

アレゴリーは「寓喩」とも呼ばれ、表面上の字句とは異なる内容を意味する表現技法ですが、本来アレゴリー的でないテキストの言葉の裏に別の意味を読み取っていく解釈法を「アレゴリー的解釈」と呼びます。ガラテヤ書4章21-31節で、パウロがハガルをシナイ山及び地上のエルサレム、サラを天上のエルサレムに結びつけているのはその一例です。

新約聖書におけるユダヤ的解釈法についてこれ以上詳しく述べることはしませんが、結論としては、基本的に使徒たちの釈義方法は当時のユダヤ的解釈法の範疇にあったと考えることができます。これはある意味で当然のことです。聖書は特定の歴史的・文化的状況の中に生きた実在の人々によって書き記されました。1世紀のユダヤ教の中から出現したキリスト教の使徒たちが、当時のユダヤ的な聖書解釈法の強い影響を受けていたと考えるのは決して不思議なことではありません。

他方で、彼らの解釈には当時の一般のユダヤ的解釈法とは決定的に異なる「新しさ」がありました。それは端的に言えばイエス・キリストという要素です。使徒たちは十字架につけられ死んで復活したナザレのイエスがキリスト(メシヤ)であり、旧約聖書のすべてはこのイエスを指し示しているという確信に基づき、そのような視点から旧約聖書を読んでいったのです。

このような読み方は「キリスト中心的Christocentric」あるいは「キリスト論的Christological」解釈と呼ばれることが多いですが、米国の旧約聖書学者ピーター・エンズPeter Enns「キリスト目的的Christotelic」解釈という表現を提案しています。 これは旧約聖書の全体がキリストの死と復活というクライマックスに向かっているという終末論的前提に立って旧約聖書を解釈していこうとする方法です。

エンズの主張で重要なポイントは、「キリスト目的的」な解釈は旧約聖書の歴史的・文法的釈義だけからは導かれないということです。使徒たちは旧約聖書が導く救済史のクライマックスがイエス・キリストであることを既に知っていたが故に、特定の旧約テキストがイエスを指し示していることが(たとえ歴史的・文法的釈義からは導けなくても)分かったというのです。このような主張は、旧約聖書の歴史的・文法的釈義の有効性を制限するものであるため、当然のごとく福音派の聖書学者の間で議論を巻き起こしました。

エンズの主張をどう受け止めるかは人によって様々な立場があるでしょうが、この問題は結局、新約記者が見いだした旧約テキストの「意味」には、旧約記者がオリジナルの歴史的文脈で意図した「意味」以上のもの、「より完全な意味sensus plenior」が含まれるのか、ということに帰着します。新約記者たちの解釈法が歴史的・文法的釈義と同等のものであったとするならば、「より完全な意味」を考える必要はありません。しかし、使徒たちがキリスト目的的解釈を行ったのだとすれば、その可能性を考えざるを得ません。つまり、使徒たちが旧約テキストに見いだした「意味」は旧約記者たちの意図した「意味」を超えたものであったということになります。

歴史的・文法的方法の観点からすれば、これは恣意的な読み込み(eisegesis)であり、受け入れられない解釈法です。しかし、聖書の究極の著者は神であるとする福音主義的聖書観からするならば、旧約聖書のあるテキストが人間の記者の意図を超えた意味を新約時代に持つように神が意図されたと考えることは決しておかしなことではありません。そうなると問題は、聖書自体に見られる現象は、このような「より完全な意味」の存在を示唆しているかどうか、ということになります。

新約聖書のテキストに虚心に耳を傾けて行くなら、その答えは然りであると個人的には考えています。言い換えれば、新約聖書は歴史的・文法的方法に代表されるような解釈学的方法論だけが聖書解釈において規範的なのではないことを示しているのです。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(5)

歴史的・文法的釈義は基本的には「聖書を一般の書物と同じように読む」方法です。理論的には、しかるべき手続きを踏んで聖書テキストの文学的分析と歴史的分析を行いさえすれば、誰でも「著者の意図した唯一の意味」を見いだすことができるはずです。したがって、使徒たちと同時代あるいはそれ以前のユダヤ人たちの中に、旧約聖書の綿密な釈義を通してキリストの到来について正確に理解していた者が出てきても不思議ではないはずです。しかし実際にはそのようなことは起こりませんでした。それだけでなく、イエスの弟子たちでさえ、イエスが復活されるまでは旧約聖書がキリストについて書いてあることを完全には悟ることができなかったのです。これはなぜなのでしょうか?

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(Abraham Bloemaert – The Emmaus Disciples

ルカ福音書に記録されているエマオの途上の出来事は、この問題を考える上で非常に重要な箇所です。復活後のイエスが、エルサレムからエマオに向かっていた二人の弟子に現れ、彼らの無理解を責めて言われました:

 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。(ルカ24章25-27節)

さらに、他の弟子たちにも現れたイエスは言われました:

それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」(44-47節)

これらの箇所から二つの重要なポイントが明らかになります。第一に、イエスによると、旧約聖書の全体はご自身を指し示している、つまり、旧約聖書をキリスト論的に理解することが正しい解釈法だということです。

それに劣らず重要なことは、このことについて受難前のイエスから聞かされていたにもかかわらず、復活後のイエスによって心を開かれるまで、弟子たちはそのことを悟らなかったということです。弟子たちが旧約聖書の本当の意味を悟るには、何か決定的な要素が欠けていたのです。

ここに、使徒たちの基本的な聖書観を理解する鍵があると思われます。使徒たちは旧約聖書を正しく釈義した結果、イエスがキリストであることを確信したのではありませんでした。そうではなく、まずイエスに出会うことによって彼らは彼がキリストであることを確信し、その結果、イエスの出来事を通して旧約聖書を正しく解釈することができるようになったのです。

パウロも同様に、ダマスコの途上で復活のキリストに出会うまでは、旧約聖書がイエスについて語っていることに気づくことはありませんでした。彼は詳細な聖書研究の結果イエスがキリストであるという結論に達したのではなく、まずキリストと出会う体験があり、十字架につけられたナザレのイエスが神の子であるという確信に達して後に初めて、旧約聖書をキリスト論的に読むことができるようになりました。そのようなキリスト論的再解釈に基づいて、彼はイエスがキリストであることを旧約聖書から論証するようになったのです。

たとえばピシデヤのアンテオケにおける説教の中で、パウロはイエスが罪に定められたのは「安息日ごとに読む預言者の言葉」の成就であったと言います(使徒13章27節)。しかしこのような預言の解釈は、ダマスコ体験以前のパウロには考えも及ばなかったことであったに違いありません。

つまり、使徒たちにとっては、旧約聖書の釈義よりも、イエス・キリストとの出会いが優先していたということです。これは決して使徒たちが旧約聖書を軽視していたということではなく、彼らのキリスト体験というレンズを通して旧約聖書を読むことを通して、初めて旧約聖書が正しく(つまりイエスが教えられたような方法で)解釈できた、ということなのです。

しかし、ここで大きな解釈学的問題が生じます。このようなイエスや使徒たちの旧約聖書理解は、旧約記者たちが意図した、オリジナルの文脈における意味を忠実にとらえるものだったのでしょうか?言い換えれば、使徒たちの聖書釈義は現代でいう歴史的・文法的方法に則ったものだったのでしょうか?

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(4)

釈義の方法論としての歴史的・文法的方法の妥当性を測る一つの方法は、それを聖書自体に記録されている聖書解釈の実例と比較することです。そこで今回は、新約聖書の中で旧約聖書がどのように解釈されているかについて見ていくことにしましょう。

新約聖書の中にはおびただしい数の旧約聖書への言及があります。それははっきりとした引用の形をとることもあれば(たとえばルカ3章4節「預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおり」やマタイ4章4節「~と書いてある」)、旧約聖句の引用であることを明示しないで言及する(「引喩allusion」と言います)こともあり、さらに微細な「こだまecho」の形を取ることもあります。議論を簡単にするために、 ここでははっきりそれと分かる形で旧約聖句が引用されているケースに限って話を進めることにします。

さて、歴史的・文法的方法が唯一の正しい「聖書的」解釈法であると仮定すると、新約記者たち(あるいは新約聖書の中で旧約聖書を引用しているイエスおよびその弟子たち)が旧約聖書を引用する時にも、同じ方法を用いたと考えるのが自然です。つまり、新約記者たちは旧約聖書の文学的・歴史的コンテクストにおける、旧約記者によって意図された意味を正確に把握し、それに基づいた引用を行っているはずだ、ということになるのです。

ところが実際には、新約記者たちの旧約釈義は、そのような期待とは大きく外れているように思える場合があるのです(もちろん、いつでもそうだというわけではありません)。このような現象をどう説明するべきか、福音派の聖書学者の間でも意見が分かれているのが現状です。

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(フラ・アンジェリコ「エジプトへの逃避」)

 この問題を議論する時によく引用されるのが、マタイ福音書2章14-15節です。

そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

ここは有名なイエス・キリストの降誕物語の中で、ヨセフとマリヤがヘロデ大王の手を逃れるため、幼子イエスを連れてエジプトに下る箇所です。福音書記者マタイはこの出来事が、旧約聖書の預言の成就であったと言うわけですが、その引用元はホセア書11章1節であることが分かります。

わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。

ここで問題となるのは、ホセア書の文脈では11章1節は過去におけるイスラエルの出エジプトの出来事について述べられているのであって、未来に出現するメシヤについて述べているのではないということです。しかも11章の大部分では、イスラエルはエジプトから導き出された後も主に反抗し続けた民として否定的に描かれています。マタイはどのような意味でイエスにおいてホセア書の聖句が「成就」したというのでしょうか?

マタイによるホセア書の聖句の扱いについて、学者の意見は大きく4つに分けることができます:

  1. マタイはホセア書の聖句がイエスについて予言していると間違って解釈した。
  2. マタイはホセア書の聖句が、ホセアの意図を超えたイエスについての予言であることを神からの特別な啓示によって悟った。
  3. マタイはホセア書に描かれているイスラエルの姿は、イエスの予型であると考えた。
  4. マタイはホセア書のより大きな文脈の中で語られている、将来の新しい出エジプト(11節参照)を成就したのがイエスであったと考えた。

1.は新約聖書記者が誤りを犯したということになり、福音主義の立場では受け入れられません。2.はいわゆる「より完全な意味sensus plenior」と呼ばれるもので、聖書のテキストには、実際にそれを書き記した聖書記者の理解を超えたより深い意味が神によって込められている、という考え方です。このような立場はローマ・カトリック教会でよく見られますが、ふつう歴史的・文法的方法では採用されない考え方です。

プロテスタント福音派では、3.または4.の立場を取ることが多いように思います。3.の考え方は「予型論typology」と呼ばれるものです。これは、神による人類救済の歴史(救済史)の中で、異なる時代に現れた人物・出来事・制度などを互いに密接な関係にあるものとしてとらえる解釈法で、より古い時代のものは後の時代の対応物の「予型type」と呼ばれ、新しい時代の類似事項はこの予型を何らかの意味で完成するものと考えます。マタイ2章15節の例で言えば、ホセアが述べているような、モーセに率いられてエジプトを出て、カナンの地に導かれたイスラエルは、エジプトに下り、そこからイスラエルの地に帰ってきたイエスの予型である、ということになるわけです。

予型論的解釈は福音派がよく用いる解釈法ですが、厳密に言うならばこれも歴史的・文法的方法に属する解釈法ではないように思われます。なぜなら、新約記者は旧約テクストの中に、救済史の中で神がどのように行動されるかというパターンを見ることはできますが、歴史的・文法的釈義によって明らかにされる旧約テキスト自体の意味(著者によって意図された意味)にはそのパターンが将来どのような形で成就されるのかは必ずしも含まれていないからです。

では、最後の4.はどうでしょうか。これはマタイはホセア書のより大きな文脈を意識していたという解釈です。要するに、ホセア書のより広い文脈に照らしてじっくりと旧約のテキストを釈義すれば、ホセアの意図した「意味」とマタイの読み取った「意味」は一致する、という考え方で、これは歴史的・文法的方法と完全に合致します。この解釈が一番適切なのでしょうか?

しかしここで大きな問題が生じます。ホセア書11章1節はユダヤ教の釈義においては、マタイ以前も以後もメシア聖句として解釈されたことはなかったのです。歴史的・文法的方法によれば、適切な釈義の方法を用いれば、誰が解釈しても著者の意図した意味を特定することができるはずですから、ユダヤ人の中に、マタイと同じようにホセア書を解釈した人がいたとしてもおかしくありません。それなのに、なぜマタイだけがこのホセア書のテキストにメシヤ的な「意味」を見いだすことができたのでしょうか?

このことは、使徒たちが(そしてイエスご自身が)持っていた基本的な解釈学的態度がどのようなものであったかという問題とつながっていきます。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(3)

前回の投稿で、福音派の標準的な聖書解釈法である「歴史的・文法的方法」について概観しました。歴史的・文法的方法の基本的な前提は、「聖書のテキストには、聖書記者が意図した唯一の意味が内在している」というものでした。それをできるだけ正確に取り出すこと(釈義exegesis)が、聖書解釈の目的であったわけです。

歴史的・文法的方法では、聖書が書かれた当時に「意味したこと」と、聖書が現代の私たちに「意味すること」を区別することが重視されます。聖書が意味したことを明らかにするのが釈義の務めであるなら、聖書が現代の教会に対して意味することを考える作業は「適用」と呼ばれます。

歴史的・文法的方法によると、聖書が「意味したこと」は聖書記者の意図した意味と同一であり、従って一つしかありません。一方、聖書が「意味すること」は、時代や文化によって様々であり、一つとは限りません。しかし、聖書が「意味すること」はそれが「意味した」唯一の内容から導かれるべきであり、後者に依存するものでなければならないとされます。つまり、聖書記者が元々意図した意味を離れて勝手に適用を考えてはならない、ということになります。

さて、私は神学校で歴史的・文法的方法について学び、また自分でも教えてきましたので、この方法の有益性については十分に承知しています。にもかかわらず、私にはずっとひとつの疑問がつきまとっていました。それはこういうことです:

歴史的・文法的方法は、果たして「聖書的な」唯一の解釈方法なのだろうか?

これは歴史的・文法的方法を当たり前のように受け入れてきた福音派のクリスチャンにとってはショッキングな表現かもしれませんので、次のように言い換えてみます:

聖書記者が他の聖書箇所を解釈する時、彼らはそれを歴史的・文法的方法に則って行ったのだろうか?

このシリーズではこれから、使徒時代のクリスチャンたちの聖書解釈法について、特に新約聖書における旧約聖書の引用を手がかりに考えていきたいと思います。果たして、使徒たちは歴史的・文法的方法(もちろん当時はそのような呼び方はしなかったでしょうが)に従って旧約聖書を読んでいたのでしょうか?

もし歴史的・文法的方法が「聖書的な」聖書解釈法であるなら、当然聖書自体の中でもそのような解釈法が用いられているはずです。逆に、もしそうでないなら、現代の私たちは自らの聖書解釈法を見直す必要が出てくるかもしれません。

聖書自体に見られる釈義の方法が現代福音主義の標準的な釈義の方法と異なるとしたら、私たちが自らの方法論の有効性を(少なくとも部分的には)疑い、使徒たちの釈義方法から学ぶことによって、自らの解釈学を修正していくことこそ、本来の福音主義(聖書信仰)の精神に沿ったものであると思います。

私たちが使徒たちの聖書解釈法から学ぶべき理由はいくつかあります。一つは、私たちの釈義の模範を聖書自体に求めるのは極めて自然な発想だということです。福音主義が聖書は全ての信仰と実践の規範であると主張する時、その「実践」には当然聖書釈義という営みも含まれなければなりません。もし使徒たちの聖書解釈法が現代福音主義の聖書解釈法と異なる部分があるとすれば、前者を後者に合わせるのではなく、その逆を行わなければならないのではないでしょうか。

また、使徒的聖書解釈の重要性は歴史的・文法的方法そのものからも導き出せます。歴史的・文法的方法の主要な前提は、釈義は聖書が元々生み出された歴史的コンテクストを重視しなければならないということでした。その論理を個別のテクストだけでなく、聖書釈義の方法論自体にも適用するならば、もっと使徒時代の解釈学的コンテクストにも注意を向けていく必要が出てくるはずです。

福音主義の聖書解釈学では、しばしば「解釈学的らせん」ということが言われます。私たちは聖書を解釈する時、いかなる世界観(先入観)もなしに客観的に読むことはできません。しかし、私たちの世界観は聖書自体によって聖書的な世界観へと次第に修正され、修正された世界観を持って聖書を読むと聖書がさらに正確に理解でき、それはさらなる世界観の修正へと導いて行きます。このプロセスを繰り返していくうちに、私たちの聖書理解はらせん運動を描いて真理に近づいていくというのです。

解釈学的らせん

このような「解釈学的らせん」を我々の持っている聖書観や釈義の方法論にも適用していく必要があります。私たちは自分の釈義的方法論が最も優れたものであるという先入観を一度相対化し、聖書自体の解釈法に虚心に心を向けるべきです。同時に、私たちが使徒たちの聖書観や釈義を考えるとき、無意識に現代福音主義の聖書観や釈義の方法論を読み込んでいないか、今一度反省してみる必要があるのではないでしょうか。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(2)

前回の投稿で、「歴史的・文法的方法」という聖書解釈法について書きました。これは読んで字のごとく、聖書の各文書が書かれた歴史的背景と、原語(ギリシア語・ヘブル語・アラム語)テキストの文法的分析とを考慮して、聖書記者がオリジナルの読者に伝えようと意図したメッセージを読み取ろうとする方法ということです。

聖書はある日突然天から降ってきた書物ではありません。何千年にもわたる歴史の中で、さまざまな時代や場所に生きた何十人もの人々が書き記した書物のコレクションです。もちろん、福音主義的クリスチャンは、聖書の究極的な著者は神ご自身であると信じているわけですが、一つ一つの聖書の書巻は特定の歴史的状況の中で、実在の人間である聖書記者によって、ある特定の読者層に向けて書かれたものです。そういう意味で、聖書は「神のことば」であると同時に「人のことば」でもあるのです。クリスチャンは時として聖書の神的側面を強調するあまり、その人間的側面(つまり、聖書の各巻が具体的な歴史的状況の中で生み出された文書であること)を忘れてしまうことがありますが、それでは偏った読み方になってしまいます。

歴史的・文法的方法は、聖書の人間的側面に注意を払います(これは必ずしも神的側面を無視するということではありません)。それは簡単に言ってしまえば、聖書が書かれた当時の具体的な歴史的状況の中で、聖書記者と読者の間に生じたコミュニケーションを再現しようとする試みです。つまりそれは、私たちの目の前にある聖書のテキストには、著者が当時の読者に伝えようと「意図した意味」が何らかの形で内在していると考え、それをできるだけ正確に取り出そうとする営みなのです。歴史的背景や文法の分析はそのための手段です。

このことを分かりやすく表現すると、聖書記者が伝えたいメッセージを「冷凍」して、聖書のテキストという「箱」の中に入れ、その箱を読者に送り届けるイメージで捉えることができます。読者は箱を開けてその中に入っているメッセージを「解凍」することによって、著者が伝えようと意図した意味内容を受け取ることができるというわけです。

歴史的文法的方法

このイメージで重要なのは、いったんテキストに箱詰めされたメッセージは、そのまま箱の中に固定化された形でとどまり続けるということです。それはすぐに著者と同時代の読者によって解凍されるかもしれませんし、何千年も後になって、まったく異なる文化に生きる人間によって解凍されるかもしれません。しかし、適切な方法を用いれば、どんな時代に生きる読者であっても、著者が意図したメッセージを正確に再現することが(少なくとも理論的には)できるはずだというのが歴史的・文法的方法の考え方です。

歴史的・文法的方法の目的は、聖書テキストの中に存在しているはずの「著者によって意図された唯一の意味」を、歴史的背景と文法の分析を使って正確に取り出すことです。このように、「聖書の中に内在する意味を正確に取り出す」作業を「釈義exegesis」と言います。この反対に、本来聖書テキストの中に存在しない「意味」をテキストに「読み込む」行為(これはeisegesisと呼ばれます。exはギリシア語で「外に」、eisは「中に」という意味です)は、正しい聖書解釈法ではないとみなされます。

例えば、「黙示録9章3節以下に登場する悪魔的な『いなご』は、世の終わりの最終戦争で用いられる攻撃用ヘリコプターのことである」、という解釈があったとすると、それは黙示録のテキストの正確な「釈義exegesis」ではなく、主観的な「読み込みeisegesis」ということになります。なぜなら、ヨハネが黙示録を書いた紀元1世紀末にはヘリコプターなるものは存在しませんでしたので、そのような「意味」は、著者のヨハネにも、同時代の読者にもまったく理解不能なものですから、ヨハネが読者に伝えようと「意図した意味」であるはずがないからです。

さて、歴史的・文法的方法は、福音主義的聖書学の標準的な釈義の方法論として広く用いられ、国内外の福音派の神学校でも教えられていますが、それは理由のないことではありません。歴史的・文法的方法の利点は、聖書記者と当時の読者との間に起こったコミュニケーションを客観的に再構成しようとすることによって、解釈者の主観的な読み込みの危険性を最小限に抑えることができる、という点にあります。

言い換えれば、歴史的・文法的方法は(少なくともその理想において)客観的・科学的・合理的な聖書解釈法なのです。理論的には、適切な手順を踏んで釈義を進めていけば、誰でも著者が意図した唯一の意味に到達できる、というのが歴史的・文法的方法の考え方です。

私は歴史的・文法的方法聖書解釈の有効性を大いに認めますし、実際に神学校でも教えています。にもかかわらず、それだけが有効な聖書解釈法ではないのではないか、という疑問を持っています。なぜそう思うのか、ということについて、次回は書きたいと思います。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(1)

今月のはじめに日本福音主義神学会の全国研究会議があり、そこで発表の機会が与えられましたので、その内容を元にして、専門外の方々のためにもできるだけ分かりやすく書き直してお分ちしたいと思います。

会議の主題は「福音主義神学、その行くべき方向―聖書信仰と福音主義神学の未来―」というものでした。「福音主義神学会」という名前が付いている会ですので、「福音主義神学」について研究するのは当然なのですが、あえてこのようなテーマが選ばれた背景には、何があるのでしょうか。

「福音主義」を簡単に定義するのは難しいのですが、とりあえずここでは「聖書は誤りなき神のことばである」と信じるプロテスタントの流れであると(あえて単純化して)とらえておきます。上の主題文にも出てきた「聖書信仰」ということが重要なキーワードになります。

つまり、多種多様な教派的背景や神学的立場があっても、「聖書信仰」という一点で一致できるなら、一緒にやっていける、という緩いつながりが「福音主義」の運動であったわけです。(ちなみに、日本のキリスト教会に存在する「福音派」と「聖霊派」という二分法は、海外ではあまり見られません。ペンテコステ・カリスマ派も、広い意味での「福音派」に入れられることが多いです。)

さて、なぜ今回「福音主義神学」と「聖書信仰」が正面から取り上げられたかというと、福音主義の基盤である「聖書信仰」の理解が揺らいでいるという危機意識があるからです。会議の趣旨説明文にはこういうくだりがありました:

今日、その神学的多様性からはもともと当然のことなのではあるが、特に、この広範な広がりを持つ福音派の運動の、軸となる聖書信仰についての揺れから、福音派のIdentityが問われることが多く、福音主義神学も例外ではなくなっている。

つまり、聖書が「霊感された」「誤りなき」「神のことば」であるというのはどういう意味か、聖書はどういう性質を持った書なのか、聖書はどのように「働く」のか・・・といった、基礎的な「聖書信仰」の部分で多様な理解が見られるようになったため、その基礎の上に乗っている「福音主義キリスト教」自体のあり方が問い直されるようになったということです。そこで、もういちど原点である「聖書信仰」を見つめなおし、もし福音主義神学に未来があるなら、それはどのようなものかを探っていこうというのが今回の会議の目的だったのです。

もっと簡単にいうなら、クリスチャンが「聖書が誤りなき神の言葉である」と信じ、聖書に従って日々生きるとはどういうことか?ということが改めて問い直されているのです。これは一部の専門家だけが行う難解な(不毛な?)「神学論争」ではなく、クリスチャン一人ひとりの信仰生活に密接に関わってくることです。

さて、その中で私が発表させていただいたのは「釈義部門」、つまり聖書をどう解釈するか、を考える分野でした。現代の福音主義キリスト教会には標準的な聖書解釈法があります。それは「歴史的・文法的方法」と呼ばれるものです。(これがどういうものかは、次回説明します)この解釈方法を今一度見直してみようというのが、私の発表の論旨でした。誤解を恐れずあえて言うなら、このシリーズでは、「歴史的・文法的方法」が唯一の「聖書的」な解釈法なのか?ということを考えてみようと思います。

(続く)