使徒たちは聖書をどう読んだか(5)

歴史的・文法的釈義は基本的には「聖書を一般の書物と同じように読む」方法です。理論的には、しかるべき手続きを踏んで聖書テキストの文学的分析と歴史的分析を行いさえすれば、誰でも「著者の意図した唯一の意味」を見いだすことができるはずです。したがって、使徒たちと同時代あるいはそれ以前のユダヤ人たちの中に、旧約聖書の綿密な釈義を通してキリストの到来について正確に理解していた者が出てきても不思議ではないはずです。しかし実際にはそのようなことは起こりませんでした。それだけでなく、イエスの弟子たちでさえ、イエスが復活されるまでは旧約聖書がキリストについて書いてあることを完全には悟ることができなかったのです。これはなぜなのでしょうか?

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(Abraham Bloemaert – The Emmaus Disciples

ルカ福音書に記録されているエマオの途上の出来事は、この問題を考える上で非常に重要な箇所です。復活後のイエスが、エルサレムからエマオに向かっていた二人の弟子に現れ、彼らの無理解を責めて言われました:

 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。(ルカ24章25-27節)

さらに、他の弟子たちにも現れたイエスは言われました:

それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」(44-47節)

これらの箇所から二つの重要なポイントが明らかになります。第一に、イエスによると、旧約聖書の全体はご自身を指し示している、つまり、旧約聖書をキリスト論的に理解することが正しい解釈法だということです。

それに劣らず重要なことは、このことについて受難前のイエスから聞かされていたにもかかわらず、復活後のイエスによって心を開かれるまで、弟子たちはそのことを悟らなかったということです。弟子たちが旧約聖書の本当の意味を悟るには、何か決定的な要素が欠けていたのです。

ここに、使徒たちの基本的な聖書観を理解する鍵があると思われます。使徒たちは旧約聖書を正しく釈義した結果、イエスがキリストであることを確信したのではありませんでした。そうではなく、まずイエスに出会うことによって彼らは彼がキリストであることを確信し、その結果、イエスの出来事を通して旧約聖書を正しく解釈することができるようになったのです。

パウロも同様に、ダマスコの途上で復活のキリストに出会うまでは、旧約聖書がイエスについて語っていることに気づくことはありませんでした。彼は詳細な聖書研究の結果イエスがキリストであるという結論に達したのではなく、まずキリストと出会う体験があり、十字架につけられたナザレのイエスが神の子であるという確信に達して後に初めて、旧約聖書をキリスト論的に読むことができるようになりました。そのようなキリスト論的再解釈に基づいて、彼はイエスがキリストであることを旧約聖書から論証するようになったのです。

たとえばピシデヤのアンテオケにおける説教の中で、パウロはイエスが罪に定められたのは「安息日ごとに読む預言者の言葉」の成就であったと言います(使徒13章27節)。しかしこのような預言の解釈は、ダマスコ体験以前のパウロには考えも及ばなかったことであったに違いありません。

つまり、使徒たちにとっては、旧約聖書の釈義よりも、イエス・キリストとの出会いが優先していたということです。これは決して使徒たちが旧約聖書を軽視していたということではなく、彼らのキリスト体験というレンズを通して旧約聖書を読むことを通して、初めて旧約聖書が正しく(つまりイエスが教えられたような方法で)解釈できた、ということなのです。

しかし、ここで大きな解釈学的問題が生じます。このようなイエスや使徒たちの旧約聖書理解は、旧約記者たちが意図した、オリジナルの文脈における意味を忠実にとらえるものだったのでしょうか?言い換えれば、使徒たちの聖書釈義は現代でいう歴史的・文法的方法に則ったものだったのでしょうか?

(続く)