使徒たちは聖書をどう読んだか(3)

前回の投稿で、福音派の標準的な聖書解釈法である「歴史的・文法的方法」について概観しました。歴史的・文法的方法の基本的な前提は、「聖書のテキストには、聖書記者が意図した唯一の意味が内在している」というものでした。それをできるだけ正確に取り出すこと(釈義exegesis)が、聖書解釈の目的であったわけです。

歴史的・文法的方法では、聖書が書かれた当時に「意味したこと」と、聖書が現代の私たちに「意味すること」を区別することが重視されます。聖書が意味したことを明らかにするのが釈義の務めであるなら、聖書が現代の教会に対して意味することを考える作業は「適用」と呼ばれます。

歴史的・文法的方法によると、聖書が「意味したこと」は聖書記者の意図した意味と同一であり、従って一つしかありません。一方、聖書が「意味すること」は、時代や文化によって様々であり、一つとは限りません。しかし、聖書が「意味すること」はそれが「意味した」唯一の内容から導かれるべきであり、後者に依存するものでなければならないとされます。つまり、聖書記者が元々意図した意味を離れて勝手に適用を考えてはならない、ということになります。

さて、私は神学校で歴史的・文法的方法について学び、また自分でも教えてきましたので、この方法の有益性については十分に承知しています。にもかかわらず、私にはずっとひとつの疑問がつきまとっていました。それはこういうことです:

歴史的・文法的方法は、果たして「聖書的な」唯一の解釈方法なのだろうか?

これは歴史的・文法的方法を当たり前のように受け入れてきた福音派のクリスチャンにとってはショッキングな表現かもしれませんので、次のように言い換えてみます:

聖書記者が他の聖書箇所を解釈する時、彼らはそれを歴史的・文法的方法に則って行ったのだろうか?

このシリーズではこれから、使徒時代のクリスチャンたちの聖書解釈法について、特に新約聖書における旧約聖書の引用を手がかりに考えていきたいと思います。果たして、使徒たちは歴史的・文法的方法(もちろん当時はそのような呼び方はしなかったでしょうが)に従って旧約聖書を読んでいたのでしょうか?

もし歴史的・文法的方法が「聖書的な」聖書解釈法であるなら、当然聖書自体の中でもそのような解釈法が用いられているはずです。逆に、もしそうでないなら、現代の私たちは自らの聖書解釈法を見直す必要が出てくるかもしれません。

聖書自体に見られる釈義の方法が現代福音主義の標準的な釈義の方法と異なるとしたら、私たちが自らの方法論の有効性を(少なくとも部分的には)疑い、使徒たちの釈義方法から学ぶことによって、自らの解釈学を修正していくことこそ、本来の福音主義(聖書信仰)の精神に沿ったものであると思います。

私たちが使徒たちの聖書解釈法から学ぶべき理由はいくつかあります。一つは、私たちの釈義の模範を聖書自体に求めるのは極めて自然な発想だということです。福音主義が聖書は全ての信仰と実践の規範であると主張する時、その「実践」には当然聖書釈義という営みも含まれなければなりません。もし使徒たちの聖書解釈法が現代福音主義の聖書解釈法と異なる部分があるとすれば、前者を後者に合わせるのではなく、その逆を行わなければならないのではないでしょうか。

また、使徒的聖書解釈の重要性は歴史的・文法的方法そのものからも導き出せます。歴史的・文法的方法の主要な前提は、釈義は聖書が元々生み出された歴史的コンテクストを重視しなければならないということでした。その論理を個別のテクストだけでなく、聖書釈義の方法論自体にも適用するならば、もっと使徒時代の解釈学的コンテクストにも注意を向けていく必要が出てくるはずです。

福音主義の聖書解釈学では、しばしば「解釈学的らせん」ということが言われます。私たちは聖書を解釈する時、いかなる世界観(先入観)もなしに客観的に読むことはできません。しかし、私たちの世界観は聖書自体によって聖書的な世界観へと次第に修正され、修正された世界観を持って聖書を読むと聖書がさらに正確に理解でき、それはさらなる世界観の修正へと導いて行きます。このプロセスを繰り返していくうちに、私たちの聖書理解はらせん運動を描いて真理に近づいていくというのです。

解釈学的らせん

このような「解釈学的らせん」を我々の持っている聖書観や釈義の方法論にも適用していく必要があります。私たちは自分の釈義的方法論が最も優れたものであるという先入観を一度相対化し、聖書自体の解釈法に虚心に心を向けるべきです。同時に、私たちが使徒たちの聖書観や釈義を考えるとき、無意識に現代福音主義の聖書観や釈義の方法論を読み込んでいないか、今一度反省してみる必要があるのではないでしょうか。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(2)

前回の投稿で、「歴史的・文法的方法」という聖書解釈法について書きました。これは読んで字のごとく、聖書の各文書が書かれた歴史的背景と、原語(ギリシア語・ヘブル語・アラム語)テキストの文法的分析とを考慮して、聖書記者がオリジナルの読者に伝えようと意図したメッセージを読み取ろうとする方法ということです。

聖書はある日突然天から降ってきた書物ではありません。何千年にもわたる歴史の中で、さまざまな時代や場所に生きた何十人もの人々が書き記した書物のコレクションです。もちろん、福音主義的クリスチャンは、聖書の究極的な著者は神ご自身であると信じているわけですが、一つ一つの聖書の書巻は特定の歴史的状況の中で、実在の人間である聖書記者によって、ある特定の読者層に向けて書かれたものです。そういう意味で、聖書は「神のことば」であると同時に「人のことば」でもあるのです。クリスチャンは時として聖書の神的側面を強調するあまり、その人間的側面(つまり、聖書の各巻が具体的な歴史的状況の中で生み出された文書であること)を忘れてしまうことがありますが、それでは偏った読み方になってしまいます。

歴史的・文法的方法は、聖書の人間的側面に注意を払います(これは必ずしも神的側面を無視するということではありません)。それは簡単に言ってしまえば、聖書が書かれた当時の具体的な歴史的状況の中で、聖書記者と読者の間に生じたコミュニケーションを再現しようとする試みです。つまりそれは、私たちの目の前にある聖書のテキストには、著者が当時の読者に伝えようと「意図した意味」が何らかの形で内在していると考え、それをできるだけ正確に取り出そうとする営みなのです。歴史的背景や文法の分析はそのための手段です。

このことを分かりやすく表現すると、聖書記者が伝えたいメッセージを「冷凍」して、聖書のテキストという「箱」の中に入れ、その箱を読者に送り届けるイメージで捉えることができます。読者は箱を開けてその中に入っているメッセージを「解凍」することによって、著者が伝えようと意図した意味内容を受け取ることができるというわけです。

歴史的文法的方法

このイメージで重要なのは、いったんテキストに箱詰めされたメッセージは、そのまま箱の中に固定化された形でとどまり続けるということです。それはすぐに著者と同時代の読者によって解凍されるかもしれませんし、何千年も後になって、まったく異なる文化に生きる人間によって解凍されるかもしれません。しかし、適切な方法を用いれば、どんな時代に生きる読者であっても、著者が意図したメッセージを正確に再現することが(少なくとも理論的には)できるはずだというのが歴史的・文法的方法の考え方です。

歴史的・文法的方法の目的は、聖書テキストの中に存在しているはずの「著者によって意図された唯一の意味」を、歴史的背景と文法の分析を使って正確に取り出すことです。このように、「聖書の中に内在する意味を正確に取り出す」作業を「釈義exegesis」と言います。この反対に、本来聖書テキストの中に存在しない「意味」をテキストに「読み込む」行為(これはeisegesisと呼ばれます。exはギリシア語で「外に」、eisは「中に」という意味です)は、正しい聖書解釈法ではないとみなされます。

例えば、「黙示録9章3節以下に登場する悪魔的な『いなご』は、世の終わりの最終戦争で用いられる攻撃用ヘリコプターのことである」、という解釈があったとすると、それは黙示録のテキストの正確な「釈義exegesis」ではなく、主観的な「読み込みeisegesis」ということになります。なぜなら、ヨハネが黙示録を書いた紀元1世紀末にはヘリコプターなるものは存在しませんでしたので、そのような「意味」は、著者のヨハネにも、同時代の読者にもまったく理解不能なものですから、ヨハネが読者に伝えようと「意図した意味」であるはずがないからです。

さて、歴史的・文法的方法は、福音主義的聖書学の標準的な釈義の方法論として広く用いられ、国内外の福音派の神学校でも教えられていますが、それは理由のないことではありません。歴史的・文法的方法の利点は、聖書記者と当時の読者との間に起こったコミュニケーションを客観的に再構成しようとすることによって、解釈者の主観的な読み込みの危険性を最小限に抑えることができる、という点にあります。

言い換えれば、歴史的・文法的方法は(少なくともその理想において)客観的・科学的・合理的な聖書解釈法なのです。理論的には、適切な手順を踏んで釈義を進めていけば、誰でも著者が意図した唯一の意味に到達できる、というのが歴史的・文法的方法の考え方です。

私は歴史的・文法的方法聖書解釈の有効性を大いに認めますし、実際に神学校でも教えています。にもかかわらず、それだけが有効な聖書解釈法ではないのではないか、という疑問を持っています。なぜそう思うのか、ということについて、次回は書きたいと思います。

(続く)

使徒たちは聖書をどう読んだか(1)

今月のはじめに日本福音主義神学会の全国研究会議があり、そこで発表の機会が与えられましたので、その内容を元にして、専門外の方々のためにもできるだけ分かりやすく書き直してお分ちしたいと思います。

会議の主題は「福音主義神学、その行くべき方向―聖書信仰と福音主義神学の未来―」というものでした。「福音主義神学会」という名前が付いている会ですので、「福音主義神学」について研究するのは当然なのですが、あえてこのようなテーマが選ばれた背景には、何があるのでしょうか。

「福音主義」を簡単に定義するのは難しいのですが、とりあえずここでは「聖書は誤りなき神のことばである」と信じるプロテスタントの流れであると(あえて単純化して)とらえておきます。上の主題文にも出てきた「聖書信仰」ということが重要なキーワードになります。

つまり、多種多様な教派的背景や神学的立場があっても、「聖書信仰」という一点で一致できるなら、一緒にやっていける、という緩いつながりが「福音主義」の運動であったわけです。(ちなみに、日本のキリスト教会に存在する「福音派」と「聖霊派」という二分法は、海外ではあまり見られません。ペンテコステ・カリスマ派も、広い意味での「福音派」に入れられることが多いです。)

さて、なぜ今回「福音主義神学」と「聖書信仰」が正面から取り上げられたかというと、福音主義の基盤である「聖書信仰」の理解が揺らいでいるという危機意識があるからです。会議の趣旨説明文にはこういうくだりがありました:

今日、その神学的多様性からはもともと当然のことなのではあるが、特に、この広範な広がりを持つ福音派の運動の、軸となる聖書信仰についての揺れから、福音派のIdentityが問われることが多く、福音主義神学も例外ではなくなっている。

つまり、聖書が「霊感された」「誤りなき」「神のことば」であるというのはどういう意味か、聖書はどういう性質を持った書なのか、聖書はどのように「働く」のか・・・といった、基礎的な「聖書信仰」の部分で多様な理解が見られるようになったため、その基礎の上に乗っている「福音主義キリスト教」自体のあり方が問い直されるようになったということです。そこで、もういちど原点である「聖書信仰」を見つめなおし、もし福音主義神学に未来があるなら、それはどのようなものかを探っていこうというのが今回の会議の目的だったのです。

もっと簡単にいうなら、クリスチャンが「聖書が誤りなき神の言葉である」と信じ、聖書に従って日々生きるとはどういうことか?ということが改めて問い直されているのです。これは一部の専門家だけが行う難解な(不毛な?)「神学論争」ではなく、クリスチャン一人ひとりの信仰生活に密接に関わってくることです。

さて、その中で私が発表させていただいたのは「釈義部門」、つまり聖書をどう解釈するか、を考える分野でした。現代の福音主義キリスト教会には標準的な聖書解釈法があります。それは「歴史的・文法的方法」と呼ばれるものです。(これがどういうものかは、次回説明します)この解釈方法を今一度見直してみようというのが、私の発表の論旨でした。誤解を恐れずあえて言うなら、このシリーズでは、「歴史的・文法的方法」が唯一の「聖書的」な解釈法なのか?ということを考えてみようと思います。

(続く)

 

違いの違いが分かる男(女)

以前、「違いが分かる男の○○」というインスタント・コーヒーのCMがありました。シリーズ化されて、いろいろな有名人が出ていました。独特の音楽とナレーションで、今でも記憶に残っています。

「違いが分かる男」がはたしてインスタントを選ぶのかという疑問は別にして、「違いが分かる」というのはキリスト教界においても重要なことです。自分の教会を一歩出ると、同じクリスチャンでも多くの主題について多種多様な理解を持っていることが分かるものです。礼拝や賛美の形式から始まって、聖書や救いや終末についての理解など、同じ神を信じ同じ聖書を読んでいても、ここまで違うのかと驚くこともあります。

個人的には、そのような違いを認識すること、まさに「違いが分かる男(女)」になることは、信仰者として健全なあり方であると思います。自分の信仰理解が全てではないこと、キリストのからだなる教会の大きさを知ることは、とても大切なことです。しかし、そこから一歩進んで「違いの違いが分かる男(女)」になる必要があると思います。

ややこしくなってきたので、説明しましょう。

自分と他人との違いを認識することがすべてのスタートです。しかし、違いを認識しただけではまだ「対話」や「協力」「成長」にまで結びつきません。その違いにどう向き合っていくかが大切です。そのためには、「違いには違いがある」ということを知ることです。つまり、すべての意見の違いは同じ重要性を持っているわけではないということです。

コーヒーを飲むのにA社の製品を選ぶかB社の製品を選ぶかは、普通それほど大きな問題ではありません。しかし、Aさんと結婚するかBさんと結婚するかは重大な選択であり、それによってその後の人生が大きく左右されてきます。したがって、AコーヒーとBコーヒーの違いは、AさんとBさんの違いに比べれば些細なものと言えます。このように、違いの中には、単なる「見解の違い」で片付けることができず、「ここはどうしても譲れない」というものがあります。一方、違っていても同じ信仰者としてまったく問題なく協力していけるようなものもあります。

こだわるべき違いにこだわることをしないと絶対的な真理を否定する多元主義・相対主義に陥り、こだわるべきでない違いにこだわり過ぎると排他的な原理主義・セクト主義に陥ってしまいます。私たちはこの両極端を避けなければなりません。そのためには、違いの重要性をレベル分けすることが有益です。

クリスチャンは神について、人間について、世界について膨大な数のことがらを信じています。けれども、どの信仰内容も同じように重要であるわけではありません。試みに、私たちの信仰内容の重要性に従って、1.教義、2.教理、3.意見の3段階に分けてみます。

教義教理意見

教義(dogma)は、正統的キリスト教信仰の根幹をなす基本的な信仰内容で、これを否定すればキリスト教でなくなってしまう(つまり異端ということ)内容のことがらを言います。たとえば三位一体論、キリストの神性と人性などです。教義の部分での一致は私たちが「クリスチャンとして」一致するためには必要不可欠で、この部分での意見の違いを受け入れることはできません。ごくおおざっぱに言うなら、歴史的キリスト教会が受け入れてきた信条(使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条等)に含まれる内容は教義に入ると考えてよいでしょう。

教理(doctrine)は、キリスト教内部のある特定のグループでは共通の立場を取ることを求められるが、上の「教義」のレベルには入らないようなものを言います。ローマ教皇の権威を認めないローマ・カトリックの信徒というのは難しいと思いますし、浸礼(全身を水に浸す洗礼方式)を認めないバプテスト派というのも原則としてはありえないでしょう。しかし、このレベルで立場の違いがあっても、その特定のグループのメンバーにはなれないかもしれませんが、クリスチャンでなくなるわけではありません。他にも聖餐式の理解など、いろいろあると思います。

最後に、意見(opinion)はさらに下位のレベルの信仰内容で、同じグループ(教会)内で立場が違っても構わないようなものを言います。細かい聖書箇所の解釈の違いの多くは、この意見のカテゴリーに含まれます。このレベルで立場の違いがあっても、私たちは同じグループ内で一緒に信仰生活を送っていくことができるのです。

これらの3つのカテゴリーに具体的にどういった信仰内容が含まれるのかを細かく論じるスペースはありませんし、人によって線引きも多少異なってくるでしょう。重要なのは、私たちの信仰内容をその重要度によって区別するということです。このようなニュアンスのある信仰理解を拒絶して、フラットな信仰理解を取ってしまうと、いろいろな弊害が生じます。

たとえば、自分たちの信仰内容のすべてを「教義」のレベルでとらえている人たちは、どんな些細な点においても、立場の違いを認めません。これはセクト主義の立場です。逆に、すべてを「意見」としてしか見ない人々は、絶対的な真理の基準を見失い、何でも受け入れてしまいます。これが相対主義の立場です。私たちはクリスチャンとして一致すべき部分と、多様な立場があってもよい部分を、バランスよく見極め、後者のレベルで立場の異なる人々とも協力していく態度を養っていく必要があります。

世の中には、対話のできる相手とできない相手がいます。対話ができる人は、必ずしも私たちと同じ意見を持っているとは限りません。そのような人々は、「違いの違いが分かる男(女)」なのです。私たちも、そのようになっていく必要があります。

(2015年11月追記) この記事で提案した「教義・教理・意見」の同心円モデルについては、グレッグ・ボイドが同様のモデルを提案しています。彼のモデルでは、すべての中心にイエス・キリストの人格を置いており、今では私もそちらのモデルの方が好ましいと考えています。詳しくは「確かさという名の偶像(17)」をご覧ください。

鏡を通して見る

このブログのタイトル「鏡を通して (Through a Glass)」は新約聖書コリント人への第一の手紙13章12節から取っています。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(口語訳)

For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.(KJV)

ここでパウロは終末(世の終わり)について語っています。「その時」というのはキリストの再臨の時であり、神の国の完全な到来の時です。その時には教会は神ご自身とキリストを直接知ることになるとパウロはいいます(黙示録22:3-4参照)。

しかし、このことは逆に言えば、「その時」が来るまでは、私たちは神を直接かつ完全に知ることはできないということです。私たちの知識は間接的かつ不完全なものです。この地上に生きている限り、神を完全に知ることは不可能なのです。

そのことをパウロは、「鏡を通して(鏡に映して)」見る、と表現しています。コリントは鏡の生産で有名でした。当時の鏡は金属の表面を磨いたもので、そこに映る像はゆがんでいたりぼんやりとしたものでしかありませんでした。もちろん、当時も上質の鏡は存在したようですが、パウロがここで述べているのは、鏡に映る像は、本物の一部しかとらえていないものだ、ということです。現代で言うなら、ある人を写真でしか知らない状態と、本人と顔を合わせて会った時の違いのようなものと言えば分かりやすいでしょう。

神を間接的に知る手段について、1コリント13章の文脈では、パウロはコリントのクリスチャンたちが重視していた様々な霊的賜物(預言、異言、霊的「知識」)について語っています。しかし、このことは「聖書解釈」ということについても当てはまると思います。

私は聖書は権威ある神のことばであると信じる者であり、その聖書を正しく解釈する道を追求しています。しかし、この箇所は、聖書のすべてを完全に理解し尽くすことは、この地上では不可能であることを示唆しているように思います。少しでもキリスト教に馴染みのある方なら、聖書の事実上あらゆる箇所について、何通りもの解釈が存在することを知っていることでしょう。聖書学を学べば学ぶほど、そのことを痛感させられています。

だからといって、聖書の正しい理解を追求する営みが無益であるということではありません。注意深く聖書を読んでいくことによって、多様な解釈のうちどれが相対的に妥当なものであるのかが分かってきます。聖書を学ぶということは、たゆまぬ努力によって、真理に限りなく肉薄していく試みと言ってよいでしょう。私たちが到達すべき真理は確かにあります。パウロはやがて顔と顔を合わせて見る日が来る、と言っています。私たちはその日を切望しつつ、日々励んでいくのです。

しかし、パウロのこの言葉は、私たちが自分の解釈は常に不完全・部分的であり、誤っている可能性があることを自覚するように教えています。神のことばは誤りがない真理であったとしても、神のことばに対する「私の解釈」はそうではありません。

ここから言えることは、私たちが聖書を学ぶ時、自分の解釈だけが真理であると独断的に主張してはならないということです。私たちは常によりよい解釈を求めて努力し続け、また同じく聖書を読んでいる他の人々の意見にも耳を傾けていかなければなりません。このような態度を「解釈学的謙遜(hermeneutical humility)」と呼びたいと思いますが、これは聖書を読む者がまず身につけるべき重要な徳目であると思います。

このブログも、そのように聖書の世界を「鏡を通して」見る試みの一つです。私たちにできることは、鏡に映る像が少しでも正確なものになるよう、その表面を丹念に磨き上げていくことです。

はじめまして

新約聖書学という分野を学んでいる者です。このブログでは聖書の話を中心に、日々感じたことや考えたことを綴っていきたいと思います。なるべく専門外の方々にも楽しんでいただけるような内容も含めていこうと考えています。
 

ブログに関しては初心者です。ある程度完成された自分の考えを発表する場は他にありますが、ここでは自分の中で発展途上のアイデアであってもあえて公開していこうと思っています。ですから、学問的に見て洗練されていない内容もあると思いますし、過去の投稿内容と首尾一貫していないことを書くこともあるかもしれません。また、ここはあくまでも個人のブログですので、ここで表明される私の意見は必ずしも私の属する団体や組織の意見を代表するものでないことを予めお断りしておきます。
 
それでは、よろしくお願いいたします。