違いの違いが分かる男(女)

以前、「違いが分かる男の○○」というインスタント・コーヒーのCMがありました。シリーズ化されて、いろいろな有名人が出ていました。独特の音楽とナレーションで、今でも記憶に残っています。

「違いが分かる男」がはたしてインスタントを選ぶのかという疑問は別にして、「違いが分かる」というのはキリスト教界においても重要なことです。自分の教会を一歩出ると、同じクリスチャンでも多くの主題について多種多様な理解を持っていることが分かるものです。礼拝や賛美の形式から始まって、聖書や救いや終末についての理解など、同じ神を信じ同じ聖書を読んでいても、ここまで違うのかと驚くこともあります。

個人的には、そのような違いを認識すること、まさに「違いが分かる男(女)」になることは、信仰者として健全なあり方であると思います。自分の信仰理解が全てではないこと、キリストのからだなる教会の大きさを知ることは、とても大切なことです。しかし、そこから一歩進んで「違いの違いが分かる男(女)」になる必要があると思います。

ややこしくなってきたので、説明しましょう。

自分と他人との違いを認識することがすべてのスタートです。しかし、違いを認識しただけではまだ「対話」や「協力」「成長」にまで結びつきません。その違いにどう向き合っていくかが大切です。そのためには、「違いには違いがある」ということを知ることです。つまり、すべての意見の違いは同じ重要性を持っているわけではないということです。

コーヒーを飲むのにA社の製品を選ぶかB社の製品を選ぶかは、普通それほど大きな問題ではありません。しかし、Aさんと結婚するかBさんと結婚するかは重大な選択であり、それによってその後の人生が大きく左右されてきます。したがって、AコーヒーとBコーヒーの違いは、AさんとBさんの違いに比べれば些細なものと言えます。このように、違いの中には、単なる「見解の違い」で片付けることができず、「ここはどうしても譲れない」というものがあります。一方、違っていても同じ信仰者としてまったく問題なく協力していけるようなものもあります。

こだわるべき違いにこだわることをしないと絶対的な真理を否定する多元主義・相対主義に陥り、こだわるべきでない違いにこだわり過ぎると排他的な原理主義・セクト主義に陥ってしまいます。私たちはこの両極端を避けなければなりません。そのためには、違いの重要性をレベル分けすることが有益です。

クリスチャンは神について、人間について、世界について膨大な数のことがらを信じています。けれども、どの信仰内容も同じように重要であるわけではありません。試みに、私たちの信仰内容の重要性に従って、1.教義、2.教理、3.意見の3段階に分けてみます。

教義教理意見

教義(dogma)は、正統的キリスト教信仰の根幹をなす基本的な信仰内容で、これを否定すればキリスト教でなくなってしまう(つまり異端ということ)内容のことがらを言います。たとえば三位一体論、キリストの神性と人性などです。教義の部分での一致は私たちが「クリスチャンとして」一致するためには必要不可欠で、この部分での意見の違いを受け入れることはできません。ごくおおざっぱに言うなら、歴史的キリスト教会が受け入れてきた信条(使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条等)に含まれる内容は教義に入ると考えてよいでしょう。

教理(doctrine)は、キリスト教内部のある特定のグループでは共通の立場を取ることを求められるが、上の「教義」のレベルには入らないようなものを言います。ローマ教皇の権威を認めないローマ・カトリックの信徒というのは難しいと思いますし、浸礼(全身を水に浸す洗礼方式)を認めないバプテスト派というのも原則としてはありえないでしょう。しかし、このレベルで立場の違いがあっても、その特定のグループのメンバーにはなれないかもしれませんが、クリスチャンでなくなるわけではありません。他にも聖餐式の理解など、いろいろあると思います。

最後に、意見(opinion)はさらに下位のレベルの信仰内容で、同じグループ(教会)内で立場が違っても構わないようなものを言います。細かい聖書箇所の解釈の違いの多くは、この意見のカテゴリーに含まれます。このレベルで立場の違いがあっても、私たちは同じグループ内で一緒に信仰生活を送っていくことができるのです。

これらの3つのカテゴリーに具体的にどういった信仰内容が含まれるのかを細かく論じるスペースはありませんし、人によって線引きも多少異なってくるでしょう。重要なのは、私たちの信仰内容をその重要度によって区別するということです。このようなニュアンスのある信仰理解を拒絶して、フラットな信仰理解を取ってしまうと、いろいろな弊害が生じます。

たとえば、自分たちの信仰内容のすべてを「教義」のレベルでとらえている人たちは、どんな些細な点においても、立場の違いを認めません。これはセクト主義の立場です。逆に、すべてを「意見」としてしか見ない人々は、絶対的な真理の基準を見失い、何でも受け入れてしまいます。これが相対主義の立場です。私たちはクリスチャンとして一致すべき部分と、多様な立場があってもよい部分を、バランスよく見極め、後者のレベルで立場の異なる人々とも協力していく態度を養っていく必要があります。

世の中には、対話のできる相手とできない相手がいます。対話ができる人は、必ずしも私たちと同じ意見を持っているとは限りません。そのような人々は、「違いの違いが分かる男(女)」なのです。私たちも、そのようになっていく必要があります。

(2015年11月追記) この記事で提案した「教義・教理・意見」の同心円モデルについては、グレッグ・ボイドが同様のモデルを提案しています。彼のモデルでは、すべての中心にイエス・キリストの人格を置いており、今では私もそちらのモデルの方が好ましいと考えています。詳しくは「確かさという名の偶像(17)」をご覧ください。

鏡を通して見る

このブログのタイトル「鏡を通して (Through a Glass)」は新約聖書コリント人への第一の手紙13章12節から取っています。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(口語訳)

For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.(KJV)

ここでパウロは終末(世の終わり)について語っています。「その時」というのはキリストの再臨の時であり、神の国の完全な到来の時です。その時には教会は神ご自身とキリストを直接知ることになるとパウロはいいます(黙示録22:3-4参照)。

しかし、このことは逆に言えば、「その時」が来るまでは、私たちは神を直接かつ完全に知ることはできないということです。私たちの知識は間接的かつ不完全なものです。この地上に生きている限り、神を完全に知ることは不可能なのです。

そのことをパウロは、「鏡を通して(鏡に映して)」見る、と表現しています。コリントは鏡の生産で有名でした。当時の鏡は金属の表面を磨いたもので、そこに映る像はゆがんでいたりぼんやりとしたものでしかありませんでした。もちろん、当時も上質の鏡は存在したようですが、パウロがここで述べているのは、鏡に映る像は、本物の一部しかとらえていないものだ、ということです。現代で言うなら、ある人を写真でしか知らない状態と、本人と顔を合わせて会った時の違いのようなものと言えば分かりやすいでしょう。

神を間接的に知る手段について、1コリント13章の文脈では、パウロはコリントのクリスチャンたちが重視していた様々な霊的賜物(預言、異言、霊的「知識」)について語っています。しかし、このことは「聖書解釈」ということについても当てはまると思います。

私は聖書は権威ある神のことばであると信じる者であり、その聖書を正しく解釈する道を追求しています。しかし、この箇所は、聖書のすべてを完全に理解し尽くすことは、この地上では不可能であることを示唆しているように思います。少しでもキリスト教に馴染みのある方なら、聖書の事実上あらゆる箇所について、何通りもの解釈が存在することを知っていることでしょう。聖書学を学べば学ぶほど、そのことを痛感させられています。

だからといって、聖書の正しい理解を追求する営みが無益であるということではありません。注意深く聖書を読んでいくことによって、多様な解釈のうちどれが相対的に妥当なものであるのかが分かってきます。聖書を学ぶということは、たゆまぬ努力によって、真理に限りなく肉薄していく試みと言ってよいでしょう。私たちが到達すべき真理は確かにあります。パウロはやがて顔と顔を合わせて見る日が来る、と言っています。私たちはその日を切望しつつ、日々励んでいくのです。

しかし、パウロのこの言葉は、私たちが自分の解釈は常に不完全・部分的であり、誤っている可能性があることを自覚するように教えています。神のことばは誤りがない真理であったとしても、神のことばに対する「私の解釈」はそうではありません。

ここから言えることは、私たちが聖書を学ぶ時、自分の解釈だけが真理であると独断的に主張してはならないということです。私たちは常によりよい解釈を求めて努力し続け、また同じく聖書を読んでいる他の人々の意見にも耳を傾けていかなければなりません。このような態度を「解釈学的謙遜(hermeneutical humility)」と呼びたいと思いますが、これは聖書を読む者がまず身につけるべき重要な徳目であると思います。

このブログも、そのように聖書の世界を「鏡を通して」見る試みの一つです。私たちにできることは、鏡に映る像が少しでも正確なものになるよう、その表面を丹念に磨き上げていくことです。

はじめまして

新約聖書学という分野を学んでいる者です。このブログでは聖書の話を中心に、日々感じたことや考えたことを綴っていきたいと思います。なるべく専門外の方々にも楽しんでいただけるような内容も含めていこうと考えています。
 

ブログに関しては初心者です。ある程度完成された自分の考えを発表する場は他にありますが、ここでは自分の中で発展途上のアイデアであってもあえて公開していこうと思っています。ですから、学問的に見て洗練されていない内容もあると思いますし、過去の投稿内容と首尾一貫していないことを書くこともあるかもしれません。また、ここはあくまでも個人のブログですので、ここで表明される私の意見は必ずしも私の属する団体や組織の意見を代表するものでないことを予めお断りしておきます。
 
それでは、よろしくお願いいたします。