使徒たちは聖書をどう読んだか(11)

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前回の投稿では、歴史的・文法的方法を超えた聖書解釈が無制約な恣意的解釈に陥らないための歯止めの一つとして、「救済史」の考え方をはじめとする、いくつかの神学的枠組みについて書きました。

しかし、そのような枠組みを設定したとしても、使徒たちの解釈法に倣っていこうとする時に、そこから出てくる解釈はそれでもなお一意的に定まるものではなく、ある程度の幅、多義性が生まれてきます。これについてはどう考えたら良いのでしょうか?

私は個人的には、このようなある程度の解釈の多様性を恐れる必要はないと考えています。使徒たちの解釈学は厳密な科学というよりは、むしろアートと呼べる側面があります。

この表現は誤解を招く可能性がありますので、少し丁寧に説明したいと思いますが、この問題を考える際には、ポストモダニズムについて理解する必要があります。17世紀後半からヨーロッパで興ってきた啓蒙主義は、人間理性に全幅の信頼を置き、理性の光の下で真理を探究していこうとしました。これがモダニズム(近代主義)の考え方です。モダニズムにおいては、正しい認識方法を用いることによって、客観的な真理に到達できると考えられていました。そして、このシリーズの第2回で見たような、聖書解釈における歴史的・文法的方法も、まさにこのようなモダニズムの考え方の上に立っているのです。

20世紀の後半から、このようなモダニズムの考え方に対して様々な異議申し立てがなされるようになってきました。それがポストモダニズムです。「ポストモダン」というのは「モダンの後」という意味です。ポストモダニズムにはいろいろな流れがあり、一般化することは難しいのですが、共通しているのは、上で見たようなモダニズムの認識論的前提がもはや受け入れられなくなっているということです。ポストモダニズムの中には、客観的な真理の存在を否定する極端な立場もあります(これは時に「ハードなポストモダニズム」と呼ばれます)。聖書解釈においては、これはテキストには唯一の客観的な意味などない、各読者がクリエイティヴに意味を生み出していけばよい、という立場(「読み手応答批評reader-response criticism」と呼ばれます)になります。これは聖書を神のことばとするキリスト者としては当然受け入れられません。

しかし、これとは別に「ソフトなポストモダニズム」と呼ばれる立場もあります。それは、客観的な真理を前提としながらも、私たちの視点は各人の置かれている歴史的立場によって必然的に限定されているため、たゆまぬ努力とお互いの対話によってそこに近づいていくことはできるが、絶対確実な知識に到達することはできない、というものです。これは実は「鏡を通して見る」の投稿で述べた考え方に他なりませんが、そこで示したように、このような見方は聖書的なものと言うことができます。

つまり、これまで述べてきた内容(歴史的・文法的方法を包含しつつも、それにとらわれない聖書解釈の追求)は、基本的にソフトなポストモダニズムの立場に立つ聖書解釈のアプローチと言えます。個人的には、このアプローチはモダニズムやハードなポストモダニズムのそれよりも優れていると思います。

誤解を恐れずに言うならば、聖書解釈の方法論を歴史的・文法的方法に限定しようとする態度は、「絶対確実な認識論」というモダニズムの幻想にもとづいているのではないかと考えられます。福音主義の釈義は「確実性」というモダニズムの強迫観念から解放される必要があると思います。それは決して客観的真理を否定するということではなく、むしろ私たちが自分たちの限界を認識し、やがて真理に完全に到達できる終末論的希望を抱きつつ、解釈学的謙遜をもって聖書に聴き続けていく姿勢であると考えています。

さて、このようなソフト・ポストモダニズム的な聖書解釈を行おうとする時に、欠かすことのできない視点があります。次回はそれについて書いてみようと思います。

(続く)

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