「主の祈り」を祈る(7)

(シリーズ過去記事      

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」

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 「」は直訳すると「パン」です。「日用の」と訳されているギリシア語epiousiosは、古代文献の中でマタイ6章11節とルカ11章3節、さらに使徒教父文書の『十二使徒の遺訓(ディダケー)』8章2節にしか登場しません。これらはすべて主の祈りを記した箇所ですので、この言葉の正確な意味を知ることは大変困難です。聖書学者たちは「日ごとの」「生存に必要な」「明日の」「未来の」「超自然的な」等々、さまざまな訳語を提案してきましたが、意見の一致を見るには至っていません。

ここで専門的な議論に立ち入ることはしませんが、前回見たように、主の祈り全体においては、神の支配がこの地上に訪れるという地上的な視点が重要ですので、epiousiosという言葉について極端に霊的な理解に傾いた訳語はふさわしくないと考えられます。結論だけ言いますと、伝統的な「日用の」という訳語を用いることは問題無いと思います。そうすると、ここでの「日用のパン」は食物一般、もっと拡げて、私たちが生きていくための物質的な必要全般(衣食住)を指すと考えて良いと思います。さらに拡げて、この世で生きるための地上的必要全般ととることもできるでしょう。

聖書は私たちの存在の物質的な側面を軽視しません。霊を重視し、肉体や物質を軽視するのはギリシア思想のあやまった霊肉二元論の影響です。私たちが生きていくためには様々な物質的必要があることを神はご存じであり、そのために祈ることを禁じられないばかりか、むしろ命じておられることが分かります。私たちは人生の物質的必要を神に祈り求めるべきであるし、与えられたら神に感謝すべきなのです。

今日も与えたまえ」という言葉から、イエスが主の祈りを弟子たちに教えた時に、彼らがこの祈りを毎日祈ることを前提としていたことがうかがえます。現代文明のただ中に生きている私たちは、毎日食べるパンがあるのは当たり前のように思っていますが、イエスの時代の人々は決してそうではありませんでした。明日食べるためのパンが与えられるように、切に祈らなければならない人々が圧倒的に多かったのです。

それと同時に、私たちは人生の終わりまで何十年もの必要を一度に与えられることはありません。たとえ莫大な財産を持っていても、明日何が起こるかは誰にも分かりません。だからいつでも父なる神に信頼し、その時その時の必要を満たしてくださることを求めて行かなければならないのです。

以前の記事で、主の祈りはイエスが教えられた順番に祈らなければならないということを述べました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」という祈りは、その前にある「御国を来たらせたまえ。みこころをなさせたまえ」の文脈の中で祈ることが大切です。そのように考えると、この祈りは単なる個人的な快楽や安楽な生活のための祈りではないことが分かります。イエスご自身が、山上の説教の中で次のように教えています。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6章31-34節)

私たちの物質的な必要が満たされることは、神の国の到来と無関係ではありません。人間の生存には衣食住といった必要があることは天の父はご存知であるとイエスは言います。つまり、神のみこころはすべての人が物質的に乏しいことのない生活をおくることであると言えますが、その神意は地上においてはいまだに実現していません。聖書では社会における経済的不正は厳しく断罪されています(たとえばアモス4章1-3節)。このような文脈で考えるならば、貧しい人々の日々の糧が与えられるということは、神の義なる支配が地の上に実現することの一つのしるしであると考えることができます。

そして、ここで祈るように教えられているのが「私の」糧ではなく「我らの」糧であることは大変重要です。私たちは自分の、あるいは自分の家族や身近な人々の必要だけを求めていくのではなく、他の人々の必要も満たされるように祈っていく必要があります。現在世界の多くの国々で多くの人々が飢えと貧困に苦しんでおり、経済的な搾取がいたるところで行われています。私たちは飢えと貧困に苦しむ人々のために祈らなければならないと思いますが、これは社会における不正がただされるようにという祈りでもあるのです。

イエス・キリストは私たちと同様の肉体を持たれ、その物質的必要を身を持って体験されました。と同時に、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4章4節、申命記8章3節参照)と語られ、天の父の養いに信頼する生き方を貫かれました。しかしそれだけでなく、再臨のキリストは、義をもって世界を裁く方であり、その際に特に貧しい人々に対する愛の行いを重視されることも記されています(マタイ25章31-46節。ここでは祈るだけでなく実際に行動することが求められています。)私たちは、人々の日用の糧が今日も与えられることがキリストのみこころであることを認め、そのみこころが今日地上で実現していくことを祈り求めるように召されているのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(6)

(シリーズ過去記事     

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

この部分は主の祈りの鍵となる部分です。この後に続く部分はみな、この祈りのヴァリエーションであると言って良いでしょう。主の祈りのこの部分については、過去記事で取り上げましたので、詳しくはそちらを参照してください。

シリーズ「御国を来たらせたまえ」          

御国」ということばはbasileiaというギリシア語の訳語ですが、英語ではKingdomと訳されるように、「王国」という意味です。これは新約聖書で「神の国」または「天の国」(新共同訳)「天の御国」(新改訳)と言われるものと同じです。後者はマタイ福音書にのみ現れる表現ですが、口語訳の「天国」は誤解を招きやすい表現だと思います。これは死者の魂が行く霊的な楽園のことではなく、今現在神が王として統べ治めておられる領域、あるいはその支配を意味することばです。

さて、主の祈りではこの神の国が来るようにと祈ります。神の国はどこに来るのでしょうか?その答えは「地に来る」です。聖書のナラティヴの一貫した方向性は、天において完全に実現している神の王としての支配が、(人間の住む領域としての)地にも及ぶようになる、というものです。この意味で、「御国を来たらせたまえ」という祈りと、その次の「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、同じ内容を別の表現で言い換えたものと言ってもよいでしょう。実際、ルカ福音書における並行箇所(ルカ11章2節)では、後者の祈りは含まれていません。後者の内容は、神の国が来るということの意味をさらに明確にするために付け加えられた可能性もあります。

つまり、この祈りは、善にして愛なる神の支配は天においては完全に実現しているけれども、地においてはまだ完全に実現していないという理解を前提としています。私たちは慈愛に満ちた父なる神の存在を信じていますが、同時に地上では罪や悪や苦しみや死が未だに猛威をふるっていることも知っています。クリスチャンの取るべき態度は、そのような冷厳な現実から目を背けて霊的な楽園への逃避を夢見ることではありません。そうではなく、神の民は、この地上に神の国が訪れ、神の聖なるみこころが100%行われるような世界になるようにと祈るべく召されているのです。

今現在、天において実現している神の支配は、黙示録4-5章においてはっきりと見ることができますが、黙示録には、このような天の現実が地上でも実現するときが来るという終末的希望もまた記されています。

第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。 」(黙示録11章15-17節)

この祈りもまた、キリスト論的な視点から祈ることができます。キリストは十字架にかかられた後、復活して天に昇り、父なる神の右の座に着いておられます。このお方は「すべての者の主」(使徒10章36節)であり、「王の王、主の主」なる方です(黙示録19章16節)。キリストは天において神に敵対するすべての勢力を支配されました(エペソ1章20-21節)。クリスチャンは主の祈りを祈る時、キリストの支配が地上に完全に現される時、つまり再臨を待ち望んで祈っているのです。

ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。(1コリント15章23-26節)

けれども、私たちが祈る時、将来のある時点で神の国が地上に完全に到来することを求めるだけでなく、そこに至る過程の中にあって、私たちの人生を通し、生活を通して、神のみこころがなるようにと祈ることが大切であると思います。そのように祈る時、確かに神の国はこの地上に訪れ、拡大していくことになるのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(5)

(シリーズ過去記事    

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」

第2回の投稿で指摘したように、主の祈りに含まれる祈りには、優先順位があり、私たちはイエスが弟子たちに教えられた順番で祈っていく必要があります。その意味で、天におられる父なる神に対する呼びかけに続く「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」という祈りは、クリスチャンが祈るべき最も重要な祈りであると言うことができます。

私たちが祈るべき最優先事項は、自分の願いが叶えられたり、自分の必要が満たされることではありません。それは神の御名があがめられることです。古代世界では、人物の名前はその人を他人から区別する単なる記号ではなく、その人の存在そのものを表す非常に大切なものでした。したがって、神の「御名」をみだりに口にすることは十戒でも禁じられています(出エジプト20章7節)。ですから、「神の御名」は「神ご自身」と同義と考えてよいと思います。

ところで、文語訳の 「御名をあがめさせたまえ」という表現を、「私たちはあなたの御名をあがめます」「あがめさせてください」というニュアンスでとらえてしまう人もいるかも知れませんが、ここは祈り手であるクリスチャンだけが御名をあがめることだけを言っているのではありません。現代語訳の聖書では、マタイ6章9節後半を「御名が崇められますように。」(新共同訳)、「御名があがめられますように。」(口語訳・新改訳)と訳していますが、ギリシア語原文を直訳すると「あなたの御名が聖なるものとされますように」となります。

ここでは三人称命令形という、日本語にも英語にもない動詞の形が使われています。つまり祈っている私たち(一人称)でも祈られている神(二人称)でもない第三者の誰かに対して、神が聖なるお方であることを認め、その御名をあがめるように命令しているのが、この祈りのニュアンスです。(もちろん、この祈り全体は父なる神に向けられていますので、神がそのように導いてくださるように、という願いが込められた祈りであるとも言えます)。

では誰に対して神の御名をあがめるように命じているのでしょうか?その対象は明示されていませんが、最も自然な解釈は「すべて」ということではないかと思います。すべての人間、天使だけでなく、すべての被造物に対しても、神の御名をあがめるようにと命令しているのがこの祈りなのです。これは決して突飛な考えではなく、旧約聖書にもその前例を見出すことができます。詩篇148篇はその典型といえるでしょう。

1  主をほめたたえよ。もろもろの天から主をほめたたえよ。もろもろの高き所で主をほめたたえよ。
2  その天使よ、みな主をほめたたえよ。その万軍よ、みな主をほめたたえよ。
3  日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。
4  いと高き天よ、天の上にある水よ、主をほめたたえよ。
5  これらのものに主のみ名をほめたたえさせよ、これらは主が命じられると造られたからである。
6  主はこれらをとこしえに堅く定め、越えることのできないその境を定められた。
7  海の獣よ、すべての淵よ、地から主をほめたたえよ。
8  火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、
9  もろもろの山、すべての丘、実を結ぶ木、すべての香柏よ、
10  野の獣、すべての家畜、這うもの、翼ある鳥よ、
11  地の王たち、すべての民、君たち、地のすべてのつかさよ、
12  若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、
13  彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。
14  主はその民のために一つの角をあげられた。これはすべての聖徒のほめたたえるもの、主に近いイスラエルの人々のほめたたえるものである。主をほめたたえよ。

すべての被造物が創造主である神をあがめるようになることこそ、聖書の指し示す究極の目的です。この終末的なビジョンが実現するように祈ることが、クリスチャンの最重要な祈りなのです。「すべての存在」には、私たちに現在敵対している人々も含まれます。神への信仰と服従から最も遠いように見える人々も含まれます。そのような人々にも、天地の創造主である唯一の神をあがめるように呼びかけているのが「御名をあがめさせたまえ」という祈りであると思います。

現代のクリスチャンは、この祈りもキリスト論的視点から祈ることができます。父なる神の御名をあがめることは、すべての主であり、父の右の座にあって支配しておられるキリストをあがめることでもあります。たとえば黙示録においては、小羊キリストが父なる神とともに礼拝されている様子が描かれています。

11  さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、 12  大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。 13  またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。 14  四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。(黙示録5章11-14節)

これはまさに私たちが主の祈りを祈る時に共有すべきビジョンでもあると思います。

(続く)

 

 

「主の祈り」を祈る(4)

(シリーズ過去記事   

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「・・・我らの父よ。」

前回は主の祈りの冒頭の神への呼びかけの部分について、私たちが祈るべき神は「天」におられる神であることについて書きました。この神に対して「父」と呼びかけるように、イエスは弟子たちに命じられました。神が私たちの「父」であるというのは、大きく二つの意味があります。

まず第一に、神は私たちの創造者という意味で「父」なる方です。

はじめに神は天と地とを創造された。 (創世記1章1節)

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1章27節)

神は人間を含めて天地万物を創造されました。私たちは神によって造られ、生かされている存在であるという意味で、「父」なる神の子どもであると言えます。

すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(エペソ4章6節)

第二に、神は私たちをキリストにあって贖ってくださり、ご自分の子としてくださったという意味で、「父」なる方です。上述の創造者という意味では、神はクリスチャンであるとないとを問わず全ての人間の「父」ですが、この救済者としての意味では、神はクリスチャンにとって特別な意味で「父」である、ということができます。

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。(ローマ8章15節)

「アバ」は当時のパレスチナに住むユダヤ人の日常言語であったアラム語で、親しみを込めた父への呼びかけの表現です。天地の主であり、王である神を父と親しく呼ぶことができるのは、おどろくばかりの恵みです。このように神を「父」と呼ぶことができるのは、イエス・キリストが私たちを贖うために十字架にかかってくださり、私たちに聖霊を与えてくださったからにほかなりません。

ところで、パウロが上のローマ書の箇所で語っている、「子たる身分を授け」られるというのは、神の「養子になる」ということですが、このことについては過去記事で取り上げたことがありますので、そちらを参照してください。いずれにしても、天の父は私たちを愛し、養い、導いてくださる方であり、私たちはそのようなお方として神に対して祈るべきです。その祈りを導くのは「恐れ」ではなくて「愛」です。

もう一つ、ここで注意しなければならないのは、「我らの父」という表現です。「私の父」ではありません。私たちは祈りというと、往々にして「この私と神様との個人的な関係」という、個人主義的な理解を持ちがちです。もちろん、祈りには神と一対一で向き合う側面もありますが、主の祈りではそれとともに共同体的な視点を持って祈ることが必要であると思います。

神は教会の父でもあるお方です。私たちが神に対して「我らの父よ」と呼びかけるとき、私たちは世界中に広がる公同の教会の一員として祈っているのです。クリスチャンは教団教派に関係なく、兄弟姉妹であり、神の家族であることを忘れてはなりません。クリスチャンは「異父兄弟・異父姉妹」ではありません。同じ神を「父」と呼ぶ存在なのです。

からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 (エペソ4章4-6節)

第2回の記事で、主の祈りをキリスト論的視点から祈ることの重要性について書きました。今回取り上げた、神による創造と救済の両方について、キリストは重要な役割を果たしておられます。キリストは神の創造の担い手でした(ヨハネ1章3節、コロサイ1章16節)。そしてもちろん、私たちが救われ神の子とされる特権が与えられたのは、このキリストを通してでした(ヨハネ1章12節)。そして教会はキリストのからだです(1コリント12章27節)。私たちが主の祈りを祈る時、私たちはキリストを通して造られ、キリストによって贖われ、キリストを頭として一つにされている存在として、父なる神に祈るのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(3)

(シリーズ過去記事  

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

今回から「主の祈り」の内容を細かく見ていきたいと思います。

「天にまします・・・」

まず、この祈りは神に対する呼びかけから始まります。日本ではクリスチャンでなくても、「旅の無事を祈ります」「成功を祈ります」など、「祈る」という表現はよく使われます。けれどもそれらの人々が誰に対して祈っているのかは明らかでない場合が多いです。おそらく多くの人々が「祈る」という時、それは特定の神仏に対して祈願しているというよりは、「~であってほしい」という漠然とした願望を表しているように思います。けれども、ユダヤ教の厳格な一神教信仰に生きていたイエスと弟子たちの文脈にあっては、祈りを捧げる対象は唯一の生ける神以外にはありえませんでした。しかし問題は、その神がどのようなお方であるという理解のもとに祈っているか、ということです。これは私たちが主の祈りを祈るときにも意識すべき重要な問題です。

まず、この神は「天」におられる神です。ここで言う「天」は必ずしも物理的な空間をさすわけではなく、第一義的には「神のおられるところ」です。これに対して私たちが住むこの世界を「地」といいます。過去記事で触れたように、N・T・ライトによると、聖書の世界観はこの天と地が部分的に重なり合い、かみ合う世界観であるといいます。特定の時と場所において、天と地が出会い、神と人とが出会うことができる―祈りとはまさにそのような「場」の一つと言えるでしょう。

さて、1世紀のユダヤ人たちは基本的に次のような世界観を持っていました。

AncientHebrewCosmology

古代ヘブライ人の宇宙像(© 2012 Logos Bible Software)

この宇宙像では、基本的に世界は「天」「地」「地下(よみ)」からなる三層構造で捉えられていました。当時のユダヤ人は、「空」は地の上をおおう固いドーム状の物質で、神はその上に住んでおられると考えていました。したがって、神のおられる場としての「天」は基本的には物理的空間としての「天」と重なってイメージされていたと考えられます。ただし、この神は上空の天に常にとどまっている存在ではなく、頻繁に地上の世界のできごとに介入し、人々とやりとりをし、みこころを行われる存在として描かれています。そのような、地上における神の臨在と働きをライトは「天と地が重なる」と表現しているのだと思います。ライトが終末において「天と地が一つになる」という時に意味しているのは、神の臨在と支配が天においてだけでなく地においても完全にあらわされ、神が「すべてにおいてすべてとなられる」(1コリント15章28節)ということだと理解できます。

ところが問題は、このような古代ヘブライ人の宇宙像は、現代の私たちにとってはまったくなじみのないものであるということです。私たちは、空は固いドームのような物質ではなく、地球の周囲には果てしない宇宙空間が広がっていることを知っています。そのような宇宙像においては、「天」を単純に「空の上」と考えることはできません。日本における「上方」とイスラエルにおける「上方」はことなりますし、宇宙空間を何億光年突き進んでも、神にたどり着けるとは思えません。このような現代の宇宙像において、神はどこにおられると考えたらよいのでしょうか?

一つの方法として、私たちは「天」はSFやファンタジー小説に登場するパラレルワールドや異次元世界のように、この地球と隣り合わせに存在し、目には見えないけれどもすぐそこにある世界と考えることができるかもしれません。C・S・ルイスのナルニア国はまさにそのような世界として描かれています。科学的宇宙像を持った現代人が、どのように聖書的な神のすみかとしての「天」をイメージできるかについては、たとえばPaula GooderがWhere on Earth Is Heaven?という小冊子にコンパクトにまとめています。

それでは、現代の私たちはどのようにして「天におられる神」に祈ることができるのでしょうか?それには2通りの方法があると思います。

第1は、聖書時代の人々が持っていた古代の宇宙像に入り込んで、その世界観のレンズを通して「天」をイメージして祈るということです。この方法では、私たちは文字通り自分たちの上方のどこかに「天」という領域があり、そこに神がおられることを想像します。私たちが祈る時、天に窓が開かれて、天におられる神の御前に私たちの祈りが香の煙のように立ち上っていくことをイメージすることができます。

第2の方法は、「天」に関する聖書の言語表現を、現代の私たちの科学的宇宙像に適合するように「翻訳」して、その理解にそって祈ることです。例えば上記のようなパラレルワールドとしての天をイメージし、私たちの世界のすぐとなりに存在する見えない世界におられる神に向かって祈ることができます。

私は現代のクリスチャンはどちらの方法で祈っても良いと考えていますが、個人的には最初の方法で祈る方が好みです。これはもちろん、「現代科学に基づく宇宙像が間違っていて、古代ヘブライ人の世界観が正しいのだ」と信じこむことではありません。しかし、私たちは聖書を読む時に、そのナラティヴが創り出す物語世界をイメージし、その中に入り込んで、そこで起こるできごとを追体験し、その中で語られるメッセージを受け取ることができます。実はこれが、ナラティヴ一般の正しい読み方でもあると思います。私たちはルイスの「ナルニア国」やトールキンの「中つ国」が実在する場所でないことを知っていますが、それがあたかも実在する場所である「かのように」、想像力(イマジネーション)を用いてその中に入り込むことなしには、それらのナラティヴを本当に味わうことはできません。祈りにおいてもそのような想像力は大変重要であると思います。けれども、どうしても現代の科学的宇宙像を離れては神をイメージできないという人は、第2の方法で祈ることもできるでしょう。

いずれにしても、「天は本当はどこにあるのか」ということよりもっと重要なのは、「天と地はどのように関わっているのか」ということだと思います。祈りは天におられる神に対して、地に住む者たちがささげるものです。天と地はことなる領域です。私たちは、いつでも神の存在を身近に感じられるわけでも、神の意思が私たちの周囲でいつも実現しているわけでもないことを知っています。にもかかわらず、私たちが祈る時、天と地が重なり合い、天に通じる窓が開かれるのです。

(続く)

 

「主の祈り」を祈る(2)

前回の記事

「主の祈り」はイエスが弟子たちに教えられた祈りです。ですから、礼拝ごとにこの祈りを唱える教会も多いですし、個人的にも暗記して毎日祈っている人も多いでしょう。しかし、主の祈りはそらんじられるけれども、その意味を考えながらじっくりと祈ったことがないという人も案外多いのではないでしょうか。主の祈りを毎度の儀式のように何も考えずに繰り返しているだけで、まったく心に響いてこないというのは、あまりにももったいない話だと思います。

主の祈りは単に暗記して唱えれば「御利益」がある呪文のようなものではありません。主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えられたからには、この祈りには単なる儀式、礼拝やデボーションのプログラム中の単なる一項目以上の意味があるはずです。クリスチャンは主の祈りの意味を深く考え、一語一語を味わい、掘り下げて祈らなければならないと思いますし、そのためにはそれなりの準備が必要です。

これはあくまでも個人的な意見ですが、主の祈りはひとりで時間をかけて祈る方が好きです。他人と一緒に声を合わせて祈ろうとすると、自分のペースで一語一語を噛みしめ味わいながら祈ることができないため、どうしても表面をなぞるようにしか祈れない気がします。けれども、ひとりだけで神と向き合い、主の祈りを一語一語ゆっくりと味わい、黙想し、繰り返しながら祈っていくと、神の深い臨在に触れてとても充実した祈りの時を持つことができます。

後で述べるように、主の祈りは共同体的な祈りです。にもかかわらず、イエスは直前の6節で、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」と命じておられます。この二つの側面は矛盾するものではないと思います。もちろん、公の礼拝において他の兄弟姉妹と共に祈る祈りも素晴らしいですが、自分ひとりだけで神のみ前に出て祈る時も、神の民である公同の教会に属している意識を持って祈ることが重要であると思います。

さて、日本のプロテスタント教会で広く用いられている主の祈りのテキストは、次の文語訳のものです。

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

新約聖書では、この祈りはマタイ福音書6章9b-13節に収められています。

9b 天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。

10 御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。

11 わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。

12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。

13 わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。

これはイエスが弟子たちに語られた山上の説教の一部で、どう祈るべきかについての教えの文脈で登場する祈りです。 山上の説教の中心主題は「神の国」ですので、主の祈りも「御国の祈りThe Kingdom Prayer」といって良いでしょう。ちなみに、最後の頌栄の部分「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」はマタイ福音書の最古の写本にはありません。

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カール・ハインリッヒ・ブロッホ「山上の垂訓」

9節前半で、主の祈りの導入句として、「だから、あなたがたはこう祈りなさい」というイエスのことばが記されています。ここに出てくる「こう祈りなさい」という命令は、「このように祈りなさい」ということであって、呪文のように一言一句間違えないように唱えなければならないということではありません。ルカ福音書11章2-4節では、同様の内容で、より簡潔な祈りが記されています。イエスは少しずつ異なる表現の祈りをいろいろな機会に教えられたのかも知れませんし、あるいは福音書記者が、イエスの語られたオリジナルの祈りの文句を編集したのかも知れません。(そもそも、そのような編集がなされたこと自体、初代教会では主の祈りを一言一句間違えずに唱えることに拘泥していなかったことを暗示していますが、教会の公の礼拝で一斉に唱える必要から、今日伝えられているような特定のテキストに固定化されていったことは充分にありうることです。)いずれにしても大切なのは、正しい文言を「唱える」ことよりも、その内容と意図を理解して、それにかなった祈りをしていくことです。さらに、11節「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」は、この祈りが毎日祈るべき祈りとして教えられたことを暗示しています。

さて、主の祈りはいくつかの短い祈りの集まりとしてとらえることができますが、これらの祈りには優先順位があり、イエスが教えられた通りの順番で祈っていく必要があります。N・T・ライトは最近出版されたSimply Good Newsの中で主の祈りについて論じていますが、その中で、多くの人々は主の祈りをさかさまに祈っているという、興味深い指摘をしています。オリジナルのテキストを次のように並べ替えてみると、分かりやすいかも知れません。

わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
御国がきますように。
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。

もちろん、文字通りこのように祈っているクリスチャンはいないでしょうが、多くのクリスチャンが祈る祈りは、主の祈りのパターンからすると逆の優先順位にもとづいてなされている、というライトの指摘は的を射ていると思います。つまり私たちがまず真っ先に口にしてしまう祈りは、「助けてください」「ゆるしてください」「与えてください」というものが多いのです。これらの祈り自体が間違っているわけではありませんが、それらはより重要な、神の御名があがめられるように、神の国が来るようにという祈りの光に照らして祈る必要があります。

主の祈りはイエスが公生涯の中で(つまり十字架と復活以前に)弟子たちに教えられた祈りです。この祈りのテキストにはイエスご自身のことは何も出てきません。けれども、クリスチャンとして主の祈りを祈る時には、イエス・キリストというレンズをとおして祈ることが不可欠です。「主の祈り」は「主イエス・キリストの祈り」ということができるのです。イエスはこの祈りを弟子たちに教えられただけでなく、ご自分でも祈られたに違いありません(罪のゆるしを求める祈りは別かも知れませんが)。そしてイエスの地上生涯は、主の祈りの体現であったといえます。そして、主の祈りを祈ることは、イエスの弟子としてその後に従っていくことにほかなりません。ライトは次のようにも述べています。

この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる。(『クリスチャンであるとは』227ページ)

クリスチャンは、キリストによって贖われた者、キリストに従う者、キリストにある(in Christ)者として主の祈りを祈ります。主の祈りのすべての要素は、キリスト論的視点から祈るべきなのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(1)

 

Lords Prayer

このところ、主の祈りについていろいろなことを考えさせられ、また個人的な祈りにおいても祈ることが多くなっています。このあまりにも有名な祈りについてはすでに多くの方々が語っておられますし、自分の乏しい祈りの生活から語るのもおこがましい気がしますが、少しでも誰かの助けになればと思い、何回かにお分かちさせていただきます。今回は導入として、祈り全般について最近思うことについて書きたいと思います。

私がクリスチャン生活を送ってきた教会のほとんどは、祈りと言えば自由祈祷が一般的で、それ以外の祈りをする機会はほとんどありませんでした。私自身も、「紙に印刷された文句を唱えるのは本当の祈りではない。その時その時に、自分のことばで、自分の思いを、聖霊に導かれるままに祈るのでなければ・・・」という考えがありました。けれども近年、定型文による祈りの素晴らしさについて考えるようになりました。これは「あれかこれか」の二者択一の問題ではなく、どちらもそれぞれに素晴らしい点があると思います。

決められたテキストに従って祈る祈りの利点はいくつかあります。まず、祈祷書などで広く用いられている祈りを祈ることは、教会に属する者として祈ることを意味します。これは後から述べていくように、祈りの共同体的性質を考える時にとても重要な側面であると思います。私たちは個人として神と向き合う祈りも必要ですが、他のクリスチャンとの霊的一致の中で祈ることも忘れてはならないと思います。

もう一つの利点は、定型文を使うことによって、自分の力では祈れない時にも祈ることができる、ということです。どんなクリスチャンでも気分がひどく落ち込んで祈る気分になれない時はあるものです。そんな時に、定型文の祈りを祈ることは大きな助けになります。実際にやってみないとなかなか分からないことですが、これは単なる紙の上の文字を機械的に発音する以上の力がある祈りです。Kathryn Greene-McCreightは、クリスチャンとして精神疾患について考えた良書Darkness Is My Only Companionの中で、自身がうつ状態に苦しんでいた時に、祈祷書をはじめとする定型文を使った祈りにどれだけ助けられたかを述べています。

ハートレイ・コールリッジ(英国の詩人)、ヘブライ人たち、ダビデ王よ―あなたたちが祈ってくれたことがとても嬉しい。私は祈れないから。私はあなたたちの祈りを祈り、あなたたちの信仰に依りたのもう。私自身には何もないから。

つまり、自分自身には祈るだけの力も信仰もない時、私たちは他のクリスチャンの信仰に支えられるようにして、彼らの祈りを自分の祈りとして祈ることができるのです。

最後に、定型文を使った祈りには、自分では到底思いつかないような祈りをすることができる、という利点があります。 自由祈祷の潜在的な短所は、「自分の心の思い」だけに頼って祈っていると、自分の願いや先入観、神学などに引きずられた祈りに偏ってしまう可能性があることです。人が日々祈る方法や内容にはその人の霊性や人格が如実に表れるものです。たとえば狭い自己中心的な信仰しかもっていない人は、自分の祝福を願い求めるだけの祈りになりがちです。You are what you pray.

けれども、祈りの目的の一つは聖書的な世界観、価値観、思考方法、行動様式、ライフスタイルを体得していくことにあると思います。私たちが神のみこころに沿った祈りをすることによって、神の国の世界観や価値観が私たちの内側に染みこんできて、私たちの思いが変えられ(ローマ12:2)、行動が変えられていきます(ローマ12:1)。つまり私たちは自分が祈るとおりの存在になっていくのです。You will become what you pray.

さて、それではどのような種類の祈りを用いていったら良いのでしょうか?祈祷書などを使うことも有効ですが、そのような習慣になじみのないクリスチャンにとっては、聖書の言葉にそって祈ることから始めるのが良いと思います。詩篇などは祈りの宝庫とも言えます。このブログでも、たとえば黙示録の聖句にもとづいて祈る祈りを紹介したことがあります(「天の玉座の間の祈り」)。しかし、おそらくすべてのクリスチャンにとって最も良い出発点は、イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」を祈ることでしょう。次回からは実際に主の祈りをどのように祈っていくことができるか、考えてみたいと思います。

(続く)

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(7)

(シリーズ過去記事      

ライトは第3部の13章「神の霊感による書」と14章「物語と務め」で、聖書が語り、私たちが生きている神の物語において、聖書自体がどのような役割を果たしているのかを論じています。

ライトによると、聖書もまた、天と地が重なり、かみ合う接点の一つであり、聖書の「霊感」もこのような視点で捉えられると言います。聖書は神の啓示そのものですが、それは単なる「真なる情報の伝達」ではありません。ライトは、聖書が与えられた中心的な目的は、正しい教理を教えることではなく(それも大切ですが)、神の民がこの地においてその務めを果たすエネルギーを提供することだと言います。その意味でライトは、「無謬性」や「無誤性」に関わる議論はそれほど重視しません(259ページ)。ライトによると、聖書の権威とは、まさにこのような、神がご自分の民を用いてこの世で為そうとされている働きという観点から考えなければならないのであって、「『聖書の権威に生きる』とは、その物語の語っている世界に生きることを意味する」(264ページ)のです。

従来の福音派プロテスタントの理解では、「聖書の権威に従って生きる」とは、「聖書に含まれる真なる命題を信じ、それに従って生きる」というかたちで理解されることが多かったように思います。そこでは、聖書の解釈と適用は通常次のような手順で行われます:

1.聖書テキストがオリジナルの歴史的文脈で伝えようとしたメッセージを復元する(釈義)
2.釈義の結果から、オリジナルの歴史的・文化的要素を取り除き、時代や文化を超えて通用する普遍的な原則を抽出する
3.2.で取り出した原則を、現代のコンテクストにあてはめる(適用)

このようなアプローチの有効性を否定するつもりはありませんし、私自身神学校でも教えています。けれども、このようなアプローチには一つの大きな限界があると思います。それは、聖書のメッセージを、時代や文化によって変わることのない永遠の真理(timeless truth)を表す命題に還元してしまおうとする態度です。たしかにこのアプローチは、聖書の教えをさまざまな時代や文化に生きる人々に幅広く適用することができるという利点がありますが、逆に、救済史の中の特定の時点に生きている私たちがどう歩むべきかということについて、非常に一般化された指針しか与えられないという欠点があると思います。

聖書をナラティヴとして読み、適用するという立場では、上で述べたような命題的アプローチの有効性を否定することなく、それにとらわれない柔軟なアプローチをすることができると思います。こちらの過去記事にも書きましたが、ライトは聖書を五幕からなる未完の劇の脚本にたとえています。その記事から関連する部分を引用します:

このような救済史的な聖書解釈のアプローチは多くの人々によって採用されていますが、おそらく最も有名なのは近年日本でも名を知られるようになってきたN・T・ライトのものではないかと思います。彼は聖書全体のナラティヴ(物語)を五幕ものの未完の劇にたとえています。最初の四幕は1. 創造、2. 堕落、3. イスラエル、4. イエス・キリストであり、劇の脚本(聖書)は、ここまでの部分と、最終幕の最初の部分(初代教会)だけが完成しており、あとは結末(終末)のラフスケッチのみが残されている、と考えます。

さて、ライトによると現代の私たちはこの初代教会と終末の間の部分を演じる役者として舞台に立っています。ところが私たちの演じるべき部分の脚本は未完であるため、私たちはこれまでの劇のストーリー展開とその終わり方を熟知した上で、今の場面にふさわしい演技を即興improvisationで演じていかなければならない、と言います。従って、即興とは(ジャズの即興演奏がそうであるように)あらかじめどのように行うかは一通りに決められているわけではありませんが、だからといって単なるでたらめではありません。ライトは、現代の私たちはこのようにして聖書を読み適用すべきだ、というのです。

クリスチャンであるとは、聖書の教えに従って生きることですが、「聖書の教えに従って生きる」とは、単に普遍的な宗教的・道徳的原則を信じ適用するということではなく、「現在進行中の聖書の物語を神に導かれて生きる」ことだといえます。

*   *   *

『クリスチャンであるとは』について何回かにわたって書いてきましたが、今回で最終回にしたいと思います。最初に書きましたように、本書で取り扱われているすべての重要な主題を網羅したわけではありませんが、ごくおおまかな内容は紹介することができたのではないかと思います。ライトの主張に同意するか否かにかかわらず、本書を読まれた方が、新たな興味と関心をもって聖書を紐解かれるだけでなく、聖書にある壮大な神のドラマに身を投じて生きるようになることを願っていますが、それはまた著者ライトの願いでもあると信じます。

(終わり)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(6)

(シリーズ過去記事     

今回は第3部「イメージを反映させる」を概観したいと思います。この部分で著者ライトは、第2部で提示したようなキリスト教信仰の要点に基づいて、今日の私たちがクリスチャンとして生きるとはどういうことなのかについて語っていきます。

すでに見たように、第2部でライトはクリスチャンの世界観と、クリスチャンが語る物語(救済史)を提示しました。世界観はいわば舞台設定であり、救済史はその舞台上で展開していく神のドラマであると考えられます。しかし、聖書の物語は紀元1世紀の初代教会の物語で終わる、単なる過去の歴史物語ではありません。聖書の物語は今も継続中であり、私たちはその現在進行中の物語に参加するように招かれているのです。

つまり、現代の私たちがクリスチャンとして生きると言うことは、天と地が部分的に重なり合うダイナミックな世界観を持ち、その天地が最終的に合一する終末のビジョンを意識しつつ、聖書の物語を継続するようなかたちで生きるということなのです。

具体的に言うとそれは、教会という共同体、神の民に属する者として生きるということです。ライトによると、教会の目的は、神を礼拝することと、この世にあって神の王国のために働くことであり、そのために互いに交わりを持つことでもあります(15章)。

まず、教会は神を礼拝する民です(11章)。そこでは、神による創造と救いの物語として聖書が読まれ、イエスとその死の物語の告知として聖餐式が行われます。ライトによれば、礼拝もまた、天と地が出会う契機の一つなのです。また、教会は祈る民でもあります(12章)。特に主の祈りは、キリスト教が何であるかを端的に表す祈りとして重視されます。主の祈りは天と地の間を生きるイエスの生き方にならうという意思表明です。そしてクリスチャンの祈りとは、天と地の狭間に立って、その二つが永続的に重ねられることを求めてうめくことでもあります。

ライトは教会の中心的目的は個人の霊的成長でも究極的救いでもなく、「宣教(ミッション)」であると言います。教会は福音を宣べ伝える共同体なのです。では「福音」とは何でしょうか? ライトによると、これは神がイエスの死と復活においてご自分の王国を開始されたという、すでに起こったことに関する「良い知らせ」を意味します(290-291ページ)。そのメッセージに対して、信仰と悔い改めをもって応答する人々は、神が全世界を正そうとするプロジェクトの先駆けとして「義とされる(正される)」―─これがパウロの言う「信仰義認」の意味であると、ライトは言います(295ページ)。バプテスマを受けて教会に加わるとは、神の創造から新しい創造に至り、イエスの死と復活が中心であるような神の物語の中に参加し、神のプロジェクトの一部となることなのです(303ページ)。

聖書の物語はどのような結末を迎えるのでしょうか? それは、これまで断続的かつ部分的にしか重なってこなかった天と地が最終的に完全に重なり合い、神の栄光がすべてをおおいつくすことです(16章)。ライトによると、「死後天国に行く」ということは、聖書の物語の結末ではありません。聖書の物語の結末は、私たちが肉体を脱ぎ捨てて天にある霊的楽園に昇っていくことではなく、新しいエルサレムが地上に降りてきて、神が、肉体をもって復活した人々と共に住まわれることです(黙示録21章1節以下)。「復活」とは、人が死んでキリストともに過ごした後(いわゆる「死後のいのち」)、新しい肉体をもってよみがえることであり、ライトはそれを「死後のいのちの後のいのち」と呼んでいます(306ページ)。そしてこの復活への信仰こそがキリスト教の終末的希望の中心であるといいます。聖書の物語の結末では、この物質的世界は見捨てられるのではなく造り直され、復活した人々は新しい被造物世界に住んで神と共にそこを治めることになります。これこそ、聖書の物語が指し示すクリスチャンの救いのビジョンなのです。

このようなキリスト教の希望は、第1部でライトが取り上げた4つの「声の響き」、すなわち義への希求、霊的なことがらへの渇望、人間関係への飢え、美における歓びという、人間の基本的な求めに応えるものであると言います(16章)。神は世界に義をもたらそうとしており、教会はイエス・キリストの福音と聖霊の力によって、その義の実現のために地上で働くように召されています。またイエスに見られるような神と人との関わりに生きる生き方に進むように召され、新しい創造の美を先取りして祝うように召されているのです。

クリスチャンは、このような終末の希望を抱きつつ、今を生きています。クリスチャンであるとは、「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく」ことなのです(334ページ)。

(続く)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(5)

(本シリーズの過去記事    

今回は『クリスチャンであるとは』第2部の6-10章に基いて、ライトが再構成する聖書ナラティヴのストーリーラインについて概観します。聖書の物語の「主人公」は言うまでもなく神ご自身ですが、実際の事件はほとんどが地上で起こります。先に見たように、神は天におられ、その天は地と部分的に重なり、かみ合っています。天の神は地に住む人々の歴史に介入され、人々との間にやりとりがなされます。つまり、聖書の物語は神と人が織りなす物語と言えます。

ライトは本書では人類の創造と堕落については軽くしか触れていません。彼の物語る聖書のナラティヴ(少なくともその本編)はイスラエルから始まります(6章)。現代のクリスチャンの多くは、あたかもイエス・キリストが歴史の真空からある日突然現われて人類の救いをなしとげたかのように、自分たちの信仰にとってイスラエルが持っている重要性について、ほとんど意識していません。しかしライトは、イスラエルの物語を理解することなしにイエスの物語を理解することはできないと言います。

イスラエルの長い物語(ストーリー)において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、まさにクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字どおり最も根本的なことである。(102ページ)

イエスの物語がイスラエルの物語のクライマックスである、というライトの視点は大変重要です。けれどもそれはどういう意味なのでしょうか?

ライトによると、旧約聖書におけるイスラエルの物語には繰り返し登場するあるパターンがあります。それは、「捕囚と帰還」のパターンです。エジプトでの奴隷生活とそこからの解放(出エジプト)、バビロン捕囚とそこからの帰還など、イスラエルの歴史は大小様々な隷属と解放、捕囚と帰還の物語で満ちています。それは究極的には、堕落によってエデンの園から追放され、神から離反してしまった人類を神が最終的に回復されるという、聖書全体を貫く大きな物語の反映であるのです。

ライトによると、イエスと同時代のユダヤ人たちは、バビロン捕囚からの帰還は完全には実現していないと感じており、神による最終的な解放を待ち望んでいました。それは神が王となる時であり、世界に義がゆきわたる時であり、天と地が一つとなる時であり、新しい創造がなされる時でした。そのような希望は、捕囚と回復の物語を集約するある人物、すなわち「メシア(油注がれた者)」に向けられていきます。

ユダヤ人たちが待ち望んでいた神による救いを体現したのが、ナザレのイエスでした(7-8章)。イエスは、イスラエルの神のみが為されるとされていた救いのわざを自らの使命として受け入れ、行動しました(ライトによると、イエスは自分が神であることをこのような意味で「知って」いました)。そして、イスラエルの物語で繰り返されてきた捕囚と帰還のパターンが究極的に凝縮された形で現れたのが、イエスの死と復活の物語だったのです。イエスは十字架上でこの世の悪の力のすべてをその身に引受けて死ぬことにより、悪に勝利しました。そしてイエスの復活を通して、天と地が最終的に結びつきました。ライトによると、イエスにおいて神が成し遂げたことこそが、キリスト教のエッセンスなのです:

キリスト教は、今も生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして―─見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える―─というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。神がそれをなされた。イエスと共に、救出のわざをただ一度で完全に実現された。この宇宙において、決して二度と閉じられることのない素晴らしいドアがサッと開かれた。それは、私たちが鎖につながれ、閉じ込められている牢獄から出るために開かれたドアである。(133ページ)

イエスが復活され、天に帰られて後も、聖書の物語は続いていきます。この章における主要な登場人物は教会ですが、ライトは教会の務めは聖霊の助けなしにはありえないと語ります(9-10章)。聖霊は、すでに天に昇られたイエスのいのちを、教会が地上において分かち合い、イエスの働きを進めていくために与えられています。聖霊に導かれて生きるとは、「天と地が重なり合う場で生き、そのあり方に沿って生きること」なのです(192ページ)。

*   *   *

救済史の展開という視点から聖書のナラティヴを見ていくライトの視点において、もっとも議論を呼ぶのは、「1世紀のユダヤ人は捕囚はまだ終わっていないと考えていた」という主張であると思います。この考えは、ライトの主著であるChristian Origins and the Question of Godシリーズの第1巻The New Testament and the People of Godをはじめとして、彼が繰り返し主張してきたものです。もちろん、1世紀のユダヤ教の多様性については広く知られており、すべてのユダヤ人が同じように考えていたわけではありませんが、ライトはイエスと同時代のユダヤ人の多くがそのように考えていたと主張しています。

これはもちろん「捕囚の終わり」をどう理解するかによって変わってきます。バビロンに捕囚にされたユダの人々がカナンの地に物理的に帰還し、エルサレムに神殿を再建したことをもって「捕囚の終わり」とするなら、確かにバビロン捕囚は終わったと言えますが、もちろんライトはそのような意味で言っているのではありません。

捕囚後のユダヤ人たちが待ち望んでいたのは、異邦人による支配からの完全な解放、神の臨在と栄光あふれる完全な神殿の再建、イスラエルの罪の赦し、そして諸国民によるヤハウェ礼拝などといった、旧約預言書に記されている約束が完全に実現する状態としての「捕囚の終わり」であったとライトは言います。そして捕囚後のユダヤ人の多くが、これらの約束は何一つとしてまだ実現していないと感じていたということを、ライトは様々な旧約聖書や中間時代のユダヤ教文書を元に論じています。本書では一例として、捕囚の期間としてダニエル書に記されている「七十週」(=490年と解釈されます)という数字が、中間時代のユダヤ人たちによって、「捕囚のほんとうの終わり」の時期を計算するために用いられていたと述べています(114ページ)。

「1世紀のユダヤ人たちは、自分たちはまだ捕囚状態にあると思っていた」というライトの表現は、人によってはセンセーショナルに感じるかもしれませんが、彼が言っている内容そのものはそれほど過激なものではないと個人的には感じています。要するに、終末における完全な解放という預言的ビジョンに対して、ユダヤ人の歴史的現実(第二神殿の建設やハスモン王朝の成立などを含め)はつねに部分的で不完全な満足しか与えてくれないものであり、どの時代にも「より完全な解放」を待ち望む人々が存在したと言うことではないかと思います。(このあたりは、第1部でライトが論じていた、「声の響き」の議論に通じるものがあると思います。)

1世紀のユダヤ人たちが感じていたこのような問題に対して、新約聖書が与えている解答は、「捕囚からの完全な解放への道は、十字架につけられ、死んでよみがえったナザレのイエスによって開かれた」というものでした。例えばイザヤ書はバビロンからの解放を「新しい出エジプト」として描いていますが、新約聖書においてはイエスはしばしば新しいモーセとして描かれています。イエスから始まった運動は、まさに新しい出エジプトとしての、捕囚からの最終的解放の始まりだったのです。

もちろん、イエスの死と復活が、当時のユダヤ人たちの終末的希望を即座に完全に実現したわけではありません。神の国の完全な到来はいまだに将来の希望にとどまっていました。したがって、懐疑的な眼差しを向けるユダヤ人も当然多かったことでしょう。しかしイエスの弟子たちはイエスと彼に従う者たちの共同体(教会)のうちに、「捕囚の終わり」として約束されていたものが、世界の主としてのイエス、罪の赦し、神の臨在あふれる神殿としての教会共同体、異邦人の神の民への参加、等々という形ですでに実現し始めているのを見たのです。

(続く)