確かさという名の偶像(2)

その1

今回からグレッグ・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の内容を少しずつ紹介していきます。今回は序章を取り上げます。(前回の記事では、留学時代に通っていた教会の牧師でもある同氏を「ボイド師」と呼んでいましたが、レビューという性格もあり、記述の簡潔さのためもあって、以後は敬称なしで書かせていただきます。)ちなみに”benefit of the doubt”というのは、「疑わしきは罰せず」を意味する英語の慣用表現ですが、キリスト教信仰における疑いの肯定的な役割にひっかけたタイトルになっています。

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「信仰」とは何か?これが本書の大きなテーマですが、ボイドは「信仰が強い」とはどういうことかについて考察します。彼自身が最初に回心した教会を含め、多くのクリスチャンは信仰の強さはその人がどれだけあることがらについて強い確信を持っているかによって決まると考えています。このような信仰理解によると、「疑いは信仰の敵」であることになります。このようなタイプの信仰をボイドは「確実性追求型の信仰certainty-seeking faith」と呼びます。

しかし、ボイドはこのような信仰理解に対して疑問を投げかけます。確実性追求型の信仰によると、ある人の祈りが応えられる(たとえば病気が癒されるなど)かどうか、あるいはその人が救われるかどうかといった信仰上の問題は、その人がどれだけ強い確信を持っているかどうか、逆に言えばどれだけ自分の思考の中から疑いを排除することができるかによって測られます。しかし、クリスチャンの信仰は本当に、あることがらについて強い確信を持つ心理的能力によって評価されるべきなのでしょうか?

ボイドはそのような心理的能力は、当人の人格の質とは無関係であると考えます。ある人々は生まれつき単純で物事を信じやすい性格を持っていますし、別の人々はより物事を批判的に捉え、あることがらが本当であるかを問い続けてやまない人もいます。一般的にどちらかというと後者のグループに属する人々のほうが知的レベルが高いと思われますが、皮肉なことに「信じて疑わない」という「能力」は、前者のほうが高いということになるのです。これはクリスチャンの信仰の質がその人の知的能力に比例するということではありませんが、人が持って生まれた心理的傾向によって信仰の質が測られるのは、確かにおかしなことであると言わざるを得ません。

このような「確実性追求型信仰」の陥りやすいもう一つの落とし穴は、そのようなタイプの信仰を持つ人は、どのような種類のものであれ、最初に教えられた信仰内容にしがみつくことを余儀なくされるということです。もし最初に訪れた教会で語られた教えが「真理」であり、その内容を疑わずに信じることにその人の永遠の運命がかかっているとなると、すでに教えられた「真理」に対して疑いを持ったり、異なる信仰理解の可能性を探ることは非常に難しくなります。しかし、もしそうだとすると、クリスチャンの信仰内容はさまざまな環境的要因(たとえば最初に洗礼を受けた教会の教理的特徴)によって決定されてしまうことになります。これが本当に信仰のあるべき姿なのでしょうか?

ボイドは、このような「確実性追求型信仰」には重大な問題があると言います。

考えても見てほしい。あることがらを信じるとは、それが真理だと信じることである。けれども、もしあなたが自分の信じていることが真理であるかどうかに本当に関心があるなら、その信念を成り行き任せで決めることはできないはずだ。ある信念が真理であるかどうかを決定する唯一の方法は、それを理性的に調べることである。つまり、そのことがらを疑ってみなければならない。人は自分の信念がもしかしたら間違っているかもしれないという可能性に対して真に心を開くことがなければ、それが真理であるかどうかに関心をもつことはできない。他に道はないのだ。けれどもこれこそ、確実性追求型の信仰が妨げるものなのである。(Benefit of the Doubt, p. 14)

つまり、皮肉なことに「確実性追求型の信仰」は「真理」を固く信じて疑わないと主張しながら、同時にそれが本当に真理であるかどうかには関心がない、ということになるのです。

これと関連して、多くのクリスチャンは、信仰とは無数の「信仰箇条」から成っており、そのどれか一つでも崩れるならば、キリスト教信仰全体が危機にさらされると考えています。ボイドはこのような信仰のあり方を「トランプの家」にたとえています。

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このような信仰のモデルでは、クリスチャンは自分の信仰を構成するすべての要素について絶対的な確信を持つ必要があり、そのうちどれか一つでもその真理性が疑われるならば、クリスチャン信仰のすべてが崩壊してしまうと考えます。そのようなクリスチャンの信仰は、トランプの家のように、各要素の微妙なあやういバランスの上に成り立っているのです。

このことの一例として、ボイドは聖書に関するある特定の見方を取り上げます。多くの福音派のクリスチャンは「聖書は霊感された神のことばである」という教えを「聖書のすべての記述は霊的だけでなく歴史的にも正確なものである」というふうに理解しています。しかし、聖書の権威をこのような形で理解するならば、もし聖書の中の一箇所でも歴史的に誤っていることが証明されれば、聖書の権威全体、ひいてはキリスト教信仰の全体が崩れてしまう、ということになってしまいます。そこまで行かなくても、どんな細かい聖書記述でも、その史実性に疑いを差し挟むだけで、クリスチャンの信仰全体が揺さぶられることもあり得ます。これはまさに「トランプの家」的な信仰理解にほかなりません。これに対してボイドは、聖書が霊感された書であることを信じるために、すべての聖書の物語が歴史記述の正確性に関する現代的概念と合致している必要があると考える理由はないし、彼自身の存在の核を形成する、キリストとのいのちに満ちた関係が、彼が聖書の物語の歴史的信憑性をどう評価するかに影響されるわけでもないと言います。

誤解を招かないように付け加えますと、ボイドは聖書が霊感された神のことばであると信じていますし、聖書記述の史実性はどうでも良い問題だと言っているのではありません。この問題は本書の後の章でさらに詳しく論じられていますので、その時にまた取り上げようと思います。にもかかわらず、前の段落で述べたようなボイドの聖書観を受け入れないクリスチャンもいるでしょうが、そのような人々であっても、「聖書のあらゆる記述が歴史的に(あるいは科学的に)真理である」ということに信仰の土台を置こうとする立場が、「トランプの家」的信仰理解につながると言うボイドの主張は、真剣に考察するに値するものであると思います。

さて、ボイドはこのような「確実性追求型の信仰」は、いろいろな問題をはらんでいると論じます。一つには、「人は信仰によって救われる」という教えが「人はある特定の信条を確信を持って信じることによって救われる」というふうに誤解して受けとめられてしまうために、多くのクリスチャンの信仰告白と実際のライフスタイルがまったく一致しないという悲しむべき現実があります。

さらにボイドは、このようなタイプの信仰理解は、とりわけ現代のクリスチャンに重大な知的葛藤を与えるために、一方では多くのクリスチャンが教会を去り、他方ではノンクリスチャンがキリスト教をまともに相手にしない大きな原因になっていると言います。かつては「キリスト教世界」に住む大多数のクリスチャンは、その信仰に対して異を唱える別の信念体系からのチャレンジを受けることなく、一生を終えることが可能でしたが、今やそれは夢物語になりました。急速に多元化し、情報化する現代社会の中にあって、クリスチャンたちが自分とは異なる信仰・信条を持つ人々と接する機会はますます増えています。「確実性追求型の信仰」はこのような知的チャレンジに柔軟かつ効果的に対処する能力が弱いのです。

ボイドは、このような問題をはらんだ「確実性追求型の信仰」は聖書的な信仰ではないと言います。「確実性追求型の信仰」は心理学的な性質をもっている、つまり信仰者の精神状態が問題とされるのに対し、聖書的な信仰では契約的な性質、つまり信仰者がその生きざまによって信仰対象へのコミットメントをどのように表すかが重要になってくると言います。ボイドが本書で提唱しようとしている聖書的な信仰理解は、理性に根ざしながらも、さまざまなレベルの疑いや未解決の問題とも両立可能なものであると言います。このような種類の信仰は「トランプの家」的な「全か無か」のアプローチではないため、信仰内容のある部分の真理性(たとえば一部の聖書記述の史実性)が疑われたとしても、クリスチャンの信仰全体が揺るがされることはないと言うのです。

最後にボイドは本書の中心的主張を次のように要約しています。

私の主張は、信仰を建て上げ実行するために最も聖書的で知的にも実行可能な方法は、私たちの信仰のあらゆる側面において、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」(1コリント2章2節)を中心に据えることだ、ということである。(中略)私たちがこの基盤において、神に人生を捧げるに十分な程度の確信を持つことができさえすれば、私たちは行く手に立ちふさがる、どのようなことがらについてのいかなる疑いや混乱も、それがどんなに広く深いものであろうとも、恐れる必要はない。実際のところ、私たちが十字架につけられたキリストにしがみついている限り、私たちを悩ます疑いから逃れる代わりに、それを受け入れ、どのように疑いから恩恵を受けて成長することができるかを、平静な心で御父に求めることができるのである。(p. 19)

以上が序章に述べられている本書の基本的な主張です。次回からは各章の内容をたどりながら、さらに詳しく見ていきたいと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(1)

私が個人的に最も敬愛する現代の神学者の一人はグレゴリー(グレッグ)・ボイドGregory A. Boyd博士です。ボイド師はミネソタ大学、イェール大学とプリンストン神学校に学び、以前は米国ミネソタ州セント・ポールにあるベテル大学で神学の教鞭をとっていました。同地にあるWoodland Hills Churchの創立者・主任牧師であり、私たち家族がセント・ポールに住んでいた時には同教会の礼拝に出席し、ボイド師と個人的にお交わりする機会も与えられました。私の知るボイド師は大変気さくな温かい人物で、イエス・キリストへの愛と福音宣教の情熱にあふれた素晴らしい信仰者であり、そして非常に有能な神学者でもあります。

DSC_1840-003(Photo from ReKnew)

ボイド師には専門的な神学書から一般向けの書籍まで多数の著作があり、その主題も多岐にわたっていますが、彼の神学は日本ではまったくと言っていいほど知られていないのが現状です。そこでこのブログを通して、少しでも日本にボイド神学を紹介できたらと考えています。

その手始めとして、今回のシリーズでは、ボイド師が2013年に出版したBenefit of the Doubt: Breaking the Idol of Certainty(『疑うことの益:確実性という偶像を打ち砕く』)という本の紹介という体裁を取りながら、真に聖書的な信仰のあり方とは何かということについて考えていきたいと思います。

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同書の内容については次回からくわしく見ていきますが、その前にお断りしておくことがあります。読者の中には、これから紹介していく師の神学について違和感や拒絶感を持つ方が出てくるかもしれません。けれども、自分が慣れ親しんできた神学やものの見方と異なる意見を条件反射的に拒絶するのではなく、ひとまず先入観を捨てて相手の主張に耳を傾け、はたしてそれが筋道の通ったものであるかどうかを考えてみることは、とても大切なことであると思います(このことについては過去記事をご覧ください)。結果的にボイド師の意見に同意するかしないかは重要な問題ではありません。また、師の神学のある部分には同意できるけれども、別の部分は受け入れられないということも当然あると思います。私自身、すべての点においてボイド師と同意見であるということはありませんし、それはどんな神学者に対してもまずありえないことです。今回のシリーズが、読者の方々の神学的思索を深め、自らの信仰のあり方を問い直し、異なる立場の信仰者との実りある対話を育んでいく一助となればと願っています。

最後に少しだけ本書の主題に触れて、次回への橋渡しとします。題名から推測されるように、本書の主題は「信仰と疑いの関係」です。多くのクリスチャンは「疑いは信仰の敵である」と考えています。「強い信仰を持つ」ことは「疑いを持たない」ことと同義であると思われています。しかし、ボイド師によると、このような信仰理解は聖書的なものではないどころか、さまざまな弊害を持っているのです。これはあるクリスチャンにとってはかなりショッキングな主張であるかもしれません。ボイド師はなぜそう主張するのでしょうか?次回からその内容をくわしく見て行きたいと思います。

(続く)

「主の祈り」を祈る(9)

(シリーズ過去記事        

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。」

「こころみ」と訳されているギリシア語peirasmosは「試練」とも「誘惑」ともとることができることばです。いずれにしても、私たちの内と外から働きかけて、神から引き離し、罪を犯させ、御心にかなった歩みをさせなくするような力のことを言います。「悪」と訳されているギリシア語も「悪しき者」すなわち悪魔ととることも可能です。それぞれの言葉についてどちらの訳語を採用するにしても、以下に論じる内容にはあまり影響はありません。

このシリーズで何度も述べてきたように、主の祈りは「神の国の地上への到来」という文脈の中で祈る必要があります。そして、神の国はサタンの国に侵攻してくるものであり(過去記事を参照)、そこには必ず衝突があります。ですから、試練や誘惑のないクリスチャン生活はありえないのです。

私たちが日々体験する信仰の戦いはリアルなものです。そうでなければ、「悪(い者)から救ってください」という祈りは意味をなしません。この地上ではまだ悪の力が猛威を振るっており、クリスチャンであっても罪と死と苦しみの現実から完全に隔離されて生きることはできません。だからこそ私たちは、日々「我らを悪より救いだしたまえ」と祈るのです。ある人々にとっては、それは祈りというより叫びであるかもしれません。私たちが生きている世界はそういう世界です。しかし、イエスは十字架と復活を通してサタンに対して決定的な勝利をおさめてくださっており、世の終わりにはその勝利を完全に表してくださいます。究極的な勝利はすでに保証されているのです。この祈りは、そのような終末的勝利が現在においても現されることを求める祈りであると言えます。

私たちは自分からこれらの試練を求める必要はありませんし、そこから救い出していただくように神に求めるべきです。イエスご自身も、ゲッセマネの園で十字架という試練から救い出されるように祈られました。

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。(マタイ26章39節)

El_Greco_019エル・グレコ「園における苦悩」

しかし、この祈りは、先に祈った「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りの文脈で考えなければなりません。試練や悪から逃れることを求めることは決して間違ってはいませんが、それがクリスチャン生活の最優先事項ではないのです。それらすべてに対して、神の御心が優先します。イエスがゲッセマネで祈られたように、私たちは避けられない試練があるならばそれを信仰を持って受けとめなければなりませんし、実際に誘惑が来たらそれに対して抵抗しなければならないのです。

ですから、この祈りを祈ったから誘惑や試練が来なくなるというわけではありません。けれども、少なくとも私たちは、試練の中にも主の御心があることを信頼していくことができます。そして、神は耐えられない試練は与えられないお方です(1コリント10章13節)。

以前にも述べたように、イエスご自身、この部分を含め主の祈りを日々祈っておられたと考えられます。にもかかわらず、イエスは地上の生涯で多くの試みと誘惑を受けられました(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。けれどもイエスは、それらすべてに打ち勝たれ、罪を犯されませんでした。これは私たちの従うべきモデルです(ヘブル12章1-3節)。同時に、イエスは私たちの弱さに同情できないお方ではない(ヘブル4章15節)ということも、この祈りを祈る時に大きな励ましになります。

「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

この頌栄の部分はマタイ福音書の古い重要な写本には含まれておらず、ルカ福音書の並行箇所にもありません。内容的には1歴代誌29章11-13節との類似が見られます。この部分は初期のキリスト教会の礼拝において主の祈りに続いて唱えられていたものが定着したものと考えられています。したがって、この頌栄はイエスが弟子たちに教えられたオリジナルの主の祈りには含まれていなかったと思われますが、主の祈りを締めくくるにふさわしい内容になっています。

私たちがここまでの祈りを祈ることができた理由は、神がすべての栄光と権威をもっておられるからです。神は宇宙の王であって、その支配を天だけでなく地にも拡大してくださり、永遠に支配されるお方です。たとえ現在地上には神の支配が完全には実現していなくても、私たちは今この瞬間にも天においてはその現実があることを信じ(黙示録4-5章)、やがて時が来るとそのことが地上でも実現することを信じています(黙示録11章15節)。だからクリスチャンは、悪の嵐が吹き荒れる世界においても、神の栄光をほめたたえるのです。 「アーメン」とは「その通り」「真実である」という意味です。神の国(支配)がこの地上に訪れる―その確信がなければ、私たちは主の祈りを真実に祈ることはできないのです。

そして、神の国の中心におられるのがイエス・キリストです。キリストが約二千年前に来られたことによって、神の国はある意味でこの地上に訪れ、拡大を始めました。そしてキリストが再び地上に来られる時に、神の支配は地上においても完成します。キリストこそ、永遠の御国を治める方なのです(2サムエル7章12-16節、ダニエル7章13-14節、2ペテロ1章11節、黙示録11章15節)。主の祈りが神の国の到来を求める祈りであるなら、それはまた王なるキリストの主権を認め、その再臨を待ち望む祈りでもあると言えます。

*   *   *

N・T・ライトは『クリスチャンであるとは』の中で、主の祈りについてこう言っています。

この祈りを私たちが唱えることは、天の父に向かって「イエスは私を、良い知らせの網(イエス自身が用いたイメージであるが)で捕らえました」と言うのに等しい。この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる。(227ページ)

主の祈りは、単なる信心深さの表明ではありませんし、私たちの個人的な必要が満たされ、霊性が高められるための祈りでもありません。主の祈りを祈ることは、歴史において神が人類と世界の救済計画を遂行されつつあること(これが「福音」です)を認め、それに応答してその働きへの参加表明をすることなのです。そしてそれは、そのような生き方のモデルを示してくださったイエスの足あとに従って生きることでもあります。

主の祈りを含む山上の説教はおもに弟子たちに向けて語られていますが、マタイ福音書の結末部分では、復活のイエスは弟子たちに対して「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(28章20節)と命じておられます。この「いっさいのこと」には当然主の祈りを祈ることも含まれるはずです。つまり、すべてのクリスチャンは主の祈りを祈るようにと命じられているのです。これは素晴らしい恵みです。どんなに信仰歴が浅くても、知識や能力がなくても、あるいは自分の罪と弱さに葛藤していても、主の祈りを心から祈るクリスチャンは神の国の運動に参加しているのです。

主の祈りは全てのキリスト教の教派で受け入れられている基本の祈りです。教理や聖書解釈において様々な違いがあったとしても、どんなクリスチャンとでも、この祈りなら共に祈ることができる―これもまた、素晴らしいことであると思います。ある意味で、主の祈りを祈ることは、聖なる公同の教会、唯一のキリストのからだなる神の民に属しているしるしであると言っても良いかもしれません。クリスチャンとして生きるとは、主の祈りを生きることなのです

(終わり)

「主の祈り」を祈る(8)

(シリーズ過去記事       

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」

私たちが祈る時には、物質的な必要だけでなく、関係における必要についても祈るべきです。それには神との関係人との関係の二つの側面が含まれます。私たちが健全な信仰生活を歩んでいくためには、この二つの側面がどちらも正されていく必要があります。すべての人は罪人であり(ローマ3章23節)、神と人に対して罪を犯しながら生きている存在です。したがって、すべての人の人間関係また神との関係の回復は罪のゆるしによってなされていく必要があります。

「罪」と訳されていることばはマタイ6章12節では「負債ofeilēma」、並行箇所のルカ11章4節では「罪hamartia」となっています。当時のパレスチナの日常語であったアラム語においては、「負債」は罪を表す慣用的な表現でした。罪というのは神に対する負債と考えられていたのです(コロサイ2章14節参照)。したがって、これらの表現は基本的に同じ内容を指していると考えられます。

私たちが日々神にゆるしを求めて行くというのは、救いを得るためではありません。私たちのすべての罪の代価はイエス・キリストの十字架によってすでに支払われ、イエスを信じる私たちは救いをいただいているのです。私たちはまずそのことを感謝する必要があります。同時に、クリスチャンであっても日々罪をまったく犯さないで完璧な歩みをすることは現実的に不可能です。よく言われるように、聖書でいう「罪」とは「的外れ」という意味であり、「悔い改め」とはただ悪事を後悔するということではなく、神の御心に沿った生き方へと方向転換することです。ここで言われているのも、信仰の歩みの中で道から外れたらすぐに方向転換をして神に向きを変え、正しい方向に歩き始めることです。

すでにこのシリーズで何度も強調してきましたように、この祈りも神の国の到来を求めるという主の祈りの文脈の中で考える必要があります。神の国が来るとは、神の支配が行われることであり、神の支配とは、恵み深い父の愛によってすべての関係が規定されることです。私たちが罪のゆるしを祈るのは、私たちと他者との関係、神との関係に愛と平和が満ち溢れ、それによって神の国が地上に現されていくためなのです。

さて、この祈りは主の祈りの中で唯一私たちの行いが条件になっている祈りです。イエスは、私たちが人の罪を赦すことなしに、天の父にゆるしを求めることはできないと言われます。しかも、マタイ福音書では主の祈りの後に念押しするかのように、イエスはゆるしの必要性を説いています(6章14-15節)。さらに、18章21-35節でもイエスはたとえも交えながら他者の罪をゆるす必要性について弟子たちに教えていますが、その結論部分でこう言われています:

「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。(マタイ18章35節)

ちなみに、マタイ18章では教会内におけるクリスチャン同士の関係が主題になっていますが、山上の説教における罪のゆるしも、同様に教会内の人間関係について語られているように思えます(5章23-24節を参照)。もちろん、クリスチャンがノンクリスチャンの罪をゆるすことを妨げるものは何もありませんが、主の祈りが神の国が地上に到来することを願う祈りであり、教会が地上における神の国のもっとも顕著な現れであるならば、クリスチャン同士がゆるしあうことの重要性は強調してもしすぎることはないでしょう。

このように、マタイ福音書では互いの罪をゆるしあうことが繰り返し強調され、しかもそれが神からのゆるしをいただくために必要不可欠であることが強調されています。これは行いによらない、恵みによる救いと矛盾するのでしょうか?必ずしもそうではありません。スコット・マクナイトは、山上の説教の注解書の中で、このことを次のように説明しています。

1.神は私たち(のはるかに重い罪)をゆるしてくださった。
2.それゆえ、私たちは神の恵みを拡大するために、他者をゆるすべきである。
3.もし私たちが他者をゆるさなければ、私たちは自分たちがゆるされていないことを示している。
4.ゆるされた人々は他者をゆるす。
5.しかし私たちが人をゆるすことによって、神のゆるしを得ることはできない。

これはヤコブ書における、信仰と行いの関係に似ていると言えるかも知れません。私たちは良い行いをするから救われるのではありませんが、信仰によって獲得される救いのリアリティは、必然的に良い行いを通して表されてくるはずです。まったく良い行いの伴わないクリスチャンは、その信仰と、したがって救いのリアリティを疑われてもしかたがありません。同様に、神の恵みによってゆるしを得ているクリスチャンは、その恵みを体現して生きる者とならなければなりませんし、そうであるなら、当然他者の罪もゆるすことができなければならないはずなのです。

ここにも、神の国の到来に関する「すでに」と「いまだ」の両側面があるように思います。キリストを信じたからといってすぐに聖人君子のような生き方ができるわけではないのと同様、クリスチャンであるからといって他者をいつも完全にゆるすことができるとは限りません。しかし、天の父が無限のあわれみによって私たちをゆるしてくださったのと同様、すべての人が互いにゆるしあって生きるというのが、世の終わりにおける神の国の完成の一つの表れであり、クリスチャンはそのような終末的リアリティを先取りして生きるようにと招かれているのだと思います。

このようなゆるしのリアリティはイエス・キリストにおいてすでに起こりました。十字架につけられたイエスは、自分を殺そうとする者たちについてこう祈られました。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ23章34節)

この箇所から、クリスチャンが他者をゆるすとは、父なる神から与えられるゆるしの恵みを他者へと取り次ぐ行為であると言えるかもしれません。クリスチャンはこのキリストにあって罪のゆるしを体験した存在であると同時に、敵をゆるしたキリストの足あとに従う者として生きるように召された存在です。キリストの十字架によって罪がゆるされたからこそ、私たちは他者の罪をゆるすことができます。と同時に、私たちが他者をゆるす時、私たちはまさに、その人々に対して、キリストにおいて示された神の恵みとゆるしを体現する存在となるのです。これはまさに、主の祈りの中心テーマである、「神の国(支配)が地上に現されていくこと」であると言えます。

このように考えるなら、主の祈りにおいて神に罪をゆるしていただくことを求める祈りに、他者の罪をゆるすという「条件」がつけられているのは、決していたずらに罪のゆるしを難しくするものでも、クリスチャンを束縛するものでもなく、ましてや行いによる救いを教えるものでもなく、神による罪のゆるしを本当の意味で体験するとはどういうことかを明確化させるものであると言えます。私たちが神に罪をゆるしていただくことと、他者の罪をゆるすこととは、車の両輪のように働いて、地上に神の国を拡大していくのだと思います。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その5)

(シリーズ過去記事     

関野祐二先生による、福音についてのゲスト連載も、いよいよ最終回です。お忙しい中、ご協力くださった先生に心から感謝します。

*   *   *

留守ばかりのゲストで申し訳ありません。「『福音』とは何か」の五回目(最終回)は、筆者を取り巻く状況を踏まえた、まとめのエッセーといたしましょう。

最初に、「『福音』とは何か」を追求する過程で生まれた、筆者の「物語」を一部引用します。これは今年の一月下旬、筆者が牧師を務める地域教会の週報に掲載した拙文です。

「先日、珍しくTV番組を録画鑑賞しました。自動車エンジン開発の責任者が、いかに世界一の低燃費エンジンを実現したかの話です。ほぼ完成の域に達しているエンジンを改良し、三大自動車会社に対抗し得る製品を送り出すとなれば、普通のやり方では到底無理。部下たちが自信満々で持って来る「ここを改良して少し燃費が良くなりました」とのアイデアを一蹴し、「もっと振れ幅を大きくせよ」と号令を出します。少し改良して少しだけ理想に近づく、そんなみみっちい考え方を捨て、思い切った発想の転換と冒険をせよ、というのです。そして、従来は異常燃焼を恐れて10が常識だったシリンダー混合気の圧縮比を、11でも12でもなく15に上げてみよ、と提案します。頂点を目指し、大きく振れてから現実可能性を探るアプローチです。半信半疑で燃焼実験をしてみると、意外とうまくいく。考えて考えて考え抜いて、他社にないアイデアを絞り出し、実現していくタフさに圧倒される思いでした。それ以来、「振れ幅を大きく」とのフレーズがいつも頭の中を駆け巡っています。

閑話休題。今夜から明日にかけて、JEA(日本福音同盟)神学委員会の合宿に出席します。委員長に就任して半年、あらためて責任の重さを痛感させられているこの頃です。先週月曜日は、2016年の第6回日本伝道会議に向けた打ち合わせでした。複雑な世界情勢がますます緊迫し、重苦しい閉塞感が覆う今の日本において、教会はどのように役割をはたしていけるのか。伝道会議というと、どうしても日本社会の分析や伝道ノウハウの共有が主なテーマとなるのですが、それを下支えし、動機付けるのが神学です。

昨年11月の研究発表以来、振れ幅大きく、福音派神学の再検討に入りました。創世記解釈の刷新、地を治める被造物管理のあり方、原罪およびアダムという存在の再考察、義認論の中身、福音とは何かの追及などなど。浮世離れした話題のようで、実は教会と信仰の生命線とも言えましょう。信頼できるメンバーで、そんなテーマを議論したいと思います。安全圏に閉じこもった守りの姿勢ではなく、振れ幅大きくブレークスルーし、パラダイム転換をはかるつもり。どうぞお祈りください」

連載第一回に書いた、5年前の『リバイバルジャパン』掲載記事の福音理解と今とでは何が変わったのか。周辺的なことから考えると、まず時代環境が変わりました。3・11という未曾有の自然災害と最悪レベルの原発事故を経験したことで、日本の教会はそれまでの福音理解では対応できない分野が多々あることに気づかされ、「包括的(ホリスティックな)福音理解」を今まで以上に求められたのです。連載第三回にも少し書きましたが、この五ヶ月前に発表された「ケープタウン決意表明(コミットメント)」を、地球の裏側で発せられた遠い世界の声明文とは言っていられず、まさしくコミットメントを求められる事態となったのでした。筆者の牧する教会も含め、この決意表明を学習し続けている教会も少なくないでしょう。加えて、日本の政治も特定秘密保護法施行や集団的自衛権行使の憲法解釈変更、平和憲法改憲の現実化、安保関連法案の衆議院可決など、戦後70年にしてかつてないほど右傾化が急速に進み、普天間基地問題や原発再稼動が国民的議論となることも相まって、この国において教会が福音に生きることの意味を真剣に問われるようになりました。そして、このブログ連載でも取り扱ってきたように、福音理解にかかわる神学分野で欧米を中心に活発な挑戦と議論がなされ、日本の福音派も傍観者ではいられなくなっています。加えて、2016年の第六回日本伝道会議、2017年のルター宗教改革500年を間近にし、福音主義キリスト教・福音派とは何か、福音とは何か、そのアイデンティティと中身を問い直す機が熟したと言えるのではないでしょうか。「福音」とは、守るものというよりも、生きるもの、追求するもの、つまり静的(スタティック)なものではなく動的(ダイナミック)なものでありましょう。

私たち福音主義者すなわち福音派の本分は、福音を福音としてそのまま生きる「福音への献身(コミットメント)」、その単純明快な誠実さにあると考えています。まさしくそれはWWJD(What Would Jesus Do? 主イエスだったら(こんな時)どうするだろうか)を問い続けることでしょう。これこそ主イエスへの献身ということ。主イエスが生きたように私も生きる、それが福音に生きるということです。なぜなら、神の贖い物語の結論としてこの世に訪れた主イエスご自身が福音であり、神の国そのもののお方だったからです。「福音を信じなさい」(マルコ1:15)との主イエスの招きは、「わたしを信じ、わたしに学び、わたしを信頼しなさい」と等価であると考えるべきでしょう。

主イエスがもたらした福音の豊かさ、その高さ、広さ、深さ、長さを追求するには、福音の骨組みたる神学をリアルタイムで刷新しなければなりません。そのためには、振れ幅大きく、思い切ったパラダイム転換への挑戦や、異なる立場との対話、常識と思われてきたことの問い直しが求められるし、福音理解の深まりをともに追及する健全なディスカッションが必須です。宣教が困難と言われるこの日本において、その方法論、教会形成やリーダーシップのあり方、説教論、牧会やカウンセリング方法論など、実践分野の議論や研究はそれなりになされてきましたが、組織神学的なディスカッションが十分になされてきたとは言いがたい、この五年間だったというのが率直な印象です。そこには、多少語弊があるかもしれませんが、福音派特有の、自由にものが言いにくい雰囲気があったような気もします。つまり、三十年前の聖書論論争や聖霊論論争のトラウマでしょうか、従来の伝統とは異なる神学を学んだり取り上げたりするだけで、信仰の正統性や福音主義者たる資格を疑われ、レッテルを貼られるのでは、との恐れを抱かせる気風です。不変の信仰と可変の神学を混同してきたのかもしれません。もちろん、どんなに過激な神学でもOKとまでは言えないし、福音派のルーツが聖書の権威を貶める自由主義神学との訣別にあったことを考えれば無理ない面もあるのですが、もしその守りの姿勢が福音本来の自由闊達な豊潤さを妨げる結果をもたらしているとすれば、それこそ本末転倒でしょう。虎穴に入らずんば虎子を得ず、とでも言えましょうか。

ルターの宗教改革は、誤りなき神のことばとしての聖書を民衆の手に取り戻す運動でした。万人祭司として、聖職者と信徒の区別なく誰もが聖書を母国語で読み、解釈し、適用する自由を与えられたのです。だから「福音とは何か」の追求とは、厳密な神学的考察が必須だとしても、それだけで完結すべきテーマではなく、ましてや専門家や教職者の独占的テーマでもなく、母国語でのみ聖書を読む一般信徒も参画して深めるべき課題のはず。むしろそこに、専門家が見落としていた意外な側面が発見されたり、思いがけず深遠な理解が得られる可能性があるかもしれません。いや、きっとそうに違いないのです。それが福音というもの。福音とは何かの追求、福音理解の深化には、ある種の素人臭さが不可欠なのかもしれません。みことばに、主は幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された(詩篇8:2、マタイ21:15-16。マタイ11:25-26も参照)とある通りです。これは、福音主義や福音派における信仰告白や信条の位置づけに関する考察にも道を開きます。聖書教理の硬直化による死せる正統主義からの脱却をはかったヨーロッパの敬虔主義と自由教会運動が、日本における福音主義のベースとなっているのは周知の事実ですが、基本的にそれは簡易信条の運動であり、厳密な信仰告白の体系化とは別の方向を目指して来たムーブメントでした。実際、中心軸をしっかり共有した上で、その他の自由を許容するのには聖霊による一致とセンスが求められます。しかし、福音には本質的にそうした要素が含まれているのではないか...もはや扱いきれないテーマになりそうなので、ここまでにしておきましょう。

「福音とは何か」の追求姿勢そのものが、「福音とは何か」を体現する、これが「福音」の定義を問われて右往左往してから五年後の結論です。「福音」は、それを聖書の物語という文脈から切り離して抽象化した瞬間、生気を失い、福音ではなくなってしまいます。福音の物語に私たちの物語を書き込み、贖いの歴史の一端を我々が構成していってこそ、福音を生きることになるのです。どんなに福音を理想的に定義し、語ったところで、その語る本人が鬼のような顔で平安を失っていたら、笑うに笑えない話でしょう。「福音」とは名詞でなく動詞、「福音」とは「福音する」という意味です。この点、「愛」ということばと相似かもしれません。「愛」も名詞ではなく動詞であり、行動に移すことなく抽象化してもなんら意味を成さない概念。なるほど、福音イコール愛、福音イコール「徹底的に愛されること」から始まるのだから納得できるではありませんか。

こうした定義もまた、「『福音』とは何か」の継続的追及によって変わり得るもの。固定化し、そこに権威付けをした途端、福音そのものが色あせ、ダイナミックさが消え、硬直化するに違いありません。いつか聞いた話ですが、目というのは絶えず細かく震えていてこそ、物を見ることができるそうです。試しに指で眼球を固定すると、不思議なことに数秒ですーっと視界が曇ってしまいます。福音主義とはムーブメント。絶えず振れ幅があってこそ、その中心にある真の福音を見据えることができるはずです。「『福音』とは何か」を、立場や伝統の違いを超えて共に追求し続け、共有すること、その福音共同体としてのあり方自体がきっと、福音とは何かを如実に証しするのでしょう。

(終わり)