エペソ書とキリストの戦い(2)

前回に引き続いて、エペソ書における霊的戦いについて概観します。

エペソ書3章でパウロはふたたび神の「奥義」について語りますが、その表現は1章10節とは少し異なっています:

5  この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。 6  それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。(エペソ3章5-6節)

これは1章10節にあった「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」という内容のうち、地上における神の働きの中身をより詳しく説明したものと言ってよいでしょう。パウロはこの「奥義にあずかる務」(3章9節)に携わるようになりました。その目的がすぐ次の箇所に書かれています。

10  それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、  11  わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。(3章10-11節)

このような知恵が支配や権威(前回見たように、これらは神に敵対する霊的存在をさしています)に対して示されるというのは何を意味しているのでしょうか?ここで、新約聖書の終末論に特徴的な「すでに」と「いまだ」の緊張関係を説明する必要があります。新約聖書では、キリストが来られたことによって、ある意味では「すでに」終わりの時代は始まっています。けれども、キリストが再臨して神の国が完成に至る時までは、「いまだ」終わりは来ていないのです。

NTeschatology

1章でパウロはキリストが「支配」や「権威」といった霊的存在よりも高く上げられた、つまりそれらを支配する存在であることを語りました。これは終末論の「すでに」の側面に属することです。しかし、支配や権威は今なお完全に神とキリストに服従するには至っていません。これは「いまだ」の側面です。このことは、「空中の権を持つ君」すなわち悪魔が「不従順の子らの中に今も働いている」とパウロが2章2節で述べていることから明らかです。

エペソ1章21節に出てくる「支配(アルケー)」「権威(エクスーシア)」「権力(デュナミス)」は1コリント15章24節にも登場しますが(翻訳によって訳語が異なることがあります)、そこでは、これらの霊的存在はキリストが再臨する時に滅ぼされるとパウロは言います。しかし、エペソ書1章ではパウロは現在の状態について、神はキリストをこれらの霊的存在の上に置かれたとのみ書いています。つまり、これら霊的な敵対勢力は世の終わりには滅ぼされることになっていますが、現在のところはキリストの下に置かれるにとどまっており、地上の教会に対して戦いを挑んできているのです(6章12節参照)。

では、そのような背景を頭に置いて3章10節の内容を考えるとどういうことが言えるでしょうか?パウロは神の右に挙げられたキリストの下に置かれながらも、いまだに抵抗を続ける支配や権威に対して、神の知恵が誇示されると言うのです。ここでパウロがこの知恵が「教会をとおして」示されると書いているのが重要です。古代の人々は、地上の世界で起こっている出来事を、天では御使いたちが見守っているという世界観を持っていました(1コリント4章9節、1テモテ3章16節、マタイ18章10節等を参照)。神が教会を通して地上で成し遂げられたできごとは、天上世界の存在に対してあるメッセージを発信しています。それは何でしょうか?

天にある支配と権威の働きによって、神の創造された良い世界はばらばらに分断され、人類も分裂を憎しみに支配されていました。しかしかつては水と油、犬と猿のように敵対していたユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つの教会とされました。つまり、キリストにあって、天にある支配や権威の悪しき働きが地上においてキャンセルされたのです。この不可能と思える出来事を可能にされたところに神の知恵があります。それは1章10節でキリストにあって万物が神の元に集められる、という神のご計画の第一段階です。地上において教会が一致したと言うことは、近い将来に天においてもキリストの支配が完了することを示すものであって、神は一つになった教会の姿を通して、御自身に敵対する霊的存在に対して、彼らの時が短いことを宣言されているのです。つまり神は、地上における教会のはたらきを通して、神の確実な勝利と来るべき裁きを天にある支配と権威に見せつけておられます。

実は旧約聖書にも、敵の面前で神がご自分の民をあえて祝福してみせるという箇所があります。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。(詩篇23篇5節)

また、中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の時代)に書かれたシリア語バルク書という文書には、メシヤが悪の勢力を滅ぼす時、その首領を生け捕りにしてシオンに引いてきて、彼の目の前でその罪状を並べて認めさせた後、首領を殺すという描写があります(40章1-2節)。

ところで、パウロはコリント人への第一の手紙でも神の知恵とキリストを結びつけていますが、そこで神の知恵とされているのは十字架のみわざです。

18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。19  すなわち、聖書に、
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」
と書いてある。20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、24  召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。25  神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26  兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。27  それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28  有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29  それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30  あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31  それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
(1コリント1章18-31節)

神はキリストによる十字架の死という、この世の標準からすれば最も弱く愚かな方法をもって、ご自分の知恵を示されました。30節ではキリスト御自身が「知恵」と呼ばれています。それだけでなく、神は同じ知恵を、この世では愚かで弱いとされる人々を選んでキリストのしもべとすることによっても示されたので。そして、その目的は「知者をはずかしめ」「強い者をはずかしめる」ためであり、「どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため」でした。

1コリントではおそらく高ぶっている人間について語られていると思われますが、エペソ書では天にいる支配や権威といった霊的存在に対して同様のことがなされていると考えられるでしょう。神はキリストの十字架という一見「愚かで弱い」方法で救いを成し遂げ、教会を一致させました。また、その福音を宣べ伝えさせるために、パウロという教会の迫害者、使徒と呼ばれるに値しないような人物、迫害と苦しみの中で弱さを覚えているような人物をあえて選ばれたのです。それは、天における支配や権威に対してご自身の知恵を示し、これらの霊をはずかしめるためでした。

パウロは支配や権威がどのようにして神に反抗しているのかはっきり語っていませんが、おそらくその最も大きなものは高ぶりであると思われます。サタンの最大の罪は高ぶりでした(1テモテ3章6節参照)。神がこれらの高慢な霊をどのように罰せられるのでしょうか?高ぶっている者に対してもっとも効果的な処罰は、彼らに恥をかかせることです。神はここでまさにそのようなことをなされていると言えます。

私たちは信仰生活において弱さを覚える時があります。教会も時に力なく、この世のいろいろな組織や団体に比べていかにも弱く、頼りない存在のように見える時があります。しかし、そのような弱いクリスチャンたち、弱い教会をとおして福音が宣べ伝えられていくところにこそ、神の力が働き、神の知恵が示されているのです。

(続く)

 

エペソ書とキリストの戦い(1)

所属教会のサンデースクールで何回かに分けてエペソ書の学びをしてきましたが、今日は最終回で6章を取り上げました。この章は「神の武具」「霊的戦い」で有名な箇所ですが、エペソ書で霊的戦いについて述べられているのはここだけではありません。この機会に、エペソ書における霊的戦いについてまとめてみました。

エペソ書6章のいわゆる「神の武具」の箇所(10-18節)は霊的戦いを教えている箇所として有名です。エペソ書で霊的戦いというとこの部分だけが突出して有名ですが、実は1章20-21節、2章2節、3章10節、4章27節などを見れば分かるように、霊的戦いはエペソ書全体を貫く大きなテーマであると言って良いと思います。

本書の全体をまとめるキーワードは「神の奥義」です。

8  神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、  9  御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。  10  それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。(エペソ1章8-10節)

奥義」と訳されているギリシア語ムステーリオンは英語のmysteryの語源にもなったことばで、「それ以前には知られていなかったが、時が来てある特定の人々に示される内容」のことです。ここでは神の「御旨の奥義」と書かれていますが、パウロが語っているのは、天地創造以来神が歴史を動かしてこられたその目的は何処にあるのか、と言う点について、終わりの時代に明らかにされた啓示の内容です。本書の全体はこの「奥義」の説明と適用であると言っても良いでしょう。

そして、その「奥義」の内容が10節に書かれています:「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」。エペソ書では「天」と「地」という領域が大きな役割を果たしていますが、この二つの領域においてキリストのもとにすべてを一つにされることが、歴史に対する神の目的だということです。本書の内容にしたがってこのことを図示すると次のようになります:

エペソ書の世界観

1章でパウロは、神がキリストにおいてなされた救いの御業をこう表現します:

20  神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、  21  彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。(1章20-21節)

ここに出てくる「支配」「権威」等は単なる抽象的な概念ではなく、パウロにおいては人格を持った霊的存在を表しています。これらは天において神に敵対する霊的勢力なのです。復活し、神の右に挙げられたキリストは、これらすべての敵対勢力に対して優位に立たれたのです。神がキリストにおいて「天にあるもの」を一つに帰されるとは、このことを指しています。

それでは「地にあるもの」についてはどうでしょうか?2章では、神はキリストの十字架を通してユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁を打ち壊し、キリストにあってすべての人を一つにする道を開かれた(15節「ひとりの新しい人」)ということが語られます。そして2章の後半ではパウロは教会を神殿にたとえています

20  またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。  21  このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、  22  そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 (エペソ2章20-22節)

実はこの箇所は、上で見た、天における敵対勢力への勝利というテーマと結びついています。最近出たエペソ書の研究書によると、1:20-2:22までの内容は、古代世界における「神の戦いdivine warfare」のパターンに従っているといいます(Timothy Gombis, The Drama of Ephesians)。それによると、全地の王である神はまず出かけていって敵対する勢力を征服します。凱旋してきた神は勝利のしるしとして神殿を建設し、そこに住みます。そして神の民はその宮に集まって神を礼拝し、その支配を祝うというのです。このパターンは出エジプト記15章や黙示録19-20章にも見ることができます。また、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがヒスパニアとガリアで大勝利を収めて凱旋する際、元老院はその勝利を記念して「平和の祭壇Ara Pacis Augustae」を築きました。

Ara Pacis

アウグストゥスの勝利を称える「平和の祭壇」

エペソ書においても、同様のパターンが見られます。パウロによると神は世界を創造された全能の神です。そしてこの神がすべての支配と権威の上に御子キリストを挙げられました。キリストの宇宙的主権は同時に神の王権の表現でもあります。神が実際にそのような世界の王であることはどうやって証明されるのでしょうか?それは支配や権威と言った敵対勢力に対して勝利を収められたことによります。それはキリストの十字架によってなされたのです。エペソ2章ではキリストの十字架はユダヤ人と異邦人の和解ということに焦点が当てられていますが、それが同時に霊的な敵対勢力に対する勝利でもあったことは、彼らがキリストによって救われてきたのは「空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた」状態からであったことからも分かります(2章2節)。十字架が敵に対する勝利であったことは、コロサイ書でさらに明確に書かれています:

13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、 14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。 15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2章13-15節)

そして、この勝利の後、神は教会というご自分の神殿を建てられました。だから教会はいわば地上における神の勝利の祈念碑だと言えます。ただし、ここでは神殿が神の民の集う場所としてではなく、神の民そのものとして表され、そこに神が住まうとされます。このように神殿として集められた神の民は神を礼拝します。それはある意味で、神がキリストによって主権や力に勝利されたことを祝う祝祭です。神が神殿を造られるのは、敵に勝利するという仕事を終えて休むためではなく、ここから万物を統治するという本当の仕事が始まるのです。そしてクリスチャンが御国を受け継ぐということは、そのような神のご支配に参加させていただくということです。ですから黙示録には新しいエルサレムに住む聖徒たちについて、「彼らは世々限りなく支配する。」(22章5節)と書かれています。

このように、キリストの十字架と復活、そして教会の誕生という救済史における一連の流れは、敵対勢力に対する神の勝利という霊的戦いの背景を考える時に初めて良く理解することができます。それと同時に忘れてはならないのは、神がどのようにしてこれらの敵に勝利されたか、ということです。先ほどのゴンビスは、それはイエス・キリストの十字架の死という、最も勝利とは遠いと思われるような出来事を通してであったと言います。つまり、神の勝利は弱さと自己犠牲的な愛と死という、この世が考える軍事的勝利とは正反対のできごとを通して表されるのです。このことは聖書が教える霊的戦いを考える上で大変重要だと思われます。クリスチャンが霊的戦いを考える時、この世的な「戦い」「戦争」のイメージや価値観で戦うことがないように充分に注意しなければなりません。拙著『平和の神の勝利』の中に「愛による戦い」という短い章がありますが、そこではクリスチャンが愛し合って一致していくことが最大の霊的戦いであると書きました。私たちは十字架を魔除けのように使うのではなくて、十字架を背負い、イエスに倣ってその後についていく時、初めて本当の意味で敵に勝利することができるのです。

(続く)

確かさという名の偶像(8)

(シリーズ過去記事       

このシリーズでは、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)に基いて、「確実性追求型信仰」の問題点を考察してきました。今回は第3章「確実性という偶像」を見ていきます。

ボイドはこの章で、「確実性追求型信仰」の最大の問題点と彼が考える主題を取り上げます。彼は、このような信仰モデルは、聖書中最大の罪である偶像礼拝に陥っていると主張します。ボイドはこのような種類の信仰を持つ人々が意図的に偶像礼拝を行っているとか、彼らは救われないと言っているのではありません。しかし、確実性を追求し、疑いを避けようとするタイプの信仰は、確実性というものを偶像視することになってしまうと言います。

ところで、「偶像礼拝」とは何でしょうか?それは普通、真の神以外の神々、あるいはそれらの像を礼拝する行為をさすと考えられます:

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エジプト20章3-5a節)

このような狭い定義によると、一神教徒であるクリスチャンは原則的に偶像礼拝は行わないはずだということになります。しかし、パウロが「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3章5節)と述べている例からも分かるように、「偶像礼拝」にはもっと広い意味がありえます。ボイドが偶像礼拝をどのように定義しているかを見てみましょう。

まずボイドは人間には根源的な飢え渇きがあることを指摘します。人はいつでも「もっと良いもの」を求めています。より良い車、より良い仕事、より良い配偶者・・・人はこれらのものが手に入りさえしたら、人生は幸せになると考えます。ブルース・スプリングスティーンも唄っているように、「すべての人は飢えた心を持っている(Everybody’s got a hungry heart)」のです。

ところが問題は、たとえ望むものを手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、その渇望を完全に満たすことは決してできないということです。このようにとらえどころのない、決していやされることのない渇望をC・S・ルイスはドイツ語のSehnsucht(あこがれ)という言葉で表現しました。これは何か名状しがたい、手の届かないものに対する深い切望を表しています。クリスチャンにとって、このSehnsuchtは神へのあこがれにほかなりません。アウグスティヌスもまさに同じことを語っています:

あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである。(『告白』第1巻第1章)

さて、ボイドはこのようなあこがれのもっとも重要な要素は、神の完全な、無条件の愛を体験することであると言います。そして私たちは、神にとって無制限の、これ以上ない価値を持つ存在であることを体験的に知り、その愛と価値の中に絶対的に安らうことを欲しているのです。神を信じているかどうかにかかわらず、人間はこのような無条件の愛・この上ない価値・絶対的な安全を感じる度合いに応じて、この世界にあって生きている実感を持つことができると言います。そこでボイドは、Sehnsuchtとはこのような種類の「いのち」への飢え渇きであると言います。(ボイドはこのようなあこがれの対象としての「いのち」を単なる生物学的な生命と区別しています)。そしてこのようなあこがれは、神ご自身の永遠に満ち満ちた「いのち」への渇望であり、その「いのち」は三位一体の神が永遠に持っておられる完全な愛の交わりにほかならないと言うのです。

私たちはこの「いのち」をどこで見つけることができるのでしょうか?ボイドによるとそれはイエス・キリストであり、その十字架に表された自己犠牲的な愛です。彼は言います:

カルバリーで啓示された神の愛以外のいかなるものに対しても、私たちが「いのち」を求めていくなら、それは偶像になり、私たちに「いのち」を与える代わりに、私たちの内から「いのち」を吸い取ってしまうのだ。(p. 61)

ボイドによると、偶像とは「神のみが満たすことのできるものを満たそうとして私たちが用いようとするあらゆるもの、すなわち、神の代替物として私たちが用いようとするあらゆるもの」を指します(p. 63)。私たちの内奥にあるもっとも深い必要―無条件の愛・この上ない価値・そして絶対的な安全、すなわち「いのち」―を満たすために神以外のものに頼ろうとするなら、それは私たちにとって偶像となるのです。

さて、現代世界にはさまざまな種類の「偶像」が満ち溢れています。その中には宗教的・霊的な偶像も含まれます。これは異教の神々の像だけを指すのではありません。それは特定の儀式であったり、行動であったり、信条であったりします。神ご自身が無償で与えてくださる「いのち」をいただく代わりに、神のために何かを行ったり、神について何かを信じたりすることによって「いのち」を得ようとする時、それは偶像となるのです。

それでは、この記事の冒頭で述べた「確実性」はどのようにして私たちの偶像となるのでしょうか?次回はそのことについて見ていきたいと思います。

(続く)

Global Returnees Conference 2015

このシルバーウィークに富士吉田市で開かれたGlobal Returnees Conference 2015に夫婦で参加してきました。私は分科会の講師として「福音の全体像を求めて」というタイトルでお話をさせていただき、妻はスモールグループのリーダーとして奉仕させていただきました。聖会の恵みとともに、多くの新しい出会いや懐かしい方々との再会もあり、大変充実した数日間を過ごさせていただきました。

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この集会を主催したのはJCFN(Japanese Christian Fellowship Network)という団体です。毎年海外で多くの日本人がイエス・キリストに出会ってクリスチャンになっています。実際、日本人が海外で信仰を持つ割合は、国内の数十倍であると言われます。ところが、その多くは日本に戻ってくると、様々な困難に直面します。教会探しの難しさ、家族や職場からのプレッシャー、異教的な日本文化との葛藤、周りにクリスチャンの友人がいない孤独感・・・残念なことに、海外で信仰を持った日本人の多くが、帰国後教会につながることができず、数年以内にキリスト者の交わりから姿を消していくそうです。JCFNはそのような大きな宣教的ニーズを見据え、在外日本人クリスチャンの帰国支援とフォローアップを行っておられる団体です。

実は私はJCFNについては十数年前から知っており、当時編集に携わっていたキリスト教系の雑誌でインタビュー記事を掲載したこともありました。それ以来、自分自身6年間の海外留学を経験したこともあり、ずっとその働きに関心を持ち続けてきましたが、こうして今回奉仕の機会が与えられ、実際に参加してみて、改めて帰国者ミニストリーの重要性を認識させられました。

今回のカンファレンスでは、海外から日本に帰国してくるクリスチャンたち、彼らを送り出す海外のミニストリー、そして日本で彼らを受け入れる働き、という様々な立場からの証詞や報告を聴く機会がありました。その中で、日本の教会が帰国者クリスチャンの存在を知り、彼らを受け入れる意識と体制を整えていくことの重要性を思いました。「帰国者大会」と聞くと、海外経験もなく、そのような人々に普段接する機会のないクリスチャンはまったく自分と無関係の働きのような印象を持つかもしれませんが、JCFNのような働きはそのような人々や教会にも広く知られていく必要があると思いました。

近年宣教学の中でも「ディアスポラ」(自発的・非自発的な移住・入植により、故郷を離れて移動した状態)の概念が注目されてきています。最近日本に帰国したという多くの(大多数が)若いクリスチャンたちの姿を見るにつけ、行き詰まりや閉塞感というキーワードで語られることが多い日本のキリスト教会にも大きなチャレンジと希望があることを思わされました。

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確かさという名の偶像(7)

(シリーズ過去記事      

今回もグレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きを見ていきます。第2章は今回で最後です。

傲慢と偽善

ボイドによると、確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、それがえてして偽善的になってしまうことです。

クリスチャンも含め多くの宗教の熱心な信者は、自分たち以外の宗教を信じる人々が、彼らはもしかしたら間違っているかも知れないという可能性を考慮しないと言って、それらの人々を批判します。しかし、確実性追求型の信仰は、まさにそのような傲慢な態度を生みやすいと言います。ボイドはこのようなダブル・スタンダードな態度はたいへん偽善的であると言います。彼らが他人に要求する基準を、自分たち自身にあてはめることを拒絶しているからです。

ボイドは、自分自身の信仰に対して疑問を持つことは、クリスチャンにとってもノンクリスチャンにとっても良いことだと言います。これは、いつでもすべてを疑いながら生きていくということではありません。しかし、クリスチャンもノンクリスチャンも、自分たちの信念が間違っているかも知れないという可能性を考慮して、自分の持っている信念を時々批判的に吟味してみることは有益であると言います。

ところが、確実性追求型の信仰者はそのような自己吟味ということができません。既に述べたように、自分の確信に浸りきって生きることは心地よく、自分は間違っているかもしれないという疑いを持つことは辛いことです。しかし、誰であっても、自分が正しいという確信を持つことが楽しいからと言って、自分だけが正しくて他のすべての人が間違っていると思い込むことは、罪とは言わないまでも傲慢なことです。ボイドは「吟味を受けつけない信仰は信じるに値しない信仰である。」と言います(p. 47)。

危険な宗教

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ボイドによると、過激な宗教テロリストの例からも明らかなように、キリスト教も含めて、疑いを抑圧し、確実性の感覚を持つことを人々に強いる宗教は潜在的に危険な宗教なのです。ボイドは、歴史を通じて行われてきた宗教対立にもとづく流血事件の大多数は、人々が確実性のもつ快楽に代えて疑いの持つ苦痛を受け入れることができさえすれば、避けられたかも知れないと言います。なぜなら、神が自分たちの味方であるという確信こそが、人々をして他の人間を殺し、自らも殺されるリスクを負うことを可能にするからです。

このような洞察はボイドだけのものではありません。たとえばボブ・ディランは名曲「神が味方(With God on Our Side)」の中で次のように歌っています。

And you never ask questions
When God’s on your side
神様が味方してくださるときにゃ
質問なんぞしないもんさ

多くのクリスチャンは「キリスト教だけは真理なのだから、疑いをしりぞけ、確実性を追求することが許される。」と考えます。しかし、他宗教の信仰者も自分の宗教について同じことを考えているとボイドは指摘します。そして、もしある宗教が本当に真理であるなら、その真理はそれを信じる者が確信を持つ度合いによって証明されるのではなく、証拠自体がそれを証明するはずだと言います。

真理の追求?

ボイドの最後の論点は非常に逆説的です。彼は、自分の信仰内容が真理であることに確信を持とうと努める人々は、実際にはその信仰内容が真理であるかどうかには関心がないというのです。これはどういう意味でしょうか?

あることがらが真理であるかどうかを判定する理性的な方法は、それが真理であるという主張を裏付ける証拠や議論がどれほど強力であるかどうか、を考察することです。聖霊による促しや他者の証しはこの理性的方法を補うものであって、それに取って代わるものではありません。私たちは日常的にこのような方法を使って、さまざまな主張(たとえば商品の広告文句)が真理であるかどうかを確かめているのです。

しかし、ボイドによると、確実性追求型信仰者はまさにこれとは反対のことをしています。もし私たちの信じている内容が私たちの永遠の運命を左右するのなら、あらゆる方法を使ってその信仰内容の真理性を検証すべきです。しかし、確実性追求型の信仰モデルはその反対に、証拠を理性的に吟味することを拒否し、かえってそれが真理であることを何が何でも信じ込もうと努力することを求めるのです。このことからボイドは、このようなタイプの信仰者は、真理を信じることよりはむしろ、自分たちがすでに真理を信じていると確信し、自分たちが間違っているかもしれないという苦痛を避けることの方に関心があると結論づけます。

確かなことは、人は自分の信じていることがらが真理であるかどうかに関心を持ちながら、同時に自分がすでに信じていることがらが真理だと確信しようと努めることはできないということである。真理を信じるという目標と、自分がすでに真理を信じているという確信を持つという目標とは、互いに排除しあうものなのである。(p. 51)

このことからボイドは、確実性を追求する営みは利己的な追究であるといいます。確実性追求型信仰者は自分たちが真理を追求していると主張しますが、実際のところ彼らが追い求めているのは、確実性の感覚にともなう幸福感を味わい、同時に疑いにともなう苦痛を避けることだからです。

ボイドはこのようなかたちで信仰を追求する人々が真摯な動機を持っていることを疑ってはいません。しかし同時にボイドは、私たち人間がどれほど小さく無知で堕落した存在であり、この曖昧な世界において最善を尽くして真理を知ろうと努力している存在にすぎないかということを正直に認めるべきだと言います。私たちは自分の信じていることがらに対する絶えざる挑戦や反論に直面しながら生きており、その過程でさまざまな信仰内容を修正したり放棄したりすることが起こってくるのは当然なのです。

まとめ

これまでボイドは、確実性追求型信仰の問題点を列挙してきました。2章を読み終えるにあたり、これまでのポイントを整理してみましょう。

1.確実性追求型信仰は、非理性的である。
2.確実性追求型信仰が前提とする神観は、イエス・キリストにおいて啓示された神のイメージとそぐわない。
3.確実性追求型信仰は魔術的である。
4.確実性追求型信仰は硬直した信仰的態度を生み出す。
5.確実性追求型信仰は学ぶことに対する恐れを生み出す。
6.確実性追求型信仰は偽善的傾向を生み出す。
7.確実性追求型信仰は潜在的に危険な宗教を生み出す。
8.確実性追求型信仰は真理の追求には関心がない。

次の第3章でボイドは、彼によれば確実性追求型信仰の持つ最大の問題点について論じていきます。

(続く)

確かさという名の偶像(6)

(シリーズ過去記事     

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きです。ボイドは確実性追求型信仰の問題点をさらに挙げていきます。

硬直した信仰

ボイドは、「疑いは信仰の敵」という考え方は、信仰に関する硬直した態度を生み出すと言います。しかし、複雑で曖昧な現代世界に生きる人々にとって、このような考え方は受け入れ難いものとなってしまっています。

このタイプの信仰は、ひと揃いの永遠の真理から成り立っており、それをすべて受け入れるか拒否するかの選択を迫ります。このような信仰姿勢にとっては、これらの真理のいくつかだけを受け入れたり、あるいはある程度までしか受け入れなかったり、留保つきで受け入れたりといったりすることは許されません。

この硬直したキリスト教理解においては、信仰は人が答えを探し求め、その途中で信じる内容を変えていく可能性もある旅路であるとは見られていない。それは固定化されたパッケージであって、人はそれについて確信を持つように努めなければならないのである。(p. 42)

このようなキリスト教信仰の理解が多くの人々にとって実行可能であった時代もありましたが、多元的で複雑で曖昧な現代世界においてこのようなタイプの信仰を保持していくことはますます難しくなってきています。ボイドはこのような信仰理解が、(アメリカにおいて)多くの若者が教会を離れていく大きな理由になっているといいます。若いクリスチャンが世の中に出てその世界観を拡張していく時に、もしそのキリスト教信仰の一部にでも深刻な疑問を持つようになると、その信仰の全体が危機にさらされるようになるからです。

ボイドが指摘しているような「すべてか無か」の二者択一を迫る信仰のあり方はキリスト者の一致にとっても有害であると思います。このような信仰理解はキリスト教信仰において本質的なことがらと周縁的なことがらを区別することができないからです。このような信仰理解が極端な形をとると、「自分たちとすべて同じことを信じていないと救われない」というカルト的信仰に至る危険性があります。現代のような情報化社会では自分とは異なる信仰的背景を持つ教会の教えに触れることはいとも簡単にできてしまいます。ですから、牧師が信徒の受け取る情報を完全にコントロールすることは不可能ですし、そもそもそのようなことは健全ではありません。今日求められる健全な信仰のあり方とは、多様な信仰的立場があることを前提とした上で、本質的なことがらで一致できるならよしとすることではないでしょうか(このことについては、過去記事「違いの違いが分かる男(女)」をご覧ください)。

学ぶことへの恐れ

上の問題に関連して、ボイドは確実性追求型信仰は信仰者に学ぶことへの恐れを植えつけると言います。

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すでに見たように、確実性追求型信仰は、人が救われるためには特定の教えを確信を持って受け入れることが必要であると主張します。このような信仰を持つ人にとって、もしそれらの確信が揺らぐようなことがあれば、その人は永遠の救いを失うばかりでなく、同じような信仰を持っている人々の共同体からも受け入れられなくなり、自分のアイデンティティも、人生の目的も幸福も失うことになってしまいます。疑いを持つことによって失うものがこれほど大きいとすれば、その人が自分の確信にチャレンジを与える可能性のある本を読んだり、異なる意見の人々と対話することを恐れるようになるのはごく当然に思われます。

ボイドはさらに、神経学の研究によると、私たちにとって重要性を持っている信念を確証するような事実や意見に触れた時、私たちの脳の快楽中枢が活性化されるといいます。その逆に、それらの信念に対立するような事実や意見に接するとき、脳の中で恐れの反応をコントロールする扁桃体と呼ばれる部位が活性化されることが明らかにされたと言います。このことは、すでに見たように、認知的不協和が当人にいかに苦痛をもたらすかを裏付けてくれます。ですから、学ぶということは潜在的に苦痛を伴う経験になる可能性があるのです

ボイドによると、疑いを敵視する信仰モデルのセールスポイントは、このモデルを受け入れる人々に、確信を持つことに伴う快楽を味わい、疑いに伴う苦痛を避けることを許してくれることです。このモデルにとっては、それはただ許されるだけでなく、美徳でもあるのです。しかし、そのためには払うべき代償があります。彼らはその確信を脅かす可能性のあるあらゆるものから自分を隔離しなければならないのです。それはまた、彼らの信念と対立する可能性のある領域の学びについて恐れを持つことでもあります。

そして、このようなタイプの信仰者が実際に自分の確信を脅かすできごとに直面した時には、それに対して激しく抵抗することになります。ボイドは、アメリカの保守的キリスト者が偏狭で不寛容だというありがたくない評判を得ていることの理由であり、さらには歴史上に宗教の名による流血沙汰の絶えない理由でもあると言うのです。

(続く)

 

 

 

 

 

確かさという名の偶像(5)

(シリーズ過去記事    

前回に引き続き、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」について見ていきます。この章で彼は確実性追求型信仰の持つさまざまな問題点を指摘しています。

神観の違い

まずボイドは、あらゆる神学や実践の妥当性を判断する際に用いるべき重要な基準について述べます。それは、「そのような神学や実践は、どのような神観を前提としているのか?」ということです。

より具体的に言うと、神の真のご性質の究極的啓示はイエスであるので(ヘブル1章3節)、私たちは特定の信条や実践が前提としている神の像が、キリストにおいて表された神について私たちが知っている内容と整合性があるのかどうか、を常に問う必要があるのだ。(p. 37)

前回の記事で紹介した、がんに冒された若い男性のいやしを求める祈祷会で、ボイドの頭の中にはもう一つの奇怪なイメージが浮かんできました。その中で神は天から地上を見下ろして、彼らに向かってこう言います。「もし私がこのがんをいやすことをおまえたちが確信するなら、私はそのことをしよう。けれども、そうしないなら、彼は死ぬだろう。」ボイドには、あたかも神がこの男性を人質にとって、彼の頭に銃を突きつけ、そのいのちを助けて欲しければ彼が助かることを確信するようにと脅迫しているように感じたというのです。

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その時ボイドは、これはイエスがなさるはずこととはかけ離れていると思いました。それどころか、人間があることがらを心理的に強く信じ込めるかどうかによって、人をいやしたりいやさなかったり、救ったり救わなかったりする神は、信仰者に信じられないことを信じるという心理的な拷問を強いる、サディスティックな「アル・カポネ的神」であると言います。つまり、確実性追求型の信仰が描き出す神観は、イエス・キリストにおいて啓示された聖書的な神観とはかけ離れているのです。

信仰と魔術

ボイドが指摘する確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、このようなタイプの信仰は聖書的な信仰を魔術と置き換えてしまうことだということです。「魔術magic」とは、ある特定の行動をとることによって、霊的世界に影響を与え、それを通して何らかの利益を得ようとする行為をさします。ボイドは聖書的信仰と魔術の違いを説明します:

「魔術」と聖書的信仰の間にある多くの相違点の一つは、魔術においては究極的にはそれを実践する者が利益をえるために行われる行動が重要であるのに対して、聖書的信仰では相互の信頼に基づく契約的な関係を養うことが重要だということである。そして、信頼に基づくすべての人間関係がそうであるように、神と人との関係はお互いに対して益となるのだが、彼らは何か他の目的のための手段としてそのような関係に入るわけではない。魔術的信仰は功利的であるのに対して、聖書的信仰はただ誠実なものである。(p. 39)

さて、このような信仰と魔術の違いを認識すると、確実性追求型の信仰は実は聖書的信仰よりも魔術に近いということが分かります。たとえば、ある人の病のいやしのために祈る時、確実性追求型信仰者は、特定の利益(この場合は病のいやし)を得るために、霊的世界(この場合は神)に対して影響力を与えるべく、特定の行為(この場合は、神がいやしてくださるという心理的確信を持つこと)を行います。これは聖書的な信仰者の祈りと一見同じように見えますが、その動機と、その人の内面で起こっているプロセスはまったく違うものです。

さらにボイドは、この種の信仰が「救い」ということに関してはさらに深刻な問題をはらんでいることを指摘します。確実性追求型の信仰によると、人間の救いはある特定の「救われるために最小限必要な」教理をその人がどれだけ確信を持って信じることができるかによって決まります。同時に、すべてのクリスチャンが罪を犯す存在であることは広く認められているにもかかわらず、ある特別重い罪があって、その「一線を越えてしまう」と、悔い改めない限りその人は救いを失うと考えられています。たとえば、多くのクリスチャンは貪欲や大食やゴシップは(それが聖書の指摘する罪であるにもかかわらず)大した罪だとは考えていませんが、同性愛のような罪は「滅びに至る」罪であると考えています。ボイドがここで問題にしていることは、個別の罪の軽重を比較することではなく、このような物の考え方は聖書的なものなのか、それとも魔術的なものなのか?ということです。彼によるとそれは後者です。

多くのクリスチャンは、ある特定の「救いに必要な」教理を十分な確信をもって信じ、「一線を越える」ような種類の罪を犯さないように努めることで、神から救いを得ようとします。ボイドによると、これは魔術的な信仰理解です。もちろん、そのようなクリスチャンが信じている内容は異教の魔術とはまったく異なるものです。しかし、彼らの信仰の持ち方、そして信じる動機は非常に魔術的であるとボイドは言うのです。

次回も2章の続きを見ていきます。

(続く)