N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(3)

その1 その2

今回は第2部、特にその中の第5章「神」について見ていきます。

第二部 太陽を見つめる
第5章 神
第6章 イスラエル
第7章 イエス―神の王国の到来
第8章 イエス―救出と刷新
第9章 神のいのちの息
第10章 御霊によって生きる

第1部でライトは、人間の持つ4種類の渇望について記し、それらがこの世界を越えたもう一つの世界、またそこから語りかけている存在(=神)を指し示していることを論じました。第2部ではこれを受けて、ではその「もうひとつの世界」あるいは「神」はどのようなものなのかについて、キリスト教が語る物語を紹介していきます。

第2部の冒頭に置かれた第5章は世界観の問題を扱った章で、本書の中でもきわめて重要な位置を占めている部分です。ここでライトは、神(と神のいる世界)が、私たちの世界とどのように関わっているのかについて、キリスト教がどのようなモデルを提供しているかを説明しますが、この部分はクリスチャンである読者の多くにとっても示唆に富むものであると思います。

まずライトは、そもそも「神」について考えるとはどういうことか、ということから説き起こします。

神についての大論争、すなわち神の存在、神の性質、この世界でなされる神のわざについての多くの論争は、太陽が輝いているのにそれを確かめようと、空に灯りをかざすような愚かな行為である。同じように簡単に陥りがちな過ちは、神がいるとしても、まるで私たちの世界にある独立した実在、あるいは音楽や数学のように、努力して学べば神に近づけると思って語ったり考えたりすることである。そして、この世界にある物体や存在を扱うのと同じテクニックで扱えるかのように思うことである。(中略)クリスチャンの立場から言えば、神について語るのは難しい。なぜならそれは、太陽を見つめるようなものだからだ。目がくらむ。それよりもっと簡単なことがある。太陽から目をそらし、陽が昇ったことですべてが明るく照らし出されている事実を楽しむことである。(82-83頁)

ここでライトが言おうとしていることは、神はもともとこの世界の中に存在しているお方ではないということです。宇宙空間をどこまで突き進んでいっても、決して神を見出すことはできません。人間が神を見出すことができるのは、神がご自身のいる世界から「こちら側」に現れるときにのみ、可能になります。つまり、神の世界と私たちの世界という二つの異なる世界が存在することになります。聖書では前者を「天」、後者を「地」と呼びます。もちろん、ヘブル語やギリシア語でも「天」という言葉は空間的な場所としての「空」を意味することもありましたが、それとともに「神の住処」としての重要な用法があります。そしてこの「天」は、一般に考えられている「天国」すなわち死者の魂が最終的に憩う場所、ということではなく、今現在神がおられる(この物質世界とは異なる)「場」なのです。そこで問題になるのが、そのような神の場としての「天」と人間の場としての「地」はどのように関わり合っているのか、ということです。ここでライトは世界観についての3つの選択肢を提供し、比較検討していきます。

選択肢1:神の場と私たちの場は重なりあって一体となっている

このタイプの世界観では、神の場と私たちの場は渾然一体となっています。神は世界のあらゆるところに存在し、世界そのものが神であるか(汎神論)、あるいは世界のすべてが神の中に含まれます(汎内在神論)。すべてのものに、そして自分の内面に神性を見出すことができるという考えは現代も人気がありますが、ライトによるとこの世界観の欠点は、悪の問題を扱うことができないということです。全てが神であるなら、なにか悪いことが起こった時に、一体どこに訴えたら良いのでしょうか?

選択肢2:神の場と私たちの場は明確に分けられている

2番目のタイプの世界観では、神(々)と人間とは互いにかけ離れており、無関係に生活しているとされます。神(々)は存在するとしても、地上の出来事には関心もなければ干渉することもないというのです。これは古代のエピクロス派の哲学や近代の理神論に見られる考えで、神を信じると言う現代人の多くもこのような世界観を持っているとライトは指摘しています。ライトは、この世界観の問題点は、彼が第1部で取り上げたような、この世界を越えた世界を指し示す「声」に耳をふさがなければならないことであると言います。恐らくライトが言いたいことは、このような世界観を持つ人々にとって、この世界を越えた神の世界への渇望を意識することは、(それが決して満たされることのないことを知っているがゆえに)耐えがたい苦痛をもたらすことになる、ということなのでしょう。つまり、ここでも悪の問題がその醜悪な顔をのぞかせていることが分かります。たとえ神々がいたとしても、彼らは地上に満ちている問題の解決には何の助けにもならないのです。

選択肢3:神の場と私たちの場は重なりあい、かみ合っている

最後のタイプの世界観は、古典的ユダヤ教とキリスト教に見られるものです。

天と地は完全に一体として重なり合ってはいない。しかし、その間に大きな溝があって隔てられているのでもない。その代わり、いろいろ異なった仕方で重なり合い、かみ合っている。(92頁)

これは1番目と2番目の世界観の中間にあるものと言えますが、それらのように白黒はっきりしたものではなく、複雑な様相を呈していますが、これこそがライトが本書で提唱していく世界観なのです。この世界観によると、神は天におられ、人間は地にいます。けれども、天と地は特定の時と場所において重なり合い、神が人と出会うことができるというのです。それは、聖書にしばしば登場する神顕現の記事(たとえば神が燃える柴においてモーセに現れたできごと)に見ることができますし、旧約聖書において天と地が重なる典型的な場所はエルサレムにある神殿でした。

さて、ライトによると、この(聖書的)世界観の利点は、悪の問題を適切に取り扱う(少なくとも真剣に受け止める)ことができることです。なぜ聖書の神はこれほどまでに地上の世界に積極的に関わり続けるのでしょうか?それは、ご自分が創造した世界に対する愛のゆえであるといいます。第1部で取り上げられた様々な「声の響き」は、世界と人間に対して語りかける神のラブコールにほかならないことが分かります。ライトによると、この神は「愛する被造物が堕落し、反抗し、その結果苦しみに陥っている事実を大変深刻に受け止めている」神です(96頁)。そして、神は事態を打開するために、行動を起こします。それが聖書に描かれている救いの物語(ストーリー)、イスラエルに始まり、ナザレのイエスにおいて一つのクライマックスに達し、終末において天と地が一つになることによって完結する物語なのです。

*   *   *

上にも述べたように、第5章は世界観について論じた章で、本書全体読み解く上でも中心的な重要性を持っています。クリスチャンであっても、ライトが提示する「キリスト教の(つまり聖書的な)世界観」に対して新鮮な驚き、あるいはむしろショックを覚える人がいるかもしれません。つまり、クリスチャンであるからといって自動的にある特定の世界観を持つようになるわけではない、ということです。

本書では特にライトは「選択肢2」の理神論的世界観に基づくキリスト教理解に厳しい批判の矢を向けています。

クリスチャンの信仰について広く普及している誤った理解の多くは、この点を既存の理神論の枠に当てはめて理解しようとするところからくる。理神論的キリスト教を次のように示すことができる。遠くかけ離れたところにいる厳格な神が、ある日、唐突に何ごとかを決断する。そして神がご自身の子をこの世界に遣わしたのは、彼を通してどのように私たちがこの世界から逃れ、神と一緒に住むことができるかを教えるためだった。そしてさらに、神ご自身の不可解で気まぐれな要求を満足させるため、残酷な運命をその子に課して断罪した、と。(96-97頁)

あるクリスチャンにとっては、このような批判は不当なカリカチュアに思えるかも知れません。けれども、理神論的な世界観が近代西洋のキリスト教、そしてその影響を受けた日本を含む非西洋世界のキリスト教に大きな影響力を及ぼしてきたことは確かであると思われます。そのような世界観を持つクリスチャンにとって神は普段の生活には何も影響をもたらさず、神を信じることの意義といえば、せいぜい死んだ後に天国に行くことができる、というだけのことです。したがって、そのような人々の生活態度は非キリスト教徒のそれと実質的にほとんど変わらないものになってしまっているのです。

米国の宣教学者・人類学者ポール・ヒーバートはこのような状態を「排除された中間領域の欠陥The Flaw of the Excluded Middle)」と呼んで批判しました。簡単に言うと、近代西洋キリスト教の世界観では、神が支配する超自然的な領域と、自然法則が支配する領域とが切り離されてしまい、両者が相互作用する中間の領域が欠落してしまっているということです。(余談ですが、2007年に亡くなったヒーバート教授は私の母校であるトリニティ福音主義神学校で長年教鞭を取っておられ、私の留学時にはまだ存命中でした。私は先生のクラスを取る機会はありませんでしたが、キャンパス近くの同じ教会に通っていました。)

またこれとは反対に、「選択肢1」の汎神論的世界観の影響を受けたキリスト教の危険もありうると思います。そこでは、神が私たちの地上での生活に積極的に関わっておられることが強調されます。それは時には超自然的な病のいやしや悪霊からの解放といったことがらも含みますが、より「自然な」関与もあるでしょう。このような地上の人間生活への神の関与は確かに聖書に書かれていることであり、ライトが提唱する「天と地が重なりあう」世界観とも適合します。これが「選択肢3」の世界観と異なるところは、目の前の地上的な問題の解決に過大な重要性を付与するあまり、それがクリスチャン生活の主要な関心事になってしまい、やがて天と地が一つになり、神がこの世界そのものを贖われるという終末的な視点が希薄になってしまうことです。同時に、現時点においては天と地は完全に重なっているわけではないという、「いまだ」と「すでに」の終末論的緊張関係が解消されてしまい、すべての問題が「いま、ここで」解決されるべきだと思い込んでしまう危険性もあります。

ライトが主張しているのは、「天と地が重なり合い、かみ合う」世界観を採用するならば、このような両極端の誤りを避けることができ、聖書のストーリーが意味をなすものとして理解できるということです。

(続く)

 

 

 

 

 

 

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(2)

その1

本書は3部構成になっています。第1部「ある声の響き」では、人間の持つ渇望について述べ、それらがこの世界を越えた別の世界の存在を指し示していることが語られます。第2部「太陽を見つめる」では、神についてのキリスト教信仰の要点が示され、その中でイスラエル、イエス、聖霊についての「物語(ストーリー)」が概観されていきます。第3部「イメージを反映させる」では「教会」について述べられており、第2部で描写されたような信仰を生きることは何を意味するのか、そしてそれが第1部で語られた人間の渇望に対してどのように応えることができるのかが語られていきます。

さて、今回は第1部について見て行きたいと思います。

第一部 ある声の響き
第1章 この世界を正しいものに
第2章 隠れた泉を慕って
第3章 互いのために造られて
第4章 この地の美しさのために

ここで著者ライトは、人間の持つ4つの飢え渇きについて述べていきます。それは「義への希求」(第1章)、「霊的なことへの渇望」(第2章)、「人間関係への飢え」(第3章)、「美における喜び」(第4章)です。クリスチャンであろうがなかろうが、人間は誰でも公正さや義が行われることを求め、霊性(スピリチュアリティ)・霊的なものに渇き、他者との充実した人間関係を追求し、美しいものに魅了されます。これらの渇望はいつの時代も存在しましたし、(たとえば霊性の場合のように)それを否定したり抑圧しようとしたりする試みはいずれも失敗に終わりました。これらは人間存在が持つ根源的な欲求であると言って良いと思います。

同時に、これらの欲求は決して完全に満たされることがないということをライトは指摘します。誰もが公正や義を求めているにもかかわらず、社会には不正があふれています。書店にはありとあらゆる種類の「霊性」に関する本があふれていますが、そのような雑多な「霊性」の氾濫自体、そして時として起こるそれらの極端で奇異な表現は、霊性のもつとらえどころのなさを暗示しています。人は孤独には耐えられず、結婚関係から国家間の関係に至るまで、他者との良好な関係を築きたいと願っています。しかし、多くの場合そのような願いは離婚や戦争といった悲惨な現実によって打ち砕かれ、いずれにしても死で終わってしまいます。また、誰もが自然や芸術のもつ美に感動した経験を持ちますが、その感動は儚く消えていき、長続きはしません。そもそも何が美しくて何がそうでないのかの判断基準さえ、時代や個人によって変わってくるように思えます。

私たちはこの世界の中で、義の実現や霊的充足や素晴らしい人間関係の喜びや美的体験をほんの束の間味わうことがありますが、それはまるで夢のように私たちの指の間をすり抜けて消えてしまうのです。このような体験をライトは、「ある声の響き」にたとえています。それは、この世界を越えた別の世界から語りかける声を聞くようなものであるといいます。その声も、はっきりとしたものではなく、かすかな残響のようなもので、この世の喧噪に気を取られていると、そういうものがあることすら意識しないかもしれません。けれども、注意深く耳を澄ませるならば、どこか遠いところから誰かの語りかける声が聞こえてきます。それは意味のない雑音ではなく、この世界を越えた別の世界があることを伝える「声」なのです。その声は「いつまでもこうである必要はない」と語りかけます。そしてさらに重要な事は、そのような声が聞こえるということは、その声を発している誰かがいる、ということです。

私たちがこのような夢を見るのは、つまりその声の響きにどこか聞き覚えがあるのは、私たちに語りかけ、耳の奥深くでささやきかける誰かがどこかにいるからだ。それは、現在の世界と私たちのことを深く心配している誰かであり、私たちとこの世界を深く心配している誰かであり、私たちとこの世界を創造した誰かである。その誰かは確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間をも正し、ついには世界を救出するという目的を持っている、というものである。(20頁、強調は原文)

*   *   *

N・T・ライトは第一級の学者であるだけでなく、才気あふれる文章家でもあります。本書でも随所に魅力的な比喩やイメージ表現が散りばめられていますが、今回取り上げた「声」や音楽のメタファーは、本書で重要な役割を果たしています。

この世界を越えたところにあるなにものかを求める人間の渇望から説き起こして神について語るというのは、もちろんライトのオリジナルではありません。たとえばアウグスティヌスは「あなた(神)は、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(『告白』)と書きましたし、C・S・ルイスはこの世界を越えた存在への「憧れSehnsucht」についてしばしば語りました。また彼は『キリスト教の精髄』を、人間に普遍的に備わっている善悪の概念(これは公正さを求める人間の渇望と言い換えることができるでしょう)から説き起こしています。さらに、人間が持っているこの種の渇望は、ライトが本書で取り扱っている4つだけに限られるわけでもないと思います。たとえば、「意味」や「目的」に対する渇望などを加える事もできるでしょう。けれども、キリスト教の入門書をこのような形で始めることは、きわめてオーソドックスかつ有効な戦略であると思われます。

そしてライトは、このような渇望を引き起こすのは、彼方から聞こえてくる「」であるといいます。ここにあるのは「啓示」の概念であり、この世界を越えた世界があることを忘れてしまった人間に対して差し伸べられている神の恵みの御手であると考えることができます。そしてその声は神についての無味乾燥な単なる「情報」を伝えるだけではなく、その声の持ち主の素晴らしさ、美しさを感じさせる「調べ」でもあるのです。

スティーヴ・デウィット牧師は、シカゴのミッドウェイ空港で飛行機の待ち時間にたまたま女性用トイレの側を通りかかった時、凍りついたように足を止めました。トイレの中から、たとえようもなく美しいバイオリンの調べが聞こえてきたのです。その音楽に心を奪われたデウィット牧師は近くの椅子に陣取って、最も場違いに思える場所から聞こえてくる素晴らしい音楽に耳を傾けていました。彼はトイレの中で演奏しているのは誰なのか、あれこれ想像をめぐらしますが、もちろん中に入って確かめることはできません。彼は待ち時間のぎりぎりまでその場にいましたが、ついにその音楽家に会うことはできませんでした。その時の体験を彼はこう語っています。

私はがっかりしました。彼女に会ってお礼を言うことはできませんでした。あの美しい音楽の背後にいる人物と知り合うことは決してできなかったのです。私は幸福感と感嘆の念を味わっただけで、その音楽の創造者に出会うという光栄に浴することはできませんでした。(Steve DeWitt, Eyes Wide Open, p. 6. 強調は引用者)

デウィット牧師は続けて、この世では決して完全に満たされることのない美への渇望は、究極的には神に導いていくと語ります。ライトも本書で美への渇望について取り上げているのは興味深いことです。

ライトは本書を構成する3つの部分を交響曲の楽章にたとえています。交響曲の第1楽章で提示されたテーマが続く楽章で有機的に展開し、結び合わされ、何らかの解決が与えられるように、第1部で提示された「声」のテーマとそれに関するさまざまな問題(なぜそのような声が聞こえるのか、語っているのは誰なのか、その誰かは何を目的としているのか、私たちはどのようにその声に応答すべきなのか、等々)が続く部分でさらに掘り下げられ、著者なりの解答を与えられていくことを見るようになります。本書の終わりでは、キリスト教の福音が霊性や義や関わりや美への渇望に対してどのように応えることができるのかが語られていきます。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その3)

その1 その2

関野祐二先生によるゲスト連載の第3回です。お忙しい中寄稿してくださる先生に心から感謝します。それでは、お楽しみください。

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「『福音』とは何か」の三回目、だいぶ間が空いてしまいましたが、「福音と被造物統治/管理」の続きです。

2011年3月11日に発生した東日本大震災、関連する福島第一原発の事故は、キリスト教界にも多くの課題を突きつけました。折しもそれは、2010年10月、第3回ローザンヌ世界宣教会議が南アフリカのケープタウンで開催され、その成果である「ケープタウン決意表明(コミットメント)」が宣言されて五ヵ月後のこと。本コミットメントでは、包括的(ホリスティックな)宣教、包括的福音理解が提示され、天地創造から新天新地に至る、全被造物を対象とした神の贖い(和解と回復と再統合)計画を「神の宣教」と位置づけて、キリストを王なる主権者としたキリスト者がその統合的宣教に参与する見取り図を得たのでした。ならば福音主義に立つ者たちは当然のことながら、震災と原発事故による諸課題のキリスト教的理解も、このコミットメントの文脈に即して考えるべきものと言えましょう。投げかけられた具体的諸課題を思いつくまま並べるなら、自然災害は神のさばきなのか、いわゆる神義論の問題、福音的聖書的自然理解と環境問題、被造物を支配せよとの文化命令の意味、被災者救援と伝道の関係性と優先順位、包括的宣教と包括的福音の中身、聖書から見た核技術と原発の是非などなど。本来ならこうした課題は福音派キリスト教界がとっくに取り組んでおくべきものだったはずですが、どちらかというと後回しにしてきた苦手な分野だったようで、震災と原発事故を契機に、自戒を込めて遅ればせながら正面から取り扱うことになった経緯があります。

さて、包括的福音理解に基づく包括的宣教を深める上で鍵となる出発点は、我々福音に生きる者が文化命令(創世記1:28)に基づき統治/管理を命じられている「自然」(Nature)です。よって最初になすべきは、「キリスト教的自然理解」、すなわち我々が生き、そこに置かれている宇宙をも含めた自然界を神がどのようなものとして創造し治めているのか、その自然を支配するよう委託された「神のかたち」としての人間のあり方、そして贖いの対象でもある自然を、同じく贖いの対象である我々人間がどのように理解し、管理したらいいのかという問いかけに帰結します(人間が宇宙を統治/管理するとはいかなる意味合いを持つのかは、天文がライフワークの筆者にとっても興味深いテーマです)。主なる神は、被造物全体が贖われる新天新地への回復のプロセスにおいて、我々人間を「贖われた統治者」と位置づけ、ご摂理の内に用いておられます。換言するならこれは、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた、人類における被造物統治/管理権の回復であり、この地上におけるキリスト者の使命に直結するものです。被造物を治めるためにはそれらを理解し、各分野における最新の学問的成果と歴史的文化的価値を評価する必要がありますから、聖書以外のあらゆる領域にも関心を持ち、各分野の専門家たちの意見も取り入れ、協力していかなければなりません。

あらためて、創世記1:28を引用しましょう。「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」。この「地を従えよ」「支配せよ」というみことばをめぐっては、これこそが今日の環境破壊を引き起こした元凶であり、キリスト教は自然界に対し罪の責任を負っているとの、リン・ホワイトによる有名な指摘があります。しかしこのみことばには確かに神から委託された統治・支配の意味があるものの、決してそれは上からの横暴なわざでなく、神との共同(協働)統治であり、統治支配のニュアンスを含んだ管理という意味で、統治/管理との複合的表現がふさわしく、リン・ホワイトの理解は一面的と思われます。

エデンの園におけるアダムとエバの堕落の結果、人間と自然との関係性に起きた問題点とは、ひとつには人間が原初において完全であった「神のかたち」ではなくなり、本来的に統治支配権を行使した被造物支配の責任が与えられてはいても、今や正しく支配することが出来なくなってしまったこと、もうひとつは、「非常に良かった」(創世記1:31)はずの被造物世界全体に「ある変化」が生じ、土地はのろわれ(3:18)、いばらとあざみが生え、被造物は虚無に服した(ローマ8:20)ことでした。人間の堕落ゆえ虚無に服した被造物は、我々自身の身体も含め、うめきつつ贖われる日を待ち望んでいます(ローマ8:19-23)。贖われるとは、今の不完全な状態が人間の罪による滅びの束縛から解放され、元の完全な姿へと買い戻され回復させられるということでしょう。それは、先の後藤敏夫先生による解説の通り、詳細は不明ですが、新天新地の完成が今の被造世界となんらかの連続性や関連性を持っていることを暗示します。つまり、今の被造世界がすべて失われ滅びた後に、今とは断絶した形で全く新しい新天新地が現れるとの従来型理解は、聖書本来のメッセージとはいいがたいのです。

ということは、現在の地上におけるあらゆる営みが永遠の御国と連続性を持ち、地上での忠実な働きがなんらかの意味で完成された未来の御国へと持ち込まれることを意味し、今のこの地上における社会的活動すべては、神の目に意義あるものと認められており、委ねられた働きへの忠実さ誠実さが問われているということになります。そうでなければ、この世の生活はキリスト者にとってかりそめの意味しか持たなくなり、悪い意味で御国の待合室と化してしまうでしょう。

したがって私たちはここに、「身体の贖い(復活)を待ち望みつつ、神のかたちとして被造世界を統治/管理しながら、被造世界の贖いをも待ち望む」という、地上における生の枠組みと意義付けを確認できることになります。しかしその一方で、(1)アダムの罪により堕落して、正しい意味での統治/管理者としての資格や能力を失った我々に、堕落前(創世記1:28)定められたこの世を治める委託業務行使の資格や力はあるのか。(2)創造の当初、我々人間に委ねられていた被造物世界の統治/管理のわざは、神への反逆と堕落とともに我らの手から取り上げられ、主ご自身の直接統治へと戻されたのではないのか。(3)そこにあえて文化を築き、バベルの塔を建設した人類に、主にある健全な地の管理や文化形成は不可能なのではないか。(4)主イエスの十字架と復活による贖いのわざは、我々のこの世に対する統治/管理能力や権限をも回復したのだろうか。 こうした疑問が次々と沸き起こってきます。これはアウグスティヌスとペラギウスの論争以来常に議論されてきた、原罪による神のかたちの破壊や歪みの問題、自由意志能力の有効性、および神の主権と人間の自由意志の関係性も含めた、根本的問いかけと言えましょう。

筆者は、主イエスの十字架と復活による贖いのみわざが、人間の被造物統治/管理能力をも回復させ、神は再度そのわざを人類に委託して、贖いの歴史進展の中で人間との共同(協働)統治を進めていると理解しています。この結論については今後も幅広い継続的議論が必要ですが、福音を「個人的霊的救い」から解き放ち、自然科学を含むこの世一般の学問や文化活動の価値を認めた上で理解を深め、主イエスの十字架と復活によって神の国の統治者/管理者に召し出されたキリスト者こそが、地の贖いの完成を目指してこの地上の統治/管理を神との協働によって推し進めて行く、という基本的道筋は妥当な見解と思われます。であれば、「福音」とは、「十字架による罪からの救いと天国行きの保証」という単純化された表現では収まりきれない、キリスト教的自然観と世界観、贖い理解に基づくきわめて広い包括概念となるでしょう。

(続く)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(1)

このブログではこれまでの投稿の中でさまざまな本やウェブサイトを参照してきましたが、特定の著作についての感想やレビューを書いたことはありませんでした。これからはそういった「書籍紹介」の記事も書いていきたいと思います。

最初に取り上げるのは、最近邦訳が出版されたばかりのN.T.ライト著『クリスチャンであるとは(上沼昌雄訳・あめんどう)です。

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N.T.ライト(Nicholas Thomas Wright, 1948-)については本ブログでもしばしば取り上げてきましたので、読者はご存じの方も多いのではないかと思います。英国の世界的に著名な新約聖書学者で、現在はスコットランドのセント・アンドルーズ大学で教鞭を執っています。日本語で読める簡単な紹介としては、こちらのウィキペディアの記事をご覧ください。

ライトは専門的な聖書学の著作だけでなく、一般向けの著作も数多く世に問うていますが、日本ではこれまでその業績がなかなか知られていませんでした。いのちのことば社から出版されているコロサイ書・ピレモン書の注解書を除けば、今回の『クリスチャンであるとは』が邦訳された初めての著作になります。日本語版の副題が「N・T・ライトによるキリスト教入門」となっていますが、日本人にとっての「N・T・ライト入門」でもあるともいってよいでしょう。

とはいえ、日本でも数年前からライトに対する関心は高まっており、フェイスブック上には「N.T.ライトFB読書会」のグループがありますし(私もほとんど貢献できていませんが、メンバーに加えていただいています)、一般に公開されているものとしては「N.T.ライト読書会ブログ」もあります。そういった中で満を持して登場した本書ですので、おそらく他にもいろいろなところで書評が書かれていくのではないかと思います。(この原稿を用意している間にも、ミーちゃんはーちゃんさんのブログで本書の連載書評がスタートしました。かなり詳細に論じておられるので、長期連載になりそうです。)また上記のFB読書会では邦訳が出る前から原書を用いて本書についてのディスカッションが始まっています。

このような状況ですので、このブログでは本書の包括的で詳細な書評を試みるというよりは、本の内容を紹介しつつ、あくまで私の個人的な関心に沿ってつまみ食い的に感想を述べていきたいと思っています。最終的にはこれを読まれた方々が実際に本書を手にとってお読みになるためのアペタイザー的な役割を果たせればと願っています。

さて、「はじめに」の部分でライトは本書の執筆目的を簡潔に述べています。

私の目的は、キリスト教とは要するにどういうものなのかを記述し、信仰を持たない人にはそれを勧め、信仰を持っている人にはそれを解説することにある。(1-2頁)

本書の原書は2006年に出版されたSimply Christian: Why Christianity Makes Senseです。Simply Christian(日本語に直訳すると「ただ単にクリスチャンであること」とでもなるでしょうか)というタイトルは、C・S・ルイスの古典的名著Mere Christianity(邦題は『キリスト教の精髄』)を意識していると思われます。ライトは英国国教会の聖職者でもありますが、特定の教派の立場からではなく、プロテスタントですらなく、カトリックや正教会も含めたキリスト教信仰の最大公約数的な核心部分を提示したいという意欲を伺わせます。

さらに副題に注意したいと思います。Why Christianity Is True(なぜキリスト教が真理なのか)ではありません。Why Christianity Makes Sense(なぜキリスト教が意味をなすのか)です。もちろん、著者であるライトを含め、キリスト者は皆、キリスト教が真理であると信じています。しかし、ポストモダンの時代と言われる今日、多くの人々は客観的・普遍的な「真理」の存在をもはや信じられなくなっています。そのような人々に対して、キリスト教が真理であることを「証明」することはきわめて困難です。しかし、一度キリスト教という前提を受け入れるならば、私たちがこの世界で共通に体験している様々な現実を非常にうまく説明することができる。これがライトの言う、キリスト教が「意味をなす」ということなのだと思われます。

C・S・ルイスに次のような有名なことばあります。

私がキリスト教を信じるのは、太陽が昇ったのを信じるのと同じです。それを見ることができるからというだけでなく、それによって他のすべてのものを見ることができるからです。(I believe in Christianity as I believe that the Sun has risen: not only because I see it but because by it I see everything else.)

ライトもまさに、このような、世界をよりよく理解するためのレンズ、すなわち一つの有効な世界観としてキリスト教を提示しようとしていることが分かります。これはキリスト教の信仰内容を共有しない一般の読者に対して対話を呼びかけるには、とても良い方法であると思います。

けれども、ライト自身も言うように、本書は非キリスト教徒だけにむけて書かれているわけではありません。クリスチャンであっても、自分の信仰内容がどこか「意味をなさない」ということはままあるものです。聖書は神のことばであると信じているけれども、それが全体として何を教えているのかはっきりしなかったり、キリスト者としての自分の信仰と自分の生きている世界の現実とをどのように関係づけていったらよいのか分からなくて途方に暮れるということはよくあります。

本書はそのようなクリスチャンにとっても、たいへん有益な本であると言えます。ただし、次回以降に具体的に見ていくように、ライトの提示する「キリスト教の全体像」は、多くのクリスチャンが慣れ親しんできた「キリスト教」理解とはことなる可能性が(大いに)あります。ですから、本書は学術書ではありませんが、必ずしも「読みやすい」本ではありません。ライトが新鮮な視点から描き出してみせる「キリスト教」について、ある人々は拒絶反応をひきおこすかもしれません。けれども、彼の語る内容に注意深く耳を傾け、その主張を理解しようとする努力を惜しまなければ、たとえ最終的に彼の見解に賛成できなくても、本書を読む体験は決して無駄にはならないでしょう。

今回の邦訳出版にあたり、依頼されて本書の推薦文を書かせていただきました。あめんどうさんの了解を得て、最後にそれを引用します。

N.T.ライトはbig pictureの人である。本書は聖書を貫く神の物語(ドラマ)の全体像を強靱な神学的想像力でまとめ上げ、世界観のレベルにまで踏み込んで説得力を持って描き出すことに成功しているばかりでなく、その物語に読者も参加するようにと招いている。著者の提示する「キリスト教」は歴史的正統キリスト教信仰の伝統に根ざしながらも新鮮であり、ポストモダンの社会に生きる今日の人々にもアピールする力を持っている。クリスチャンのための「再入門」としても比類ないものがある。

(続く)

<付記>
個人的なことですが、私は2010年の米国福音主義神学会でライト教授にお会いしたことがあります。その時の様子をのらくら者さんのブログでご紹介いただいたことがありますので、興味のある方はお読みください。

御国を来たらせたまえ(補)

(本シリーズの過去記事         

本シリーズは一応前回で終了のつもりだったのですが、はちこさんこと中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげで」上でとても重要なご質問をいただきました。これは本シリーズでこれまで述べてきたこと全体の理解に関わる問題ですので、それに応答する形で補足記事を書きたいと思います。

詳しい質問の内容はリンク先のブログ記事を見ていただくとして、このご質問の核心は、「世の終わりに神(と神の民)が『支配する』とはどういう意味なのか?」ということだと思います。

このシリーズでも繰り返し、「神の国basileia」とは神の王としての支配であり、「御国が来る」とは神が天のみならず地においても王となられて支配されることだと書いてきました。けれども、「支配」というと何か自分の意に沿わない存在を力づくで従わせるようなネガティブなイメージがあり、永遠の至福の状態というクリスチャンの希望とはどこか相容れない違和感を感じる人々もおられると思います。

この問題を考える時には、神が「王」であるとはどういうことか、王なる神が「支配」するとはどういう意味かについて、聖書的な正しい理解を持つ必要があります。その鍵になるのが次の聖書箇所です。

24  それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。  25  そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。  26  しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」(ルカ22章24-26節)

ここでイエスは、世の中一般における「支配」の理解(「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。」)と、神の国における「支配」(「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」)を対比しています。つまり、神の国における「支配」とは、この世の王国のような暴力と強制によるのではなく、愛と謙遜にもとづく奉仕によるものであると言えます。そして、このような神の国における「王権」「支配」のあり方を身を持って示してくださったのがイエスご自身なのです。

「神が王である」ということは旧約聖書から一貫して見られる聖書の主張です。しかし、イエス・キリストにおいてはじめて、そのことの真の意味が明らかにされました。イエス時代のユダヤ人のメシヤ観は一様ではありませんでしたが、最も広く受け入れられていたのは、「メシヤはダビデの家系に属する王である」というものでした。来るべき救い主は、異邦人(この場合はローマ帝国)の支配を打ち破って、神の民を解放してくれるような、軍事的・政治的指導者と考えられていたのです。

さて、そのような王なるメシヤへの期待感が広がる1世紀のユダヤに登場したのがナザレのイエスでした。たとえば福音書におけるイエスのエルサレム入城の記事を見ると、群集がイエスを王として歓迎していることが伺えます(たとえばマタイ21章1-9節)。ところが、イエスはローマへの反乱を率いるどころか、逆に捕らえられてローマ人の手によって十字架刑に処されてしまいます。イエスが多くのユダヤ人が期待していたような種類の「王」でないことは明らかでした。しかし、十字架上で死なれたイエスは三日目によみがえり、弟子たちに現れてこう言われます。 「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28章18節)つまり、イエスは真の王であることが明らかにされたのです。

実際、マタイ福音書の受難記事で、イエスはくりかえし「王」と呼ばれています(27章11、29、37、42節)が、ここには二重のアイロニーが含まれています。つまり、人々はイエスが(本当はそうでないのに)ユダヤ人の王を自称した、ということでイエスを十字架につけたわけですが、マタイと福音書の読者には彼が本当の王であることが分かっているのです。イエスはダビデの家系に属する王なるメシヤとして、確かにイスラエルの救いをなしとげました。しかしそれは、人々が思っていたように武力を用いてローマを打倒することによってなされたのではなく、十字架の上でいのちを捨てることによってなされたのです。イエスはまさに「仕える王Servant King」ということができるでしょう。

さて、このことは冒頭のご質問にあった、終末における神の国の支配とどのように結びつくのでしょうか?多くの人々は、確かに初臨のイエスは十字架にかけられた無力な姿で来られたけれども、再臨のイエスはそれとはうって変わって力と栄光に満ちた姿で地上に到来し、この地上の権力を力で滅ぼす王であると考えています。つまり、多くの人の思い描く終末の王としてのイエスのイメージは、当のイエスがまさに批判したところの、この世の王たちの姿と何ら変わらないのです。

しかし、このような一般的イメージが間違っていることは、以前書いた黙示録についてのシリーズで論じましたので、そちらをご覧ください(黙示録における「福音」     )。再臨のキリストが悪に打ち勝たれるのは、ローマやバビロンのような暴力によってではなく、十字架に表されているような自己犠牲的な愛によるのです。そして、新天新地で神が王として永遠にすべ治めるということも、同じように考えるべきだと思います。上で引用したルカ福音書の箇所にあるように、もしイエスがこの世的な支配のあり方を否定し、弟子たちにそれとは反対の生き方を教えながら、世の終わりにイエスご自身がこの世的な支配のあり方に逆戻りするとは考えられません。やがて来るべき世界の王の姿は、十字架にかけられたイエスの姿において既にはっきりと示されているのです。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」お方です(ヘブル13章8節)。

このように考えてくると、「神の国が地上に到来する」「神がすべての王となられる」「神の民が神の支配に参加させていただく」といった、本シリーズで何度も述べてきたことがらを、この世的な王や支配のイメージで考えてはならない、ということが分かります。黙示録において世々にわたって世界を統べ治める王は、ほふられた小羊としてのキリストです。神の国における「支配」を考える時に、私たちは十字架にかけられたイエスというレンズを通して考えなければならないのです。つまり、神の国における支配とは、自己犠牲的な愛による奉仕にほかならないのです。

本シリーズで見てきたように、クリスチャンの究極的な希望は、神が王として世界のすべてを支配し、神の民もその支配に参加させていただくことです。一方、新約聖書が記しているもう一つの終末的ビジョンは、三位一体の神が永遠の昔から持っておられる愛の交わりの中に、神の民が参加することです(ヨハネ17章21-26節、1ヨハネ1章3節、4章12-16節)。以上述べてきたことから、この二つは別々のことがらではなく、同じものを指していると考えることができます。

神と神の民が世の終わりにすべてを支配する王となるということは、すべての存在が互いに愛をもって仕えあい、神の造られた素晴らしい被造物世界をいつくしみをもって管理していくということです。言い換えれば、終末において完成する「神の国」とは、三位一体の神のアガペーの愛によってすべてが覆い尽くされた世界のことなのです。

御国を来たらせたまえ(9)

(本シリーズの過去記事        

神の国についてとりとめもなく書いてきたこのシリーズですが、今回でとりあえず最後にしたいと思います。最後に取り上げるのはヨハネの黙示録です。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という主の祈りの一節に表されているような終末的希望、つまり神の王としての支配が天においてだけでなく、地においても実現するようにというビジョンは、ヨハネ黙示録の中心的なテーマと言っていいと思います。

黙示録の描き出す神学的世界は、「天と地」という空間的座標軸と、「今の世と来るべき世」という時間的座標軸によってとらえることができます。「」は神の御座のあるところであり、そこでは神の栄光が充ち満ちていて、神の支配が完全に行き渡っているところです(4章参照)。これに対して「」は悪の力が猛威をふるっており、いまだ神の主権的支配が完全に現れていない領域として描かれています(たとえば13章)。ヨハネと仲間のクリスチャンたちは、そのような地上において神を信じ従う存在として、大きな苦難の中にある存在として位置づけられています。ヨハネが本書を書いたのは、流刑先であるパトモス島において復活のキリストからの幻を受けたことがきっかけでした。

しかし、そのような地上の状態はあくまでも「今の世」におけるものであって、いつまでもそうではない、というのが黙示録のメッセージです。将来の「来るべき世」においては、現在は天においてのみ完全に表されている神の王なる支配(=神の国)が地においても完全に実現される時が来る。これが黙示録の希望であり、確信なのです。N・T・ライト風に言えば、「天と地が一つになり、神の未来が現在を訪れる」というビジョンです。

このことは、黙示録における神の呼び名によく表されています。

今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。(1章8節)

ここで使われている「今いまし、昔いまし、やがて来るべき者」という表現は、黙示録に何度も登場します(1章4節、4章8節)。この呼び名は、出エジプト記3章14節に出てくる「わたしは、有って有る者」という神の呼称を思わせます。神は永遠の存在であり、過去も現在も未来も支配されるお方です。神はこれまでの歴史も導かれたし、現在の状況もコントロールしておられ、未来もその御手の中にあります。似たような神の形容は他の宗教にもありました。たとえばヘレニズム宗教においてゼウスは「昔いまし、今いまし、後にいます方who was and who is and who will be」と呼ばれていました。ところがヨハネは「後にいます」というところを「やがて来たるべき」と言い換えています。これは、聖書の神がただ人間の歴史とは無関係に永遠に存在する神(哲学者の神)ではなく、人間の歴史に自ら介入される方であることを表しています。けれども、ヨハネが生きている「今の世」においては、神はまだ地上を訪れておらず、教会は将来起こるその訪れを待ち望んでいるのです。

けれども、ヨハネが見た「これから後に起るべきこと」(4章1節)の幻の中では、この神表現に変化が見られるのです。

今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。」(11章17節)

それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。」(16章5節)

これらの箇所では、「今いまし、昔いませる」の部分は同じですが「後に来られる」という部分がありません。なぜでしょうか?6章以降に描かれているのは、地上の悪に対する神の最終的なさばきです。これについてリチャード・ボウカムはこう言っています。

幻では、これらの時点で神の終末論的到来が起こりつつある。これはもはや未来のことではない。そして、その呼称を用いる賛歌はこの、神の目的の終末論的成就の出現を讃える。(『ヨハネ黙示録の神学』39ページ)

すなわち黙示録のナラティヴのこの時点では、神の到来はもはや未来のことではなく、すでに開始された地上の現実となっているのです。

神が地上を訪れるというのは、神が王としての支配を確立されることです。

第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国basileiaは、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろうbasileusei」。(11章15節)

ここで「この世の国」と訳されている部分の「国」は何度も出てきた「王国」「王としての支配」を表すbasileiaというギリシア語が使われています。興味深いことにここでは単数形が使われており、世界にある国々は、神に敵対する単一の「王国basileia」としてとらえられていることが分かります。神は世の終わりに地上の歴史に決定的な介入を行われ、その王国をご自分のものとして掌握されるのです。そして神が開始する王としての支配は永遠に続くものです。「支配なさるであろう」と訳されているのは、basileiaから派生した動詞basileuōの未来形が使われています。この世の国は神の国となり、その国は永遠に続くのです。

最後に、世の終わりに到来する神の国と教会とはどのような関係にあるのかを考えてみたいと思います。5章の天の御座の幻の中で、キリストの贖罪のみわざを讃える賛美の中で、天使たちは次のように歌います。

9  彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、10  わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょうbasileusousin」。(5章9-10節)

ここで、キリストによって贖われた人々は、地上を「支配するに至るでしょう」と書かれていますが、ここでも上に出てきた動詞basileuōの未来形が使われています(ただしここでは複数形)。さらに同じ動詞の形が、ヨハネの見た幻の最後の部分にも登場します。

夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配するbasileusousin。(22章5節)

つまり、黙示録には、世の終わりに神ご自身が王として支配するだけでなく、神の民である教会もまた王として支配すると書かれているのです。これはつまり、神の王としての支配の働きにクリスチャンが参加させていただくことを意味しています。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」この祈りは、教会が地上に訪れる神の支配の単なる受け手となるだけでなく、やがておとずれる新しい世界の共同統治者としていただく時に、最終的に成就するのです。

御国を来たらせたまえ(8)

(本シリーズの過去記事       

前回の記事では、ルカ福音書の最初の3章において、作者はナラティヴの重要な節目ごとに3つの年代的記述を挿入していることを見ました。それらの年代記述は次第に複雑さとスケールを増してきており、3章冒頭の記述がクライマックスを形成しています。3章でルカはイエスの宣教の始めを包括的な歴史的文脈の中でとらえています。ルカが見ている世界は、ローマもユダヤも、また政治も宗教も渾然一体となった複雑な構造を持っており、その頂点にはローマ皇帝がいました。そのような背景の中で主イエスの福音宣教はなされていったのです。

しかし、これらの支配者たちは単に福音書の物語の歴史的な背景を明らかにするためだけに登場するのではなく、ルカのナラティヴの中でもっと重要な役割を果たしています。それはどのようなものでしょうか?それを解く鍵は次の4章に隠されています。

Immenraet_Temptation_of_Christ

福音書には、イエスが宣教を開始したとき、ヨハネから受洗後、荒野で悪魔の誘惑を受けたことが書かれています。その時に3つの誘惑があったことをマタイとルカがしるしています(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。マタイとルカの福音書では3つの誘惑の順序が少し違っていますが、ルカによる福音書では2番目に次のような誘惑が出てきます。

5  それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界oikoumenēのすべての国々を見せて  6  言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。  7  それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。  8  イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 (ルカ4章5-8節)

5節に出てくる「世界oikoumenē」は2章1節でも、皇帝アウグスト支配する領域をさす言葉として使われています。ここでサタンは、全世界の国々の権力と栄光が自分にゆだねられていると豪語しているのです。

ここでサタンが嘘をついているのではないと考える理由がいくつかあります。第一に、イエスはこの発言を否定していません。もしサタンが口からでまかせを言っていたのであれば、それに対してイエスはその偽りを指摘するだけでよかったでしょう。しかし、イエスはそのようにはされず、礼拝すべき方は神おひとりであるという、申命記の聖句を用いて、自分を拝ませようとするサタンの誘惑をしりぞけたのです。このことは、イエスもサタンが何らかの形で世界を支配しているという主張については認めていたことを示しています。また、使徒行伝26章18節では、イエスからパウロに語られた言葉として、彼の宣教の働きが「悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ」ることであると語られていることから、サタンがこの世の国々を現実に支配しているとルカが信じていたことが分かります。(ただし、ルカ4章6節でサタンはこれらの権威が自分に「任せられて」いると語っており、その権威は究極的には神に由来していることを暗黙裏に示しています。)

旧約聖書のダニエル書10章では、ペルシアやギリシアといった特定の国を支配する霊的存在が登場しますが、ここではサタンは全世界のすべての国々を支配する存在として描かれているのです。そして、このようにサタンが支配する「全世界の国々」にはローマ帝国もふくまれることは明らかです。したがって、サタンはローマ皇帝をも支配する、この世の真の支配者と考えることができます。

つまり、ルカ4章の荒野の誘惑記事は、そこに至る3章のナラティヴに対する重要な注解の役割を果たしているのです。荒野の誘惑の記事を、3章までで提示された年代記述と照らし合わせて読むとき、ひとつの重大なポイントが浮かび上がってきます。1-3章でルカは、皇帝を頂点として、ローマ人やユダヤ人を含み、またユダヤの宗教組織をも取り込んだこの世の政治体制を描いてきました。しかし、4章においてはじめて、ルカはこの世の権力の背後には霊的な存在がいることを明らかにするのです。ルカにとって、この世の真の支配者はローマ皇帝ではありません。皇帝の上にあってすべてを支配しているのは、サタン自身なのです。サタンは自分に委ねられた権威を好きな者に与えることができると語ります(4章7節)。これは配下の悪霊に権威を与えているとも考えられますが、同時にローマ皇帝の権威はサタンから与えられたものであると考えることもできます。

ルカにとって、この地上の政治権力と、その背後に存在する霊的影響力とは切り離すことができません。ルカのホリスティックな世界観においては、現代人のように地上的・歴史的できごとと、霊的・宗教的できごとがはっきりと区別されているのではなく、お互いに影響を及ぼしあっているのです。ルカ4章5節に出てくる「世界のすべての国々」という表現では、神の「国」やルカ11章18節でサタンの「国」という時に使われているのと同じbasileiaというギリシア語(この場合は複数形)が使われています。つまり、ローマ帝国を含むこの世のすべての国々basileia(複数)はサタンの国basileia(単数)の支配下に置かれているのです。

ルカにとって、イエスが神の国の到来を告げ知らせたこの地上世界は、このように地上の複雑な政治的権力構造を含みこんだ、サタンの王国であったのです。サタンがこの地上世界を支配しているという認識は、他の新約記者にも見ることができます(ヨハネ12章31節、1ヨハネ5章19節など)。サタンの国に神の国が侵攻してくる時、当然そこには衝突が起こってきます。神の国の到来は、宇宙規模の闘争でもあるのです

なお、このテーマについてさらに詳しく知りたい方は、拙著The Roman Empire in Luke’s Narrativeを参照してください。

(続く)