N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(3)

その1 その2

今回は第2部、特にその中の第5章「神」について見ていきます。

第二部 太陽を見つめる
第5章 神
第6章 イスラエル
第7章 イエス―神の王国の到来
第8章 イエス―救出と刷新
第9章 神のいのちの息
第10章 御霊によって生きる

第1部でライトは、人間の持つ4種類の渇望について記し、それらがこの世界を越えたもう一つの世界、またそこから語りかけている存在(=神)を指し示していることを論じました。第2部ではこれを受けて、ではその「もうひとつの世界」あるいは「神」はどのようなものなのかについて、キリスト教が語る物語を紹介していきます。

第2部の冒頭に置かれた第5章は世界観の問題を扱った章で、本書の中でもきわめて重要な位置を占めている部分です。ここでライトは、神(と神のいる世界)が、私たちの世界とどのように関わっているのかについて、キリスト教がどのようなモデルを提供しているかを説明しますが、この部分はクリスチャンである読者の多くにとっても示唆に富むものであると思います。

まずライトは、そもそも「神」について考えるとはどういうことか、ということから説き起こします。

神についての大論争、すなわち神の存在、神の性質、この世界でなされる神のわざについての多くの論争は、太陽が輝いているのにそれを確かめようと、空に灯りをかざすような愚かな行為である。同じように簡単に陥りがちな過ちは、神がいるとしても、まるで私たちの世界にある独立した実在、あるいは音楽や数学のように、努力して学べば神に近づけると思って語ったり考えたりすることである。そして、この世界にある物体や存在を扱うのと同じテクニックで扱えるかのように思うことである。(中略)クリスチャンの立場から言えば、神について語るのは難しい。なぜならそれは、太陽を見つめるようなものだからだ。目がくらむ。それよりもっと簡単なことがある。太陽から目をそらし、陽が昇ったことですべてが明るく照らし出されている事実を楽しむことである。(82-83頁)

ここでライトが言おうとしていることは、神はもともとこの世界の中に存在しているお方ではないということです。宇宙空間をどこまで突き進んでいっても、決して神を見出すことはできません。人間が神を見出すことができるのは、神がご自身のいる世界から「こちら側」に現れるときにのみ、可能になります。つまり、神の世界と私たちの世界という二つの異なる世界が存在することになります。聖書では前者を「天」、後者を「地」と呼びます。もちろん、ヘブル語やギリシア語でも「天」という言葉は空間的な場所としての「空」を意味することもありましたが、それとともに「神の住処」としての重要な用法があります。そしてこの「天」は、一般に考えられている「天国」すなわち死者の魂が最終的に憩う場所、ということではなく、今現在神がおられる(この物質世界とは異なる)「場」なのです。そこで問題になるのが、そのような神の場としての「天」と人間の場としての「地」はどのように関わり合っているのか、ということです。ここでライトは世界観についての3つの選択肢を提供し、比較検討していきます。

選択肢1:神の場と私たちの場は重なりあって一体となっている

このタイプの世界観では、神の場と私たちの場は渾然一体となっています。神は世界のあらゆるところに存在し、世界そのものが神であるか(汎神論)、あるいは世界のすべてが神の中に含まれます(汎内在神論)。すべてのものに、そして自分の内面に神性を見出すことができるという考えは現代も人気がありますが、ライトによるとこの世界観の欠点は、悪の問題を扱うことができないということです。全てが神であるなら、なにか悪いことが起こった時に、一体どこに訴えたら良いのでしょうか?

選択肢2:神の場と私たちの場は明確に分けられている

2番目のタイプの世界観では、神(々)と人間とは互いにかけ離れており、無関係に生活しているとされます。神(々)は存在するとしても、地上の出来事には関心もなければ干渉することもないというのです。これは古代のエピクロス派の哲学や近代の理神論に見られる考えで、神を信じると言う現代人の多くもこのような世界観を持っているとライトは指摘しています。ライトは、この世界観の問題点は、彼が第1部で取り上げたような、この世界を越えた世界を指し示す「声」に耳をふさがなければならないことであると言います。恐らくライトが言いたいことは、このような世界観を持つ人々にとって、この世界を越えた神の世界への渇望を意識することは、(それが決して満たされることのないことを知っているがゆえに)耐えがたい苦痛をもたらすことになる、ということなのでしょう。つまり、ここでも悪の問題がその醜悪な顔をのぞかせていることが分かります。たとえ神々がいたとしても、彼らは地上に満ちている問題の解決には何の助けにもならないのです。

選択肢3:神の場と私たちの場は重なりあい、かみ合っている

最後のタイプの世界観は、古典的ユダヤ教とキリスト教に見られるものです。

天と地は完全に一体として重なり合ってはいない。しかし、その間に大きな溝があって隔てられているのでもない。その代わり、いろいろ異なった仕方で重なり合い、かみ合っている。(92頁)

これは1番目と2番目の世界観の中間にあるものと言えますが、それらのように白黒はっきりしたものではなく、複雑な様相を呈していますが、これこそがライトが本書で提唱していく世界観なのです。この世界観によると、神は天におられ、人間は地にいます。けれども、天と地は特定の時と場所において重なり合い、神が人と出会うことができるというのです。それは、聖書にしばしば登場する神顕現の記事(たとえば神が燃える柴においてモーセに現れたできごと)に見ることができますし、旧約聖書において天と地が重なる典型的な場所はエルサレムにある神殿でした。

さて、ライトによると、この(聖書的)世界観の利点は、悪の問題を適切に取り扱う(少なくとも真剣に受け止める)ことができることです。なぜ聖書の神はこれほどまでに地上の世界に積極的に関わり続けるのでしょうか?それは、ご自分が創造した世界に対する愛のゆえであるといいます。第1部で取り上げられた様々な「声の響き」は、世界と人間に対して語りかける神のラブコールにほかならないことが分かります。ライトによると、この神は「愛する被造物が堕落し、反抗し、その結果苦しみに陥っている事実を大変深刻に受け止めている」神です(96頁)。そして、神は事態を打開するために、行動を起こします。それが聖書に描かれている救いの物語(ストーリー)、イスラエルに始まり、ナザレのイエスにおいて一つのクライマックスに達し、終末において天と地が一つになることによって完結する物語なのです。

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上にも述べたように、第5章は世界観について論じた章で、本書全体読み解く上でも中心的な重要性を持っています。クリスチャンであっても、ライトが提示する「キリスト教の(つまり聖書的な)世界観」に対して新鮮な驚き、あるいはむしろショックを覚える人がいるかもしれません。つまり、クリスチャンであるからといって自動的にある特定の世界観を持つようになるわけではない、ということです。

本書では特にライトは「選択肢2」の理神論的世界観に基づくキリスト教理解に厳しい批判の矢を向けています。

クリスチャンの信仰について広く普及している誤った理解の多くは、この点を既存の理神論の枠に当てはめて理解しようとするところからくる。理神論的キリスト教を次のように示すことができる。遠くかけ離れたところにいる厳格な神が、ある日、唐突に何ごとかを決断する。そして神がご自身の子をこの世界に遣わしたのは、彼を通してどのように私たちがこの世界から逃れ、神と一緒に住むことができるかを教えるためだった。そしてさらに、神ご自身の不可解で気まぐれな要求を満足させるため、残酷な運命をその子に課して断罪した、と。(96-97頁)

あるクリスチャンにとっては、このような批判は不当なカリカチュアに思えるかも知れません。けれども、理神論的な世界観が近代西洋のキリスト教、そしてその影響を受けた日本を含む非西洋世界のキリスト教に大きな影響力を及ぼしてきたことは確かであると思われます。そのような世界観を持つクリスチャンにとって神は普段の生活には何も影響をもたらさず、神を信じることの意義といえば、せいぜい死んだ後に天国に行くことができる、というだけのことです。したがって、そのような人々の生活態度は非キリスト教徒のそれと実質的にほとんど変わらないものになってしまっているのです。

米国の宣教学者・人類学者ポール・ヒーバートはこのような状態を「排除された中間領域の欠陥The Flaw of the Excluded Middle)」と呼んで批判しました。簡単に言うと、近代西洋キリスト教の世界観では、神が支配する超自然的な領域と、自然法則が支配する領域とが切り離されてしまい、両者が相互作用する中間の領域が欠落してしまっているということです。(余談ですが、2007年に亡くなったヒーバート教授は私の母校であるトリニティ福音主義神学校で長年教鞭を取っておられ、私の留学時にはまだ存命中でした。私は先生のクラスを取る機会はありませんでしたが、キャンパス近くの同じ教会に通っていました。)

またこれとは反対に、「選択肢1」の汎神論的世界観の影響を受けたキリスト教の危険もありうると思います。そこでは、神が私たちの地上での生活に積極的に関わっておられることが強調されます。それは時には超自然的な病のいやしや悪霊からの解放といったことがらも含みますが、より「自然な」関与もあるでしょう。このような地上の人間生活への神の関与は確かに聖書に書かれていることであり、ライトが提唱する「天と地が重なりあう」世界観とも適合します。これが「選択肢3」の世界観と異なるところは、目の前の地上的な問題の解決に過大な重要性を付与するあまり、それがクリスチャン生活の主要な関心事になってしまい、やがて天と地が一つになり、神がこの世界そのものを贖われるという終末的な視点が希薄になってしまうことです。同時に、現時点においては天と地は完全に重なっているわけではないという、「いまだ」と「すでに」の終末論的緊張関係が解消されてしまい、すべての問題が「いま、ここで」解決されるべきだと思い込んでしまう危険性もあります。

ライトが主張しているのは、「天と地が重なり合い、かみ合う」世界観を採用するならば、このような両極端の誤りを避けることができ、聖書のストーリーが意味をなすものとして理解できるということです。

(続く)