N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(2)

その1

本書は3部構成になっています。第1部「ある声の響き」では、人間の持つ渇望について述べ、それらがこの世界を越えた別の世界の存在を指し示していることが語られます。第2部「太陽を見つめる」では、神についてのキリスト教信仰の要点が示され、その中でイスラエル、イエス、聖霊についての「物語(ストーリー)」が概観されていきます。第3部「イメージを反映させる」では「教会」について述べられており、第2部で描写されたような信仰を生きることは何を意味するのか、そしてそれが第1部で語られた人間の渇望に対してどのように応えることができるのかが語られていきます。

さて、今回は第1部について見て行きたいと思います。

第一部 ある声の響き
第1章 この世界を正しいものに
第2章 隠れた泉を慕って
第3章 互いのために造られて
第4章 この地の美しさのために

ここで著者ライトは、人間の持つ4つの飢え渇きについて述べていきます。それは「義への希求」(第1章)、「霊的なことへの渇望」(第2章)、「人間関係への飢え」(第3章)、「美における喜び」(第4章)です。クリスチャンであろうがなかろうが、人間は誰でも公正さや義が行われることを求め、霊性(スピリチュアリティ)・霊的なものに渇き、他者との充実した人間関係を追求し、美しいものに魅了されます。これらの渇望はいつの時代も存在しましたし、(たとえば霊性の場合のように)それを否定したり抑圧しようとしたりする試みはいずれも失敗に終わりました。これらは人間存在が持つ根源的な欲求であると言って良いと思います。

同時に、これらの欲求は決して完全に満たされることがないということをライトは指摘します。誰もが公正や義を求めているにもかかわらず、社会には不正があふれています。書店にはありとあらゆる種類の「霊性」に関する本があふれていますが、そのような雑多な「霊性」の氾濫自体、そして時として起こるそれらの極端で奇異な表現は、霊性のもつとらえどころのなさを暗示しています。人は孤独には耐えられず、結婚関係から国家間の関係に至るまで、他者との良好な関係を築きたいと願っています。しかし、多くの場合そのような願いは離婚や戦争といった悲惨な現実によって打ち砕かれ、いずれにしても死で終わってしまいます。また、誰もが自然や芸術のもつ美に感動した経験を持ちますが、その感動は儚く消えていき、長続きはしません。そもそも何が美しくて何がそうでないのかの判断基準さえ、時代や個人によって変わってくるように思えます。

私たちはこの世界の中で、義の実現や霊的充足や素晴らしい人間関係の喜びや美的体験をほんの束の間味わうことがありますが、それはまるで夢のように私たちの指の間をすり抜けて消えてしまうのです。このような体験をライトは、「ある声の響き」にたとえています。それは、この世界を越えた別の世界から語りかける声を聞くようなものであるといいます。その声も、はっきりとしたものではなく、かすかな残響のようなもので、この世の喧噪に気を取られていると、そういうものがあることすら意識しないかもしれません。けれども、注意深く耳を澄ませるならば、どこか遠いところから誰かの語りかける声が聞こえてきます。それは意味のない雑音ではなく、この世界を越えた別の世界があることを伝える「声」なのです。その声は「いつまでもこうである必要はない」と語りかけます。そしてさらに重要な事は、そのような声が聞こえるということは、その声を発している誰かがいる、ということです。

私たちがこのような夢を見るのは、つまりその声の響きにどこか聞き覚えがあるのは、私たちに語りかけ、耳の奥深くでささやきかける誰かがどこかにいるからだ。それは、現在の世界と私たちのことを深く心配している誰かであり、私たちとこの世界を深く心配している誰かであり、私たちとこの世界を創造した誰かである。その誰かは確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間をも正し、ついには世界を救出するという目的を持っている、というものである。(20頁、強調は原文)

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N・T・ライトは第一級の学者であるだけでなく、才気あふれる文章家でもあります。本書でも随所に魅力的な比喩やイメージ表現が散りばめられていますが、今回取り上げた「声」や音楽のメタファーは、本書で重要な役割を果たしています。

この世界を越えたところにあるなにものかを求める人間の渇望から説き起こして神について語るというのは、もちろんライトのオリジナルではありません。たとえばアウグスティヌスは「あなた(神)は、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(『告白』)と書きましたし、C・S・ルイスはこの世界を越えた存在への「憧れSehnsucht」についてしばしば語りました。また彼は『キリスト教の精髄』を、人間に普遍的に備わっている善悪の概念(これは公正さを求める人間の渇望と言い換えることができるでしょう)から説き起こしています。さらに、人間が持っているこの種の渇望は、ライトが本書で取り扱っている4つだけに限られるわけでもないと思います。たとえば、「意味」や「目的」に対する渇望などを加える事もできるでしょう。けれども、キリスト教の入門書をこのような形で始めることは、きわめてオーソドックスかつ有効な戦略であると思われます。

そしてライトは、このような渇望を引き起こすのは、彼方から聞こえてくる「」であるといいます。ここにあるのは「啓示」の概念であり、この世界を越えた世界があることを忘れてしまった人間に対して差し伸べられている神の恵みの御手であると考えることができます。そしてその声は神についての無味乾燥な単なる「情報」を伝えるだけではなく、その声の持ち主の素晴らしさ、美しさを感じさせる「調べ」でもあるのです。

スティーヴ・デウィット牧師は、シカゴのミッドウェイ空港で飛行機の待ち時間にたまたま女性用トイレの側を通りかかった時、凍りついたように足を止めました。トイレの中から、たとえようもなく美しいバイオリンの調べが聞こえてきたのです。その音楽に心を奪われたデウィット牧師は近くの椅子に陣取って、最も場違いに思える場所から聞こえてくる素晴らしい音楽に耳を傾けていました。彼はトイレの中で演奏しているのは誰なのか、あれこれ想像をめぐらしますが、もちろん中に入って確かめることはできません。彼は待ち時間のぎりぎりまでその場にいましたが、ついにその音楽家に会うことはできませんでした。その時の体験を彼はこう語っています。

私はがっかりしました。彼女に会ってお礼を言うことはできませんでした。あの美しい音楽の背後にいる人物と知り合うことは決してできなかったのです。私は幸福感と感嘆の念を味わっただけで、その音楽の創造者に出会うという光栄に浴することはできませんでした。(Steve DeWitt, Eyes Wide Open, p. 6. 強調は引用者)

デウィット牧師は続けて、この世では決して完全に満たされることのない美への渇望は、究極的には神に導いていくと語ります。ライトも本書で美への渇望について取り上げているのは興味深いことです。

ライトは本書を構成する3つの部分を交響曲の楽章にたとえています。交響曲の第1楽章で提示されたテーマが続く楽章で有機的に展開し、結び合わされ、何らかの解決が与えられるように、第1部で提示された「声」のテーマとそれに関するさまざまな問題(なぜそのような声が聞こえるのか、語っているのは誰なのか、その誰かは何を目的としているのか、私たちはどのようにその声に応答すべきなのか、等々)が続く部分でさらに掘り下げられ、著者なりの解答を与えられていくことを見るようになります。本書の終わりでは、キリスト教の福音が霊性や義や関わりや美への渇望に対してどのように応えることができるのかが語られていきます。

(続く)