御国を来たらせたまえ(7)

(本シリーズの過去記事      

このシリーズでは「神の国の到来」というテーマをいろいろな側面から考えてきました。聖書の提示する終末的希望は、神の国すなわち神の王としての主権的な支配が地上に到来することである、とういことを何度も繰り返してきました。

しかし、神の国は何もない空き地に到来するわけではありません。現在の地上は神以外の存在によって支配され、神の意志とは異なる意志によって動かされています。主の祈りの中でイエスが弟子たちに、「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るように教えられたのは、まさに現時点では神の支配はこの地上を未だ完全におおっておらず、神のみこころが完全になっていないからこそなのです。そのような領域に神の国が「訪れる」というのは表現が少し穏やか過ぎるかもしれません。実際には、神の国は、神に敵対する存在が支配するもう一つの王国に侵攻してくるのです。

この記事では、主にルカ福音書によりながら、このテーマについて見て行きたいと思います。

14  さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。  15  その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、  16  またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。  17  しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。  18  そこでサタンも内部で分裂すれば、その国basileiaはどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、  19  もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。  20  しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国basileiaはすでにあなたがたのところにきたのである。(ルカ11章14-20節)

ベルゼブル論争」 とも呼ばれるこのエピソードでイエスは、ご自身が悪霊を追い出しているのは神の国が到来している証拠であると語っています(20節)。しかし、このエピソードではもう一つ興味深い点があります。イエスの悪霊追い出しを批判する人々は、イエスがベルゼブルという強力な悪霊の力を使って別の悪霊を追い出しているのだと邪推しました。それに対してイエスは、サタンの国は内部分裂しては立ち行かないという論理を使って、その批判に反論されました。18節でサタンの「国」と訳されている言葉は、神の「国」と同じbasileiaというギリシア語が使われています。つまり、このエピソードが示しているのは、イエスが悪霊を追い出す行為は、神の王国がサタンの王国を攻撃していることの現われであるということです。

ルカ福音書はサタンの王国がどのように地上を支配しているのかについて、非常に興味深い視点を提供しています。ルカ福音書のはじめの数章において、記者のルカはナラティヴの区切りごとに、物語の展開上重要なできごとがいつ起こったかということを、時の支配者に言及しながら述べています。これを順番に見ていきましょう。

ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。 (ルカ1章5節)

ルカ福音書1章の冒頭でルカはバプテスマのヨハネの誕生物語を、前1世紀末のパレスチナの歴史の中に位置づけています。ここに登場するヘロデは「大王」とよばれるヘロデで、前37年から前4年の間、ユダヤを統治しました。ローマ人の後ろ盾によって王となった彼は、終生ローマに忠誠をつくしました。ヘロデの王国は名目上は独立国でしたが、実際にはローマの傀儡政権であることは、誰の目にもあきらかでした。したがって、一見純粋にユダヤ的な物語に思える(実際ここではルカはギリシア語訳旧約聖書を模した文体を使っています)福音書冒頭の記述においても、「ユダヤの王ヘロデ」という一言は、ローマ帝国によるユダヤ人の支配という現実を垣間見せてくれるのです。

1  そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。 2  これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。(ルカ2章1-2節)

2章のイエスの生誕物語を語り始めるにあたり、ルカはふたたび当時の支配者に言及しますが、今度はユダヤではなく、全ローマ帝国にまで地理的視野が拡大されています。ここで登場する皇帝アウグストはローマ帝国の初代皇帝で、前27年から後14年の間地中海世界を統治しました。

ここでルカが皇帝アウグストを、「全世界」を支配する(と称する)存在として描いていることに注意しましょう。ここにあるのは、シリアの総督クレニオに対する言及といい、住民登録のための勅令といい、非常に政治色の濃い記述であり、皇帝を頂点とするローマの支配が地中海世界全域に及んでいたことを示しています。「全世界」という表現はもちろん誇張であって、実際には地中海沿岸地域(それでも広大な領域ですが)を指しているわけですが、理念としては全世界を支配したいという、ローマの傲慢さを示しているともいえるでしょう。(イエスの降誕物語の政治的メッセージについては、本ブログの「本当は政治的なクリスマス物語」を参照ください。)

1  皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、  2  アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。 (ルカ3章1-2節)

3章でルカは、イエスの宣教活動の先触れとなる、バプテスマのヨハネの宣教活動について語りはじめますが、ここでもまた年代的記述がなされています。これはこれまでのルカのナラティヴに登場した中でもっとも詳細に書かれた年代記述であり、7人の支配者が登場します。

テベリオはローマ帝国の第二代皇帝で、後14年から37年まで統治しました。ポンテオ・ピラトは後26年から36年までユダヤの総督でした。ここに出てくるヘロデは福音書の受難物語にも登場するヘロデ・アンティパスのことで、ガリラヤとペレヤの四分領主でした(前4年-後39年)。アンティパスと同じくヘロデ大王の子であるピリポはパレスチナ北東の地域の四分領主でした(前4年-後34年)。ルサニヤはダマスコの北方にあったアビレネという地域の国主でした。1章と2章の年代記述とはことなり、ここでルカはさらにユダヤの宗教的指導者たち、すなわちアンナスカヤパの名を挙げています。

ここに見られる支配者のリストはいろいろな意味で総合的であるといえます。1章ではユダヤの王が、2章ではローマ皇帝とシリヤ総督がそれぞれ言及されていたわけですが、3章ではその両方、つまりローマ人の支配者とユダヤ人の支配者の両方がリストにふくめられています。さらに、王や総督といった政治的支配者だけでなく、大祭司という宗教的支配者も言及されているのです。

古代の人々は現代人のように政治と宗教を明確に区別していませんでした。ローマ皇帝は「最高神祇官」という宗教的役職を兼ねていましたし、ユダヤの大祭司もサンヘドリンの議長として政治的影響力を持っていました。さらに、ユダヤ総督は大祭司を任命・解任する権利を持っており、ユダヤ教の組織そのものがローマに従属していたことを示しています。つまり、ルカがここで描きだしているのは、ローマ皇帝を頂点にした、政治的・宗教的支配者を含めたこの世の権力構造なのです。

ところで、ルカはなぜ福音書の冒頭でこのような形で時の権力者に言及したのでしょうか?そして、このことは、この世を支配しているサタンの王国、さらにそこに侵攻してくる神の国とどう関わっているのでしょうか?次回はそれについて見て行きたいと思います。

(続く)

 

 

御国を来たらせたまえ(6)

(シリーズ過去記事     

神の国についてのシリーズの中で、過去2回にわたって「携挙」の概念について書いてきました。

なぜ「携挙」の概念がこれほど人気があるのでしょうか?それは一つには、これまで論じてきたような、ギリシア的霊肉二元論に基づく通俗的天国観があると思います。つまり、クリスチャンの最終的希望は、滅び行く地上世界を離れ去って、霊的な楽園としての「天国」で神と永遠に過ごすことだという考えです。もちろん、1テサロニケ4章16-17節でパウロは携挙について語っていると信じるならば、その時には同時に死者の復活も起こることも認めなければなりませんので(16節「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、」)、これは厳密には「死後霊魂が肉体を離れて天国に行く」というものとは異なります。しかし、地上の悪の世界から脱出して神のおられる「天国」に入る、という天国観は、「携挙」の考えと非常になじみやすいということは言えます。このような現世逃避的な思想(「悲観的終末論」と言ってもいいかもしれません)は、携挙によって教会は終末の患難期を経験することがない、という考え方に典型的に表れています。

「携挙」が広く信じられているもう一つの理由は、聖書の中には天に挙げられた人々の記述があるからだと思います。それはエノク(創世記5章24節)、エリヤ(2列王記2章11節)、そしてもちろんイエス(ルカ24章50-51節、使徒1章9節)の昇天記事です。これらの人々は、地上から神の住む領域である天へと移されました。これらの記述から、「神に祝福された人々は最終的に地上から天に挙げられる」という「原則」を人々が見いだしたとしても不思議ではありません。しかし、これは真理の半分しかとらえていない理解です。

確かにこれらの昇天記事は、神の住まわれる領域すなわち「天」に移されること、つまり神とともに生きるいのちの祝福を表していると言えます。しかし、聖書の語る最終的な終末のビジョンは、神ご自身が地上に降りてきて人とともに住み、天と地が神の普遍的な支配の下で一つになるということです。

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。2  また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。3  また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4  人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

終末に起こる、再臨のキリストとの出会いはそのような聖書ナラティヴの全体的なストーリーラインの中でとらえなければなりません。そのように考える時、パウロがキリスト者は「いつも主と共にいる」と言ったときに彼が語っているのは、地上に降りてきた新しいエルサレムにおけるキリストとの生活を意味していると考える十分な根拠があります。

このことは、聖書の読み方についても多くの示唆を与えてくれます。私たちが聖書に書かれている断片的事例から普遍的な原則を導き出そうとするとき、聖書に繰り返し出てくるできごとが、永遠に繰り返される固定されたパターンであるかのように誤解してしまうことがあります。たとえばある人々は次のように考えるかもしれません。

スライド1

しかし、聖書は歴史と関わりのない普遍的な命題的真理の単なるコレクションではなく、首尾一貫したストーリーラインを持つ一つの物語(ナラティヴ)です。物語においては話がどのような展開を経てどういう結末にいたるかが重要であり、同じようなできごとがただ繰り返されていくのではありません。物語の各部分はそのようなストーリーラインの枠組みと、その部分が全体の中でどういう位置を占めているかに照らして解釈されなければならないのです。したがって、聖書の昇天物語に見られるテーマ(神とともに生きるいのちへの移行)はかならずしも「地上から天に引きあげられる」という固定された物理的移動によっていつも表現されるわけではなく、同じテーマが終末における救済史の新しい展開(天における神の支配が地にも現される。言い換えれば天と地が一つになる)においては、新しい形態を取る(神の民が再臨の主を地上に迎え入れる)ということも十分にあり得るわけです。

スライド2

このように、「携挙」の問題を考えるときにも、聖書の全体像をどう把握するかが重要であることが分かります。そして、最終的に最も説得力のある解釈は、聖書全体のストーリーラインにもっともよく適合する解釈なのです。

(続く)

御国を来たらせたまえ(5)

(シリーズ過去記事    

前回に引き続き、「携挙」について考えます。携挙の聖書的根拠として取り上げられるもう一つの箇所は、マタイ福音書の次の箇所です。

37  人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38  すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39  そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40  そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41  ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42  だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイ24章37-42節)

二人の人物が一緒にいるときに、一人が取られ、一人が残されるという印象的なイメージは、ルカ福音書17章にも並行箇所がありますが、ここで問題になるのが、「取られる」「残される」というのがそれぞれ何を指しているのか、ということです。この二つはどちらか一方がさばきを、他方が救いを表していると考えられますが、どちらがどちらなのかははっきりしません

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携挙を支持する人々は、ここで「取られる」方の人物が救われるのだ、と解釈します。たとえば上の画像は18世紀末に出版された聖書の挿絵(マタイ24章40節の部分)ですが、この解釈に基づいて描かれたものといえます。31節でキリストがご自分の民を集めると書かれているのもこの解釈を支持するように思われますので、「取られる」方が救われる方であると考えることは可能です。

しかしその場合でも、この部分が必ずしも「携挙」を表しているとは言えません。まず、この箇所では「取られる」人々が天に引き上げられるということが明示されているわけではありません。天から地上に降臨したキリストが、ご自身のおられる場所にご自分の民を集めるという解釈も十分成り立ちます。またいずれにしても、この時の「再臨」は患難期前再臨説が主張するような、(そして「レフト・ビハインド」シリーズに見られるような)、世の人々が知らないうちにキリストが密かに来臨し、クリスチャンが取り去られるというものではありません。30節には、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 」とあるからです。

さらに、この箇所は「取られる」方が裁きを受ける方であると解釈することも可能です。この箇所でイエスは終末に起こる、救われる者と裁かれる者との分離をノアの洪水にたとえていますが、39節では「そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」と書かれています。明らかに、ここで洪水にさらわれていくのは裁きを受けておぼれ死んだ人々です。

したがって、世の終わりには一部の人々が取り去られ、一部が残されるというイエスの表現だけでは、携挙の根拠とするには不十分といえます。

続いて、ヨハネ福音書に目を転じましょう。受難前夜の弟子たちに対する長い説話の中で、イエスはこう言われました:

3 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3  そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネ14章2-3節)

ここも「携挙」を支持する箇所のように見えます。つまり、イエスが死と復活を通して父のみもとに帰るとき、「わたしの父の家」つまり天国で弟子たちのためのすまいを用意し、しかるべき後にこの地上に帰ってきて弟子たちを迎え、天国に連れて行ってくださる、というのです。

ここは非常に難しい箇所で、いろいろな解釈が提示されていますが、イエスがこの箇所で「わたしの父の家」に弟子たちのためのすまいを用意し、そこに弟子たちを導くために迎えに来ると言われているのは確かです。しかし、「わたしの父の家」とは何を指しているのでしょうか?ヨハネ福音書では、この表現は神殿を指しています(2章16節)ので、14章で語られる「わたしの父の家」も神殿と考えることができます。ただし、世の終わりにイエスが弟子たちを導き入れるという神殿は、もちろんエルサレムにある人の手で造られた神殿のことではなく、天から下ってくる新しいエルサレムであると考えられます(黙示録21章2節)。新エルサレムは都全体が神殿であると語られているからです(同22節)。つまり、ここでイエスが弟子たちに語っているのは、世の終わりには彼らはイエスとともに終末的神殿である新しいエルサレムでいつまでも住むことができる、ということです。このように考えれば、この箇所も聖書全体の方向性である「天から地へ」という枠組みの中で考えることができます。

*   *   *

今回取り上げた聖書箇所は、どれも解釈の幅のある箇所であり、携挙を支持するとも支持しないとも解釈することのできる、難解な部分です。上で示した解釈は、いくつかある解釈の一つの選択肢に過ぎません。しかし、だから「何でもあり」ということではなく、どの解釈がより説得力があるのか、を考えなければなりません。このような場合に大切なことは、聖書の示す大きな物語のストーリーラインに沿ってその箇所を理解することです。

個人的にはクリスチャンが再臨時に空中でキリストと出会い、そのまま天に引き上げられていくという「携挙」は聖書的根拠に乏しいと考えています。それは、これまでとり上げたいくつかの個所の釈義的可能性に基づくだけでなく、「天から地へ」という聖書の終末論全体を貫く方向性と逆行しているように思えるからです。つまり、世の終わりにクリスチャンが天に引き上げられるという解釈よりも、天から降臨するイエスを地上で迎えるという解釈のほうが、聖書の物語全体の文脈により適合するということです。

次回は、携挙の問題をより大きな聖書のストーリーラインの観点からさらに深く見て行きたいと思います。

(続く)

 

御国を来たらせたまえ(4)

(シリーズ過去記事   

このシリーズでは、「神の国の到来」をテーマに考えてきました。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」と祈るようにとイエスが弟子たちに教えられたように、キリスト者の祈りは、そして聖書が教える終末の希望は、神の国が地上に訪れることであって、私たちが「天国に行く」ということではありません。つまり、基本的に聖書が示している方向性は「天から地へ」であって、「地から天へ」ではないのです。

これに関連して、今回は多くのクリスチャンが終末に起こると考えている一つのできごとについて取り上げたいと思います。それは「携挙」と呼ばれるものです。

「携挙」と言う言葉自体は聖書には出てきません。英語のraptureという表現は、1テサロニケ4章17節のラテン語訳に出てくるrapiemur(「私たちは取り去られるであろう」)という語に由来します。「携挙」は特にキリスト教の終末論において、終末に起こるとされる患難期の始まる前にキリストが再臨して教会を天に引きあげるという立場(これを「患難期前再臨説」と言います)を取る人々が、その時に起こる出来事を指す表現として用いられます。つまり「携挙」とは、世の終わりにキリストが再臨するとき、地上に生きているクリスチャンが文字通り空中に引き上げられてキリストに出会い、そのまま天に引きあげられるできごとをさす用語です。アメリカを中心に大ヒットし、邦訳も出版された『レフトビハインド』のシリーズもこの理解に基づいており、携挙の概念は日本のキリスト教会でも多くの支持者を持っています。この記事では、携挙のタイミング(患難期との前後関係など)についての細かい議論には触れず、携挙の概念そのものについて、その聖書的根拠を探っていきたいと思います。特に問題となるのは、空中で再臨のキリストに出会った聖徒たちが、そのまま天に引きあげられるのかどうか、と言う点です。

先に進む前にあらかじめお断りしておきますが、携挙に関しては保守的なキリスト者の間でも様々な見解があり、以下に記すのはあくまでも筆者個人の理解です。「携挙」の解釈は福音理解の根幹に関わるものではなく、それに関して意見の相違があったとしても、福音主義的キリスト者としての交わりがさまたげられる必然性は何もありません

さて、「携挙」の聖書的根拠として参照されるもっとも重要な箇所は、冒頭にも挙げたパウロによるテサロニケ人への手紙の次の一節です:

17 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。  16  すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、  17  それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(1テサロニケ4章15-17節)

特に17節の「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」では、キリストの再臨時に、地上で生きているクリスチャンが(それ以前に死んでいたけれども今や復活したクリスチャンたちと共に)空中に引きあげられて、そこでキリストと出会うことが記されています。携挙を信じる立場ではこの後クリスチャンはキリストと共に天に引きあげられるとされます。つまりこの時キリストが降りてこられるのは空中までであり、完全に地上にまで降臨するわけではありませんので、「空中再臨」と呼ばれます。

さて、このような再臨の理解ははたしてパウロが意図したものだったのでしょうか?ここで鍵となるのが17節で「会う」と訳されているギリシア語の名詞apantēsisです。古代世界では、王や皇帝のような高貴な人物がある町を訪れた時に、町の住民が城門の外まで迎えに出て、その王を町へとエスコートすることが行われました。その時に使われたことばがこのapantēsisです。たとえば2サムエル記19章25節(ギリシア語の七十人訳聖書では26節)では、エルサレムに帰還したダビデ王をメフィボシェテが迎えに出たことが書かれていますが、そこでもapantēsisが使われています。使徒28章15節でも、パウロがローマの近くまで来たとき、ローマのクリスチャンたちがパウロを出迎えた(apantēsis)ことが書かれていますが、文脈からして当然彼らはパウロを伴ってローマに帰ったことと思われます。もしかしたらここには、世界の、したがってローマ帝国の真の王なるイエスの使節として、パウロを首都に迎え入れるというイメージがあるのかもしれません。使徒行伝のナラティヴは、パウロが帝都ローマにおいて「はばからず、また妨げられることもなく、神の国(=王としての支配)を宣べ伝え、イエス・キリストのことを教えつづけた。」(28章31節)という記述で終わっています。

さて、1テサロニケ4章でパウロが再臨のキリストを地上を訪れる天の王として描いていることは、ダニエル7章13-14節を思わせる雲のイメージを使用していることや、ローマ皇帝にも使われた「主kyrios」という称号を使用していることなどからも明らかです。そうであるならば、パウロがここで示唆していることは、王であるキリストが天から地上に降りてこられる時に、その「臣下」であるキリスト者が空中まで迎えに出て、その後主とともに地上に降りてくることであると考えられます。黙示録21章にも書かれているように、私たちの最終的な状態は地上で父なる神およびキリストとともに住むことですが、上のように考えると、17節の「こうして、いつも主と共にいるであろう。」も理解しやすくなります。

ここでパウロが使っている表現は黙示的言語を使った象徴表現であって、文字通り起こるできごとではないと考える立場もあります。たとえば、米国福音派の新約聖書学者George Eldon Laddは次のように言います:

生きている信者が復活の直後に空中で主と出会うために「携え挙げられる」というのは、生きている者がこの世の物理的な秩序に属する弱く朽ちるべき肉体から、来るべき世の新しい秩序に属する力強い朽ちない肉体へと突然変えられることを生き生きと描く、パウロの表現法である。 (A Theology of the New Testament, rev. ed., pp. 610-611)

しかし、象徴的であれ字義通りであれ、キリストの再臨時に起こることは、キリスト者が天国に移住することではなく、世界の主として天から降ってこられる王なるキリストを地上に迎えることなのです

携挙についてはさらに次回も考えてみたいと思います。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その2)

関野祐二先生による、「『福音』とは何か」ゲスト投稿、第2回をお送りします。(その1はこちら

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 「『福音』とは何か」というテーマ、次は「福音と被造物統治/管理」のお話をしましょう。ここには、終末論、職業観、罪の影響、文化命令、自然観、救済論と贖罪の意味合いなど、多くの要素が複雑に絡み合っています。

筆者が新生した大学生の頃、あちこち参加したバイブルキャンプの分科会三大テーマはご他聞にもれず、働く意味と職業選択、人生の意味と目的、そして恋愛と結婚でした。最初に挙げた職業観ですが、多少の誇張と単純化を許していただくなら、「会社には伝道に行くのだ」という考え方が主流だったと記憶しています。この世の仕事には「神の栄光を現す」という意義はあってもそれ以上の聖書的意味付けをせず、むしろ職場という、教職者では入りにくい社会の現場に遣わされ、滅び行くこの世から一人でも多くの人を福音伝道によって救い出し、天国行きの切符を手渡すことが職業人の至上命令であると叩き込まれたのです。それ自体決してすべて間違いとは言えないのですが、与えられた仕事を忠実に果たす動機付けとしてはいかにも弱く、どこかこの世と正面から向き合っていない、それゆえ仕事にも身が入りにくい、かりそめの職業観と思えるものでした。ベースには、人生の軸足を滅び行く今のこの世ではなく未来の完成された輝かしい御国に置く、「悲観的終末論」(今のこの世はどんどん悪くなって、ついに終末と再臨に至り、千年王国が訪れるという考え方)があると後で知った次第です。どうせ滅びてしまうこの世の事象に全力を投入するよりも、永遠のいのちを与える伝道にこそ価値がある...勤務した会社の製品開発実験室で、証しと個人伝道にいそしんだのは懐かしい思い出ですが、どこか「これでいいのかな」との迷いがあったのも事実。全力で仕事に取り組む一方、「どうせこの世は...」と上から目線でさばくような自己矛盾の姿勢がそこにはあったからです。

こうした疑問や出来事に向かい合う、いくつかの機会が与えられてきました。ざっと挙げれば、ライフワークとしての天文学の継続、後藤敏夫師の著書との出会い、東日本大震災と原発事故、中澤啓介師の被造物管理の神学などです。

実は昨晩も、神学校の屋上で神学生たちに望遠鏡で土星を見せたのですが、輪を持った土星の堂々たる姿を自分の目で直接見てもらうのは嬉しいことでした。同席したP教師は、「土星を観るより、望遠鏡を覗いている人の反応を見ているほうがおもしろい」とも。もし、何のために土星を観るのですか、と問われたら、「そこに土星があるから」「観ておもしろいから」と答えましょうか。誤解を恐れずに言うなら、少なくとも「聖書に土星のことが書いてあるから」(直接は書いてありません)でも、「天地創造のみわざを称えるため」などという高邁な動機があってでもありません。ましてや「土星を見せることで伝道や証しのきっかけをつかむため」でもないのです。それでいいと思っています。まずは自分が今そこに生きている自然や宇宙を知ること、興味を持つこと、直接それを見て美しさに感動し、宇宙の中に置かれている自分を意識することがたいせつだからです。結果としてそれが、神を知ること、自然界と宇宙を治める神を称えること、共に創造主を喜ぶこと、詩篇の作者のように「人とは何者なのでしょう」(詩篇8:4)という神学的問いへと進むことになるのでしょう。

この順序をたいせつにしたいと思っています。なぜならそれが、この地上における人の営みを肯定し、地に足をつけた生き方の出発点となるからです。先ほど述べた、「ひとりでも多くの人を救いに導く」ことを主眼とした生き方は、それ自体はすばらしいわざであっても、気をつけないと浮き足立った前のめりの歩みとなり、地上のわざを軽視する結果をもたらしかねません。自然科学のみならず、文化や芸術、先端技術、哲学や文学など、人のさまざまな営みに肯定的な意味づけを与える道があるはずですし、多くの人に主イエスを紹介しつつ、人生そのものを喜び楽しむことをも主は願っていると思うのです。福音を知り、福音に生かされ、福音を伝えるという生き方がこのように統合されるならば、どんなにすばらしいことでしょう。『ケープタウン決意表明』(いのちのことば社、2012年)45-51頁に、従来型の聖俗分離的考えを改めて人間のわざの価値を認め、真理と職場、真理とグローバルメディア、真理と宣教におけるメディア、真理と先端技術、真理と公の場という項目で、文化と専門分野の意義を提案した箇所がありますので、ご参照ください。

土星観望から少し飛躍し過ぎました。結局たいせつなのは、終末や再臨を見通した上での、この地上における営みの肯定的位置づけです。それを筆者に教えてくれたのは、後藤敏夫先生の著書「終末を生きる神の民 ――聖書の歴史観とキリスト者の社会的行動――」(いのちのことば社、初版1990年、改訂新版2007年)でした。詳しくは本を読んでいただくとして、筆者がここから一番教えられたのは、「地上における営みが新天新地へと連続している」ということ。現在の先取りされた神の国経験は決してかりそめのものではなく、それが不完全であってもやがて完成する神の国の実体の一部を構成しており、地は滅びるのではなく贖われるのだ、私たちは御国へと携挙するのではなく御国がこの地上にもたらされ、主イエスはこの地上へと再臨されるのだ、だから今の地上における営みは何らかの意味で完成された御国へと持ち込まれ、そこには連続性があるのだ、というのです。これこそが聖書的な統合された人生観につながる神学だと直感しました。ここにはもはや、神の国とこの世的なものを分ける聖俗二元論は存在しませんし、どうせこの世はという否定的な対立構造もありません。文化命令(創世記1:28)に従って地を管理するため、この世界をよく知り、かかわっていく道筋が与えられたのです。こうした枠組みを考えながら、後藤敏夫先生にも神学校で講演していただいたり、前述の書を2007年に改訂新版として再版いただいたりという歩みを続ける中、2011年の東日本大震災と原発事故を迎えることになるのです。

(続く)

御国を来たらせたまえ(3)

(シリーズ その1 その2

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ17章20-21節)

「その2」から間が空いてしまいましたが、神の国についてのシリーズを続けて行きたいと思います。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」という祈りが重要であることについてはすでに見てきましたが、今回は神の国(神の支配)が地上に到来するとはどういう意味なのかを考えてみたいと思います。

冒頭に引用したルカ福音書のエピソードでは、パリサイ人がイエスに対して「神の国はいつ来るのか」と訊ねています。つまり、彼らの質問の主眼は、神の国の到来のタイミングに関するものでした。

ユダヤ教の終末論においては、「神の国」つまり神の支配する新しい時代は、「主の日」と呼ばれる歴史の一時点において神が劇的に地上の歴史に介入され、すべての悪を一掃して神による新秩序を打ち立てる時に訪れると考えられていました。パリサイ人たちがイエスに訊ねたのは、そのような神の歴史への介入はいつ起こるのか、ということでした。ここで彼らは、神によるそのような歴史への介入はまだ起こっていないということを暗黙の前提にしています。これはある意味当然のことでした。当時のユダヤ人にとって、悪の力(その一つの表れはローマ帝国における支配と考えられていました)はいまだに地上で猛威をふるっていたからです。同時にここでは、「神の国は一度にはっきりと目に見える形で訪れる」という考えも前提になっています。

これに対してイエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。」と答えます。ここでイエスは、神の国到来のタイミングではなく、その訪れ方に主眼を置いて答えておられます。イエスは、神の国は当時のユダヤ人たちが信じていたように誰の目にも明らかな仕方で訪れるのではなく、ひそやかに訪れると語られたのです。当時の多くの人々は気づいていませんでしたが、神の国はすでに訪れ、成長を始めていました。神の国は、将来イエスが再臨して神の国が完全に現れる時まで、そのようにしてこの世の現実の中に存在しつつ、拡大していくのです。

続いてイエスは、神の国がどのような形で現在地上に存在しているのかということについて語られました。「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。

神の国はあなたがたのただ中にある」これは有名な表現であり、そのような歌詞を持つ賛美歌もありますが、このイエスのことばは「神の国は信じる者(クリスチャン)の心の中にある」という意味ではありません。新約聖書の中で神の国が心の中の霊的現実として描かれている箇所はありません。人が「神の国に入る」と言われることはあっても(たとえばルカ18章24-25節)、神の国が人に入ると言われることはないのです。そもそもここでいう「あなたがた」は、イエスを信じないで試そうとしたパリサイ人を指していますので、「信じる者(クリスチャン)」を意味することはありえません。それどころか、彼らは悔い改めなければ、神の国から除外される危険にさらされていたのです(ルカ13章28節参照)。「神の国」つまり神の王としての支配は、単なる個人の心の中の霊的現実ではないのです。

それでは、「神の国はあなたがたのただ中にある」とはどういう意味なのでしょうか?この部分は新共同訳聖書では「あなた方の間にある」と訳されています。つまり、神の国は人々の間に既に存在し、拡大しているというのです。ここで言われているのは、イエスご自身の存在とわざにおいて、神の王なる支配が地上に現されているということです。パリサイ人たちはイエスの教えやわざを目にしていながら、その中に神の国が現れていることを悟ることができませんでした。「神の国はいつ来るのか」とイエスに質問すること自体が、彼らの霊的盲目を暴露しているのです。

そして、イエスが天に帰られてから後は、神の国の臨在を地上に現す務めは、イエスの霊を受けた弟子たち、すなわち教会に委ねられました黙示録1章6節では教会が神の王国とされたということが書かれています。神の国は個々のクリスチャンの心の中にある霊的現実ではなく、クリスチャン(とその共同体である教会)を通してこの地上に、地に住む人々の間に、社会の中に現されていく神の支配のことです。「御国を来たらせたまえ」と祈ることは、この地上の人々の間に(教会を通して)神のみこころが実現し、それによって世界が造りかえられることを求めることなのです。

ちなみに「イエス様が心の中におられる」「イエス様を心の中にお迎えする」という、クリスチャンがよく使う表現も、注意しないと誤解を招く表現です。

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イエスは肉体をもって復活した後、その肉体のまま天に昇って行かれました(ルカ24章50-53節、使徒1章9-11節)。そして現在も復活の肉体を備えたままで、父なる神の右の座に着座しておられます(使徒2章33節ほか)。そして、イエスは天に昇られたのと同じ有様で(つまり肉体をもって)やがて地上に帰ってこられます(使徒1章11節)。ですから、復活の肉体を持ったキリストがそのままでクリスチャンの心の中に住むということはありえないのです。一度復活の肉体を与えられたイエスが昇天後にその肉体を何らかの形で放棄したことを示唆する箇所は、新約聖書のどこにもありません

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フリッツ・フォン・ウーデ「キリストの昇天」

確かに、エペソ3章17節では「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、・・・」と書かれています(実際、キリストが心に住むという表現が使われているのは新約聖書の中でここだけです)。しかし直前の節でパウロは「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」と語っており、これはイエスの霊である聖霊が信仰者の心に住まわれることを語っていることが分かります。「キリストが心に住む」とは、クリスチャンの生き方のパターンがキリストの性質や生き方によって定義され方向づけられていくことを表しているのです。ガラテヤ2章20節「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」も同様に理解することができるでしょう。キリストは確かに聖霊という形で信仰者の内に住まわれます。けれども、キリストご自身は復活の肉体を持ったまま、天の父なる神の右に座しておられるのです。

現代のクリスチャンにとって、キリストが肉体を備えたまま天におられる姿をイメージすることがもし難しいとすれば、それは「霊的楽園」としての天国観が影響しているのかもしれません。

これらの通俗的理解(神の国やイエス・キリストがクリスチャン個人の心の中に存在する)には、現代のキリスト教が個人主義的と霊肉二元主義(後者についてはシリーズ第2回を参照)の影響をいかに強く受けているかをよく表していると思います。

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その1)

前回の投稿で、次回の投稿では「本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。」と書きましたが、今回はこのブログで初めてゲストブロガーをお迎えしたいと思います。先日の公開講演会で講師を務めてくださった関野祐二先生ご本人が寄稿してくださることになりました。お忙しい中、寄稿依頼に快く応じてくださった先生に心から感謝いたします。

この投稿は、基本的に講演会で先生がお話しくださった内容に基いて書いていただきましたが、この中で取り上げられている主題は、海外の福音派キリスト者の間で近年盛んに議論されていながら、日本の福音主義キリスト教会ではまだ紹介され始めたばかりのものもあります。したがって、福音主義のフォーマットの中でこのような話題を取り上げること自体に違和感や拒否反応を覚える方々もおられるかもしれません。しかし、個々の結論に同意するしないは別として、自分と異なる意見に謙虚に耳を傾け、建設的な開かれた議論を展開できる「違いの違いが分かるキリスト者として、寛容に受け止めていただけることを願っています。

それでは、お楽しみください。

関野祐二2013年4月

お邪魔します。人気コンサートの舞台に友情出演で引っ張り出されたような不思議な感覚です。下手なパフォーマンスでブログの品位を落とさぬよう気をつけますから、どうぞおつきあいください。

今回講師を務めた5月11日の中部春期公開講演会「『福音』とは何か」は、昨年11月に行われた全国神学研究会議「福音主義神学、その行くべき方向 ――聖書信仰と福音主義神学の未来――」の延長線上にあります。私たち福音派の依って立つ福音主義神学とは何か、そのアイデンティティと方向性を探る作業をしていけば、必然的に「福音」の中身をも問われることになるからです。福音主義は「福音への献身、コミットメント」が身上。では何をもって福音(よい知らせ)と考えるのかですが、「主イエスの十字架による救い」と答えるのは正解ですし、聖書メッセージの要約かつ結論としての模範解答でもあります。ただ、あの東日本大震災を契機に、十字架のメッセージを含めた、より包括的(ホリスティックな)福音が問われるようになり、もっと全人格的、全生活的な「よい知らせ」を旧新約聖書全体から受け止めたいという機運が高まりました。逆に言えば、今までの福音理解がどちらかというと個人的、霊的、未来的な意味に偏り、この世の具体的状況における生き方の問題(たとえばキリスト者として被災地に駆けつけ何をすべきなのか)から乖離した内容に傾きがちだったとも言えましょう。

その一方で、欧米を中心に福音理解とそれに関連するホットイシューがさまざま研究され、議論されるようになってきました。福音派にとってふさわしい(安全な?)テーマかどうか、どんな内容なのかはひとまず脇において項目だけ並べれば、物語神学、開かれた神論、パウロ研究の新たな視点(NPP)、聖書の無誤性理解、創世記1~3章の解釈、関連するアダムの歴史性と原罪、被造物統治/管理などなど。残念ながら、日本の福音派ではどれもまだ議論が始まったばかりの状況で、だからこそ昨年11月の全国神学研究会議がこうした事がらを取り上げ、正面から福音主義アイデンティティを探求する場となったわけです。

実は「『福音』とは何か」という問いかけは自分自身にとっても古くて新しいテーマ。2010年3月15日の『リバイバルジャパン』に、同じタイトルで寄稿しているからです。長くなるのでその内容をここで詳しくはお伝えしませんが―――いや、せっかくですから少しだけ。Ⅰコリント15:1でパウロがコリント教会員に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」と改まった口調で語るその福音とは、「キリスト復活、私も復活」がポイントでした。神の贖い物語の結論として主イエスが死からよみがえり、それを信じる私たちも復活した人生をこの地上に先取りされた神の国で生き、神の物語の一端を担いつつ、新しい価値観を生きて神と人に仕え、からだの復活と救いの完成を待ち望む―――

あれから約5年が経ち、その間に社会では震災や原発事故、急速な右傾化をはじめ多くの出来事が発生、個人的にも先に挙げたような神学テーマとの格闘を経験して、「福音」理解がより包括的に(ある意味で振れ幅大きく)なってきたような気がします。以下、その一端を紹介しましょう。

まず「福音とアダムの史実性」ですが、このタイトルだけでびっくりし、つまずいてしまわぬよう願います。なぜ今「アダム」なのか、それは、「福音とは何か」を探求する上で、創世記1章~3章の解釈がとても重要であり、とどのつまり創世記1~3章をどう読むかは「アダム」という存在をどう考えるかに集約され得るからです。創世記1~3章は、神が「自然」を創造した目的と、神のかたちとして創造した人が「自然」すなわち「地」を管理する使命を与えられたことが記され、福音によって本来の姿に回復させられた人間が、神との協働により本来の意味で地を統治/管理すべきことを教えます。また創世記1~3章は、人間が罪を犯し、この世界が当初の状態からどう変わってしまったのか、最初の罪はどのように後世へと伝達されたのか、壊れてしまった「地」と堕落した人間は福音によってどう「贖われ」、新天新地へとつながるのか、その原点を示します。そして創世記1~3章は、聖書と科学の関係性や聖書の無誤性を考える際、その記述を字義通り読むべきか否か、一般の自然科学分野で今や常識とされる進化論(進化生物学)や人類の起源との関係性や整合性をどう判断するか、重要な箇所。以上三つの意味で、創世記1~3章における「アダム」の存在理解は鍵となるのです。

「福音」とは、天国行きの希望を与える意味でもたいせつですが、今この地上で生かされている私たちの生き方を決定づける「よい知らせ」でもあるはず。ならば、この世の学問的常識とも真摯に向き合わなければなりません。これまで福音派の私たちは、どちらかというと自然科学を無神論的営みとして信仰の対立軸と捉え、創世記冒頭の記事を単純に字義的解釈し、24時間×6日間で宇宙は無から創造され、特別創造された完成体としてのアダムとエバからすべての人類が発祥し、罪も遺伝的に後の全人類へと伝達されたと解釈するのが一般的でした。聖書記述をそのまま字義通り読むことが霊的であるとされ、疑問を差し挟む者には、無誤性を否定しているとか、福音的でないとの批判が浴びせられる傾向があったのです。近年、古生物学における化石記録の研究成果に加え、分子生物学によるヒトゲノム(人間のDNA)研究の急速な進歩によって、現世人類(ホモ・サピエンス)が約15万年前のアフリカ起源であると推定され、キリスト教界でも一般の自然科学に価値を見いだすグループにおいては、創世記1章~3章に記録された創造と堕落記事の意図や解釈、文学的性質、古代近東の文化的背景理解とともに、最初の人アダムの史実性問題が浮上してきました。これは、アダムとエバが歴史的にも最初の人類で後のすべての人類はアダムとエバという一組の夫婦から始まったのか、人が「神のかたち」として他の生き物と区別されたのは、いつどのようにしてなのか、原罪はどのように始まり次世代へ伝達されたのかなど、福音理解と根本教理に直接かかわる、きわめて重要なテーマなのです。鍵はやはり「アダム」の存在とその意味合いです。

ホイートン大学の旧約学教授ジョン・ウォルトンは、著書『創世記1章の失われた世界 ――古代宇宙論と起源に関する議論――』(邦訳未刊、2009年)、続編の『アダムとエバの失われた世界 ――創世記2章3章と人間の起源に関する議論――』(邦訳未刊、2015年3月)において、次のように述べています。創世記は古代文献であって、現代科学の書物ではない。古代世界の文脈に沿ってテキストを読み、著者が真に伝えたかったこと、当時の聴衆が明瞭に理解したことを知るのが真の字義的解釈であり、それは我々現代人の伝統的に理解してきたこととかけ離れている。創世記1章は古代近東の文脈から考えて宇宙的神殿落成の観点から読むのが妥当であり、物質の起源よりも機能的起源(特に人間の機能、function)の叙述として読むべきである。宇宙的神殿は人間の益のために諸機能がセットアップされ、神が被造物との関係性の中で住まわれるのだ。創世記1章から5章において、「アダム」という用語は多様な方法で使われ、人類全体を指す場合、原型的な(archetypal)人を指す場合、人類の代表者を指す場合、固有名詞の場合、特異的に用いられる場合とがある。「土地のちりで人を形造り」「あばら骨をひとりの女に造り上げ」は原型的な表現であり、物質的起源の主張ではない。新約聖書は、アダムとエバに関し、生物学的な先祖としてよりも、我々全員に当てはまる原型的な存在として関心を持っている。にもかかわらず彼らは過去現実に存在していた実在の人物であった。

不十分な紹介で恐縮ですが、ウォルトンの主張は米国の福音主義神学会でも注目を集めており、日本において「福音とは何か」を創世記のアダム理解から探求するに際し、賛成や反対いずれの立場であっても、彼の問題提起を真摯に検討する必要があると思われます。スコット・マクナイトやN.T.ライトなど、日本でも評価の高まりつつある聖書学者たちがウォルトンの研究を評価していることも付記しておきましょう。

(続く)

関野祐二先生講演会「『福音』とは何か」

昨日5月11日(月)、日本福音主義神学会中部部会の春の公開講演会が金山キリスト教会を会場に開かれました。毎年中部部会の春の講演会は、中部以外の地区の先生を講師としてお招きしていますが、今年は関野祐二先生(聖契神学校校長)をお招きして、「『福音』とは何か」というテーマでお話しをいただきました。

関野師講演会2 関野氏講演1

関野先生は昨年11月に関西聖書学院で行われた福音主義神学会の全国研究会議でも、教理部門の主題講演を担当されました。こちらのサイトにその時のレジメと講演動画(部分)がアップされています。その講演内容を元に、『福音主義神学』45号に「震災後の日本における福音主義神学の教理的課題」という論文を発表しておられます。

これらの講演及び論文では、現代福音主義神学の多様な課題を概観する内容になっていましたが、今回の中部部会の講演会では、さらにテーマを絞って、「福音」についてお話しをいただき、ディスカッションの時を持つことになりました。

「福音(良い知らせ)」は単に「福音派」と呼ばれる人々だけでなく、すべてのキリスト者の信仰の基盤であり、中核であるべきものです。しかし、クリスチャンは「福音」をあまりにも身近に感じているがゆえに、その言葉の意味内容を良く把握しないままで使ってしまっている部分があるのかもしれません。また、近年英米の福音主義キリスト教会の内部でも、罪の赦しと魂の救いに特化した個人主義的な福音理解を超えて、福音とは何かを改めて問い直す動きが起こってきており、そのような問題意識は日本でも共有されるようになってきました。その象徴的な事件が、スコット・マクナイトの『福音の再発見』が邦訳出版されたできごとでしょう。今回の講演会でも、約20名の方々が参加してくださいましたが、これは小所帯の中部部会にしては多い方でした。このテーマへの関心の深さを伺わせます。

当日は私が司会を務め、まず先生から約90分の講演をいただき、それを受けて会場からの質疑応答とフリーディスカッションの時を持ちました。自分と異なる見解を最初から切り捨てようとするのではなく、相手の立場を尊重した実り多いディスカッションができたと思います。後で関野先生からいただいたメールでも、「講演会では、従来の福音派でははじかれてしまうような話も皆さんがよく聞いてくださり、ディスカッションにも加わって、いわゆる『斜に構える』ような方が誰もいらっしゃらなかったのが幸いでした。」とおっしゃっていただけました。

「『福音』とは何か」というテーマでは、当ブログでも以前に投稿したことがありましたが(その1 その2)、関野先生はまた少し違った視点からこのテーマにアプローチしてくださいました。私自身も大変良い刺激を受け、多くを学ばせていただくことができて感謝しています。

余談ですが、関野先生とは講演会前に中部部会の理事会と昼食をご一緒しながら楽しい交わりの時が与えられました。天体観測がご趣味という先生は、同じく天文マニアのT理事と星や望遠鏡の話で大変盛り上がっておられました。講演会の後はすぐに東京に戻られ、聖契神学校で夜の授業を教えられたということです。お忙しいスケジュールの中、名古屋まで来てくださった関野先生と、参加者の皆様に感謝いたします。

さて、肝心の先生の講演内容については、次回の投稿でご紹介したい思います。その際、本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。

おことわり:私は中部部会の理事長という立場にある者ですが、このブログ記事の内容はあくまで私個人の見解であり、中部部会の見解を代表するものではありません。)

 

 

 

 

 

 

子としてくださる御霊

所属教会で説教奉仕をさせていただきましたので、いくつか修正を施したテキストをアップします。このメッセージは、継続中のシリーズ「御国を来たらせたまえ」の補論としても読んでいただくことができると思います。

 

子としてくださる御霊(ローマ人への手紙8章14-17節)

14  すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。  15  あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。  16  御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。  17  もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

神の家族

どんな分野にも「業界用語」のような、独特の用語や言葉遣いがあります。キリスト教会を初めて訪れた人々は、そのようなキリスト教用語に戸惑うこともあるかも知れません。けれども、その意味を知っていく時に、はじめは耳慣れない表現も実は深い意味があることに気づくことと思います。そのようなクリスチャン独特の表現に、「兄弟姉妹」という表現があります。これは文字通りの血のつながったきょうだいのことを指しているのではなく、クリスチャンがお互いを呼び合う表現です。また、クリスチャンは神様のことを「天のお父様」と呼びます。このような表現の背後には、クリスチャンはみな、唯一の神様の子どもであり、従ってみなきょうだいである、という考え方があります。教会とは、神の家族なのです。

聖書は、すべての人間は神様によって造られたと教えていますので、ある意味で全人類は神様の子どもと言えます。けれども、イエス・キリストを信じてクリスチャンになると言うことは、特別な意味で「神の子どもになる」ということなのです。

私たち家族がアメリカに住んでいた時に通っていた教会で、牧師の息子が洗礼を受けたことがありました。牧師自ら息子に洗礼を施したのですが、式の後、その先生がこう言われたのを良く覚えています。「彼は私の息子ですが、今日から私の兄弟になりました。

では、私たちクリスチャンが「神の子ども」であるとはどういう意味なのでしょうか?今日は使徒パウロが書いたローマ人への手紙から、ご一緒に学んでいきたいと思います。

神の子どもたち

ローマ人への手紙の8章でパウロは、クリスチャンとして生きる人生と、ノンクリスチャンとして生きる人生を対比しています。13節で彼は、キリストを信じないで生きる人生を「肉に従って生きる」人生と呼んでいます。ここに出てくる「肉」という言葉もクリスチャンの「業界用語」で、肉体や肉欲を意味しているのではなく、神から離れた人間の自己中心的な性質、罪深い性質を表しています。私たちが肉に従って生きるなら、その行き着く先は罪と死です。これに対して、パウロは「神の御霊に導かれ」る(14節)生き方について語ります。それは、キリストとの深い結びつきを通して注がれる、神の霊すなわち聖霊によって導かれる生き方であり、そのような人生は「いのち」に導かれると言います。13節で彼は「あなたがたは生きるであろう」と簡潔に言っています。このことは、死んだ後に永遠の命を受けるということだけを意味しているのではなく、今この地上での人生において、神様から与えられたいのちを最高に充実した形で生きる、ということを意味しています。それは別の言い方で表現すれば、「神の子どもとして生きる」ということです。

神との親密な関係

私たちが神の子どもである、ということは何を意味しているのでしょうか?まずは、神様と親しい愛の関係を持つことが許されている、ということを意味しています。パウロは15節で「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と言います。「アバ」というのは、新約聖書の時代にユダヤ人が話していたアラム語で「父」を表す言葉ですが、家庭で小さい子どもが父親に呼びかける「お父さん」「パパ」といった、親近感を込めた表現でもありました。福音書には、イエス様が天の神様に対して「アバ」と呼びかけていたことが記されています(マルコ14章36節)。イエス様はご自分で神様を親しく父と呼ばれただけでなく、弟子たちにも同じように神様を父と呼ぶようにと教えられました。主の祈りが「天にまします我らの父よ」で始まるのはとても重要なことなのです。

私たちはかつては罪によって神様から離れ、神様に敵対して生きる存在でした。けれども神様は愛によって私たちをご自分のもとに招き入れてくださり、愛する息子、娘として受け入れてくださったのです。このことが最もドラマティックに描かれているのは、ルカ福音書15章に記されている「放蕩息子のたとえ」でしょう。時間の関係で詳しくお話しはできませんが、父の財産を持ち出して放蕩に身を持ち崩した息子がとうとう父の元に帰ってきた時、彼は「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と言おうとしましたが、父は最後まで言わせずに、彼を受け入れ、息子の帰還を盛大に祝ったということが記されています。私たちも、イエス・キリストを信じ従う時に、神様との間の親しい親子関係に入れられるのです。

神の子としてのイスラエル

しかし、クリスチャンが神の子どもであるとは、それだけを意味するのではありません。ローマ書8章におけるパウロの議論は、旧約聖書の時代から続く、神様のご計画と深い繋がりがあるのです。

8章15節では、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と書かれています。パウロはここで、私たちがクリスチャンになるプロセスを奴隷の身分であった者が自由にされて、子としての身分が与えられることにたとえています。ここでパウロは、イスラエルが経験した出エジプトのできごとを念頭に置いて書いているのです。

神様の祝福を全世界に取り次ぐ器として選ばれたイスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活を強いられていました。彼らを解放するために、主はモーセを遣わすのですが、彼がエジプトの王パロに伝えるように命じられたメッセージが、出エジプト記4章に書かれています。

あなたはパロに言いなさい、「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」(出エジプト4章22b-23a節)

つまり、神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放された目的は、イスラエルをご自分の子どもとして、愛の関係を築き上げるためだったのです。ホセア書11章1節でも、出エジプトの出来事について、「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。」と書かれています。けれども、ホセア書11章を続けて読んでいくと分かるように、イスラエルは神の子らとして、父なる神様に忠実に歩むことができず、繰り返し主に逆らい続けることになってしまいます。

神様と人間との関係を親子にたとえるのは、主がダビデに与えられた約束においても見ることができます。

あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。(2サムエル7章12-14a節)

ここでは、ダビデの子孫から興されるひとりの王、すなわちメシヤが永遠の王国を確立するということが約束されているのですが、ここでも「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。」と言う表現で、いわば神様がメシヤを養子にするということが言われています。後のユダヤ教では、神の養子となるというアイデアは、個人としてのメシヤだけでなく、民族としてのイスラエル全体に当てはめられて考えられるようになりました(ヨベル書1章24-25節、ユダの遺訓24章3節)。つまり、ダビデの子孫であるメシヤがイスラエルを導いて、そもそもの出エジプトの目的であった、イスラエルを神の子とするという神様のご計画を成就してくださる、これが、新約聖書時代のユダヤ人たちの希望であったのです。

では、今日の私たちクリスチャンが「神の子としていただく」ことは、聖書のイスラエルとどのような関係があるのでしょうか?それは、旧約聖書の昔から一貫して続いている、神様の救いのご計画に私たちも参加させていただく、ということです。先ほど出エジプト記で見たように、神様がご自分の子どもとして召されたのは、あくまでもご自分の選びの民であるイスラエルでした。イスラエル以外の異邦人は、そのご計画から除外されているかに見えたのです。ローマ書の9章4節でも、「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの」とあるように、神の子と呼ばれるのは、イスラエルの特権だったのです。

けれども、8章でパウロは驚くべきことを言います。ローマ人への手紙の読者の大多数は異邦人クリスチャンでしたが、彼らに対してパウロは「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」(15節)と言っているのです。ここで「子たる身分を授ける霊」と訳されているギリシア語は、直訳すると「養子の霊」という意味です。パウロがここで使っている「養子にすることhuiothesia」という言葉は、新約聖書の中でパウロの手紙にしか出てこない言葉です。この節でパウロが言おうとしているのは、「あなたがた異邦人はかつては神の子であるイスラエルから除外されていた人々であったけれども、今は神様の養子とされて、イスラエルと同じように神の子どもになることができたのです。」ということです。パウロは9章で次のように言っています。

神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」。
(9章24-26節)

さて、この場にいる私たちのおそらく全員はユダヤ人ではなく、異邦人クリスチャンです。私たちが神の子どもと呼ばれること、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に対して「アバ、父よ」と呼びかけることができること、それは決して当たり前のことではありません。私たちは神様の養子にしていただいて、神の民であるイスラエルに加わることを許された存在です

では、どのようにして、異邦人である私たちが神様の養子になることができたのでしょうか?8章15節でパウロは「子たる身分を授ける霊」と言っています。私たちが神様の子どもとされるのは、聖霊の働きによるのです。私たちがイエス・キリストを主と信じてバプテスマを受け、教会に加えられる時、賜物として聖霊が与えられます(使徒2章38節)。この聖霊がユダヤ人だけでなく、あらゆる種類の人々を神の子として、神の家族に加えてくださるのです。8章16節でパウロは、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」と言います。私たちが神の子であることは、私たちの思い込みや勝手に主張していることではなく、私たちのうちにおられる聖霊ご自身が証言してくださっていることです。しかもユダヤ人も異邦人も同じ御霊によって、神の子であると証言されるのです。

この聖霊はまず、イエス様が地上で宣教された時に、主の上に注がれました(ルカ3章21-22節)。そして、主が復活して昇天された後、使徒たちをはじめ、信じるユダヤ人たちに注がれました(使徒2章1-4節、38節)。それだけでなく、同じ聖霊が主を信じる異邦人にも注がれたことが、使徒行伝に書かれています(使徒11章15-17節)。つまり、この多種多様な人々がみな等しく「神の子ども」と呼ばれるのは、同じ聖霊が働いておられるからなのです。実に聖霊は神の子どもたちに共通して流れている「血」であり、彼らの細胞の一つ一つに含まれる「DNA」と言っていいでしょう。だからパウロは、神の子であるとは、御霊によって「生きる」(13節)ことだと語っているのです。

神の子どもたちの使命

さて、私たち異邦人がユダヤ人とともに一つの神の民イスラエルとなり、神の子どもとされたことには、どのような意味を持っているのでしょうか?もちろん、私たちは神様を父として日々親しい交わりをことができます。それは確かにすばらしい祝福ですが、それだけではありません。多くのクリスチャンはここで止まってしまい、神の子どもであることにどのような大きな祝福と使命が伴うのかを知りません。

8章17節でパウロは、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 」と言っています。私たちが神の子どもであることは、神様からいただける素晴らしい相続財産が約束されているということなのです。それは何でしょうか?その答えはさらに先を読むとわかります。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章18-22節)

18節から22節まで、パウロは突然「被造物」について語り始めます。被造物つまり神様が造られた宇宙の全体が現在は虚無に服してうめいているけれども、世の終わりに「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」(21節)と言うのです。

ローマ書8章のこの部分は、一見するとあまり意味のない余談のように思えるかもしれません。私たち人間がイエス・キリストを信じることによって義と認められ、罪が赦されて、天国に行くことができる・・・そのような救いの理解をもってローマ書を読むと、たしかにこの部分はあまりパウロの議論の本筋と関係のない補足のように見えます。しかし、実はこの部分はローマ書におけるパウロの議論の中で大変重要な意味を持っているのです。

私たちの罪が赦されて、魂が救われること、確かにそれは聖書が教える大切な救いですが、パウロが救いということで考えていたのは、人間の魂の救いだけにとどまらないのです。創世記によると、神様はこの宇宙をすばらしく良いものとして創造されました。そして、この素晴らしい被造物世界を管理し支配する存在として、人間をお造りになったのです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1章27-28節)

神様はこのように人間を被造物世界の管理者として造り任命されました。その後でこう書かれています。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(31a節)。つまり、神様が造られた世界は、人間がそれを愛と知恵を持って適切に管理していく時に、「非常に良い」世界となったのです。

ところが、ご存知のように、最初の人間アダムとエバは罪を犯して神様に反逆し、堕落してしまいました。その結果として、非常に良いものとして造られたこの世界ものろわれた存在となってしまったのです(創世記3章17-18節)。これがパウロがローマ書で「被造物が虚無に服した」と言っていることの意味です。聖書全体で語られている神様の救いのご計画とは、この虚無に服した被造物世界を元通りの「非常に良い」世界に回復することにほかなりません。もちろんその中には、世界の管理者である人間の回復すなわち救いが含まれています。けれども、神様の救いは人類の救いだけにとどまるものではなく、この被造物世界全体の回復にまで及んでいくのです。

しかも、人間の回復も、単なる魂の救いにとどまるものではありません。パウロはローマ8章23節で次のように述べています。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 」

多くのクリスチャンは「救い」という言葉を聞くと、死んだ後霊魂が肉体を離れて天国に行き、そこで神様とともに永遠に過ごす、ということを考えますが、聖書がはっきり述べている、クリスチャンの究極の望みは、私たちの肉体が復活するということです。聖書は、物質を霊より劣ったものとか邪悪なものとは言っていません。この物質世界は神様が造られた良いものだという理解があります。神様の救いの完成とは、この被造物世界が回復し、栄光の身体に復活した神の子たちによって素晴らしく管理され、神様の栄光を表していくということなのです。これがパウロが21節で「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」と言っていることの意味なのです。

ここで23節にもう一度注目してみましょう。パウロはここで世の終わりに起こる肉体の復活について語っているのですが、それは同時に「子たる身分を授けられること」であると言っています。ここで疑問に思う人がいるかもしれません。私たちは14-15節で、キリストを信じる私たちは、現在既に神の子どもとされていることを学んだばかりです。それなのに、どうしてパウロは世の終わりに私たちが神の子にしていただくと言っているのでしょうか?

この疑問に答えるためには、パウロが「世の終わり」というものをどのように理解していたかを知る必要があります。パウロは、イエス・キリストが来られて、十字架にかかられ、復活された時にすでに世の終わりは始まっていると考えていました。けれども、最終的な終わりはまだ来ていません。それは、将来キリストが再臨され、すべての死者が復活する時に起こるというのです。新約聖書によると、世の終わりは二段階で来ます。回りくどい言い方をすると、「終わりの始まり」はイエス・キリストが最初に来られた時で、「終わりの終わり」はキリストが再臨される時なのです。

私たちが神の子とされるということも、このような枠組みの中で考えることができます。私たちは今現在キリストを信じ、聖霊を受けた時に既にある意味で神の子とされました。けれども私たちは「神の子ども」としての人生をフルに生きているわけではありません。私たちが完全な意味で「神の子ども」になるのは、世の終わりに、栄光のからだに復活する時なのです。私たちはこのことをどのようにして信じることができるのでしょうか?それは、私たちに聖霊が与えられているという事実によってです。パウロはこのことを「御霊の最初の実を持っている」(23節)と表現しています。「最初の実」は新改訳聖書では「初穂」と訳されていますが、「初穂」とは、畑の穀物の収穫の最初の部分のことです。昔のイスラエル人は、この初穂を神様に捧げました。初穂が捧げられたということは、やがてまもなく本格的な収穫が始まることを保証しています。今現在私たちに聖霊が与えられている事実は、やがて世の終わりに私たちの身体が贖われることの保証なのです。

もう一つ、私たちの復活を保証している事実があります。それは、イエス・キリストがすでに私たちに先んじて復活してくださったことです。パウロは1コリント15章でイエス・キリストの復活のことも「初穂」と呼んでいます(1コリント15章20、23節)。イエス様は完全な神の子としてまずよみがえってくださいました。私たちも世の終わりにはこのキリストと似た者に復活する希望が与えられているのです。その時私たちは本当の意味で「神の子ども」となることができます。パウロはこのことをローマ8章29b節で、「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」と表現しています。イエス様が、贖われた神の子どもたちの長子となってくださり、贖われた被造物世界の管理を導いてくださいます。これが神の子どもとしての教会の最終的な務めなのです。

子としてくださる愛

ここまで、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた私たちは神の子どもとされたこと、それは神の民イスラエルに組み入れられることであり、最終的にはキリストを長子として被造物世界を治める神様の働きに参加させていただく希望があることについてお話してきました。最後に、これらすべてを貫く一つの大切なテーマについて触れたいと思います。それはということです。

これまで見てきたことから、神様がこの地上における救いのご計画を進めていくのは、この地上においてご自分の子どもたちの輪を拡げていくことによってである、ということが分かります。神様はまずイスラエルを選び、ご自分の子とされました。その後、イエス・キリストが来られてから、「神の子ども」となる特権は、異邦人も含めて、信じるすべての人に拡大されました。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1章12節)とある通りです。

パウロが言うように、異邦人は神様の養子となって、神の家族であるイスラエルに迎え入れられた存在です。ここで問題となるのは、神様は元から神の子らであったユダヤ人と同じように、異邦人も愛してくださるのだろうか、ということです。養子になった子どもが一番気にするのは、自分が家族の一員として本当に受け入れてもらえているか、特に、養父母に実の子がいる場合には、その子たちと差別されることがないか、ということです。養子になったある子どもが、養母にこう尋ねたそうです。「ママのお腹に新しく赤ちゃんができたら、私は元の所に送り返されるの?」パウロの答えはどうでしょうか?

パウロが生きたローマ時代には、養子縁組の制度は社会的にとても重要な役割を持っていました。ある学者は次のように説明しています。

「養子にされた人物はそれ以前の環境から引き出され、すべての負債は帳消しにされ、新しい家長の息子として新しい人生を歩み始め、家長の名字を名乗り、相続権を持つようになる。新しく父となった者は今や養子の財産を所有し、彼の人間関係を統制し、しつけを行う権利を持つと同時に、彼を養う責任を持ち、その行動に関しても法的責任を負う。これらすべてにおいて、養子はその家で自然に生まれた子どもたちとまったく同じ扱いを受ける。養子縁組は法的な行為であって、証人によってあかしされる。」(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed, pp. 65-66)。

神様が私たちを養子にしてくださったとパウロが言う時、彼が念頭に置いていたのはこのような社会的関係でした。神様は私たちを罪と死の奴隷状態から解放してくださり、ご自身との新しい親子関係の中に入れてくださいました。私たちは神の子どもとしてのあらゆる法律的な権利を与えられた存在であり、そのことは私たちに与えられている聖霊が証ししてくださるのです。

ローマ書8章15節でパウロは、異邦人の読者に対して二人称で「あなたがたは・・・子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と語った後、一人称複数形を使って(つまり、パウロたちユダヤ人クリスチャンも含めて)「その霊によって、わたしたちは、『アバ、父よ』と呼ぶのである。」と語っています。御霊によって神様を「アバ、父」と呼ぶ者は、ユダヤ人でも異邦人でも同じ神の子どもなのです。

ローマ書2章11節には、ユダヤ人と異邦人の関係についてこう書かれています。「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。えこひいきのない神様。公平な神様。異邦人の使徒と呼ばれたパウロの宣教活動を支えていたのは、この確信だったのかもしれません。神様はユダヤ人も異邦人も関係なく、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださいます。子としてくださる御霊は、愛の御霊でもあるのです。

そればかりではありません。先ほど、8章29節で世の終わりには御子キリストが復活した神の子たちの長子となられるということを見ました。ユダヤ人と異邦人が分け隔てなく神の子どもとされることもすごいことでしたが、ここでパウロはさらに驚くべきことを述べています。つまり彼は、父なる神様は、御子イエス様が神の子であるのと同様に、私たち人間をもご自分の子どもとしてくださるというのです。

パウロは、私たちクリスチャンの信仰の歩みはキリストに似た存在につくり変えられていくプロセスであるということを述べています。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (2コリント3章18節)

しかもこれは、単に私たちの内面がきよめられて、キリストに似た人格になっていくということだけでなく、最終的には私たちの肉体も、復活のキリストと似た栄光の身体に変えられるというのです。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(ピリピ3章21節)

このことはもちろん、イエス様が神であるのと同じように私たちも神になるということではありません。けれども、私たちは神であるイエス様が持っておられる様々な良い性質に与るものとなる(2ペテロ1章4節)ということです。

ここに神様の偉大な愛が表されています。父なる神様は、御子イエス様を愛されたのとちょうど同じように、分け隔てなく私たち信じる者を愛してくださるのです。イエス様が十字架にかかられる前にこう祈られました。

わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネ17章23節)

私たちが神様の愛の中で一つになること、父・子・聖霊なる三位一体の神様が永遠の昔から持っておられた全き愛の関係の中に私たちも参加させていただくこと、それが神様の救いの究極的な目的です。

このような愛は世の中の価値観とは対立するものです。だから今の世でそのような愛に従って生きようとするなら、そこには苦しみが伴います。パウロはローマ書8章17節で、「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」と言っていますが、彼はクリスチャンとして神の子とされた者には苦しみが必然的に伴うと言っています。けれども彼は続けて、「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(18節)とも言っているのです。もし今苦しみの中にある人がおられるなら、その方は復活のイエス様を思ってください。私たちもその主と同じ姿に変えられていく希望があるのです。

けれども、そのような栄光に満ちた祝福の希望は、世の終わりになってはじめて実現することではなく、今ここですでに始まっているのです。私たちクリスチャンが神の家族として互いに愛し合う時に、神の国が地上に現れ、世の終わりが現在に訪れます。そして、ヨハネが言うように、そのことを「世が知る」ようになっていきます。教会が本当の意味で神の家族になっていくことは、もっとも強力な宣教の働きであるのです。

私たちクリスチャンが互いを「兄弟姉妹」と呼び合うこと、神様を「天のお父様」と呼ぶこと、それは単なるキリスト教の「業界用語」ではありません。もし私たちがその本当の意味を知るだけでなく、その真理に従って生きていくなら、私たちを通して神の国が表されていくのです。

 

御国を来たらせたまえ(2)

前回の記事では、主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という部分を手がかりに、キリスト教の希望は神の国(支配)がこの地上に到来するということであって、この地上から霊的な楽園としての「天国」に逃避することではない、ということを書きました。にもかかわらず、「死んだら霊魂が天国に行く」のがキリスト教の最終的希望だという考えはいまだに根強くあります。

なぜこのような誤解が生じたのでしょうか?これにはいろいろな理由があると思われますが、一つには、西洋のキリスト教思想が、霊と物質(肉体)を対立するものと考え、前者を後者より優れたものとする、ギリシア的な霊肉二元論に影響されたということが考えられます。(二元論とは対立する二つの原理や要素の関係を通して世界をとらえていこうとする考え方のことです。)

使徒行伝の中で、パウロがアテネでギリシア人に伝道した時のことが書かれています。はじめは興味深く彼の話を聞いていたギリシア人たちは、パウロが復活のことに言及したとたんに態度を一変させます。

死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。(使徒17章32節)

V&A_-_Raphael,_St_Paul_Preaching_in_Athens_(1515)

ラファエロ:「アテネでのパウロの説教」

ギリシア人が追求していたことは、彼らの霊魂が肉体という牢獄から解放されて、純粋な霊だけの存在になることでした。ですから、彼らにとって「肉体の復活」が「福音(良い知らせ)」であるなどという教えはナンセンス以外の何物でもなかったのです。このようなギリシア的な世界観に対して、聖書が教える世界観は、神によって創造された世界は本来は非常に良いものであり(創世記1章31節)、現在は人間の罪によってその良さが損なわれてしまっているけれども、やがて神によって回復されるべきものである(ローマ8章19-22節)というものです。ところが、時としてクリスチャンでも、物質や肉体を霊や精神に比べて何か劣った、汚れたものと考えてしまうことがありますが、これは聖書的な考え方ではありません。「死んだら魂が天国に行って、そこで永遠に神とともに過ごす」という通俗的天国観は、聖書から来ているのではなく、ギリシア思想の影響を受けたものと言えます

重要性では劣るものの、もう一つの理由として、マタイ福音書における「天の御国」と言う表現についての誤解があるのではないかと思われます。(この点に関してはライトもSurprised by Hope, p. 18, でごく簡単に触れています。)

マタイは終末的な救いについて語る時、「天の御国(新共同訳では『天の国』、口語訳では『天国』)に入る」という表現を使っています(5章20節、7章21節など)。しかしこれは、一般にイメージされる「天国に行く」ということとは全く違うのです。

「天の御国Kingdom of Heaven」という表現は、四福音書の中でマタイ福音書だけに見られる独特の表現です。他の福音書では「神の国Kingdom of God」という表現が使われていますが、この二つの表現は同じものを指しています。

ユダヤ人たちは「主の名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20章7節)という十戒の一節から、「神」という言葉を口にすることを避け、代わりに神がおられる所である「天」という言葉で神ご自身を指すことがありました。このような婉曲表現はたとえばルカ福音書15章18,21節などにも見ることができます。すなわち、マタイが「天の御国」と言う時の「天」は、「神」のユダヤ的婉曲表現にすぎないのです。

つまり、マタイ福音書における「天の御国」は「神の国」すなわち「神の王としての支配」を表しているのであって、雲の上のどこか遠い所に存在している霊的な楽園を意味しているわけではありません。しかし、それがいつのまにか「天にある国」=「天国」というふうに誤解されて受け取られることが多くなったのかもしれません。マタイ福音書はヨハネと並んで使徒によって書かれた福音書ということで、古代から四福音書の中でも特に重んじられてきた福音書であり、伝統的な聖書の配列においても新約聖書の冒頭に置かれています。それによって、この福音書独特の表現である「天の御国」というイメージが人々に強力な印象を与えたことは十分にあり得ることだと思います。

いずれにしても、聖書の教える最終的な希望は、私たちが天に昇っていくという上向きの運動ではなく、神が地上に降りてこられるという下向きの運動であることを覚える必要があります。このことを最も明確に述べた箇所は、黙示録21章において、新しいエルサレムが天から地上に下ってくる場面でしょう。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

私たちは終末の希望の地上的・物質的側面を軽視しないように気をつけなければなりません。さもないと、毎日地上に神の国が来ますようにと祈っていながら、いざ地上での生涯を終えると天国に昇っていく、あるいはキリストが再臨される時に天に引き上げられる(このいわゆる「携挙」も、いろいろと聖書的には問題のある概念だと思いますが、これについてはまた別の機会に書きたいと思います)ということになると、何のためにそのような祈りをしていたのか、よく分からなくなってしまいます。もし「御国を来たらせたまえ」という祈りが、ただクリスチャンとしての地上の生活をより安楽なものにするか、あるいは地上での宣教の働きに力を与えていただく(それは大切なことですが)だけのためになされているのなら、それはいずれにしても終末までの一時的な出来事に関するものになり、この祈りが本来持っている深い終末論的な意義が半減してしまうと思うのです。

クリスチャンは今日も「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈ります。このように祈る時、私たちはこの地上を脱出して別世界に逃避することを願うのではなく、神の支配がこの地上に実現することを求めます。そして、教会を通して地上に神の支配が表されていくために、私たちの日々の必要が満たされ(「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」)、神と人との間の正しい関係が築き上げられ(「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」)、こころみや悪から守られる(「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。」)ことを祈っていくのです。

「主の祈り」とはまさに、「時は満ちた、神の国は近づいた。」(マルコ1章15節)というイエスの宣教の言葉を信じた者たちが祈る、応答の祈りです。この祈りを日々祈ることは、イエスが始められた福音宣教のわざを継続していくことに他ならないのです。

(続く)