御国を来たらせたまえ(7)

(本シリーズの過去記事      

このシリーズでは「神の国の到来」というテーマをいろいろな側面から考えてきました。聖書の提示する終末的希望は、神の国すなわち神の王としての主権的な支配が地上に到来することである、とういことを何度も繰り返してきました。

しかし、神の国は何もない空き地に到来するわけではありません。現在の地上は神以外の存在によって支配され、神の意志とは異なる意志によって動かされています。主の祈りの中でイエスが弟子たちに、「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るように教えられたのは、まさに現時点では神の支配はこの地上を未だ完全におおっておらず、神のみこころが完全になっていないからこそなのです。そのような領域に神の国が「訪れる」というのは表現が少し穏やか過ぎるかもしれません。実際には、神の国は、神に敵対する存在が支配するもう一つの王国に侵攻してくるのです。

この記事では、主にルカ福音書によりながら、このテーマについて見て行きたいと思います。

14  さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。  15  その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、  16  またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。  17  しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。  18  そこでサタンも内部で分裂すれば、その国basileiaはどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、  19  もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。  20  しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国basileiaはすでにあなたがたのところにきたのである。(ルカ11章14-20節)

ベルゼブル論争」 とも呼ばれるこのエピソードでイエスは、ご自身が悪霊を追い出しているのは神の国が到来している証拠であると語っています(20節)。しかし、このエピソードではもう一つ興味深い点があります。イエスの悪霊追い出しを批判する人々は、イエスがベルゼブルという強力な悪霊の力を使って別の悪霊を追い出しているのだと邪推しました。それに対してイエスは、サタンの国は内部分裂しては立ち行かないという論理を使って、その批判に反論されました。18節でサタンの「国」と訳されている言葉は、神の「国」と同じbasileiaというギリシア語が使われています。つまり、このエピソードが示しているのは、イエスが悪霊を追い出す行為は、神の王国がサタンの王国を攻撃していることの現われであるということです。

ルカ福音書はサタンの王国がどのように地上を支配しているのかについて、非常に興味深い視点を提供しています。ルカ福音書のはじめの数章において、記者のルカはナラティヴの区切りごとに、物語の展開上重要なできごとがいつ起こったかということを、時の支配者に言及しながら述べています。これを順番に見ていきましょう。

ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。 (ルカ1章5節)

ルカ福音書1章の冒頭でルカはバプテスマのヨハネの誕生物語を、前1世紀末のパレスチナの歴史の中に位置づけています。ここに登場するヘロデは「大王」とよばれるヘロデで、前37年から前4年の間、ユダヤを統治しました。ローマ人の後ろ盾によって王となった彼は、終生ローマに忠誠をつくしました。ヘロデの王国は名目上は独立国でしたが、実際にはローマの傀儡政権であることは、誰の目にもあきらかでした。したがって、一見純粋にユダヤ的な物語に思える(実際ここではルカはギリシア語訳旧約聖書を模した文体を使っています)福音書冒頭の記述においても、「ユダヤの王ヘロデ」という一言は、ローマ帝国によるユダヤ人の支配という現実を垣間見せてくれるのです。

1  そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。 2  これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。(ルカ2章1-2節)

2章のイエスの生誕物語を語り始めるにあたり、ルカはふたたび当時の支配者に言及しますが、今度はユダヤではなく、全ローマ帝国にまで地理的視野が拡大されています。ここで登場する皇帝アウグストはローマ帝国の初代皇帝で、前27年から後14年の間地中海世界を統治しました。

ここでルカが皇帝アウグストを、「全世界」を支配する(と称する)存在として描いていることに注意しましょう。ここにあるのは、シリアの総督クレニオに対する言及といい、住民登録のための勅令といい、非常に政治色の濃い記述であり、皇帝を頂点とするローマの支配が地中海世界全域に及んでいたことを示しています。「全世界」という表現はもちろん誇張であって、実際には地中海沿岸地域(それでも広大な領域ですが)を指しているわけですが、理念としては全世界を支配したいという、ローマの傲慢さを示しているともいえるでしょう。(イエスの降誕物語の政治的メッセージについては、本ブログの「本当は政治的なクリスマス物語」を参照ください。)

1  皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、  2  アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。 (ルカ3章1-2節)

3章でルカは、イエスの宣教活動の先触れとなる、バプテスマのヨハネの宣教活動について語りはじめますが、ここでもまた年代的記述がなされています。これはこれまでのルカのナラティヴに登場した中でもっとも詳細に書かれた年代記述であり、7人の支配者が登場します。

テベリオはローマ帝国の第二代皇帝で、後14年から37年まで統治しました。ポンテオ・ピラトは後26年から36年までユダヤの総督でした。ここに出てくるヘロデは福音書の受難物語にも登場するヘロデ・アンティパスのことで、ガリラヤとペレヤの四分領主でした(前4年-後39年)。アンティパスと同じくヘロデ大王の子であるピリポはパレスチナ北東の地域の四分領主でした(前4年-後34年)。ルサニヤはダマスコの北方にあったアビレネという地域の国主でした。1章と2章の年代記述とはことなり、ここでルカはさらにユダヤの宗教的指導者たち、すなわちアンナスカヤパの名を挙げています。

ここに見られる支配者のリストはいろいろな意味で総合的であるといえます。1章ではユダヤの王が、2章ではローマ皇帝とシリヤ総督がそれぞれ言及されていたわけですが、3章ではその両方、つまりローマ人の支配者とユダヤ人の支配者の両方がリストにふくめられています。さらに、王や総督といった政治的支配者だけでなく、大祭司という宗教的支配者も言及されているのです。

古代の人々は現代人のように政治と宗教を明確に区別していませんでした。ローマ皇帝は「最高神祇官」という宗教的役職を兼ねていましたし、ユダヤの大祭司もサンヘドリンの議長として政治的影響力を持っていました。さらに、ユダヤ総督は大祭司を任命・解任する権利を持っており、ユダヤ教の組織そのものがローマに従属していたことを示しています。つまり、ルカがここで描きだしているのは、ローマ皇帝を頂点にした、政治的・宗教的支配者を含めたこの世の権力構造なのです。

ところで、ルカはなぜ福音書の冒頭でこのような形で時の権力者に言及したのでしょうか?そして、このことは、この世を支配しているサタンの王国、さらにそこに侵攻してくる神の国とどう関わっているのでしょうか?次回はそれについて見て行きたいと思います。

(続く)

 

 

御国を来たらせたまえ(6)

(シリーズ過去記事     

神の国についてのシリーズの中で、過去2回にわたって「携挙」の概念について書いてきました。

なぜ「携挙」の概念がこれほど人気があるのでしょうか?それは一つには、これまで論じてきたような、ギリシア的霊肉二元論に基づく通俗的天国観があると思います。つまり、クリスチャンの最終的希望は、滅び行く地上世界を離れ去って、霊的な楽園としての「天国」で神と永遠に過ごすことだという考えです。もちろん、1テサロニケ4章16-17節でパウロは携挙について語っていると信じるならば、その時には同時に死者の復活も起こることも認めなければなりませんので(16節「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、」)、これは厳密には「死後霊魂が肉体を離れて天国に行く」というものとは異なります。しかし、地上の悪の世界から脱出して神のおられる「天国」に入る、という天国観は、「携挙」の考えと非常になじみやすいということは言えます。このような現世逃避的な思想(「悲観的終末論」と言ってもいいかもしれません)は、携挙によって教会は終末の患難期を経験することがない、という考え方に典型的に表れています。

「携挙」が広く信じられているもう一つの理由は、聖書の中には天に挙げられた人々の記述があるからだと思います。それはエノク(創世記5章24節)、エリヤ(2列王記2章11節)、そしてもちろんイエス(ルカ24章50-51節、使徒1章9節)の昇天記事です。これらの人々は、地上から神の住む領域である天へと移されました。これらの記述から、「神に祝福された人々は最終的に地上から天に挙げられる」という「原則」を人々が見いだしたとしても不思議ではありません。しかし、これは真理の半分しかとらえていない理解です。

確かにこれらの昇天記事は、神の住まわれる領域すなわち「天」に移されること、つまり神とともに生きるいのちの祝福を表していると言えます。しかし、聖書の語る最終的な終末のビジョンは、神ご自身が地上に降りてきて人とともに住み、天と地が神の普遍的な支配の下で一つになるということです。

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。2  また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。3  また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4  人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

終末に起こる、再臨のキリストとの出会いはそのような聖書ナラティヴの全体的なストーリーラインの中でとらえなければなりません。そのように考える時、パウロがキリスト者は「いつも主と共にいる」と言ったときに彼が語っているのは、地上に降りてきた新しいエルサレムにおけるキリストとの生活を意味していると考える十分な根拠があります。

このことは、聖書の読み方についても多くの示唆を与えてくれます。私たちが聖書に書かれている断片的事例から普遍的な原則を導き出そうとするとき、聖書に繰り返し出てくるできごとが、永遠に繰り返される固定されたパターンであるかのように誤解してしまうことがあります。たとえばある人々は次のように考えるかもしれません。

スライド1

しかし、聖書は歴史と関わりのない普遍的な命題的真理の単なるコレクションではなく、首尾一貫したストーリーラインを持つ一つの物語(ナラティヴ)です。物語においては話がどのような展開を経てどういう結末にいたるかが重要であり、同じようなできごとがただ繰り返されていくのではありません。物語の各部分はそのようなストーリーラインの枠組みと、その部分が全体の中でどういう位置を占めているかに照らして解釈されなければならないのです。したがって、聖書の昇天物語に見られるテーマ(神とともに生きるいのちへの移行)はかならずしも「地上から天に引きあげられる」という固定された物理的移動によっていつも表現されるわけではなく、同じテーマが終末における救済史の新しい展開(天における神の支配が地にも現される。言い換えれば天と地が一つになる)においては、新しい形態を取る(神の民が再臨の主を地上に迎え入れる)ということも十分にあり得るわけです。

スライド2

このように、「携挙」の問題を考えるときにも、聖書の全体像をどう把握するかが重要であることが分かります。そして、最終的に最も説得力のある解釈は、聖書全体のストーリーラインにもっともよく適合する解釈なのです。

(続く)

御国を来たらせたまえ(5)

(シリーズ過去記事    

前回に引き続き、「携挙」について考えます。携挙の聖書的根拠として取り上げられるもう一つの箇所は、マタイ福音書の次の箇所です。

37  人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38  すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39  そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40  そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41  ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42  だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイ24章37-42節)

二人の人物が一緒にいるときに、一人が取られ、一人が残されるという印象的なイメージは、ルカ福音書17章にも並行箇所がありますが、ここで問題になるのが、「取られる」「残される」というのがそれぞれ何を指しているのか、ということです。この二つはどちらか一方がさばきを、他方が救いを表していると考えられますが、どちらがどちらなのかははっきりしません

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携挙を支持する人々は、ここで「取られる」方の人物が救われるのだ、と解釈します。たとえば上の画像は18世紀末に出版された聖書の挿絵(マタイ24章40節の部分)ですが、この解釈に基づいて描かれたものといえます。31節でキリストがご自分の民を集めると書かれているのもこの解釈を支持するように思われますので、「取られる」方が救われる方であると考えることは可能です。

しかしその場合でも、この部分が必ずしも「携挙」を表しているとは言えません。まず、この箇所では「取られる」人々が天に引き上げられるということが明示されているわけではありません。天から地上に降臨したキリストが、ご自身のおられる場所にご自分の民を集めるという解釈も十分成り立ちます。またいずれにしても、この時の「再臨」は患難期前再臨説が主張するような、(そして「レフト・ビハインド」シリーズに見られるような)、世の人々が知らないうちにキリストが密かに来臨し、クリスチャンが取り去られるというものではありません。30節には、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 」とあるからです。

さらに、この箇所は「取られる」方が裁きを受ける方であると解釈することも可能です。この箇所でイエスは終末に起こる、救われる者と裁かれる者との分離をノアの洪水にたとえていますが、39節では「そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」と書かれています。明らかに、ここで洪水にさらわれていくのは裁きを受けておぼれ死んだ人々です。

したがって、世の終わりには一部の人々が取り去られ、一部が残されるというイエスの表現だけでは、携挙の根拠とするには不十分といえます。

続いて、ヨハネ福音書に目を転じましょう。受難前夜の弟子たちに対する長い説話の中で、イエスはこう言われました:

3 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3  そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネ14章2-3節)

ここも「携挙」を支持する箇所のように見えます。つまり、イエスが死と復活を通して父のみもとに帰るとき、「わたしの父の家」つまり天国で弟子たちのためのすまいを用意し、しかるべき後にこの地上に帰ってきて弟子たちを迎え、天国に連れて行ってくださる、というのです。

ここは非常に難しい箇所で、いろいろな解釈が提示されていますが、イエスがこの箇所で「わたしの父の家」に弟子たちのためのすまいを用意し、そこに弟子たちを導くために迎えに来ると言われているのは確かです。しかし、「わたしの父の家」とは何を指しているのでしょうか?ヨハネ福音書では、この表現は神殿を指しています(2章16節)ので、14章で語られる「わたしの父の家」も神殿と考えることができます。ただし、世の終わりにイエスが弟子たちを導き入れるという神殿は、もちろんエルサレムにある人の手で造られた神殿のことではなく、天から下ってくる新しいエルサレムであると考えられます(黙示録21章2節)。新エルサレムは都全体が神殿であると語られているからです(同22節)。つまり、ここでイエスが弟子たちに語っているのは、世の終わりには彼らはイエスとともに終末的神殿である新しいエルサレムでいつまでも住むことができる、ということです。このように考えれば、この箇所も聖書全体の方向性である「天から地へ」という枠組みの中で考えることができます。

*   *   *

今回取り上げた聖書箇所は、どれも解釈の幅のある箇所であり、携挙を支持するとも支持しないとも解釈することのできる、難解な部分です。上で示した解釈は、いくつかある解釈の一つの選択肢に過ぎません。しかし、だから「何でもあり」ということではなく、どの解釈がより説得力があるのか、を考えなければなりません。このような場合に大切なことは、聖書の示す大きな物語のストーリーラインに沿ってその箇所を理解することです。

個人的にはクリスチャンが再臨時に空中でキリストと出会い、そのまま天に引き上げられていくという「携挙」は聖書的根拠に乏しいと考えています。それは、これまでとり上げたいくつかの個所の釈義的可能性に基づくだけでなく、「天から地へ」という聖書の終末論全体を貫く方向性と逆行しているように思えるからです。つまり、世の終わりにクリスチャンが天に引き上げられるという解釈よりも、天から降臨するイエスを地上で迎えるという解釈のほうが、聖書の物語全体の文脈により適合するということです。

次回は、携挙の問題をより大きな聖書のストーリーラインの観点からさらに深く見て行きたいと思います。

(続く)

 

御国を来たらせたまえ(4)

(シリーズ過去記事   

このシリーズでは、「神の国の到来」をテーマに考えてきました。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」と祈るようにとイエスが弟子たちに教えられたように、キリスト者の祈りは、そして聖書が教える終末の希望は、神の国が地上に訪れることであって、私たちが「天国に行く」ということではありません。つまり、基本的に聖書が示している方向性は「天から地へ」であって、「地から天へ」ではないのです。

これに関連して、今回は多くのクリスチャンが終末に起こると考えている一つのできごとについて取り上げたいと思います。それは「携挙」と呼ばれるものです。

「携挙」と言う言葉自体は聖書には出てきません。英語のraptureという表現は、1テサロニケ4章17節のラテン語訳に出てくるrapiemur(「私たちは取り去られるであろう」)という語に由来します。「携挙」は特にキリスト教の終末論において、終末に起こるとされる患難期の始まる前にキリストが再臨して教会を天に引きあげるという立場(これを「患難期前再臨説」と言います)を取る人々が、その時に起こる出来事を指す表現として用いられます。つまり「携挙」とは、世の終わりにキリストが再臨するとき、地上に生きているクリスチャンが文字通り空中に引き上げられてキリストに出会い、そのまま天に引きあげられるできごとをさす用語です。アメリカを中心に大ヒットし、邦訳も出版された『レフトビハインド』のシリーズもこの理解に基づいており、携挙の概念は日本のキリスト教会でも多くの支持者を持っています。この記事では、携挙のタイミング(患難期との前後関係など)についての細かい議論には触れず、携挙の概念そのものについて、その聖書的根拠を探っていきたいと思います。特に問題となるのは、空中で再臨のキリストに出会った聖徒たちが、そのまま天に引きあげられるのかどうか、と言う点です。

先に進む前にあらかじめお断りしておきますが、携挙に関しては保守的なキリスト者の間でも様々な見解があり、以下に記すのはあくまでも筆者個人の理解です。「携挙」の解釈は福音理解の根幹に関わるものではなく、それに関して意見の相違があったとしても、福音主義的キリスト者としての交わりがさまたげられる必然性は何もありません

さて、「携挙」の聖書的根拠として参照されるもっとも重要な箇所は、冒頭にも挙げたパウロによるテサロニケ人への手紙の次の一節です:

17 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。  16  すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、  17  それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(1テサロニケ4章15-17節)

特に17節の「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」では、キリストの再臨時に、地上で生きているクリスチャンが(それ以前に死んでいたけれども今や復活したクリスチャンたちと共に)空中に引きあげられて、そこでキリストと出会うことが記されています。携挙を信じる立場ではこの後クリスチャンはキリストと共に天に引きあげられるとされます。つまりこの時キリストが降りてこられるのは空中までであり、完全に地上にまで降臨するわけではありませんので、「空中再臨」と呼ばれます。

さて、このような再臨の理解ははたしてパウロが意図したものだったのでしょうか?ここで鍵となるのが17節で「会う」と訳されているギリシア語の名詞apantēsisです。古代世界では、王や皇帝のような高貴な人物がある町を訪れた時に、町の住民が城門の外まで迎えに出て、その王を町へとエスコートすることが行われました。その時に使われたことばがこのapantēsisです。たとえば2サムエル記19章25節(ギリシア語の七十人訳聖書では26節)では、エルサレムに帰還したダビデ王をメフィボシェテが迎えに出たことが書かれていますが、そこでもapantēsisが使われています。使徒28章15節でも、パウロがローマの近くまで来たとき、ローマのクリスチャンたちがパウロを出迎えた(apantēsis)ことが書かれていますが、文脈からして当然彼らはパウロを伴ってローマに帰ったことと思われます。もしかしたらここには、世界の、したがってローマ帝国の真の王なるイエスの使節として、パウロを首都に迎え入れるというイメージがあるのかもしれません。使徒行伝のナラティヴは、パウロが帝都ローマにおいて「はばからず、また妨げられることもなく、神の国(=王としての支配)を宣べ伝え、イエス・キリストのことを教えつづけた。」(28章31節)という記述で終わっています。

さて、1テサロニケ4章でパウロが再臨のキリストを地上を訪れる天の王として描いていることは、ダニエル7章13-14節を思わせる雲のイメージを使用していることや、ローマ皇帝にも使われた「主kyrios」という称号を使用していることなどからも明らかです。そうであるならば、パウロがここで示唆していることは、王であるキリストが天から地上に降りてこられる時に、その「臣下」であるキリスト者が空中まで迎えに出て、その後主とともに地上に降りてくることであると考えられます。黙示録21章にも書かれているように、私たちの最終的な状態は地上で父なる神およびキリストとともに住むことですが、上のように考えると、17節の「こうして、いつも主と共にいるであろう。」も理解しやすくなります。

ここでパウロが使っている表現は黙示的言語を使った象徴表現であって、文字通り起こるできごとではないと考える立場もあります。たとえば、米国福音派の新約聖書学者George Eldon Laddは次のように言います:

生きている信者が復活の直後に空中で主と出会うために「携え挙げられる」というのは、生きている者がこの世の物理的な秩序に属する弱く朽ちるべき肉体から、来るべき世の新しい秩序に属する力強い朽ちない肉体へと突然変えられることを生き生きと描く、パウロの表現法である。 (A Theology of the New Testament, rev. ed., pp. 610-611)

しかし、象徴的であれ字義通りであれ、キリストの再臨時に起こることは、キリスト者が天国に移住することではなく、世界の主として天から降ってこられる王なるキリストを地上に迎えることなのです

携挙についてはさらに次回も考えてみたいと思います。

(続く)

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その2)

関野祐二先生による、「『福音』とは何か」ゲスト投稿、第2回をお送りします。(その1はこちら

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 「『福音』とは何か」というテーマ、次は「福音と被造物統治/管理」のお話をしましょう。ここには、終末論、職業観、罪の影響、文化命令、自然観、救済論と贖罪の意味合いなど、多くの要素が複雑に絡み合っています。

筆者が新生した大学生の頃、あちこち参加したバイブルキャンプの分科会三大テーマはご他聞にもれず、働く意味と職業選択、人生の意味と目的、そして恋愛と結婚でした。最初に挙げた職業観ですが、多少の誇張と単純化を許していただくなら、「会社には伝道に行くのだ」という考え方が主流だったと記憶しています。この世の仕事には「神の栄光を現す」という意義はあってもそれ以上の聖書的意味付けをせず、むしろ職場という、教職者では入りにくい社会の現場に遣わされ、滅び行くこの世から一人でも多くの人を福音伝道によって救い出し、天国行きの切符を手渡すことが職業人の至上命令であると叩き込まれたのです。それ自体決してすべて間違いとは言えないのですが、与えられた仕事を忠実に果たす動機付けとしてはいかにも弱く、どこかこの世と正面から向き合っていない、それゆえ仕事にも身が入りにくい、かりそめの職業観と思えるものでした。ベースには、人生の軸足を滅び行く今のこの世ではなく未来の完成された輝かしい御国に置く、「悲観的終末論」(今のこの世はどんどん悪くなって、ついに終末と再臨に至り、千年王国が訪れるという考え方)があると後で知った次第です。どうせ滅びてしまうこの世の事象に全力を投入するよりも、永遠のいのちを与える伝道にこそ価値がある...勤務した会社の製品開発実験室で、証しと個人伝道にいそしんだのは懐かしい思い出ですが、どこか「これでいいのかな」との迷いがあったのも事実。全力で仕事に取り組む一方、「どうせこの世は...」と上から目線でさばくような自己矛盾の姿勢がそこにはあったからです。

こうした疑問や出来事に向かい合う、いくつかの機会が与えられてきました。ざっと挙げれば、ライフワークとしての天文学の継続、後藤敏夫師の著書との出会い、東日本大震災と原発事故、中澤啓介師の被造物管理の神学などです。

実は昨晩も、神学校の屋上で神学生たちに望遠鏡で土星を見せたのですが、輪を持った土星の堂々たる姿を自分の目で直接見てもらうのは嬉しいことでした。同席したP教師は、「土星を観るより、望遠鏡を覗いている人の反応を見ているほうがおもしろい」とも。もし、何のために土星を観るのですか、と問われたら、「そこに土星があるから」「観ておもしろいから」と答えましょうか。誤解を恐れずに言うなら、少なくとも「聖書に土星のことが書いてあるから」(直接は書いてありません)でも、「天地創造のみわざを称えるため」などという高邁な動機があってでもありません。ましてや「土星を見せることで伝道や証しのきっかけをつかむため」でもないのです。それでいいと思っています。まずは自分が今そこに生きている自然や宇宙を知ること、興味を持つこと、直接それを見て美しさに感動し、宇宙の中に置かれている自分を意識することがたいせつだからです。結果としてそれが、神を知ること、自然界と宇宙を治める神を称えること、共に創造主を喜ぶこと、詩篇の作者のように「人とは何者なのでしょう」(詩篇8:4)という神学的問いへと進むことになるのでしょう。

この順序をたいせつにしたいと思っています。なぜならそれが、この地上における人の営みを肯定し、地に足をつけた生き方の出発点となるからです。先ほど述べた、「ひとりでも多くの人を救いに導く」ことを主眼とした生き方は、それ自体はすばらしいわざであっても、気をつけないと浮き足立った前のめりの歩みとなり、地上のわざを軽視する結果をもたらしかねません。自然科学のみならず、文化や芸術、先端技術、哲学や文学など、人のさまざまな営みに肯定的な意味づけを与える道があるはずですし、多くの人に主イエスを紹介しつつ、人生そのものを喜び楽しむことをも主は願っていると思うのです。福音を知り、福音に生かされ、福音を伝えるという生き方がこのように統合されるならば、どんなにすばらしいことでしょう。『ケープタウン決意表明』(いのちのことば社、2012年)45-51頁に、従来型の聖俗分離的考えを改めて人間のわざの価値を認め、真理と職場、真理とグローバルメディア、真理と宣教におけるメディア、真理と先端技術、真理と公の場という項目で、文化と専門分野の意義を提案した箇所がありますので、ご参照ください。

土星観望から少し飛躍し過ぎました。結局たいせつなのは、終末や再臨を見通した上での、この地上における営みの肯定的位置づけです。それを筆者に教えてくれたのは、後藤敏夫先生の著書「終末を生きる神の民 ――聖書の歴史観とキリスト者の社会的行動――」(いのちのことば社、初版1990年、改訂新版2007年)でした。詳しくは本を読んでいただくとして、筆者がここから一番教えられたのは、「地上における営みが新天新地へと連続している」ということ。現在の先取りされた神の国経験は決してかりそめのものではなく、それが不完全であってもやがて完成する神の国の実体の一部を構成しており、地は滅びるのではなく贖われるのだ、私たちは御国へと携挙するのではなく御国がこの地上にもたらされ、主イエスはこの地上へと再臨されるのだ、だから今の地上における営みは何らかの意味で完成された御国へと持ち込まれ、そこには連続性があるのだ、というのです。これこそが聖書的な統合された人生観につながる神学だと直感しました。ここにはもはや、神の国とこの世的なものを分ける聖俗二元論は存在しませんし、どうせこの世はという否定的な対立構造もありません。文化命令(創世記1:28)に従って地を管理するため、この世界をよく知り、かかわっていく道筋が与えられたのです。こうした枠組みを考えながら、後藤敏夫先生にも神学校で講演していただいたり、前述の書を2007年に改訂新版として再版いただいたりという歩みを続ける中、2011年の東日本大震災と原発事故を迎えることになるのです。

(続く)

御国を来たらせたまえ(3)

(シリーズ その1 その2

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ17章20-21節)

「その2」から間が空いてしまいましたが、神の国についてのシリーズを続けて行きたいと思います。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」という祈りが重要であることについてはすでに見てきましたが、今回は神の国(神の支配)が地上に到来するとはどういう意味なのかを考えてみたいと思います。

冒頭に引用したルカ福音書のエピソードでは、パリサイ人がイエスに対して「神の国はいつ来るのか」と訊ねています。つまり、彼らの質問の主眼は、神の国の到来のタイミングに関するものでした。

ユダヤ教の終末論においては、「神の国」つまり神の支配する新しい時代は、「主の日」と呼ばれる歴史の一時点において神が劇的に地上の歴史に介入され、すべての悪を一掃して神による新秩序を打ち立てる時に訪れると考えられていました。パリサイ人たちがイエスに訊ねたのは、そのような神の歴史への介入はいつ起こるのか、ということでした。ここで彼らは、神によるそのような歴史への介入はまだ起こっていないということを暗黙の前提にしています。これはある意味当然のことでした。当時のユダヤ人にとって、悪の力(その一つの表れはローマ帝国における支配と考えられていました)はいまだに地上で猛威をふるっていたからです。同時にここでは、「神の国は一度にはっきりと目に見える形で訪れる」という考えも前提になっています。

これに対してイエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。」と答えます。ここでイエスは、神の国到来のタイミングではなく、その訪れ方に主眼を置いて答えておられます。イエスは、神の国は当時のユダヤ人たちが信じていたように誰の目にも明らかな仕方で訪れるのではなく、ひそやかに訪れると語られたのです。当時の多くの人々は気づいていませんでしたが、神の国はすでに訪れ、成長を始めていました。神の国は、将来イエスが再臨して神の国が完全に現れる時まで、そのようにしてこの世の現実の中に存在しつつ、拡大していくのです。

続いてイエスは、神の国がどのような形で現在地上に存在しているのかということについて語られました。「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。

神の国はあなたがたのただ中にある」これは有名な表現であり、そのような歌詞を持つ賛美歌もありますが、このイエスのことばは「神の国は信じる者(クリスチャン)の心の中にある」という意味ではありません。新約聖書の中で神の国が心の中の霊的現実として描かれている箇所はありません。人が「神の国に入る」と言われることはあっても(たとえばルカ18章24-25節)、神の国が人に入ると言われることはないのです。そもそもここでいう「あなたがた」は、イエスを信じないで試そうとしたパリサイ人を指していますので、「信じる者(クリスチャン)」を意味することはありえません。それどころか、彼らは悔い改めなければ、神の国から除外される危険にさらされていたのです(ルカ13章28節参照)。「神の国」つまり神の王としての支配は、単なる個人の心の中の霊的現実ではないのです。

それでは、「神の国はあなたがたのただ中にある」とはどういう意味なのでしょうか?この部分は新共同訳聖書では「あなた方の間にある」と訳されています。つまり、神の国は人々の間に既に存在し、拡大しているというのです。ここで言われているのは、イエスご自身の存在とわざにおいて、神の王なる支配が地上に現されているということです。パリサイ人たちはイエスの教えやわざを目にしていながら、その中に神の国が現れていることを悟ることができませんでした。「神の国はいつ来るのか」とイエスに質問すること自体が、彼らの霊的盲目を暴露しているのです。

そして、イエスが天に帰られてから後は、神の国の臨在を地上に現す務めは、イエスの霊を受けた弟子たち、すなわち教会に委ねられました黙示録1章6節では教会が神の王国とされたということが書かれています。神の国は個々のクリスチャンの心の中にある霊的現実ではなく、クリスチャン(とその共同体である教会)を通してこの地上に、地に住む人々の間に、社会の中に現されていく神の支配のことです。「御国を来たらせたまえ」と祈ることは、この地上の人々の間に(教会を通して)神のみこころが実現し、それによって世界が造りかえられることを求めることなのです。

ちなみに「イエス様が心の中におられる」「イエス様を心の中にお迎えする」という、クリスチャンがよく使う表現も、注意しないと誤解を招く表現です。

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イエスは肉体をもって復活した後、その肉体のまま天に昇って行かれました(ルカ24章50-53節、使徒1章9-11節)。そして現在も復活の肉体を備えたままで、父なる神の右の座に着座しておられます(使徒2章33節ほか)。そして、イエスは天に昇られたのと同じ有様で(つまり肉体をもって)やがて地上に帰ってこられます(使徒1章11節)。ですから、復活の肉体を持ったキリストがそのままでクリスチャンの心の中に住むということはありえないのです。一度復活の肉体を与えられたイエスが昇天後にその肉体を何らかの形で放棄したことを示唆する箇所は、新約聖書のどこにもありません

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フリッツ・フォン・ウーデ「キリストの昇天」

確かに、エペソ3章17節では「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、・・・」と書かれています(実際、キリストが心に住むという表現が使われているのは新約聖書の中でここだけです)。しかし直前の節でパウロは「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」と語っており、これはイエスの霊である聖霊が信仰者の心に住まわれることを語っていることが分かります。「キリストが心に住む」とは、クリスチャンの生き方のパターンがキリストの性質や生き方によって定義され方向づけられていくことを表しているのです。ガラテヤ2章20節「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」も同様に理解することができるでしょう。キリストは確かに聖霊という形で信仰者の内に住まわれます。けれども、キリストご自身は復活の肉体を持ったまま、天の父なる神の右に座しておられるのです。

現代のクリスチャンにとって、キリストが肉体を備えたまま天におられる姿をイメージすることがもし難しいとすれば、それは「霊的楽園」としての天国観が影響しているのかもしれません。

これらの通俗的理解(神の国やイエス・キリストがクリスチャン個人の心の中に存在する)には、現代のキリスト教が個人主義的と霊肉二元主義(後者についてはシリーズ第2回を参照)の影響をいかに強く受けているかをよく表していると思います。

「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その1)

前回の投稿で、次回の投稿では「本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。」と書きましたが、今回はこのブログで初めてゲストブロガーをお迎えしたいと思います。先日の公開講演会で講師を務めてくださった関野祐二先生ご本人が寄稿してくださることになりました。お忙しい中、寄稿依頼に快く応じてくださった先生に心から感謝いたします。

この投稿は、基本的に講演会で先生がお話しくださった内容に基いて書いていただきましたが、この中で取り上げられている主題は、海外の福音派キリスト者の間で近年盛んに議論されていながら、日本の福音主義キリスト教会ではまだ紹介され始めたばかりのものもあります。したがって、福音主義のフォーマットの中でこのような話題を取り上げること自体に違和感や拒否反応を覚える方々もおられるかもしれません。しかし、個々の結論に同意するしないは別として、自分と異なる意見に謙虚に耳を傾け、建設的な開かれた議論を展開できる「違いの違いが分かるキリスト者として、寛容に受け止めていただけることを願っています。

それでは、お楽しみください。

関野祐二2013年4月

お邪魔します。人気コンサートの舞台に友情出演で引っ張り出されたような不思議な感覚です。下手なパフォーマンスでブログの品位を落とさぬよう気をつけますから、どうぞおつきあいください。

今回講師を務めた5月11日の中部春期公開講演会「『福音』とは何か」は、昨年11月に行われた全国神学研究会議「福音主義神学、その行くべき方向 ――聖書信仰と福音主義神学の未来――」の延長線上にあります。私たち福音派の依って立つ福音主義神学とは何か、そのアイデンティティと方向性を探る作業をしていけば、必然的に「福音」の中身をも問われることになるからです。福音主義は「福音への献身、コミットメント」が身上。では何をもって福音(よい知らせ)と考えるのかですが、「主イエスの十字架による救い」と答えるのは正解ですし、聖書メッセージの要約かつ結論としての模範解答でもあります。ただ、あの東日本大震災を契機に、十字架のメッセージを含めた、より包括的(ホリスティックな)福音が問われるようになり、もっと全人格的、全生活的な「よい知らせ」を旧新約聖書全体から受け止めたいという機運が高まりました。逆に言えば、今までの福音理解がどちらかというと個人的、霊的、未来的な意味に偏り、この世の具体的状況における生き方の問題(たとえばキリスト者として被災地に駆けつけ何をすべきなのか)から乖離した内容に傾きがちだったとも言えましょう。

その一方で、欧米を中心に福音理解とそれに関連するホットイシューがさまざま研究され、議論されるようになってきました。福音派にとってふさわしい(安全な?)テーマかどうか、どんな内容なのかはひとまず脇において項目だけ並べれば、物語神学、開かれた神論、パウロ研究の新たな視点(NPP)、聖書の無誤性理解、創世記1~3章の解釈、関連するアダムの歴史性と原罪、被造物統治/管理などなど。残念ながら、日本の福音派ではどれもまだ議論が始まったばかりの状況で、だからこそ昨年11月の全国神学研究会議がこうした事がらを取り上げ、正面から福音主義アイデンティティを探求する場となったわけです。

実は「『福音』とは何か」という問いかけは自分自身にとっても古くて新しいテーマ。2010年3月15日の『リバイバルジャパン』に、同じタイトルで寄稿しているからです。長くなるのでその内容をここで詳しくはお伝えしませんが―――いや、せっかくですから少しだけ。Ⅰコリント15:1でパウロがコリント教会員に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」と改まった口調で語るその福音とは、「キリスト復活、私も復活」がポイントでした。神の贖い物語の結論として主イエスが死からよみがえり、それを信じる私たちも復活した人生をこの地上に先取りされた神の国で生き、神の物語の一端を担いつつ、新しい価値観を生きて神と人に仕え、からだの復活と救いの完成を待ち望む―――

あれから約5年が経ち、その間に社会では震災や原発事故、急速な右傾化をはじめ多くの出来事が発生、個人的にも先に挙げたような神学テーマとの格闘を経験して、「福音」理解がより包括的に(ある意味で振れ幅大きく)なってきたような気がします。以下、その一端を紹介しましょう。

まず「福音とアダムの史実性」ですが、このタイトルだけでびっくりし、つまずいてしまわぬよう願います。なぜ今「アダム」なのか、それは、「福音とは何か」を探求する上で、創世記1章~3章の解釈がとても重要であり、とどのつまり創世記1~3章をどう読むかは「アダム」という存在をどう考えるかに集約され得るからです。創世記1~3章は、神が「自然」を創造した目的と、神のかたちとして創造した人が「自然」すなわち「地」を管理する使命を与えられたことが記され、福音によって本来の姿に回復させられた人間が、神との協働により本来の意味で地を統治/管理すべきことを教えます。また創世記1~3章は、人間が罪を犯し、この世界が当初の状態からどう変わってしまったのか、最初の罪はどのように後世へと伝達されたのか、壊れてしまった「地」と堕落した人間は福音によってどう「贖われ」、新天新地へとつながるのか、その原点を示します。そして創世記1~3章は、聖書と科学の関係性や聖書の無誤性を考える際、その記述を字義通り読むべきか否か、一般の自然科学分野で今や常識とされる進化論(進化生物学)や人類の起源との関係性や整合性をどう判断するか、重要な箇所。以上三つの意味で、創世記1~3章における「アダム」の存在理解は鍵となるのです。

「福音」とは、天国行きの希望を与える意味でもたいせつですが、今この地上で生かされている私たちの生き方を決定づける「よい知らせ」でもあるはず。ならば、この世の学問的常識とも真摯に向き合わなければなりません。これまで福音派の私たちは、どちらかというと自然科学を無神論的営みとして信仰の対立軸と捉え、創世記冒頭の記事を単純に字義的解釈し、24時間×6日間で宇宙は無から創造され、特別創造された完成体としてのアダムとエバからすべての人類が発祥し、罪も遺伝的に後の全人類へと伝達されたと解釈するのが一般的でした。聖書記述をそのまま字義通り読むことが霊的であるとされ、疑問を差し挟む者には、無誤性を否定しているとか、福音的でないとの批判が浴びせられる傾向があったのです。近年、古生物学における化石記録の研究成果に加え、分子生物学によるヒトゲノム(人間のDNA)研究の急速な進歩によって、現世人類(ホモ・サピエンス)が約15万年前のアフリカ起源であると推定され、キリスト教界でも一般の自然科学に価値を見いだすグループにおいては、創世記1章~3章に記録された創造と堕落記事の意図や解釈、文学的性質、古代近東の文化的背景理解とともに、最初の人アダムの史実性問題が浮上してきました。これは、アダムとエバが歴史的にも最初の人類で後のすべての人類はアダムとエバという一組の夫婦から始まったのか、人が「神のかたち」として他の生き物と区別されたのは、いつどのようにしてなのか、原罪はどのように始まり次世代へ伝達されたのかなど、福音理解と根本教理に直接かかわる、きわめて重要なテーマなのです。鍵はやはり「アダム」の存在とその意味合いです。

ホイートン大学の旧約学教授ジョン・ウォルトンは、著書『創世記1章の失われた世界 ――古代宇宙論と起源に関する議論――』(邦訳未刊、2009年)、続編の『アダムとエバの失われた世界 ――創世記2章3章と人間の起源に関する議論――』(邦訳未刊、2015年3月)において、次のように述べています。創世記は古代文献であって、現代科学の書物ではない。古代世界の文脈に沿ってテキストを読み、著者が真に伝えたかったこと、当時の聴衆が明瞭に理解したことを知るのが真の字義的解釈であり、それは我々現代人の伝統的に理解してきたこととかけ離れている。創世記1章は古代近東の文脈から考えて宇宙的神殿落成の観点から読むのが妥当であり、物質の起源よりも機能的起源(特に人間の機能、function)の叙述として読むべきである。宇宙的神殿は人間の益のために諸機能がセットアップされ、神が被造物との関係性の中で住まわれるのだ。創世記1章から5章において、「アダム」という用語は多様な方法で使われ、人類全体を指す場合、原型的な(archetypal)人を指す場合、人類の代表者を指す場合、固有名詞の場合、特異的に用いられる場合とがある。「土地のちりで人を形造り」「あばら骨をひとりの女に造り上げ」は原型的な表現であり、物質的起源の主張ではない。新約聖書は、アダムとエバに関し、生物学的な先祖としてよりも、我々全員に当てはまる原型的な存在として関心を持っている。にもかかわらず彼らは過去現実に存在していた実在の人物であった。

不十分な紹介で恐縮ですが、ウォルトンの主張は米国の福音主義神学会でも注目を集めており、日本において「福音とは何か」を創世記のアダム理解から探求するに際し、賛成や反対いずれの立場であっても、彼の問題提起を真摯に検討する必要があると思われます。スコット・マクナイトやN.T.ライトなど、日本でも評価の高まりつつある聖書学者たちがウォルトンの研究を評価していることも付記しておきましょう。

(続く)