オープン神論とは何か(7)

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オープン神論がもつ実践的意義について、今回は悪の問題を取り上げます。人生におけるさまざまな悪や苦しみの問題に対して、オープン神論がどのような視点を提供することができるか、考えてみましょう。

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悪の問題(あるいは神義論とも呼ばれます)は、簡単に言うと次のようなものです。伝統的にキリスト教は、神は全能であり、かつ完全に善なる存在であると主張します。しかし、一方でこの世界には悪が存在しています。もしクリスチャンが信じ告白しているような善かつ全能の神がおられるなら、なぜこの世には悪や苦しみが満ちているのでしょうか?

もう少し整理すると、悪の問題とは、次の3つの命題が同時には成り立たないことを言います。

1.神は全能である。
2.神は善である。
3.世界には悪が存在する。

このうち3.(この世に悪が存在すること)は経験的事実としてほとんどの人が認めています(悪の実在を認めず、それは善の欠如に過ぎないと考える人々もいますが、そのように善が欠如した状態が世界に見られることは否定できません)。問題はこの悪の現実に照らして、聖書が教える神の存在をどう考えるかです。もし神が善かつ全能の存在であるなら、この世に悪が存在するはずはない、と多くの人は考えます。にもかかわらず悪が存在するということは、a)神は善であっても全能ではない(つまり悪を防ぐ力がない)か、b)神は全能であっても善ではない(少なくとも悪を滅ぼそうとはしない)か、c)神は善でも全能でもない(aとbの組み合わせ)か、あるいはd)そもそもそのような神は存在しない(無神論の主張)、という選択肢が考えられます。しかしこのどれも、すくなくともそのままの形では、キリスト教の立場からは受け入れがたいものです。

悪の問題は古来キリスト教神学における最大の難問の一つで、多くの神学者たちの頭を悩ませてきました。しかし、これは単なる難解な知的遊戯ではありません。牧師や神学者でない一般の信仰者であっても、誰もが多かれ少なかれ直面する実存的問題でもあります。

私たちはこの世界では悪の力が猛威を振るっていることを、毎日のように見聞きしています。メディアでは世界各地で起こっている戦争やテロ、また血も凍るような凶悪犯罪のニュースをひっきりなしに流しています。また、私たち自身の人生にも、大小さまざまな苦しみが満ちています。愛する者を失ったとき、仕事をクビになったとき、失恋したとき、あるいは締め切り直前に原稿のデータを保存したコンピューターが故障したとき、クリスチャンはともすれば、「なぜ神は私をこのような目に合わせるのか?」「なぜ神はこのような悲劇を許されたのか?」といった疑問を抱きます。

このような疑問は、善悪を問わず世界におけるすべてのできごとは神が支配しておられるという世界観を暗黙の裡に前提しています。ある人々は、この世に起こる悪(と見えるもの)はすべて神が起こるべく意図したものであると考え、他の人々は神はそれらの悪が起こることを(その気になれば防げるにもかかわらず)「許された」と考えます。いずれにしてもこのような世界観は、神がこの世の悪に対して責任があることを示唆しています。けれども、これはクリスチャンにたいへんな難問を突き付けます。ナチス・ドイツが600万人のユダヤ人を虐殺したのは、神があらかじめ計画されたことなのでしょうか?道路に飛び出した子どもをはねたトラックの運転手に対して、神は「ゴーサイン」を出されたのでしょうか?

lossy-page1-800px-Starved_prisoners,_nearly_dead_from_hunger,_pose_in_concentration_camp_in_Ebensee,_Austria._The_camp_was_reputedly..._-_NARA_-_531271.tifナチスの強制収容所の囚人たち

多くのクリスチャンは人生における大小さまざまなできごとは、よいことも悪いこともすべて「神の計らい」であると考えます。しかし、フィリップ・ヤンシーはこのような考え方に疑問をなげかけます。

しかし、私は友人の「神の計らい」という表現につまずきを感じている。神は本当に、病院へ向かう道にクギを置いて私の車にそこを走らせるのか。神は流しのトラップに髪の毛をからませて、友人が到着する直前に排水口を詰まらせるのか。私も悪いことが起きると本能的に神を非難し、信頼関係すべてを疑う。そうすることは正しいのか。タイヤのパンクもコンピューターの突然の停止も、私の人生に侵入する病原菌も、アブラハムやヨブの耐えた信仰の試練と同様に、私用の試練として神が計らっておられるのだろうか、と疑問に思う。(『見えない神を探し求めて』、68-69頁)

もちろん、多くのクリスチャンは人生における苦難を神が愛をもって与えてくださった試練として、感謝を持って受け止め、そのことを通して成長していきます。しかし、時に悪の問題は信仰者の内に神に対する激しい怒りを引き起こし、中には信仰を捨ててしまう人々もいます。これは単に彼らの信仰が未熟だったということで片付けてもよいものなのでしょうか。それとも、神と悪の関係について、別の説明も可能なのでしょうか?

 

オープン神論と悪の問題

すでに見たように、オープン神論では、全能の神は世界に対するご自分の支配を自発的に制限し、被造物が自由意志をもって自分の行動を選択できるようにされたと考えます。したがって、被造物(聖書では人間だけでなく天使のような霊的存在も含みます)が神が望まれないような悪を選ぶことも可能になり、事実そのようになってしまいました。つまり、オープン神論の見解では、世界に存在する悪は神が引き起こしたものではなく、被造物の自由な選択に起因するものなのです。次のヤンシーのことばは、このような考え方と適合します。

ダイアナ妃が自動車事故で亡くなったとき、私はテレビのプロデューサーから電話をもらった。「私どものショーに出演していただけますか。こんな恐ろしい事故を神がなぜ許したのか、あなたに説明していただきたいのです。」私は即座に答えた。「狭いトンネルの中を、酒によったドライバーが時速百四十五キロで走っていた件ですか。いったい神がどう関わっておられたというのですか。」(『見えない神を探し求めて』、70頁)

(相手を死なせてしまった)ボクサーが対戦相手を殴っていたとき、十代のカップルが車の後部座席で歯止めを失ったとき、母親がわが子を溺死させたとき、神は正確にはどんな役割を演じておられたのだろう。神はこれらの事件を信仰の試練として用意なさったのだろうか。私は逆に、それらの事件は堕落した星の上で人間の自由が壮大に実演されていたものと見る。このようなとき、弱々しく、死ぬべき運命にある自分があらわになるが、私たちは弱々しくもなく死ぬべき運命にもない誰か、すなわち神を痛烈に非難する。(70-71頁)

しかし、そもそもなぜ神は被造物に、善だけでなく悪も選べるような自由意志をお与えになったのでしょうか?それは第4回で説明したように、愛のためです。本当の愛の関係は、愛さないという選択肢もある中であえて愛することを選ぶことによって生まれます。同じように、善い行為の価値は、悪を選ぶこともできる中であえて善を選ぶところにあります。別の言い方をすれば、人間が善を行う潜在能力は、悪を行う潜在能力と比例するのです。人間がおそるべき悪を行う能力を持っているということは、裏を返せば彼らがすばらしい善を行う能力も持っていることを意味していますし、実際に人類は悪人も偉人も輩出してきました。神が望まれたのは、全ての被造物がロボットのように「善」しか行わないようにプログラムされた世界ではなく、自由な被造物との信頼関係に基づいて共に善を生み出していくような世界でした。しかし、そのような世界では、当然被造物が善ではなく悪を行う可能性もあります。世界における悪の存在は、愛が存在する世界を造るために神が冒されたリスクなのです。

いずれにしても確かなことは、オープン神論の立場では、世界における悪は神が望まれたものではないということです。神は悪の存在を悲しみ、これと戦い、悪から善を生み出そうと常に働いておられます。ヤンシーは次のように言っています。

聖書にはヨブの場合のように、神の懲罰とは無関係の苦しみが数多く書かれているイエスは、どの癒しの奇蹟においても、視力障碍や不自由な足や重い皮膚病等の苦しみは、それを受けるに値する人々の身に降りかかるという、当時広く信じられていた考えを覆された。イエスはこの星に起きている多くの事柄を深く悲しまれた。それは、神が私たちよりはるかに嘆いておられることの確かなしるしである。苦しみを神の御旨として受け入れなさいとは、イエスはただの一度も助言しなかった。むしろ病や身体の障碍を癒して歩かれた。(『見えない神を探し求めて』、71頁)

 

悪に対する神の「責任」

このように、オープン神論の考えでは、悪は神が意図して生み出したものではありません。その意味で、世界における悪の存在という問題に関して、神には責任がないということになります。

しかし、これは新たな疑問を生み出します。まず、いくら愛が可能な世界を創造するためとはいえ、悪が生じる可能性のある世界をあえて創造したということに関して、やはり神にはある種の責任があるのではないか、と考える人もいるでしょう。

さらに、悪の現実のただ中にいる人々に対して、「この悪は神が意図したものではない。神はあなたと共に悲しみ、苦しんでおられる」と語られても、あまり慰めにはならないかもしれません。神は被造物が自由意志によって生み出す悪に対して無力なのでしょうか?(冒頭で定義した悪の問題のaの選択肢)この世のさまざまな悪によって苦しんでいる人々は、ただ「運が悪かった」ということなのでしょうか?悪に満ちた世界に生きる私たちにはどのような希望があるのでしょうか?

この2つの疑問は関連して考えることができます。神は悪を引き起こす方ではありません。けれども、神は「この世の悪はおまえたち被造物の自由意志によるものだから、わたしには責任がない」と無関心な態度を取っておられるわけではありません。神がこの世界を創造された時、その世界に悪が生じるリスクを当然予測しておられました。そしてそのことに伴う責任をご自身で引き受ける覚悟をもっておられたのだと思います。つまり、神は世界を造られる前から、やがて世界に生じるであろう悪の結果をすべてご自分で引き受け、世界をそこから救い出すご計画をもっておられたのです。それがイエス・キリストでした。

キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。(1ペテロ1章20節)

三位一体の愛の神は、被造物と愛の交わりを持つためにこの世界を自由な世界として創造されましたが、その必然的結果として悪が生じたということの責任をもご自身で引き受けることを、愛のゆえに選ばれたのです。それが究極的に現されたのは、キリストの十字架においてでした。

キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。(ガラテヤ1章4節)

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キリストは十字架の上でこの世の悪の力をすべてご自分の身に引き受けることによって、悪に勝利されました。そして、その勝利は終末に完成します(1コリント15章24-28節、黙示録21章1-4節)。

悪の問題に対するキリスト教の回答の一つは、終末論的希望です。たとえいま現在、どれほど悪が優勢に見えたとしても、この状態がいつまでも続くわけではありません。神が文字通りすべての悪を滅ぼし、その聖なる意志がすべてに行き渡る時が来るのです。

けれども、さしあたりそのことはまだ実現していません。私たちは新約聖書の言う「終わりの時」、神の国の終末論的現実が「すでに」開始されたけれども「いまだ」完成していない時代に生きています。悪の力はまだ根絶されていません。それどころか、ますます力を得ているようにさえ見えます。このような時代に、クリスチャンとしてどう生きればよいのでしょうか?神が悪を引き起こしたのでないなら、私たちは悪意を持った他の被造物の単なる無力な犠牲者ということなのでしょうか?

そうではありません。以前の記事でも述べましたが、クリスチャンの信仰生活において、私たちがどのような神観を持っているかということは決定的に重要です。オープン神論の立場では、聖書と受肉したイエス・キリストにおいて啓示された神は徹底して善いお方であり、悪をなされる方でも、喜ばれる方でもありません。「神は光であって、神には少しの暗いところもない。」(1ヨハネ1章5節)のです。私たちは何があっても、神は善いお方であって、私たちを愛してやまないことを信じ、この神に望みを置いて行くことができます。

私たちの直面している悪の現実は、神が計画されたことでも黙認しておられることでもなく、純粋に神の御心に反するものであり、神を悲しませ、憤らせているものです。神は私たちの苦しみに寄り添い、ともに苦しみを分かち合って下さいます。けれどもそれだけではありません。たとえ神の御心に反して悪が生じたとしても、神はその現実の中で働いて、悪から善を生み出してくださるのです。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章28節)

信仰者であってもこの世の悪から常に守られるとは限りません。クリスチャンもノンクリスチャンと同様に病気や事故や犯罪に遭うことがあります。しかし、私たちは完全に善いお方である神が私たちを愛してくださっていること、そして最終的には神がすべての悪に勝利されることを信じることができます。私たちが神の愛の中にとどまり続ける限り、希望が失われることはないのです。

38  わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 39  高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ8章38-39節)

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繰り返しますが、悪の問題は単なる知的パズルではなく、信仰者にとって切実な実存的問題です。そしてこれは深遠な難問であり、オープン神論がすべての疑問に対して答えを与えるとは、私も思っていません。実際に苦しみの真っただ中にある人にとって、知的な議論が与えることのできる助けには、自ずと限界があります。しかし、悪の現実に直面して、自らが信じてきた神観とのギャップに苦しみ、信仰の危機を体験しているクリスチャンにとっては、オープン神論は一つの有効な選択肢を提供することができるのではないかと考えています。

今回をもって、ひとまずオープン神論についての概論シリーズを終わりたいと思いますが、オープン神論については今後も取り上げることがあるかと思います。