C・S・ルイスの「七つの大罪」?

C・S・ルイスは20世紀の最も影響力のあったクリスチャン著述家の一人と言えるでしょう。映画にもなった児童文学の傑作「ナルニア国ものがたり」シリーズをはじめ、『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』、『悪魔の手紙(The Screwtape Letters)』などを読まれたことのある方も多いと思います。

ルイスは英国国教会に属していましたが、教派を超えて、特に英米の福音主義キリスト教界に今日に至るまで強い影響力を持ち続けています。彼の死後40年以上も経った2005年にルイスはアメリカ福音派の雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』の表紙を飾りました。その号の「C. S. Lewis Superstar」と題されたカバーストーリーでは、ルイスを「福音派のロックスター的存在」と形容しています。

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ところが、福音派におけるルイスの絶大な人気とは裏腹に、彼のキリスト教信仰は標準的な福音主義プロテスタントのそれとは必ずしも一致しません。それどころか、保守的な福音派のクリスチャンなら戸惑いを隠せないような側面が彼の信仰にはあったのです。

フランク・ヴィオラは「C・S・ルイスのショッキングな見解」と題するブログ記事を書いています。その中で彼はルイスが信じていた6つの「ショッキングな」ことがらを列挙しています。

1.ルイスは煉獄の存在を信じていた。

2.ルイスは死者への祈りの有効性を信じていた。

3.ルイスは地獄に堕ちた者が死後に恵みへと移行することは可能であると信じていた。

4.ルイスは全てのクリスチャンが禁酒すべきだという考えは間違っていると信じていた。

5.ルイスはカトリックのミサは聖餐の妥当な理解であると信じていた。

6.ルイスはヨブ記は史実ではなく、聖書は誤りを含むと信じていた。

ヴィオラ自身が述べているように、これらのルイスの見解がすべてのクリスチャンにとって「ショッキング」というわけではありません。しかし、これらの項目は、多くの保守的な福音派クリスチャンにとってはかなり受け入れがたいものではないかと思います。

ヴィオラが挙げているのは以上の6項目ですが、私はこれに7番目を付け加えたいと思います。

7.ルイスは生物の進化を信じていた。

神学的には乱暴な表現であることを承知であえて言うなら、これらの7ポイントは福音派にとってのルイスの「七つの大罪Seven Deadly Sins」と言ってもよいかもしれません

ちなみに「七つの大罪」とは、カトリック教会において、悔い改めなければ永遠の死に至るとされる七つの罪のことで、伝統的に「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」がこれに当たります。ただし、ここで述べているルイスの「七つの大罪」はあくまでもアナロジーですので、これらのカトリックの概念に対応しているわけではありません。「福音派のクリスチャンにとって、ルイスのキリスト教信仰の正統性を疑問視させる根拠となりうるような7つの信仰内容」程度に受け止めていただければ幸いです。

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さて、このようなルイスの「ショッキングな見解」について、どう考えるべきでしょうか?この記事の趣旨は上に列挙したルイスの考えが教理的に正しい「聖書的な」ものかを吟味することではありません。むしろここで提起したいのは、上で述べたような神学的見解を持っているからといって、福音派のクリスチャンはルイスのキリスト教信仰の正統性を否定すべきなのか?(通俗的な表現を使えば、ルイスは天国に行けたのか?)という問題です。言い換えれば、これら(福音派にとって)非正統的な信仰内容は、ルイスのいわば「死に至る罪」なのでしょうか?

ここで、ヴィオラのコメントに耳を傾けてみましょう。

(このような「ショッキングな見解」について記事にする理由は)これらの人々が今日の福音派の大多数が眉をひそめるような意見を持っていたからといって、キリストのからだに対して彼らの貴重な思想がおこなった貢献が覆されたり否定されたりすることはない、ということを示すことにある。

不幸なことに、多くの福音主義者は、いわゆる教理的誤りについて、キリストにある兄弟姉妹をすぐに軽視したり、罵倒さえしたりする。それらの兄弟姉妹たちが歴史的正統信条(使徒信条、ニカイア信条など)を堅持していたとしても、である。そのような軽視や罵倒は神の国に属する者たちの誰にも益することがなく、いつでも避けることができるものである。

ここでヴィオラは「歴史的正統信条」について触れていますが、これを堅持しているということは、キリストと使徒たちに起源を持ち、二千年にわたって受け継がれてきた正統的信仰の中核的部分を共有しているということです。これらの信条は、教派を問わず世界中のすべての正統的キリスト教の最大公約数的な信仰内容を要約したものであると言えます。ここでは、その一つとして「使徒信条」を取り上げたいと思います。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。

さて、この信条の内容と上で述べたルイスの「七つの大罪」とを比較してみると、ルイスの「ショッキングな見解」のどれ一つとして、使徒信条の内容と矛盾するものはないと言えます。おそらくルイスは、何の留保もなく使徒信条を告白していたことでしょう。

このことは、ルイスの信じていたことがすべて正しいということではありません。ルイスと他のクリスチャンとの間には多くの解消しがたい意見の相違があり、ルイスの信じていたことの少なくともいくつかは間違っている可能性もあります。しかし、あらゆる点で完全無欠な教理の体系を持つことは誰にもできません。大切なことは、ルイスの信仰は歴史的正統キリスト教の中核的信仰告白とは何ら矛盾しないのであり、その意味で「正統的信仰」であったということです。つまり、ルイスが「教理」や「意見」のレベルでは多くの福音派クリスチャンと異なる部分を持っていたとしても、「教義」のレベルでは両者は同意することができるのです。(「教義」「教理」「意見」についてはこちらの過去記事をご覧ください。)

福音派のクリスチャンがルイスの神学的見解のすべてを受け入れる必要はありません。しかし、彼の「ショッキング」な見解を知って彼を異端視したり、彼の豊かな信仰的遺産から学ぼうとすることをやめてしまうのはたいへん不幸なことであると思います。むしろ、彼の一見違和感を覚えるような見解と向き合い、じっくりと吟味していくことによって、福音派自身の信仰を見つめなおしていく機会も与えられてくるのではないかと思います。

C・S・ルイスは「福音派」ではありません。しかし、彼はこれからも多くの福音派プロテスタントにとって「スーパースター」であり続けるでしょうし(偶像視するという意味ではなく、大きな影響を受けるという意味で)、それは福音派にとっても良いことであると思います。