荒野の40日

今日から今年のレント(四旬節)が始まりました。レントとは、「灰の水曜日」に始まり、復活祭に先立つ40日間の期間を指します(6回の日曜日を除く)。伝統的に、教会はこの期間を祈りと悔い改め、慈善のわざをもって主の復活に備える時として守ってきました。

レントは福音書に記されている、イエス・キリストが公生涯のはじめに荒野で40日間断食をし、悪魔の誘惑を受けたという記事と結びつけて理解されます(マタイ4章1-11節、マルコ1章12-13節、ルカ4章1-13節)。クリスマスと復活祭以外、あまり教会暦を意識しないという教会に属するクリスチャンも、この時期に主が荒野で過ごされた40日間に思いを巡らすのは意味のあることだと思います。

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イワン・クラムスコイ「曠野のイエス・キリスト」

上で述べたように、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書はどれも、イエスが荒野で40日悪魔の試みを受けたと記していますが、今回はマタイ福音書の記述に従って見て行きたいと思います。

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 (マタイ4章1-2節)

バプテスマを受け、聖霊に満たされたイエスには、公の宣教を開始する前にもうひとつだけすることが残っていました。それは荒野でサタンの試みを受けることでした。

共観福音書の中でマタイだけが、イエスが荒野に行かれたのは「悪魔に試みられるため」であったことをはっきりと記しています。イエスは「御霊によって・・・導かれた」とあるたことから、この誘惑も神のご計画に沿ったものであることが分かります。「試み」は単なる苦難や敵からの攻撃ではなく、その人物の真価を試す「テスト」といえます。イエスがこの試練に耐えぬいてパスするならば、これからの宣教の働きをなすに相応しいものと認められた、ということになるのです。

この誘惑の舞台が「荒野」であったことは重要です。荒野は聖書では重要な意味を持っています。特にこの箇所との関連で重要なのは、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野で試みに遭ったできごとです。その時イスラエルは試練に負け、約束の地に入ることはできませんでした。

主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。あの時、あなたがたの先祖たちはわたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その代をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。(詩篇95篇7-11節)

福音書でイエスは新しいモーセとして、イスラエルを新しい霊的な出エジプトに導こうとしています。旧約のイスラエルは試練に耐えることができませんでしたが、イエスは試練にパスするのです。

2節にイエスは「四十日四十夜」断食をしたとあります。聖書の中では40はしばしば象徴的な意味をもって使われます。神はノアの洪水で地上の生き物を滅ぼされたとき40日40夜雨を降らせました(創世記7章4、12節)。ここではこの表現は裁きを意味します。イゼベルに命を狙われたエリヤは40日40夜何も食べずに歩いてホレブ山にたどり着きました(1列王記19章8節)。ヨナもニネベの人々に対し、40日後に訪れる裁きを宣べ伝えました(ヨナ3章4)。

しかし、もっとも重要な旧約的背景は申命記にあります。40は試練の数でもあります。イスラエルは荒野を40年間さまよって試みを受けました。

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。 (申命記8章2節)

イエスは40日40夜、何を祈っておられたのでしょうか?ルカの並行箇所によると、イエスは40日間悪魔の試みに遭われたとも受け取れますが、マタイではイエスと悪魔が対決するのは40日40夜の断食が終わった後になります。イエスの40日40夜の断食も、単に悪魔と戦ったということだけではなく、イスラエルのためのとりなしの祈りが父なる神に捧げられていたと考えることができます。実際モーセもまた、主の前で「四十日四十夜」断食をして、反逆的なイスラエルの前にとりなしをしたことが書かれています(申命記9章9、18、25節)。

40日40夜の断食が終わった後、悪魔がイエスに語りかけます。ここに書かれている3つの誘惑について詳しく述べることはしませんが、この中で悪魔が繰り返し「もしあなたが神の子であるなら」と語りかけているのは重要です(4章3、6節)。荒野の誘惑記事においてイエスの「神の子」としてのステータスは中心的な重要性を持っています。バプテスマを受けられた後、イエスは天の父から「わたしの愛する子」と宣言され、神の子であることが証しされました(3章17節)。荒野の誘惑はイエスがどのような意味で「神の子」であるのか、ということを示そうとするものです。

さらに注意すべきは、旧約聖書においてイスラエルは「神の子」と呼ばれたことです。

あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった。(申命記1章31節)

イエスが三つの誘惑のすべてに旧約聖書の引用をもって、しかもイスラエルの荒野における試みに言及している申命記の聖句をもって答えられたことに注意する必要があります。イエスの試練と荒野のイスラエルの試練が強く結びついていることが分かります。旧約における「神の子」イスラエルは試練に耐えることはできませんでした。けれども、真の「神の子」であるイエスは悪魔の試練に打ち勝つのです。

同じように、新約時代の神の民である教会も、このキリストにあることによってのみ、試練に耐え、まことの神の子らとなり、復活のいのちに至ることができます。イエス・キリストは歴史の中心にあって新旧両約時代の神の民を支え、神の子としての身分を保証してくださる存在といえるでしょう。

レントはイエス・キリストの荒野での40日間を覚え、追体験する期間といえます。私たちがこの期間をどのように過ごすにしても、大切なことはそれを通して神の民・神の子としての自覚を深め、より深くキリストに根ざして生きていくことだと思います。

 

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確かに神は共におられる

1997年に自動車事故で亡くなったRich Mullinsは非常に影響力のあるアメリカのクリスチャン・ミュージシャンでした。彼が作った「Awesome God」などの曲は今でも歌われ、日本語に訳されているものもあります。

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今回は彼の歌の中でも私が特に好きな「Surely God Is with Us(確かに神は私たちと共におられる)」という曲を紹介したいと思います。この曲は彼が作ったものではありませんが、遺作となった「The Jesus Record」というアルバムに収められています。そこに収録されている、死の9日前に録音されたデモを聴く度に感動を新たにします。

この歌で興味深いのは、歌い手がナザレのイエスの地上での生涯を同時代の人間の視点から描いていることです。最初のうち、彼はガリラヤの田舎から出てきた「預言者」イエスを疑いの目で見ています。そしてイエスを神の子と信じている人々の信仰をあざ笑っています。

Who’s that man who thinks He’s a prophet?
I wonder if He’s got something up His sleeve
Where’s He from? Who is His daddy?
There’s rumors He even thinks Himself a king
Of a kingdom of paupers, simpletons and rogues
The whores all seem to love Him
And the drunks propose a toast
And they say, “Surely God is with us.
Well, surely God is with us. ”
They say, “Surely God is with us today!”

あの男は誰だ?あの預言者気取りの男さ。
俺には腹に一物ある男のような気がするが。
やつはどこから来たんだ?親父はだれだい?
やつは自分のことを王様だと思ってるって噂じゃないか。
貧乏人、間抜け、ごろつきどもの国の国王陛下さ。
娼婦どもは皆やつにぞっこんみたいだし、
飲んだくれはやつのために乾杯して言うんだ。
「確かに神は俺たちと共におられる、
確かに神は俺たちと共におられる」
やつらは言うのさ。「今日、確かに神は俺たちと共におられる」ってね。

この後も、歌い手はイエスの愛の教えを非現実的だと批判したりします。しかし、歌が進むに従って、歌い手の心情に変化が起こってきます。

Tell me, who’s that man, they made Him a prisoner
They tortured Him and nailed Him to a tree
Was He so bad, who did He threaten?
Did He deserve to die between two thieves?
See the scars and touch His wounds
He’s risen flesh and bone
Now the sinners have become the saints
And the lost have all come home
And they say, “Surely God is with us
Well, surely God is with us, ”
They say, “Surely God is with us today!”

教えてくれ、あの人が誰なのかを。やつらは彼を捕らえ
痛めつけて、木に釘づけしちまった。
彼はそんなに悪かったのか、一体だれを脅したと言うのか?
二人の盗人と共に殺されなければならないようなことを彼がしたと言うのか?
彼の傷を見て、その傷口に触れてみるがいい。
彼は肉体をもってよみがえった。
今や罪人は聖徒になり、
いなくなっていた者たちはみな帰ってきた。
そして彼らは言う。「確かに神は私たちと共におられる、
確かに神は私たちと共におられる」
彼らは言う、「今日、確かに神は私たちと共におられる」と。

十字架につけられて死んだイエスがよみがえった時、歌い手もまた、イエスを信じる人々に唱和して言うのです。「今日、確かに神は私たちと共におられる」と。

イエスが地上におられた当時生きていた人々は、今日のキリスト者が新約聖書で読んで知っているような内容、すなわち目の前にいる一人の人間が神の子であり、やがて死んで復活するなどということは、まったく知らなかったか、あるいはたとえ聞いても理解することはきわめて困難だったと思います。 ナザレのイエスが何者であったかということは、彼がよみがえって後、初めて本当の意味で明らかになったのです。私たちが福音書を読むときも、復活という空前絶後のできごとを体験する前の時代に生きていた人々の視点から読むとき、新しい洞察が与えられます。このことを理解するとき、なぜ福音書でイエスの弟子たちがあのようにふがいない不信仰な存在として描かれているのか、少しは理解できるのではないかと思います。

そして私たちもまた、そのような先の見えない、現在進行中の物語を生きている存在です。私たちの日々の信仰の歩みの中で、次の展開がはっきりと分かっていることはまれです。しかし、最終的にどのような結末に至るかが分かっていれば、それに至る道筋が自分たちの予想と多少ずれていたとしても、希望を失うことはありません。時には暗闇の中を手探りで歩むようなこともありますが、その中でも神が私たちを導いてくださることを信じ、やがて夜明けがくることを待ち望みつつ生きることができるのです。

聖書は私たちが将来どこに向かうかについて、そこに至るまでの正確な道筋を事細かに記しているわけではありませんが、最終的な目的地と、大まかな方向は教えてくれます。これを神学用語で「終末論」と言います。聖書の終末論(たとえば黙示録に含まれるようなもの)は、これから世界情勢がどのように推移していくかを事細かに示した未来の青写真のようなものではありません。しかし、正しい終末論(自分がどこに向かっているのか)を知ることによって、私たちは先の見えない状況の中でも、確信と希望を持って進んでいくことができます。そして、そのような確固たる希望を抱いている信仰者は、たとえ神に見放されてしまったと思えるような状況の中でも、目に見えない形で働いておられる神の御手を見ることができるのだと思います。

信仰の旅路において、終わりからものごとを見る、ということはとても大切なことです。

 

 

終わりと始まり

ここ数ヶ月、神学校で黙示録の講義をさせていただきましたが、昨日の最終講義の終わりにC・S・ルイスの「ナルニア国物語」の最終巻の結びの部分を朗読しました。

こう、その方が話すにつれて、その方は、もうライオンのようには見えなくなりました。しかし、これからはじまることになるいろいろな出来事は、とうていわたしの筆で書けないほど、偉大で美しいものでした。そこで、わたしたちは、ここでこの物語を結ぶことにいたしましょう。けれどもわたしたちは、あの人たちがみな、永久にしあわせにくらしたと、心からいえるのです。とはいえ、あの人たちにとって、ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。この世にすごした一生も、ナルニアでむかえた冒険のいっさいも、本の表紙と扉にあたるにすぎませんでした。これからさき、あの人たちは、地上の何人も読んだことのない本の、偉大な物語の第一章をはじめるところでした。その物語は、永久につづき、その各章はいずれも、前の章よりはるかにみのり多い、りっぱなものになるのです。(『さいごの戦い』瀬田貞二訳)

よく知られているように、「ナルニア国物語」は子ども向けのファンタジー小説の体裁を取りながら、ルイスのキリスト教信仰と世界観を色濃く反映した内容になっています。私は信仰を持つ何年も前の少年時代にこのシリーズに出会い、そのキリスト教的シンボリズムにはまったく気づかないまま、熱中して何度も読みふけった記憶があります。けれども、成人して信仰を持ち、聖書を深く学ぶようになってから改めて読み返してみると、シリーズ全体を貫く神学的テーマや随所に散りばめられた聖書的シンボリズムに心を躍らされ、少年時代とはまた違った感動を持ってこの傑作を味わうことができました。子どもたちが幼いころは寝る前に英語で全巻を読み聞かせしたこともありますが、時に物語の背後に隠された聖書的メッセージに対する感動で声が詰まって読み続けるのに困難を覚えることもありました。

このシリーズは、架空の世界(パラレルワールド)であるナルニアを舞台に、主人公の子どもたちの冒険と、イエス・キリストを象徴するライオンのアスランとの交流を描いたものです。アスランによって創造されたナルニアは、最後には滅びてしまいます。子どもたちはそのナルニアを後にしてアスランの世界にやってきますが、そこは新約聖書で言う「新しい天と新しい地」(黙示録21章1節)にあたります。物語の中では、子どもたちは「現実の」イギリスにおいては鉄道事故で死んでしまうという設定になっていますが、「現実の」世界よりもさらにリアルなアスランの国で永遠に生き続ける、という結末になっています。

ここで興味深いのは、ルイスが「ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。」と書いていることです。彼が7巻にわたって書き綴ってきた血沸き肉踊る冒険物語は、これから始まる本当の物語の素晴らしさに比べれば、本の表紙と扉にすぎないというのです。ルイスはこれから子どもたちが住むことになる永遠の世界を、いきいきとした躍動感に満ちた世界として描いているのです。

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時としてキリスト者は「天国」(この概念の曖昧さについてはN・T・ライトらによって近年しばしば指摘されていますが)や「永遠のいのち」ということを、雲の上で日がな一日ハープを弾いて過ごすような、安楽だけれどもどこかアンニュイなイメージでとらえてしまうことがあります。しかし、聖書の示す終末のビジョンはそのような不活発なものではありません。

のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙示録22章3-5節)

ヨハネが黙示録において目にした終末のビジョンが「彼らは世々限りなく支配する」というダイナミックな表現で締めくくられているのは重要です。聖書が語る永遠の新天新地は、この世界以上に活動的でエキサイティングな冒険に満ちた世界なのです。黙示録は「世の終わり」という否定的でおどろおどろしいイメージで受け取られることが多いですが、実はそれはキリストの再臨によって始まる素晴らしい物語のプレビューでもあります。実際、ヨハネが証しするように命じられた内容は、「世界の終わり」ではなく、「すぐにも起るべきこと」(1章1節、22章6節)、また「これから後に起るべきこと」(4章1節)、すなわち神が支配する新しい世界の始まりだったのです。今ある世界の終わりはその準備段階に過ぎません。創世記から黙示録に至る壮大な聖書のナラティヴは、その後に始まる永遠の物語に比べれば、ほんの表紙と扉にすぎないのです。

私たちにとって終わりと見えるものは、さらに素晴らしいものの始まりにすぎません。

In my end is my beginning.
(T.S. Eliot, Four Quartets)

 

 

戦争と神学者(6)

(このシリーズの先頭はこちら

日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)について述べてきたシリーズも、今回で最終回としたいと思います。まとめに入る前に、第一回でも述べたことをもう一度確認したいと思います。

このシリーズの目的は、特定のグループや個人を批判することにあるのではありません。戦時中の極限状況の中で先人が取った言動を、現代の平和な時代に生きる私たちが軽々しく裁くことができるものではありません。しかし、歴史の中で過去にどのようなことが起こったかを知ることは、現代に生きる私たちが今後同じ過ちを繰り返さないために必要不可欠な作業であると信じるために、敢えて歴史の暗部に光を宛てるような内容を書いてきました。同様の検証作業はすでに多くの方々がなさっておられますし、これからも引き続きおこなっていく必要があるでしょう。

さて、神学に限らず学問一般は時代や国によって変わることのない客観的真理を追究するものであり、したがって国家の思想的統制を受けたりするものではないはずだと一般に考えられています。しかし、実際の歴史の中ではこの建前はしばしばあやふやにされてしまいます。このシリーズで取りあげた書翰もその典型的な例であるといえるでしょう。

本シリーズでは書翰とカール・バルトの神学の関係について考察しました。これも誤解を招きかねない書き方をしてしまったかもしれませんが、以下に述べるように、本シリーズの主眼はバルト神学の正当性を証明することにあるのではありません。バルトの神学にどのような評価を下すにせよ、少なくとも戦時中のバルト自身の立場は全体主義をはっきりと拒絶するものであったにもかかわらず、彼の神学が日本では軍国主義イデオロギーに奉仕するように用いられたということは紛れも無い事実であり、なぜそのようなことが起こったのかを考えようというのが、本シリーズの目的でした。

しかも、バルトは当時の日本の神学者たちに影響を与えた海外の神学者の中で最大の人物であったことからも、この問題の深刻さをうかがい知ることができます。当時多くの日本人キリスト者がバルトの神学を熱狂的に受け入れていった一方、戦争という時代背景の中で、彼らが進んでいった道はバルト本人とは正反対の道でした。しかも彼らは、バルトの神学を用いることによってそうしたのです。日本の神学者たちはバルトの神学は学んでもバルトという神学者から学ぶことをしなかったといえます。

神学は変わることのない神の真理を追究していきます。それと同時に、神学はその時代、国に固有の問題と格闘し、それに対する解答を追い求めていくものです。神学はその置かれた歴史的政治的文脈と切り離して考えることはできないのです。1930年代のバルトの神学は、ナチズムの台頭と猛威という当時のドイツの歴史的文脈における教会の戦いと無縁ではありませんでした。ところが「日本では、バルトの神学と文脈を分離して神学的抽象性のレベルにおいてのみ受容するという限定がひそかに行われた」のです(『日本におけるカール・バルト』序) 。このような、「神学的抽象性と社会的・政治的具体性の二元論」が日本におけるバルト受容の特色であったといえます

このことはまた、似たような神学的立場に立っていても、神学する主体である神学者の生き方、態度、霊性といったものによって、神学自体の内容および適用が異なる場合があることを示唆しています。本シリーズのタイトルを「戦争と神学」ではなく「戦争と神学者」としたのは、この理由によります。単純に考えますと、神と人間との間の断絶を強調する弁証法神学は、国家を絶対化する全体主義とは最初から適合しないように思われますが、日本ではそうなりませんでした。これは日本だけの問題ではありません。ドイツにおいても、バルトと同じ弁証法神学の立場を取ったフリードリヒ・ゴーガルテンを始めとする何人かの神学者たちはナチスを支持したのです 。その一方で、神の国と地上の国という「二つの王国」を分けて考える傾向の強いルター派のキリスト者たちは、ナチスを受け入れやすかったのではとも考えられますが(実際バルトは二王国論に批判的でした)、ボンヘッファーやマルティン・ニーメラーといった告白教会の指導者たちはルター派でした 。また、エマヌエル・ヒルシュとパウル・ティリッヒは神学的に非常に近い立場にありましたが、政治的には全く正反対の道を歩み、ヒルシュはナチスを支持し、ティリッヒはナチスに抵抗して米国に渡ることになります(ロバート・エリクセン『第三帝国と宗教』を参照)。つまり、キリスト者の神学的な立場そのものは、その人の国家に対する立場を一意的に決定するわけではないのです。

したがって、国家を神としその前にひざまずいてしまう誘惑は、その神学的立場を問わずすべてのキリスト者が直面している問題だといえます。バルトの神学を共有しないキリスト者であっても、その生き方から学ぶことができるゆえんがここにあります。(もちろん、バルト以外にもそのような模範となる人々は存在しました)。

ナチスに抵抗したバルトと、その神学を熱心に受け入れながらも戦争に協力した(させられた)日本のバルト主義者の対照的な進路の分岐点となったのは、十戒の第一戒(唯一のまことの神以外の存在を神としてはならない)への徹底的服従であると思われます。教会がその置かれた国にあって福音を宣べ伝えていく時に、聖書が証しする三位一体の神だけが唯一まことの神であること、またイエス・キリストだけがすべての主であるという信仰と告白に立っていくことが重要です。この信仰的基礎の重要性に比べれば、教理的見解や教派的伝統の違いは二次的なことがらに過ぎないといっても過言ではありません。この点を考慮しないでバルト神学(あるいは他のいかなる神学も)と戦争との関係を議論することはあまり意味がないと思われます。

教会の主がキリスト以外の何ものかによって取って代わられていないかどうか。このことが、福音の純粋性、神学の健全さを測る一つの物差しとなります。日本基督教団がそもそも発足したのは、皇国史観に基づく「皇紀二千六百年」を記念した全国信徒大会が発端であったことを考えると、あのような書翰は決して突然変異的に生じてきたものではなく、その出発点からの論理的帰結であり、なるべくしてなったと言ってよいと思います。

日本人キリスト者の多くはキリストの十字架による罪の赦しという贖罪信仰はよく分かりますが、イエス・キリストだけが唯一の主である、という偶像禁止の教えには戸惑います。しかし福音のこの二つの側面は切り離すことができません。十字架の福音に意味があるのは、この贖いをなしてくださったイエス・キリストが、私たちの罪のために死んで復活してくださっただけでなく、やがて再び来られてさばきをなし、すべてを支配される時が来る、という信仰にあってのみです。もし私たちがすべての主であるキリストに従うことをしないなら、十字架の福音はボンヘッファーの言う「安価な恵み」に堕してしまうでしょう。神の唯一性とキリストの絶対的主権性こそ、日本のみならずあらゆる地域の神学の基礎であり、それはまた、真のいのちに溢れた神学が日本においても育っていくために必要な土壌でもあると思うのです。

(終わり)