私の好きな英語の表現で“All Truth Is God’s Truth” (すべての真理は神の真理)というものがあります。キリスト者が聖書と教会の中に真理があると考えるのは当然のことですが、このことばが語っているのは、一見キリスト教とは直接関係ないと思える領域にも真理は見出すことができる、ということです。
もしキリスト教の証しする神が本当にこの宇宙を創造し、今も統べ治めている神であるならば、その神は聖書の中だけに見出される抽象概念ではなく、現実世界のあらゆる領域においても見出される生きた神であるはずです。
古来、神は二冊の本を書かれたと言われます。その二冊とは、「聖書Scripture」と「自然Nature」です。この二つと完全に対応するわけではありませんが、神学では神の啓示を「特殊啓示」と「一般啓示」に分けて考えます。前者は特定の時に限られた人々に対して示される特別な啓示であり、後者は被造物世界を通してすべての人に与えられている神の自己啓示を指します。たとえば、壮大な自然の光景を目にした時に、特に宗教的でない人でもふと神の存在を感じたり、畏怖の念に打たれたりすることがあります。被造物世界の美しさと秩序は、造り主の栄光を反映しているのです。
詩篇の記者は宇宙を通して表される神の栄光について次のように歌っています:
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
(詩篇19篇1-4a節)
同様にパウロも次のように述べています:
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。
(ローマ1章20節a)
さて、「すべての真理は神の真理」とは、このような一般啓示という形で与えられている神についての知識は、信仰者だけでなくすべての人に開かれているということを意味しています。実際、上に引用したローマ書におけるパウロの論点は、神の民であるイスラエルだけでなく、全人類が被造物世界を通して神についての知識を持っており、したがって神への反逆について弁解の余地がない、ということなのです。しかしこのことは、信仰者でない人々にも、原理的にはこの世界の真実の姿を捉えることが可能であることを前提としています。
世界についての真理が少なくとも部分的にはすべての人に開かれていることは重要です。この世には様々な分野の学問が存在し、それぞれの分野において専門の訓練を受けた人々が日夜研究に励み、知識を蓄積しています。真理の全体を捉えることのできる個人は存在しません。特に現代のように専門化が進み、各分野の知識が飛躍的に増大している時代には、すべての分野に精通することは誰にもできません。そこで、自分自身がよく知らない分野については、原則としてその分野の専門家によるコンセンサスを信頼することが必要になってきます。
ある分野の第一人者と言える専門家が、別の分野についてもいつも優れた見識を持っているとは限りません。たとえばノーベル賞を受賞したようなトップクラスの科学者が神や宗教について発言すると、それがメディアでとりあげられ、あたかも権威ある神学的言説であるかのように一般に受け取られることがあります(あくまでも通俗的な受容であって、専門家は相手にしないことが多いです)。科学の世界では誰もがその発言に一目置くような人物であっても、専門外の分野における発言を鵜呑みにしてはならないということは、少し考えれば当然のことですが、実際にはその通りになっていないことが多いようです。
一方、逆の危険性もあります。つまり、宗教の世界で尊敬されている霊的指導者が、自分の専門領域である宗教や神学以外の分野(たとえば自然科学)について的はずれな発言を行い、その分野の専門家(信仰者も含め)の信頼を失ってしまうことがあります。そのようなことは今日に始まったわけではなく、古代教会の時代からありました。たとえば、アウグスティヌスはクリスチャンが自然界の仕組みに関して軽率な発言をして、学識のある異教徒の物笑いになる危険性について述べています(『創世記逐語注解』)。
なぜこのような事態が起こるのでしょうか?それは、「この世の学問は神を前提としておらず、罪によって歪められているため、真理を正しく認識することができない。真の神を知っている信仰者だけが、(神についてだけでなく、世界や人間についての)すべての真理を正しく認識することができる。」という考えが信仰者の間に根強くあるからではないかと思います。
確かに、創造主なる神を認めるか認めないかといった基本的な世界観の違いは、人が世界を認識する仕方にある程度の影響を与えることは考えられます。けれどもそれは、信仰者であるというだけですべての学問領域について特権的な地位を占めることができるということではありません。
たとえば、あるクリスチャンが病気になって、非常に難度の高い心臓の手術をしなければならなくなったとします。その時に、敬虔なクリスチャンだけれども腕前は三流の医師と、無神論者(あるいは他宗教の信者)だけれども一流の医師のどちらかを選ばなければならなくなったとしたら、どちらに手術をしてもらうことを望むでしょうか?おそらく十人中九人は、後者を選ぶと思います。
私たちは、信仰者であろうと無かろうと、この世の様々な学問の恩恵を受け、日常的にそれを利用して生きています。日々車を運転し、携帯電話で連絡を取り合い、病気になれば病院で治療を受けます。そして私たちは、そのような科学技術が信仰者によって開発されたものであるかどうかを詮索したりはしません。それは、たとえ神を信じない人々であっても、理性を使って、神が創造された世界の仕組みを解明することができることを暗に受け入れているからです。
「すべての真理は神の真理」とは、世の中の学問の成果を何でも無批判に受け入れて良いということではありません。学問は常に進歩しており、今日の定説は将来覆されることもありえます。また、人間は自らの知的探求能力のみによって神を見出すことができるということでもありません。しかし、神は人間に理性を与え、 真理を探求する能力を与えられました。キリスト者はこの世の学問に対して敬意を持って接し、謙虚に学んでいくことが必要であると思います。それはキリスト者にとっても決して憂うべきことがらではありません。むしろ、真理がすべての人に開かれていることは、信仰を持たない人々との対話を可能にし、証しの機会を提供するだけでなく、自らの信仰を深めていくためにも重要なことなのです。