使徒たちは聖書をどう読んだか(1)

今月のはじめに日本福音主義神学会の全国研究会議があり、そこで発表の機会が与えられましたので、その内容を元にして、専門外の方々のためにもできるだけ分かりやすく書き直してお分ちしたいと思います。

会議の主題は「福音主義神学、その行くべき方向―聖書信仰と福音主義神学の未来―」というものでした。「福音主義神学会」という名前が付いている会ですので、「福音主義神学」について研究するのは当然なのですが、あえてこのようなテーマが選ばれた背景には、何があるのでしょうか。

「福音主義」を簡単に定義するのは難しいのですが、とりあえずここでは「聖書は誤りなき神のことばである」と信じるプロテスタントの流れであると(あえて単純化して)とらえておきます。上の主題文にも出てきた「聖書信仰」ということが重要なキーワードになります。

つまり、多種多様な教派的背景や神学的立場があっても、「聖書信仰」という一点で一致できるなら、一緒にやっていける、という緩いつながりが「福音主義」の運動であったわけです。(ちなみに、日本のキリスト教会に存在する「福音派」と「聖霊派」という二分法は、海外ではあまり見られません。ペンテコステ・カリスマ派も、広い意味での「福音派」に入れられることが多いです。)

さて、なぜ今回「福音主義神学」と「聖書信仰」が正面から取り上げられたかというと、福音主義の基盤である「聖書信仰」の理解が揺らいでいるという危機意識があるからです。会議の趣旨説明文にはこういうくだりがありました:

今日、その神学的多様性からはもともと当然のことなのではあるが、特に、この広範な広がりを持つ福音派の運動の、軸となる聖書信仰についての揺れから、福音派のIdentityが問われることが多く、福音主義神学も例外ではなくなっている。

つまり、聖書が「霊感された」「誤りなき」「神のことば」であるというのはどういう意味か、聖書はどういう性質を持った書なのか、聖書はどのように「働く」のか・・・といった、基礎的な「聖書信仰」の部分で多様な理解が見られるようになったため、その基礎の上に乗っている「福音主義キリスト教」自体のあり方が問い直されるようになったということです。そこで、もういちど原点である「聖書信仰」を見つめなおし、もし福音主義神学に未来があるなら、それはどのようなものかを探っていこうというのが今回の会議の目的だったのです。

もっと簡単にいうなら、クリスチャンが「聖書が誤りなき神の言葉である」と信じ、聖書に従って日々生きるとはどういうことか?ということが改めて問い直されているのです。これは一部の専門家だけが行う難解な(不毛な?)「神学論争」ではなく、クリスチャン一人ひとりの信仰生活に密接に関わってくることです。

さて、その中で私が発表させていただいたのは「釈義部門」、つまり聖書をどう解釈するか、を考える分野でした。現代の福音主義キリスト教会には標準的な聖書解釈法があります。それは「歴史的・文法的方法」と呼ばれるものです。(これがどういうものかは、次回説明します)この解釈方法を今一度見直してみようというのが、私の発表の論旨でした。誤解を恐れずあえて言うなら、このシリーズでは、「歴史的・文法的方法」が唯一の「聖書的」な解釈法なのか?ということを考えてみようと思います。

(続く)