聖書のグランドナラティヴ再考(1)

聖書を真理の命題を集めた百科事典や道徳の教科書のように読むのではなく、一つの首尾一貫した物語として読むというアプローチは、最近日本でも注目されるようになってきました。私もこのテーマについて書かれた、ヴォーン・ロバーツ著『神の大いなる物語(いのちのことば社)を翻訳させていただきました(過去記事)。

旧新約聖書全巻を貫く「大きな物語」はグランドストーリーgrand storyとか、グランドナラティヴgrand narrativeあるいはメタナラティヴmetanarrativeと呼ばれますが、この記事では「グランドナラティヴ」を用いたいと思います。グランドナラティヴとは、聖書の個々の書巻や細かいエピソードを理解するための背景となる、すべてを包括する大きな物語のことです。

物語(ナラティヴ)には、きまったストーリーライン(プロット、筋)があります。ストーリーラインはいくつかのできごとの意味のあるつながりとして捉えることができます。聖書のグランドナラティヴを考える時、聖書全体がどのようなストーリーラインを持っているかを考えることは大切ですが、これまでいろいろな提案がなされてきました。

その一つは、聖書を次の4つの部分に分けて考えるというものです(たとえばこちらを参照):

  1. 創造
  2. 堕落
  3. 贖い
  4. 回復

また、こちらの過去記事でも紹介しましたが、N・T・ライトは聖書全体を5幕のドラマにたとえ、次のような構成を提案しています:

  1. 創造
  2. 堕落
  3. イスラエル
  4. イエス
  5. 終わりの時代(教会~終末)

ライトの5幕劇のアナロジーは非常に有名になりましたが、他の人々は、6幕(あるいは6章)の構成を提案しました。たとえば、旧約聖書学者のクリストファー・ライトは第6回日本伝道会議の主題講演で、聖書の物語を6幕劇にたとえていました。これは基本的にライトの最終幕を二つに分けて、教会の時代と終末の時代を区別したものと言えます:

  1. 創造
  2. 堕落
  3. イスラエル
  4. イエス
  5. 教会
  6. 新創造

(先に進む前に注意しておきたいのは、このようなグランドナラティヴの構成は、たとえば「創造」については創世記1-2章で語られ、「堕落」については創世記3章で、「新創造」については黙示録で語られる・・・という具合に、実際の聖書テキストの各部分に厳密に対応しているわけではありません。聖書は実際には一つの物語として書かれているわけではなく、たとえば創造については創世記以外にもいろいろな箇所で語られています。「グランドナラティヴ」という概念が示唆しているのは、個別の聖書テクストが前提としている共通した大きなストーリーラインを考えることができる、ということです。)

さて、私自身も、これまでこの6章構成の物語として聖書のグランドナラティヴをとらえるのがいいのではないかと考えてきました。しかし最近、これに少し修正を加えたモデルを考えています。それは、もう一つ要素を増やした7章構成で聖書のグランドナラティヴを理解するということです:

  1. 創造
  2. 悪の起源
  3. 神の民(イスラエル)
  4. イエス・キリスト
  5. 神の民の刷新(教会)
  6. 悪の滅び
  7. 創造の刷新

このような7部構成をとる理由は何でしょうか? それは、こうすることで、聖書のナラティヴ全体を、イエス・キリストを中心とした対称的な集中構造(concentric structure)として考えることができるからです:

A 創造
 B 悪の起源
  C 神の民(イスラエル)
   X イエス・キリスト
  C’ 神の民の刷新(教会)
 B’ 悪の滅び
A’ 創造の刷新

この集中構造においては、4章の「イエス・キリスト」の物語を中心(X)にして、その前後の部分が対称的に並んでいると考えられます。すなわち、1章の「創造」(A)は7章の「創造の刷新」(A’)に、2章の「悪の起源」(B)は6章の「悪の滅び」(B’)に、3章の「神の民(イスラエル)」(C)は5章の「神の民の刷新(教会)」(C’)に、それぞれ対応しています。

このような集中構造、あるいはABB’A’(キアスムスと呼ばれます)のような対称的な構成は聖書に頻繁に登場しますので、聖書全体のストーリーラインを集中構造で理解するというのは、決して新奇なことではありません。そしていうまでもなく、「7」は聖書で「完全」を象徴する数としてしばしば登場します。したがって、この構成は審美的にもすっきりしたものになっているのではないかと思います。

しかも、この構成では十字架と復活をクライマックスとするイエス・キリストの物語が聖書のグランドナラティヴの中心を占める重要な位置にあることが一目瞭然です。かつてドイツの聖書学者ハンス・コンツェルマンは、ルカ文書の救済史理解を「イスラエルの時」「イエスの時」「教会の時」という3区分で表現し、イエスが「時の中心(Die Mitte der Zeit)」であると論じました。コンツェルマンの主張の中には受け入れることができないものがいろいろありますが、イエス・キリストが聖書ナラティヴにおける時の中心であることにはまったく同意します。

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キリストのできごとは救済史の重要な転回点であり、イエスの十字架と復活において、すべてを新しくする神のわざが始まりました。それはまず神の民の刷新(5章)から始まります。神の民はもはやアブラハムの肉体的子孫としてのイスラエル民族ではなく、イエスを主とする多民族共同体としての教会によって定義されます。けれどもそれで終わりではありません。神の救いの計画は、最終的には被造物世界全体の刷新(7章)にまで至るのです(ローマ8章19-22節、黙示録21章1-5節)。パウロが次のように述べている通りです:

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5章17節)

さて、ここで提案しているグランドナラティヴの7章構成モデルには、もう一つ重要な特徴がありますが、それについては次回に述べたいと思います。

続く