藤本満著『聖書信仰』を読む

たいへん素晴らしい本が出版されました。藤本満先生(イムマヌエル綜合伝道団高津キリスト教会牧師・イムマヌエル聖宣神学院教師)による、『聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)です。

聖書信仰

本書は昨年11月に行われた日本福音主義神学会全国研究会議における、藤本先生の発表を元にしています。私もその場にいて先生の発表を拝聴し、深い感銘を受けた者の一人でしたので、本書の出版を心待ちにしていました。出版後早速入手して、研究会議の感動を新たにしつつ読了しました。

本書の主題は、タイトルにもあるように「聖書信仰」です。この言葉は、福音主義キリスト教の核心をなすものとしてしばしば語られますが、それはそもそもどのようなものなのでしょうか?藤本先生は本書の冒頭で次のように述べておられます。

「聖書信仰」という表現には、あたかも聖書を神やキリストと同じく信仰の対象であるかのような印象を与えるので、違和感を覚えるかも知れない。ただ、この日本語の表現は、戦前から岡田稔等が、いわゆる聖書の逐語霊感説・十全霊感説に立つという聖書理解を、当時一世を風靡した高倉徳太郎の『福音主義キリスト教』と区別するために用いてきたことに端を発している。私はこのような「聖書信仰」の定義づけを固守するために本書を記しているのではない。むしろ、「聖書を誤りなき神の言葉」とするという福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証することで、この言葉に含まれる真意を明らかにし、さらに今後の可能性を論じてみようと思っている。(16頁、強調は引用者)

今日の福音主義では、「聖書信仰」は逐語霊感(神の霊感は聖書記者の言葉の選択のレベルにまで及んでいる)、十全霊感(聖書はその全体が霊感されている)、そして無誤性(聖書は科学や歴史に関することがらを含め、すべての内容に関して誤りがない)といった諸概念と関連づけて語られることが多いですが、藤本先生はそのような福音主義の聖書観が形成されてきた歴史的過程を宗教改革にまで遡って丁寧にあとづけ、さらにポストモダニズムなどの現代的課題にも触れながら、将来の可能性を探っておられます。

特に、聖書信仰の歴史をたどることによって、福音主義における聖書理解には歴史的に豊かな多様性があったことを説得力を持って描き出している前半部分の議論はたいへん貴重です。先生ご自身の表現によりますと、福音主義の「聖書信仰」という「水槽の中には複数の流れがあり、その中を泳ぐ魚の種類が多」かった(392頁)ということです。

宗教改革に端を発するプロテスタントの聖書観の歴史は決して単一のラインで発展してきたわけではありません。本書ではそれが大きく二つの流れでとらえられています。一方は17世紀プロテスタント正統主義につながる主知主義的に真理を追求する流れで、これはプリンストン神学からファンダメンタリズムを経て、主にアメリカの保守的な新福音主義に受け継がれ、さらに日本の福音主義にも大きな影響を与えてきました。この流れでは、客観的な真理の啓示としての聖書の側面が強調され、「誤りのない聖書」というア・プリオリな前提から出発して神学の体系を構築していこうとしました。上で述べたような、逐語霊感・十全霊感・無誤性といった今日の福音派に馴染み深い概念はここから生じ、無誤性は自由主義と聖書批評学に対する防波堤の役割を果たすようになっていきます。

もう一つの流れは18世紀の敬虔主義と信仰復興運動につながるもので、神が今日聖書を通して人間に語りかけ救いに導く力という、聖書の機能的・救済論的な側面を強調します。藤本先生は「信仰的な批評学believing criticism」を掲げて、聖書批評学に対してより開かれた態度を見せるイギリス福音主義もこの流れの中に位置づけています。

本書によると、今日のアメリカや日本の福音主義「聖書信仰」に直結する重要な歴史的転回点となったのは、1970年代にアメリカにおいて福音派の保守勢力が、その聖書観を一気に硬化させたことです。1976年にハロルド・リンゼル著『聖書のための戦い』(「 これほどまでに時代を後退させ、過去に論争を蒸し返した本はなかったであろう。 」152頁)が出版され、その2年後には「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」が出されました。この声明は聖書の無誤性を強力に打ちだし、「これまで存在してきた福音主義の聖書理解の『幅』を否定した」ものであったとされています(213頁)。このような限定された形での「聖書信仰」は日本の福音派にも影響を与え、日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が1987年に発表した「聖書の権威に関する宣言」においても、基本的にシカゴ声明の路線が踏襲されています。日本では1980年代に聖書論に関する論争が行われましたが、議論の深まりが見られないまま簡単な幕引きがなされてしまったため、「日本においては、シカゴ宣言によって、福音派の聖書信仰は身動きが取れない定式にはめ込まれることになったのである。」というのが藤本先生の評価です(215頁)。

本書の後半では、近年における聖書論の展開を概観しつつ、福音主義「聖書信仰」の可能性を探るという内容になっています。ここで取り上げられているのは主にシカゴ声明に典型的に見られるようなモダニズム的聖書観にポストモダンの立場から加えられている批判(命題中心主義や基礎付け主義への批判、物語や共同体の強調など)に対して、より柔軟に対話をしていこうとする態度です。

いまやポスト近代による近代の批判は定着しているのではないだろうか。近代主義が批判されれば、近代の思想的背景をもって形づくられた聖書観も批判を受けて当然である。そのような批判がなされるときに、過剰な拒否反応は不要ではないだろうか。(18頁)

このような藤本先生の主張は、前半の歴史的分析で明らかにされた福音主義聖書観の多様性というコンテクストに照らして考える時、決して単なる時流への迎合ではなく、むしろかつての福音主義が持っていた豊かな聖書観を取り戻していこうという呼びかけであることが分かります。ハンス・フライの「寛容な正統主義generous orthodoxy」という表現を引きながら、「福音主義にはそもそも、そのような『寛容さ』が歴史的に備わっていた。」と先生は言われます(393頁)。そして、福音派の教会がそのような素晴らしい歴史的遺産を継承しつつ、新しい考えにもオープンな姿勢で対話を深めていくことが、これからの福音主義の発展のために必要であるというのです。

聖書を誤りなき神の言葉として信じている純粋な信仰に水を差すつもりはない。ただ、信仰者が聖書を読んで様々な疑問を持つとき、それらの疑問を一辺倒に「聖書信仰」という看板で抑えつけ、批評学を批判し、聖書とは本質的にどのような書物であるのか、聖書をめぐる様々な考え方を無視するようであれば、それは先に紹介したマーク・ノルの言う「福音主義のスキャンダル」である。(394頁)

上で見た福音主義聖書論の二つの大きな潮流、すなわちプロテスタント正統主義の流れと敬虔主義の流れからいうと、本書のシンパシーは明らかに後者にあります。しかし、藤本先生は決して前者を敵に回すことは意図していないと明言されます。そこには「あれかこれか」の二者択一ではなく、その多様性をむしろ福音主義の豊かさとして積極的に評価していこうと言う姿勢を見ることができます。

聖書信仰は新たな多くの可能性を取り込んでモザイク的で良いと筆者は思っている。なぜなら、福音主義の聖書信仰は歴史的にそのようなものであったからである。(398頁)

本書は福音派の中ではかなりセンシティブな問題に正面から取り組んだ意欲作といえます。藤本先生の「聖書信仰」理解や個別の論点について同意しない方もおられるかもしれません。しかし、「霊感」や「無誤性」に関する議論がともすると感情的な水掛け論やレッテル貼りに終始してしまう危険性をはらんでいることを考えると、本書のように歴史的なコンテクストの中に議論を位置づけることによって、より冷静で有意義な対話が生まれてくるのではないかと思います。そして、論争を引き起こす可能性のある本書をあえて世に問うた出版社の英断にも拍手を送りたいと思います。教職者・神学生はもちろん、広く福音派のクリスチャンに読んでいただきたい、おすすめの一冊です。