アドベント―夜明けを待ち望む

今日から教会暦ではアドベント(待降節)に入りました。これはクリスマスに先立つ4つ前の日曜日から始まる約4週間の期間を指しますが、西方教会(カトリック・プロテスタント)の暦はアドベントから始まりますので、これらの教会にとっては今日から新しい年を迎えるということになります。

アドベントという言葉はラテン語で「到来」を意味するadventusという言葉から来ています。これはもちろんイエス・キリストの到来を意味していますが、それには二つの意味があります。

まず第一に、この期間は約二千年前にキリストが人となって降誕されたできごとを覚え、それを待ち望む期間です。これはすでに起こったキリスト降誕のできごとを覚え、救い主を待望する神の民イスラエルの祈りに心を合わせる期間ということができるでしょう。

けれども、アドベントの意味は、たとえば日本でいう「もういくつ寝るとお正月」のように、ただクリスマスの祝日を待ち望む準備期間というだけではありません。ここで待ち望まれる「到来」は二千年前のキリストの到来を意味しているだけでなく、やがて将来起こる2度目の到来、再臨を待ち望むという意味合いもあります。地上での歩みを終えたイエスは復活後天に挙げられましたが、やがてこの地上に帰ってくることが約束されています(使徒1章9-11節)。その時キリストは神の国を完成し、王として統べ治められるのです(1コリント15章23-28節)。つまり、アドベントには過去と未来に二回にわたって行われるキリストの到来を待ち望むという、二重の意味があるのです。

このように、救いの歴史においてキリストは二度来られるわけですが、このことを聖書は美しいイメージで表現しています。

「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。(黙示録22章16節)

ヨハネが見た終末についての幻(4章1節「これから後に起るべきこと」)は22章5節までで終わっており、16節の時点でヨハネは彼にとっての現在(紀元1世紀末)に帰ってきていますので、ここで語られている明けの明星としてのイエスは再臨のイエスではなく初臨のイエスを指していることが分かります。

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明けの明星とは金星のことで、日の出に先立って東の空にひときわ明るく輝く星です。この星が昇ると、夜明けが近いことが分かります。同様に、イエスが二千年前に来られたと言うことは、神の救いのドラマが最終段階に入り、神の国の完成がすぐそこまで来ていることを表しています。新約聖書の記者たちは一様に、彼らが終わりの時代に生きていることを意識しており、神の国を完成するためにイエスが再び来られることを待ち望んでいました。パウロはまさに夜明けというイメージを使って、そのことを表現しています。

なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。(ローマ13章11-12節)

初臨のイエスが夜明けの近いことを告げる明けの明星であるなら、再臨のイエスはまさに昇る太陽そのものと言えるでしょう(ルカ1章78節、マラキ4章2節参照)。イエスが二千年前に来られたときには、その存在に気づいたのはごく一部の人々に限られていました。けれどもキリストが再び到来する時、その輝きは世界のすべてを照らし、すべてを明らかにし、新しい時代が始まるのです。

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私たちはキリストの初臨と再臨の間の時代に生きています。いわば、明けの明星が既に輝き、東の空が白み始めていく中、太陽が地平線から昇ってくるのを今か今かと待ち構えている、そういう時代を私たちは生きているのです。

教会にとって、一年が待ち望むことから始まる―これはクリスチャンとしてのアイデンティティの重要な側面を教えてくれると思います。待ち望むことはクリスチャン信仰の重要な特質を表しています。私たちは完成された存在ではありません。常に未完成であり、成長の過程にあり、旅の途上にある存在といえます。教会とは、終わりの時代にあって、キリストの到来、神の国の到来を待ち望む共同体にほかならないのです。

「待つ」ということは、いつも易しいわけではありません。この地上に満ちる悪や苦しみに直面したとき、私たちは旧約時代の神の民のように、「主よ、いつまでなのですか。」(詩篇13篇1節)とうめくこともあります。けれども、すでにキリストが一度来られ、再び来られる約束が与えられている新約時代の私たちは、花婿の到来を待ち望む花嫁の喜びを抱きつつ、 「しかり、わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ。 」と確信を持って祈ることができるのです(黙示録22章20節)。

Veni, Veni, Emmanuel(讃美歌94番「久しく待ちにし」)

 

確かさという名の偶像(23)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第12章「十字架の約束」を取り上げます。

前章でボイドは、私たちが神に対して信仰を持つときに信頼すべきなのは、神が何らかの具体的な祝福を与えてくださるという「約束」ではなく、祝福してくださる神ご自身のご性質であると論じました。この最後の章でボイドは、そのような、私たちが信頼すべき神のご性質は十字架に完全に表れていることを論じていきます。

十字架の中心性

ボイドによると、クリスチャン信仰の中心は十字架です。

すべての余計なものを取り除いたあとに残るのは、ただ十字架のみである。十字架において神はご自分の真のご性質を表され、その愛の力によってご自分の似姿につくり変えられるようにと、私たちを招いておられる。私たちは自分の堕落した利己的な性質が十字架の形をした(cruciform)神のご性質につくり変えられることを信じる。単純明快に言って、これこそ神の国である。(p. 233)

ボイドは、「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」(1コリント2章2節)というパウロの言葉を取り上げ、イエス・キリストの十字架に表されている神のご性質と人間に対する態度こそが、信仰を持つにあたって私たちが信頼を置くべきものであると主張します。そして彼がこれまで論じてきたように、これは信仰の知的土台であり、聖書解釈の中心点でもあります。信仰のすべての側面は、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」を中心としているのです。

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十字架の約束

ボイドは私たちが信頼を置くべき、神が十字架において与えてくださっている三つの約束について語りますが、実際この三つは互いに密接に関係しています。第一は「神がご自身について語られることば」です。私たちと神との関係が人格的契約関係であり、私たちが信頼を置くべきなのが神ご自身のご性質であるなら、神が実際にどのようなお方であるのかを知ること、つまり正しい神観を持つことは信仰の一番の基礎となります。十字架が啓示しているのはまさにそのような神の真の姿であるとボイドは言います。

したがって、人格的契約という文脈で言えば、十字架はまず何よりも私たちの天の花婿の真のご性質の完全な開示であり、彼が私たちを取り扱うにあたって、この犠牲愛に満ちたご性質をあらゆる場合に実証してくださるという約束なのである。そしてこのプロポーズに対して「はい」と言うすべての者にとっての第一の、そしてもっとも重要な責務は、そのことばをそのまま受け取り、私たち自身の彼との関係、そして全ての他者との関係において同じ性質を育んでいくという約束をもって、それに応えることである。(p. 236)

これは信仰者の実際の生活において何を意味しているのでしょうか?ボイドによると、それはたとえば私たちが極度の苦難に遭ったとき(親しい者の死や人間関係の破綻、病気、災害など)、それらの悪が何らかの形で神のご性質を反映していると考えてはならないということです。

私たちがイエスに目を注いでいる限り(ヘブル12章2節)、私たちは神がいつでも私たちの味方であり、決して私たちに敵対されるお方ではないことを信頼できるし、またそうすべきである。私たちが現在経験している五里霧中の戦いにおいて決定的に重要なことは、何が神から来ていて何がそうでないのかを見極めることである。サタンの中心的戦略はいつでも、恐ろしいことを行い、あるいはそうするように他者をそそのかしておいて、その後私たちを欺き、それらの恐ろしいできごとが神に起因するものだと思い込ませようとするものであった。サタンが成功する度合いに応じて、彼は神について私たちが持っているうるわしい心的イメージを損なうことができ、それは今度は私たちの神に対する信頼を損なわせ、私たちがまことのいのちを体験する能力を妨げ、私たちが神の似姿に変えられていくことを妨げるのである。(p. 238)

ボイドは私たちが経験するあらゆることがらのうち、十字架に表された神のご性質を反映していないものはすべて、神以外の存在の意志(人間であれ天使であれ)に帰すべきであると論じます。しかし同時に、神はご自分の意志に反するようなすべての悪に打ち勝つことができることも私たちは信頼することができます。なぜなら神は十字架において敵を出し抜き、彼らが企んだ悪を人類と全被造物の解放という究極的な善に変えられたからです。パウロは次のように言っています。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章28節)

ボイドの解釈によると、ここでパウロは神が(悪も含めて)すべてのことを引き起こしたと言っているのではありません。しかし、誰によって引き起こされたものであれ、すべての状況にあって神は悪から善を生み出すために働いておられるのです。しかも、神はそのことを彼に信頼する人々(「ご計画に従って召された者たち」)と「共に働いて」行われるのです。

このように、ボイドの神学は徹頭徹尾「キリスト中心」「十字架中心」であることが分かります。次回は十字架で神が提示しておられる残りの約束について見ていきたいと思います。

(続く)

 

 

 

 

 

確かさという名の偶像(22)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第11章「神の約束につまずくとき」を取り上げます。

前章でボイドは信仰を行使するとはどういうことかについて述べました。この章ではボイドは信仰の中身について考察します。もし信仰が神に信頼することであるなら、私たちは何について神に信頼すべきなのでしょうか?もし、ボイドが言うように信仰が私たちと神との間の人格的契約関係であり、相互の信頼にもとづいているとするなら、神が私たちに対して信頼できるお方であるとは、何を意味しているのでしょうか?

多くのクリスチャンにとって、「神が信頼できるお方である」とは、彼らに神が「約束」してくださったできごとが成就することを意味しています。具体的な約束の内容は家族の守りであったり、病のいやしであったり、さまざまです。しかし、実際にはすべてのそのような「約束」が成就するわけではありません。ボイドは、幼い時に性的虐待を受けた経験を持つために、神を信頼することができなくなったという若いクリスチャン女性の例について語ります。クリスチャンたちの熱心な祈りにもかかわらず、病がいやされなかったり、家庭に悲劇が起こったりすることもあります。これは神が信頼できないお方であることを意味しているのでしょうか?

多くの教会では、ただ神に信頼して従えば神は彼らを守って祝福してくださるという「魔法の定式」を暗黙の了解としており、信仰者の人生に現実に起こってくるできごとがそれとは合致しないということを指摘するのはタブー視されることがあります。ボイドは、人生におけるさまざまな思い煩いを神に委ねることは重要であるといいます。けれども、それは私たちが願っている守りや祝福を保証するものではない、というのです。

そうあってほしくないという私たちの願いとはうらはらに、人間や天使が下したすべての決断がそれ以降に起こるできごとに影響を与えるような、計り知れないほど複雑な世界においては、ものごとがある仕方ではなく別の仕方で起こることを保証するような魔法の定式は存在しない、というのが本当のところである。(p. 224)

クリスチャンはしばしば「神の約束に信頼する」ことについて語ります。もちろん、それは大切なことですが、神の約束とは実際何であるのかについて考察することは最も重要であるとボイドはいいます。クリスチャンはしばしば、神が実際には約束しておられないものを「約束」と思い込んでいることがあるのです。ボイドは、それは一つには誤った聖書解釈によるものであると言います。

長年にわたる奉仕の中で、私は保守的なクリスチャンたちの中に見られるある傾向に気がついた。それは、聖書の中で約束のように見えるものは何でも、神が彼らに与えておられる約束だと思い込む傾向である。時としてクリスチャンたちは、恐ろしいものとなりうる世界の中で安心感を見出す必要に迫られ、それらの箇所の文脈やオリジナルの意味に注意を払うことをせずに、彼らが探し求めているものを約束しているように見える箇所には手当たり次第にしがみつく傾向があるのである。(p. 224)

しかし、ボイドによると、根本的な問題は信仰に対する誤った理解にあるといいます。つまり、それは信仰faithを信条beliefと同一視し、すべての神学的主題を法律的パラダイムでとらえ、人格的契約covenantと法律的契約contractを混同する傾向のことです。

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ボイドは本書において、聖書的信仰は法律的契約ではなく人格的契約に基づいた概念であることを主張してきました。法律的契約においては、当事者相互の信頼は法的拘束力を持つ文書にありますが、人格的契約においては当事者は相手の人格に信頼を置きます。聖書を探し回って神の「約束」を見つけ、そこに安心感を見出そうとする態度は法律的契約的な態度であるとボイドは言います。しかし、イエスが十字架にかかられたのは、私たちと人格的な契約を結ぼうとする行為でした。そして、このことは私たちが何について神を信頼すべきなのかを考える時に決定的に重要であるとボイドはいいます。

もし私たちが、異教徒が彼らの神々といつもしているように、法律的契約に基づいた取り決めを行うなら、ここで問題になっている「何か」は、私たちを益する具体的なものごとということになり、その場合は聖書をくまなく調べて私たちに益を与えるような隠された条項を探したとしてもおかしくはない。けれども、私たちが結ぶように招かれているのは法律的契約ではなく人格的契約であるので、ここで問題になっている「何か」とは、ただ神のご性質ということに尽きるのである。(p. 230)

したがって、私たちが信仰を持つ時に信頼すべきなのは、神が与えてくださるあれやこれやの具体的祝福ではなく、それを与えてくださる神ご自身のご性質であるということになります。では、私たちが実際に信頼すべきなのは、神のどのようなご性質なのでしょうか?次回はそのことについて見ていきたいと思います。

(続く)

 

 

確かさという名の偶像(21)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第10章「実体的な希望」を取り上げます。

前回取り上げた部分でボイドはマルコ11章24節(「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」)などの箇所に見られるイエスの教えは、祈る時に心理的な確信を持ちさえすれば、その祈りがかなえられるという意味ではない、と論じました。確かにこれらの箇所でイエスは信仰の重要性を語っていますが、それは人格的契約covenant関係に基づく信仰なのです。

それでは、具体的に信仰を持って祈るということは、どういうことを意味しているのでしょうか?ボイドはそれは、想像力(イマジネーション)を使って、祈り求めていることがらがすでに与えられているさまを思い描くことだといいます。

信仰と想像力

まずボイドは、私たちが思考するということはどういうことか、について論じます。多くの人はほとんど意識することはありませんが、実際に私たちがものを考えたり、過去のできごとを思い起こしたり、未来のことを予想したりする時には、私たちは単なる文字情報を繰り返しているのではなく、現実世界での体験を想像力によって再現しているのだ、と言います。

たとえば「今日朝食に何を食べたか思い出してください」と言われてそのようにするとき、私たちは「トースト、卵、コーヒー」といった文字情報を頭に思い浮かべているのではなく、実際に私たちが食べた朝食の様子をビデオをリプレイするように、頭の中で想像しているのです。そこには視覚的イメージだけでなく、音や匂いや味、口の中での感触なども含まれているかもしれません。

ボイドはそのようにして想像力の中で私たちが体験を繰り返す働きのことを「再現するre-present」と言います。(英語でrepresentという言葉は「示す」「思い描く」と言った意味がありますが、ボイドは「再び思い描く」というニュアンスを強調するためにre-presentと綴ります。日本語の「現」という言葉はこのニュアンスをよくとらえていると思います。)私たちが過去や現在や未来のものごとを考える時、私たちは常に想像力を使ってさまざまな体験を脳の中で再現しているのです。これらの「再現」は多くの場合無意識の内に、自動的に行われます。

そしてボイドによると、この想像力によって再現されたイメージが具体的で鮮明なものであればあるほど、それは私たちに強い感情的インパクトを与え、したがって私たちの行動やそのための動機づけに影響を及ぼします。そして、このことは私たちが信仰をどのように行使するかに関わってくるのだとボイドは言います。

ボイドは新約聖書でしばしば、私たちの思いをコントロールすることについて書かれていることにふれ(ローマ12章2節、2コリント10章3-5節、ピリピ4章8節など)、これらの箇所で命じられているのは、真なる情報を記憶して唱えること(それも大切ですが)だけでなく、私たちの脳内でほとんど無意識の内に再現される具体的なイメージをコントロールすることだといいます。なぜなら、私たちの実際の行動、したがって生き方に最も強い影響力を及ぼしているのは、頭で覚えた知的情報ではなく、そのようなイメージだからです。私たちが信仰者としてキリストの似姿につくり変えられていくためには、私たちはしばしば外界からの刺激に対して反射的に脳の中に起こってくるイメージをコントロールすることを覚える必要があるのです。

マルコ11章24節に戻りますと、ボイドはここでイエスが言われているのは、私たちが祈り求めているものごとを、あたかもそれがすでに手元に与えられているかのように頭の中で思い描くことだと言います。

これは前回ボイドが批判していた、確実性追求型信仰モデルによる解釈とどう違うのでしょうか?確実性追求型の信仰では、祈り求めたことが必ず応えられるという確信を持つことが重視されますが、ボイドの信仰理解ではそのような確信を持つことが目的ではありません。そうではなく、そのポイントは想像力を働かせて具体的なイメージを再現することにより、祈り求めていることがらを実現しようと忍耐強く努力していくために必要な動機づけを得るということにあります。確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるという心理的確信を持つことによってそのことが(魔術的に)実現すると考えますので、確信さえあればそのために努力する必要はありません。

また、確実性追求型の信仰では、祈りが応えられるかどうかは、祈り手がどれだけ心の中で強い確信を持つかによってきまります。これは基本的に神との人格的関係を軽視した、法律的契約contract概念に基づく理解といえます。それに対して、想像力を用いて祈り求めているものを再現すること自体は、祈りが応えられることを保証するものではありません。そうではなく、それは神との人格的契約covenant関係の中で、不確実性の中でも、神に対して忠実に歩んでいくための動機付けに過ぎないのです。しかし、私たちが想像力を働かせて自分の思いをコントロールするようになれば、それは私たちの行動パターンを大きく変える力となっていきます。

ボイドはこれに関してヘブル11章1節を取り上げます:

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

ここで口語訳聖書や新共同訳聖書が「確信」、新改訳聖書が「保証」と訳しているギリシア語はhypostasisですが、ボイドはこれは「実体substance」あるいは「実体化substantiating」と訳すべきだと主張します。つまり、信仰とは強い心理的確信を持つことではなく、望んでいることがらを心の中で「実体化」することに他ならないといいます。(他の学者はhypostasisを”reality,” “actuality,” “actualization”などと訳すこともあります。)またボイドは口語訳で「確認」と訳されているelegchosを証拠に基づいた「信念conviction」と訳します。このように考えると、これは前回見たヤコブ書のことばと同じことを言っていることが分かります。

本書で繰り返し述べてきたように、信仰とは確実性を追い求めることではない。それは不確実性のただ中で忠実であり続けようとすることである。・・・私たちが信仰を働かせるというのは、神の約束を実体的なリアリティ(hypostasis)として想像力を持って受け止めることによるのであり、その実体が今度はそれがそのようになるという信念(elegchos)を生み出す。それによって動機づけられることにより、私たちは想像力で思い描いたものが現実化するだろうと思われるような形で行動できるようになっていくのである。(p. 213)

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ある人は、ボイドの主張は欲しいものをありありと思い描くことによってそれを手に入れることができるというニューエイジ的な教えに近いと感じるかもしれません。ボイドはその懸念をよく承知していて、本章でもそのことについて触れています。確かに、ニューエイジャーや一部のクリスチャンが行っているように、想像力を神との人格的関係から切り離して用いていくと、それは魔術的なものになっていく危険があるとボイドも認めていますが、だからといって信仰における想像力の重要性を否定することは、産湯と一緒に赤子を捨ててしまうようなものだと言います。想像力を活用した祈りは肯定的なcataphatic祈りと呼ばれ、キリスト教の霊性神学の中では長い伝統を持っています。ボイドはまた、想像力が私たちの思考や感情において持っている重要な役割について、Escaping the Matrixという著作では神経科学の視点からも論証を試みています。

想像力についてのボイドの見解には必ずしもすべての人が賛同しないかもしれませんが、ボイドの提案するモデルは、確実性追求型信仰に対する一つの有力なオルタナティブを提供していると思われます。

(続く)

 

 

確かさという名の偶像(20)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第10章「実体的な希望」を取り上げます。

本書でボイドは確実性を追求し、疑いを排除するような信仰のあり方を批判してきました。しかし、多くのクリスチャンは、このような「確実性追求型」信仰のモデルには強固な聖書的根拠があると考えています。本章でボイドは、代表的な聖書箇所を二つ取り上げ、はたしてこれらの箇所が「確実性追求型信仰」を支持しているのか、吟味します。

ヤコブ1章6-8節

6  ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 7  そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 8  そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

一見この箇所はこれ以上ないほどストレートに「確実性追求型」信仰を支持しているように見えます。しかし、この箇所は、他のすべての聖書箇所と同じように、前後の文脈の中で理解していかなければなりません。この箇所の直前の5節はこうなっています。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」つまり、この箇所は何でも自分の欲しいものを求めるということではなく、神から知恵を願い求める際に必要な態度を表していることがわかります。

次に、ここで「疑う」と訳されているギリシア語はdiakrinōですが、この言葉は「揺れる」とか「ためらう」とも訳せる言葉です。そしてボイドは、ここでヤコブが語っているのは、神が知恵を与えてくださるかどうかを疑う、ということではなく、神に信頼してこの方に知恵を求めていくか、それとも知恵をこの世に求めていくかという、二つの選択肢の間で揺れ動いている状態をさすのだと言います。つまり、ここでヤコブが問題にしているのは、信仰者が心のなかでどれだけ強い確信を持つことができるかという心理的な問題ではなく、神との関係においていかにこの方に忠実に生きていくかという関係性の問題なのです。つまり、ここでヤコブは、ボイドがこれまで主張してきた人格的契約covenantに基づく信仰について語っているのです。

マルコ11章24節ほか

もう一つの、この主題に関してよく引用される聖書箇所は、マルコ11章24節です。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

ボイドは、この箇所やこれに類する箇所(マタイ18章19節、21章21節、マルコ11章23節、ヨハネ14章13-14節、15章7節、16節、16章23節など)が文字通りに受け取られる時、それらは「偶像礼拝的で、不健康で、奇怪で、時として破滅的な結果をもたらしてきた」と言います(p. 200)。

ボイドはこれらの箇所を文字通りに取るべきではない理由をいくつか挙げますが、その中で興味深いのは、祈りの効果に関する議論です。なぜある祈りは応えられ、別の祈りは応えられないのでしょうか?クリスチャンなら誰でも抱いたことのあるこの疑問について、ボイドはそれに答えるには、いくつもの要因を考慮しなければならないと言います。祈りを受ける人の信仰、祈りの粘り強さや熱心さ、祈りを助けあるいは妨げる霊的勢力の存在、罪の存在・・・。ボイドは、なぜある祈りが応えられるか(あるいは応えられないのか)、さらに言えば、どんなできごとでも、なぜそれがある特定の仕方で起こるのかを知るためには、時のはじめにまで遡って、歴史の方向性に影響を与えたすべてのできごとについての網羅的な知識が必要になると言いますが、もちろんそのようなことは不可能です。それゆえボイドは、祈りがその願っている効果をあらわすかどうかを前もって確実に知ることは不可能であり、心理的な操作によってそうでないかのように振る舞うことは愚かである、と言います。

ボイドは、イエスはこれらの言葉を語られた時、当時のユダヤ人がしばしばしたように誇張表現を用いていたのだと言います。リチャード・ボウカムもイエスが婉曲表現をこのみ、「一見明快な言葉でさえ実は誇張や皮肉だということもある。」と述べています(『イエス入門』98頁)。イエスが誇張表現を好んで用いられたことは、たとえば信仰があれば山をも動かすことができるという教え(マタイ17章20節)や、1万タラント(当時としては天文学的金額)の借金をした人物が出てくるたとえ話(マタイ18章24節)などに見ることができます。したがって、これらの箇所を読むときには、それらが誇張であることを意識して読まなければなりません。

誇張表現は、ある真理の重要性を強調するために、実際にそれが現実世界で持っている細かいニュアンスや原則に対する例外などをそぎ落として、そのエッセンスだけを増幅して語ります。したがって、私たちがそのような聖書箇所を読む時には、そこで語られている原則の重要性を認識する必要がありますが、だからといってそこに書かれている表現のすべてを文字通りに受け取る必要はありません。ですから、たとえば上で引用したマルコ11章24節について、

この聖句では祈り求めるものは「なんでも」与えられると書いてあります。「なんでも」とは、文字通りすべてのことを意味しています。だから、信仰を持ってなんでも祈り求めるなら、それはかならず与えられます!

という人があったとすると、それはイエスが用いられた誇張表現の性質を無視した解釈と言うことができます。確かに私たちは神に信頼して何でも祈り求めていくことが大切ですし、実際神はそれに応えてくださることも多いでしょう。しかし同時にこれは、このように祈れば必ず定められた結果が得られるという「祈りのマニュアル」ではありません。信じて祈っても応えられないことがあるということは、多くの人の体験からも(たとえば、病のいやしのために真摯に祈ってもいやされない場合など)、また聖書的にも(たとえば2コリント12章8-9節のパウロの祈りなど)裏付けられるからです。自動販売機に硬貨を投入してボタンを押せば、必ず飲み物が出てくるようなものではないのです。

ボイドはクリスチャンが聖書の誇張表現を文字通りに受け取ってしまうために起こってくる問題を指摘します:

人々が誇張表現を文字通りに解釈する時、彼らはいつも世界の巨大な複雑さを無視し、誇張的言語において表現されている諸原則を魔法の定式に変えてしまう。彼らはもしあれやこれやのことを行いさえすれば、その魔法の定式が約束していると彼らが信じるものは何でも、それこそ魔法のように入手できることが保証されていると考えることに安心感を覚えるのだ。しかし、ヨブの友人たちがそうであったように、彼らはその魔法の安心感を手に入れる代償として、これらの「約束」が果たされなかったすべての人を犠牲にする。そして同時に、もし彼ら自身あるいは彼らの愛する者がこれらの「果たされなかった」約束の犠牲者になるようなことが起こると、この偽りの安心感によってひどいしっぺ返しを食うことになるのである。(p. 204)

クリスチャンが聖書の誇張表現を文字通り受け取って、それを真摯に追求した結果、それらの箇所にある「約束」と相反する現実に直面した時、彼らの信仰は重大な危機に陥ります。ある人は神に裏切られたと思い、ある人は聖書の真実性を疑い、ある人は信仰がなかったからだと自分を責めます。けれどもそれらは、聖書が最初から意図しているわけではない「約束」にしがみつく見当違いな態度から来ていることが多いのだと思います。

聖書を神のことばとして真剣にとらえ、それを正しく解釈するということは、テキストにある表現を何もかも額面通りに受け取るということとは違います。比喩は比喩として、誇張は誇張として、著者(話者)の意図した読み方で読むことが大切です。実際多くのクリスチャンはこのような読み方を日常的に行っています。たとえば、ダビデが「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」(詩篇6篇6節)と書いているのを読んで、彼が文字通り涙で自分のベッドを漂わせたと考える人はいないでしょう。

しかし、今回見たような信仰に関する箇所は、その文字通りの解釈がさまざまな問題を含んでいるにもかかわらず、なぜか誇張表現であることが忘れられてしまうことが多いようです。このことは、確実性追求型の信仰理解(信仰の強さは心理的確信の強さに比例するという考え)がいかに根強いものであるかを表しています。同時に、ここにはボイドが批判してきた法律的契約contract概念にもとづく信仰理解も見られます。多くの人は、祈りを神との人格的関係にもとづいてとらえるのではなく、法律的取引(「私が神と交わした契約書によると、このように確信を持って祈るなら、神は必ずそれに応えなければならないはずだ」)としてとらえているのではないでしょうか。

つまり、マルコ11章24節のような箇所は、自分の祈りが応えられるという心理的確信を持ちさえすれば、かならずそのとおりになると言っているのではありません。では、この箇所が意味しているのは何なのでしょうか?次回は、聖書的に信仰を行使するとはどういうことなのか、ボイドの見解を紹介していきます。

(続く)

 

復活のキリストにはなぜ傷痕があるのか

現在グレッグ・ボイドのBenefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介記事を連載していますが、そこでボイドは、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、旧約聖書で啓示された神の姿よりも優先するものであり、同時にそれらを解釈するためのレンズであると論じています(第18回第19回)。それに関連してこの記事では、十字架に先行する旧約聖書に描かれている神のイメージだけでなく、その後に来る終末における神観も、十字架のレンズを通して見なければならないということを論じていきたいと思います。

19  その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20  そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 (中略) 25  ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26  八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(ヨハネ20章19-27節)

新約聖書に収められている復活顕現記事の中で、ヨハネの福音書だけが、よみがえったイエスのからだに十字架の傷痕が残っていることを記しています。

The_Incredulity_of_Saint_Thomas_by_Caravaggioカラヴァッジョ「聖トマスの懐疑」

ヨハネの黙示録では、復活のキリストが「小羊」として繰り返し登場しますが、このキリストは「ほふられたと見える」小羊として描かれています。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。(黙示録5章6節)

なぜこの小羊がヨハネにはほふられたと見えたのでしょうか?おそらくこの小羊にはほふらられた時につけられた傷痕が残っていたのかもしれません。

Retable_de_l'Agneau_mystique_(10)ファン・エイク兄弟「神秘の子羊の礼拝」

有名な讃美歌Crown Him with Many Crowns(聖歌179番「おおくのかむり」)の歌詞にも、次のような一節があります。

Crown Him the Lord of love, behold His hands and side,
Those wounds, yet visible above, in beauty glorified.

愛の主に冠をささげよ。彼の手とわきを見よ。
これらの傷は今でも天上で、栄光に輝く麗しさの中で見ることができる。

十字架にかかって死なれたイエスは、三日後に肉体をもってよみがえりました。新約聖書によると、復活したイエスのからだは、霊ではなく物質的な肉体であり、しかも通常の人間の肉体とは異なる性質を持ったものでした。しかし、そのような栄光のからだをもって復活したキリストには、十字架の傷跡が残っていた―この非常に印象的なイメージは、十字架と復活の関係をみごとに表していると思います。一言でいえば、復活は十字架の否定ではなく肯定であり、十字架を通してでなければ理解できないということです。

近年、聖書やキリスト教信仰における復活の重要性が主張されてきています。これまでの「十字架偏重」の神学を見直し、復活の重要性を再評価しなければならない、というのです。私はそのような動きは心から歓迎しますし、確かに復活の教理は大いに強調されなければならないと思っています。しかし、問題はその強調すべき復活をどのように理解するかということです。それは一歩間違えると十字架の中心性を否定するような形の安易な勝利主義的神学に導かれれるおそれがあるのではないかと、私は危惧しています。

歴史における神の救済のドラマは、イエスの十字架によって完結したわけではもちろんありません。三日後にイエスは復活し、それは世の終わりのすべての死者の復活と新天新地の到来に導いていくものでした。ですから、確かに十字架のみを強調する神学は不完全のそしりを免れません。しかし、ここで注意しなければならないのは、十字架は終末にいたる神の物語の単なる通過点ではないということです。それどころか、十字架のできごとは、それ以後の救済史の展開を理解する上でも決定的に重要な鍵を提供しているのです。

たとえば、新約聖書が終末に再臨するイエスをどのように描いているか、それを私たちがどのように解釈すべきかを考えてみましょう。特にヨハネの黙示録は、キリストを悪を滅ぼす戦士として、怒りと裁きの神として描いています(19章11-16節)。多くの人々はこのイメージを文字通り受け取り、再臨のキリストを通して啓示される神の本質は怒りと裁きの神であると考えています。しかし、このような解釈は、黙示録自体においてキリストは同時に一貫して「ほふられた小羊」として描かれていることとも、福音書等でイエスが自己犠牲的な愛の神として啓示されていることとも矛盾します。ですから、私たちは黙示録における暴力的なイエスの描写を文字通り解釈するのではなく、ヨハネが黙示文学における戦う神の伝統的表象を逆用していると考えなければならないのです(このことについては、「黙示録における『福音』」のシリーズを参照してください)。しかし、その時私たちは、黙示録にある戦士としてのイエスのイメージを、十字架につけられた愛のイエスの姿をレンズとして見ていることになります。つまり、十字架上のイエスにおいて啓示された神の姿は、それに先行する旧約聖書の神啓示に優先するだけでなく、それ以後の新約聖書におけるその他の神啓示にも優先するということになります。その意味で、十字架は文字通り全聖書の中心であり、解釈学的転回点なのです。

聖書の終末論のポイントは神の国、つまり神の王なる支配が天だけでなく地にも到来し、すべてをおおいつくす、ということです。復活も新天新地もすべてはこの観点から見ていく必要があります。しかし、問題は、それがどのような種類の支配で、どのように行使されるのか、ということです。十字架が全聖書の中心であるというのは、この終末における神の王的支配もまた、十字架のレンズを通して理解しなければならないことを示しています。つまりそれは黙示録の「バビロン=ローマ」に象徴されているような、力による上からの支配ではなく、十字架のイエスが身をもって示されたような、自己犠牲的な愛によって他者に仕える(マルコ10:42-45、ルカ22:24-30)、そういう「支配」なのです。(この点については、「御国を来たらせたまえ(補)」をお読みください)。そういう意味で、新約聖書の終末論は「十字架形の終末論 cruciform eschatology」と言っても良いかも知れません。

終末における復活や神の国の完成を十字架のレンズを通して見るか見ないかということは、クリスチャン信仰のありかたそのものを大きく左右する、決定的に重要なことであると思います。この点を見誤ってしまうと、復活は単なる「十字架の死や弱さという否定的な効果のキャンセル」という理解になってしまいます。そうすると、死からよみがえったイエスは「本来そうであった」力と栄光に満ちた神として、敵対する者に復讐するために地上に戻ってくる存在として理解されることになります。つまり、このような勝利主義的な理解においては、復活は十字架において示された愛なる神の本質を否定あるいは少なくとも限定するものとしてとらえられてしまいます。しかし復活は十字架の否定でも限定でもありません。復活は十字架を通して啓示された愛なる神の本質を確証する、神の「しかり」なのです。復活のイエスが十字架の傷跡を持ち続けておられるのは、そのことを意味しているのだと思います。

聖書解釈や神学において、イエス・キリストを中心に考える「キリスト中心的 Christocentric」アプローチが語られることがあります。それは確かに重要な考え方であると思いますが、そこで中心に置かれる「キリスト」がどのようにイメージされるか―十字架上の愛のイエスか、それとも力に満ちた裁きの神としての勝利主義的イエスか―によって、その内容は大きく変わってきます。ですから、私は自分の神学を表現する時には「キリスト中心的」という表現より、「十字架中心的 crucicentric」という表現を用いたいと思っています。パウロが「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2章2節)と語っている通りです。

十字架は復活がなければ完結しません。けれども同時に、復活は十字架の光に照らしてはじめて本当に理解できます。復活のイエスのからだに残された十字架の傷跡は、そのことを私たちにいつも思い起こさせてくれるのだと思います。

確かさという名の偶像(19)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第9章「聖書の中心」を取り上げます。

暴力的な神の描写

前回見たように、ボイドは聖書の中心はイエス・キリストであり、十字架上のイエスを通して啓示された神観は、それに先行するすべての啓示に優先し、それらは十字架のイエスというレンズを通して解釈されるべきだ、と主張します。このことが具体的に問題となるのは、旧約聖書に描かれている暴力的な神の姿をどのように解釈したらよいのか、という難問を考える時です。たとえば神がモーセを通してイスラエルに、カナンの先住民の「聖絶」を命じているような箇所です(申命記7章1-2節)。これらの描写は、イエスにおいて啓示された愛の神とは矛盾するように思えます。

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ボイドは旧約聖書も霊感された神のことばであると信じていますので、これらの箇所をただ排除することはしません。また、しばしば弁証論的な文脈で論じられるように、これらの箇所で描写されているできごとは本当はそれほどひどいものではなかったという解釈も取りません。また、巧妙な釈義によって「旧約記者たちが意図したのはそのような暴力的な意味ではなかったのだ」と論じることもしません。そうではなく、ボイドはこれらの暴力的な記述を十字架のレンズを通して解釈する時に、旧約記者たちが意図したオリジナルの意味を超えて、さらに深い意味を読み取っていかなければならないと主張します。そしてボイドは、これらの暴力的な記述が十字架のキリストとただ両立可能だということを示すだけでは不十分だといいます。旧約聖書が霊感された神のことばであり、(前回見たように)聖書霊感の目的がキリストを指し示すことにあるとすれば、これらの暴力的な神の描写がどのようにしてキリストを指し示すことができるのか、を考えなければならないというのです。

ボイドのアプローチは基本的に次のようなものです。彼はこの問題は、キリストが私たちのために罪となり(2コリント5章21節)、のろいとなられた(ガラテヤ3章13節)ことによって、実際には罪のないお方であったにもかかわらず、罪人の姿を取られたことと同様であるといいます:

十字架によって神が本当はどのようなお方であるかが示されたという意識をもって聖書の暴力的描写を読むとき、私たちは神が暴力的に描かれている際その舞台裏で何が起こっているかを認識し始める、と私は主張する。要するに、神は身をかがめて、ある意味で、ご自身が働きかけておられる心のかたくなな民の罪とのろいになられたということだ。それによって神は、実際にはそのようなお方ではないにもかかわらず、暴力を行い、命じる者の姿を取られたのである。(p. 190)

つまり、神が旧約聖書に暴力的に描かれているのは、神の本質が暴力的であることを示しているのではなく、あえて身を低くして民の暴力的な罪深い性質を反映するような(神ご自身の本質とは相容れない)姿で彼らに現れたのだ、というのです。そしてこのようなイスラエルの神の姿は、やがてカルバリーの丘で罪人として処刑されるイエスの姿をはるかに指し示しているのです。

ボイドは、旧約聖書における暴力的な神の描写を私たちがどのように解釈するにせよ、最も大切なことは、十字架上のキリストに表されている、非暴力的な愛の神の姿が神の本当の姿であることに信頼を置くことだ、といいます。さもないと、イエスが表しているのは本当の神の一部に過ぎず、十字架の背後には無慈悲で暴力的な神のもう一つの顔が隠されているということになってしまうからです。

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旧約聖書における暴力的な神の描写を、十字架でいのちを捨てた愛の神イエスを信じる者としてどのように扱ったらよいのか?というのは古来クリスチャンを悩ませてきた問題です。そしてこれはリチャード・ドーキンスなどの無神論者がキリスト教を批判する際にとりあげる定番の主題でもあります。この問題については、大きく分けて二つの対応があるように思います。

一つは、旧約聖書に描かれている神はキリスト教の神とは相容れないものだとして排除する立場です。これは2世紀のマルキオン以来現代にいたるまで根強くある考え方で、この立場の人々は旧約聖書自体をキリスト教には不要なものとして排除することもあります。「旧約聖書の神は怒りと裁きの神であるが、新約聖書の神は愛とゆるしの神である」などと言われることもあります。けれども、このような立場は、新約聖書が旧約聖書との連続性をはっきりと強調している点、イエスや使徒たちが旧約聖書に啓示されているイスラエルの神を唯一のまことの神としていたという点からして説得力を持ちません。

おそらく今日のキリスト教会で広く受け入れられているのは、「神は確かに愛の神であるけれども、同時に聖い神、義なる神、罪を裁かれる神でもある。そしてそのような神の姿は旧約聖書の一見暴力的な描写に表されている。聖書にはどちらの側面も書かれているので、私たちはこの両面を受け入れなければならない。」という立場です。これは確かに、聖書に含まれているさまざまな神の描写をすべて同じ重要性を持つものとして受け入れるなら、必然的に導かれる結論です。しかし、このような立場は前回見たような問題を含んでいます。それは聖書のすべての部分が同じ重要性を持つという、平板で機械的な聖書観に基づいているだけでなく、このような立場から導かれる神観は互いに対立するイメージの混合体となり、実際に人がこの神といのちにあふれる人格的関係を持つことを困難にします。

さらにこの立場にはもう一つの大きな難点があります。もし聖書に描かれた神の本質が愛の神であると同時に暴力的な裁きの神でもあるなら、現在でも神はその両面を持っているはずです。だとすると、今日でも神は「聖絶」を命じられる可能性はあるのでしょうか?これは世界各地で宗教テロが多発する今日、非常に切実な問題であると思います。どのような宗教であれ、その聖典に記された神の描写が暴力的なものであるなら、それが神の本質にかかわるものかどうかによって、その神を信じる者の生き方は大きく左右されてくるはずだからです。

今回ご紹介したボイドのアプローチにすべての人が同意するわけではないと思いますが、上で述べた二つの立場の中間を行く「第三の道」の一つとして興味深い提案ではないかと思います。この問題は非常に難しく、私も個人的に結論が出ているわけではありませんが、ボイドの議論からはいろいろなことを学び、考えさせられています。ちなみに、今回取り上げた問題について、ボイドは近く刊行予定の大著The Crucifixion of the Warrior God(『十字架につけられた闘いの神』)でさらに詳しく論じているとのことです。

ところで、聖書における暴力的な神描写は旧約聖書だけの問題ではありません。新約聖書でも、ヨハネの黙示録などでは、再臨のイエスが一見非常に暴力的な裁きの神として描かれています。このことは、これまで見てきたボイドの議論を無にしてしまうのでしょうか?そうではありません。この点については稿を改めて論じたいと思います。

(続く)