確かさという名の偶像(13)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第6章「法的取引から愛の結びつきへ」を取り上げます。

この章でボイドはまず、「信仰faith」と「信条belief」を区別します。「信条」とはあることがらが正しいという精神的確信です。これに対して、聖書的な「信仰」とは、他の人格と結ばれた関係において相手を信頼すること、また自分が信頼に価する存在になることを意味しています。たとえば、私たちは「1たす1は2である」という数学的真理を信条の意味で「信じる」と言いますが、私たちはその命題と人格的信頼関係にあるわけではありません。反対に、「私は妻(夫)を信じる」と言う時、私たちはただ単に配偶者の存在を認識しているだけではなく、相手との人格的信頼関係があるということを述べているのです。聖書的な「信仰」とは人格的な概念です。

次にボイドは、contractとcovenantという二つの概念を比較します。Contractとcovenantはどちらも「契約」と訳されるように、一見同じようなものととらえられがちですが、この両者の区別をはっきりとつけることが、本書におけるボイドの議論を理解する上で非常に大切です。この二つの言葉を訳し分けるのはとても難しいのですが、この記事ではcontractを「法律的契約」、covenantを「人格的契約」と訳しておきます

ボイドによると、法律的契約は人々の間で結ばれ、法的拘束力をもって相手が合意された契約内容を守ることを保証するものです。これに対して、人格的契約は両者の信頼にもとづいて結ばれるもので、当事者の人格的コミットメントを含むものです。たとえば、自動車販売業者と車の売買に関して契約を結ぶとき、それは「法律的契約contract」です。そこには相手への人格的コミットメントはありません。しかし、結婚の誓約は「人格的契約covenant」であり、互いの信頼関係に基づいて相手への愛と献身を表明するものです。人は相手への信頼に基づいて「人格的契約」を結びますが、逆に「法律的契約」が結ばれるのは、相手を信頼していないというまさにその理由に基づいています。また、「人格的契約」は基本的に相手に対して献身するという他者中心の考え方であるのに対して、「法律的契約」は信頼のおけない相手から自分の利益を守るという自己中心的な概念です。このように、「法律的契約」と「人格的契約」は表面的には同じように見えても、その内実は水と油ほどにも違うものなのです。

さて、聖書における神と人間に結ばれる関係は、この「人格的契約covenant」の方です。聖書には、神が人間と結ばれたさまざまな契約covenantsが記されています。ノア契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約、そしてイエス・キリストを通して結ばれた「新しい契約」です。これらはどれも、神と人間の間の人格的信頼関係に基づいたものです。たしかに聖書には法律的概念も見られます(たとえば神を裁判官として描く箇所など)が、それらはより大きな人格的契約関係の枠組みの中で見ていく必要があるのです。

ところがボイドによると、多くの人々は聖書を「法律的な概念」の視点から読んでいるために、誤った信仰理解に導かれてしまっているのです。西洋のキリスト教、特にプロテスタント教会は伝統的に法律的概念で信仰を理解する傾向があると彼は言います。このような「法律的契約」と「人格的契約」の混乱に「信仰」と「信条」の混乱が加わると、さまざまな問題が起こってきます。それは今日の多くのクリスチャンが発する次のような質問に表されていると言います。

・「私が救われるためには、何を信じなければならないか?」
・「人は救いを失う可能性があるか?そうだとしたら、何をしたらそうなるのか?」
・「どのような行為が特定の罪(たとえば姦淫)にあたるのか?どこまでなら許されるのか?」

このような質問は、「法律的契約」の概念(そして多くの場合、「信仰」ではなく「信条」の理解)に基づいています。そこでは神への信仰は、人格的信頼関係としてではなく、神が定めた法律的契約条項を人間がいかに遺漏なく守ることができるかということで測られます。そうすると、人はいかに神を信頼し、また神に対して誠実に生きるかということよりも、いかに罪を犯さないで裁きを免れるように生きるかということを重視するようになるのです。

ボイドは、聖書の契約を「法律的契約」の観点から誤解することによって、私たちの福音理解そのものが歪められてしまうと警告します。このような観点からは、神は裁判官として、聖書は法律書として理解されることになります。そして人々の永遠の運命は、法律書としての聖書を駆使して正しい神学を身につけるか、あるいは少なくとも正しい神学を教える教師(牧師)の意見に従うことによって、神からの無罪判決をいかに勝ち取ることができるかにかかっている、ということになります。けれどもボイドはそのようなものは「福音(良い知らせ)」ではないと言います。

神は私たちと法律的契約を結ぶことには関心はない。神は正直さと信頼と誠実を特徴とする、深く個人的な、人格的契約の関係を私たちと結ぼうと望んでおられるのである。同様に、救いの主要な意味は、死んだ時に牢獄送りになるのを避けるために無罪判決を受ける、ということではない。第3章で述べたように、それは三位一体の神の持つ豊かないのちと至福の愛の関係に参加することであり、この人生においてそれを体験することである。(p. 120)

*     *     *

本章でボイドが論じている「人格的契約covenant」と「法律的契約contract」の区別はたいへん重要なものだと思います。彼が指摘する通り、私たちは往々にして神との関係を法律的な概念でとらえてしまうことがありますが、そのような信仰理解は私たちの生き方に大きな影響を及ぼしてきます。もちろん、神を愛するがゆえにその戒めを守ることは大切なことです。しかし、法律的な信仰理解では、人は契約条項を事細かに守りながら、神に対する人格的コミットメントなしに生きるということもありうるのです。このような形式主義、律法主義こそ、聖書が繰り返し批判しているものです。

このような「法律的契約」概念は、イエスのたとえの中に出てくる、放蕩息子の兄のことばに良く表れています:

兄は父にむかって言った、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。」(ルカ15章29節)

兄は父の戒めを守るという点においては非の打ち所がありませんでした。しかし、彼の人生は父親に対する愛と信頼によってではなく、父との法律的な契約条項を守ることによって祝福を受けようとするものでした。だから彼は、父がいつも自分とともにいて、父のものは全部自分のものであったにもかかわらず(31節)、その祝福を楽しむことができませんでした。それどころか、父親が相続財産を使い果たして帰ってきた弟を無条件の愛をもって受け入れたことが、彼にはゆるせなかったのです。彼にとっては、まさにそれは「契約違反」の行為でした。

しかし、そんな兄に父親は答えます。「このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」(32節)。父と息子たちとの愛の関係は戒めを守るかどうかと言う法律的契約関係によって規定されているわけではありません。弟は父に受け入れられるために何も良いことをしたわけではありません。自分が息子と呼ばれる資格さえないと思っていました(21節)。しかし、彼はそれでも父を信頼して戻ってきました。そして父はそんな息子を愛をもって受け入れたのです。それによって、父と弟の間の人格的関係は回復しました。そのことは「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」という父の言葉に表されています。父親が喜び祝おうというのは当然でした。

Rembrandt_-_The_Return_of_the_Prodigal_Son_-_WGA19133

レンブラント「放蕩息子の帰還」

このように、聖書における神と人間のあるべき関係は人格的なものであることが分かります。聖書的信仰とは、正しい神学を持っているかどうかということや、罪を犯さないで生きることによって測られるわけではありません。もちろん、正しい神学を持つことや罪を犯さないことは重要ですが、そのように生きていても正しい信仰を持っていないということはありえるのです。そうではなく、信仰とは神に対する愛と信頼に基づく人格的コミットメントということができるでしょう。

放蕩息子のたとえでは、人間社会における親子関係が人格的契約関係の象徴として用いられていますが、次回はもう一つの重要な象徴について見ていきたいと思います。

(続く)

 

 

 

確かさという名の偶像(13)」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: Chapter 5 焚き火のまわりで雪合戦   – 焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇 リンク集

コメントは受け付けていません。