前回はライトの5幕劇のアナロジーを再び取り上げ、聖書のグランドナラティヴの展開の中で、現代に生きる神の民としてふさわしいパフォーマンスをアドリブで行うべきだと述べました。これこそ、現代のキリスト教会が聖書の権威にしたがって生きるということです。ここまでは私はライトに完全に同意します。
けれども私は、一夫一婦制だけが許されるべき結婚のあり方であるというライトの考えには同意しません。同じような聖書解釈を行っているようなのに、なぜ意見が異なるのでしょうか?
そもそも、現代の教会が行う「アドリブ」が良いものであるのかどうかは、どうやって判断するのでしょうか? 即興演技が良いものになるための条件をライトは『聖書と神の権威』176頁以下で列挙していますが、その筆頭に挙げられているのが、「完全に文脈に沿った聖書の読み方」です。そこでライトは、「聖書のすべては『文化的に条件づけられた』もの」であることを指摘し(177頁)、同時に私たち自身が生きている現代の文化的文脈にも注意を払うべきであると述べています(178頁)。
この2点に関して、私も同意見です。これまで述べてきたように、聖書のメッセージのすべてはそれぞれのテクストが書かれた時代の文化に完全に埋め込まれています。同時に忘れてはならないのは、それを解釈する私たち自身も、現代の文化的文脈から自由ではないということです。歴史や文化から完全に自由にされた、客観的な「神のような視点」から聖書を読むことは誰にもできないのです。
にもかかわらず私がライトと異なる結論に至った理由は、聖書が書かれた時代の文化と現代の文化のそれぞれに対する評価の違いがあるからです。まず、ライトが普遍的な原則と見なしている、旧新約聖書に表現されているバイナリー的・異性愛主義的な性の理解を、私は文化相対的なものと考えるところが違います。これについてはすでに述べたので、ここでは繰り返しません(過去記事③を参照)。今回はもう一つの重要なポイントである、現代の文化の中で聖書をどう読むか、という問題について考えたいと思います。
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