黙示録における「福音」(6)

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前回は、黙示録に登場する様々な暴力的なイメージ表現を文字通りに受け取るべきではなく、イエス・キリストの十字架というレンズを通して解釈しなければならいということを述べました。ヨハネはユダヤ教の黙示文学の標準的なイメージ表現を踏襲しながら、それを「小羊」キリストの中心イメージを通して逆転させているのです。

ここまで述べてきたことは、重大な適用上の意義を持っています。すなわち、私たちが黙示録の暴力的なイメージを字義通りに受け取るか、象徴として、十字架のレンズを通して解釈し直すかどうかによって、私たちの神観、キリスト観、また倫理観すら大きく変わってくるのです。

もし世の終わりに神/キリストが文字通り暴力的に世界を裁かれるのであるなら、福音書に描かれている愛のイエスの姿は神の本質を表していないことになります。そればかりでなく、神の民である教会もまた、この世的な力の論理によって歩んでいくべきだということになるでしょう。実際にそのような意見を堂々と公にしている牧師も存在するのです。

たとえば、最近まで米国ワシントン州シアトルにあるMars Hill Churchの牧師であったマーク・ドリスコルMark Driscollは次のように述べたことがあります:

黙示録に出てくるイエスは、脚に刺青を入れ、剣を握りしめ、血に飢えた闘士なんだ。こういうお方こそ、俺が礼拝するにふさわしいお方さ。ヒッピー風の、オムツをした、後光の差したキリスト様なんて礼拝できないね。なぜって、俺がぶちのめせるような奴を礼拝するなんてできっこないじゃないか。

このような思想の背後には、「神は究極的に力をもって悪を滅ぼされる、そしてそれは正しいことである」という前提があります。混沌から秩序をもたらし、悪を滅ぼして正義を実現するためには、暴力に訴えることは善であるという考え、一言で言えば「暴力は<救い>をもたらす」という考えをウォルター・ウィンクWalter Winkは「贖いの暴力の神話Myth of Redemptive Violence」と呼んでいますが、これは古くからあり非常に広範囲な影響力を持つ考え方で、バビロニアの創造神話からハリウッド映画に至るまで、世界の数多くの文化に見出すことができるものです。このような考え方は現代文明においてあまりにも広く深く浸透しているため、最終的に暴力以外の方法で悪に勝利することができるなどということは、ほとんど考えることもできなくなっています。

ドリスコル牧師のように、黙示録の暴力的イメージを文字通り受け取るということは、このような「贖いの暴力の神話」の線に沿った解釈ということになります。現代世界における「贖いの暴力の神話」の圧倒的影響力を考えれば、このような黙示録の読み方が人気があるのはむしろ当然と言えるでしょう。

しかし、黙示録の様々なイメージを象徴として、十字架のレンズを通して解釈することによって、全く違う神観、キリスト観、終末観、倫理観が生まれてくるのです。その根底にあるのは、神が最終的に悪の力に勝利される方法は、「贖いの暴力」ではなく、キリストの十字架に示されている犠牲的な愛である、という考え方です。それは黙示録自体の解釈として妥当なものであるばかりでなく、新約正典全体の神学的枠組みに最も相応しく当てはまる解釈でもあると思います。

このような「十字架による勝利」というパターンは、小羊キリストだけでなく、小羊に従うクリスチャンたちについても当てはまります。黙示録14章1節でヨハネは明らかに軍事的なイメージを用いて、小羊キリストと彼に付き従う教会を描いています。さらに17章では、「獣」やその十本の角に象徴される悪の勢力に対する、キリストと教会の戦いについて書かれています。

彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。(17章14節)

教会はキリストに従い、この世の悪と戦わなければなりません。けれども、教会はどのように戦うべきなのでしょうか?その答えは12章に見出すことができます。

兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(12章11節)

つまり、教会が悪に勝利するのは、イエス・キリストの十字架の贖いと、いのちをかけた忠実な証詞によるのです。2-3章でも復活のキリストはアジヤの七つの教会に対して繰り返し「勝利を得る者は~」と語りかけています。これは戦いのイメージです。しかし、これらのメッセージのどこにも、悪に対して力をもって報いよと述べているところはありません。教会の戦いは徹頭徹尾、十字架でいのちを捨てたイエスの模範に倣うという方法でなされなければならないのです。

それでは、黙示録に出てくる血なまぐさい暴力のイメージはどのように解釈すべきでしょうか? マイケル・ゴーマンMichael J. Gormanによると、黙示録における死と破壊のイメージは、神が実際に裁きをなされる手段を表しているのではなく、神が悪を一掃されるその普遍性と最終性を表しています。ことばによって全宇宙を創造された神は、この世の悪を一掃するのに文字通りの暴力に頼る必要はありません。それはむしろ、新たな創造のことばによってなされます。黙示録における裁きの表現を象徴的に解釈することは、神の力や権威を貶めるのではなく、むしろ字義的解釈よりもそれらをはるかに高めることになるのです。ゴーマンはこのことを「十字架型のcruciform神の力の理解」と呼んでいます。

神が究極的に悪に勝利されることは、黙示録が明確に述べているメッセージであり、そのことに疑問の余地はありません。しかし、神はその目的を「獣」的な「贖いの暴力」によって達成されるのではなく、「小羊」キリストの「十字架型の力」によって成し遂げられます。そして、小羊の軍隊である教会もまた、同じ方法で悪と戦うように召されているのです。

(続く)

黙示録における「福音」(5)

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前回の記事では、黙示録において「ほふられた小羊」としてのキリストのイメージが頻出することから、十字架の贖罪に見られる自己犠牲的な愛が黙示録のメッセージの中心にある、と述べました。そのような愛の神としてのキリストのイメージは、新約聖書の他の文書におけるそれとつながっていくものです。

しかしその一方で、黙示録は終末における神の怒り、力による裁きの描写で満ち溢れているのも事実です。それは6章以降で展開する世の終わりのさばきの描写や、19-20章に描かれる再臨のキリストと悪の勢力との戦いなどに明らかです。黙示録に見られる、この二つの一見相反するような特徴は互いにどのような関係にあると考えたら良いのでしょうか?

この問題を考えるためには、黙示録の言語がどのように機能するのかを考えなければなりません。

聖書を解釈する時の基本的なアプローチは、各書巻がどのような文学類型(ジャンル)に属するかを見極めて、それぞれのジャンルに適した解釈を行っていくことです。(このことについて詳しく学びたい方は、最近邦訳の出た、フィーとスチュワートによる教科書を参照してください。)

ヨハネの黙示録は基本的に黙示文学というジャンルに属しています(この他に預言や手紙としても読むことができますが、煩雑になるのでここでは触れません)。黙示文学の特徴は象徴的な言語を多用することです。つまり、本書に含まれる幻の描写を文字通りに受け取るのではなく、一つ一つのイメージが何を指し示しているのかを解釈することが必要です。

たとえば、黙示録に登場するキリストは口から剣が出た姿で描かれることがあります(1章16節、19章15節)が、ここで、私たちは復活と再臨のキリストの口からは文字通りの剣が出ている、と受け取るべきではありません。これはキリストが神の裁きのことばを宣言することを表す象徴表現です。また、前回とりあげた「小羊」としてのキリストの描写も、文字通りキリストが動物の羊であると言っているわけではありません。つまり、黙示録を読む時には、ヨハネが見る幻の中に登場するイメージをすべて文字通りに受け取るべきではないのです。

それでは、黙示録に登場する様々な暴力的イメージはどのように解釈したらよいのでしょうか?それらは世の終わりに起こる出来事、また神の裁きのありさまをドキュメンタリー映画のように描写したものでしょうか?それとも何か別のものを指し示す象徴なのでしょうか?

(アルブレヒト・デューラー「黙示録の四騎士」)

話は変わりますが、キリスト教においては、神やイエス・キリストをたたえ、信仰を表現するために音楽が重要な役割を果たしています。そして、世界には実に多種多様なスタイルによるキリスト教音楽が存在します。その中でも非常にユニークで興味深いジャンルとして、「クリスチャン・ヘビーメタル」があります。

大音量で歪んだギターサウンド、激しいドラムビート、絶叫するボーカル・・・多くのクリスチャンは、ヘビーメタルという音楽ジャンルそのものがキリスト教信仰とは相容れない、反キリスト的、悪魔的なものと考えているかもしれません(実際、ヘビーメタルのバンドの中には、死や罪や悪魔を礼賛するようなものも数多くあります)。そのような人々にとっては、「クリスチャンのヘビーメタル」というのは矛盾した表現に聞こえるでしょう。

ところが実際には、欧米ではクリスチャン・メタル(「ホワイト・メタル」と呼ばれることもあるそうです)はれっきとした一つのジャンルとして確立しており、数多くのクリスチャン・メタルバンドが存在しています。そのようなバンドはヘビーメタルのアグレッシヴなスタイルを利用して、自らの信仰を表現しているのです。

Pääkallonpaikka

上の画像はフィンランドのクリスチャン・メタルバンド、HBのアルバムジャケットです。骸骨をあしらったアートワークは、一見すると「いかにも」ヘビーメタルといったデザインで、一般のCDショップに置かれていたら、世俗的な悪魔崇拝バンドのCDとまったく見分けがつかないかも知れません。しかし、このアルバムタイトル「Pääkallonpaikka」というのは、フィンランド語で「どくろの場所」という意味です。つまり、このアルバムはイエス・キリストが十字架につけられたカルバリの丘を表現しているのです。そう思ってあらためてこのジャケットを見ると、骸骨に突き刺さっている3本の釘はカルバリの丘の3本の十字架を表し、中央の血塗られた釘はイエスの十字架を表しているのだろうと推測できます。さらに言えば、左側の釘にバンドのロゴが鎖でつながっているのは、イエスと共に十字架につけられた罪人に自分たちをなぞらえているのかもしれません。このHBによるアルバムジャケットは、一般的なヘビーメタルの慣用的イメージを逆用して、福音のメッセージを伝えることに見事に成功していると言えます。

聖書と音楽のアナロジーを考えることが許されるなら、ヨハネの黙示録は新約聖書のヘビーメタルと考えることができます。その音楽スタイルのゆえにクリスチャン・メタルを敬遠するクリスチャンがいるように、黙示録を正典と認めつつも、その暴力的イメージゆえに違和感を覚えるクリスチャンもいると思います。けれども、ヨハネが黙示文学的なスタイルを何の目的でどのように使用しているかを認識することが重要です。メタルミュージックのアグレッシヴなスタイルがそうであるように、黙示文学のグロテスクで暴力的・奇怪なイメージは読み手にショックを与えることによってその意識を覚醒させ、目に見える世界の背後にある超自然的な現実に目を向けさせる効果があります。黙示録においても確かに暴力的な裁きや戦いのイメージが多用されています。しかし、それらのイメージのすべてを文字通りに受け取るべきではありません。むしろ、ちょうどクリスチャンのメタルバンドがヘビーメタルのスタイルを逆用して福音のメッセージを伝えているように、ヨハネは同時代のユダヤの黙示文学に見られた、終末における神の裁きに関する標準的なイメージ表現の手法を逆用していると考えることができます。つまり、この点でヨハネの黙示録のメッセージは一般的なユダヤ教黙示文学のそれとはまったく異なっているのです。

黙示録に込められたヨハネの真にオリジナルなメッセージは、世の終わりや神と悪との戦いという普遍的な問題に対して、「ほふられた小羊」つまりイエス・キリストのレンズを通して見るように、読者に呼びかけているところにあるのです。

(続く)