待ち望むということ

今週からアドベント(待降節)に入り、教会暦では新しい年を迎えました。アドベントについてはこちらの過去記事でも書きましたが、二千年前のキリスト降誕のできごとを思い起こすとともに、キリストの再臨を待ち望むという意味があります。そしてまた、信仰者が1月1日から始まるこの世の暦とは異なる時間のサイクルに生きることは、この世の世界観とは異なる神の国の時空に生きることにほかなりません(これについてはこちらの過去記事を参照してください)。

個人的に、今年の待降節は文字通り「待つ」ということの意味を深く考えさせられています。

ルカ福音書の降誕物語では、イスラエルの救いを待ち望む忠実なユダヤ人が何人も登場しますが、興味深いことにそのほとんどが老人です。バプテスマのヨハネの両親であるザカリヤとエリサベツしかり(1章)、そしてシメオンとアンナしかりです(2章)。彼らは若いヨセフやマリヤとともに、メシアを待ち望む敬虔な神の民イスラエルを代表しているわけですが、ルカはこのイスラエルを、神の約束の実現を待ち望みつつ年老いた民族というイメージで描いているように思われます。つまり、福音書の冒頭部分でルカは、イスラエルに対する神の約束の実現が久しく遅れていた――あるいは少なくとも人間の目にはそのように見えた――ことを読者に伝えようとしているのかもしれません。そしてそれは、今まさに到来しようとしている新時代の幕開けに対する期待を高め、ドラマティックな効果をあげています。

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世代から世代へ:現代イスラエルのメシアニック賛美

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。(黙示録7章9-10節)

私は、さまざまな言語、スタイルで神を賛美する音楽を聴くのが好きです。世界には実にさまざまな言語、種類の音楽があり、それは神が造られた世界の多様性、神の美の多様性とともに、上の黙示録の箇所にあるような、神が贖われた民の多様性を実感させてくれます。

今回は現代イスラエルのメシアニック・ジュー(ナザレのイエスをメシアと信じるユダヤ人)によるヘブライ語の賛美を紹介します。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(3)

その1 その2

アメリカ・ミシシッピ州クラークスデール。ハイウェイ61号線と49号線の交わる十字路に、一人の男が立っていた。時刻は真夜中を回ろうとしていた。男は手に使い古したギターを持ち、何かを、あるいは誰かを待っていた。男の名はロバート・ジョンソン。彼は悪魔と契約を結ぶためにそこに立っていた。おのれの魂を売り渡し、それと引きかえに、ほかの誰にもまねのできないギターの演奏技術を手に入れるために――

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20世紀のポピュラー音楽史に名を残すブルース・マン、ロバート・ジョンソンをめぐるこの「クロスロード伝説」はあまりにも有名ですが、そこには数々の曖昧さが残されています。まず、この逸話の主人公はロバート・ジョンソンではなく、もともとはトミー・ジョンソンという別のブルース・マンの話として語り継がれていたものだといいます。しかしロバートは、自らの超絶的ギターテクニックを売り込むために、すすんでこの「悪魔に魂を売ったギタリスト」のイメージを広めていったのかもしれません。

また、この伝説と絡めて語られることの多いジョンソンの「クロスロード・ブルース」の歌詞には、悪魔はいっさい登場しません。それどころか、この歌の中でジョンソンは十字路にひざまずいて、主なる神に祈りを捧げているのです。 続きを読む

要約すると

1962年のこと、カール・バルトはシカゴ大学のロックフェラー・チャペルで講演をしていました。講演後の質疑応答の時間に、一人の学生が、「先生のこれまでの神学的業績のすべてを一文に要約すると、どのようになりますか?」と訊ねました。

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カール・バルト

この質問に対して、この20世紀最大の神学者は、次の有名な子どもの讃美歌の一節をもって答えたと言われています。

Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so.
(私は知っている。イエス様に愛されていることを。なぜって、聖書にそう書いてあるから。)

簡潔にしてポイントをおさえた、実に素晴らしい要約だと思います。バルトが本当にそのようなことを言ったのかどうか、定かではありませんが、神学者ロジャー・オルソンによると、かなり信憑性は高いようです。彼のブログ(こちらこちら)によると、バルトは1962年のアメリカ講演旅行の中で複数回、このような発言をしたとされています。たとえこれが一種の都市伝説であり、バルト本人の言葉ではなかったとしても、たいへん含蓄のある、味わい深い内容であることに変わりはありません。

聖書が私たちに語りかけているメッセージの中心は、すべての人に注がれるイエス・キリストの愛である――これはバルト一人の神学のみならず、すべての正統的キリスト教神学のエッセンスを凝縮したものといえるでしょう。

この讃美歌の上に引用した一節が神学の要約なら、それに続く次の部分は、クリスチャンの信仰の歩みを要約していると言えるかもしれません。

Little ones to Him belong; they are weak but He is strong.
(小さき者らは主のもの。彼らは弱くても、主は強いお方。)

ここでいうlittle onesとは、単に子どもを指しているのではないと思います。私たちはいくつになっても神の前には小さき者であり、足りない者、弱い者です。けれどもそのような私たちが唯一誇ることができるのは、自分がイエス・キリストに属する存在だということです。このことを自分のアイデンティティとして持つことができるならば、恐れることがありません。なぜなら、たとえ私たちが弱くても(事実その通りですが)、私たちとともにおられる主は強いお方だからです。

聖書の中心はイエス・キリストであり、全聖書はキリストを通して表された神の愛を指し示し、それを証しするものです。その愛はすべての人にわけ隔てなく注がれています。私たちは恵みによって救われ、恵みによって日々導かれている存在です。どれほど神学の研鑽を積み、どれほど信仰の深みを体験したとしても、この中心点から目をそらすことのないように、心していきたいと思わされています。

Yes, Jesus loves me. Yes, Jesus loves me.
Yes, Jesus loves me. The Bible tells me so.

 

 

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(1)

「詩篇はブルースである」

音楽を「キリスト教音楽」と「それ以外の音楽」に分けるのは好きではありません。しかし、あえて「世界でいちばん有名なクリスチャン・バンドは?」と聞かれたら、私なら「U2」と答えるでしょう。ここで「クリスチャン・バンド」とは、「キリスト教信仰に関わる主題や価値観に基づいた歌を歌うバンド」という、非常に広い意味で言っています。U2はいわゆるコンテンポラリー・クリスチャン音楽業界(CCM)の枠にははまらないバンドですし、すべての曲が信仰を題材にしているわけでもありませんが、彼らの歌には信仰に裏打ちされた歌詞を持つものも少なくありません。これらの歌は「クリスチャン・ミュージック」という気負いなしに、信仰者としての葛藤や疑いもストレートに表現しているがゆえに、職業的CCMにありがちな「嘘くささ」や「説教くささ」がなく、逆説的に非常に真実に心に響いてきます。

リードボーカルでバンドのフロントマンでもあるボノはクリスチャンで、その信仰をしばしば公にしていますが、彼は欽定訳聖書の詩篇のために序文を書いたことがあります。その中に「詩篇はブルースである」という言葉があって、深く頷いてしまいました:

12歳の時、僕はダビデのファンだった。彼は身近に感じられた・・・ちょうどポップ・スターが身近に感じられるように。詩篇の言葉は宗教的であると同時に詩的でもあり、彼はスターだった。とてもドラマティックな人物だ。なぜなら、ダビデは預言を成就してイスラエルの王となる前に、ひどい目にあわなければならなかったのだから。彼は亡命を強いられ、国境地帯の誰も知らないような町にある洞窟の中で、エゴが崩壊し、神から見捨てられるような危機に直面した。でもこのメロドラマの面白いところは、ダビデが最初の詩篇を作ったと言われているのはこの時だと言われているということだ。それはブルースだった。僕にはたくさんの詩篇がブルースに感じられる。つまり、人が神に叫んでいるということだ―「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。 遠く離れて私をお救いにならないのですか。 」(詩篇22篇)

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ボノ(Image by Phil Romans via Flickr)

嘆きの詩篇

旧約聖書に収められている150の詩篇には、さまざまな種類のものがあります。もちろん神への賛美や感謝なども含まれていますが、その中でもっとも多いのは、実は「嘆きの詩篇」と呼ばれるものです。詩篇の作者はしばしば敵にいのちを狙われ、自分の罪に打ちひしがれ、絶望の淵をさまよい、夜を徹して神に向かって泣き叫びます。時には敵に対する怒りや憎しみをむき出しにした呪いの表現さえ見られます。

わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
(詩篇6篇6-7節)

これはまさに、「古代イスラエルのブルース」と言ってよいでしょう。

興味深いのは、詩篇は古代イスラエルの公の礼拝によって歌い継がれてきた、いわば公式の賛美歌集のようなものだったということです。神の民の公の集まりで、嘆きの歌がしばしば歌われていたということはとても示唆に富んでいます。

嘆きの詩篇は、一見するとまったく「信仰的」「敬虔」には見えません。しかし、そこには信仰者にとって欠くことのできない、非常に大切な要素が見られます。それは真実を語ることです。

私たちの生きているこの地には、悪と苦しみが満ち溢れています。神を信じていても、その現実から逃れられるわけではありません。そのような現実に直面したとき、私たちは苦しみ、嘆き、うめき、泣き叫びます。人や時には神に対する激しい怒りにさいなまれることさえあります。聖書は、そのような私たちの内側に存在するネガティブな感情を否定しません。それどころか、そのような感情をありのままに神の前に注ぎだしていくことをすすめています。嘆きの詩篇はまさにそのような、信仰者の現実を直視した真実の歌ということができるでしょう。

過去記事にも書きましたが、神に対して、自分に対して正直であること、真実であることは、聖書的な信仰の重要な特質です。もちろん聖書は悲惨な現実を超えた救済の希望について語り、またそのような救いを待ち望みつつ、苦しみの中でも神に信頼し続けることの大切さを教えます。実際、嘆きの詩篇には最後には神への信頼と賛美で終わるものが少なくありません。しかし、詩篇の記者は賛美の前に嘆きの歌を歌う必要がどうしてもあったのです。聖書的な信仰とは、いまここに否定しがたく存在する苦しみから目を背けた現実逃避ではありません。

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振り返って、現代のキリスト教会はどうでしょうか?

詩篇に曲をつけて教会で歌われることは多いですが、嘆きの詩篇を歌っている教会はどのくらいあるでしょうか。より伝統的な教派では、詩篇全巻を特定の期間内に朗唱することがありますが、多くの福音主義プロテスタント教会ではそのような習慣は失われてしまっています。ましてや、信仰者の嘆きをテーマにしたオリジナル曲を歌う教会はほとんどないのではないかと思います。もしそうであるなら、教会は嘆きの言語を失ってしまったと言えるのではないでしょうか。

パウロは「泣く者と共に泣きなさい」と言いました(ローマ12章5節)。しかし多くの教会では、泣く者がいると、その人と共に悲しむというプロセスを経ないで、「泣いてはいけない。信仰を持ちなさい。疑ってはいけない。」と一足飛びにポジティブな結論に辿り着こうとすることが多いような気がします。たとえ善意から出ているものにせよ、そこにはともすれば皮相的な信仰に導き、安易な勝利主義を生み出していく危険性があると思います。クリスチャンの信仰にとって重要なのは、嘆きや悲しみをおおい隠し、敬虔そうな顔をして神を賛美することよりも、苦しみのただ中でも、嘆きが賛美へと変えられていく内面の変革を体験することなのではないでしょうか。そのためにはまず、自分の内面にある嘆きの歌を押し殺さないことが大切であると思います。

主よ、いつまでですか?

U2がライブの最後に歌う定番の曲に、「40」という歌があります。この曲はタイトルが示すように、詩篇40篇に基づいています。サビの”How long to sing this song?“(いつまでこの歌を歌わなければならないのですか)というフレーズは実際には詩篇40篇には出てきませんが、ボノはそれを詩篇6篇から取ったそうです。

「Yahweh」(これもいい曲です)と「40」

“How long?”という叫びは、1972年に北アイルランドで起こった「血の日曜日事件」を題材にした初期の代表曲「Sunday Bloody Sunday」でも聞かれます。この曲も「40」も1983年のアルバム「War」に収録されています。

How long
How long must we sing this song
How long, how long

いつまで
いつまで僕たちはこの歌を歌い続けなければならないのか
いったいいつまで?

そしてこの曲は次のように終わります:

The real battle just begun
To claim the victory Jesus won
On
Sunday Bloody Sunday

本当の戦いは始まったばかりだ
この血みどろの日曜日に
イエスが勝ち取った勝利を主張するために

いつまでですか?」という神への叫びには、目の前に厳然として存在する苦しみの現実と、そこから救い出してくださる神への信頼という、複眼的な信仰の視点が見られます。私たちはこの両者のバランスを大切にしなければならないと思います。

ボノは「いつまでこの(嘆きの)歌を歌わなければならないのですか?」と歌います。けれども現代の多くのキリスト教会では、そもそも嘆きの歌を歌いません。それどころか、教会では嘆きや葛藤の思いをそのまま口にすることは「不信仰」として忌避される場合さえあります。

どちらが真実な聖書的信仰を表していると言えるでしょうか?

主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。(詩篇13篇1節)

(続く)

確かさという名の偶像(7)

(シリーズ過去記事      

今回もグレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きを見ていきます。第2章は今回で最後です。

傲慢と偽善

ボイドによると、確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、それがえてして偽善的になってしまうことです。

クリスチャンも含め多くの宗教の熱心な信者は、自分たち以外の宗教を信じる人々が、彼らはもしかしたら間違っているかも知れないという可能性を考慮しないと言って、それらの人々を批判します。しかし、確実性追求型の信仰は、まさにそのような傲慢な態度を生みやすいと言います。ボイドはこのようなダブル・スタンダードな態度はたいへん偽善的であると言います。彼らが他人に要求する基準を、自分たち自身にあてはめることを拒絶しているからです。

ボイドは、自分自身の信仰に対して疑問を持つことは、クリスチャンにとってもノンクリスチャンにとっても良いことだと言います。これは、いつでもすべてを疑いながら生きていくということではありません。しかし、クリスチャンもノンクリスチャンも、自分たちの信念が間違っているかも知れないという可能性を考慮して、自分の持っている信念を時々批判的に吟味してみることは有益であると言います。

ところが、確実性追求型の信仰者はそのような自己吟味ということができません。既に述べたように、自分の確信に浸りきって生きることは心地よく、自分は間違っているかもしれないという疑いを持つことは辛いことです。しかし、誰であっても、自分が正しいという確信を持つことが楽しいからと言って、自分だけが正しくて他のすべての人が間違っていると思い込むことは、罪とは言わないまでも傲慢なことです。ボイドは「吟味を受けつけない信仰は信じるに値しない信仰である。」と言います(p. 47)。

危険な宗教

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ボイドによると、過激な宗教テロリストの例からも明らかなように、キリスト教も含めて、疑いを抑圧し、確実性の感覚を持つことを人々に強いる宗教は潜在的に危険な宗教なのです。ボイドは、歴史を通じて行われてきた宗教対立にもとづく流血事件の大多数は、人々が確実性のもつ快楽に代えて疑いの持つ苦痛を受け入れることができさえすれば、避けられたかも知れないと言います。なぜなら、神が自分たちの味方であるという確信こそが、人々をして他の人間を殺し、自らも殺されるリスクを負うことを可能にするからです。

このような洞察はボイドだけのものではありません。たとえばボブ・ディランは名曲「神が味方(With God on Our Side)」の中で次のように歌っています。

And you never ask questions
When God’s on your side
神様が味方してくださるときにゃ
質問なんぞしないもんさ

多くのクリスチャンは「キリスト教だけは真理なのだから、疑いをしりぞけ、確実性を追求することが許される。」と考えます。しかし、他宗教の信仰者も自分の宗教について同じことを考えているとボイドは指摘します。そして、もしある宗教が本当に真理であるなら、その真理はそれを信じる者が確信を持つ度合いによって証明されるのではなく、証拠自体がそれを証明するはずだと言います。

真理の追求?

ボイドの最後の論点は非常に逆説的です。彼は、自分の信仰内容が真理であることに確信を持とうと努める人々は、実際にはその信仰内容が真理であるかどうかには関心がないというのです。これはどういう意味でしょうか?

あることがらが真理であるかどうかを判定する理性的な方法は、それが真理であるという主張を裏付ける証拠や議論がどれほど強力であるかどうか、を考察することです。聖霊による促しや他者の証しはこの理性的方法を補うものであって、それに取って代わるものではありません。私たちは日常的にこのような方法を使って、さまざまな主張(たとえば商品の広告文句)が真理であるかどうかを確かめているのです。

しかし、ボイドによると、確実性追求型信仰者はまさにこれとは反対のことをしています。もし私たちの信じている内容が私たちの永遠の運命を左右するのなら、あらゆる方法を使ってその信仰内容の真理性を検証すべきです。しかし、確実性追求型の信仰モデルはその反対に、証拠を理性的に吟味することを拒否し、かえってそれが真理であることを何が何でも信じ込もうと努力することを求めるのです。このことからボイドは、このようなタイプの信仰者は、真理を信じることよりはむしろ、自分たちがすでに真理を信じていると確信し、自分たちが間違っているかもしれないという苦痛を避けることの方に関心があると結論づけます。

確かなことは、人は自分の信じていることがらが真理であるかどうかに関心を持ちながら、同時に自分がすでに信じていることがらが真理だと確信しようと努めることはできないということである。真理を信じるという目標と、自分がすでに真理を信じているという確信を持つという目標とは、互いに排除しあうものなのである。(p. 51)

このことからボイドは、確実性を追求する営みは利己的な追究であるといいます。確実性追求型信仰者は自分たちが真理を追求していると主張しますが、実際のところ彼らが追い求めているのは、確実性の感覚にともなう幸福感を味わい、同時に疑いにともなう苦痛を避けることだからです。

ボイドはこのようなかたちで信仰を追求する人々が真摯な動機を持っていることを疑ってはいません。しかし同時にボイドは、私たち人間がどれほど小さく無知で堕落した存在であり、この曖昧な世界において最善を尽くして真理を知ろうと努力している存在にすぎないかということを正直に認めるべきだと言います。私たちは自分の信じていることがらに対する絶えざる挑戦や反論に直面しながら生きており、その過程でさまざまな信仰内容を修正したり放棄したりすることが起こってくるのは当然なのです。

まとめ

これまでボイドは、確実性追求型信仰の問題点を列挙してきました。2章を読み終えるにあたり、これまでのポイントを整理してみましょう。

1.確実性追求型信仰は、非理性的である。
2.確実性追求型信仰が前提とする神観は、イエス・キリストにおいて啓示された神のイメージとそぐわない。
3.確実性追求型信仰は魔術的である。
4.確実性追求型信仰は硬直した信仰的態度を生み出す。
5.確実性追求型信仰は学ぶことに対する恐れを生み出す。
6.確実性追求型信仰は偽善的傾向を生み出す。
7.確実性追求型信仰は潜在的に危険な宗教を生み出す。
8.確実性追求型信仰は真理の追求には関心がない。

次の第3章でボイドは、彼によれば確実性追求型信仰の持つ最大の問題点について論じていきます。

(続く)

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(2)

その1

本書は3部構成になっています。第1部「ある声の響き」では、人間の持つ渇望について述べ、それらがこの世界を越えた別の世界の存在を指し示していることが語られます。第2部「太陽を見つめる」では、神についてのキリスト教信仰の要点が示され、その中でイスラエル、イエス、聖霊についての「物語(ストーリー)」が概観されていきます。第3部「イメージを反映させる」では「教会」について述べられており、第2部で描写されたような信仰を生きることは何を意味するのか、そしてそれが第1部で語られた人間の渇望に対してどのように応えることができるのかが語られていきます。

さて、今回は第1部について見て行きたいと思います。

第一部 ある声の響き
第1章 この世界を正しいものに
第2章 隠れた泉を慕って
第3章 互いのために造られて
第4章 この地の美しさのために

ここで著者ライトは、人間の持つ4つの飢え渇きについて述べていきます。それは「義への希求」(第1章)、「霊的なことへの渇望」(第2章)、「人間関係への飢え」(第3章)、「美における喜び」(第4章)です。クリスチャンであろうがなかろうが、人間は誰でも公正さや義が行われることを求め、霊性(スピリチュアリティ)・霊的なものに渇き、他者との充実した人間関係を追求し、美しいものに魅了されます。これらの渇望はいつの時代も存在しましたし、(たとえば霊性の場合のように)それを否定したり抑圧しようとしたりする試みはいずれも失敗に終わりました。これらは人間存在が持つ根源的な欲求であると言って良いと思います。

同時に、これらの欲求は決して完全に満たされることがないということをライトは指摘します。誰もが公正や義を求めているにもかかわらず、社会には不正があふれています。書店にはありとあらゆる種類の「霊性」に関する本があふれていますが、そのような雑多な「霊性」の氾濫自体、そして時として起こるそれらの極端で奇異な表現は、霊性のもつとらえどころのなさを暗示しています。人は孤独には耐えられず、結婚関係から国家間の関係に至るまで、他者との良好な関係を築きたいと願っています。しかし、多くの場合そのような願いは離婚や戦争といった悲惨な現実によって打ち砕かれ、いずれにしても死で終わってしまいます。また、誰もが自然や芸術のもつ美に感動した経験を持ちますが、その感動は儚く消えていき、長続きはしません。そもそも何が美しくて何がそうでないのかの判断基準さえ、時代や個人によって変わってくるように思えます。

私たちはこの世界の中で、義の実現や霊的充足や素晴らしい人間関係の喜びや美的体験をほんの束の間味わうことがありますが、それはまるで夢のように私たちの指の間をすり抜けて消えてしまうのです。このような体験をライトは、「ある声の響き」にたとえています。それは、この世界を越えた別の世界から語りかける声を聞くようなものであるといいます。その声も、はっきりとしたものではなく、かすかな残響のようなもので、この世の喧噪に気を取られていると、そういうものがあることすら意識しないかもしれません。けれども、注意深く耳を澄ませるならば、どこか遠いところから誰かの語りかける声が聞こえてきます。それは意味のない雑音ではなく、この世界を越えた別の世界があることを伝える「声」なのです。その声は「いつまでもこうである必要はない」と語りかけます。そしてさらに重要な事は、そのような声が聞こえるということは、その声を発している誰かがいる、ということです。

私たちがこのような夢を見るのは、つまりその声の響きにどこか聞き覚えがあるのは、私たちに語りかけ、耳の奥深くでささやきかける誰かがどこかにいるからだ。それは、現在の世界と私たちのことを深く心配している誰かであり、私たちとこの世界を深く心配している誰かであり、私たちとこの世界を創造した誰かである。その誰かは確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間をも正し、ついには世界を救出するという目的を持っている、というものである。(20頁、強調は原文)

*   *   *

N・T・ライトは第一級の学者であるだけでなく、才気あふれる文章家でもあります。本書でも随所に魅力的な比喩やイメージ表現が散りばめられていますが、今回取り上げた「声」や音楽のメタファーは、本書で重要な役割を果たしています。

この世界を越えたところにあるなにものかを求める人間の渇望から説き起こして神について語るというのは、もちろんライトのオリジナルではありません。たとえばアウグスティヌスは「あなた(神)は、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(『告白』)と書きましたし、C・S・ルイスはこの世界を越えた存在への「憧れSehnsucht」についてしばしば語りました。また彼は『キリスト教の精髄』を、人間に普遍的に備わっている善悪の概念(これは公正さを求める人間の渇望と言い換えることができるでしょう)から説き起こしています。さらに、人間が持っているこの種の渇望は、ライトが本書で取り扱っている4つだけに限られるわけでもないと思います。たとえば、「意味」や「目的」に対する渇望などを加える事もできるでしょう。けれども、キリスト教の入門書をこのような形で始めることは、きわめてオーソドックスかつ有効な戦略であると思われます。

そしてライトは、このような渇望を引き起こすのは、彼方から聞こえてくる「」であるといいます。ここにあるのは「啓示」の概念であり、この世界を越えた世界があることを忘れてしまった人間に対して差し伸べられている神の恵みの御手であると考えることができます。そしてその声は神についての無味乾燥な単なる「情報」を伝えるだけではなく、その声の持ち主の素晴らしさ、美しさを感じさせる「調べ」でもあるのです。

スティーヴ・デウィット牧師は、シカゴのミッドウェイ空港で飛行機の待ち時間にたまたま女性用トイレの側を通りかかった時、凍りついたように足を止めました。トイレの中から、たとえようもなく美しいバイオリンの調べが聞こえてきたのです。その音楽に心を奪われたデウィット牧師は近くの椅子に陣取って、最も場違いに思える場所から聞こえてくる素晴らしい音楽に耳を傾けていました。彼はトイレの中で演奏しているのは誰なのか、あれこれ想像をめぐらしますが、もちろん中に入って確かめることはできません。彼は待ち時間のぎりぎりまでその場にいましたが、ついにその音楽家に会うことはできませんでした。その時の体験を彼はこう語っています。

私はがっかりしました。彼女に会ってお礼を言うことはできませんでした。あの美しい音楽の背後にいる人物と知り合うことは決してできなかったのです。私は幸福感と感嘆の念を味わっただけで、その音楽の創造者に出会うという光栄に浴することはできませんでした。(Steve DeWitt, Eyes Wide Open, p. 6. 強調は引用者)

デウィット牧師は続けて、この世では決して完全に満たされることのない美への渇望は、究極的には神に導いていくと語ります。ライトも本書で美への渇望について取り上げているのは興味深いことです。

ライトは本書を構成する3つの部分を交響曲の楽章にたとえています。交響曲の第1楽章で提示されたテーマが続く楽章で有機的に展開し、結び合わされ、何らかの解決が与えられるように、第1部で提示された「声」のテーマとそれに関するさまざまな問題(なぜそのような声が聞こえるのか、語っているのは誰なのか、その誰かは何を目的としているのか、私たちはどのようにその声に応答すべきなのか、等々)が続く部分でさらに掘り下げられ、著者なりの解答を与えられていくことを見るようになります。本書の終わりでは、キリスト教の福音が霊性や義や関わりや美への渇望に対してどのように応えることができるのかが語られていきます。

(続く)