クリスマスの星

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ・・・彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイの福音書2章1-2、9-10節)

東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを拝みに訪れた話は、聖書にあるクリスマスの物語の中でも、ひときわ印象的なエピソードです。

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教会の降誕劇などでも馴染み深いこの話ですが、一般に知られているストーリーには、聖書に書かれていない要素もあります。 続きを読む

待ち望むということ

今週からアドベント(待降節)に入り、教会暦では新しい年を迎えました。アドベントについてはこちらの過去記事でも書きましたが、二千年前のキリスト降誕のできごとを思い起こすとともに、キリストの再臨を待ち望むという意味があります。そしてまた、信仰者が1月1日から始まるこの世の暦とは異なる時間のサイクルに生きることは、この世の世界観とは異なる神の国の時空に生きることにほかなりません(これについてはこちらの過去記事を参照してください)。

個人的に、今年の待降節は文字通り「待つ」ということの意味を深く考えさせられています。

ルカ福音書の降誕物語では、イスラエルの救いを待ち望む忠実なユダヤ人が何人も登場しますが、興味深いことにそのほとんどが老人です。バプテスマのヨハネの両親であるザカリヤとエリサベツしかり(1章)、そしてシメオンとアンナしかりです(2章)。彼らは若いヨセフやマリヤとともに、メシアを待ち望む敬虔な神の民イスラエルを代表しているわけですが、ルカはこのイスラエルを、神の約束の実現を待ち望みつつ年老いた民族というイメージで描いているように思われます。つまり、福音書の冒頭部分でルカは、イスラエルに対する神の約束の実現が久しく遅れていた――あるいは少なくとも人間の目にはそのように見えた――ことを読者に伝えようとしているのかもしれません。そしてそれは、今まさに到来しようとしている新時代の幕開けに対する期待を高め、ドラマティックな効果をあげています。

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世代から世代へ:現代イスラエルのメシアニック賛美

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。(黙示録7章9-10節)

私は、さまざまな言語、スタイルで神を賛美する音楽を聴くのが好きです。世界には実にさまざまな言語、種類の音楽があり、それは神が造られた世界の多様性、神の美の多様性とともに、上の黙示録の箇所にあるような、神が贖われた民の多様性を実感させてくれます。

今回は現代イスラエルのメシアニック・ジュー(ナザレのイエスをメシアと信じるユダヤ人)によるヘブライ語の賛美を紹介します。 続きを読む

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(3)

その1 その2

アメリカ・ミシシッピ州クラークスデール。ハイウェイ61号線と49号線の交わる十字路に、一人の男が立っていた。時刻は真夜中を回ろうとしていた。男は手に使い古したギターを持ち、何かを、あるいは誰かを待っていた。男の名はロバート・ジョンソン。彼は悪魔と契約を結ぶためにそこに立っていた。おのれの魂を売り渡し、それと引きかえに、ほかの誰にもまねのできないギターの演奏技術を手に入れるために――

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20世紀のポピュラー音楽史に名を残すブルース・マン、ロバート・ジョンソンをめぐるこの「クロスロード伝説」はあまりにも有名ですが、そこには数々の曖昧さが残されています。まず、この逸話の主人公はロバート・ジョンソンではなく、もともとはトミー・ジョンソンという別のブルース・マンの話として語り継がれていたものだといいます。しかしロバートは、自らの超絶的ギターテクニックを売り込むために、すすんでこの「悪魔に魂を売ったギタリスト」のイメージを広めていったのかもしれません。

また、この伝説と絡めて語られることの多いジョンソンの「クロスロード・ブルース」の歌詞には、悪魔はいっさい登場しません。それどころか、この歌の中でジョンソンは十字路にひざまずいて、主なる神に祈りを捧げているのです。 続きを読む

要約すると

1962年のこと、カール・バルトはシカゴ大学のロックフェラー・チャペルで講演をしていました。講演後の質疑応答の時間に、一人の学生が、「先生のこれまでの神学的業績のすべてを一文に要約すると、どのようになりますか?」と訊ねました。

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カール・バルト

この質問に対して、この20世紀最大の神学者は、次の有名な子どもの讃美歌の一節をもって答えたと言われています。

Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so.
(私は知っている。イエス様に愛されていることを。なぜって、聖書にそう書いてあるから。)

簡潔にしてポイントをおさえた、実に素晴らしい要約だと思います。バルトが本当にそのようなことを言ったのかどうか、定かではありませんが、神学者ロジャー・オルソンによると、かなり信憑性は高いようです。彼のブログ(こちらこちら)によると、バルトは1962年のアメリカ講演旅行の中で複数回、このような発言をしたとされています。たとえこれが一種の都市伝説であり、バルト本人の言葉ではなかったとしても、たいへん含蓄のある、味わい深い内容であることに変わりはありません。

聖書が私たちに語りかけているメッセージの中心は、すべての人に注がれるイエス・キリストの愛である――これはバルト一人の神学のみならず、すべての正統的キリスト教神学のエッセンスを凝縮したものといえるでしょう。

この讃美歌の上に引用した一節が神学の要約なら、それに続く次の部分は、クリスチャンの信仰の歩みを要約していると言えるかもしれません。

Little ones to Him belong; they are weak but He is strong.
(小さき者らは主のもの。彼らは弱くても、主は強いお方。)

ここでいうlittle onesとは、単に子どもを指しているのではないと思います。私たちはいくつになっても神の前には小さき者であり、足りない者、弱い者です。けれどもそのような私たちが唯一誇ることができるのは、自分がイエス・キリストに属する存在だということです。このことを自分のアイデンティティとして持つことができるならば、恐れることがありません。なぜなら、たとえ私たちが弱くても(事実その通りですが)、私たちとともにおられる主は強いお方だからです。

聖書の中心はイエス・キリストであり、全聖書はキリストを通して表された神の愛を指し示し、それを証しするものです。その愛はすべての人にわけ隔てなく注がれています。私たちは恵みによって救われ、恵みによって日々導かれている存在です。どれほど神学の研鑽を積み、どれほど信仰の深みを体験したとしても、この中心点から目をそらすことのないように、心していきたいと思わされています。

Yes, Jesus loves me. Yes, Jesus loves me.
Yes, Jesus loves me. The Bible tells me so.

 

 

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(1)

「詩篇はブルースである」

音楽を「キリスト教音楽」と「それ以外の音楽」に分けるのは好きではありません。しかし、あえて「世界でいちばん有名なクリスチャン・バンドは?」と聞かれたら、私なら「U2」と答えるでしょう。ここで「クリスチャン・バンド」とは、「キリスト教信仰に関わる主題や価値観に基づいた歌を歌うバンド」という、非常に広い意味で言っています。U2はいわゆるコンテンポラリー・クリスチャン音楽業界(CCM)の枠にははまらないバンドですし、すべての曲が信仰を題材にしているわけでもありませんが、彼らの歌には信仰に裏打ちされた歌詞を持つものも少なくありません。これらの歌は「クリスチャン・ミュージック」という気負いなしに、信仰者としての葛藤や疑いもストレートに表現しているがゆえに、職業的CCMにありがちな「嘘くささ」や「説教くささ」がなく、逆説的に非常に真実に心に響いてきます。

リードボーカルでバンドのフロントマンでもあるボノはクリスチャンで、その信仰をしばしば公にしていますが、彼は欽定訳聖書の詩篇のために序文を書いたことがあります。その中に「詩篇はブルースである」という言葉があって、深く頷いてしまいました:

12歳の時、僕はダビデのファンだった。彼は身近に感じられた・・・ちょうどポップ・スターが身近に感じられるように。詩篇の言葉は宗教的であると同時に詩的でもあり、彼はスターだった。とてもドラマティックな人物だ。なぜなら、ダビデは預言を成就してイスラエルの王となる前に、ひどい目にあわなければならなかったのだから。彼は亡命を強いられ、国境地帯の誰も知らないような町にある洞窟の中で、エゴが崩壊し、神から見捨てられるような危機に直面した。でもこのメロドラマの面白いところは、ダビデが最初の詩篇を作ったと言われているのはこの時だと言われているということだ。それはブルースだった。僕にはたくさんの詩篇がブルースに感じられる。つまり、人が神に叫んでいるということだ―「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。 遠く離れて私をお救いにならないのですか。 」(詩篇22篇)

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ボノ(Image by Phil Romans via Flickr)

嘆きの詩篇

旧約聖書に収められている150の詩篇には、さまざまな種類のものがあります。もちろん神への賛美や感謝なども含まれていますが、その中でもっとも多いのは、実は「嘆きの詩篇」と呼ばれるものです。詩篇の作者はしばしば敵にいのちを狙われ、自分の罪に打ちひしがれ、絶望の淵をさまよい、夜を徹して神に向かって泣き叫びます。時には敵に対する怒りや憎しみをむき出しにした呪いの表現さえ見られます。

わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
(詩篇6篇6-7節)

これはまさに、「古代イスラエルのブルース」と言ってよいでしょう。

興味深いのは、詩篇は古代イスラエルの公の礼拝によって歌い継がれてきた、いわば公式の賛美歌集のようなものだったということです。神の民の公の集まりで、嘆きの歌がしばしば歌われていたということはとても示唆に富んでいます。

嘆きの詩篇は、一見するとまったく「信仰的」「敬虔」には見えません。しかし、そこには信仰者にとって欠くことのできない、非常に大切な要素が見られます。それは真実を語ることです。

私たちの生きているこの地には、悪と苦しみが満ち溢れています。神を信じていても、その現実から逃れられるわけではありません。そのような現実に直面したとき、私たちは苦しみ、嘆き、うめき、泣き叫びます。人や時には神に対する激しい怒りにさいなまれることさえあります。聖書は、そのような私たちの内側に存在するネガティブな感情を否定しません。それどころか、そのような感情をありのままに神の前に注ぎだしていくことをすすめています。嘆きの詩篇はまさにそのような、信仰者の現実を直視した真実の歌ということができるでしょう。

過去記事にも書きましたが、神に対して、自分に対して正直であること、真実であることは、聖書的な信仰の重要な特質です。もちろん聖書は悲惨な現実を超えた救済の希望について語り、またそのような救いを待ち望みつつ、苦しみの中でも神に信頼し続けることの大切さを教えます。実際、嘆きの詩篇には最後には神への信頼と賛美で終わるものが少なくありません。しかし、詩篇の記者は賛美の前に嘆きの歌を歌う必要がどうしてもあったのです。聖書的な信仰とは、いまここに否定しがたく存在する苦しみから目を背けた現実逃避ではありません。

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振り返って、現代のキリスト教会はどうでしょうか?

詩篇に曲をつけて教会で歌われることは多いですが、嘆きの詩篇を歌っている教会はどのくらいあるでしょうか。より伝統的な教派では、詩篇全巻を特定の期間内に朗唱することがありますが、多くの福音主義プロテスタント教会ではそのような習慣は失われてしまっています。ましてや、信仰者の嘆きをテーマにしたオリジナル曲を歌う教会はほとんどないのではないかと思います。もしそうであるなら、教会は嘆きの言語を失ってしまったと言えるのではないでしょうか。

パウロは「泣く者と共に泣きなさい」と言いました(ローマ12章5節)。しかし多くの教会では、泣く者がいると、その人と共に悲しむというプロセスを経ないで、「泣いてはいけない。信仰を持ちなさい。疑ってはいけない。」と一足飛びにポジティブな結論に辿り着こうとすることが多いような気がします。たとえ善意から出ているものにせよ、そこにはともすれば皮相的な信仰に導き、安易な勝利主義を生み出していく危険性があると思います。クリスチャンの信仰にとって重要なのは、嘆きや悲しみをおおい隠し、敬虔そうな顔をして神を賛美することよりも、苦しみのただ中でも、嘆きが賛美へと変えられていく内面の変革を体験することなのではないでしょうか。そのためにはまず、自分の内面にある嘆きの歌を押し殺さないことが大切であると思います。

主よ、いつまでですか?

U2がライブの最後に歌う定番の曲に、「40」という歌があります。この曲はタイトルが示すように、詩篇40篇に基づいています。サビの”How long to sing this song?“(いつまでこの歌を歌わなければならないのですか)というフレーズは実際には詩篇40篇には出てきませんが、ボノはそれを詩篇6篇から取ったそうです。

「Yahweh」(これもいい曲です)と「40」

“How long?”という叫びは、1972年に北アイルランドで起こった「血の日曜日事件」を題材にした初期の代表曲「Sunday Bloody Sunday」でも聞かれます。この曲も「40」も1983年のアルバム「War」に収録されています。

How long
How long must we sing this song
How long, how long

いつまで
いつまで僕たちはこの歌を歌い続けなければならないのか
いったいいつまで?

そしてこの曲は次のように終わります:

The real battle just begun
To claim the victory Jesus won
On
Sunday Bloody Sunday

本当の戦いは始まったばかりだ
この血みどろの日曜日に
イエスが勝ち取った勝利を主張するために

いつまでですか?」という神への叫びには、目の前に厳然として存在する苦しみの現実と、そこから救い出してくださる神への信頼という、複眼的な信仰の視点が見られます。私たちはこの両者のバランスを大切にしなければならないと思います。

ボノは「いつまでこの(嘆きの)歌を歌わなければならないのですか?」と歌います。けれども現代の多くのキリスト教会では、そもそも嘆きの歌を歌いません。それどころか、教会では嘆きや葛藤の思いをそのまま口にすることは「不信仰」として忌避される場合さえあります。

どちらが真実な聖書的信仰を表していると言えるでしょうか?

主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。(詩篇13篇1節)

(続く)