平和の君(2)

その1

14  キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15  数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16  十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17  それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(エペソ2章14-17節)

前回はエペソ書におけるパウロの議論から、王なるキリストが教会と世界に平和をもたらす方であることを見ました。

ところで、この箇所でパウロは、キリストはこの平和の福音を遠くの人(異邦人)にも、近くの人(ユダヤ人)にも宣べ伝えられた、と述べています(17節)。「平和を宣べ伝える」というと、現代の私たちは何かプラカードを掲げて行進する平和運動の活動家のような存在を想像するかもしれませんが、新約聖書が書かれたローマ時代には、平和をもたらし、平和を宣べ伝えるのは、世界の主である支配者のすることだったのです。

「ローマの平和」とキリストの平和

新約聖書が書かれた当時、ローマは地中海世界を支配し、それらの地域においては空前の平和と繁栄の時代が訪れていました。これを「ローマの平和 Pax Romana」といいます。ローマ帝国は、ローマの支配によって世界に平和が訪れた、と主張しました。特に初代皇帝のアウグストゥスは、ローマの内戦を終わらせて世界に平和をもたらした存在として称賛され、時には神として崇拝されました。「平和 Pax」はローマ帝国の重要な価値概念の一つでした。パクスはまた平和の女神でもあり、アウグストゥスが皇帝になる前に鋳造したコインにもパクスの姿が描かれています。アウグストゥスは前9年、ローマに平和の祭壇Ara Pacisを築きました。しかし、アウグストゥスはまた、「平和は勝利を通してもたらされる」とも言いました。ローマの平和と繁栄は強力な軍隊による広大な地域の征服を前提としていたのです。

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平和の女神Pax(右)をあしらったコイン
(Image by Classical Numismatic Group, Inc.  via Wikimedia Commons

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平和の祭壇
(Image by  Manfred Heyde via Wikimedia Commons

つまり、パウロがエペソ書を書いた当時のローマ市民は、「平和」と言えばローマの平和、ローマ皇帝が力によってもたらした平和、と考えていたのです。けれどもパウロは、真の平和は皇帝ではなくイエス・キリストによって与えられると言うのです。つまりパウロは、ローマ皇帝ではなくイエス・キリストこそが世界の主であると言っているのです。

ローマの平和と同じく、キリストによる平和もまた、戦いによって勝ち取られる平和です。しかし、その戦いの性格はローマ皇帝のものとは全く異なっています。キリストは天にあって神に敵対する霊的勢力に勝利されました(エペソ1章20-22節)。その勝利のモニュメントとして神が地上に建設しているのが、平和の祭壇ならぬ神の宮としての教会です(2章20-22節)。そして教会は地においてその戦いを継続する存在です(6章10-20節)。(エペソ書における霊的戦いについては過去記事「エペソ書とキリストの戦い」をご覧ください。)そして、キリストの勝利はローマ皇帝がしたような暴力的な軍事力とはまったく正反対の方法によって勝ち取られました。この「平和の君」はローマの支配下にあったユダヤの寒村に貧しい幼子として生まれ、まさにローマの暴力的支配の象徴である十字架につけられて殺されることになります。けれども神はこのキリストをよみがえらせ、すべての敵よりも高く挙げられました。

キリストの平和を宣べ伝える

さて、エペソ2章17節に戻りますと、キリストは遠くの者にも近くの者にも平和を宣べ伝えられた、とあります。しかし、「キリストが平和を宣べ伝えられた」とは何を意味しているのでしょうか?上にも述べたように、平和を宣べ伝えるというのは、世界の支配者のすることでした。しかし、ローマ皇帝自身が実際に帝国中をくまなく行きめぐって平和を宣べ伝えるわけではありません。実際に平和の知らせを宣べ伝えたのは、彼の臣下たちだったのです。パウロはこの節で「遠くにいたあなたがたに平和を宣べ」と書いていますが、本書の読者である小アジアの異邦人たちに実際に平和の福音を宣べ伝えたのは、パウロ自身でした(使徒18章19節、19章1節以下)。つまり、王であるキリストご自身は天の父なる神の右に着座しており、地上ではそのしもべである使徒たちが地上においてキリストの平和を宣べ伝えているのです。あるいは、キリストの霊である聖霊が使徒たちを満たしていたということから、キリストご自身が平和を宣べ伝えた、と理解することもできるでしょう。

いずれにしても、王なるキリストが実現した平和を宣べ伝えるのは、クリスチャンの務めであることは明らかです。新約聖書ではこのことをさまざまな箇所に見ることができます。すでに公生涯においてイエスは弟子たちを「平和をつくり出す人たち」と呼び(マタイ5章9節)、弟子たちは遣わされた先の家で「平和がこの家にあるように」と告げるように命じられました(ルカ10章5節。ここのギリシア語エイレーネーは多くの日本語訳聖書では「平安」と訳されていますが、個人的には「平和」と訳す方がよいと思います)。パウロが手紙の冒頭の挨拶として好んで用いた表現は、父なる神とイエス・キリストから「恵みと平和(平安)があるように」というものでした。さらに、パウロはエペソ6章の神の武具の箇所で、クリスチャンたちに「平和の福音の備え」を足にはきなさいと命じています(15節)。ちょうどローマ皇帝のもたらした平和を、ローマの役人や兵士たちがその領土の隅々にまで告げ知らせたように、キリストのしもべであり兵士でもあるクリスチャンは、キリストの平和を地の果てにまで宣べ伝える存在です。そしてそのことは、私たちがイエスの十字架に従って生きる時になされていくのだと思います。

クリスマスは、「平和の君」として来られたイエス・キリストの降誕をお祝いする時です。それは同時に、キリストの到来によってもたらされた平和を宣べ伝える教会の務めを改めて思い起こす時でもあると思います。

平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ ほめたたえよ
(讃美歌112番「もろびとこぞりて」)

エペソ書とキリストの戦い(5)

その1 その2 その3 その4

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回が最終回です。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

この箇所でパウロはギリシア語の動詞の二人称複数命令形を用いて、「(あなたがたは)武具を取りなさい」と命じているのに、「武具(パノプリア)」という言葉は単数形で書かれています。前回4章1節の「召し」についても同様のことを見ましたが、この戦いは個々のクリスチャンがばらばらに戦う「個人戦」ではなく、教会全体が一致して戦うべき「団体戦」だと言えます。前回も見たように、パウロの手紙を個人主義的な視点からではなく、共同体的(教会的)な視点から読むことはたいへん重要です。しかも、エペソ書において「教会(エクレーシア)」と言うことばは個別の地域教会ではなく、キリストのからだとしての普遍的教会をさして使われています。霊的戦いはすべてのキリスト者が一致して行うべきものなのです。

神の武具のイメージは、旧約聖書や中間時代の文書にも見出すことができます。たとえばイザヤ書では神とそのメシヤが武具を身にまとう様子が描かれています。

主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。(59章17節)

正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。(11章5節。メシヤについての説明)

つまり、パウロが(共同体としての)教会が身に着けるべきものとして語っている武具は、神ご自身またはキリスト(メシヤ)が身に着けるものとして旧約聖書に語られているものです。このことからも、霊的戦いが地上におけるキリストのからだとしての教会が行うものであるという、上で述べた主張が裏付けられます。パウロは共同体としての教会全体があたかもひとりの戦士であるかのようにイメージしていることが分かります。これは、キリストが十字架によって教会を「ひとりの新しい人」に造り上げた(2章15節)という内容ともつながります。

これらの武具の比喩の細部についてあまりうがった解釈をしてはなりません(たとえば救いのかぶとは頭脳つまり理性を守るものである、等々)。神の武具としての「胸当」はエペソ書では「正義」となっていますが、1テサロニケ5章8節では「信仰と愛」になっています。このことはパウロ自身、特定の武具の比喩とクリスチャンの霊的性質との間に厳密な一対一の対応関係を考えていたわけではないことを示しています。もし私たちが霊的武具の比喩をあまり字義通りに解釈するようになると、アニミズム的信仰に陥る危険があります。

個々の武具の比喩についての詳しい説明もここではしませんので、興味のある方は注解書等を参照していただきたいと思いますが、重要なのは、ここでパウロが語っている内容は、すべて本書の他の箇所でも語られている内容だということです。神の武具としてパウロが列挙している概念とそれに関連する語が本書のどのような箇所に出てくるかを見てみましょう。

・真理(真実):1章13節、4章21、24、25節、5章9節
・正義(義):4章24節、5章9節
・平和(平安):1章2節、2章14、15、17節、4章3節、6章23節
・福音:3章6節、6章19節
・信仰:1章15節、2章8節、3章12、17節、4章5、13節、6章23節
・救い(救う・救い主):2章5、8節、5章23節
・(神の)ことば:1章13節、5章26節、6章19節
・祈り:1章16節

つまり、これらの武具を身に着けて戦うとは、何か特殊なことをすることではなく、パウロがこれまで本書で語ってきたような、神に召された民としての教会の歩みを忠実に行っていくことにほかならないのです。そうしていく時、私たちは霊的な敵対勢力に勝利していくことができるのです。

まとめ

霊的戦いはエペソ書を貫く重要な主題の一つです。本書はおそらくエペソ周辺の諸教会で回覧されることを意図して書かれたもので、パウロの手紙の中でも普遍的な性格の強いものです。この手紙でパウロが展開している霊的戦いの教えも、特定の地域教会の特殊な実践について述べたものではなく、広くキリスト教会一般に適用すべきものであると思われます。

パウロにとって霊的戦いとは何よりも、神とキリストがご自分に敵対する霊的勢力と戦う宇宙規模の闘争であることが分かります。復活して神の右に挙げられたキリストは、天においてすべての敵対勢力よりも優位に立っておられます。これらの敵は世の終わりには滅ぼされる定めになっていますが、現在のところは戦いが継続しています。それは、地上においてキリストのからだとして建て上げられつつある教会を通してなされるのです。

6章でパウロが教える霊的戦いを個人主義的な視点から理解してはなりません。それは教会全体が共同体として戦う戦いであり、しかもそれは、1章で語られている、天におけるキリストの戦いの地上におけるカウンターパートなのです。

教会は天と地が出会う場です。地において教会が、歴史の中で展開する神の救いの計画の中で与えられている召しにふさわしく歩む(4章1節)とき、天と地がつながり、キリストのからだとして正しく機能することができます。そしてそのような教会を通して、神の知恵が敵対勢力に対して示されていきます(3章10節)。これこそが、教会のなすべき霊的戦いにほかなりません。

このシリーズのタイトルを「エペソ書とキリストの戦い」と付けたのには理由があります。霊的戦いはキリストご自身の戦いなのです。パウロがエペソ書で教えている霊的戦いとは、教会がその召しにふさわしく歩むことによって、キリストの戦いに参加することにほかならないのです。

エペソ書とキリストの戦い(4)

その1 その2 その3

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回は、6章の「神の武具」の箇所についてさらに見ていきます。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

パウロは10節で「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 」と言います。ここの表現はギリシア語の動詞の受動態(「強められなさい」)が使われており、動作主が神ご自身であることを暗示しています。キリスト者は自分の力で強くなるのではなく、神によって強めていただく必要があります。ここで彼はゼカリヤ書10章12節を念頭に置いているのかもしれません。

わたしは主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると主は言われる。(新共同訳)

ゼカリヤ書のこの章は捕囚からの民の帰還を描いたものであり、パウロは世の終わりに主が集められた神の民として教会が強められる様子をイメージしていたのかもしれません。エペソ書では「主」はキリストを指しますが、「主にあって」という表現はパウロの手紙の重要な鍵概念である「キリストにあるin Christ」とのつながりも無視できません。つまり、クリスチャンは「キリストにある」という教会の枠組みの中でなければ、強められることはないのです。言い換えれば、教会につながらないで一匹狼で霊的戦いをすることはできないということです。

10節で「その偉大な力」と訳されているギリシア語の表現は1章19節でも出てきます。つまりこれはキリストにあって教会の内に働く神の力のことを言っているのです。さらに、12節に出てくる「支配(アルケー)」や「権威(エクスーシア)」は1章21節に出てきたものと同じ存在です。これらのことから、パウロが6章で論じている教会の戦いと、1章で語っていたキリストの戦いが非常に密接なつながりを持っていることが分かります。パウロは1章で、神の右の座に挙げられたキリストが天における霊的敵対勢力に対して優位に立たれたことを述べています。霊的戦いにおけるキリスト者の力は、主であるキリストがすべての霊的敵対勢力に対して持っておられる権威なのです。

1章でキリストが天において勝利しておられる相手と、6章で教会が戦うべき相手が同じであることはたいへん重要です。私たちは地上において、キリストの戦いを継続しているのです。それは、教会がキリストをかしらとする(1章22節)、キリストのからだであることから当然導かれることです。天における戦いと地における戦いは別々のものではないのです。

12節に出てくる様々な霊的敵対勢力の名前について詳しく述べることはしません。ここではパウロがあらゆる種類の悪しき霊的存在について包括的に語っていることが理解できれば十分です。これらの敵はノンクリスチャンを支配している(2章2節参照)だけでなく、クリスチャンに対しても攻撃を仕掛けてきます。それをパウロは「策略」(11節)といいます。敵の攻撃はすぐにそれと分かるものではなく、策略として巧妙に仕掛けられてくるものであることが分かります。クリスチャンがそれに惑わされていくと、教会が召しにしたがって歩むことが妨げられてしまいます。エペソ書の内容から考えると、「悪魔の策略」とは、知らず知らずのうちに教会に入り込んで堕落させ、その本来の召しから外れた歩みをさせようとするような、この世の価値観や文化、罪の誘惑といったものであると考えられます。「主権」や「力」はそのような策略を持ってこの世を支配しているだけでなく、教会をもその流れに巻き込もうとしているのです。教会はこのような策略を見抜き、それに立ち向かわなければなりません。

クリスチャンはこれらの敵の策略に対してどう戦うべきでしょうか?それは、4章1節にあるように、教会の召しにふさわしく歩むことであり、神の国の価値観(その究極の表現は十字架で表された自己犠牲的な愛です)に従って生きることです。それは具体的にはパウロが4章後半から述べてきたことですが、彼は終わりにあたってそのようなクリスチャンの戦いを、「武具」の比喩を用いて要約しているのです。

(続く)

 

エペソ書とキリストの戦い(3)

その1 その2

このミニシリーズではエペソ書における霊的戦いについて概観していますが、今回は後半の4-6章について見ていきます。

エペソ書6章の有名な「神の武具」の箇所を考えるとき、この部分が4章から始まる倫理的奨励の長いセクションに含まれていることを理解することは決定的に重要です。

3章までの前半部分でパウロは、歴史の中で神が展開してこられた救いの計画について述べ、その中で教会がどのような役割を与えているのかを説明してきました。それを受けて4章冒頭ではこう語られています:

1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、2  できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、3  平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。(エペソ4章1-3節)

この部分は4章から6章まで続く倫理的奨励のセクションの要約といって良い部分です。ここでパウロは「召し」について語りますが、これはクリスチャン個人の召し(「自分は牧師に召されている」等)について語っているのではありません。ここでパウロは読者に対して「あなたがた」と複数形で語りかけていますが、「召し(クレーシス)」というギリシア語の名詞は単数形が使われています。つまり、ここでパウロが語っているのは、教会全体に与えられたただ一つの召し、すなわち、神の救いの計画の中で教会に与えられた役割について語っているのです。このように、パウロの手紙を近代的な個人主義の視点からではなく、共同体的な視点から読むことは大変重要です。

すでに見たように、神はキリストの復活と高挙を通して天にある支配や権威に勝利され、その祈念碑として地上に教会を打ち立てられました。この教会は、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つとなることによって、天における敵対勢力の破壊的なわざをキャンセルし、神の知恵をこれらの霊的存在に対して知らしめる存在です。教会はこのような「召し」にふさわしい歩みをしていかなければならないとパウロは言います。「召し」をこのように理解すると、なぜ4章冒頭でパウロが教会の一致を強調しているかが理解しやすくなります。

この後、パウロは教会が一致し、愛によって建てあげられていくべきことをさまざまな角度から教えていきます。教会や家庭内における人間関係についてのパウロの教えは、このような「教会の召し」に照らして考えていかなければなりません。

さて、4章から続く長い倫理的奨励のセクションの最後は「神の武具」についての教え(6章10-20節)でしめくくられます。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

ここで注意しなければならないのは、パウロは手紙の最後になって、突然取ってつけたように霊的戦いについて語り始めているわけではない、ということです。すでに見たように、霊的戦いのテーマは1章から6章まで、エペソ書全体を貫く一貫したテーマでした。パウロにとって霊的戦いとは、まず天においてキリストが敵対する霊的勢力に勝利されたということであり、その勝利を受けて教会が地上において行う戦いです。したがって、ここでパウロが語っている戦いは、ごく限られた専門家が行うべき特殊なミニストリーではありません。パウロは悪霊追い出しにすら直接言及していないのです。(意外に思う人もあるかも知れませんが、パウロの手紙の中で悪霊追い出しについて述べている箇所は一つもありません)。

4章からパウロは教会がその「召し」にふさわしく歩むため、クリスチャンが具体的にどのように信仰生活を送っていくべきか、実践的アドバイスを与えてきました。そのような文脈の中でパウロは霊的戦いについて語りはじめます。つまり、ここで語られているのは、すべてのクリスチャンの日常の信仰生活における戦いなのです。だからといって、そのような戦いが重要でないとかレベルが低いということではありません。教会の霊的戦いは、天にある「支配」や「権威」といった霊的存在に対して大きな力を持っているのです。

次回は、「神の武具」の箇所についてさらに深く見ていきます。

(続く)

 

エペソ書とキリストの戦い(2)

前回に引き続いて、エペソ書における霊的戦いについて概観します。

エペソ書3章でパウロはふたたび神の「奥義」について語りますが、その表現は1章10節とは少し異なっています:

5  この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。 6  それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。(エペソ3章5-6節)

これは1章10節にあった「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」という内容のうち、地上における神の働きの中身をより詳しく説明したものと言ってよいでしょう。パウロはこの「奥義にあずかる務」(3章9節)に携わるようになりました。その目的がすぐ次の箇所に書かれています。

10  それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、  11  わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。(3章10-11節)

このような知恵が支配や権威(前回見たように、これらは神に敵対する霊的存在をさしています)に対して示されるというのは何を意味しているのでしょうか?ここで、新約聖書の終末論に特徴的な「すでに」と「いまだ」の緊張関係を説明する必要があります。新約聖書では、キリストが来られたことによって、ある意味では「すでに」終わりの時代は始まっています。けれども、キリストが再臨して神の国が完成に至る時までは、「いまだ」終わりは来ていないのです。

NTeschatology

1章でパウロはキリストが「支配」や「権威」といった霊的存在よりも高く上げられた、つまりそれらを支配する存在であることを語りました。これは終末論の「すでに」の側面に属することです。しかし、支配や権威は今なお完全に神とキリストに服従するには至っていません。これは「いまだ」の側面です。このことは、「空中の権を持つ君」すなわち悪魔が「不従順の子らの中に今も働いている」とパウロが2章2節で述べていることから明らかです。

エペソ1章21節に出てくる「支配(アルケー)」「権威(エクスーシア)」「権力(デュナミス)」は1コリント15章24節にも登場しますが(翻訳によって訳語が異なることがあります)、そこでは、これらの霊的存在はキリストが再臨する時に滅ぼされるとパウロは言います。しかし、エペソ書1章ではパウロは現在の状態について、神はキリストをこれらの霊的存在の上に置かれたとのみ書いています。つまり、これら霊的な敵対勢力は世の終わりには滅ぼされることになっていますが、現在のところはキリストの下に置かれるにとどまっており、地上の教会に対して戦いを挑んできているのです(6章12節参照)。

では、そのような背景を頭に置いて3章10節の内容を考えるとどういうことが言えるでしょうか?パウロは神の右に挙げられたキリストの下に置かれながらも、いまだに抵抗を続ける支配や権威に対して、神の知恵が誇示されると言うのです。ここでパウロがこの知恵が「教会をとおして」示されると書いているのが重要です。古代の人々は、地上の世界で起こっている出来事を、天では御使いたちが見守っているという世界観を持っていました(1コリント4章9節、1テモテ3章16節、マタイ18章10節等を参照)。神が教会を通して地上で成し遂げられたできごとは、天上世界の存在に対してあるメッセージを発信しています。それは何でしょうか?

天にある支配と権威の働きによって、神の創造された良い世界はばらばらに分断され、人類も分裂を憎しみに支配されていました。しかしかつては水と油、犬と猿のように敵対していたユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つの教会とされました。つまり、キリストにあって、天にある支配や権威の悪しき働きが地上においてキャンセルされたのです。この不可能と思える出来事を可能にされたところに神の知恵があります。それは1章10節でキリストにあって万物が神の元に集められる、という神のご計画の第一段階です。地上において教会が一致したと言うことは、近い将来に天においてもキリストの支配が完了することを示すものであって、神は一つになった教会の姿を通して、御自身に敵対する霊的存在に対して、彼らの時が短いことを宣言されているのです。つまり神は、地上における教会のはたらきを通して、神の確実な勝利と来るべき裁きを天にある支配と権威に見せつけておられます。

実は旧約聖書にも、敵の面前で神がご自分の民をあえて祝福してみせるという箇所があります。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。(詩篇23篇5節)

また、中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の時代)に書かれたシリア語バルク書という文書には、メシヤが悪の勢力を滅ぼす時、その首領を生け捕りにしてシオンに引いてきて、彼の目の前でその罪状を並べて認めさせた後、首領を殺すという描写があります(40章1-2節)。

ところで、パウロはコリント人への第一の手紙でも神の知恵とキリストを結びつけていますが、そこで神の知恵とされているのは十字架のみわざです。

18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。19  すなわち、聖書に、
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」
と書いてある。20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、24  召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。25  神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26  兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。27  それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、28  有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。29  それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。30  あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。31  それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
(1コリント1章18-31節)

神はキリストによる十字架の死という、この世の標準からすれば最も弱く愚かな方法をもって、ご自分の知恵を示されました。30節ではキリスト御自身が「知恵」と呼ばれています。それだけでなく、神は同じ知恵を、この世では愚かで弱いとされる人々を選んでキリストのしもべとすることによっても示されたので。そして、その目的は「知者をはずかしめ」「強い者をはずかしめる」ためであり、「どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため」でした。

1コリントではおそらく高ぶっている人間について語られていると思われますが、エペソ書では天にいる支配や権威といった霊的存在に対して同様のことがなされていると考えられるでしょう。神はキリストの十字架という一見「愚かで弱い」方法で救いを成し遂げ、教会を一致させました。また、その福音を宣べ伝えさせるために、パウロという教会の迫害者、使徒と呼ばれるに値しないような人物、迫害と苦しみの中で弱さを覚えているような人物をあえて選ばれたのです。それは、天における支配や権威に対してご自身の知恵を示し、これらの霊をはずかしめるためでした。

パウロは支配や権威がどのようにして神に反抗しているのかはっきり語っていませんが、おそらくその最も大きなものは高ぶりであると思われます。サタンの最大の罪は高ぶりでした(1テモテ3章6節参照)。神がこれらの高慢な霊をどのように罰せられるのでしょうか?高ぶっている者に対してもっとも効果的な処罰は、彼らに恥をかかせることです。神はここでまさにそのようなことをなされていると言えます。

私たちは信仰生活において弱さを覚える時があります。教会も時に力なく、この世のいろいろな組織や団体に比べていかにも弱く、頼りない存在のように見える時があります。しかし、そのような弱いクリスチャンたち、弱い教会をとおして福音が宣べ伝えられていくところにこそ、神の力が働き、神の知恵が示されているのです。

(続く)

 

エペソ書とキリストの戦い(1)

所属教会のサンデースクールで何回かに分けてエペソ書の学びをしてきましたが、今日は最終回で6章を取り上げました。この章は「神の武具」「霊的戦い」で有名な箇所ですが、エペソ書で霊的戦いについて述べられているのはここだけではありません。この機会に、エペソ書における霊的戦いについてまとめてみました。

エペソ書6章のいわゆる「神の武具」の箇所(10-18節)は霊的戦いを教えている箇所として有名です。エペソ書で霊的戦いというとこの部分だけが突出して有名ですが、実は1章20-21節、2章2節、3章10節、4章27節などを見れば分かるように、霊的戦いはエペソ書全体を貫く大きなテーマであると言って良いと思います。

本書の全体をまとめるキーワードは「神の奥義」です。

8  神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、  9  御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。  10  それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。(エペソ1章8-10節)

奥義」と訳されているギリシア語ムステーリオンは英語のmysteryの語源にもなったことばで、「それ以前には知られていなかったが、時が来てある特定の人々に示される内容」のことです。ここでは神の「御旨の奥義」と書かれていますが、パウロが語っているのは、天地創造以来神が歴史を動かしてこられたその目的は何処にあるのか、と言う点について、終わりの時代に明らかにされた啓示の内容です。本書の全体はこの「奥義」の説明と適用であると言っても良いでしょう。

そして、その「奥義」の内容が10節に書かれています:「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」。エペソ書では「天」と「地」という領域が大きな役割を果たしていますが、この二つの領域においてキリストのもとにすべてを一つにされることが、歴史に対する神の目的だということです。本書の内容にしたがってこのことを図示すると次のようになります:

エペソ書の世界観

1章でパウロは、神がキリストにおいてなされた救いの御業をこう表現します:

20  神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、  21  彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。(1章20-21節)

ここに出てくる「支配」「権威」等は単なる抽象的な概念ではなく、パウロにおいては人格を持った霊的存在を表しています。これらは天において神に敵対する霊的勢力なのです。復活し、神の右に挙げられたキリストは、これらすべての敵対勢力に対して優位に立たれたのです。神がキリストにおいて「天にあるもの」を一つに帰されるとは、このことを指しています。

それでは「地にあるもの」についてはどうでしょうか?2章では、神はキリストの十字架を通してユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁を打ち壊し、キリストにあってすべての人を一つにする道を開かれた(15節「ひとりの新しい人」)ということが語られます。そして2章の後半ではパウロは教会を神殿にたとえています

20  またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。  21  このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、  22  そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 (エペソ2章20-22節)

実はこの箇所は、上で見た、天における敵対勢力への勝利というテーマと結びついています。最近出たエペソ書の研究書によると、1:20-2:22までの内容は、古代世界における「神の戦いdivine warfare」のパターンに従っているといいます(Timothy Gombis, The Drama of Ephesians)。それによると、全地の王である神はまず出かけていって敵対する勢力を征服します。凱旋してきた神は勝利のしるしとして神殿を建設し、そこに住みます。そして神の民はその宮に集まって神を礼拝し、その支配を祝うというのです。このパターンは出エジプト記15章や黙示録19-20章にも見ることができます。また、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがヒスパニアとガリアで大勝利を収めて凱旋する際、元老院はその勝利を記念して「平和の祭壇Ara Pacis Augustae」を築きました。

Ara Pacis

アウグストゥスの勝利を称える「平和の祭壇」

エペソ書においても、同様のパターンが見られます。パウロによると神は世界を創造された全能の神です。そしてこの神がすべての支配と権威の上に御子キリストを挙げられました。キリストの宇宙的主権は同時に神の王権の表現でもあります。神が実際にそのような世界の王であることはどうやって証明されるのでしょうか?それは支配や権威と言った敵対勢力に対して勝利を収められたことによります。それはキリストの十字架によってなされたのです。エペソ2章ではキリストの十字架はユダヤ人と異邦人の和解ということに焦点が当てられていますが、それが同時に霊的な敵対勢力に対する勝利でもあったことは、彼らがキリストによって救われてきたのは「空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた」状態からであったことからも分かります(2章2節)。十字架が敵に対する勝利であったことは、コロサイ書でさらに明確に書かれています:

13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、 14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。 15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2章13-15節)

そして、この勝利の後、神は教会というご自分の神殿を建てられました。だから教会はいわば地上における神の勝利の祈念碑だと言えます。ただし、ここでは神殿が神の民の集う場所としてではなく、神の民そのものとして表され、そこに神が住まうとされます。このように神殿として集められた神の民は神を礼拝します。それはある意味で、神がキリストによって主権や力に勝利されたことを祝う祝祭です。神が神殿を造られるのは、敵に勝利するという仕事を終えて休むためではなく、ここから万物を統治するという本当の仕事が始まるのです。そしてクリスチャンが御国を受け継ぐということは、そのような神のご支配に参加させていただくということです。ですから黙示録には新しいエルサレムに住む聖徒たちについて、「彼らは世々限りなく支配する。」(22章5節)と書かれています。

このように、キリストの十字架と復活、そして教会の誕生という救済史における一連の流れは、敵対勢力に対する神の勝利という霊的戦いの背景を考える時に初めて良く理解することができます。それと同時に忘れてはならないのは、神がどのようにしてこれらの敵に勝利されたか、ということです。先ほどのゴンビスは、それはイエス・キリストの十字架の死という、最も勝利とは遠いと思われるような出来事を通してであったと言います。つまり、神の勝利は弱さと自己犠牲的な愛と死という、この世が考える軍事的勝利とは正反対のできごとを通して表されるのです。このことは聖書が教える霊的戦いを考える上で大変重要だと思われます。クリスチャンが霊的戦いを考える時、この世的な「戦い」「戦争」のイメージや価値観で戦うことがないように充分に注意しなければなりません。拙著『平和の神の勝利』の中に「愛による戦い」という短い章がありますが、そこではクリスチャンが愛し合って一致していくことが最大の霊的戦いであると書きました。私たちは十字架を魔除けのように使うのではなくて、十字架を背負い、イエスに倣ってその後についていく時、初めて本当の意味で敵に勝利することができるのです。

(続く)

「主の祈り」を祈る(9)

(シリーズ過去記事        

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。」

「こころみ」と訳されているギリシア語peirasmosは「試練」とも「誘惑」ともとることができることばです。いずれにしても、私たちの内と外から働きかけて、神から引き離し、罪を犯させ、御心にかなった歩みをさせなくするような力のことを言います。「悪」と訳されているギリシア語も「悪しき者」すなわち悪魔ととることも可能です。それぞれの言葉についてどちらの訳語を採用するにしても、以下に論じる内容にはあまり影響はありません。

このシリーズで何度も述べてきたように、主の祈りは「神の国の地上への到来」という文脈の中で祈る必要があります。そして、神の国はサタンの国に侵攻してくるものであり(過去記事を参照)、そこには必ず衝突があります。ですから、試練や誘惑のないクリスチャン生活はありえないのです。

私たちが日々体験する信仰の戦いはリアルなものです。そうでなければ、「悪(い者)から救ってください」という祈りは意味をなしません。この地上ではまだ悪の力が猛威を振るっており、クリスチャンであっても罪と死と苦しみの現実から完全に隔離されて生きることはできません。だからこそ私たちは、日々「我らを悪より救いだしたまえ」と祈るのです。ある人々にとっては、それは祈りというより叫びであるかもしれません。私たちが生きている世界はそういう世界です。しかし、イエスは十字架と復活を通してサタンに対して決定的な勝利をおさめてくださっており、世の終わりにはその勝利を完全に表してくださいます。究極的な勝利はすでに保証されているのです。この祈りは、そのような終末的勝利が現在においても現されることを求める祈りであると言えます。

私たちは自分からこれらの試練を求める必要はありませんし、そこから救い出していただくように神に求めるべきです。イエスご自身も、ゲッセマネの園で十字架という試練から救い出されるように祈られました。

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。(マタイ26章39節)

El_Greco_019エル・グレコ「園における苦悩」

しかし、この祈りは、先に祈った「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りの文脈で考えなければなりません。試練や悪から逃れることを求めることは決して間違ってはいませんが、それがクリスチャン生活の最優先事項ではないのです。それらすべてに対して、神の御心が優先します。イエスがゲッセマネで祈られたように、私たちは避けられない試練があるならばそれを信仰を持って受けとめなければなりませんし、実際に誘惑が来たらそれに対して抵抗しなければならないのです。

ですから、この祈りを祈ったから誘惑や試練が来なくなるというわけではありません。けれども、少なくとも私たちは、試練の中にも主の御心があることを信頼していくことができます。そして、神は耐えられない試練は与えられないお方です(1コリント10章13節)。

以前にも述べたように、イエスご自身、この部分を含め主の祈りを日々祈っておられたと考えられます。にもかかわらず、イエスは地上の生涯で多くの試みと誘惑を受けられました(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。けれどもイエスは、それらすべてに打ち勝たれ、罪を犯されませんでした。これは私たちの従うべきモデルです(ヘブル12章1-3節)。同時に、イエスは私たちの弱さに同情できないお方ではない(ヘブル4章15節)ということも、この祈りを祈る時に大きな励ましになります。

「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

この頌栄の部分はマタイ福音書の古い重要な写本には含まれておらず、ルカ福音書の並行箇所にもありません。内容的には1歴代誌29章11-13節との類似が見られます。この部分は初期のキリスト教会の礼拝において主の祈りに続いて唱えられていたものが定着したものと考えられています。したがって、この頌栄はイエスが弟子たちに教えられたオリジナルの主の祈りには含まれていなかったと思われますが、主の祈りを締めくくるにふさわしい内容になっています。

私たちがここまでの祈りを祈ることができた理由は、神がすべての栄光と権威をもっておられるからです。神は宇宙の王であって、その支配を天だけでなく地にも拡大してくださり、永遠に支配されるお方です。たとえ現在地上には神の支配が完全には実現していなくても、私たちは今この瞬間にも天においてはその現実があることを信じ(黙示録4-5章)、やがて時が来るとそのことが地上でも実現することを信じています(黙示録11章15節)。だからクリスチャンは、悪の嵐が吹き荒れる世界においても、神の栄光をほめたたえるのです。 「アーメン」とは「その通り」「真実である」という意味です。神の国(支配)がこの地上に訪れる―その確信がなければ、私たちは主の祈りを真実に祈ることはできないのです。

そして、神の国の中心におられるのがイエス・キリストです。キリストが約二千年前に来られたことによって、神の国はある意味でこの地上に訪れ、拡大を始めました。そしてキリストが再び地上に来られる時に、神の支配は地上においても完成します。キリストこそ、永遠の御国を治める方なのです(2サムエル7章12-16節、ダニエル7章13-14節、2ペテロ1章11節、黙示録11章15節)。主の祈りが神の国の到来を求める祈りであるなら、それはまた王なるキリストの主権を認め、その再臨を待ち望む祈りでもあると言えます。

*   *   *

N・T・ライトは『クリスチャンであるとは』の中で、主の祈りについてこう言っています。

この祈りを私たちが唱えることは、天の父に向かって「イエスは私を、良い知らせの網(イエス自身が用いたイメージであるが)で捕らえました」と言うのに等しい。この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる。(227ページ)

主の祈りは、単なる信心深さの表明ではありませんし、私たちの個人的な必要が満たされ、霊性が高められるための祈りでもありません。主の祈りを祈ることは、歴史において神が人類と世界の救済計画を遂行されつつあること(これが「福音」です)を認め、それに応答してその働きへの参加表明をすることなのです。そしてそれは、そのような生き方のモデルを示してくださったイエスの足あとに従って生きることでもあります。

主の祈りを含む山上の説教はおもに弟子たちに向けて語られていますが、マタイ福音書の結末部分では、復活のイエスは弟子たちに対して「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(28章20節)と命じておられます。この「いっさいのこと」には当然主の祈りを祈ることも含まれるはずです。つまり、すべてのクリスチャンは主の祈りを祈るようにと命じられているのです。これは素晴らしい恵みです。どんなに信仰歴が浅くても、知識や能力がなくても、あるいは自分の罪と弱さに葛藤していても、主の祈りを心から祈るクリスチャンは神の国の運動に参加しているのです。

主の祈りは全てのキリスト教の教派で受け入れられている基本の祈りです。教理や聖書解釈において様々な違いがあったとしても、どんなクリスチャンとでも、この祈りなら共に祈ることができる―これもまた、素晴らしいことであると思います。ある意味で、主の祈りを祈ることは、聖なる公同の教会、唯一のキリストのからだなる神の民に属しているしるしであると言っても良いかもしれません。クリスチャンとして生きるとは、主の祈りを生きることなのです

(終わり)

御国を来たらせたまえ(8)

(本シリーズの過去記事       

前回の記事では、ルカ福音書の最初の3章において、作者はナラティヴの重要な節目ごとに3つの年代的記述を挿入していることを見ました。それらの年代記述は次第に複雑さとスケールを増してきており、3章冒頭の記述がクライマックスを形成しています。3章でルカはイエスの宣教の始めを包括的な歴史的文脈の中でとらえています。ルカが見ている世界は、ローマもユダヤも、また政治も宗教も渾然一体となった複雑な構造を持っており、その頂点にはローマ皇帝がいました。そのような背景の中で主イエスの福音宣教はなされていったのです。

しかし、これらの支配者たちは単に福音書の物語の歴史的な背景を明らかにするためだけに登場するのではなく、ルカのナラティヴの中でもっと重要な役割を果たしています。それはどのようなものでしょうか?それを解く鍵は次の4章に隠されています。

Immenraet_Temptation_of_Christ

福音書には、イエスが宣教を開始したとき、ヨハネから受洗後、荒野で悪魔の誘惑を受けたことが書かれています。その時に3つの誘惑があったことをマタイとルカがしるしています(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。マタイとルカの福音書では3つの誘惑の順序が少し違っていますが、ルカによる福音書では2番目に次のような誘惑が出てきます。

5  それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界oikoumenēのすべての国々を見せて  6  言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。  7  それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。  8  イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 (ルカ4章5-8節)

5節に出てくる「世界oikoumenē」は2章1節でも、皇帝アウグスト支配する領域をさす言葉として使われています。ここでサタンは、全世界の国々の権力と栄光が自分にゆだねられていると豪語しているのです。

ここでサタンが嘘をついているのではないと考える理由がいくつかあります。第一に、イエスはこの発言を否定していません。もしサタンが口からでまかせを言っていたのであれば、それに対してイエスはその偽りを指摘するだけでよかったでしょう。しかし、イエスはそのようにはされず、礼拝すべき方は神おひとりであるという、申命記の聖句を用いて、自分を拝ませようとするサタンの誘惑をしりぞけたのです。このことは、イエスもサタンが何らかの形で世界を支配しているという主張については認めていたことを示しています。また、使徒行伝26章18節では、イエスからパウロに語られた言葉として、彼の宣教の働きが「悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ」ることであると語られていることから、サタンがこの世の国々を現実に支配しているとルカが信じていたことが分かります。(ただし、ルカ4章6節でサタンはこれらの権威が自分に「任せられて」いると語っており、その権威は究極的には神に由来していることを暗黙裏に示しています。)

旧約聖書のダニエル書10章では、ペルシアやギリシアといった特定の国を支配する霊的存在が登場しますが、ここではサタンは全世界のすべての国々を支配する存在として描かれているのです。そして、このようにサタンが支配する「全世界の国々」にはローマ帝国もふくまれることは明らかです。したがって、サタンはローマ皇帝をも支配する、この世の真の支配者と考えることができます。

つまり、ルカ4章の荒野の誘惑記事は、そこに至る3章のナラティヴに対する重要な注解の役割を果たしているのです。荒野の誘惑の記事を、3章までで提示された年代記述と照らし合わせて読むとき、ひとつの重大なポイントが浮かび上がってきます。1-3章でルカは、皇帝を頂点として、ローマ人やユダヤ人を含み、またユダヤの宗教組織をも取り込んだこの世の政治体制を描いてきました。しかし、4章においてはじめて、ルカはこの世の権力の背後には霊的な存在がいることを明らかにするのです。ルカにとって、この世の真の支配者はローマ皇帝ではありません。皇帝の上にあってすべてを支配しているのは、サタン自身なのです。サタンは自分に委ねられた権威を好きな者に与えることができると語ります(4章7節)。これは配下の悪霊に権威を与えているとも考えられますが、同時にローマ皇帝の権威はサタンから与えられたものであると考えることもできます。

ルカにとって、この地上の政治権力と、その背後に存在する霊的影響力とは切り離すことができません。ルカのホリスティックな世界観においては、現代人のように地上的・歴史的できごとと、霊的・宗教的できごとがはっきりと区別されているのではなく、お互いに影響を及ぼしあっているのです。ルカ4章5節に出てくる「世界のすべての国々」という表現では、神の「国」やルカ11章18節でサタンの「国」という時に使われているのと同じbasileiaというギリシア語(この場合は複数形)が使われています。つまり、ローマ帝国を含むこの世のすべての国々basileia(複数)はサタンの国basileia(単数)の支配下に置かれているのです。

ルカにとって、イエスが神の国の到来を告げ知らせたこの地上世界は、このように地上の複雑な政治的権力構造を含みこんだ、サタンの王国であったのです。サタンがこの地上世界を支配しているという認識は、他の新約記者にも見ることができます(ヨハネ12章31節、1ヨハネ5章19節など)。サタンの国に神の国が侵攻してくる時、当然そこには衝突が起こってきます。神の国の到来は、宇宙規模の闘争でもあるのです

なお、このテーマについてさらに詳しく知りたい方は、拙著The Roman Empire in Luke’s Narrativeを参照してください。

(続く)

 

 

御国を来たらせたまえ(7)

(本シリーズの過去記事      

このシリーズでは「神の国の到来」というテーマをいろいろな側面から考えてきました。聖書の提示する終末的希望は、神の国すなわち神の王としての主権的な支配が地上に到来することである、とういことを何度も繰り返してきました。

しかし、神の国は何もない空き地に到来するわけではありません。現在の地上は神以外の存在によって支配され、神の意志とは異なる意志によって動かされています。主の祈りの中でイエスが弟子たちに、「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るように教えられたのは、まさに現時点では神の支配はこの地上を未だ完全におおっておらず、神のみこころが完全になっていないからこそなのです。そのような領域に神の国が「訪れる」というのは表現が少し穏やか過ぎるかもしれません。実際には、神の国は、神に敵対する存在が支配するもう一つの王国に侵攻してくるのです。

この記事では、主にルカ福音書によりながら、このテーマについて見て行きたいと思います。

14  さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。  15  その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、  16  またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。  17  しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。  18  そこでサタンも内部で分裂すれば、その国basileiaはどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、  19  もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。  20  しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国basileiaはすでにあなたがたのところにきたのである。(ルカ11章14-20節)

ベルゼブル論争」 とも呼ばれるこのエピソードでイエスは、ご自身が悪霊を追い出しているのは神の国が到来している証拠であると語っています(20節)。しかし、このエピソードではもう一つ興味深い点があります。イエスの悪霊追い出しを批判する人々は、イエスがベルゼブルという強力な悪霊の力を使って別の悪霊を追い出しているのだと邪推しました。それに対してイエスは、サタンの国は内部分裂しては立ち行かないという論理を使って、その批判に反論されました。18節でサタンの「国」と訳されている言葉は、神の「国」と同じbasileiaというギリシア語が使われています。つまり、このエピソードが示しているのは、イエスが悪霊を追い出す行為は、神の王国がサタンの王国を攻撃していることの現われであるということです。

ルカ福音書はサタンの王国がどのように地上を支配しているのかについて、非常に興味深い視点を提供しています。ルカ福音書のはじめの数章において、記者のルカはナラティヴの区切りごとに、物語の展開上重要なできごとがいつ起こったかということを、時の支配者に言及しながら述べています。これを順番に見ていきましょう。

ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。 (ルカ1章5節)

ルカ福音書1章の冒頭でルカはバプテスマのヨハネの誕生物語を、前1世紀末のパレスチナの歴史の中に位置づけています。ここに登場するヘロデは「大王」とよばれるヘロデで、前37年から前4年の間、ユダヤを統治しました。ローマ人の後ろ盾によって王となった彼は、終生ローマに忠誠をつくしました。ヘロデの王国は名目上は独立国でしたが、実際にはローマの傀儡政権であることは、誰の目にもあきらかでした。したがって、一見純粋にユダヤ的な物語に思える(実際ここではルカはギリシア語訳旧約聖書を模した文体を使っています)福音書冒頭の記述においても、「ユダヤの王ヘロデ」という一言は、ローマ帝国によるユダヤ人の支配という現実を垣間見せてくれるのです。

1  そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。 2  これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。(ルカ2章1-2節)

2章のイエスの生誕物語を語り始めるにあたり、ルカはふたたび当時の支配者に言及しますが、今度はユダヤではなく、全ローマ帝国にまで地理的視野が拡大されています。ここで登場する皇帝アウグストはローマ帝国の初代皇帝で、前27年から後14年の間地中海世界を統治しました。

ここでルカが皇帝アウグストを、「全世界」を支配する(と称する)存在として描いていることに注意しましょう。ここにあるのは、シリアの総督クレニオに対する言及といい、住民登録のための勅令といい、非常に政治色の濃い記述であり、皇帝を頂点とするローマの支配が地中海世界全域に及んでいたことを示しています。「全世界」という表現はもちろん誇張であって、実際には地中海沿岸地域(それでも広大な領域ですが)を指しているわけですが、理念としては全世界を支配したいという、ローマの傲慢さを示しているともいえるでしょう。(イエスの降誕物語の政治的メッセージについては、本ブログの「本当は政治的なクリスマス物語」を参照ください。)

1  皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、  2  アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。 (ルカ3章1-2節)

3章でルカは、イエスの宣教活動の先触れとなる、バプテスマのヨハネの宣教活動について語りはじめますが、ここでもまた年代的記述がなされています。これはこれまでのルカのナラティヴに登場した中でもっとも詳細に書かれた年代記述であり、7人の支配者が登場します。

テベリオはローマ帝国の第二代皇帝で、後14年から37年まで統治しました。ポンテオ・ピラトは後26年から36年までユダヤの総督でした。ここに出てくるヘロデは福音書の受難物語にも登場するヘロデ・アンティパスのことで、ガリラヤとペレヤの四分領主でした(前4年-後39年)。アンティパスと同じくヘロデ大王の子であるピリポはパレスチナ北東の地域の四分領主でした(前4年-後34年)。ルサニヤはダマスコの北方にあったアビレネという地域の国主でした。1章と2章の年代記述とはことなり、ここでルカはさらにユダヤの宗教的指導者たち、すなわちアンナスカヤパの名を挙げています。

ここに見られる支配者のリストはいろいろな意味で総合的であるといえます。1章ではユダヤの王が、2章ではローマ皇帝とシリヤ総督がそれぞれ言及されていたわけですが、3章ではその両方、つまりローマ人の支配者とユダヤ人の支配者の両方がリストにふくめられています。さらに、王や総督といった政治的支配者だけでなく、大祭司という宗教的支配者も言及されているのです。

古代の人々は現代人のように政治と宗教を明確に区別していませんでした。ローマ皇帝は「最高神祇官」という宗教的役職を兼ねていましたし、ユダヤの大祭司もサンヘドリンの議長として政治的影響力を持っていました。さらに、ユダヤ総督は大祭司を任命・解任する権利を持っており、ユダヤ教の組織そのものがローマに従属していたことを示しています。つまり、ルカがここで描きだしているのは、ローマ皇帝を頂点にした、政治的・宗教的支配者を含めたこの世の権力構造なのです。

ところで、ルカはなぜ福音書の冒頭でこのような形で時の権力者に言及したのでしょうか?そして、このことは、この世を支配しているサタンの王国、さらにそこに侵攻してくる神の国とどう関わっているのでしょうか?次回はそれについて見て行きたいと思います。

(続く)