『聖書信仰とその諸問題』への応答6(藤本満師)

その1 その2 その3 その4 その5

藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第6回をお送りします。

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6 説教と聖書信仰

前回、言葉はそもそも「記される前に語られるもの」であることを論じました。聖書においても、「神は言われた」とあるように、記された言葉がはじめは語られた言葉であったことを示している箇所がいくつもあります。

当然その次に、記された神の言葉は語られます。つまり説教です。そこで説教の意義が、「聖書信仰」の世界でも十分に考慮されなければならないことを今回は論じてみようと思います。 続きを読む

暗闇からの叫び

所属教会で礼拝説教の奉仕をしました。多少手を加えた原稿をアップします。

暗闇からの叫び(詩篇88:1-2)

今日は詩篇の中から、88篇を取り上げました。いま司会者の先生に最初の2節を読んでいただきました。少し長いですがこの詩篇の全体をお読みしたいと思います。

1  わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。

2  わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
3  わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。

4  わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。

5  すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。

6  あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。

7  あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって

わたしを苦しめられました。
8  あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。

9  わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。

10  あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって

あなたをほめたたえるでしょうか。
11  あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。

12  あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。

13  しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。

14  主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。

15  わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅かしにあって衰えはてました。

16  あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅かしがわたしを滅ぼしました。

17  これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。

18  あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。

これが詩篇88篇です。読んでみてお分かりのように、この詩篇は全体が非常に暗いトーンで貫かれていて、読んでいると心が暗くなってくる、という方もあるかもしれません。

「好きな詩篇は何篇ですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」という23篇が好きだという方もおられるでしょうし、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」という42篇が好きだという方、「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」という150篇が好きな人もおられるかも知れません。しかし、好きな詩篇を聞かれて「私は88篇が大好きで、いつも口ずさんでいます!」と答える人はほとんどいないと思います。

この詩は最初から悲痛なうめきと叫びに満ち、最後まで救いや賛美の明るいトーンがまったく聞かれません。この詩はおそらく詩篇全体の中で、あるいは聖書全体の中で最も暗い箇所であると思います。だからなのでしょう。この詩篇が礼拝説教で取り上げられることはほとんどありません。私がアメリカの神学校で学んでいたとき、旧約聖書を教えてくださった教授が「この詩篇から説教ができたら、聖書のどこからでも説教ができる」と語っておられたのを覚えています。私たちは聖書を通読していても、この詩篇のような箇所は、あまり深く思い巡らすことをしないで、さっと読み飛ばしてしまうことが多いのではないかと思います。

けれども、そのように暗く悲しみに満ちた詩篇88篇ですが、これも聖書の一部であることを、私たちは覚える必要があります。この詩篇が聖書の中に収められているということは、実はとても深い意味があると思いますので、今日はここから学んでいきたいと思います。 続きを読む

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)

その1 その2 その3 その4

藤本満先生によるゲスト投稿の第5回をお届けします。今回は、前回の物語論に関連して、物語と説教について語っていただきます。お忙しい中執筆のご労をとってくださった先生に心から感謝します。

聖書信仰

聖書信仰』(いのちのことば社)

物語と説教

「あとがき」で、私自身が「物語と説教」に目覚めた話を記しました。そのきっかけを与えてくれたノンフィクション作家の柳田邦男さんに言及しました。実は、私はあの文章を、「聖書は神の創造と救済の物語であり、その中へと私たちの物語が取り込まれ、どこかで神の国の新たなる舞台を演じることになる」というような、壮大な神学的想定で記したのではありません。それはもっと小さな物語論で、自分が務める礼拝講壇(説教)のために、小さな物語をどのように捉えて用いているか、ということを紹介してみたかったのです。――もちろん、小さな物語論も、大きな物語論の欠片(かけら)ではありますが。

柳田さんの『ガン五〇人の勇気』の中に「涙して洗った茶碗」と題されたエピソードがあります。それは末期がんの友人に病院に呼ばれ、洗礼を授けてくれ、と頼まれた牧師の話です。牧師は病室にあった茶碗を涙を流しながら洗い、そこに水を入れて、洗礼を授けます。友人は洗礼を受けた後、晴れやかな表情を見せ、主の祈りを教えてくれと頼み、しばらくして息を引き取ります。最後を迎えた友人は、洗礼を受けたという事実を頼りに、死の陰の谷を行きます。

あるとき、私はこの話を引用してどこかに執筆しました。すると、「洗礼とはそういうものではない!」というお叱りのお手紙をいただきました。その方は、神学的な洗礼の定義でこのエピソードを読まれたのでしょう。でも、この方は、神の憐れみにしがみつくように死線を越えていく一人の人間の苦悩と信仰はわからなかったのです。ましてや、こういうエピソードを伝えている作家の意図も、それを引用した私の意図も頭にはなかったと思います。単純に、洗礼の神学的な定義で私の文章を読まれたのでした。

極端な話かもしれません。しかし、命題的な説教が、それが教理的であれ釈義的であれ、時に、聴衆の心にまったく届かない、聴衆の人生に触れていないのではないか、と思うことがあります。教理や釈義が、場違いに顔を出し、聞いている人びと、彼らの物語にまったく不似合いなのです。

クリント・イーストウッド監督・主演の「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)という映画があります。アカデミー賞主要4部門を獲得した名作です。2008年の「グラン・トリノ」は、まったく違う内容ですが、私はこれを続編のように思っています。この二つの作品には、カトリックの司祭が出てきます。イーストウッド演じる主役は、人生の複雑さをすべて体験したような老齢で頑固な男です。かたや司祭は、両作品とも若いのです。結婚も離婚も、世の中の複雑なことには手を染めず、神学校を出て、神に仕え、きれい事を人びとに説いているようなセッティングです。しかし、この二つの映画で、司祭の役割はかなり違います。2004年の映画では、司祭は世の中の矛盾を何一つ背負えない、人生の複雑な局面で場違いに登場する司祭です。しかし、2008年の映画では、司祭はその矛盾の中に入り込んで行きます。

人の物語の複雑さ、善とも悪とも言えない人間の弱さ。でも、くずおれるだけではなく、ひたむきに前を向く。弱さを引きずりながらも、自分の愚かさを乗り越えようとし、悪と戦い、真理に手を伸ばそうとする。痛みや傷に引き裂かれながらも、生の尊さを実感し、信念を貫く。人生に裏切られても、生きる意味は失わない。そういう生き方をしたいのですが、なかなかできない。せめて自分の最後だけでも、そのように生きたいのですが、痛み苦しむだけで、言葉にもならない。

先の柳田さんは、誰もがこうした物語を書くことはできない、しかし共感することができる、と考えました。そこでガン患者五〇人のそれぞれの最後を一人あたり数頁でまとめることによって物語とし、いわば五〇人分の、死の迎え方、生きてきた意味を読者に提供しました。

説教をする者は、御言葉に描かれている情景、神の御思い・働き、それに応答する信仰者、時にそれに応答し損ねる、あるいは逆らう私たちの姿を描きます。それは単なる物語ではなく、神の声です。御言葉を語る説教者は、そこに罪に対する神の宣告、赦し、愛、希望、と神の声を響かせたいのです。そのとき、聖書の物語を今の私たちの物語へと適用するよう、説教者は苦心するのでしょう。

でも、逆に私たちの物語を聖書の御言葉に吸い込ませるという手法も可能だろうと思います。つまり、神の言葉(上)を人の世界(下)に解釈・適用させるだけでなく、人の物語(下)を神の言葉(上)へと吸い上げる手法も可能であろうと。これを単に説教の「組み立て」「構成」の問題ではなく、神の言葉の「力」として考えてみました。

一言で申し上げたら(自分でも何を言っているのか明確ではないのですが……)、「物語」には、神の言葉である聖書にも、人の物語である「お話」にも、とても心を打つ深みがあります。神の言葉を「命題的に」語ることに一生懸命で、いつの間にか、人の物語をどう理解し、どう用いるかを忘れるような説教者にはなりたくない、という反省が私にあります。さらに、神の物語(御言葉)には、人の物語を吸い上げる力があり、矛盾や恐れの多い人の物語が聖書の中へと吸い上げられ、まるで聖書の物語を生きているかのように、主イエスがその矛盾と恐れを包むように私と共に歩んでいてくださることを実感できる力が、御言葉にはあるのではないか、と。私たちは今もエマオへの途上を主と共に歩んで、自分に起こった人生の出来事と神の御言葉(あの時は旧約聖書)を重ねているのではないでしょうか。

 

東日本大震災の年に、私の尊敬している教会員が息子さんを失いました。ご夫妻は教会のために長年労され、年齢故に仕事を退いて、これからは宣教地を回って様々に奉仕したいとの夢を与えられていました。すでにケニアとボリビアと台湾を訪れ、奉仕をされました。私たちの誰もが、このご夫妻が大きな試練につぶされそうになっている姿に心を痛めました。

納骨式の後、食事の席でした。お父さんは立って、家族の前でこんな話をしました。「震災で津波がやってくる。懸命に港に船をつなぎ止めた漁師たちの船はすべてやられました。しかし、その中に、津波に向かっていった漁師もいました。彼らは生き延びたそうです。ですから私たちも、これから津波に向かって船出します」。

その姿、その証しに、私は感動しました。そして、説教の中でその話を使わせてもらいました。どこかで物語はつながります。震災時の漁師、息子を失った父母、同じような境遇にある人びと、そして私たちを雲のように取り巻いている多くの聖徒たち(ヘブル12:1)。証しは、聖書と比したら「お話」なのでしょう。しかし、証しが主の恵みをゆびさすとき、神の御言葉は生きて動き出します。つまり大きな物語が小さな私たちの物語を吸い込み、大きな物語の中に私たちの出来事が組み込まれてしまいます。

上述の出来事は、私自身が体験したものではありません。しかし、私はこの兄姉は教会共同体を代表してこの試練を味わい、希望の神に近づかれたのだと思っています。聖書の中の出来事は、歴然とした過去性を帯びています。しかし、私たちはすーっとその中に引き込まれて、自分もまた十字架の下に立ち、復活の墓を目撃していることになります。神の言葉は、私たちの小さな物語を取り込もうと待っています。そのやっかいで不条理な物語さえも。その意味でも、人生の出来事・私たちの物語を読める人になりたいと思います。

 

もう一つ。

これは、スティーブ・ジョブス氏のスピーチです。スタンフォード大学の卒業式で語られたものです。

わずか、これだけの時間で、これほどインパクトのある式辞。卒業式は、英語ではコメンスメント(はじまり)です。それは彼のこれまでの物語であり、聞いている卒業生はそれが自分の物語となるであろうことを予想し、将来の扉を開けます。みなさんは、この式辞を聞きながら、どこかの聖書の言葉をすぐに連想するだろうと思います。

私は、自分が担当しているキリスト教概論の学生に、最後にこれを見せて、授業期間を終えます。そしてあらためて思います。ほとんどの学生にとって、私の授業は馬耳東風であろうと。どうしたら人の物語を、御言葉の舞台の中へと招き入れることができるか。「はぁ」とため息をつき、疲れて帰途につきます。そうして、説教が空回りする疲れを抱えて、笑顔で「いってらっしゃい」と教会員を送り出します。

 

山﨑ランサム先生、本当にありがとうございました。先の4回の原稿で、少しは自分の言おうとしていることを把握できました。この原稿で、大いに自分の言いたいことがわからなくなりました。混迷から少し抜け出すために、次回、先生と対話できたらと願っています。

先生が差し伸べてくださった友情に心から感謝します。

(続く)

十字架形の神

所属教会で礼拝説教のご奉仕をさせていただきました。その原稿に多少手を入れたものをアップします。

「十字架形の神」 コリント人への手紙 第一 1章18節-25節

18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 19  すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 24  召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。 25  神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

私たちは普段言葉を使って生活しています。言葉は私たちがものを考えるだけでなく、自分の考えていることを他の人に伝える伝達の手段としても大切なものです。しかし、私たちは同じ言葉を使っていても、同じものを思い描いているとは限りません。人によって、あるいは文化によって言葉の持つイメージは異なっているのです。

たとえば、日本では「マンション」というと集合住宅の意味ですが、英語でmansionというと「大邸宅」という意味になります。アメリカ人が日本の「マンション」を見て大笑いしたという話も聞いたことがあります。英語の賛美歌で「Mansion Over the Hilltop」という曲がありますが、これは日本の「マンション」のイメージで歌うとおかしなことになってしまいます。

「来るべき神の国では、私はマンションに住む」と歌うプレスリー

イメージは私たちの信仰生活や聖書の読み方にも影響してきます。たとえば詩篇42篇1節を考えて見ましょう。

 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。

これは賛美歌にもなっている有名な聖句ですが、ここにある「しかが谷川を慕いあえぐ」という表現について、しばらく思い巡らしてみてください。「谷川」と聞いて、みなさんはどういう情景をイメージされたでしょうか?ある方々は、日本に良くあるような、緑豊かな山間の渓谷にとうとうと流れる川の流れを想像されたかも知れません。けれども、詩篇の作者がこの句を書いたときにイメージしていたのはそういうものではなく、中東の砂漠地帯の乾ききった大地に溝が走っていて、その底にちょろちょろと水が流れているような川だったのかもしれません。このどちらの川をイメージするかによって、作者の心の飢え渇きというものはだいぶ違ってくると思います。

NachalParan1

イスラエルのワジ(涸れ川)

このように、信仰生活においてイメージというのはとても大切です。その中でもっとも大切なのは、言うまでもなく神様ご自身のイメージです。今日はこのことについてご一緒に考え、聖書から学んでいきたいと思います。

クリスチャンはみな神を信じている、あるいはイエス・キリストを信じていると言いますが、一口に「神」とか「イエス・キリスト」と言っても、人によっていろいろなイメージがあると思います。みなさんは神様についてどんなイメージを持っているでしょうか?

私たちが持っている神様のイメージのことを「神観」と呼びたいと思います。神観は「神学」とは異なります。神学というのは神様がどのようなお方であるかを理性的に考えるもので、たとえば「神は創造主である」「神は全能である」「神は永遠である」といった、神様についての抽象的な概念です。神観は私たちが心の中で神様をどのような人格を持ったお方としてとらえ、感じているかということです。たとえば「白いひげを生やした優しいおじいさんのような方」とか、「厳しい学校の先生のような方」といった具合です。

私は神学校で教えていますので、神学の大切さをもちろん否定するわけではありません。けれども、私たちの実際の信仰生活に大きな影響を与えているのは、実は神観の方なのです。私たちはクリスチャンとして、神様について、人間について、世界についていろいろなことを信じていると言います。また、自分でも本当にそのことを信じているかも知れません。けれども、そのように私たちが信じていると告白する内容と、私たちの実際の生き方には大きなギャップがあることがあります。なぜなのでしょうか?

すべての人は、自分が信じていると頭で思ったり告白していることがらに従って生きているのではなく、本当は心の奥底で、時には無意識に信じていることに従って生きています。たとえば、「神様は愛です」「神は良いお方です」ということを皆さんは信じておられると思います。それはもちろん、聖書が教える正しい神学です。正しい神学を持つことはもちろん大切なことですが、それが単なる頭の理解にとどまっているならば、皆さんの実際の生活は何も変わってこないと思います。

たとえ私たちが「神は愛です」という正しい神学を信じていたとしても、私たちの心の奥底にある実際の「神観」が「神様はいつも怒っている気むずかしい老人のような方で、私が失敗をするたびに雲の上から雷を落として私を罰しようと見張っている」というようなものだったらどうでしょうか?私たちは神様が愛であるということを頭の知識としては知っていたとしても、実際の私たちの人生は、怒りの神様に裁かれるのではないかとびくびくしながら生きる人生になってしまいます。つまり、私たちが頭で知っている神様の知識(神学)と、心で感じている神様のイメージ(神観)は必ずしも一致していないのです。

私たちが祝福された信仰生活を送っていくためには、正しい神学を学ぶだけでなく、聖書的な正しい神観を持っていく必要があります。ダビデも詩篇16篇8-9節で、次のように言っています。

8  わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、
わたしは動かされることはない。
9  このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。

ご存じのように、ダビデは多くの苦難に満ちた生涯を送った人物でした。人から命を狙われたり、祖国を追われたり、家庭の問題に悩んだり、自分の犯した罪に苦しんだこともあります。けれども、彼はそんな中でも神様に対する揺るぐことのない信仰を持ち続けただけでなく、その心には喜びがあったと言います。なぜでしょうか?その秘訣は、「わたしは常に主をわたしの前に置く。」という言葉にあります。ここはある英訳では「私はいつも主に目を注ぎ続ける(I keep my eyes always on the LORD)」となっています(NIV 2011)。ダビデは神様が良い方であり、愛なる方であり、ダビデを愛し、守り、祝福してくださる方であることを頭の神学として知っていただけでなく、そういう神様をいつもイメージして、心の中に思い描き、このお方を見つめていたのです。つまり、ダビデは正しい「神観」を持っていたと言えます。そこから、ダビデは単なる知的な神学は与えることのできないもの、すなわちゆるぐことの平安と喜びを得ることができたのです。

しかし、ここで問題があります。私たちの信じている神様は、純粋な霊であって、目で見ることのできないお方です。どうやったらこの神様をイメージすることができるのでしょうか?その答えは「イエス・キリスト」です。目に見えない神様が人間となってこの地上に来てくださった、それがイエス・キリストです。

キリスト教の神様はどのようなお方か、ということを考える時、私たちは哲学的な神のイメージ(永遠、全知全能、等)から出発して神様を考え、その神が人間になったのがイエス様だというふうに考えてしまうことがありますが、これは聖書的に言うと順序が違っているのです。

聖書が教えているのはその逆であって、人として二千年前にこの地上に来られたイエス・キリストを知ることによって、初めて目に見えない神様がどのようなお方であるのかが分かるというのです。ヨハネはその福音書で、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」と言っています(ヨハネ1章18節)。

だから、神様についてイメージするには、イエス・キリストについてイメージすれば充分なのです。イエス様ご自身、弟子たちに「わたしを見た者は、父を見たのである。」と言われました(ヨハネ14章9節)。そしてパウロも、「御子は、見えない神のかたちであ」ると書いています(コロサイ1章15節)。ここで「かたち」と訳されているギリシア語は「エイコーン」で、コンピューターのアイコンの語源になっている言葉ですが、英訳聖書ではimageと訳されています。イエス様はまさに「神のイメージ」そのものである、とパウロは言っているのです。目に見えない神様がはっきりと目に見えるかたちで現れてくださった方、それが御子キリストということなのです。

さらに、ヘブル人への手紙には、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であ」ると書かれています(1章3節)。つまり、イエス・キリストのうちに表されていないような神様の本質はないのです。この、人となって来られたイエス・キリストのうちに、神様がどのようなお方であるかということが、あますところなく、すべて表されているということです。

そして、イエス・キリストの生涯のクライマックスは、十字架でした。このことは新約聖書自体が証ししています。四福音書すべては、イエス様の受難をクライマックスとした物語として書かれています。そして、パウロの宣べ伝えた福音のメッセージの中心にも、十字架につけられたイエス様の姿があったのです。

今日お読みしたコリント人への第一の手紙で、パウロは彼がコリントを初めて訪れた時、そこに住む人々にどのようにして福音を伝えたかを読者に思い起こさせています。1章23節で彼は「しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」と語っています。「十字架につけられたキリスト」―これこそ、パウロの福音のメッセージの中心でした。使徒の働き18章を見ると、パウロのコリントでの伝道の様子が書かれていますが、そこでは彼が「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。」(5節)と書かれています。つまり、この十字架につけられたイエスという人物こそが、旧約聖書で預言されていた救い主メシアである、とパウロは語ったのです。

これは当時の人々には、ユダヤ人にも異邦人にもまったく理解不可能なメッセージでした。パウロは彼の語った十字架のメッセージは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」と言います(23節)。十字架はいまでこそおしゃれなアクセサリーなどにもなっていますが、当時はもっとも残酷な死刑の道具でした。十字架刑で処刑されるのは普通の犯罪人ではなく、国家に対する反逆罪などの特別に重い罪を犯した極悪人に限られていたのです。彼らは見せしめのために、恐ろしい苦しみを味わいながらじわじわと死んでいきました。そのような方法で死刑になった「犯罪者」が神であり救い主であるなどという教えは、当時のローマ市民の想像を超えていたと思います。

また、十字架はユダヤ人にとっては別の意味でもつまずきとなりました。旧約聖書には「木にかけられた者は神にのろわれた者」であると書かれていました(申命記21章23節)。十字架に磔になるということはある意味で木に架けられることですので、ユダヤ人は十字架刑で殺された者は神に呪われた存在だと考えていました。そのような存在が救い主メシアであるというのは、これまたあり得ないことだったのです。

パウロは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることは、ユダヤ人にも異邦人にも受け入れがたい方法であることを承知していました。けれどもパウロは「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」と断言します(1コリント1章18節)。世の中の人には愚かさの極みに見えるような、十字架につけられたイエス様の姿にこそ、救いを得させる神の力が表されているというのです。

この箇所でパウロは「神の知恵」と「この世の知恵」を対比して論じています。十字架に表された神の知恵は、この世の知恵の標準からすると愚かに見えるけれども、実はこちらの方が優れているというのです。

21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 23  しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。(1コリント1章21-23a節)

ここで、パウロは世の中の人々も神を知ろうとしていることを認めています。世界には宗教があふれていることからも、それは分かります。しかし、世の人々は自分の知恵を用いて神様を知ろうとしているので、その試みはうまくいかないというのです。本当に神を知ろうと思ったら、神の知恵に従ってそのことをしなければなりません。神の知恵とは、十字架に架けられたキリストを通してのみ、本当の神様を知ることができるということです。実際、パウロは2章2節で「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」と言っています。

なぜパウロは十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えるのでしょうか?彼は人々がわざと信じられないような難しい話をして、救いのハードルを上げているのではありません。キリスト教は「分かる人だけ分かればよい」というエリート主義の宗教ではありません。むしろ逆であって、パウロは人々が求めていた神への道を、これ以上ないほどストレートに語っているのです。十字架につけられたイエス・キリストを知ることが、神様を知る一番の近道なのです。いいえ、本当の神様を知ろうと思ったら、それ以外の道はないのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」と言われました(ヨハネ14章6節)。

つまり、「十字架につけられたイエス・キリストを通して神様が分かる」というメッセージが分かりにくい、というのは、神様の側に問題があるのではなく、私たちの神観が罪によってあまりにも歪められてしまっているので、神様がご自分の本当の姿を啓示されたとき、それを認め、受け入れることができないということなのです。もちろん、神様は天地万物を造られ、支配しておられる偉大な王なる方です。けれども、この方はご自分の支配を力を持って行われるのではなく、謙って愛を持って仕えることを通して行われるのです。イエス様ご自身が、弟子たちにこう言われました。

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 43  しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 44  あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 45  人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10章42-45節)

これが神様のやりかたであり、私たちの生き方でもあります。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス様の姿に、神様の本質、つまりアガペーの愛が完全な形で表されているのです。宗教改革者のマルティン・ルターは「十字架の神学」ということを言いました。神様の本当の偉大さ、素晴らしさは、人間にとっていかにも素晴らしいと思えるような栄光に輝く姿を通して表されるのではなく(彼はそのような考えを「栄光の神学」と呼んで否定しました)、十字架につけられたキリストの弱さと躓きを通して表される、と言うのです。

そして、神様の恵みによって目が開かれた人は、この十字架につけられたイエス様に、神ご自身の姿を見ることができます。マルコの福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」と言うことばで始まります。しかし、福音書の物語を通して、イエス様が神の子であるということは、人間の登場人物は誰一人として悟りませんでした。しかし福音書の最後になって、イエス様が十字架の上で息を引き取られるのを見たローマの百人隊長が、 「まことに、この人は神の子であった」と言ったのです(15章39節) 。神の子としてのイエス様のアイデンティティは、イエス様がなされた奇跡でも、また復活でもなく、十字架上の死を通して明らかにされたのです。もちろん復活はとても大切ですし、復活がなければ十字架は完結しません。けれども、復活は十字架の逆転や否定ではなく、十字架を確証するものです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあり、復活は十字架で明らかにされたアガペーの愛が、たしかに神の本質であることを証しする、神の「しかり」なのです。

先に言いましたように、神様の本当の姿は人となったイエス・キリストに表れています。そして、イエス・キリストの本質は、十字架の上でいのちを捨てた愛のうちに表れています。だから、イエス様のイメージ、特に十字架に架けられた愛のイエス様のイメージから離れて父なる神様を想像することはできないのです。聖書の啓示する神様はいわば「十字架の形をしている(cruciform)」のです。聖書の中で神様について書かれているすべてのことは、この十字架のレンズを通して受け取っていかなければなりません。

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あなたが心の中で思い描いている神様はどのようなお方でしょうか?遠く離れた、地上の細々したできごとや、私たちの悩みや苦しみには無関心な神でしょうか?それとも私たちの罪や過ちのゆえにいつも不機嫌で、私たちを罰しようと待ち構えているような、恐ろしい神でしょうか?今日、もう一度十字架に架けられたイエス様を心に思い描きましょう。イエス様は私たちがまだ神を知らず反抗して生きていた時に、私たちを愛していのちを捨ててくださいました。今も弱く不完全な私たちを受け入れ、導いてくださいます。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがありません(ヘブル13章8節)。このイエス様は私たちと世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださいます(マタイ28章20節)。このイエス様の姿を、ダビデのようにいつも目の前に置いて歩んでいきましょう。

子としてくださる御霊

所属教会で説教奉仕をさせていただきましたので、いくつか修正を施したテキストをアップします。このメッセージは、継続中のシリーズ「御国を来たらせたまえ」の補論としても読んでいただくことができると思います。

 

子としてくださる御霊(ローマ人への手紙8章14-17節)

14  すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。  15  あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。  16  御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。  17  もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

神の家族

どんな分野にも「業界用語」のような、独特の用語や言葉遣いがあります。キリスト教会を初めて訪れた人々は、そのようなキリスト教用語に戸惑うこともあるかも知れません。けれども、その意味を知っていく時に、はじめは耳慣れない表現も実は深い意味があることに気づくことと思います。そのようなクリスチャン独特の表現に、「兄弟姉妹」という表現があります。これは文字通りの血のつながったきょうだいのことを指しているのではなく、クリスチャンがお互いを呼び合う表現です。また、クリスチャンは神様のことを「天のお父様」と呼びます。このような表現の背後には、クリスチャンはみな、唯一の神様の子どもであり、従ってみなきょうだいである、という考え方があります。教会とは、神の家族なのです。

聖書は、すべての人間は神様によって造られたと教えていますので、ある意味で全人類は神様の子どもと言えます。けれども、イエス・キリストを信じてクリスチャンになると言うことは、特別な意味で「神の子どもになる」ということなのです。

私たち家族がアメリカに住んでいた時に通っていた教会で、牧師の息子が洗礼を受けたことがありました。牧師自ら息子に洗礼を施したのですが、式の後、その先生がこう言われたのを良く覚えています。「彼は私の息子ですが、今日から私の兄弟になりました。

では、私たちクリスチャンが「神の子ども」であるとはどういう意味なのでしょうか?今日は使徒パウロが書いたローマ人への手紙から、ご一緒に学んでいきたいと思います。

神の子どもたち

ローマ人への手紙の8章でパウロは、クリスチャンとして生きる人生と、ノンクリスチャンとして生きる人生を対比しています。13節で彼は、キリストを信じないで生きる人生を「肉に従って生きる」人生と呼んでいます。ここに出てくる「肉」という言葉もクリスチャンの「業界用語」で、肉体や肉欲を意味しているのではなく、神から離れた人間の自己中心的な性質、罪深い性質を表しています。私たちが肉に従って生きるなら、その行き着く先は罪と死です。これに対して、パウロは「神の御霊に導かれ」る(14節)生き方について語ります。それは、キリストとの深い結びつきを通して注がれる、神の霊すなわち聖霊によって導かれる生き方であり、そのような人生は「いのち」に導かれると言います。13節で彼は「あなたがたは生きるであろう」と簡潔に言っています。このことは、死んだ後に永遠の命を受けるということだけを意味しているのではなく、今この地上での人生において、神様から与えられたいのちを最高に充実した形で生きる、ということを意味しています。それは別の言い方で表現すれば、「神の子どもとして生きる」ということです。

神との親密な関係

私たちが神の子どもである、ということは何を意味しているのでしょうか?まずは、神様と親しい愛の関係を持つことが許されている、ということを意味しています。パウロは15節で「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と言います。「アバ」というのは、新約聖書の時代にユダヤ人が話していたアラム語で「父」を表す言葉ですが、家庭で小さい子どもが父親に呼びかける「お父さん」「パパ」といった、親近感を込めた表現でもありました。福音書には、イエス様が天の神様に対して「アバ」と呼びかけていたことが記されています(マルコ14章36節)。イエス様はご自分で神様を親しく父と呼ばれただけでなく、弟子たちにも同じように神様を父と呼ぶようにと教えられました。主の祈りが「天にまします我らの父よ」で始まるのはとても重要なことなのです。

私たちはかつては罪によって神様から離れ、神様に敵対して生きる存在でした。けれども神様は愛によって私たちをご自分のもとに招き入れてくださり、愛する息子、娘として受け入れてくださったのです。このことが最もドラマティックに描かれているのは、ルカ福音書15章に記されている「放蕩息子のたとえ」でしょう。時間の関係で詳しくお話しはできませんが、父の財産を持ち出して放蕩に身を持ち崩した息子がとうとう父の元に帰ってきた時、彼は「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と言おうとしましたが、父は最後まで言わせずに、彼を受け入れ、息子の帰還を盛大に祝ったということが記されています。私たちも、イエス・キリストを信じ従う時に、神様との間の親しい親子関係に入れられるのです。

神の子としてのイスラエル

しかし、クリスチャンが神の子どもであるとは、それだけを意味するのではありません。ローマ書8章におけるパウロの議論は、旧約聖書の時代から続く、神様のご計画と深い繋がりがあるのです。

8章15節では、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と書かれています。パウロはここで、私たちがクリスチャンになるプロセスを奴隷の身分であった者が自由にされて、子としての身分が与えられることにたとえています。ここでパウロは、イスラエルが経験した出エジプトのできごとを念頭に置いて書いているのです。

神様の祝福を全世界に取り次ぐ器として選ばれたイスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活を強いられていました。彼らを解放するために、主はモーセを遣わすのですが、彼がエジプトの王パロに伝えるように命じられたメッセージが、出エジプト記4章に書かれています。

あなたはパロに言いなさい、「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」(出エジプト4章22b-23a節)

つまり、神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放された目的は、イスラエルをご自分の子どもとして、愛の関係を築き上げるためだったのです。ホセア書11章1節でも、出エジプトの出来事について、「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。わたしはわが子をエジプトから呼び出した。」と書かれています。けれども、ホセア書11章を続けて読んでいくと分かるように、イスラエルは神の子らとして、父なる神様に忠実に歩むことができず、繰り返し主に逆らい続けることになってしまいます。

神様と人間との関係を親子にたとえるのは、主がダビデに与えられた約束においても見ることができます。

あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。(2サムエル7章12-14a節)

ここでは、ダビデの子孫から興されるひとりの王、すなわちメシヤが永遠の王国を確立するということが約束されているのですが、ここでも「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。」と言う表現で、いわば神様がメシヤを養子にするということが言われています。後のユダヤ教では、神の養子となるというアイデアは、個人としてのメシヤだけでなく、民族としてのイスラエル全体に当てはめられて考えられるようになりました(ヨベル書1章24-25節、ユダの遺訓24章3節)。つまり、ダビデの子孫であるメシヤがイスラエルを導いて、そもそもの出エジプトの目的であった、イスラエルを神の子とするという神様のご計画を成就してくださる、これが、新約聖書時代のユダヤ人たちの希望であったのです。

では、今日の私たちクリスチャンが「神の子としていただく」ことは、聖書のイスラエルとどのような関係があるのでしょうか?それは、旧約聖書の昔から一貫して続いている、神様の救いのご計画に私たちも参加させていただく、ということです。先ほど出エジプト記で見たように、神様がご自分の子どもとして召されたのは、あくまでもご自分の選びの民であるイスラエルでした。イスラエル以外の異邦人は、そのご計画から除外されているかに見えたのです。ローマ書の9章4節でも、「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの」とあるように、神の子と呼ばれるのは、イスラエルの特権だったのです。

けれども、8章でパウロは驚くべきことを言います。ローマ人への手紙の読者の大多数は異邦人クリスチャンでしたが、彼らに対してパウロは「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」(15節)と言っているのです。ここで「子たる身分を授ける霊」と訳されているギリシア語は、直訳すると「養子の霊」という意味です。パウロがここで使っている「養子にすることhuiothesia」という言葉は、新約聖書の中でパウロの手紙にしか出てこない言葉です。この節でパウロが言おうとしているのは、「あなたがた異邦人はかつては神の子であるイスラエルから除外されていた人々であったけれども、今は神様の養子とされて、イスラエルと同じように神の子どもになることができたのです。」ということです。パウロは9章で次のように言っています。

神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
「わたしは、わたしの民でない者を、
わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、
彼らに言ったその場所で、
彼らは生ける神の子らであると、
呼ばれるであろう」。
(9章24-26節)

さて、この場にいる私たちのおそらく全員はユダヤ人ではなく、異邦人クリスチャンです。私たちが神の子どもと呼ばれること、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に対して「アバ、父よ」と呼びかけることができること、それは決して当たり前のことではありません。私たちは神様の養子にしていただいて、神の民であるイスラエルに加わることを許された存在です

では、どのようにして、異邦人である私たちが神様の養子になることができたのでしょうか?8章15節でパウロは「子たる身分を授ける霊」と言っています。私たちが神様の子どもとされるのは、聖霊の働きによるのです。私たちがイエス・キリストを主と信じてバプテスマを受け、教会に加えられる時、賜物として聖霊が与えられます(使徒2章38節)。この聖霊がユダヤ人だけでなく、あらゆる種類の人々を神の子として、神の家族に加えてくださるのです。8章16節でパウロは、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。」と言います。私たちが神の子であることは、私たちの思い込みや勝手に主張していることではなく、私たちのうちにおられる聖霊ご自身が証言してくださっていることです。しかもユダヤ人も異邦人も同じ御霊によって、神の子であると証言されるのです。

この聖霊はまず、イエス様が地上で宣教された時に、主の上に注がれました(ルカ3章21-22節)。そして、主が復活して昇天された後、使徒たちをはじめ、信じるユダヤ人たちに注がれました(使徒2章1-4節、38節)。それだけでなく、同じ聖霊が主を信じる異邦人にも注がれたことが、使徒行伝に書かれています(使徒11章15-17節)。つまり、この多種多様な人々がみな等しく「神の子ども」と呼ばれるのは、同じ聖霊が働いておられるからなのです。実に聖霊は神の子どもたちに共通して流れている「血」であり、彼らの細胞の一つ一つに含まれる「DNA」と言っていいでしょう。だからパウロは、神の子であるとは、御霊によって「生きる」(13節)ことだと語っているのです。

神の子どもたちの使命

さて、私たち異邦人がユダヤ人とともに一つの神の民イスラエルとなり、神の子どもとされたことには、どのような意味を持っているのでしょうか?もちろん、私たちは神様を父として日々親しい交わりをことができます。それは確かにすばらしい祝福ですが、それだけではありません。多くのクリスチャンはここで止まってしまい、神の子どもであることにどのような大きな祝福と使命が伴うのかを知りません。

8章17節でパウロは、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 」と言っています。私たちが神の子どもであることは、神様からいただける素晴らしい相続財産が約束されているということなのです。それは何でしょうか?その答えはさらに先を読むとわかります。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章18-22節)

18節から22節まで、パウロは突然「被造物」について語り始めます。被造物つまり神様が造られた宇宙の全体が現在は虚無に服してうめいているけれども、世の終わりに「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」(21節)と言うのです。

ローマ書8章のこの部分は、一見するとあまり意味のない余談のように思えるかもしれません。私たち人間がイエス・キリストを信じることによって義と認められ、罪が赦されて、天国に行くことができる・・・そのような救いの理解をもってローマ書を読むと、たしかにこの部分はあまりパウロの議論の本筋と関係のない補足のように見えます。しかし、実はこの部分はローマ書におけるパウロの議論の中で大変重要な意味を持っているのです。

私たちの罪が赦されて、魂が救われること、確かにそれは聖書が教える大切な救いですが、パウロが救いということで考えていたのは、人間の魂の救いだけにとどまらないのです。創世記によると、神様はこの宇宙をすばらしく良いものとして創造されました。そして、この素晴らしい被造物世界を管理し支配する存在として、人間をお造りになったのです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1章27-28節)

神様はこのように人間を被造物世界の管理者として造り任命されました。その後でこう書かれています。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(31a節)。つまり、神様が造られた世界は、人間がそれを愛と知恵を持って適切に管理していく時に、「非常に良い」世界となったのです。

ところが、ご存知のように、最初の人間アダムとエバは罪を犯して神様に反逆し、堕落してしまいました。その結果として、非常に良いものとして造られたこの世界ものろわれた存在となってしまったのです(創世記3章17-18節)。これがパウロがローマ書で「被造物が虚無に服した」と言っていることの意味です。聖書全体で語られている神様の救いのご計画とは、この虚無に服した被造物世界を元通りの「非常に良い」世界に回復することにほかなりません。もちろんその中には、世界の管理者である人間の回復すなわち救いが含まれています。けれども、神様の救いは人類の救いだけにとどまるものではなく、この被造物世界全体の回復にまで及んでいくのです。

しかも、人間の回復も、単なる魂の救いにとどまるものではありません。パウロはローマ8章23節で次のように述べています。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 」

多くのクリスチャンは「救い」という言葉を聞くと、死んだ後霊魂が肉体を離れて天国に行き、そこで神様とともに永遠に過ごす、ということを考えますが、聖書がはっきり述べている、クリスチャンの究極の望みは、私たちの肉体が復活するということです。聖書は、物質を霊より劣ったものとか邪悪なものとは言っていません。この物質世界は神様が造られた良いものだという理解があります。神様の救いの完成とは、この被造物世界が回復し、栄光の身体に復活した神の子たちによって素晴らしく管理され、神様の栄光を表していくということなのです。これがパウロが21節で「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」と言っていることの意味なのです。

ここで23節にもう一度注目してみましょう。パウロはここで世の終わりに起こる肉体の復活について語っているのですが、それは同時に「子たる身分を授けられること」であると言っています。ここで疑問に思う人がいるかもしれません。私たちは14-15節で、キリストを信じる私たちは、現在既に神の子どもとされていることを学んだばかりです。それなのに、どうしてパウロは世の終わりに私たちが神の子にしていただくと言っているのでしょうか?

この疑問に答えるためには、パウロが「世の終わり」というものをどのように理解していたかを知る必要があります。パウロは、イエス・キリストが来られて、十字架にかかられ、復活された時にすでに世の終わりは始まっていると考えていました。けれども、最終的な終わりはまだ来ていません。それは、将来キリストが再臨され、すべての死者が復活する時に起こるというのです。新約聖書によると、世の終わりは二段階で来ます。回りくどい言い方をすると、「終わりの始まり」はイエス・キリストが最初に来られた時で、「終わりの終わり」はキリストが再臨される時なのです。

私たちが神の子とされるということも、このような枠組みの中で考えることができます。私たちは今現在キリストを信じ、聖霊を受けた時に既にある意味で神の子とされました。けれども私たちは「神の子ども」としての人生をフルに生きているわけではありません。私たちが完全な意味で「神の子ども」になるのは、世の終わりに、栄光のからだに復活する時なのです。私たちはこのことをどのようにして信じることができるのでしょうか?それは、私たちに聖霊が与えられているという事実によってです。パウロはこのことを「御霊の最初の実を持っている」(23節)と表現しています。「最初の実」は新改訳聖書では「初穂」と訳されていますが、「初穂」とは、畑の穀物の収穫の最初の部分のことです。昔のイスラエル人は、この初穂を神様に捧げました。初穂が捧げられたということは、やがてまもなく本格的な収穫が始まることを保証しています。今現在私たちに聖霊が与えられている事実は、やがて世の終わりに私たちの身体が贖われることの保証なのです。

もう一つ、私たちの復活を保証している事実があります。それは、イエス・キリストがすでに私たちに先んじて復活してくださったことです。パウロは1コリント15章でイエス・キリストの復活のことも「初穂」と呼んでいます(1コリント15章20、23節)。イエス様は完全な神の子としてまずよみがえってくださいました。私たちも世の終わりにはこのキリストと似た者に復活する希望が与えられているのです。その時私たちは本当の意味で「神の子ども」となることができます。パウロはこのことをローマ8章29b節で、「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」と表現しています。イエス様が、贖われた神の子どもたちの長子となってくださり、贖われた被造物世界の管理を導いてくださいます。これが神の子どもとしての教会の最終的な務めなのです。

子としてくださる愛

ここまで、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた私たちは神の子どもとされたこと、それは神の民イスラエルに組み入れられることであり、最終的にはキリストを長子として被造物世界を治める神様の働きに参加させていただく希望があることについてお話してきました。最後に、これらすべてを貫く一つの大切なテーマについて触れたいと思います。それはということです。

これまで見てきたことから、神様がこの地上における救いのご計画を進めていくのは、この地上においてご自分の子どもたちの輪を拡げていくことによってである、ということが分かります。神様はまずイスラエルを選び、ご自分の子とされました。その後、イエス・キリストが来られてから、「神の子ども」となる特権は、異邦人も含めて、信じるすべての人に拡大されました。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1章12節)とある通りです。

パウロが言うように、異邦人は神様の養子となって、神の家族であるイスラエルに迎え入れられた存在です。ここで問題となるのは、神様は元から神の子らであったユダヤ人と同じように、異邦人も愛してくださるのだろうか、ということです。養子になった子どもが一番気にするのは、自分が家族の一員として本当に受け入れてもらえているか、特に、養父母に実の子がいる場合には、その子たちと差別されることがないか、ということです。養子になったある子どもが、養母にこう尋ねたそうです。「ママのお腹に新しく赤ちゃんができたら、私は元の所に送り返されるの?」パウロの答えはどうでしょうか?

パウロが生きたローマ時代には、養子縁組の制度は社会的にとても重要な役割を持っていました。ある学者は次のように説明しています。

「養子にされた人物はそれ以前の環境から引き出され、すべての負債は帳消しにされ、新しい家長の息子として新しい人生を歩み始め、家長の名字を名乗り、相続権を持つようになる。新しく父となった者は今や養子の財産を所有し、彼の人間関係を統制し、しつけを行う権利を持つと同時に、彼を養う責任を持ち、その行動に関しても法的責任を負う。これらすべてにおいて、養子はその家で自然に生まれた子どもたちとまったく同じ扱いを受ける。養子縁組は法的な行為であって、証人によってあかしされる。」(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed, pp. 65-66)。

神様が私たちを養子にしてくださったとパウロが言う時、彼が念頭に置いていたのはこのような社会的関係でした。神様は私たちを罪と死の奴隷状態から解放してくださり、ご自身との新しい親子関係の中に入れてくださいました。私たちは神の子どもとしてのあらゆる法律的な権利を与えられた存在であり、そのことは私たちに与えられている聖霊が証ししてくださるのです。

ローマ書8章15節でパウロは、異邦人の読者に対して二人称で「あなたがたは・・・子たる身分を授ける霊を受けたのである。」と語った後、一人称複数形を使って(つまり、パウロたちユダヤ人クリスチャンも含めて)「その霊によって、わたしたちは、『アバ、父よ』と呼ぶのである。」と語っています。御霊によって神様を「アバ、父」と呼ぶ者は、ユダヤ人でも異邦人でも同じ神の子どもなのです。

ローマ書2章11節には、ユダヤ人と異邦人の関係についてこう書かれています。「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。えこひいきのない神様。公平な神様。異邦人の使徒と呼ばれたパウロの宣教活動を支えていたのは、この確信だったのかもしれません。神様はユダヤ人も異邦人も関係なく、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださいます。子としてくださる御霊は、愛の御霊でもあるのです。

そればかりではありません。先ほど、8章29節で世の終わりには御子キリストが復活した神の子たちの長子となられるということを見ました。ユダヤ人と異邦人が分け隔てなく神の子どもとされることもすごいことでしたが、ここでパウロはさらに驚くべきことを述べています。つまり彼は、父なる神様は、御子イエス様が神の子であるのと同様に、私たち人間をもご自分の子どもとしてくださるというのです。

パウロは、私たちクリスチャンの信仰の歩みはキリストに似た存在につくり変えられていくプロセスであるということを述べています。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (2コリント3章18節)

しかもこれは、単に私たちの内面がきよめられて、キリストに似た人格になっていくということだけでなく、最終的には私たちの肉体も、復活のキリストと似た栄光の身体に変えられるというのです。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(ピリピ3章21節)

このことはもちろん、イエス様が神であるのと同じように私たちも神になるということではありません。けれども、私たちは神であるイエス様が持っておられる様々な良い性質に与るものとなる(2ペテロ1章4節)ということです。

ここに神様の偉大な愛が表されています。父なる神様は、御子イエス様を愛されたのとちょうど同じように、分け隔てなく私たち信じる者を愛してくださるのです。イエス様が十字架にかかられる前にこう祈られました。

わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネ17章23節)

私たちが神様の愛の中で一つになること、父・子・聖霊なる三位一体の神様が永遠の昔から持っておられた全き愛の関係の中に私たちも参加させていただくこと、それが神様の救いの究極的な目的です。

このような愛は世の中の価値観とは対立するものです。だから今の世でそのような愛に従って生きようとするなら、そこには苦しみが伴います。パウロはローマ書8章17節で、「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」と言っていますが、彼はクリスチャンとして神の子とされた者には苦しみが必然的に伴うと言っています。けれども彼は続けて、「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(18節)とも言っているのです。もし今苦しみの中にある人がおられるなら、その方は復活のイエス様を思ってください。私たちもその主と同じ姿に変えられていく希望があるのです。

けれども、そのような栄光に満ちた祝福の希望は、世の終わりになってはじめて実現することではなく、今ここですでに始まっているのです。私たちクリスチャンが神の家族として互いに愛し合う時に、神の国が地上に現れ、世の終わりが現在に訪れます。そして、ヨハネが言うように、そのことを「世が知る」ようになっていきます。教会が本当の意味で神の家族になっていくことは、もっとも強力な宣教の働きであるのです。

私たちクリスチャンが互いを「兄弟姉妹」と呼び合うこと、神様を「天のお父様」と呼ぶこと、それは単なるキリスト教の「業界用語」ではありません。もし私たちがその本当の意味を知るだけでなく、その真理に従って生きていくなら、私たちを通して神の国が表されていくのです。

 

復活の福音

このところ多忙のためブログの更新が滞っていましたため、久しぶりの投稿になります。昨日の復活主日の礼拝にお招きいただいて語らせていただいたメッセージに手を加えて公開します。

復活の福音

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。(1コリント15章1-5節)

復活の中心性

イエス・キリストの復活をお祝いするイースター(復活祭)はキリスト教の祝日の中で最も重要なもので、ある意味でクリスマスよりも大切なものです。今日の主題聖句でパウロは、コリントのクリスチャンたちに、彼が宣べ伝えている「福音(良い知らせ)」とは何かということを説明しています。その内容は、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと、そして復活後に弟子たちに現れたことです。つまり「福音」の最も大切な要素は、キリストの十字架の死と復活であることが分かります。

私たちクリスチャンは「福音」という言葉をよく使いますが、自分でもあまりよく分からないまま使ってしまっていることがあります。クリスチャンに「福音の内容を簡潔に要約してみてください」というと、「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださったので、そのことを信じるだけで罪がゆるされて天国に行くことができる」というふうに答えることが多います。これは間違いではありませんが、福音の全体ではありません。「福音とは何か」という問題はとても大きな問題で、今日はすべてをお話しする時間がありませんが、このイースターにどうしてもお伝えしたいことは、キリスト教の福音には「イエス・キリストの復活」という要素が必要不可欠だということです。

実際、パウロはキリストがもし復活しなかったなら、キリスト教信仰全体がむなしいものになってしまうと言っています:

もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。(1コリント15章14-15節)

さらに別の箇所でパウロはこうも言っています:

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ10章9節)

ここで興味深いのは、パウロは人が救われるために信じるべきことがらとして、「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」ことを挙げていることです。逆に言えば、パウロによると、イエスの復活を信じなければ救われないということになるのです。

イエス・キリストが十字架で死なれ、三日目によみがえったことは、キリスト教の中心的な信仰内容です。誤解を恐れずに言うなら、イエス・キリストが復活したことを認めないキリスト教は本物のキリスト教ではありえないのです。そのくらい復活というのは大切なものです。

復活の事実

ですから、キリストの復活が歴史的事実であるということを信じ告白することは、クリスチャンにとって絶対的に必要なことです。しかし、およそ二千年前にユダヤに生きたナザレのイエスという人物が、十字架刑に処せられて死んだ後、三日目によみがえったなどということが、どうして信じられるのでしょうか?

まず、死人がよみがえるなどということは科学的にありえないと考える人々が当然います。けれども、この宇宙のすべてを作り、自然法則も支配しておられる神がもし存在するなら、その神が通常の自然のプロセスを覆すような介入を行うことができないと考える理由は何もありません。ですから、私たちが考えなければならない問題は、「神は死人をよみがえらせることができるか?」という原理的な問題ではなくて、「神はナザレのイエスを実際によみがえらせたのか?」という、歴史的事実の問題です。

個人的には、イエス・キリストが復活したことを裏付ける最大の証拠は、キリスト教という宗教が存在していることだと思います。

聖書によると、ガリラヤのナザレ出身(生まれはベツレヘム)のイエスという人物は、3年半の間神の国の福音を宣べ伝え、多くの弟子を作りました。しかし、イエスが捕らえられて殺された時、弟子たちは散りぢりになり、すべての希望を失ってしまいました。イエスが始められた宗教運動は、リーダーであるイエスの十字架の死によって、あっけなく消滅するかに見えました。ところが、その同じ弟子たちがわずか数十日後には大胆に立ち上がって驚くべき一大ムーブメントを開始したのです。しかも、彼らの中心的なメッセージは「イエスはよみがえり、今も生きている」ということだったのです。

このような弟子たちの劇的な変化は、どう説明したらよいのでしょうか?単に「イエスは死んでしまったけれども、弟子たちの心の中で生き続けている」ということではとうてい説明できません。イエスの復活のインパクトはあまりにも大きかったので、クリスチャンたちはユダヤ教の安息日であった土曜日ではなく、イエスがよみがえられた日曜日に礼拝のために集まるようになりました。このような変化を説明するもっとも説得力のある答えは、キリストが事実よみがえったというものです。

ある人々は、弟子たちはイエスを慕うあまり集団幻覚に襲われたと考えます。しかし、もしそうだとすると、ユダヤ人指導者など、キリスト教の反対者たちが弟子たちを黙らせるのは簡単でした。イエスの墓から死体を出してきて示せばよかったのです。しかしそのような反論はなされませんでした。

あるいは、弟子たちはこっそりイエスの死体を盗み出して、イエスがよみがえったと嘘をついたのでしょうか?マタイ福音書28章には、実際ユダヤ人たちの間でそのような噂が広まったことが記されています。しかし、そのためには復活のイエスに出会ったと称する何百人という弟子たちが口裏を合わせなければならなかったはずです。しかも、初代教会の弟子たちはその信仰のために命をもささげたことが分かっています。自分が心から信じている思想信条のために命を捨てる人はいますが、自分で嘘だとわかっていることのために苦しんだり、まして命を捨てたりする者はいません。少なくとも一人くらいは、迫害に耐えかねて秘密を暴露したに違いありませんし、そうなれば弟子たちのいわゆる「陰謀」は水の泡になったはずです。しかし、そのようなことも起こりませんでした。

またある人々は、イエスは本当には死んだのではなく、墓の冷たい空気に触れて仮死状態から生き返り、一人で抜け出してどこかに行ったと考えました。このような「イエス生存説」は今でも時々大衆向けの小説や映画などで現われます。しかし、ローマ式の壮絶な39回の鞭打ちを受け、十字架に釘付けにされ、槍で脇腹を突き刺され、布でぐるぐる巻きにされ、墓に入れられて、大人の男性が2,3人がかりでやっと動かせる巨大な岩で蓋をされた状態からイエスがたとえ息を吹き返したとしても、その状態からローマの番兵の目を逃れて自力で脱出できたとはとうてい思えません。しかも、この説では、弟子たちが復活のイエスに出会ったと証言している事実を説明できないのです。

キリスト教の起源についてもっとも説得力のある説明は、イエス・キリストは死んで三日目に確かによみがえられたということです。

Grunewald-Resurrection

マティアス・グリューネヴァルト「キリストの復活」

復活の意味

ここまで、イエス・キリストが十字架で死なれてから確かによみがえったこと、それを信じることがクリスチャン信仰の核心であることを見てきました。けれども、キリストの復活は、私たちの信仰生活にとって、具体的にどういう意味を持っているのでしょうか?

最初に考えなければならないのは、イエスの復活はどういう性質のものだったかということです。実は聖書の中には、イエス以外にも死人が生き返った事例が記されています。旧約聖書にも、預言者エリヤ(1列王17章17節以下)やエリシャ(2列王13章21節)が死人を生き返らせた話が記されています。また、福音書でもイエスが何人もの死人を生き返らせたことが書かれています。最も有名なのは、ヨハネ福音書11章に書かれている、ラザロの例でしょう。使徒行伝でも、ペテロ(使徒9章36節以下のドルカス)やパウロ(使徒20章7節以下のユテコ)が死人を生き返らせたことが記されています。

しかし、これらの箇所に書かれているのは、イエスの復活と同じ種類のできごとではありません。これらの人々に起こったことは、「復活」というよりも「蘇生」というべきものです。彼らは通常の肉体の生命活動を再開しましたが、その後やがて普通の人間と同じように死んでいきました。

しかし、イエスの場合はもはや死ぬことのない、全く新しい形態のいのちによみがえったのです。復活のイエスは決して幽霊のような存在ではなく、物質的な肉体を備えていましたが(ルカ24章39節)、それは私たちが現在持っている肉体とは異なる性質(たとえば閉め切った部屋に現れるなど)を備えたものでした(ヨハネ20章19節)。この肉体はもはや決して死ぬことのないものであり、イエスはその新しい肉体をもったまま、弟子たちの見ている前で天に上げられて行ったのです(ルカ24章51節、使徒1章9節)。

パウロは、イエスの復活は、世の終わりに起こる死者のよみがえりの「初穂」であったと言います(1コリント15章20節)。「初穂」というのは、農作物の収穫の最初の部分を指します。初穂が現れたということは、間もなく本格的な収穫が始まることを示しています。復活のイエスは、やがて訪れる、神が支配する新しい世界のリアリティと、そこにある新しい形態の生命を先取りして示したものでした。イエスの復活は、もはや死に支配されることのない、神にある新しいいのちの「初穂」だったのです。つまり、イエスが確かに復活したと信じることは、同時に私たち自身もやがて同じような復活、もはや死に支配されることのない新しいいのちに生きる希望を持つことなのです。パウロはこのことを次のように説明しています:

すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。(ローマ6章4-5節)

私たちがイエス・キリストを信じてこの方と一つになっているなら、イエスを死者から引き上げた神は、私たちのからだをもよみがえらせてくださるのです。

復活と父なる神

ところで、新約聖書におけるイエス・キリストの復活についての記述を調べていくと、興味深い事実が分かります。日本語で「キリストが復活した」というと、なにか死んでしまったイエスが自分の力で新しい命をもってよみがえったかのような印象を受けますが、聖書ではイエスは自分の力で復活したとは書かれていないのです。原文のギリシア語では常に彼は父なる神によって死人のうちから「引き上げられた」という形で語られています。つまり、厳密に言うなら、復活はキリストご自身のわざではなく、父なる神のわざなのです。

このことはとても重要だと思います。私たちはイエス・キリストは全能の神の御子だから、死んでも自分で簡単に生き返ることができると思いがちですが、そうではありません。新約聖書によれば、十字架で死んで葬られたイエスは自分の力でよみがえることはしませんでした。イエスは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。イエスは私たちの罪を背負い、父なる神から断絶されるという苦しみを味わってくださいました。けれどもルカ23章46節によると、イエスは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と語って、息を引き取られました。イエスすべてを失ってもまだ自分を死から引き上げてくださる父を信じ、ご自分を父の御手にゆだねられたのです。イエスの死には、父なる神に対するイエスの完全な信頼が表れています。

そして、父なる神がイエス・キリストをよみがえらせたということは、神の力と愛を表しています。死は人類のもっとも恐ろしい敵と言っても良いでしょう。どんな金持でも、権力者でも、賢い人でも、死を免れることは誰もできません。パウロも死のことを「最後の敵」(1コリント15章26節)と呼んでいます。死の支配から助け出すことができるのは、すべての生命の源であり、世界のすべてを支配しておられる神ご自身しかありません。

けれども、復活は単なる神の全能性の証しではありません。神がイエスをよみがえらせたのは、ただご自身の力を誇示するためではありませんでした。イエスの復活に表されているのは、神の力だけでなく、神の愛でもあるのです。

イエスの復活は、イエスの十字架を抜きにして理解することはできません。神はひとり子イエスをお与えになったほどに、この世を愛されました(ヨハネ3章16節)。またイエスは律法で最も大切な戒めは、神と人を愛することであり(マタイ22章37-40節)、さらに自分の敵さえも愛しなさいと言われました(マタイ5章44節)。イエスの地上での働きを一言で要約するなら、「愛」ということができます。

しかし、そのような真実な愛に生きようとする姿勢は、この世では歓迎されません。真実な愛を貫こうとしたイエスの働きの行き着くところは十字架の死でした。ある意味で、十字架はこの世が神の愛に対して突きつけた、冷酷な「否(No)」だったのです。この世において、イエスが教え、実行されたような愛に生きる人生は無意味で、愚かで、時には危険なものと見なされます。

けれども、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。それは単に神の全能の力を表しているだけではありません。復活はイエスの示された愛の生き方、愛のメッセージに対する神の「しかり(Yes)」なのです。

死者を生かす神

聖書の中で、死者を生かす神を信じた人の話が出てきます。それはアブラハムです。

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 18  この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 19  彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。(ヘブル11章17-19節)

神はアブラハムに対して、彼の子孫を大いに祝福する約束を与えられました。彼は老人になるまで子がありませんでしたので、信仰の試練を経てようやく与えられた、たった一人の跡継ぎであるイサクをたいへん愛していました。ところが神はアブラハムに、モリヤの山の上で愛する息子イサクを殺して捧げよと言われたのです。この一見不条理とも思える命令に対して、アブラハムは従順に従います。けれども、アブラハムがイサクをまさに殺そうとした時、天使が現れて彼をとどめます。創世記22章に書かれているこの有名なエピソードについて、ヘブル書の著者は、これはアブラハムが「神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」と信じていたからだ、と解説しています。

アブラハムとイサクが歩いたモリヤへの道。イエスが歩いたゴルゴタへの道。どちらの場合も、神による救いの約束は、不条理な死によって葬り去られようとしていました。アブラハムの場合は、イサクを通して神の民が興されるという約束、イエスの場合はメシヤであるご自身を通して神の国が到来するという約束です。けれども、どちらの場合も、死者を生かす神が介入されています。アブラハムの場合はイサクの実際に生命が失われる直前に、そしてイエスの場合は、死んで葬られてから三日後に。この神にとっては、遅すぎるということはありません。

復活と神の真実

死者の復活が意味しているのは、神は真実なお方であり、必ず約束を果たされるお方だということです。何物も、死でさえも、それを妨げることはできません。そして、この方に信頼して生きる者たち、この世的に見てどれほど愚かであっても、イエスの模範に従って生きる者たちには報いがある、ということです。神は死者を生かしてくださるという復活の信仰が、復活の信仰だけが、神に全てをゆだねて生きる生き方、打算のない完全に自己犠牲的な愛の生き方を可能にしますし、またそのような愛が単なる理想主義的な幻想ではなく、実際に働くものだということを示してくれるのです。

私たちが生きているこの世界は、不条理な世界です。正直者が馬鹿を見る世の中です。素晴らしい人物が若くして病気や事故で亡くなったりすることもあります。イエス・キリストを信じるクリスチャンであっても、様々な悩みや苦しみの種は尽きません。そして、神を信じていてもいなくても、やがて私たちは死を迎えることになります。では、イエス・キリストを信じることに何の意味があるのでしょうか?それは、私たちには死を超えた希望がある、ということです。私たちはイエスを死からよみがえらせた神は全能の神であり、私たちをもいつの日か死からよみがえらせてくださることを信じることができます。そして、この神を信じて、その愛の教えに生きることは決して無意味でも愚かなことでもありません。私たちはいつの日か、神に従って生きた人生に対して、神ご自身が「しかり(Yes)」と言ってくださる声を聞くことができるのです。

なぜ復活は「福音(良い知らせ)」なのでしょうか。それは、イエス・キリストの復活にこそ、聖書の神の本当の姿、神の愛が表されているからです。

天の玉座の間の祈り

前回の投稿では、黙示録4-5章に描かれている、天の御座の幻の箇所をテキストにしておこなった礼拝説教をご紹介しました。宇宙の中心は天の神殿にある神の御座であり、その周りでは天使たちまた全被造物が常に神とキリストを礼拝しています。そして、私たちが地上で捧げる礼拝は、その天における礼拝に参加することだという内容でした。

N・T・ライトの著書Simply Christian(近く邦訳が出るそうです)に礼拝について書かれた章があります。ライトは礼拝において聖書ナラティヴの全体を語ることの重要性を述べていますが、そのナラティヴの重要な要素は「創造」と「救済」の二つであると述べています。これはまさに黙示録の4章(創造者なる父への礼拝)と5章(救済者なるキリストへの礼拝)の内容に対応しています。実際、ライトは黙示録のこの2章について詳しく説明した後、こう述べています。

これこそ礼拝の意味に他なりません。それは、おのれの創造者と小羊イエスの勝利を知る被造物から、造り主なる神と救い主なる神に向けて捧げられる喜びの賛美の叫びなのです。これこそ天、すなわち神の次元において常に進行中の礼拝なのです。私たちが問うべきは、どのようにしたらその礼拝に最善の形で参加することができるのか、ということです。(原書146-47頁、拙訳)

この後ライトはさらに教会の礼拝のあるべき姿について論じた後、この章の最後で、礼拝は教会だけでなく個人や小グループでもなされるべきと書いています。つまり、私たちは教会での公の礼拝においてだけでなく、個人や家族といった場での祈りや礼拝においても、天における礼拝に参加することができるのです。今回はこのことについて書いてみたいと思います。

前回の投稿では含めませんでしたが、先日の礼拝説教では、最後に会衆一同で祈りの時を持ちました。その時にしたことは、黙示録4-5章に出てくる、天の会衆の賛美の言葉(4章8節、11節、5章9-10節、12節、13節)を声に出して全員で朗読・告白することでした。地上における私たちの礼拝が天における礼拝に参加することであるなら、これらの聖句をもって祈ることは聖書的で理にかなっていると思われます。その時の礼拝では会衆が聖霊によって一つにされているだけでなく、全被造物による礼拝に参加しているという聖書の約束を実感することができ、たいへん祝福された時を持つことができました。

実は、4-5章から抜き出した賛美の言葉をもって祈るということは、その少し前から個人的な祈りの中でも実践していることでした。一般的に聖書の言葉を用いて祈るということはとても有益な祈りの方法ですが、この祈りは、ライトの言う「創造」と「救済」という聖書ナラティヴの二大要素を含んでおり、天と地の接点としてのクリスチャンの位置づけを日常の信仰生活の中で確認することができる点で、個人的に大変有効であると実感していますので、以下にお分かちしたいと思います。

ここにご紹介するのは、私が個人的に用いている祈りのパターンです。私はこれを勝手に「天の玉座の間の祈り The Heavenly Throne Room Prayer」と呼んでいます。この祈りの中心となるのはもちろん、黙示録から抜き出した聖句を告白して祈ることですが、これらの聖句を祈る時に助けとなると思われる、黙想のヒントとなるポイントもいくつか挙げています。重要なのは、この祈りを通して天の玉座の間でなされている礼拝に参加していることを意識することです。言うまでもないことですが、ここに書かれた通りに祈らなければならないということは全くありませんし、私自身毎回祈る度に少しずつパターンが変わっています。拙い祈りですが、もし有益と思われる方がおられたら、自由にアレンジして用いていただければ感謝です。

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<天の玉座の間の祈り The Heavenly Throne Room Prayer>(黙示録4-5章)

1.準備:天の礼拝への参加
・聖霊の導きを祈る(4章2節)。霊とまことによって礼拝する真の礼拝者としていただくことを求める(ヨハネ4章23-24節)。
・日常の悩みや思い煩いを地上に残して、天に昇る様を想像する(4章1節)。特にとりなしたい人々がいる場合は、彼らと共に天に昇る様を思い描く。
・宇宙の中心にある、天の神殿の玉座の間を想像し、御座に着いておられる神と、その周りで主を賛美し礼拝する天使たちを思い浮かべる。(4章2-8節)
・ここで賛美歌を歌ってもよい。

2.造り主なる神(御父)への賛美

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者。(4章8節)

われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります。(4章11節)

・ここでは特に次のポイントについて思い巡らす:
  -神の聖さ
  -神の永遠性
  -神の主権
  -神による万物の創造(過去)と保持(現在)
  -終末における神の到来(「後に来られる方」)
・御座におられる神の前に冠を投げ出し、ひれ伏して礼拝する思いをもって祈る(4章10節)。自分に与えられているすべての賜物や名誉、リソース等はすべて神から与えられたものであることを思い起こし、すべての栄光を神にお返しする。
・自分(また特にとりなしたい人々)も、神の御心によって造られ支えられていることを感謝する。
・黙示録ではこれらの賛美が絶え間なく繰り返されていた(4章8-9節)とあるので、私たちも全体を、あるいは心にとまった部分を好きなだけ繰り返してよい。あせらず、ゆっくりと、時間をかけて祈り、賛美する。導きを感じたら次に進む。以下同様。

3.救い主なるイエス・キリスト(御子)への賛美

あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう。(5章9-10節)

ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。(5章12節)

・黙想のポイント:
  -ほふられたと見える小羊が神の御座の右にあるイメージ
  -キリストの十字架と復活の「新しさ」を思う。キリストのみわざによって終末の新しい時代が始まったことについて思い巡らす(2コリント5章17節参照)。
  -終末に至る歴史の展開を導くキリストの主権(巻き物の封印を解く)
  -キリストがすべての民族から神のために人々をあがなわれたこと
  -神の民の王国また祭司としてのつとめ(「地上を治める」)
・自分(また特にとりなしたい人々)も、キリストによって贖われ、王国また祭司とされたことを感謝する。
・小羊への7重の賛美(12節)は「あらゆる賛美」を意味するので、これら以外にも様々な言葉で賛美してよい。

4.三位一体の神への賛美

御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように。(5章13節)

・御座におられる神とその右におられるキリストだけでなく、御座の前におられる聖霊(4章5節)も含めた三位一体を思い浮かべる。聖霊も父と子と共にあがめられる方(ニカイア・コンスタンティノポリス信条参照)。
・黙想のポイント:
  -王としての神の栄光
  -神の国の永遠性
  -全被造物の礼拝(5章13節前半)

5.地上への帰還

・天上の玉座の間を離れ、地上に戻る様を想像する。
・自分(また特にとりなしたい人々)が神によって創造され、生かされ、キリストの血によって贖われ、神の王国また祭司として地を治めるために遣わされていることを確認する。(5章10節)
・今日の自分の生活を通し、教会を通して、天と地がつながり、天の支配が地上に表されるように祈る。
・主の祈りで締めくくってもよい。

天と地の礼拝

所属教会で礼拝説教のご奉仕をさせていただきましたので、若干修正を施したテキストをここにアップしたいと思います。通常、ここまで長いテキストは何回かに分けて投稿しますが、礼拝説教という性格を考慮して、1回の投稿にまとめました。

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「天と地の礼拝」

さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。 (黙示録5章11-14節)

聖書の中にはいろいろと素晴らしい箇所がありますが、個人的に黙示録4-5章(天の御座の場面)は聖書全巻の中で最も美しい箇所の一つだと思っています。黙示録の記者ヨハネは御霊の感動を受けて、天の幻を見せられます。彼は天に引き上げられ、そこに何があるか、何が起こっているかを見るのです。

4章の冒頭を見ますと、ヨハネがまず目にしたのは、一つの御座と、そこに着いておられる方、すなわち神ご自身でした(4章2節)。神の御座は王座であり、神が御座に着座された方として描かれているのは、王としての権威と力を表しています。

ヨハネは紀元1世紀の終わり頃に黙示録を書きましたが、当時彼が生きていたローマ帝国では、世界の中心はローマであり、そこにある王座に着いている皇帝が世界を支配する存在であると考えられていました。これに対してヨハネは、神が全宇宙を支配されるお方であり、その御座が宇宙の中心だと言います。これは黙示録のみならず、聖書全巻を貫く基本的な世界観です。黙示録が書かれた時代にはエルサレムの神殿は存在しませんでした。紀元70年にローマ軍によって破壊されたからです。けれども、ヨハネの幻において天の神殿は無傷のまま存在しており、そこでは神ご自身が全宇宙を統べ治めておられます。地上のエルサレムにある神殿は、天にある神殿のコピーに過ぎないのです。

それからヨハネは、御座の周りに何があるかを描いていきます。細かい描写を省略して述べますと、御座のすぐ周りには4つの生き物がおり、その周りに24人の長老たちがいました。これらは神に仕える高位の天使たちを表していると思われます。これらの存在が何者なのか、また、それぞれの特徴ある姿は何を表しているのか、いろいろな解釈がありますが、それよりも重要なのは、彼らが何をしているかということです。

4章8-11節には、この4つの生き物と24人の長老は昼も夜も絶え間なく神を賛美し礼拝している、と書かれています。天の御座の周りでは、天使たちが一日24時間、一日も休まず神を礼拝し賛美しているのです。イザヤ書の6章にも同様の箇所があり、そこではセラフィムと呼ばれる天使が御座の周りを飛び交いながら主を賛美していたとあります。イザヤの時代も、ヨハネの時代も、そして今この瞬間も、天では絶え間ない礼拝が捧げられているのです。

ここで重要な事があります。黙示録というと、遠い未来のことを書いた本というイメージがありますが、黙示録の記述のすべてが未来について書かれているわけではありません。この4-5章はヨハネの時代に起こっただけでなく、現在も天において起こっている出来事を描いている、ということを覚えていただきたいと思います。

さて、天使たちは何と言って神を賛美しているのでしょうか?4章8節では四つの生き物が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」と言い、11節では24人の長老が「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」と言っています。これらのことばから総合すると、神は聖なる方、永遠に生きておられる方、万物を創造し、今も支配しておられる方であり、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方であると言うことです。4章では全体として、創造者としての神が賛美されています。聖書の神は天地万物を造り、今もそれを支えておられる神です。この方に向かって長老たちは「われらの主なる神よ」と叫ぶのです。このような素晴らしい神を「われらの神」と呼ぶことができるのは、何という特権でしょうか。私たちの賛美と礼拝も、この天における礼拝にならうものになりたいと思います。

しかし不思議なことに、この光景を見たヨハネはあまり嬉しそうではありません。5章4節で彼は激しく泣いています。なぜでしょうか?彼は天に昇って、そこで世界の王である神の栄光を見、このお方に対して天使たちが絶え間なく賛美と礼拝をささげている姿を見ました。それは確かに素晴らしい光景でした。しかし、彼が知っている地上の現実はそのような栄光溢れる世界とはかけ離れていたのです。

ヨハネが主から啓示を受けた時、彼がどのような境遇にあったかは、1章9節に書かれています。

あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

当時ローマ帝国の中でクリスチャンは急速に増えていきましたが、同時に迫害も起こっていました。ヨハネもイエス・キリストについてのあかしのゆえに、エーゲ海に浮かぶパトモスという島に流刑になっていたのです。

ヨハネも仲間のクリスチャンとともにイエス・キリストを主と信じて従っていたのですが、万物の支配者である王なる神を信じていても、現実は何も変わらない、いや時代が進むとともにもっと悪くなっているように見えたのです。どうしてそのようなことがあり得るのでしょうか?なぜまことの神を信じるクリスチャンたちがこれほどまでに苦しまなければならないのでしょうか?ヨハネはそのような信仰の葛藤を抱えていたかもしれません。しかしそのような中で彼は天に引き上げられ、神の御座の幻を見たのです。

どんなに厚い雲が地上を覆い、雨や雪が降っていても、飛行機でその上まで昇ると、上空ではいつも太陽が輝いています。それと同じように、地上の状況はどのように悲惨であっても、天では神の栄光が常に讃えられています。これはある意味では慰めですが、その慰めは完全なものではありません。確かに天においては神の栄光ある支配はつねに完全に表されていますが、地上では未だそうなっていないからです。つまり神の国の支配は、今現在は完全に地上にまでは及んでいないのです。このような天と地が分断された状態はいつまで続くのでしょうか?

その答えは5章で与えられます。そこでは天の幻に新しい展開が起こります。ヨハネは王座に着いておられる神の右手に一本の巻き物があるのを見ます。この巻き物には、世界の歴史に対する神のご計画が述べられています。その内容は一言で言うと、神がすべての悪の力に勝利し、天においても地においてもご自分の支配を完全に確立されるということです。しかし、そのご計画はまだ成就されていません。巻き物が封印されているということは、神の御心が地になされることがとどめられている状態を表しています。だからヨハネは4節で激しく泣いているのです。

しかし、その時ヨハネに天使が語りかけます。「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(5節)その言葉の通りに、ほふられた小羊キリストが登場し、神の手から、封印された巻き物を手渡されます。小羊が巻き物の封印を解くということは、キリストが歴史に対する神のご計画を成就させることを表しています。ここでヨハネは、彼独特の表現でキリスト教の「福音(良い知らせ)」の本質を語っています。「ほふられたとみえる小羊」(6節)と言う表現は明らかに十字架上のキリストの死と、それに続く復活を表しています。それは私たち一人ひとりの罪のゆるしのためばかりでなく(1章5節)、世界の歴史が新しい時代を迎えるためでもあったのです。

その結果何が起こったでしょうか?先ほどの4つの生き物と24人の長老たちが今度は小羊の前でひれ伏して礼拝して言います。

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (5章9-10節)

神の国の支配が天だけでなく地にも及ぶということは、どのようにしてなされるのでしょうか?それは小羊キリストの血によって贖われた人々、すなわちクリスチャンが「御国の民」(直訳は「王国」)となり「祭司」となって「地上を支配する」ことを通してなのです(1章6節参照)。

このように見てくると、聖書にある私たちの希望は、ただ単に神の栄光が天であがめられていて、地上の苦しい人生が終わればそのような素晴らしい場所、天国に行けるということではないと分かります。そうではなく、その希望とは、天における神のご支配がやがてこの地の上にも及ぶ時が来て、私たち教会もその働きに参加させていただくことができる、ということなのです。

5章の終わりでは、小羊への賛美が天と地に拡がり、満ちあふれる様が描かれています。

さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。 (5章11-14節)

いまや小羊を賛美し礼拝しているのは4つの生き物と24人の長老たちだけではなく、数え切れないほどの御使い、また宇宙に住むすべての被造物が礼拝の輪に加わります。すべての被造物が創造者なる神と主なるキリストをほめたたえるというのは、旧約以来聖書が語ってきたビジョンでしたが(詩篇150篇6節、ピリピ2章10-11節)、今そのことが成就しているのをヨハネは見ます。ヨハネが見た幻のクライマックスは、天地に満ちるすべての被造物が父なる神とイエス・キリストを声を合わせて賛美し礼拝する、という壮大な光景だったのです。

さて、これまで見てきたことは、私たちの信仰生活とどう関係しているのでしょうか?この地上の人生においては、私たちは多くの苦難があり、信仰の激しい戦いを経験しています。しかしその最中で、主を信じる者たちがともに集まって、造り主である神と救い主イエス・キリストを賛美し礼拝する時、私たちは天における天使たちの礼拝、天地のあらゆる被造物たちの礼拝に参加しているのです。繰り返しますが、ヨハネが見た天の御座の周りでの礼拝の光景は、遠い未来に起こるできごとではありません。今この瞬間にも天の御座には父なる神が着座しておられ、その右には主イエスがおられます。そして天使たちがその周りで主を礼拝しているのです。その様子を心の中で想像してみてください。黙示録1章10節では、ヨハネが復活の主からの啓示を受けたのは「主の日」すなわち日曜日、主を礼拝する日であったとあります。彼がパトモス島で流刑仲間のクリスチャンと一緒に細々と礼拝を守っていた時、彼らは孤独ではなく、全宇宙の被造物とともに主を礼拝しているということが分かったのです。現代の私たちも同じように、天の礼拝に参加する特権が与えられているのです。

しかし、先ほども述べましたように、今現在、天と地は完全につながっているわけではありません。まるで厚い黒雲が上空を覆っているかのように、天においてどれほど神の栄光が表され、天使たちが美しい礼拝を捧げていたとしても、地上では依然として暗闇と悪の力が猛威をふるっているように見えます。そのような世界の中で、私たちはどのようにして天の礼拝に参加することができるのでしょうか?

ここでヨハネの福音書の4章を開いてみましょう。サマリヤの地を訪れたイエスは、井戸端で出会った一人のサマリヤ人の女性と会話を始めます。その中で女性はイエスに一つの神学的な問いを投げかけます。

女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。 (ヨハネ4章19-20節)。

サマリヤ人はイスラエルの北王国がアッシリヤに滅ぼされた後、その地に残った住民と外から移住してきた異民族との混血によって生まれてきた民族だと考えられています。彼らはモーセ五書、しかも彼ら独自の編集がなされたものしか聖書として認めず、サマリヤにあったゲリジム山に彼ら独自の神殿を建てて礼拝を行っていました。その神殿はこのエピソードの100年以上前に、ヨハネ・ヒルカノスというユダヤ人の支配者によって破壊されましたが、サマリヤ人たちは依然としてゲリジム山を正統的な礼拝の場所として主張していたのです。

そこで、サマリヤの女性はイエスに、ゲリジム山とエルサレムと、どちらの場所で神を礼拝することが正しいのか、と問いかけるのです。これに対してイエスは次のように答えます。

イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 (21-24節)

「礼拝場所としてふさわしいのはゲリジム山ですか、エルサレムですか?」という女性の問いかけに対して、イエスはどちらともお答えになりません。そうではなく、「霊とまこととをもって父を礼拝する」ことが重要だと言われます。そのように礼拝を行う人々が「まことの礼拝をする者たち」だというのです。

ところで、「霊とまこととをもって礼拝する」とはどういう意味でしょうか?これはただ単に「真心をこめて礼拝する」という意味ではありません。原文のギリシア語にあるプネウマという言葉は「霊」とも「御霊」すなわち聖霊とも理解することができ、さらに、文法的にはここでの「霊」と「まこと(真理)」は同じ存在を指していると考えることができますので、この箇所は「真理である聖霊において礼拝する」とも訳すことができます。ヨハネの福音書16章13節で、イエスは真理の御霊を送られると語られました。また、黙示録4章2節でも、ヨハネは「御霊に感じ」て天に引き上げられ、そこで行われている礼拝に参加したことを思い起こしましょう。

別の角度から見ると、ここでサマリヤの女性が尋ねているのは、「神を礼拝すべき真の神殿はどこですか?」ということだとも言えます。聖書の中で、神殿とは神と人が出会う場所、天と地が交錯する場所です。ゲリジム山の神殿はユダヤ人によって破壊され、エルサレムの神殿もこのできごとから数十年後にローマ人によって破壊されることになりますので、ヨハネが福音書を書いている1世紀末の時点ではどちらの神殿も存在していませんでした。では人が神に出会うことのできるまことの神殿とはどこにあるのでしょうか?ヨハネの答えは「イエス・キリストご自身が真の神殿である」というものです。

ヨハネの福音書では様々な形で、イエスがエルサレムの神殿に代わる存在として描かれています。2章では神殿でものを売り買いする人々を追い出された、いわゆる「宮きよめ」のできごとの後、ユダヤ人たちに対してイエスは「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(19節)と言われました。これに対してヨハネは、これはイエスの復活のことをさして言われたのだと解説しています(21節)。つまり、ヨハネの福音書においては、真の神殿とはイエス・キリストご自身を指しているのです。実際、黙示録21章22節では、世の終わりに天から下ってくる新しいエルサレムにおいて、神とキリストご自身が神殿であると語られています。

ここまでをまとめますと、霊とまこととをもって礼拝する真の礼拝者とは、イエス・キリストという神殿において父なる神を礼拝する人々です。そして、キリストという神殿において礼拝するとは、真理の御霊に導かれて礼拝するということであると言えます。ちなみに、パウロも同じことを少し違う表現で書いています。彼は教会を神殿にたとえていますが(1コリント3章16節)、教会とは聖霊によってキリストのからだに組み入れられた人々の共同体にほかならないのです(1コリント12章13節)。

さて、ヨハネ4章23節でイエスはこの女性に対して、人々が霊とまこととをもって父を礼拝する真の礼拝が行われる時が来る、いやもう今来ている、と言われました。このような礼拝は昔からいつもあったわけではなく、歴史上のある時点から、すなわちイエスが来られ、十字架と復活のできごとがなされて初めて可能になったのです。

ここで、黙示録の天の玉座の間の幻に戻りましょう。

彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。 (5章9-10節)

ここで天使たちが「新しい歌」を歌った、と書かれています。これは天国で作曲された賛美歌の最新作という意味ではありません。歴史の中で決定的に新しいことが起こり、新しい時代が始まった、そのことを歌った歌という意味です。言うまでもなくそれは、小羊であるキリストがほふられてよみがえったできごとを指しています。

つまり、黙示録における「新しい」できごとが始まった「時」と、ヨハネの福音書において真の礼拝が始まるとされる「時」は同じ時、イエス・キリストの時を指しているのです。さらにここではキリストのみわざによって贖われた人々、つまりクリスチャンは、御国の民であると同時に「祭司」でもある、とあります。言うまでもなく、祭司の務めは神殿において神を礼拝することです。その神殿とはイエス・キリストご自身にほかならないのです。

ここで、天において神の御座の前で行われている礼拝と、地上で私たちが捧げる礼拝がどのように結びついているかが明らかになりました。世界中どこにいても、またどのような教派に属していたとしても、どんな人数で、あるいはどんな環境で礼拝を持っていたとしても、私たちが真理の御霊によって神を礼拝する時に、私たちはイエス・キリストというまことの神殿において父なる神を礼拝するまことの礼拝者となることができるのです。

世界には、公に礼拝式を行うことができず、個人の家で隠れるようにして細々と礼拝を守っている人々もいます。中には、同じ場所に集まって礼拝ができず、インターネットを通して礼拝を守っているような群もあります。けれども、すべての礼拝は、それが霊とまこととをもってなされるなら、天において神の御座の周りで絶えず主を賛美している天使たちの礼拝とつながっているのです。私たちの捧げる礼拝が、どんなに少人数であっても、みすぼらしい建物や迫害の中で捧げられるものであっても、私たちは孤独ではありません。聖霊に導かれ、イエス・キリストにあって神を賛美し礼拝する時に、私たちはいつでも世界大、いや宇宙大の聖なる公同の教会の礼拝、永遠に途絶えることのない礼拝の会衆の一部となっているのです。だから私たちの賛美や礼拝が無駄になることは決してありません。そして、私たちがそのようにして礼拝していく時、天と地がつながり、この地に神の国が表されていくことになるのです。そのことを信じて、今日も霊とまこととをもって主を礼拝していきましょう。

黙示録における「福音」(1)

今回からは、ヨハネの黙示録について何回かにわたって書いていきたいと思います。

今年の1月から5月にかけて、名古屋西地区牧師会にお招きをいただいて、「現代に語りかける黙示録」と題して、3回にわたって黙示録についての講演をさせていただいたことがあります。そのうちの最初の2回の内容をまとめたものを、福音主義神学会中部部会の会報第14号に掲載していただくことができました(こちらから閲覧することができます)。そこでは、黙示録の現代的意義、また黙示録における教会という主題について書かせていただきました。

このブログでは、中部部会会報に掲載できなかった、第3回目の講義の内容を紹介していきたいと思います。中心的な主題は、「黙示録における『福音』」です。

ところで、「黙示録における『福音』」というタイトルを見て、どのような印象を持たれるでしょうか。黙示録はいうまでもなく新約正典の一部であり、そうであるからにはイエス・キリストの福音のメッセージを語っているはずです。にもかかわらず、多くの人にとって、黙示録と福音というものは意外な取り合わせ、という印象があるのではないでしょうか。

私自身、黙示録を神学校で教えて何年にもなりますが、「黙示録における福音」というテーマについて深く考えるようになったのはごく最近のことです。つまり、建前はともかく、多くのクリスチャンは心の中では黙示録は、他の新約文書で語られているような福音のメッセージとなじまない本であると感じているのかもしれません。

実際、他の正典文書(特に新約文書)に比べて、多くの教会では黙示録が教会の説教の主題聖句になることは少ないのではないかと思います。上述の牧師会でも、集まってくださった教職者の方々に、教会で黙示録から説教をする機会がどのくらいあるか伺ってみたところ、例外はあるものの、やはり講壇から黙示録について語られる機会が少ない現状を確認することができました。

(もちろん、一方では、黙示録に多大な関心を寄せて説教する教会もありますが、一般的に言ってそのような教会は、黙示録を終末の青写真として、特に現代の世界情勢を読み解く「暗号の書」として読む解釈学的傾向を持っていることが多いように思われます。このような黙示録の解釈的アプローチが持つ問題点については、上で紹介した中部部会会報でも簡単に触れていますが、この場合でも黙示録においてどのような「福音」が語られているかという問題は残ります。)

黙示録から説教されることが少ないという状況は海外でも同様です。プロテスタント主流派の諸教会で広く用いられている『改訂共通聖書日課Revised Common Lectionary』を見ると、そこで取り上げられる黙示録からの聖句はきわめて少ないことが分かります。つまり、3年サイクルで編集された、礼拝で朗読されるべき聖書箇所のリストの中に、黙示録からはたった6箇所、しかも奇妙で暴力的な要素を極力含まない箇所しか記載されていないのです。

たとえば『改訂共通聖書日課』には黙示録22章12節から21節までの部分が取り上げられていますが、興味深いことにこの箇所を全部読むのではなく、裁きと警告が記されている15節と18-19節が注意深く除外されています。(次の引用では除外されている部分を太字で示しています)。

12  「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。13  わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。14  いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。15  犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。16  わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。17  御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。18  この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。19  また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。20  これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。21  主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。

特に19節が取り除かれているのは、大きな皮肉と言わなければなりません。いずれにしても、このような聖書日課の編集方針に、教会の黙示録に対するアンビヴァレントな態度を見て取ることができます。(このような態度は今日始まったものではありません。黙示録の正典的地位が確立するのは他の新約文書に比べて遅れましたし、宗教改革者ルターも黙示録に対してかなり否定的な評価を持っていたことが知られています。)

さて、黙示録から説教されることが少ない理由の一つは、本書から「福音」を語ることが難しい(と思える)からではないか、と私は感じています。 そして、このような状況は、黙示録に対して人々が持っている一般的イメージと無関係ではないと思います。黙示録を表面的に読んでいくと、そこには神の怒り、裁き、災害、といった血なまぐさい暴力的なイメージに満ち溢れています。これらは一般的な「福音(良い知らせ)」のイメージとは対極にあるように思えるからです。

たしかに、その中でも耐え忍んで信仰を保ち続ける者たちには永遠の御国を受け継ぐ希望が与えられています。しかし、その他大多数の人類にとっては世の終わりは恐ろしい破滅の時、裁きの時であると一般に考えられています。そういう意味では、黙示録はすくなくとも部分的には「裁きの書」というイメージがあると言えるでしょう。そして、このような黙示録の「メッセージ」が、「愛」や「赦し」といった新約聖書の福音のイメージとは相容れないように思われるのも無理はありません。

では、黙示録に「福音」はあるのでしょうか?あるとしたら、それはどのようなものでしょうか?そしてそれは、他の新約文書で語られている「福音」と同じものでしょうか?これらの問題について、次回から考えていきたいと思います。

(続く)